第45話 残しておく一人分
キーノが持ってきた紙には、部屋の値段が三つ書いてあった。
一つは、今いる建物の階下。残る二つは、鬼太郎の知らない番地だった。
「これで、どれくらい要る」
鬼太郎は紙を手に取り、月の代金か尋ねた。キーノが頷く。
「部屋だけなら、この額です。食事と洗濯、火を使う分は別でしょうね。聞きましたか」
「一つは聞いた。水は使っていい。食べ物は、自分で買う」
「鍵は?」
「替えるなら、私が払う」
鬼太郎は余白へ、食事と衣服、紙とインクの代金を書いた。毎月買う物と、壊れた時に必要になる物は分ける。
キーノは椅子を引き、服の内側から二つの袋を出した。
片方は、見世物小屋を出た後に渡した金だった。もう片方には、ここで受けた仕事の報酬が入っている。買物に使った分は、本人が別の紙へ記していた。
「数えてほしいんですか」
「私も数える。合ってるか見てくれ」
鬼太郎は向かいへ座った。
硬貨を種類ごとに分け、キーノが枚数を書いていく。書き違えた所で止まり、自分で直す。全てを机へ並べた後、部屋代の紙を横へ置いた。
仕事がなくても、数か月は暮らせる。
鍵を替え、必要な服を買っても残る額だった。
「足りますね」
「これで、出ていけるか」
「部屋を借りる相手が、先ほどの条件を守るなら」
キーノは硬貨を動かさなかった。
「お前に、返す分は?」
「ありませんよ」
「食べた分も、部屋もだ」
「最初に決めたままです」
「教えてもらった字は」
鬼太郎は彼女が書いた数字へ目を向けた。まだ行からはみ出す字がある。けれど、何が幾つあるかは読めた。
「請求するつもりで教えたのなら、始める前にお伝えするべきでしたね」
「今から、足すなよ」
「足しません」
キーノは自分の鍵を取り出した。
机に置いたのは、鬼太郎が預かった予備ではない。毎朝、彼女自身が錠へ差している方だった。
「じゃあ、出ていける」
「ええ」
鬼太郎は返事をして、紙の部屋代を見直した。一番安い所には、鍵の交換費用が書かれていない。
「ここへ行くなら、家主が別の鍵を持っているかも確かめてください。安くても、勝手に入られる部屋では困るでしょう」
キーノは紙を引き寄せ、その下へ一行書いた。
合鍵。
書き終えてから、こちらを見た。
「まだ、行くとは言ってない」
「そうでしたか」
「次の場所の話を聞く。そこへ行くかどうかも、聞いてから決める」
鬼太郎は少し待った。ほかに言いたいことがあるように見えたが、キーノは金を袋へ戻し始めた。
「分かりました。その時は、行き先と条件をお話しします」
「また、すぐじゃないって言うのか」
「今夜出発する話では、ありません」
「それは分かる」
硬貨が一枚、机の端へ転がった。
キーノが先に押さえ、袋へ入れた。鬼太郎は手を出さず、残った鍵を彼女の方へ寄せた。
◆
それからも、キーノは同じ部屋へ戻った。
ただし、受ける仕事は待つだけではなくなった。
知らない店へは、一度昼に行ってみる。窓の高さを見る時には、その下へ降りた先も確かめる。給仕が運ぶ盆の数を数え、裏から出た者が表へ戻っていないか、紙へ印をつける。
鬼太郎が窓を使う案を出しても、キーノの方から断ることがあった。
「そこは駄目だ。下に板が積んである」
「足場には、なりませんか」
「端が腐ってる。上から踏んだら、私ごと落ちる」
鬼太郎は一緒に見に行き、その窓を図から外した。
全部の依頼へ同行させることはしなかった。相手を倒すことが必要な場所では、外で待つか、そもそも仕事を提示しない。キーノも、それを一律に不満とは言わなかった。
「見に行く分と、待つ分は別だぞ」
「二つ頼む時には、両方を決めます」
「それなら、いい」
ルーモスとノックスは、短い間なら続けて使えるようになっていた。慣れない角度で振れば失敗し、焦れば光が残る。キーノは新しい呪文へ手を伸ばすより、使う前に杖を握り直す癖をつけた。
鬼太郎の杖先にも、小さな光が灯る回数が増えた。
だが、長く保とうとすれば消える。キーノの光と比べて振り方を変えても、同じ返事は来なかった。借り物の二本のどちらも、手の中で自然に応じる杖にはならない。
銃の握りの変化は、紙へ書き残した。
指の置き方を確かめ、無理のある構えは直す。ペタルの名の脇には、会った時に伝えることが増えていった。まだ次の銃を手にしたわけではなかった。
傷痕を捻るたびの張りは、いつしか気にならなくなった。
その代わり、走れば息は切れるし、魔法を重ねれば休む必要がある。ディアがあるからと、疲れた身体をそのまま使うことはしなかった。
キーノが帳面へ数字を書き足す横で、鬼太郎も休む日を空ける。
その空欄へ、移動の下調べが入った。
◆
