第47話 鍵を返す朝
サーシェスの紙には、最初に町と書かれた。
森より先だった。
「ここへ連絡を残せる場所を探す。俺が町にいる間は、そっちで話を聞く。森から出てきて、いなかったから毎日探せって話にはするなよ」
「返事を待つ日を、決めましょう。移動中なら、次に連絡できる見込みも」
鬼太郎が書き加えると、サーシェスは出発予定日の紙へ目を移した。
「まず、そこまでだ」
指がブルガリアの地名で止まる。
「途中で護衛の仕事でも拾って、旅費を安くする気はねえぞ。着く日が延びる」
「移動中に受ける仕事は、別に相談します。予定へ勝手に足すつもりはありません」
旅の同行と道中の警戒には、固定報酬を置いた。交通と宿泊、食費は別。新しい依頼を受けたり、予定になかった相手を追ったりする分までは含めない。
鬼太郎が同行を求めた旅だった。サーシェスが森を気に入るかどうかと、その間の時間を買うことは別にする。
「到着したら、三か月。優先交渉は前と同じでよいですか」
「町で連絡を受けてから一日だ。森へ紙が届いた日を、俺の受取日にするな」
「ええ。届く場所と受け取る方を、現地で確かめます」
寝床の詳しい場所まで渡す必要はない。町の連絡先と、森へ戻る予定が分かればよかった。
前の契約で決めた拒否権と個別報酬、秘密と敵対依頼の扱いも読み直す。外国へ行くからと消す条文はなかった。
サーシェスは、拠点の防衛という行へ線を引いた。
「これを月の金へ入れるな」
「優先して条件を聞いていただく分です。防衛は、実際に引き受ける時に決めます」
「寝てる所へ来た奴は、俺も撃つ。その後、追い回すかは別だ」
「僕も、その場で相談せずに始めた追撃まで、請求するつもりはありません」
「相談する暇があるとは限らねえ」
「では、まず身を守り、受けた役を果たす。それを越えるものは、戻って確認しましょう」
男は線の下へ短く書いた。
町へ出る期間は、留守を守る人数に入れない。呼び戻すなら、道を戻る日数も見た額を別に提示する。森の住民が協力してくれるかは、会ってもいない今の契約に数えなかった。
「これなら、聞ける話だ」
サーシェスが紙を押し戻した。
「行くんですか」
「行くぜ。俺の仕事場を一つ減らすだけの話でもなさそうだ」
鬼太郎は返事を聞き、旅の報酬の前金を出した。残りは到着時。優先交渉の新しい月は、その日から始めて別に払う。
男は金を数えた後、署名した。
「坊主の望みを、俺が叶えるとは書いてねえな」
「書いていませんよ」
「なら、そっちは自分でやれ」
サーシェスは自分の一通を取り、折り畳んだ。
◆
キーノの紙には、部屋と書かれていた。
その下に、鍵。さらに、仕事。
「順に、伺います」
鬼太郎が言うと、彼女は最初の行を指した。
「寝る所と、着替える所。お前たちの荷を置く場所と、一緒にするな」
「建物を整える時は、別に使える部屋を確保します。それまでは、野営の仕切りから考えることになりますね」
「建物が見つからなかったら?」
「町へ戻って、探し直します。そこで冬を越すと決めてから、寝る所を作るつもりはありません」
キーノは鬼太郎を見た。
「住めるようになるまで、住めるって言うなよ」
「では、そのように書いてください」
彼女のペンが動いた。
鬼太郎は、隣から言葉を直しすぎないように待った。読めない字だけを尋ねる。キーノは同じ所を二度書き、二度目の方を残した。
「鍵は、自分で持つ。私の物を、勝手に使わない」
「僕が預かる予備は?」
「新しい所で、考える。今のを預けたから、次も同じだと思うな」
「分かりました」
次は仕事だった。
行くことを、森での全ての仕事の受諾にはしない。観察も伝言も、内容を聞いてから決める。仕事を断ったことを、食事や寝床の借金へ変えない。
キーノはそこで止まった。
「森に何が来るか、まだ分からないんだろう」
「ええ」
「逃げる時も、今の部屋みたいに、出れば道があるわけじゃない」
鬼太郎は地図を引き寄せた。
南の入口までは、紙の線があるだけだった。実際の道も、休める場所も、自分で歩いて確かめてはいない。
「最初に入る時は、戻る経路を確かめながら進みます。途中で無理だと分かれば、引き返します」
「私が一人で出るなら?」
「道を知る方へ案内を頼めるようにします。見つからなければ、町へ戻れる時までの食料と場所を確保する必要があります」
「お前が勝手に決めた日にしか、出られないのは嫌だ」
「そのために、キーノさん自身にも道を覚えていただきたいんです。単独で通れない間は、僕の都合だけで町へ行く日を決めない。それでは、どうでしょう」
キーノは自分の紙へ戻った。
「案内に払う分も、後から借金にするな」
