第46話 同じ方を向かなくても
サーシェスは、机の紙を裏返した。
表にも裏にも、署名する欄はなかった。
「今日は、ここからか」
「まず、聞いていただきたいんです」
鬼太郎は地図を広げた。キーノは椅子へ座る前に、窓と扉を確かめている。ここへ来る道は、別々だった。
サーシェスが指で川の線を追った。
「東の方だな」
「ブルガリアです。そこへ戻ります」
「戻る、か」
キーノが座った。
「銃を作った奴がいる国だな」
「ええ。ですが、以前の家へ帰る話ではありません」
「何をする」
鬼太郎は地図の山地を指した。
「森の中に、拠点を作りたいと思っています。本と道具を置けて、食べて眠れる場所を。町まで戻らずに、身体を休められるようにします」
鬼太郎は南の森の縁から、指を奥へ滑らせた。ほぼ中央に近づいた所で止める。
「探すのは、この辺りです」
サーシェスが地図の縮尺へ目を寄せた。
「ずいぶん広えな。端から端まで、森か」
「ダイアゴン横丁で集めた資料では、全体で千平方キロメートルほどあるそうです。地図の空いている所も、歩きやすい土地とは限りません」
「南からそこまで、何日を見てる」
「道を知らない者が、荷を背負って警戒しながら進むなら、二泊三日ほどと聞きました。藪や斜面を避ける分、まっすぐ歩いた距離では済まないそうです」
「雨が続きゃ、もっと掛かる」
「ええ。最初に入る時は、余分に食料を持ちます。道を知る方に案内を頼めるかも、現地で伺います」
キーノは南の縁と、鬼太郎が示した場所を見比べた。
「行くだけで、森の中で二晩眠るのか」
「そのつもりで準備します。建物が見つかると決めて、寝具を置いていくわけにはいきませんね」
「入り口の近くじゃ、駄目か」
サーシェスが聞いた。
「出入りする方と、そのたびに鉢合わせしては落ち着きません。戻って休む時まで、侵入者の通り道にいたくはありませんから」
「町から運ぶ距離も、長くなるぞ」
「ええ。運べる道と水を得られる場所を、現地で確かめます。南から十分奥へ入った、中央寄りを候補にしたいんです」
「その森は、お前のものか」
「いいえ」
キーノは地図から顔を上げた。
「家もない?」
「今のところは。現地を見て、場所を選び、必要な人を雇うつもりです」
サーシェスが椅子へ深く座った。
「空き家の鍵を拾いに行く話じゃなかったか」
「使える建物があれば、調べます。誰の物かも分からないまま入るのは、避けたいですね」
「それで、森の奥で何をする」
鬼太郎は指を地図から離した。
「強くなるための場所にします」
サーシェスの目が、紙からこちらへ動いた。
キーノはまだ笑わなかった。
「英国でも、やってるだろう」
「できることは続けます。ですが、作業場で同じ的を撃つだけでは、確かめられないこともあります」
「仕事で撃ってる」
「ええ。それでも、まだ届かない所があるんです」
鬼太郎は右手を開き、卓へ置いた。
この手で、引き金を引いた。杖を振っても、思うように光らなかった。同じことを以前にした記憶と、今できることは、いつも一致するわけではない。
「お二人に、話していなかったことがあります」
キーノがこちらを見た。
「僕は、一度死んでいます」
窓の外を馬車が通った。
車輪の音が遠ざかっても、二人は何も言わなかった。
サーシェスが先に口を開いた。
「見世物小屋の腹の話じゃねえな」
「その前です。この身体で生まれるより前に、別の場所で生きていました」
キーノの手が、地図の縁で止まった。
「……何だ、それ」
「僕にも、どうしてそうなったかは分かりません。覚えているのは、向こうで生きていたことと、最後に負けて死んだことです」
「最後まで、覚えてるのか」
「全部ではありません」
鬼太郎は、二人を順に見た。
「銃を使う手つきは、道具を持って戻りました。ほかにも、戦っている時に思い出したことがあります。初めて覚える感覚とは、違うんです」
サーシェスは、卓の右手を見ていた。
「坊主が九年で身につけたにしちゃ、おかしな動きはあった。だからって、前の生まれだと分かる話じゃねえがな」
「証明できる物は、ありません」
「信じろとは?」
