第44話 三度の灯り
キーノが依頼書を返さなかった。
鬼太郎は机の向こうへ手を出しかけ、その指が報酬の行を押さえているのを見た。
「分からない所が、ありますか」
「これなら、私にもできる」
道具を店へ届け、受領証を持ち帰る仕事だった。道は知っている。相手の顔も、一度見ていた。
「お願いするつもりで、お見せしました」
「それは分かった。その次だ」
キーノは紙を置き、壁際の仮杖へ目をやった。
「待つか、運ぶかだけじゃなくて、中へ入って見る仕事」
「何の中へ?」
「お前が、いつも外から見てる所」
鬼太郎はすぐには答えなかった。
店の品数を数えることと、戻れない場所で人を数えることは違う。だが、キーノも前の倉庫の図へ、外から戻った七人目の矢印を書いていた。
「僕の帰りを待つ仕事より、危険な場合もありますよ」
「待ってても、お前が戻らなければ、知らない相手へ紙を渡す。それは危なくないのか」
「危険はあります」
「なら、中へ入るから全部駄目とは言うな。条件を聞いてから、私が決める」
鬼太郎は依頼書を取り、道具の受渡しだけ先に頼んだ。
「逃げ道を自分で選べる仕事なら、お話しします。僕が来るまで残る条件には、しません」
「逃げたら、金は?」
「決めた離脱条件なら、失敗にはしません」
キーノは少し考えてから、届け物を持ち上げた。
「それなら、聞く」
◆
次に提示できる依頼が来るまで、十日余り掛かった。
その間、キーノは明かりをつけて消す練習を続けた。鬼太郎が数字を書いた紙を窓から掲げ、彼女が別の部屋から読み取る。距離を離せば光が見えにくくなり、明るい昼には目立たない。
夜だけでなく、夕暮れにも試した。
消えたと思っても、杖先に光が残ることがあった。キーノは唇を結び、もう一度「ノックス」と唱えた。成功した回だけ数えるのをやめ、続けて使えた回数を紙へ記した。
依頼人が欲しがっていたのは、オスカー・リードという会計係と、彼が持ち出した帳簿の写しだった。
隠れ場所は、マグルの宿兼酒場。本人は逃げ込んだつもりでも、既に別の連中が見張っているらしい。
「生きて、話せる状態で。本人と頁が揃えば満額、本人だけなら半額ですね」
「頁だけなら四分の一だ」
仲介人は、もう一枚の紙を出した。
灰色の目をした痩せた男。右手で字を書く。中指に筆だこがあり、右の袖口には古い青黒いインクの染み。数字を確かめる時、右の親指を二度動かす。
「似た男を使っている可能性がある」
「合言葉も、知られているかもしれませんか」
「それは否定できん」
鬼太郎は合言葉を別に書いた。
二十三の勘定は済んだか。
十七だけ残っている。
「答えただけで、連れ出さない方がよさそうですね」
敵は確認された四人。人数追加の段階と確認方法を決め、期限と引渡し先を紙へ加えてもらった。宿の客を敵へ数えないことも、双方で確かめた。
鬼太郎が持ち帰った紙を、キーノは二度読んだ。
「右の親指。これは、いつも動くのか」
「必ずとは、書かれていません」
「じゃあ、それがなければ偽物、とも決められない」
「ほかの特徴も、合わせて見てください。分からなければ、分からなかったと戻っていただきます」
サーシェスは窓の方へ背を向け、卓を見ていた。
「坊主が入る方が早いだろ」
「銃を持った外国人の子供を、知る相手かもしれません。食堂を見て回るには、キーノさんの方が向いています」
「私を知ってる奴も、いる」
「ええ。そこで気づかれたら、離脱してください」
本人を見分け、窓から知らせるまで。回収も戦闘も、キーノの仕事には含めなかった。
対象が留まっていれば、明かりを三度。確認後に別の出口へ動いたなら二度。合図を出せない時や、判断がつかない時は、決めた時刻までに出る。
