神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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死は、誰にも預けない

第四十五話 死は、誰にも預けない

 

 最初の呪文は、鬼太郎ではなく、その足元へ飛んだ。

 

 石床が弾ける。

 

 破片を避けて右へ動くと、客席前列から二本目の光が走った。

 

 鬼太郎は半分だけ上がった鉄格子の支柱へ身を寄せた。

 

 光が鉄へ当たり、耳の近くで硬い音を立てる。

 

 〈シュライク〉を上げた。

 

 前列の男が次の呪文を唱える前に撃つ。

 

 弾丸が額へ入り、男は椅子ごと後ろへ倒れた。

 

 その隣から杖が上がる。

 

 鬼太郎は左手を向けた。

 

「アギ」

 

 炎は魔法使いの身体ではなく、通路に積まれた木椅子へ走った。

 

 火が壁を作る。

 

 前列の三人が足を止め、中央通路へ押し合う。

 

 そこへ高所から呪文が降った。

 

 鬼太郎は鉄格子の下へ戻らず、封印鉄箱の側面を蹴った。

 

 身体を低くして、箱と支柱の間へ滑る。

 

 直前まで頭があった場所を、青い光が通り過ぎた。

 

 立ち上がる。

 

 濡れた上着が重い。

 

 磔の呪文を受けた筋肉は、動くたびに細かく震えた。

 

 左上腕から流れる血も止まっていない。

 

 それでも、個別に飛んでくる呪文なら見える。

 

 杖を上げる者を撃ち、射線から外れ、次の攻撃へ備える。

 

 左側の桟敷で、女が長い詠唱を始めた。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉の銃口を向ける。

 

 女が盾を作ろうと杖を振る。

 

 完成する前に二発目を撃った。

 

 弾丸は肩へ入り、杖が手すりの外へ落ちた。

 

 背後から、床を這う紫の光が近づく。

 

 鬼太郎は横へ跳んだ。

 

 着地した先に、黒服がいる。

 

 短い棍棒を振り下ろしてきた。

 

 身体を沈めて避け、男の脇腹へ〈シュライク〉を押し当てる。

 

 三発目。

 

 男が折れるように倒れた。

 

 その向こうにいた魔法使いと目が合う。

 

 鬼太郎は引き金ではなく、相手の意識へ手を伸ばした。

 

「プリンパ」

 

 男の瞳から焦点が消えた。

 

 振り向き、隣にいた仮面の女へ杖を向ける。

 

 黄色い光が女の胸へ当たった。

 

 女が椅子の列へ倒れ、周囲の杖が一斉に混乱した男へ向く。

 

 次の数秒だけ、鬼太郎への攻撃が減った。

 

 鬼太郎は息を吸った。

 

 胸が痛む。

 

 視界の端が、少し暗い。

 

 アギ。

 

 パトラ。

 

 プリンパ。

 

 続けて使ったMAGの重さが、七歳の身体へ残っている。

 

 まだ動ける。

 

 だが、最初と同じ速さではない。

 

     ◆

 

 サーシェスは、倒れた舞台道具を盾にした。

 

 赤い光が木板を穿つ。

 

 焦げた穴の横から、リボルバーだけを出した。

 

 鬼太郎へ杖を向けている男の背中を撃つ。

 

 一発。

 

 男が客席の手すりへ崩れた。

 

 別の魔法使いがサーシェスへ振り向く。

 

 杖を向けきる前に、二発目を額へ入れた。

 

 死体の向こうで、三人が同時に杖を構える。

 

「そりゃ、こっちも見るよな」

 

 サーシェスは頭を下げた。

 

 三色の光が舞台道具へ当たり、木と金具を吹き飛ばす。

 

 破片が肩を掠めた。

 

 後ろへ下がり、次の柱へ移る。

 

 鬼太郎へ近づく道は、客席からの射線で塞がれていた。

 

 無理に渡れば、途中で撃たれる。

 

 サーシェスは鬼太郎を見た。

 

 舞台中央で、まだ立っている。

 

 ならば、自分へ向けられた敵を先に減らす。

 

