第四十四話 引き金が、拍手を止める
エリアス・モーンの腕が下りきる前に、正面右の術者が杖を振った。
白い光が鉄格子の間を抜ける。
鬼太郎は左へ身体を捻った。
避けるには、檻が狭すぎた。
濡れた上着の左袖が裂ける。
遅れて、上腕に熱が走った。
浅く開いた傷から、血が流れる。
水に薄まり、指先から石床へ落ちた。
客席から声が上がった。
「炎はどうした!」
「銃を使わせろ!」
鬼太郎は〈シュライク〉を上着の内側に置いたまま、正面右を見た。
術者は呪文を放つため、鉄格子から杖一本分の距離まで身を乗り出した。
撃った直後、右手が下がった。
身体を足場の奥へ戻すまでに、わずかな間がある。
モーンの合図から発動まで。
撃った後の隙。
次の術者が動くまでの時間。
鬼太郎は、痛む腕を押さえずに数えた。
「まだ一つ目だ」
モーンが客席へ言った。
「この子供が、痛みをどこまで無視できるのか。次は、それを見よう」
左奥の術者が前へ出た。
杖先を鬼太郎の胸へ向ける。
「クルーシオ」
赤い光が身体へ触れた。
次の瞬間、鬼太郎の視界から劇場が消えた。
骨の内側へ刃を差し込まれ、神経を一本ずつ引き抜かれる。
そう錯覚するほどの痛みが、全身を走った。
膝が折れる。
濡れた石へ肩を打ちつけた。
息を吸おうとしても、喉が閉じる。
歯を噛み締めた隙間から、声が漏れた。
短い悲鳴だった。
それだけで、客席が沸いた。
痛みの中では、術者の位置も、時間も数えられない。
耐えれば観察できるようなものではなかった。
ただ、赤い光が途切れた瞬間だけは分かった。
全身を締めつけていたものが、急に消える。
鬼太郎は床へ頬をつけたまま、空気を吸った。
肺が震えた。
指先も止まらない。
「止めろ」
モーンが命じていた。
「死なせるには、まだ早い」
左奥の術者が杖を下ろす。
顔には汗が浮かんでいた。
呪文を維持している間、杖先も視線も鬼太郎から外していない。
鬼太郎は、その事実だけを覚えた。
立ち上がろうとする。
腕へ力を入れただけで、筋肉に痛みが戻った。
片膝まで身体を起こしたところで、正面高所の術者が杖を振る。
「ペトリフィカス・トタルス」
両腕が体側へ引きつけられた。
膝と足首が揃い、身体が一本の板のように硬くなる。
鬼太郎は受け身を取れないまま、背中から倒れた。
後頭部が石へぶつかる。
右手の〈シュライク〉は、上着の内側で腹に押しつけられていた。
指一本、動かせない。
モーンは次の術者をすぐには動かさなかった。
「この子供には、呪いが効かないという話もある」
客席へ説明しながら、鬼太郎を見下ろす。
「正確には、受けた後で自ら解いたらしい。さて、今回はどうかな」
鬼太郎は瞼だけを動かした。
鉄格子へ触れられているわけではない。
縄や金具で縛られたのでもない。
外から与えられた力が、身体の動きを止めている。
以前、混乱を解いたときと同じ場所へ意識を向けた。
名前を思い浮かべる。
パトラ。
身体の内側から、薄い膜が剥がれた。
胸が動く。
右手の感覚も戻る。
床を囲む銀色の線は何も変わらない。
モーンも、正面高所の術者も気づかなかった。
鬼太郎は動かなかった。
足を揃え、腕を体側へつけたまま、硬直が続いているように見せる。
「解けないようだな」
客席の誰かが言った。
笑い声が返る。
モーンだけは、まだ待っていた。
数秒が過ぎる。
鬼太郎の呼吸は浅い。
服は水を吸い、左腕の傷は痛み、磔の呪文を受けた筋肉には震えが残っている。
それでも、引き金を引く指は動く。
背後側の術者が杖を構えた。
動かない標的へ狙いをつけるため、足場の縁まで出る。
正面右の術者は、すでに杖を下ろしていた。
左奥の術者は息を整えている。
正面高所の術者だけが、硬直が解けていないか確かめるように、鬼太郎へ杖を向け続けていた。
全員を一度には倒せない。
鉄格子も閉じている。