固定報酬に、囮を見破った場合の追加。退路を壊されるなど予定外の危険が生じれば、危険手当も払う。単に相手が似ていなかっただけでは、囮の追加にはしない。
キーノは窓の図を見た。
「三回の前に、追われたら?」
「合図を捨ててください」
「お前には、何も分からない」
「その場合の回収は、僕の方で考えます」
彼女は紙を自分の側へ寄せた。
「受ける」
サーシェスには、外の出口の監視と必要時の確保を頼んだ。鬼太郎は厨房側、男は正面と厩側を見る。
「小娘を探して、奥へ入る約束はしねえぞ」
「私も、待たない」
「それなら、話が早え」
男が署名し、鬼太郎は三人分の紙を分けた。
◆
前日に宿の外を見た時、厨房の裏口は開いていた。
使用人が灰を出し、食材を受け取る。横には低い物置があり、その上へ二階の小窓が面していた。
鬼太郎はキーノと路地を歩き、窓を見上げた。
「屋根へ下りられても、その先へ下りられなければ使えません」
「端に樽がある。そこからなら、足が届く」
「明日も置かれているとは、限りませんよ」
キーノは樽の脇を回り、壁の凹みと物置の戸を見た。翌日には、自分で二階側も確かめると言った。
当日の夕方、彼女は小さな紙包みを持って正面から入った。
帳面の注文を間違えた店の使い。宿の主人が中の白紙を見て尋ねれば、返事を待てと言われただけだと答える。相手がすぐ追い出すなら、その時は店を出る。
鬼太郎は裏の路地へ回った。
サーシェスの姿は見えなかったが、厩の柵に約束の布切れがある。外の位置についた合図だった。
厨房の中から食器の音がする。
鬼太郎は戸へ近づかず、二階の窓が見える陰で待った。
◆
食堂の床には、濡れた靴跡が幾つもあった。
キーノは戸口を塞がない壁際へ立ち、主人が紙包みを開くのを待った。
「これの、どこに注文がある」
「渡して、返事をもらえと言われた」
「店の名は」
教わった名を答えると、主人は眉を寄せた。紙を広げたまま厨房へ行く。追い出されはしなかった。
キーノは卓を見た。
食べている者、杯だけ置いている者。暖炉の横に、痩せた男が一人いた。灰色の目がこちらを向く。右の袖口には、青黒い色が見えた。
「誰か、待ってるのか」
男の方から聞いた。
キーノは顔を見て、合言葉を口にした。
「二十三の勘定は済んだか、だって」
「十七だけ残っている」
間を置かずに返ってきた。
男が右手を卓へ出す。指先が汚れていた。袖の染みは縁が濃く、乾ききっていない所だけ光っている。
キーノは近寄らなかった。
「こっちへ来い。渡す物がある」
「返事だけ、聞いた」
「頁を持っていくんだろう」
男が杯を取った。左の中指には、硬い膨らみがある。右には見えない。
手を替えて字を書く者かもしれない。服を洗った後、また汚すこともあるだろう。
それでも、今の男を本物だと知らせる根拠にはならなかった。
「誰に渡す?」
「頼んだ奴に決まってる」
「名前を、聞いてない」
「いいから、こっちへ来い」
キーノは給仕へ顔を向けた。
「便所は?」
階段の脇から上を指された。
卓の紙包みを取り、そちらへ歩く。暖炉の男は立たなかった。代わりに、同じ杯を口へ運んでいた別の男が、こちらを目で追った。
二階には窓があった。
キーノは便所へ入り、外を見た。物置の屋根と樽は、昨日の位置にある。窓を押すと開いた。枠へ触れ、身体が通る幅も確かめた。
廊下へ戻ると、給仕が盆を持って上がってきた。
キーノは壁へ寄った。給仕は客室の番号を見ず、奥の札のない扉を叩いた。
隙間から、右手が伸びる。
中指の横に、ペンを当て続けた硬い所があった。袖の染みは薄く、布の折れ目の中まで残っている。
給仕が盆の紙を示した。男の親指が二度動き、料理と一緒に紙を引き取った。
キーノは閉じた扉を見た。