     ◆

 

『一人ずつ撃つな』

 

 劇場上部から、エリアス・モーンの声が響いた。

 

 正面の桟敷席ではない。

 

 壁へ埋め込まれた金属管から聞こえている。

 

『逃げる場所へ先に撃て。避けた先を潰せ』

 

 客席の魔法使いたちは兵士ではなかった。

 

 声を聞いても動かない者がいる。

 

 閉じた扉を開けようとする者もいた。

 

 だが、鬼太郎へ杖を向け続ける者は十分に残っている。

 

 正面から二人。

 

 左右の通路から三人ずつ。

 

 高所にも、まだ杖がある。

 

 最初の光が正面から来た。

 

 鬼太郎は右へ動く。

 

 その足元へ、右側から切り裂く呪文が走った。

 

 進路を変える。

 

 左の石柱へ寄ろうとすると、柱の陰へ先に縄が飛び込んだ。

 

 鬼太郎は鉄格子の支柱を蹴り、後ろへ身体を投げた。

 

 光と縄が、目の前で交差する。

 

 着地と同時に〈シュライク〉を向ける。

 

 撃つ相手が多い。

 

 正面を撃てば、左が動く。

 

 左へ銃口を向ければ、高所から光が降る。

 

 鬼太郎は撃たず、もう一度左手を振った。

 

「アギ」

 

 炎が右側の通路へ広がる。

 

 二人が下がった。

 

 一人は盾を作り、火を正面から受け止める。

 

 その間にも、後列から別の杖が上がる。

 

 一発ずつなら避けられる。

 

 二発でも、位置が分かれば対処できる。

 

 だが、今は前の呪文を避けた場所へ、次の呪文が置かれている。

 

 身体を動かすたび、濡れた服が遅れる。

 

 磔の呪文を受けた脚が、踏み込みに震える。

 

 左腕の傷が開き、血が指まで伝う。

 

 七歳の肺が、空気を求めていた。

 

 正面と左から、同時に光が来た。

 

 右には燃える椅子がある。

 

 前へ出れば、拘束の縄が待っている。

 

 空いているのは、後ろだけだった。

 

 鬼太郎は後方へ跳んだ。

 

 高所の男が、すでにそこへ杖を向けていた。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い光が背中へ入った。

 

 音が消えた。

 

     ◆

 

 どれほど意識を失っていたのか、分からなかった。

 

 鬼太郎が次に見たのは、自分の膝だった。

 

 石床へ片膝をついている。

 

 右手には、まだ〈シュライク〉がある。

 

 だが、指が動かない。

 

 顔を上げることもできなかった。

 

 客席の声は、水の底から聞こえるように遠い。

 

 パトラ。

 

 名前は浮かんだ。

 

 そこから先へ、意識をまとめられない。

 

 身体のどこへ力を入れればよいのかも分からない。

 

 未公開の罠が残っている。

 

 それだけは覚えていた。

 

 どこから来る。

 

 床か。

 

 天井か。

 

 壁か。

 

 探すための目も動かなかった。

 

 上階の奥で、レバーが倒れた。

 

 舞台側面の石壁に、細い線が開く。

 

 サーシェスが叫んだ。

 

 声の内容は、鬼太郎まで届かなかった。

 

 大型の刃が、斜め上へ跳ねた。

 

 右脇腹へ入る。

 

 下の肋骨から腹部へ、深く肉を裂いた。

 

 身体が横へ投げ出される。

 

 石床へ落ちたとき、〈シュライク〉が右手から抜けた。

 

 濡れた床を滑り、指の届かない場所で止まる。

 

 鬼太郎の身体の下から、血が広がった。

 

 先ほど浴びせられた水へ混ざり、排水溝へ向かって流れていく。

 

     ◆

 

 サーシェスは柱の陰から飛び出した。

 

 刃が出た位置は見えた。

 

 止める装置は見えない。

 

 鬼太郎までの間に、三人の魔法使いがいる。

 

 杖先が一斉にこちらへ向いた。

 

 サーシェスは上階の細い覗き窓へリボルバーを撃った。

 

