第四十七話 幕引きは、主催者の責任
暗い通路の先で、足音が遠ざかっていく。
鬼太郎は追った。
速くは走れない。
右脇腹の傷は閉じていても、そこから失った血までは戻っていない。左脚を踏み出すたび、浅く裂けた傷が服の内側へ擦れた。
それでも、足音との距離は開かなかった。
モーンも平静ではない。
何度か壁へ肩をぶつけ、暗闇の中で扉を探る音がする。
鬼太郎は〈シュライク〉を右手に持ち、左手を壁から離して進んだ。
通路の幅は、大人一人が通れるほどしかない。
床には新しい擦り傷があり、壁の下から細い鋼線が伸びている。
鬼太郎は鋼線の手前で止まった。
その先の石板だけ、周囲よりわずかに沈んでいる。
足を上げ、線と石板をまとめて越える。
何も起きない。
さらに三歩進んだところで、壁の奥から重い音がした。
鬼太郎が振り返る。
先ほど越えた石板ではない。
何の印もなかった左壁が開き、厚い鉄板が通路へ滑り出した。
身体を前へ投げる。
背後で鉄板が反対側の壁へ噛み合い、退路を塞いだ。
同時に、足元の床が傾く。
鬼太郎の身体が暗い穴へ滑った。
すべてを見抜いていたわけではない。
左手を床へ向ける。
「ブフ」
白い冷気が傾いた石を走った。
靴底と床の間に氷が盛り上がり、身体を穴の縁へ留める。
鬼太郎は片膝をついた。
鼻から落ちた血が、白い氷へ赤い点を作った。
一時的なMAGは、まだ身体の中にある。
だが、魔法を一度使うたびに、骨の内側へ熱した針を通されるような痛みが増していく。
「随分と、用心深い逃げ道ですね」
暗闇の向こうへ声を投げる。
返事はない。
代わりに、短い詠唱が聞こえた。
赤い光が飛んでくる。
鬼太郎は氷から靴を引き剥がし、身体を低くした。
光が頭上を通り、背後の鉄板へ弾ける。
通路の奥に、杖を構えた男がいた。
モーンではない。
逃走路を守るために残された術者だった。
男が二つ目の呪文を唱える前に、鬼太郎は左手を向けた。
「ジオ」
青白い雷が、狭い通路を塞ぐように走る。
男は杖を取り落とし、壁へ背中を打ちつけて崩れた。
鬼太郎は立ち上がる。
膝が一度だけ揺れた。
倒れた男を越え、その先にある角を曲がる。
遠くで、また扉が閉まった。
◆
キーノは、黒幕の裏で鍵束を握っていた。
立ち上がろうとしたが、脚へ力が入らない。
鉄台から降りただけで、呼吸が浅くなっている。
身体の傷は閉じる。
だが、床へ流した血は戻らない。
鬼太郎も、あれほどの血を流していた。
それなのに立ち、魔法使いたちを殺した。
理由は分からない。
分からないものへ近づくつもりもなかった。
キーノは壁へ肩を預け、舞台裏の通路へ進んだ。
逃げ道を探す。
途中に、鉄の扉が並んでいる。
一つ目は空だった。
二つ目の奥から、鎖の音がした。
キーノは鍵束を順番に試した。
三本目で錠が開く。
中には、手足を鎖で繋がれた男と、壁際へ押し込まれた二人の捕虜がいた。
一人で逃げるより、動ける人間が多い方がいい。
追手が来れば、目も標的も増える。
キーノは男の手足と壁を繋ぐ鎖へ、合う鍵を試した。
「動けるか」
「……たぶん」
男は掠れた声で答えた。
「俺は、トーマス・ヘイルだ。君は?」
「キーノ」
鎖が外れた。
トーマスは床へ手をつきながら、通路の向こうを見た。
「あの子は?」
「観客を殺して、上へ行った」
「箱を取り戻すつもりなのか」
「箱?」
「舞台の鉄格子に残っている。俺と、あの箱を運ぶ仕事だった」
キーノは舞台で見た鬼太郎を思い出した。
自分を助けに来たのではない。
最初から、目的は別にあった。
「なら、私たちを助ける理由はないな」
トーマスは答えなかった。
遠くから銃声が一度だけ響いた。
キーノは残る二人の拘束へ鍵を差し込んだ。
「ここで待つ。今、外へ出れば巻き込まれる」
誰かへ従うためではない。