「今、この場で決めていただく必要はありません。ただ、僕が何を考えているかを話すには、そこを省けませんでした」
キーノが椅子の上で身体を前へ寄せた。
「じゃあ、お前は、ずっと別の奴のふりをしてたのか」
鬼太郎は少し考えた。
「前の僕と、今の僕を、別人だとは思っていません」
「私に字を教えた時も。金を払った時も」
「僕が決めました。誰かの役を演じていたわけでは、ありませんよ」
キーノは口を閉じ、机の上を見た。
「全部思い出したら、それも変わる?」
鬼太郎はすぐに否定しなかった。
見世物小屋で戻ったものは、自分の戦い方を変えた。これから戻るものに何の影響もないとは、言えなかった。
「何を思い出すか分からない以上、何も変わらないとは言えません。ですが、忘れていたことが戻ったからといって、今までの約束をなかったことにするつもりはありません」
「つもり、だな」
「ええ。お二人に、保証だと言って渡せる話ではありません」
キーノは視線を上げた。
「それは、覚えておく」
サーシェスが片肘を卓へ置いた。
「その前の場所じゃ、何をしてた」
「初めは、生き残るために戦っていました。弱いままなら、次まで生きていられない場所でしたから」
崩れた道。持っている物を使い切る前に、次の相手を見る。
思い出す景色の中には、今のように、仕事を断って部屋で本を読める日ばかりがあるわけではなかった。
「覚えられるものを覚えて、使える力を増やしました。一人で戦った時も、一緒に戦う方がいた時もあります」
「最後は、誰にやられた」
「共に戦ったことのある方です」
鬼太郎は、青い装束の輪郭を思った。
「今は名も顔も思い出せません。同じ相手と隣で戦い、その後で向かい合ったことだけは、分かります」
「宿の裏で、止まった時か」
サーシェスが言った。
「ええ」
「そいつを思い出してた?」
「はい。あの時は、目の前を見る方が先でした」
男はそれには頷き、続きを待った。
「どうして、そいつと戦った」
「進む先が、同じではなくなったのでしょうね。細かいやり取りは戻りませんが、相手を取り違えて撃ったわけではありませんでした」
キーノが、鬼太郎の右手から顔へ目を戻した。
「一緒に戦った奴でも、そうなるのか」
「その方にも、譲れないものがあったのだと思います。僕が望むことを、同じように望んではいなかった」
「それで、死んだ」
「ええ。僕が負けました」
サーシェスはしばらく黙ってから、息を吐いた。
「負けた話だけは、妙にあっさりしてやがる」
「勝ったことには、できませんからね」
「また勝てるようになりてえわけか」
「まずは、以前できた所まで戻りたいです。今の僕が覚えたものも、合わせて使ってみたい」
鬼太郎は、壁へ掛けられたランプへ目をやった。
読める本があり、食事を買えた。傷を診てもらい、何日休むかを自分で決められた。その時間を捨てたいとは思わない。
「急いで、同じ死に方をする必要はありません。ここで学べることは、向こうで覚えたものとも違います。取り戻すだけで終えるには、惜しいでしょう」
「強くなったら、もう戦わなくて済むとは言わねえんだな」
サーシェスの口元が上がった。
「そこでやめるなら、何のために増やすんですか」
キーノが目を細めた。
「生きるためだろう」
「初めは、そうでした」
「今は違う?」
「今も生きていたいです。その上で、強い方と戦いたいんです」
鬼太郎は笑みを隠さなかった。
自分の知らない手で攻めてくる相手。こちらの考えたことを見抜き、届くと思った場所から押し返す力。
それを前にした時の高揚は、負けた記憶と一緒に消えてはいなかった。
「知らない力に触れて、次にはこちらの手を届かせる。そのために考え、変えていくのは、楽しいですよ」
キーノの指が、地図を押さえ直した。
「死んだのに、楽しかったって言うのか」
「死んだことまで、よかったとは思っていませんよ」
「そこを分けるな」
「分けなければ、負けた戦いからは何も残らなくなります」
サーシェスが低く笑った。
「小娘、そいつに、その聞き方は無駄だ」
「あんたも、笑う所じゃない」