こちらは、教わった特徴が三つとも揃う。
裏の廊下窓へ移り、杖を出した。
「ルーモス」
白い光を、一呼吸だけ保つ。
「ノックス」
杖先を見て、確かに消えたのを確かめた。
二度目、三度目。
終えると、窓の前から退いた。
階下で椅子が鳴った。
キーノは階段へ目を向ける。食堂で杯を持っていた男が上がってくる。ゆっくりではなかった。
奥の扉も開いた。
「迎えか」
痩せた男が言った。こちらも、廊下の足音を聞いている。
「厨房には――」
キーノが言い切る前に、男は反対の細い階段へ走った。盆を持った給仕が使う、厨房への道だった。
本物が動いた。
キーノは窓へ一歩戻り、光を二度つけて消した。
最後の光が消えた時、背後で声がした。
「何をしてる」
振り向くと、男が上着へ手を入れていた。
キーノは杖を向けなかった。便所へ入り、戸を閉めて掛け金を下ろす。木へ重いものが当たる前に、窓を開いた。
杖を服へしまい、包みを屋根へ落とす。
両手で窓枠を掴んで身体を下げ、足で屋根を探した。踵に固い感触が戻る。手を離し、低く伏せた。
便所の戸が割れた。
キーノは立ち上がらず、傾いた屋根を這った。樽の上へ片足を下ろし、縁を掴んで路地へ降りる。
拾った紙包みを脇へ挟み、角を曲がった。
鬼太郎のいる方へは戻らなかった。
◆
厨房裏で三度の灯りを見た後、鬼太郎は戸へ近づいていた。
二階の奥にいる。
そこまで分かった所で、二度の光が続いた。
戸の内側から、足音が来る。
鬼太郎は右手の銃を上げた。
先に出てきた痩せた男は、何も持っていなかった。その背後で、別の男が杖を伸ばす。
一発。
手の甲を撃たれた男が杖を落とし、厨房の中へ引っ込んだ。
「リードさん。こちらへ」
「誰だ、お前は」
「頁を持っているなら、迎えだとお考えください」
食堂側の戸が開きかけた。
鬼太郎は痩せた男を外へ押し出し、銃口を下げずに左手を戸へ向けた。風を狭い戸口へ集め、開いてくる板を押し戻す。
戸が内側へ跳ね返り、向こうで呻き声がした。
閉まりきるまで保つことはせず、鬼太郎も路地へ出た。
「二階の子は」
「自分の退路へ向かいます。あなたは、こちらへ」
厩の方で煙が広がった。
銃声が一つ、続いて二つ。サーシェスが柵の端から横へ動き、鬼太郎たちの進む先を空けた。
男は手招きしなかった。
鬼太郎はその肩越しへ目を向けた。通れる。オスカーの背へ左手を添え、空いた側へ進ませる。
崩れた道が、足元へ重なった。
青い装束の男が、横にいた。
鬼太郎の放った炎を避け、別の影へ刃を届かせる。こちらが腕を引く頃には、男が前へ出ていた。言葉を交わさず、互いの空いた所へ入る。
何度も、そうして戦った。
男の名を思う前に、景色が変わった。
同じ青が、正面にある。
刃の向く先は、鬼太郎だった。
さっきまで一緒にいた者へ、今度は自分が力を向けている。間違いではなかった。相手を別人と思ったわけでもない。
「坊主!」
声がして、石の路地が戻った。
煙の薄い端に、杖を構えた男がいた。鬼太郎は右腕を上げ、肩へ二発目を撃った。
男が壁へぶつかる。
「止まるな」
サーシェスの声へ返事をする前に、鬼太郎は足を動かした。オスカーの肩を押し、路地の角まで進む。
後ろへ撃ち足さず、角を曲がった。
胸の奥に、戦いの感触だけが残っていた。
顔は見えない。名も声も戻らない。
隣で戦った男と、自分へ刃を向けた男が、同じ一人だったことだけは分かった。
◆
キーノは合流地点の石壁から、少し離れて待っていた。
正面から来る三人を見ても、すぐには出てこない。サーシェスが周囲を確かめ、鬼太郎が止まってから近づいた。
「怪我は、ありませんか」
「ない。戸は壊された」
膝と肘は汚れていた。血は見えない。
「追われましたか」
