神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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子供の値段

第四話 

 

 図書館の壁に掛けられた時計が、午後を指していた。

 

 墓場鬼太郎は、世界地図の隣へ交通案内の本を広げた。

 

 ブルガリアから英国までは、地図の上なら指一本でたどれる。

 

 だが、実際に越えなければならない国境は一つではない。列車を使うにしても、飛行機を使うにしても、切符だけ買えば済む距離ではなかった。

 

 旅券。

 

 出入国の手続き。

 

 保護者の同意。

 

 六歳の子供が一人で窓口へ行けば、まず理由を尋ねられる。

 

 父と母はどこにいるのか。

 

 なぜ一人なのか。

 

 どこへ行くつもりなのか。

 

 正直に答えれば、両親の死と、燃えている家について調べられる。あの家には、焼けた男の死体も残されている。

 

 嘘をついたところで、六歳児をそのまま国外へ送り出す大人はいないだろう。

 

「正しい手順というものは、不便ですね」

 

 鬼太郎は小さく呟いた。

 

 警察へ行くことも考えた。

 

 保護されたあと、英国生まれの父の書類を見せれば、父方の血縁者を探してもらえる可能性はある。

 

 しかし、それがいつになるか分からない。

 

 児童施設へ送られ、自由に動けなくなる可能性の方が高い。襲撃者の一人は生きている。あの男が仲間を連れて戻ってくるのなら、自分の居場所を役所の記録へ残すことは好ましくなかった。

 

 何より、自分の行き先を他人に決めさせるつもりはない。

 

 鬼太郎は交通案内を閉じた。

 

 正規の方法が使えないのであれば、それ以外を探せばよい。

 

 国境を越えて運ばれるのは、書類のそろった旅行者だけではない。表へ出せない品物も、追われている人間も、金さえ払えば運ぶ者はいるはずだった。

 

 ただし、この町は小さい。

 

 図書館まで歩く間に見た範囲でも、大きな駅や港はなかった。人目を避けて国境を越える者たちが、わざわざここを拠点にするとは考えにくい。

 

 まずは、より大きな街へ行く必要がある。

 

 問題は、そこで誰を探すかだった。

 

 鬼太郎は本を元の棚へ戻した。

 

 受付の女へ礼を告げ、図書館を出る。

 

 外へ出ると、午後の日差しが目に刺さった。

 

 朝からほとんど休まずに歩いている。

 

 鞄の肩紐が食い込み、両脚には鈍い疲れが溜まっていた。精神が二十四歳へ戻っても、身体が六歳であることに変わりはない。

 

 腹も減っていた。

 

 鬼太郎は通り沿いの店でパンを一つ買い、広場の端にある長椅子へ座った。

 

 鞄は足の間に置く。

 

 周囲には買い物帰りの女や、荷物を運ぶ男たちがいる。子供の姿もあったが、どの子供も近くに大人がいた。

 

 一人なのは、鬼太郎だけだった。

 

 パンを食べながら、通りを眺める。

 

 今夜眠る場所も決めなければならない。

 

 宿へ行けば、やはり保護者について聞かれる。人目につかない場所で夜を越すこともできるが、この身体で屋外の寒さに耐えられるかは分からない。

 

 考えているうちに、一人の男が広場を横切った。

 

 灰色の上着を着た、四十歳ほどの男だった。

 

 鬼太郎の前を一度通り過ぎる。

 

 少し離れたところで立ち止まり、店先の商品を見るふりをした。

 

 その視線だけが、何度もこちらへ戻ってくる。

 

 鬼太郎は気づかないふりをして、残ったパンを口へ運んだ。

 

 男が見ているのは顔ではない。

 

 鞄。

 

 服装。

 

 そして、周囲に自分を捜している大人がいないかどうか。

 

 やがて男は店先を離れ、親しげな笑みを浮かべて近づいてきた。

 

「坊や。一人か?」

 

 鬼太郎はパンを飲み込み、男を見上げた。

 

「父を待っています」

 

「そうか。どこへ行ったんだ?」

 

「用事があるそうです」

 

「ずいぶん大きな荷物だな。旅行か?」

 

 男は鬼太郎の隣へ腰を下ろした。

 

 空いている場所はいくらでもある。それでも、肩が触れそうな距離まで近づいた。

 

「父親は、いつ戻ると言っていた?」

 

「さあ。聞いていません」

 

 男の笑みが深くなった。

 

 六歳の子供が、戻る時間も知らずに父親を待っている。

 

 それを心配した顔ではなかった。

 

 都合がよいと考えた顔だった。

 

「腹が減ってるんじゃないか? うちに来れば、温かいものを食わせてやれる」

 

「知らない方についていってはいけないと教わっています」

 