「食住と安全な移動を用意するための費用として、こちらで持ちます。ただし、依頼として別の土地へ行く場合は、その時に経費を決めましょう」
彼女は一行を書き足した。
見世物にしない。血や身体を売らない。知らないうちに実験へ使わない。
最初に交わした約束も、同じ紙へ残った。
「秘密は、今までどおりです。ですが、危険を避けるために助けを求める時まで、黙っていてほしいわけではありません」
「お前の前の生まれを、誰にでも話す気はない」
キーノはペンを置いた。
「聞いても、何を言ってるんだと思うだろうしな」
「サーシェスさんは、随分早く納得したようでしたね」
「全部信じたわけじゃねえよ」
横から声がした。
「死んだ坊主の昔話より、俺に払う生きた坊主の金の方を見てる」
「それで結構です」
キーノは二人を見てから、紙へ視線を落とした。
書いた条件を、一行ずつ自分で読んだ。
分からない言葉に印をつけ、意味を確かめてから消す。最後まで読むと、鬼太郎の方へ向けた。
「私は、お前の望む世界を作るためには行かない」
「ええ」
「向こうで、できる仕事を見つける。字も、杖も続ける。町と森を見て、そこにいるか決める」
鬼太郎は頷き、彼女が次を言うのを待った。
「それでよければ、行く」
「お待ちしています」
「今、返事をしただろう」
「出発する日に、来ていただくのを」
キーノは少しだけ眉を寄せ、それから自分の名を書いた。
鬼太郎も署名した。
二通の紙を分ける時、彼女の方から手が伸びた。受け取った一通を折り、自分の服へ収める。
サーシェスの紙とは、重ねなかった。
◆
残る一か月で、旅の準備は三人分になった。
最初に変えたのは、寝具と食料だった。拡張鞄に空きがあっても、全部を鬼太郎一人へ集めるのはやめた。
キーノは自分の荷を背負って歩き、肩の痛くなる位置で紐を直した。鬼太郎が持とうかと尋ねると、彼女は水の重さを確かめてから、今はいいと答えた。
サーシェスは自分の銃と弾薬を持ち、工具や薬も選び直した。全てを持っていくには重すぎるらしく、何日か留守にした後、荷を減らして戻ってきた。
「置いてきたんですか」
「置く所はある。どこへ何をやったかまで、お前の荷物帳へ書かせる気はねえぞ」
「使う予定に数えない物なら、伺いません」
鬼太郎は三人で使う物だけを一覧へ残した。
雨避けの布も、畳んだままでは運ばなかった。町外れで張る場所を借り、荷を置いて、三人が横になれるか確かめた。
サーシェスは布の端を引き上げた。
「銃の先が、雨を受ける」
「内側へ寄せれば、入りますよ」
「寝返りを打った坊主を、銃の台にするぞ」
鬼太郎は自分の寝具をずらした。今度は、キーノが外へ出る所を塞ぐ。
彼女が無言で荷を跨ぎ、二人の足元へ立った。
「これで夜中に逃げろって?」
「配置を変えましょう」
荷を一度全部出し、出入りする所から決め直した。布を張れるだけでは、眠れる場所にはならなかった。
畳む時には、誰が紐を外し、誰が乾いた物を先に包むかも試した。サーシェスは面倒そうにしていたが、鬼太郎が忘れた地面の杭を抜き、袋へ放り込んだ。
経路は、取り次ぎを頼んだ相手と確かめた。まず船で英国を離れ、大陸側で次の移動へ繋ぐ。乗る場所と時刻、支払う額。渡るだけでなく、その先で誰に会うかも紙へ書く。
銃や弾薬の扱いも、出発の日まで曖昧にはしなかった。
預ける区間があれば、預ける品と返る地点を確かめる。拡張鞄へ入れたから何でも通せる、と考えて進むことはしない。サーシェスは自分の荷について別に聞き、二人が受けた説明を照合した。
キーノにも、知らない相手へ自分を渡す話になっていないか、条件を聞いてもらった。本人を一人で連れていかせる区間は、使わないと決めた。
「帰りの金も、残ってるか」
ある夜、キーノが言った。
鬼太郎は使う金の袋と、残す分を分けた。
「三人で引き返す場合の分も、別にしてあります」
「お前だけ、森に残ると言ったら?」
「お二人が戻る分を、僕の食料へ変えないようにしておきます」
キーノはその袋を見たが、自分の金を預けはしなかった。
同じ道を行くために、財布まで一つにする必要はなかった。
数日後、キーノは一人で買物へ出た。
帰ってきた手には、細い紐で綴じた小さな帳面があった。今まで書いた紙より丈夫で、服の内側へ入る大きさだった。
「旅に使うんですか」
「道と、泊まった所を書く。お前の紙だけじゃ、なくした時に困る」
鬼太郎が一頁目を見ようとすると、彼女は閉じた。
「見せる時は、こっちから言う」
「では、必要な所だけ写していただけますか。受渡しの場所と、待つ時刻を」
キーノは頷き、自分の机で書き始めた。