サーシェスが劇場へ入ったかどうかも分からない。
それでも、最初の一発を撃つ相手は自分で選べる。
背後側の術者が口を開いた。
鬼太郎は右腕を動かした。
上着の内側から〈シュライク〉を抜く。
身体を横へ転がしながら、正面右へ銃口を向けた。
術者の目が見開かれる。
盾を作るために杖を上げる。
遅い。
銃声が、劇場を打った。
弾丸は術者の喉へ入った。
男は杖を落とし、両手で首を押さえた。
足場から崩れ落ちる。
拍手が止まった。
◆
サーシェスは、覗き穴から鬼太郎が倒れるところを見ていた。
最初の傷でも動かなかった。
赤い光を受けたときも、銃を抜かなかった。
身体を硬くされ、そのまま床へ倒された。
それでも、サーシェスは巻き上げ機へ触れなかった。
今開ければ、動けない鬼太郎へ四方から呪文が集まる。
助けるために飛び出す気はない。
撃ち合える状態へ戻るまで待つ。
そして、銃声が響いた。
「やっと始めやがったか」
サーシェスは制御室を出た。
煙を出す筒の留め具を抜き、舞台袖の幕の下へ転がす。
床へ当たった筒から、黒い煙が噴き出した。
幕の向こうへ広がり、舞台中央を呑み込んでいく。
背後側の術者が呪文を放った。
赤い光が煙を切り、鉄格子へ当たって火花を散らす。
サーシェスは制御室へ戻った。
大きな巻き上げ機の取っ手を掴み、体重をかける。
鎖が鳴った。
舞台中央の鉄格子が、四方同時に上がり始める。
半分まで上がったところで、取っ手が止まった。
「あ?」
もう一度力をかける。
動かない。
どこかに別の固定具がある。
制御室からは見えない場所だった。
それでも、床と鉄格子の間には隙間ができている。
大人には狭い。
子供なら、身体を伏せれば通れる。
◆
煙で、術者の姿が消えた。
鬼太郎は封印鉄箱の陰へ転がった。
光が一本、箱の角を掠める。
別の呪文が石床を弾いた。
頭上で鎖が鳴り、鉄格子が持ち上がる。
鬼太郎は、誰が動かしたかを考えなかった。
床との間に空いた隙間へ身体を滑り込ませる。
濡れた上着が石へ擦れた。
左腕の傷が開き、再び血が滲む。
それでも、檻の外へ出た。
鉄箱は中へ残す。
敵を片づけなければ、箱もトーマスも運べない。
「扉を開けるな!」
煙の向こうからモーンの声がした。
「数で潰せ!」
舞台袖から黒服が一人、煙へ踏み込んだ。
同時に、別の方向で銃声が鳴る。
黒服の胸が跳ね、後ろへ倒れた。
拳銃の音だった。
〈シュライク〉とは違う。
「来ていましたか」
鬼太郎は小さく笑った。
サーシェスの返事はない。
代わりに、倒れた男の身体を越える足音がした。
煙の中で、背後側の術者が杖を振る。
鬼太郎は声の位置へ〈シュライク〉を向け、二発目を撃った。
悲鳴が上がる。
命中した場所までは見えない。
正面高所から、煙を払う風が吹いた。
黒い幕が薄く裂ける。
術者の影が見えた。
鬼太郎は濡れた左手を向けた。
「アギ」
炎が煙を赤く染め、高所へ走った。
術者が身を引く。
足場の手すりと外套へ火が移り、狙いが外れた。
鬼太郎の濡れた服や足元の石床には、炎が広がらない。
煙が客席へ流れ込む。
椅子を蹴る音。
怒鳴り声。
閉ざされた扉を叩く音が重なった。
その中で、杖を抜く者たちがいた。
四人だけではない。
前列。
通路側。
上階の左右。
仮面や外套で顔を隠していた観客たちが、次々と杖先を舞台へ向ける。
黒服の護衛も、幕の裏から増えていく。
鬼太郎は上階中央を見た。
モーンの姿がない。
開いたままの椅子と、奥へ続く細い扉だけが見えた。
逃げたのか。
別の仕掛けを動かしに行ったのか。
今は分からない。
鬼太郎は〈シュライク〉を構え直した。
左腕から血が落ちる。
磔の呪文を受けた身体は重い。
パトラにもMAGを使った。
それでも、口元には笑みが浮かんだ。
「なるほど」
煙の向こうで、数十本の杖が持ち上がる。
「ここからが、本番ですか」