第四十六話 観客席へ、幕が下りる
誰も、すぐには杖を振れなかった。
エリアス・モーンが作動させた刃は、確かに鬼太郎の右脇腹へ入った。
濡れた石床には、子供一人から流れたとは思えない血が広がっている。
その中心で、鬼太郎は立っていた。
裂けた服の下に、開いていたはずの傷はない。
血は止まっている。
上階右側で、杖を持った老人が手すりへ縋った。
「治癒呪文じゃない」
声が震えていた。
「あんな傷を、あの速さで治せる呪文はない」
「あの娘と同じだ」
前列にいた女が言った。
「傷が塞がる化け物だったんだ」
「違う」
老人が首を振る。
「あの娘は、すぐには立てなかった。血も戻らない。あれは違う」
上階奥の覗き窓に、エリアス・モーンの顔があった。
「立てるはずがない」
客へ聞かせる声ではなかった。
「刃は、確かに入った」
鬼太郎は右脇腹から手を離した。
「ええ。先ほどまでは、僕にもできませんでした」
覗き窓の向こうで、モーンの顔が強張った。
新しい力を隠していたのではない。
死にかけた今、この場で増えた。
それが、調べていなかったことよりも恐ろしかった。
沈黙に耐えられなくなった男が、客席の中央で杖を振った。
「ステューピファイ!」
鬼太郎は大きく避けなかった。
震える左手を男へ向ける。
「ジオ」
雷が、男一人へ走った。
杖を持つ腕から胸へ抜け、身体を椅子の列へ投げる。
赤い光は天井へ逸れた。
劇場が、もう一度静まった。
「雷だと」
「炎だけじゃなかったのか!」
「モーン、話が違うぞ!」
出口へ向かう者が増えた。
扉は開かない。
モーンが最終演目の前に下ろした錠が、観客を劇場内へ閉じ込めている。
『慌てるな!』
金属管からモーンの声が響いた。
『新しい手札が増えただけだ! 身体は子供のままだ。流した血まで戻ったわけではない!』
正しい。
鬼太郎の脚は、立っているだけで細かく震えていた。
失神呪文の重さは頭の奥に残り、左腕の傷からも血が落ちている。
一時的に流れ込んだMAGは膨大だが、七歳の身体には多すぎる。
使わずにいても、内側から骨と血管を押し広げていた。
「よく見ていますね」
鬼太郎は覗き窓を見上げた。
「ですが、知らないものを相手に、数だけで足りるでしょうか」
左側の通路で、魔法使いが盾を作った。
後ろにいた二人を庇いながら、階段を下がろうとする。
鬼太郎は盾へ攻撃を重ねなかった。
濡れた床へ左手を向ける。
「ブフ」
冷気が石床を走った。
撒かれた水が白く凍り、魔法使いの両靴を床へ固める。
男が足を引こうとして、体勢を崩した。
盾が傾く。
後ろの二人が露わになった。
「氷まで使うぞ!」
「水を止めろ!」
「もう撒いた後だ!」
舞台袖の護衛が、鉤付きの網を投げた。
鬼太郎は飛んでくる網へ手を向ける。
「ザン」
圧縮された風が、網を正面から押し返した。
鉤が投げた男の外套へ絡む。
護衛は後ろの二人を巻き込み、舞台道具の山へ叩きつけられた。
炎。
雷。
氷。
風。
すべて杖を使わない。
モーンが用意した水も、耐火処理も、分散した術者も、今見た力すべてへの答えにはならなかった。
◆
サーシェスは柱の陰で、リボルバーの弾倉を開いた。
鬼太郎の腹へ刃が入るところを見た。
身体の下へ血が広がるところも見た。
あれで立てるはずがない。
魔法界の治療を詳しく知らなくても、それくらいは分かる。
鬼太郎は傷を塞ぎ、今度は雷を落とした。
床を凍らせ、網を風で押し返した。
サーシェスの手が、一瞬だけ止まる。
「そいつは反則だろ、坊主」
空薬莢を落とし、予備の弾を詰める。
「僕も、先ほど思い出したばかりです」
鬼太郎は敵を見たまま答えた。