九歳になって最初に買った物は、菓子でも武器でもなかった。
新しい時刻表だった。
以前の冊子に載っていた船は、今は同じ時刻に出ていない。古い数字を写してから気づけば、港で何日も待つことになる。
鬼太郎は机に二冊を並べ、違う所へ線を引いた。
キーノが湯の入った杯を置いた。
「古い方、捨てないのか」
「道は残っています。出る時間だけ、今の本で確かめます」
「これ、何だ」
彼女の指が、紙の隅の十一へ止まった。
「英国を離れるまでの月です」
キーノは杯から手を離した。
「もう、決めたのか」
「目安です。仕事と経路で多少は変わりますが、その頃に」
「行き先は」
鬼太郎は地図から顔を上げた。
「以前いた国へ戻るつもりです。ただ、そのまま昔の家へ帰る話ではありません」
「国の名前も、まだ言わない?」
「行く場所を確かめてから、まとめてお話ししたいんです」
キーノは椅子へ座らなかった。
「私には、決める時間を残せ」
鬼太郎は十一の脇へ、別の印をつけた。
「出る直前に初めて聞く、ということにはしません」
「書いただけで、済ませるなよ」
「覚えておきます」
キーノはしばらく紙を見てから、自分の部屋へ戻った。
鬼太郎は杯を取った。まだ熱く、すぐには飲めなかった。
◆
仕事を選ぶ時に、終わるまでの日数も見るようになった。
北へ荷を運び、その先の行き先は到着後に知らせる護衛。消えた品を、見つかるまで追う依頼。代金の半分を、一年後に受け取る話。
鬼太郎はどれも断った。
短い回収でも、終わった後に英国から離れられなくなる条件なら受けない。金は要る。だが、受け取るために居続けなければならない金を、出発用には数えられなかった。
サーシェスは、断った依頼の紙を見て笑った。
「最近、選ぶ所が変わったな」
「こちらは、期限がありませんでした」
「そこがいいって奴もいる。何年掛けても、相手を追える」
「僕は、そのために何年も英国へいるつもりはありません」
男の指が止まった。
「出るのか」
「ええ。まだ先ですが」
「ふうん」
行き先を聞くより先に、男は残る依頼書を引いた。古い倉庫に置かれた銀の筒、その回収だった。
「こっちは今夜で済む。持ち帰って終わりだ」
「サーシェスさんの予定は?」
「明後日から、別の仕事だ。今夜なら空いてる」
鬼太郎は条件を読み、男と報酬を決めた。
その夜、筒を鞄へ入れるまでに掛かった弾は、サーシェスの一発だけだった。
濡れた階段の下を、残った二人が走っていく。一人は外れた靴を拾うこともせず、運河沿いの暗がりへ消えた。
サーシェスが銃口を下げた。
「追わねえか」
「筒は、ここにあります」
「分かってる」
男はリボルバーを戻したが、足音のした方をまだ見ていた。鬼太郎にも、追いつける道は分かった。
逃げた二人は、自分へ刃を向けた。
もう一度会えば、今夜の続きになるかもしれない。それでも、この暗い道で片づけるために依頼品を持って追うほどの相手ではなかった。
「次に会う時まで、走れる足を残しておきます」
「向こうは、礼なんぞ言わねえぞ」
「僕も、期待していませんよ」
サーシェスは短く笑い、先に階段を下りた。
鬼太郎は鞄の肩紐を引き上げ、後へ続いた。
◆
十一の下へ、十が書かれた。
紙を替えた後は、七、四と減っていった。
間にある日々は、同じではなかった。雨避けの布を張ってみると、片側から水が入った。結び直した翌朝、キーノに高い方と低い方を逆にするなと言われた。
持ち歩く本が増え、鞄から一度出して重さを見直した。何でも入るように見えても、棚を埋め続けることはできない。鬼太郎は旅に使う本と、今の部屋で読む本を分けた。
薬は一度に多く買わなかった。
保存期限を過ぎれば、金を払って運んだ分だけ無駄になる。瓶を割らない包み方も、店で教わってから実際に歩いて確かめた。
茶色い外套の男は、戻らなかった。
ほかの服の誰かが同じ役をしていないか、帰り道で足を止めることはあった。投函口の先を調べるために、毎日を使うことはしなかった。
孔雀の手紙と三冊の帳簿は、別の包みのまま残っている。
鬼太郎は帳簿を売って旅費へ足す案を、計算から外した。誰へ渡してよいか決めていない物の値段を、持っている金にはできなかった。サーシェスとの三対二の約束も、紙と一緒に保管した。
父の書類を開く日には、偽名の書類を先にしまった。
今の自分を通す紙と、元の家を示す紙を、取り違えて渡すわけにはいかない。
まだ片づけられない物はあった。それでも、机の地図を畳む理由にはしなかった。
青い装束の男の顔も戻らない。
思い出すために銃を持って立ち止まることはせず、余裕のある夜にだけ、書いた二行を読み直した。
