第四十八話 鍵の先で、行き先を選ぶ
鬼太郎は、机へ手をついたまま呼吸を整えた。
一時的に満ちていたMAGは、もうどこにもない。
残っているのは、七歳の身体と、そこから失われた大量の血だけだった。
右脇腹の傷は閉じている。
だが、心臓が一度脈打つたび、全身の力が少しずつ抜けていく。
サーシェスは手を貸さなかった。
壁へ背を預け、鬼太郎が立てるかどうかを見ている。
鬼太郎は机の縁を握り、自分の脚で立ち上がった。
「まだ動けるじゃねえか」
「歩く程度でしたら」
「戦えるか?」
「試してみますか?」
サーシェスが笑った。
「その状態のガキを殺しても、面白くねえ」
鬼太郎は〈シュライク〉を上着へ収めた。
弾は残っている。
だが、右手にはもう、銃の反動を受け止める力がほとんど残っていない。
モーンの死体へ近づく。
内ポケットから、二本の鍵を抜き取った。
一つは小さな真鍮の鍵。
もう一つは、複数の刻みが入った長い鉄の鍵だった。
「金庫と、劇場の主鍵でしょうか」
「試せば分かる」
小さな鍵は、壁際の金庫へ合った。
中には、魔法界とマグル側の通貨が袋ごとに分けられている。
その奥に、鬼太郎とサーシェスを誘い込むため用意された残りの報酬があった。
依頼書に記された額と一致している。
サーシェスが袋を持ち上げた。
「こいつも、いつもどおりか?」
「ええ。僕が五分の三、あなたが五分の二です」
「罠を仕掛けた依頼人は死んだぞ」
「依頼を受けたときに決めた割合まで、死んではいませんよ」
「律儀なのか、頭がおかしいのか分からねえな」
「契約を守らない相手と、次も組みたいと思いますか?」
サーシェスは鼻で笑い、袋を革鞄へ入れた。
出資者、買い手、商品を記した帳簿も三冊とも収める。
孔雀の羽と横笛の印がある封書だけは、鬼太郎が受け取った。
紙へ刻まれた印を見る。
青。
笑み。
遠くから聞こえた笛の音。
それ以上は浮かばない。
鬼太郎は封書を折らず、上着の内側へ差し込んだ。
「そいつに心当たりがあるのか?」
「いいえ」
「なら、何でお前が持つ」
「僕を殺すよう頼んだ方です。ご挨拶をする機会があるかもしれません」
嘘ではない。
記憶の底が揺れたことまで、話す必要がないだけだった。
◆
制御室を出て、階段へ向かう。
鬼太郎は壁へ左手をついた。
一段下りるたび、視界の端が暗くなる。
サーシェスは前を歩かなかった。
鬼太郎の二段後ろで、革鞄を肩へ掛けたまま足を止めている。
「先へ行かないのですか?」
「階段から落ちたお前に巻き込まれたくねえだけだ」
「そうですか」
鬼太郎は手すりを掴み、次の段へ足を下ろした。
サーシェスも同じだけ進む。
客席へ戻ると、炎は小さくなり、床へ広がった氷も端から解け始めていた。
倒れた椅子。
散らばった杖。
動かない観客と護衛。
大きな血溜まりの中央を、鬼太郎は歩いた。
そこに横たわっていたはずの自分を見下ろすように、一度だけ足を止める。
すぐに舞台裏へ目を向けた。
扉の陰から、淡い金髪の少女がこちらを見ていた。
◆
キーノは鍵束を右手に握っていた。
背後には、壁へ身体を預けたトーマスと、解放された二人の捕虜がいる。
鬼太郎はキーノの手首、首、足首を見た。
銀色の金具はない。
皮膚には焼けた痕が残っているが、傷はすでに塞がり始めていた。
「ご自分で外したのですね」
「見れば分かるだろう」
「ええ。ですから、確認しました」
キーノは鬼太郎の後ろにいるサーシェスを見た。
リボルバー。
血のついたナイフ。
帳簿の入った革鞄。
次に、鬼太郎の裂けた服と、血の気を失った顔を見る。