 弾丸は石枠へ当たり、火花を散らした。

 

 中にいるモーンへは届かない。

 

 正面から光が飛ぶ。

 

 サーシェスは柱の裏へ戻った。

 

「死んだふりなら、さっさと起きろ、坊主」

 

 返事はない。

 

 鬼太郎の周りに、血だけが増えていく。

 

 それでも、サーシェスは死んだとは決めなかった。

 

 鬼太郎へ近づく道を塞ぐ一人へ、次の弾丸を撃った。

 

 歓声が、劇場を揺らした。

 

『これが、怪物の最期だ』

 

 金属管から、モーンの声が響く。

 

『炎も、銃も、呪いを解く力も――数の前では役に立たない』

 

 観客たちが、血の中に倒れた子供を見下ろしている。

 

 その声は、鬼太郎には届いていなかった。

 

     ◆

 

 銃声が聞こえた。

 

 どこの戦場かは分からない。

 

 足元には瓦礫がある。

 

 次の瞬間には、何もない荒野へ立っていた。

 

 剣が迫る。

 

 避ける。

 

 炎を撃つ。

 

 雷を受ける。

 

 氷を砕く。

 

 風の中を進む。

 

 人間と殺し合った。

 

 人ではないものとも戦った。

 

 悪魔。

 

 その言葉だけが戻った。

 

 名前はない。

 

 姿も残らない。

 

 ただ、今夜の敵とは比較にならないほど強かったことを覚えている。

 

 さらに大きな何かへ、自分から挑んだ。

 

 負ければ死ぬと知りながら、退かなかった。

 

 最後に敗れた戦いも、誰かが用意した処刑ではない。

 

 相手を選んだ。

 

 命を賭けると決めた。

 

 その結末を、自分で受け入れた。

 

 すべて、自分で選んでいた。

 

 今は違う。

 

 エリアス・モーンが場所を決めた。

 

 観客が、死ぬ瞬間へ金を賭けた。

 

 魔法で身体を止められ、用意された刃で処分される。

 

 自分の最期を、他人が決めている。

 

「僕の死は、僕のものです」

 

 声に出したのか、意識の中だけだったのかは分からない。

 

「あなた方に委ねるつもりはありません」

 

 腹の傷から、命が流れ続けている。

 

「ですから――この死に方は、気に入りませんね」

 

 暗闇の中で、誰かが笑った。

 

 鬼太郎と同じ笑い方だった。

 

 子供ではない。

 

 背が高い。

 

 顔は影に隠れ、輪郭だけが記憶の中に立っている。

 

 それでも、誰なのかは分かった。

 

「随分と惨めな姿になりましたね」

 

 生前の自分が、血の中に倒れた現在の鬼太郎を見下ろしている。

 

「人間と殺し合い、悪魔と争い、それより強い存在へ挑んだ僕が」

 

 楽しそうに、言葉を続けた。

 

「今では、名前も残らない連中の魔法を避けきれず、見世物の仕掛けで死にかけている」

 

 鬼太郎は答えなかった。

 

「身体が子供だからですか?」

 

 一歩、近づいてくる。

 

「記憶がなかったから?」

 

 さらに一歩。

 

「敵が多すぎた?」

 

 影が、鬼太郎の前で止まった。

 

「死んだ後で、その言い訳を誰に聞かせるつもりですか?」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は、生前の自分を見上げた。

 

「僕が弱かった。それだけです」

 

 影の笑みが深くなる。

 

「ええ。その答えだけは、昔と変わりませんね」

 

 笑みは、すぐに薄れた。

 

「もっとも――この死に方は、僕にも耐えがたい」

 

 暗闇の向こうで、観客の歓声がかすかに聞こえた。

 

「戦う相手も、命を賭ける瞬間も、死ぬ場所も、すべて他人に決められている」

 

 影が劇場の方を見る。

 

「そんなものは敗北ではありません。ただの処分です」

 

 鬼太郎は手を差し出した。

 

「ならば、返していただけますか」

 

「何をです?」

 

「僕の力を」

 