「知らない人じゃない。俺は、この辺りの子供をみんな知ってる。父親が戻ってきたら、ここへ連れてくればいい」

 

 奇妙な理屈だった。

 

 男は自分の名を名乗らない。

 

 鬼太郎の名も尋ねない。

 

 父親の特徴さえ聞かなかった。

 

 代わりに、鞄から一度も目を離さない。

 

 鬼太郎は残ったパンを包みへ戻した。

 

 この男が、英国までの道を知っているとは思えない。

 

 だが、保護者のいない子供を狙う人間ならば、その子供を連れていく先がある。

 

 一人で育てるために攫うわけではないだろう。

 

 売る相手がいる。

 

 その相手も、この小さな町にいるとは限らない。

 

「食事だけですか?」

 

「もちろんだ。今夜は泊まっていってもいい。父親は明日、一緒に捜してやる」

 

「それは、ご親切に」

 

 鬼太郎は鞄を背負い、長椅子から下りた。

 

 男の目に、一瞬だけ喜びが浮かんだ。

 

     ◆

 

 男は広場を離れ、細い路地へ入った。

 

 最初のうちは、ときどき振り返って鬼太郎へ話しかけてきた。

 

 好きな食べ物は何か。

 

 父親と二人で暮らしているのか。

 

 この町に親戚はいるのか。

 

 質問の形を取っているが、確かめていることは一つだった。

 

 この子供が消えたとき、捜す者がいるかどうか。

 

 鬼太郎は、相手が安心する程度の答えだけを返した。

 

 やがて人通りが少なくなる。

 

 住宅が途切れ、使われているのかも分からない倉庫や車庫が並び始めた。

 

 男は、その一つの前で足を止めた。

 

 錆びた金属扉を開ける。

 

「入れ。食い物は中だ」

 

 鬼太郎は扉の向こうを覗いた。

 

 薄暗い車庫だった。

 

 奥に古い車が一台置かれている。壁際には工具と木箱が積まれ、油と埃の臭いがこもっていた。

 

 食事を用意しているようには見えない。

 

 鬼太郎は何も言わず、中へ入った。

 

 背後で扉が閉まる。

 

 鍵の回る音がした。

 

「そこに鞄を置け」

 

 先ほどまでの親しげな声ではなかった。

 

 鬼太郎は振り返った。

 

 男の顔から笑みが消えている。

 

「食事はどちらに?」

 

「黙って鞄を置け」

 

「父を捜してくださる話は、どうなりました?」

 

「そんな父親はいないんだろう?」

 

 男が近づいてくる。

 

 鬼太郎は動かなかった。

 

「お前みたいな子供が一人で歩いていれば、誰だって分かる。家出か、捨てられたかだ」

 

「そう考えたのですね」

 

「鞄を寄越せ」

 

 男の手が肩紐へ伸びる。

 

 鬼太郎は半歩だけ後ろへ下がった。

 

 それだけで逃げられるはずはなかった。

 

 男の手が鬼太郎の腕をつかむ。

 

 指が食い込んだ。

 

 鬼太郎は腕を引いたが、びくともしない。

 

 二十四歳の判断力があっても、六歳の筋力で大人の男に勝てるわけではない。

 

「離していただけますか」

 

「大人しくしろ。痛い目に遭いたくなければな」

 

 男が腕を引き、鬼太郎の身体を壁へ押しつけた。

 

 背中に衝撃が走る。

 

 息が詰まった。

 

 鞄を奪われれば、書類も、金も、回収した杖も失う。

 

 それは許容できない。

 

 鬼太郎は空いている右手を上げた。

 

 男の顔ではなく、そのすぐ横にある木箱へ向ける。

 

 内側の力へ触れる。

 

 火炎の形を思い描き、手の先へ導く。

 

「アギ」

 

 赤い火球が生まれた。

 

 男の頬を熱がかすめ、背後の木箱へ直撃する。

 

 乾いた木が砕けた。

 

 炎が破片へ食らいつき、積まれていた布へ燃え移る。

 

 男の手から力が抜けた。

 

「あ……?」

 

 鬼太郎は床へ降りた。

 

 男は燃える木箱と、鬼太郎の右手を交互に見る。

 

 何が起きたのか理解できていない。

 

「う、うわあああっ!」

 

 悲鳴を上げ、後ずさった。

 

 工具箱へ足を取られ、床へ尻餅をつく。

 

「何だ……何なんだ、お前!」

 

「質問しているのはこちらです」

 

「来るな!」

 

 男は立ち上がろうとして何度も足を滑らせた。

 

 ようやく身体を起こすと、鬼太郎に背を向けて扉へ走る。

 

 鬼太郎は扉の前へ右手を向けた。

 

「アギ」

 

 二つ目の火球が、男の進行方向へ飛んだ。

 