「屋根へ下りてからは、見てない」
オスカーが彼女を見た。
「お前が、窓で光を出したのか」
「そうだ」
「子供に、あんな所を歩かせて――」
「私が受けた。お前に言われることじゃない」
キーノは鬼太郎へ向き直った。
「下の男は、返事をした。でも、違った」
左右の手と染みを説明する。オスカーは途中で口を開き、食堂に似た男がいたことを初めて知ったらしい顔をした。
「頁を、確認します」
鬼太郎が言うと、オスカーは上着へ手を入れた。
「ゆっくりだ」
サーシェスの銃口を見て、手が止まる。上着を脱ぎ、裏地の縫い目を裂いた。薄い紙が何枚も出てきた。
数と最初の記載を依頼書へ合わせる。鬼太郎は防水布で包み、鞄の中央へ収めた。
全員が歩ける。キーノの足首にも痛みはなかった。
同じ道を戻らず、引渡し先へ向かった。
◆
オスカーの本人確認と頁の受領が済んだ後、六人の敵について配置を確かめられた。
食堂の囮と監視役、厨房で杖を向けた男、厩の見張り、路地を回った者、最後に煙の端へ出た男。
宿の主人と給仕は含めなかった。厨房へ入った主人が誰と話していたかも、キーノには確かめられていない。
本人と頁を揃えた本報酬、六人以上の追加。鬼太郎は金と受領証を受け取り、その場を離れた。
貸し部屋で、サーシェスへ固定分と人数追加を渡す。リボルバー三発、煙幕一つ、移動費を別に合わせた。
男は金を数え終えてから、鬼太郎を見た。
「何を見てた」
「途中で、別のことを思い出しました」
「目の前に、杖があったぞ」
「ええ。気づくのが、遅れました」
思い出した内容よりも、足が止まったことが問題だった。鬼太郎は机へ置いた自分の右手を見た。今の手で銃を持ち、今の路地にいる相手へ向けなければならなかった。
「次も呼んでいただけるなら、という話はしません。次の仕事では、止まりません」
「言った分は、見せろよ」
サーシェスは金をしまい、椅子を離れた。
キーノには固定報酬と囮識別の追加、それに扉を破られた分の危険手当を出した。対象の移動を伝える合図は、最初の仕事に含まれる。
「戻るまでが、お見事でした」
「逃げただけだ。あいつは追わなかった」
「追えば、三人とも違う場所へ行っていましたね」
キーノは硬貨を袋へ入れた。
「窓を確かめてから、男を見に行ってよかった。後だったら、開かなかったかもしれない」
鬼太郎はその順序を、依頼の紙へ書き加えた。
◆
部屋へ戻り、シュライクを清めて二発分を補充した。
鞄の中に頁はもうない。キーノも自分の金を持ち、自室へ戻っている。
鬼太郎は白紙を一枚出した。
青い装束。
隣に立つ。正面へ立つ。
二つを書いて、ペンを止めた。
一緒に戦った者が、最後まで同じ方を向くとは限らない。そこだけなら、今の仕事でも分かる。だが、さっき見えた男へ向けたものは、契約が切れた相手への警戒だけではなかった。
刃を向けられても、相手の力を知っていた。
自分がその男と戦うことを、避けようとはしていなかった。
鬼太郎は顔を描こうとして、やめた。欠けた所を埋めれば、次に戻るものまで自分で変えてしまいそうだった。
紙を折り、仕事の記録とは別にしまう。
廊下で音がして、キーノが扉を叩いた。
「さっきの紙、貸してくれ」
「本人の特徴ですか」
「右と左を、自分で書いておく。次に同じじゃなくても、見る所は残せる」
鬼太郎は特徴の紙を渡した。
キーノは戸口で読み始め、彼の顔から机へ目を移した。
「また、何か考えてたか」
「ええ。今は部屋なので」
「なら、いい」
彼女は紙を持って戻っていった。
鬼太郎は扉を閉める前に、斜め向かいの灯りを見た。窓の外へ出す合図ではなく、キーノが自分の字を読むための明かりだった。
今夜は、その消える時を待つ必要がなかった。