 生前の自分は、すぐには手を取らなかった。

 

「これは、今のあなたが取り戻した力ではありません」

 

 差し出された小さな手を見る。

 

「七歳の身体で扱えるものでもない」

 

 そして、再び鬼太郎を見る。

 

「借りた力で勝っても、あなた自身が強くなったことにはなりませんよ」

 

「承知しています」

 

「次も助けてもらえるとは思わないことです」

 

「もちろんです」

 

 鬼太郎は笑った。

 

「次は、自分で届きます」

 

 生前の自分も、同じ笑みを返した。

 

「今回だけですよ」

 

 二人の手が触れた。

 

     ◆

 

 流れ込んできたのは、記憶だけではなかった。

 

 この身体が、これまで一度も抱えたことのない量のMAGだった。

 

 熱でも冷気でもないものが、血管と神経を内側から押し広げる。

 

 七歳の肉体が軋む。

 

 心臓が一度、大きく跳ねた。

 

 生前の自分が持っていたものだと分かった。

 

 すべてが戻ったわけではない。

 

 誰と戦ったのか。

 

 どんな悪魔がいたのか。

 

 誰と並んで戦ったのか。

 

 何を使って悪魔を呼んだのか。

 

 何一つ、具体的には見えない。

 

 それでも、現在と生前を分けていた境界だけは消えていく。

 

 戦い方。

 

 判断。

 

 身体の使い方。

 

 弱い自分への怒り。

 

 生き方も、死に方も、誰にも委ねないという意思。

 

 どちらかが、どちらかを呑み込んだのではない。

 

 最初から一人だったものが、一人へ戻る。

 

「今度は、あの程度の相手に殺されないように」

 

 重なりかけた影が言った。

 

「僕まで恥をかくことになりますから」

 

「あなたは僕でしょう?」

 

「ええ」

 

 最後に、同じ声が答えた。

 

「ですから、これほど腹が立つのです」

 

 影は消えた。

 

 もう一度呼んでも、答える者はいない。

 

 必要もなかった。

 

 鬼太郎の中に、四つの名前があった。

 

 ディア。

 

 ブフ。

 

 ジオ。

 

 ザン。

 

     ◆

 

 血溜まりの中で、鬼太郎の指が動いた。

 

 歓声を上げていた男が気づく。

 

「今、動かなかったか」

 

 隣の女が笑った。

 

「死ぬときの痙攣だ」

 

 鬼太郎は右手を、自分の脇腹へ触れさせた。

 

「ディア」

 

 傷の奥で、裂けたものが寄り合った。

 

 開いた肉が塞がる。

 

 流れ続けていた血が止まる。

 

 完全に元へ戻ったわけではない。

 

 すでに失った血は、身体へ戻らなかった。

 

 磔の呪文を受けた筋肉の痛みも残っている。

 

 失神呪文の重さが、頭の奥に沈んでいる。

 

 左上腕の浅い傷も消えてはいない。

 

 それでも、腹の傷は立ち上がれば死ぬ状態ではなくなった。

 

 鬼太郎は、両手を石床へついた。

 

 腕が震える。

 

 生前のMAGが身体を満たしている。

 

 膨大だった。

 

 同時に、長くは保たないことも分かる。

 

 この小さな身体には多すぎる。

 

 使わずに抱えているだけでも、内側を焼かれているように痛んだ。

 

 客席から声が消えていく。

 

 サーシェスも、柱の陰から見ていた。

 

 鬼太郎は片膝を立てた。

 

 次に、血で滑る床へ足を置く。

 

 ゆっくりと立ち上がった。

 

 〈シュライク〉は数歩先に落ちている。

 

 拾わない。

 

 まず、劇場を見渡した。

 

 杖を向けたまま動けない者。

 

 死んだはずの子供を見て、後ろへ下がる者。

 

 上階の奥で、息を呑んだエリアス・モーン。

 

 鬼太郎は、血に濡れた顔で柔らかく笑った。

 

「お待たせしました」

 

 声は、以前と変わらず丁寧だった。

 

「では、あなた方の演目を終わらせましょう」

 

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