生き残るために、最もましな場所を選んだだけだった。
◆
銃声は、サーシェスの通路から響いた。
舞台裏から延びる逃走路には、二人の男が残っていた。
一人は杖を持ち、もう一人は短銃を持っている。
天井の灯りが、二人の背後から通路を照らしていた。
サーシェスは曲がり角から手だけを出し、灯りへ向けてナイフを投げた。
刃が吊り紐を切る。
灯りが落ち、火が消えた。
「撃て!」
短銃の男が暗闇へ発砲した。
サーシェスは、すでに反対側の壁へ移っている。
銃口の火で男の顔が浮かんだ。
リボルバーが一度鳴る。
男が倒れた。
残った術者は、銃声のした方へ杖を向ける。
サーシェスは床へ伏せたまま距離を詰めた。
呪文が頭上を抜ける。
床へ落ちたナイフを拾い、男の懐へ入る。
短い悲鳴の後、通路が静かになった。
「逃げ道に二人だけか。随分と人望がねえな、主催者さんよ」
その先には、金属で補強された扉があった。
取っ手の下から、細い糸が壁の穴へ伸びている。
サーシェスは取っ手へ触れなかった。
壁を拳で叩く。
扉の横だけ、音が軽い。
落ちていた短銃の柄で板を割り、隣室へ抜ける穴を広げた。
「罠ってのは、踏まなきゃただの飾りだ」
肩を入れ、壁の向こうへ身体を滑り込ませる。
◆
鬼太郎の前にも、金属で補強された扉があった。
その向こうから、モーンの声が聞こえる。
「まだ来るのか」
「ええ」
鬼太郎は扉へ左手を向けた。
「主催者だけ先に帰るのは、困りますので」
「お前は、どれだけ血を流したと思っている!」
「数えてはいませんよ」
左手へ風を集める。
「ザン」
扉が内側へ歪んだ。
一度では開かない。
鬼太郎はもう一度、同じ場所へ風を叩きつけた。
留め金が外れ、扉が奥へ倒れる。
広い部屋だった。
壁には帳簿を収めた棚が並び、奥には小さな金庫がある。
劇場を見下ろす覗き窓と、壁一面のレバー。番号札を吊るした板。客の名と席を記した紙。
見世物小屋の金と人間を管理する部屋だった。
モーンは中央の机の後ろにいる。
左右には、杖を持った護衛が一人ずつ立っていた。
モーンの右手は、壁際にある赤いレバーへ伸びている。
「止まれ!」
鬼太郎は止まらなかった。
レバーの行き先は分からない。
だが、追い詰められたモーンが使おうとしている。
それだけで、止める理由には足りた。
〈シュライク〉の銃口を向ける。
発砲。
弾丸がモーンの右手を穿った。
「ああっ!」
モーンが机へ倒れ込む。
左右の護衛が同時に杖を上げた。
一人の胸から、血が噴いた。
横の壁に開いた穴から、サーシェスがリボルバーを向けている。
「遅えぞ、坊主」
「罠が多かったものですから」
「そりゃ、お互い様だ」
残った護衛が盾を作る。
半透明の壁が、鬼太郎とサーシェスの両方を遮った。
鬼太郎は盾へ攻撃しない。
男の足元へ左手を向ける。
「ブフ」
床が白く凍った。
護衛は後ろへ下がろうとして足を滑らせる。
盾が天井へ傾いた。
鬼太郎は左手の向きを上げる。
「ジオ」
雷が男の身体を打った。
杖と盾が同時に消えた。
部屋に立っている敵は、モーン一人になった。
◆
「待て」
モーンは撃たれた右手を左手で押さえた。
「私を殺せば、お前を狙った者が分からなくなる」
鬼太郎は答えず、机の上を見た。
帳簿が三冊。
客席の番号札と同じ色で、出資者、買い手、商品が分けられている。
「名前があるのですか?」
「ある。今夜ここへ来なかった出資者も、次にお前を狙う者もだ。私にしか分からない印もある」
「では、説明してください」
モーンの顔へ、助かる可能性を見つけた者の色が戻った。
左手で帳簿を開く。
「赤は客だ。青は品物の買い手。黒が、この小屋へ金を出した者だ」
指が、黒い帳簿の頁を辿る。
魔法界の商人。
マグルの密輸業者。
偽名と番号だけの者。
その中に、一つだけ名前のない欄があった。