 金属扉の脇へ積まれていたぼろ布が燃え上がる。

 

 男は炎へ飛び込む寸前で止まり、再び床へ転がった。

 

 壁へ背中を押しつける。

 

「悪魔だ……」

 

 歯が鳴っていた。

 

「悪魔だ。来るな、来るな……!」

 

 鬼太郎は答えなかった。

 

 自分が悪魔だった記憶はない。

 

 ただ、崩壊した街で、人ではない何かと向かい合っていた光景は残っている。

 

 それが何だったのかは、まだ霧の向こうだった。

 

 鬼太郎は燃えている布を見た。

 

 車庫全体へ火が回れば、男から話を聞く前に外へ出なければならなくなる。

 

 壁際にあった砂の入った容器を見つけ、両手で持ち上げた。

 

 六歳の腕には重い。

 

 引きずるように運び、燃えている布へ砂をかける。

 

 一度では消えなかった。

 

 何度かに分けてかけ、炎を小さくする。

 

 男は、その間も動かなかった。

 

 逃げることさえ忘れたように、鬼太郎を見つめている。

 

 鬼太郎は息を整えた。

 

 アギを二度使い、重い容器を運んだだけで、腕と脚に疲れが広がっていた。

 

 この身体では、できることが少ない。

 

 だからこそ、使えるものは残しておかなければならない。

 

「では、お話をしましょう」

 

 鬼太郎は男へ向き直った。

 

「いやだ……」

 

「あなたは僕を、どなたへ売るつもりだったのですか?」

 

「知らない。俺は何も知らない」

 

「そうですか」

 

 鬼太郎が右手を上げる。

 

 それだけで、男は両腕を頭の上へかざした。

 

「待て! やめろ! 言う、言うから!」

 

「助かります」

 

「俺は、ただ連れていくだけだ! 俺が売ってるんじゃない!」

 

 言葉が次々にあふれ出す。

 

 鬼太郎が尋ねるより先に、男は自分が悪くない理由を並べ始めた。

 

 頼まれただけだ。

 

 ほかにもやっている者がいる。

 

 子供がそのあとどうなるかは知らない。

 

 自分は金を受け取るだけだ。

 

 どれも、鬼太郎が求めている答えではなかった。

 

「落ち着いてください」

 

「殺さないでくれ……!」

 

「質問に答えていただければ、今は殺しません」

 

 男の呼吸が止まった。

 

「今は……?」

 

「誰へ渡すつもりだったのですか?」

 

 男は震える唇を動かした。

 

 最初に出てきたのは人の名ではなく、大きな街の名だった。

 

 この町からは離れている。

 

 車で向かい、決められた場所で待てば、向こうから人が来る。

 

 相手の本名は知らない。

 

 男が知っているのは、呼び名と、受け渡しに使う場所だけだった。

 

 鬼太郎は一つずつ聞き直した。

 

 街のどこにあるのか。

 

 何を目印にすればよいのか。

 

 いつ行けば会えるのか。

 

 子供以外に何を扱っているのか。

 

 男の返答は何度も前後した。

 

 嘘を組み立てているのではない。

 

 恐怖で、自分が何を話したのかさえ分からなくなっている。

 

 鬼太郎は同じ質問を形を変えて繰り返し、食い違う部分を確かめた。

 

 やがて、必要な輪郭が見えてくる。

 

 子供や女。

 

 盗まれた品物。

 

 偽造された書類。

 

 表へ出せない荷物。

 

 男が「買い手」と呼ぶ者は、それらを金に換え、ときには別の土地へ運ぶ仕事も仲介しているらしい。

 

 英国までの道を知っているかは分からない。

 

 だが、少なくともこの男よりは、目的に近い。

 

「分かりました」

 

 鬼太郎は右手を下ろした。

 

 男の身体から、わずかに力が抜ける。

 

「言った……全部言った。だから、もういいだろう?」

 

「ええ。お話は十分です」

 

「じゃあ……」

 

 男は扉へ視線を向けた。

 

 逃げてもよいのかと、鬼太郎の顔色をうかがう。

 

 鬼太郎は、車庫の奥に置かれた古い車を見た。

 

 この町から大きな街まで、六歳の足で歩くつもりはない。

 

 公共の交通機関を使えば、人目につく。

 

 目的の場所へたどり着いたあとも、顔も知らない相手を一人で探すより、普段から取引している者に案内させた方が早い。

 

 男には、まだ使い道があった。

 

「それでは、そこまで案内してください」

 

 男の顔から、戻りかけていた血の気が再び引いた。

 

「い、いや……場所は教えた。自分で行けばいい」

 

「僕は六歳ですよ」

 

 鬼太郎は穏やかに微笑んだ。

 

「一人で遠くまで出歩くのは、危ないでしょう?」

 

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