強い相手と隣に立った。その相手へ、自分も力を向けた。
それを知る前より、次に行く場所を考える時間が長くなった。
◆
残り四か月の時、鬼太郎は旅費を三通り書いた。
一人。二人。三人。
キーノが来るなら、自分と同じ書類だけで通る道は使えない。サーシェスが加われば、銃と弾を運ぶ方法も変わる。
誰かが来ると決めつければ、断られた時に計算をし直すことになる。
鬼太郎は一人分の紙から埋めた。
キーノは三枚を読み、数字の違う所を指した。
「ここは、二人でも同じだ」
「部屋を一つ借りる料金です。別々なら、その次の行になります」
「私が別の部屋にすると言ったら?」
「そちらで計算します」
「サーシェスが来なかったら」
「二人分です」
彼女の指が、一人の紙へ移った。
「私も行かなくても、お前は行く」
「ええ」
キーノは数字を読まなくなった。
「だったら、何をしに行くのか、先に言え」
鬼太郎はペンを置いた。
「経路を、お二人に選んでいただく話ではありません。僕の考えを聞いて、同行するか決めていただきます」
「その考えを、まだ言ってない」
「そうですね」
「分かってるなら、何で紙だけ増やす」
机の上には、費用も日数もあった。
泊まれる場所の候補も、使えない道の印もある。それでも、キーノが答えるために必要な話は、まだ置いていなかった。
鬼太郎は一人分の紙を、三枚の一番上へ戻した。
「次の契約期間を、そのまま更新はしません。英国で受けた仕事を整理してから、お話しする場を作ります」
「私が、その日まで待つ条件でもない」
「ええ。出るなら、一言ください」
キーノは紙を畳まず、自分の側から机の中央へ戻した。
「今は、戻る部屋がここにある。それだけだ」
鬼太郎は彼女が椅子を離れるのを見送った。
一人分の金は、残しておいた。
◆
残り二か月になった週、仲介人は一枚の依頼書を引き出しへ戻した。
「一か月の護衛は、もう受けんのか」
「一週間以内に終わるものを、お願いします。延びる可能性が大きいものも、今回は避けます」
「英国を出るから?」
「ええ」
男は寝床も行き先も聞かなかった。
その代わり、既に受けた仕事の番号を並べ、受領証の出ていないものがないか確かめた。鬼太郎も控えを出した。終わった依頼と、金を受け取り終えた依頼が、全て同じとは限らない。
残る一件は代金の確認待ちだった。相手の返事を受ける日を決め、鬼太郎はその分をまだ財布へ数えなかった。
同じ週、サーシェスとの契約も机へ戻った。
三か月の終わりまで、二十日ほどあった。
「次の期間は、更新しねえ?」
「英国での優先交渉契約は、ここまでにします。今の分は、期限までそのままで」
サーシェスは紙の支払日を確かめた。
「俺に払う金が惜しくなったか」
「場所を移します。こちらにいる条件で続けるより、区切った方がよいでしょう」
「俺も呼ぶ気がある言い方だな」
「別の相談を、したいと思っています」
男は背凭れへ身体を預けた。
「面白い話か」
「それは、聞いていただかないと」
「小娘も一緒か」
「同じことをお話しします。契約は、今までどおり別です」
サーシェスは卓の上を見て、まだ署名する紙がないことを確かめるように指を止めた。
「じゃあ、話を聞く日は空けてやる。受けるとは言ってねえぞ」
「承知しています」
日時と場所だけを決めた。
鬼太郎が控えを取ると、男は先に部屋を出た。残る二十日の間にも、サーシェスには別の仕事があった。
◆
代金の確認を待っていた依頼は、予定した週に精算が済んだ。
鬼太郎は受領証をしまい、新しい長期依頼を受けなかった。サーシェスとの契約も、最後の支払いと期限を確かめて終えた。払った月の返金は求めず、次の月の金も出さない。
出発まで、およそ一か月になった。
キーノは指定の場所を聞き、自分で道を確かめると言った。鬼太郎の部屋に二人を呼ぶ話にはしなかった。サーシェスへ寝床を教えることは、まだ必要な条件ではない。
その夜、鬼太郎は鞄の中央から地図を一枚抜いた。
英国の路線図とは、山の形も川の名も違う。
かつていた国の地図だった。
広げてから、父の書類を机の引き出しへ戻した。古い家の場所と、これから暮らそうとする場所は同じではない。
キーノへ話す時に、帰れば済むと言うつもりはなかった。
サーシェスへも、護衛の距離だけを示して連れていく気はなかった。
鬼太郎は白紙へ、最初の一行を書いた。
これから話すことを聞いた後で、決めていただきたい。
読み返し、その一行を消した。
先に選べと言うより、まず自分のことを話す方がよい。
窓の外で馬車が過ぎた。鬼太郎はペンを置き、折り畳まれた三枚の旅費を並べた。
一人分の紙も、そのまま持っていくことにした。