「炎だけじゃなかったのかよ」
「ええ。僕も忘れていました」
サーシェスは弾倉を戻した。
「次に組むときは、使える魔法を先に全部言え」
「僕も全部は覚えていませんので、お約束はできません」
「最悪だな、お前」
笑いながら柱の反対側へ出る。
鬼太郎のジオを受けた男が、右へ倒れる。
その身体に隠れていた術者が見えた。
サーシェスは迷わず撃った。
術者の杖が上がる前に、弾丸が胸へ入る。
鬼太郎がブフで足を止めた敵は、逃げない標的になる。
ザンで盾を傾けられた者は、守っていない側面を晒す。
アギが塞いだ通路からは、同じ方向へ敵が出てくる。
何を使えるかを、すべて知る必要はなかった。
どこへ向けたかが分かれば、射線は作れる。
サーシェスは、鬼太郎を助けるためではなく、自分の戦場を広げるように引き金を引いた。
ただ、認識だけは変わっていた。
面白い子供でも、腕の立つ実行役でも足りない。
底の見えない、本物の怪物だった。
◆
鬼太郎は、舞台中央へ戻った。
数歩先に〈シュライク〉が落ちている。
敵も気づいていた。
高所と前列から、銃の周囲へ呪文が集まる。
石床が弾け、光が交差した。
鬼太郎は正面から走らない。
ブフで右側の床を凍らせる。
前へ出た護衛の足が滑った。
倒れた椅子を蹴り、魔法使いたちの視界へ滑らせる。
椅子の陰へ身体を低くし、〈シュライク〉まで進んだ。
右手で拾う。
檻を出てから、すでに五発撃っている。
残弾を確かめ、すぐには撃たず上着へ収めた。
今の敵を減らす手段は、弾丸だけではない。
「サーシェスさん」
鬼太郎は左側の客席へジオを放ちながら呼んだ。
「舞台裏を塞いでいただけますか」
「勝手に命令すんな、坊主」
返事と同時に、舞台袖で銃声が鳴った。
裏へ逃げようとした黒服が倒れる。
「だが、そっちの方が殺しやすい」
サーシェスは舞台裏へ下がった。
鬼太郎は観客席を見る。
杖を向ける者。
閉じた扉を叩く者。
床へ杖を捨て、両手を上げる者。
違いはあった。
だが全員が、捕らえられた者の血へ金を払い、笑い、拍手をしていた。
鬼太郎の死ぬ瞬間へ賭けた者たちだった。
正義のために裁くつもりはない。
ただ、彼らは鬼太郎を見世物として処分する側へ立った。
鬼太郎も、同じように相手を選び終えている。
「待ってくれ」
扉の前にいた男が言った。
「私は杖を向けていない」
鬼太郎は男の胸元を見た。
青い番号札が下がっている。
この見世物へ入るために渡された札だった。
「途中で席を立つのは、演者に失礼ですよ」
左手を向ける。
「最後まで、ご覧ください」
ジオが男を倒した。
悲鳴が上がる。
別の出口へ人が殺到した。
扉は、やはり開かない。
鬼太郎は走って追わなかった。
アギで戻る道を塞ぐ。
ブフで足を止める。
盾を向けた者へザンを当て、身体ごと向きを崩す。
生じた隙へ、ジオを落とす。
どれも、思い出したばかりの基本の魔法だった。
広い範囲を一度に焼き払う力ではない。
だから、一人ずつ確実に倒した。
詠唱を始めた者。
護衛。
運営側の札を持つ者。
助命を求めながら、別の出口へ杖を隠し持つ者。
一時的なMAGを使い、順番に処理した。
◆
舞台裏へ、解体役の男が走り込んだ。
噛まれた手首には、血の滲んだ布が巻かれている。
腰には、キーノの拘束具を開く鍵が残っていた。
男は鉄台を見なかった。
その先の裏口だけを見ている。
キーノの右手首は、金具へ完全には戻されていなかった。
黒服が急いで締めたため、指一本分の隙間がある。
何度も腕を捻った。
皮膚が擦れ、血が流れている。
それでも、もう少しで抜ける。
解体役が横を通った。
キーノは右腕を引いた。
皮膚が裂ける。