「私を助けに来たわけではないんだろう」
「ええ」
鬼太郎は否定しなかった。
「依頼品は、封印された鉄箱とトーマスさんでした。あなたは、ご自分で檻を出たのでしょう」
「なら、なぜ私を見ていた」
「傷が閉じることに興味を持ちました」
キーノの目が細くなる。
「やはり、私を切って調べるのか」
「それだけでしたら、あの解体役と変わりませんね」
鬼太郎は少し笑った。
「傷をつけられ、血を失っても、あなたの目は死ななかった。逃げる機会を探し、自分で拘束を外し、ほかの方まで解放した」
キーノは何も言わない。
「能力だけではありません。あなたを、ここへ置いていくのは惜しいと思いました」
サーシェスの眉がわずかに上がった。
鬼太郎が少女の演目を見ていた理由を、そこで初めて理解した。
キーノは壁から背を離した。
脚が震えたが、倒れなかった。
「私に、何をさせるつもりだ」
「まずは傷を治し、食事を取っていただきます。その後は、できることに応じて働いていただきます」
「お前のために?」
「寝床と食事を用意するのですから」
「断ったら?」
「それまでです」
返答が早すぎたため、キーノの方が僅かに目を見開いた。
「追わないのか」
「あなたが自分で出ていくと決めたのでしたら、止めません。無理に繋いでも、僕が欲しいと思ったあなたではなくなりますから」
キーノは、右手の鍵束へ視線を落とした。
「条件がある」
「伺いましょう」
「檻へ入れない。鎖をつけない。私の血や身体を売らない。勝手に切って調べない」
一つずつ、鬼太郎の顔を見ながら告げる。
「それから、私が去ると決めたときは止めるな」
「構いません」
鬼太郎も条件を返した。
「僕のものを盗まない。寝床や仕事の情報を売らない。契約中の相手を、僕に無断で背後から襲わない」
「お前を襲うのは?」
「そのときは、敵として殺します」
丁寧な声は変わらない。
キーノも目を逸らさなかった。
「行く場所を決めるまでだ」
「ええ」
「それまでは、お前についていく」
「それで構いませんよ」
鬼太郎が差し出したのは手ではない。
道を選ぶための条件だった。
キーノは、自分でそれを選んだ。
◆
「仕事の最中に、拾い物か」
サーシェスが言った。
「拾ってはいませんよ。ご本人が決めました」
「気に入ったんだろ?」
「ええ。気に入りました」
鬼太郎は隠さなかった。
サーシェスはキーノへ顎を向ける。
「坊主についていくなら、次は客席側に座らされねえよう気をつけろ」
「お前も、こいつと同じ側ではないのか」
「俺は金を払われた間だけだ」
「なら、お前の方が先に裏切るかもしれないな」
一瞬の沈黙。
サーシェスが声を上げて笑った。
「その口が利けるなら、まだ死なねえよ」
鬼太郎は二人の会話を聞きながら、鉄格子へ向かった。
◆
鉄格子は、子供一人が伏せて通れる高さで止まっている。
中には、依頼書どおりの封印鉄箱が残っていた。
サーシェスが巻き上げ機の横へしゃがむ。
モーンから取った長い鍵を差し込むと、途中で止めていた固定具が外れた。
「押さえろ」
トーマスと捕虜二人が格子へ手を掛ける。
サーシェスが巻き上げ機を回した。
鉄格子が、軋みながら天井近くまで上がっていく。
鬼太郎は力仕事へ加わらなかった。
鉄箱の周囲を一周し、封と留め具を確認する。
外側には、戦闘で飛んだ石の傷が増えている。
だが、封は破れていない。
「依頼品に問題はありません」
「問題だらけに見えるがな」
トーマスが疲れた声で言った。
「中身を開けていないという意味です」
舞台袖にあった道具運搬用の低い台車を引き出す。