その隣には、空いた頁が何枚も残っていた。見たものを全部仕事の報告にするのか尋ねると、彼女は、私の帳面だと答えた。
鬼太郎はそれ以上、覗き込まなかった。
出発の前夜、残った金を確かめる時にも、その帳面は彼女の手元にあった。
◆
部屋を引き払う前に、鬼太郎は保管していた紙を全て出した。
三冊の帳簿。父の書類。孔雀と笛の印が残る手紙。仕事で使った偽名の書類と、もう使わない依頼の控え。
以前、鞄へ全部を集めるのをやめた時とは、違う朝だった。
今度は、置いていく場所そのものを返す。
鬼太郎は帳簿を包み、一冊ずつ傷みを確かめた。サーシェスへも見せ、売らずに持っていくと伝える。
「三対二は、そのままだな」
「ええ。売る時は、先にご相談します」
「重さまで、俺の分にするなよ」
「お預かりする約束でしたから」
帳簿は防水の包みへ収め、鞄の普通品の奥へ固定した。父の書類と手紙はそれぞれ薄い防水の包みにして、上着の内側へ収める。途中で見せる偽名の紙は、さらに別の場所へ分けた。
売る相手を決めていない帳簿も、差出人を知らない手紙も、英国を出ればなくなる問題ではない。
だからといって、それらが答えるまで部屋へ座っている気もなかった。
鬼太郎は包みの位置を紙へ記し、鞄を持ち上げた。
重さは増えたが、工房で教わった急な変化はない。三つの口も、無理なく閉まった。
シュライクは清め、右手へ握り直した。
小さくなった握りで、まだ指を置ける。残る二本の杖は布で包んで固定し、ウォードの杖は最後の外出に使えるよう分ける。
入ってきた扉を閉じた後も、必要なら別の入口を開けられるようにしておく。
鬼太郎は椅子を引き、空いた机を拭いた。
◆
出発の朝、廊下へ出ると、キーノの扉が開いていた。
彼女は寝台の下を覗き、窓の留め金へ触れた。棚には何も残っていない。見世物小屋を出た時の衣装も、自分で買った本も、本人の荷に入っていた。
「忘れ物ですか」
「ないか、見てる」
鬼太郎は自分の鍵と、預かっていた一本を出した。
キーノの目が、予備の鍵で止まる。
「一度も使わなかったな」
「使う必要が、ありませんでしたから」
彼女は手を出し、それを受け取った。
「次は、部屋を見てから考える」
「ええ」
キーノは自分の鍵で扉を閉めた。
その鍵をもう一度回せば、中へ戻れる。彼女は錠から抜いた後もしばらく持ち、指で金属の縁をなぞった。
「返すぞ」
「僕の分も、一緒に持っていきます」
家主に部屋を確かめてもらい、前払いした期間と退去の日を合わせた。残った費用を払い、二部屋の鍵を返す。
キーノは家主の手に渡るまで、自分の二本を持っていた。
階段を下りる時には、手が空いていた。
外の空気は湿っていた。路面には、夜の雨が残っている。
鬼太郎は建物の前で立ち止まらず、決めた角まで歩いた。キーノも隣についてくる。帰り道を確かめる時とは、歩幅が違った。
サーシェスは約束した場所で待っていた。
「遅くはありませんね」
「時間どおりだ。坊主が早え」
男は壁から肩を離した。
誰も、二人の荷を勝手に取ろうとはしなかった。
◆
港へ着くと、キーノは船より先に、乗り場の人を見た。
取り次ぎの相手が告げた印と、こちらの控えを合わせる。サーシェスが自分の分も確かめ、荷を運ぶ順を聞いた。
鬼太郎は返される物を一つずつ確認してから、板を渡った。
海の上では、足元が僅かに動いていた。
英国へ来た時にも、同じような揺れを踏んだ。あの時は、自分一人が通れる名前と道を、金で用意してもらった。
今は後ろで、キーノが自分の荷を持ち上げている。
「そちら、滑りますよ」
「見えてる」
彼女は手摺を使い、濡れた所を避けた。サーシェスも上がってくる。肩越しに桟橋を見てから、通路を空けた。
三人が同じ船に乗ったことを確かめ、鬼太郎は控えの紙をしまった。
船が岸を離れるまで、少し待った。
キーノは腰掛け、仮杖を手の届く所へ置いている。サーシェスは風の当たらない場所を選び、既に目を閉じていた。
鬼太郎は手摺の方へ戻った。
綱が外れ、岸との間に水が見えた。建物と人の形が少しずつ遠ざかる。
行く先には、まだ家がなかった。
森の道も、地図で見たままだ。運び込んだ本を読む机も、雨を避けて眠る屋根も、これから確かめ、手を入れる必要がある。
鬼太郎は、鞄の肩紐を握り直した。
背後でキーノが、座るなら荷をこちらへ寄せろと言った。サーシェスは目を閉じたまま、通路へ広げるなよと付け加える。
鬼太郎は振り向き、二人の方へ歩いた。
空いていた一人分の席へ腰を下ろす。
英国の岸は、もう手を伸ばして届く場所ではなかった。
第四章「霧の国で、牙は研がれる」完