「俺には、少し分かるからな」
キーノは男を睨んだ後、鬼太郎へ向き直った。
「それを森でやる。そういう話か」
「ええ。ただ、その先にも望むことはあります」
◆
鬼太郎は卓の地図を、自分の方へ少し戻した。
「誰かが一番強くなって、後はその方の決めたまま、変わらなくなるのは面白くありません。その力を越える者が現れれば、また次の争いが起きるでしょう」
「お前が一番になっても?」
キーノが聞いた。
「越えようとする方には、来ていただきたいですね。僕も、同じまま待っているつもりはありません」
サーシェスは笑うのをやめた。
「自分が強くなるだけじゃ、足りねえのか」
「僕だけ強くなっても、相手がいなければ確かめられません。知らないやり方が生まれて、今まで届かなかった方が上へ行く。そうしたことが続く世界に、僕自身もいたいんです」
「争いを、終わらせたくない」
「はい。飽きずに済みそうです」
キーノの顔を見ても、その答えを言い直す気にはならなかった。
彼女が聞きたかったものと違うことは、分かる。サーシェスでさえ、自分と同じ所まで望むかは分からない。
それでも、森を安全な住処にする話だけで誘えば、後に見えるものが違いすぎた。
「戦いたくない奴は?」
キーノが聞いた。
「全員が銃や杖を持つ必要はないでしょう。逃げる道を知っている方も、品物を作れる方もいます。強い相手へ、条件を出して頼むこともできます」
「お前に、戦いたくないと言ってもか」
「それで受けていない戦いを、仕事に変えるつもりはありません」
「弱い奴を、全部拾うわけじゃないだろう」
「ええ。誰でも守るという話ではありません」
キーノは、少しの間言葉を探した。
「自分で何かできる奴なら、気に入るのか」
「力が足りなくても、何かしようとする方は、見ていて続きが気になります。ご自分に何ができるか考えて、こちらへ話す方も」
「言えない奴は」
「何もなければ、僕には、その方が何をしたいのかも分かりません」
鬼太郎は彼女を見た。
「だからといって、代わりに望みを考えて、全部与える気はありません」
キーノは答えず、窓へ目を向けた。
サーシェスが椅子を鳴らした。
「で、森へ戻ったら、その世界とやらができるのか」
「いいえ。今の僕に、そこまでできるとは思いません。まずは、自分が動ける場所を作ります」
鬼太郎は指で森を示した。
「この森には、古くからマグルを遠ざける魔法がかかっているそうです。ダイアゴン横丁で本を探し、素材を扱う店でも話を聞きました。森そのものも、かなり大きいようですね」
「そこへ行ったことのある奴か」
サーシェスが尋ねた。
「現地の情報を扱う方から聞いた話もあります。ですから、地図にある道をそのまま使えるかまでは、まだ分かりません」
鬼太郎は、書き留めてきた紙を地図の脇へ置いた。魔法を帯びた生き物や植物、その素材を求めて入る者。店によって話の詳しい所は違ったが、誰も寄りつかない森ではないことは分かった。
「静かに本を読むだけの場所には、ならないでしょうね」
「その魔法が、お前を守るわけじゃねえだろ」
「魔法使いは入れます。誰がかけたかも、僕は知りません。現地で確かめる必要があります」
サーシェスは地図を引き寄せ、町との距離を見た。
「獲物を取りに来る連中と、やり合うつもりか」
「場所を使い潰されるのは困りますし、こちらを狙う相手が来れば、実戦にもなります」
「森を守る仕事を、もらったわけじゃないな」
「はい。僕が選ぶことです」
キーノが、指の置かれた場所へ目を戻した。
「それで、来る奴を追い払って終わりか」
「素材を扱う買い手がいれば、取引も考えています。森にまだ価値があると分かれば、欲しい方は来るでしょう」
「追い払いたいのに、呼ぶ?」
「誰も来なければ、戦う相手もいなくなります」
キーノの眉が寄った。
サーシェスが、今度は歯を見せて笑った。
「いいじゃねえか。こっちから探す手間が省ける」
「お前も来る奴も、勝手に森を使うだけじゃないか」
キーノは地図へ手を置いた。
「元からいる生き物は、どうする。売る物を取るために、捕まえるのか」