サーシェスと捕虜二人が鉄箱を載せ、トーマスが封をもう一度確かめた。
「俺も、運び手として連れていくのか」
「ええ。生存していることも依頼条件でしたので」
「依頼人は、俺たちを殺そうとしたんだぞ」
「それと、僕が受けた条件を守ることは別です」
トーマスは理解できないものを見る顔をした。
サーシェスだけが、面白そうに笑っている。
◆
解放された二人へ、鬼太郎は搬入口を示した。
「ここから出られます。僕たちと搬入口まで来るか、別の出口を使うかは、お任せします」
「連れていってくれないのか」
一人が尋ねた。
「途中までは同じ道です。ですが、その後の生活までは引き受けません」
助けた責任も、従わせる権利も主張しない。
二人は互いの顔を見て、搬入口まで同行することを選んだ。
舞台裏を進む途中、壁際で動くものがあった。
解体役の男だった。
噛まれた手首と殴られた顔を押さえ、床を這っている。
キーノを見ると、身を縮めた。
「来るな」
キーノは足を止めた。
鍵束を握る手へ力が入る。
今なら、男は抵抗できない。
だが、キーノ自身にも、復讐のために使える血は残っていなかった。
「お前が死ぬかどうかは、どうでもいい」
男へ背を向ける。
「今は、生きてここを出る方が先だ」
許したのではない。
自分の命より、男の死を優先しなかっただけだった。
鬼太郎は何も言わず、その判断を見ていた。
◆
搬入口の外には、見世物と道具を運ぶための荷馬車が残っていた。
サーシェスは外へ隠していた長銃を回収し、荷台の奥へ置く。
封印鉄箱を台車ごと載せた。
トーマスも荷台へ上がる。
解放された二人は、外へ出たところで別れた。
互いに肩を貸しながら、劇場から離れていく。
鬼太郎は荷馬車の前で、最後に振り返った。
地下へ続く搬入口は、暗く開いている。
そこから追ってくる者はいない。
〈シュライク〉は上着の中。
帳簿三冊と金は、サーシェスの革鞄。
孔雀の羽と横笛の封書は、上着の内側。
封印鉄箱は荷台。
トーマスは生きている。
キーノも、自分の足で荷馬車へ乗った。
すべてを確認する。
「行きましょう」
鬼太郎は荷台へ手を掛けた。
腕に力が入らない。
キーノが服の袖を掴んだ。
引き上げられるほどの力はない。
それでも、鬼太郎の身体が後ろへ倒れるのを止めた。
サーシェスが襟の後ろを掴み、荷物のように荷台へ放り上げる。
「歩く程度ならできるんじゃなかったのか?」
「少し、見積もりを間違えました」
鬼太郎は鉄箱へ背を預けた。
視界が狭くなる。
敵はいない。
回収するものは揃っている。
自分が死ぬ場所を決める者も、もう残っていない。
「先に、治療できる場所へお願いします」
「金は取るぞ」
「経費として記録してください」
「最後までそれかよ」
サーシェスは御者台へ移った。
手綱を取る。
荷馬車が動き出した。
鬼太郎の瞼が閉じる。
眠ると決めたのは、自分だった。
キーノは、意識を失った鬼太郎を見た。
血溜まりから立ち上がり、観客と魔法使いを殺し、主催者まで追い詰めた怪物。
今は、七歳の子供の身体で浅く息をしている。
「死なないのか」
キーノが尋ねた。
御者台から、サーシェスの声が返る。
「安心しろ。そいつは死ぬ場所まで他人に決めさせるようなタマじゃねえ」
キーノの手には、まだ鉄台の鍵があった。
誰かから与えられた自由ではない。
自分で奪い、自分で開き、その先の行き先まで自分で選んだ。
荷馬車の後ろで、檻と舞台が闇へ沈んでいく。
幕は下りた。
けれど三人の道は、そこから同じ方角へ伸び始めた。
第三章 了