代わりに、印が描かれている。
孔雀の羽と、細い横笛。
同じ印を押した小さな封書が、頁へ挟まれていた。
「これは?」
「代理人を通す客だ。本人は一度も来ていない。金だけは、ほかの出資者より多く出した」
モーンは唇を舐めた。
「東側の流通路を荒らしている、炎を使う子供を消せと言ってきたのがそいつだ。名前も素性も聞かなかった。邪魔な虫がいるから潰せと、それだけだった」
鬼太郎は封書を開いた。
短い指示だけが書かれている。
炎を使う子供は、処分すること。
死体も、所持品も不要。処分を確認できる証だけを、代理人へ渡すこと。
末尾には、また孔雀の羽と横笛の印があった。
その形を見た瞬間、鬼太郎の記憶の底で何かが揺れた。
青。
笑み。
遠くで鳴る、笛に似た音。
それだけだった。
名前も、顔も、その存在と何をしたのかも浮かばない。
ただ、その印を初めて見た気がしなかった。
「そいつは、お前を邪魔だと思っている」
モーンが言った。
「私を生かせば、代理人へ繋げられる。娘も渡す。あれは別の買い手へ高く売れるが、命の方が惜しい」
鬼太郎は封書を黒い帳簿へ戻した。
「金庫の鍵は?」
「私の内ポケットだ」
「帳簿は、これですべてですか?」
「原本は三冊だ。写しはない。だから、私がいなければ――」
「分かりました」
鬼太郎は机の横へ回った。
モーンの顔が引きつる。
「待て。話しただろう」
「ええ。必要なことは」
「娘もやると言っている!」
「あなたから譲られる筋合いはありませんよ」
鬼太郎の声は穏やかなままだった。
モーンは一歩下がった。
左袖が動く。
布の中から、短い予備の杖が滑り落ちた。
鬼太郎は、その手へ左手を向ける。
「アギ」
炎が杖と袖を包んだ。
モーンが悲鳴を上げ、床へ杖を落とす。
燃える袖を机へ叩きつけながら、鬼太郎を睨んだ。
「お前は、私の舞台で死ぬはずだった!」
鬼太郎は笑った。
「僕の死に方を、あなたが決められると思ったこと」
一歩、近づく。
「それが、一番の間違いですよ」
炎がモーンの胸元へ移った。
主催者の叫びが、帳簿と番号札の並ぶ部屋へ響く。
やがて声が途切れた。
鬼太郎は呼吸が止まったことを確かめる。
見世物小屋の最後の演者は、舞台へ立つことなく死んだ。
◆
モーンの死を確認した直後だった。
鬼太郎の中に満ちていたものが、急速に引いていく。
声は聞こえない。
生前の意識が、もう一度現れることもない。
借りていた力だけが、役目を終えて消えていく。
ディア。
ブフ。
ジオ。
ザン。
思い出した魔法の名と使い方は残っている。
戦い方も、判断も、今の鬼太郎自身のものだった。
だが、それらを支えていた生前の規模のMAGは残らない。
一歩、動こうとした。
脚から力が抜けた。
鬼太郎は机へ左手をつき、その場へ片膝を落とした。
閉じた右脇腹が痛む。
左腕と左脚の傷、磔の呪文の残痛、失神呪文の重さ、後頭部の打撲。
それまで力で押さえ込んでいたものが、一度に身体へ戻ってきた。
視界が暗くなる。
それでも、意識は手放さなかった。
サーシェスは助け起こさない。
壁へ寄りかかり、リボルバーを下げたまま鬼太郎を見ている。
「さっきまでの化け物じみた力は、もう品切れか?」
鬼太郎は浅い呼吸を二度繰り返した。
「ええ。今回だけの借り物でした」
机を掴み、自分の脚で立とうとする。
「ですが――」
顔を上げた。
血に濡れた顔で、いつものように笑う。
「思い出したものは、僕のものですよ」
サーシェスは数秒、黙っていた。
やがて口の端を吊り上げる。
「なら、次は借り物なしで見せてみろ。坊主」
劇場の下では、解放された鎖が床へ落ちる音がした。
主催者は死んだ。
だが、鉄格子の中には封印された箱が残り、舞台裏には生き残った者たちがいる。
幕を下ろしただけでは、仕事は終わらない。