手が金具から抜けた。
男の上着を掴み、鉄台へ引き寄せる。
「お前――」
最後まで言わせなかった。
キーノは布ごと手首へ噛みついた。
男が叫び、キーノの顔を殴る。
それでも離さない。
腰の鍵束へ手を伸ばす。
指が輪へかかった。
引き千切るように奪う。
キーノはようやく口を離し、鍵束で男の顔を殴った。
解体役がよろめく。
その間に、鍵束から合う一本を選び、左手首へ差した。
一つ目。
次に首。
右の足首。左の足首。
金具が外れるたび、銀に焼かれていた皮膚へ痛みが戻った。
キーノは鉄台から降りた。
膝が折れた。
失った血は戻っていない。
解体役へ飛びかかる力も、もう残っていなかった。
鍵を握り、床を這うように黒幕の近くまで進む。
隙間から、舞台を見た。
鬼太郎の足元には、大きな血溜まりがある。
右脇腹の服は深く裂けている。
その下の傷は、すでに閉じていた。
炎が通路を塞ぐ。
雷が一人を倒す。
水に濡れた床が凍り、風が盾ごと人を崩す。
鉄格子の中で、銃を持ったまま何もしなかった子供とは別人に見えた。
だが、声も、笑い方も同じだった。
「あれだけ血を流して、どうして立っている」
キーノは呟いた。
助けに来たとは思わない。
鬼太郎は観客を殺しているだけで、まだキーノを見てもいない。
危険な存在であることは、見れば分かる。
それでも、拷問する側を一人ずつ倒していく姿から目を逸らせなかった。
◆
『床を落とせ!』
モーンの声が、金属管から響いた。
舞台の下で歯車が回る。
鬼太郎は音の方向を見る。
次の瞬間、客席中央の床が傾いた。
椅子と人間が、開いた穴へ滑り落ちる。
鬼太郎も縁へ引かれた。
左手を石床へ向ける。
「ブフ」
穴の縁と濡れた床が凍りつく。
靴底を氷へ噛ませ、落下を止めた。
頭上で鎖が鳴る。
鉤付きの網が落ちてきた。
「ザン」
風で軌道を外す。
網は鬼太郎の横を通り、逃げようとしていた観客三人へ被さった。
右側の通路から、石を擦る音がした。
鬼太郎はそちらへ向く。
床の横から短い刃が跳ねる。
身体を引いた。
すべては避けきれない。
刃が濡れた上着を裂き、左脚の外側を浅く切った。
鬼太郎は倒れず、刃の向こうへ左手を向けた。
「ジオ」
刃の近くで杖を構えていた裏方が、雷を受けて倒れる。
罠は、観客も護衛も区別しなかった。
モーンは、自分の客ごと鬼太郎を止めようとしている。
残っていた者たちは、その事実に気づいた。
モーンへ助けを求める声が上がる。
返事はない。
代わりに、上階奥で扉の閉まる音がした。
◆
動いている敵は、ほとんど残っていなかった。
客席には炎と氷が残り、杖や椅子が床へ散らばっている。
鬼太郎の呼吸は荒かった。
左脚に新しい傷がある。
鼻から流れた血が、唇まで落ちている。
一時的なMAGは、まだ身体の中にあった。
だが、使うたびに七歳の肉体が軋んでいる。
長くは続かない。
それでも、終わってはいなかった。
エリアス・モーンが残っている。
サーシェスが舞台裏から戻った。
「奥へ逃げた奴がいる。通路は二つだ」
「片方は、上へ続いていますか?」
「途中で曲がってる。先は見えねえ」
鬼太郎は上階中央を見た。
桟敷席の奥にある細い扉が閉じている。
〈シュライク〉を右手へ持つ。
今は撃たない。
階段を上がり、扉の前へ立った。
左手を向ける。
「ザン」
風が扉の中央へ叩きつけられた。
蝶番が外れ、扉が暗い通路の中へ倒れる。
その先から、走る足音が聞こえた。
鬼太郎は一歩、暗がりへ入った。
「まだ終わっていませんよ、モーンさん」
足音が遠ざかる。
鬼太郎は、血に濡れたまま笑った。
「最後まで、主催者の責任を果たしていただかなくては」