「まだ、何がどれだけいるかも調べていません。最初から売上を当てにするつもりはありませんよ」
「調べた後は?」
「自然に落ちる羽根や、実を取れるものもあるでしょう。続けて使うなら、生きて増える分を残す必要があります」
「傷をつけても、治ればまた取れる奴なら」
鬼太郎は、地図から彼女へ顔を上げた。
「キーノさんへ、していたように、ですか」
返事はなかった。
「それはしません」
「かわいそうだから?」
「僕が使いたい場所を、同じことを繰り返す場所にする必要がありません。生き物にも、残しておく価値があります。知らないものを、取れる所だけ取って壊すのは惜しい」
「優しい答えには、しないんだな」
「そう聞こえるように言えば、信じますか」
キーノは鬼太郎を見てから、目を伏せた。
「……たぶん、今の方を疑う」
「でしたら、そのままお伝えします。分からないものは、調べてから扱います。それを守れない買い手なら、相手も変えます」
サーシェスが地図の端を指で叩いた。
「逃がした奴が、次はもっと強えのを連れてくるかもしれねえぞ」
「ええ。戻ってくる方まで、僕の望む強さにしておけるとは思っていません」
「死ぬ時もある」
「だから、逃げられる道も作ります。読める本を読み、武器を直して、負けたら次まで休む場所も」
鬼太郎は、地図を挟んだ二人を見た。
「勝てる相手しか来ないと考えているなら、英国を出る必要もありません」
サーシェスは、しばらくこちらの顔を眺めた。
それから、机の白紙を取った。
「町で受ける仕事は、別だな」
「来るのであれば、そうなります」
サーシェスは南の入口へ指を戻した。
「だったら、片道三日をどうする。一件受けるたびに六日も歩いてたら、客が別の奴を雇っちまう」
「町にも、仕事を受ける場所が必要ですね」
「寝床もだ。町へ出たら補給と依頼をまとめて済ませる。お前が急に呼んでも、その日に森へ戻れるとは思うなよ」
「不在の間は、こちらの戦力に数えません。戻る予定と連絡先を、先に決めましょう」
「呼び戻すなら、歩く日数も値段に入れる」
「その依頼を受けていただく時に、移動費と合わせて相談します。もっと楽に往復できる方法も、現地で探しますが、見つかるまでは徒歩で考えます」
男は地図から指を離した。
「森の番をするために、俺の時間を全部買う話でもねえ」
「全部を買える額は、用意していませんね」
「用意してても売るかは別だ、坊主」
男は紙を置き直した。まだ何も書かなかった。
「俺がお前ほど強くなりたいとは限らねえし、お前の世界を作ってやるつもりもねえ。それで雇うか」
「仕事の条件が合うなら」
「俺に残るものも、ちゃんと出せよ」
鬼太郎は頷き、今度はキーノへ顔を向けた。
彼女は長く黙っていた。やがて、地図の上から手を離した。
「前の生まれの話は、まだ全部分かったわけじゃない」
「ええ」
「お前の望みも、私の望みじゃない。争いが増えたら、嬉しいとは思わない」
「はい」
キーノはその返事を聞いても、椅子を離れなかった。
「それでも一緒に行ったら、同じ方を向けと言うのか」
鬼太郎は彼女を見た。
ここへ来る前から、二人には違う理由があった。キーノは一人で暮らせる金を持ち、サーシェスは別の町で仕事を受けられる。
それを失わせてから隣に置く方が、簡単かもしれなかった。
「僕の考えに賛成していただくために、呼んだわけではありません」
「じゃあ、何を聞く」
「その上で、来ていただけるかどうかです」
キーノは、卓の白紙へ目を移した。
「家は、まだないんだな」
「ええ。拠点の場所から探します」
「なら、私が休む所を、お前が勝手に決めるな」
「条件として、伺ってよいんですか」
「先に聞け。来るって返事は、その後だ」
サーシェスが紙を一枚、彼女の前へ滑らせた。
「そいつにゃ、最初から全部言っとけ。書いてねえ所まで、買った気になりやがる」
「僕にも、読める字でお願いしますね」
キーノがペンを取った。
鬼太郎は二人の紙の間へ、自分の一枚を置いた。地図はまだ、その向こうに広がっている。
誰も、同じ望みを持ったとは言わなかった。
それでも、今度は二人の方から、白紙へ言葉を置き始めた。