血は、傷より遅く戻る
第四十九話 血は、傷より遅く戻る
車輪が、夜道の窪みを踏んだ。
荷台が大きく揺れる。
封印鉄箱の角が台車の留め具を鳴らし、トーマスが慌てて手を添えた。
その横で、鬼太郎は目を覚まさなかった。
鉄箱へ預けていた背は、いつの間にか荷台の床へ横たえられている。右脇腹から腹にかけて乾いた血が広がっていたが、その下に開いた傷は、もう見えない。
顔色だけが、傷を負う前には戻っていなかった。
呼吸は浅い。
荷馬車が揺れるたび、閉じた瞼の下で眉がわずかに動く。それでも意識は戻らない。
キーノは向かいの壁へ肩をつけ、膝を立てていた。
身体を起こしているだけで、胸の奥が速く脈打つ。
脇腹を切られた傷は塞がった。手首も、鉄台から外している。
だが、床へ流れた血までは身体へ戻っていない。
目を閉じれば、そのまま何も見えなくなりそうだった。
だから閉じなかった。
鬼太郎の上着。右脇に収められた小さな銃。鉄箱。トーマス。御者台へ続く狭い隙間。
自分の右手には、鉄台から奪った鍵束がある。
出口は荷台の後ろだけだった。
「引き渡し先は、こっちじゃない」
トーマスが御者台へ向かって言った。
「道を間違えているぞ」
「間違えてねえよ」
前からサーシェスの声が返る。
「先に治療だ。坊主がそう言った」
「だが、期限がある」
「死体を一つ増やしてから運ぶよりは早い」
「俺は生きたまま引き渡される条件なんだろう」
「だったら、落ちねえよう箱でも掴んでろ」
トーマスは口を閉じた。
キーノは御者台との仕切りへ目を向けた。
「あんた、あいつの部下なのか」
「違うな」
返事はすぐに来た。
「なら、どうして言われたとおりにしてる」
「金を払うからだ」
「それだけか」
「それと、見てて退屈しねえ」
キーノは床に倒れた鬼太郎を見る。
「死にかけて倒れてるのに?」
「死にかけてから立ち上がっただろうが」
「また倒れた」
「次も立つなら問題ねえ」
「立たなかったら?」
「治療費が無駄になる」
笑いを含んだ声だった。
キーノは眉を寄せた。
「変な奴だ」
「あの坊主についてきたお前もな」
「ついていくと決めたわけじゃない」
「同じ荷馬車に乗ってるじゃねえか」
「行く場所を決めるまで利用するだけだ」
「そいつも、お前を利用する気だぞ」
「知ってる」
能力だけではない、と鬼太郎は言った。
だが、能力を欲しがっていないとは言わなかった。
キーノも、自分を売り物ではなく一人の人間として扱えとは求めていない。
檻へ入れないこと。
鎖で繋がないこと。
血や身体を勝手に使わないこと。
離れたいときに離れられること。
それだけを確かめた。
守られなければ、逃げる。
逃げられなければ、噛みつく。
それでも駄目なら、そのとき考える。
キーノは、再び鬼太郎へ目を向けた。
血溜まりから起き上がった姿と、今、浅い息をしている姿が重ならない。
「あいつは何なんだ」
「本人に聞け」
「あんたは、一年も一緒に仕事をしてるんだろ」
「毎日一緒にいたわけじゃねえ」
「何ができるかも知らなかったのか」
「炎と妙な術、それに銃。昨日まではそれで足りてた」
「氷も雷も風も使った」
「見りゃ分かる」
「役に立たないな、あんた」
御者台から、短い笑い声が返った。
「助けてやった相手に、よく言うじゃねえか」
「助けろと頼んでない」
「その鍵は誰が中まで運んだと思ってる」
「私が奪った」
「なら、そういうことにしとけ」
怒った気配はなかった。
見世物小屋の大人たちは、キーノが口を開けば黙らせようとした。
解体役は歯を見せるなと言い、客は泣けと言った。モーンは質問に答える必要すらないと思っていた。
サーシェスは言い返す。
それだけだった。
「名前も知らないのか」
「知らねえな」
「それで背中を預けてたのか。馬鹿じゃないのか」
「名前を知ってりゃ、弾が真っすぐ飛ぶのか?」
「知らない」
「なら同じだ」
キーノは鼻を鳴らした。
「やっぱり変な奴だ」
「今度はどっちの話だ?」
「二人ともだ」
荷馬車が曲がった。
鉄箱の台車が軋む。
キーノは壁へついた肩へ力を入れたが、身体を支えきれなかった。
傾いた身体を、床へ手をついて止める。
視界が一度、暗くなった。
呼吸を整える間に、御者台から声が落ちてきた。
「もう少しだ。今倒れるなら、坊主と重ならねえ場所にしろ」
「うるさい」
答えた声は、自分で思ったより弱かった。
◆
荷馬車は、背の高い煉瓦塀に囲まれた裏庭へ入った。
サーシェスが降り、両開きの門を内側から閉める。
表通りに看板はなかった。
建物の裏口には、小さな真鍮板が一枚ある。文字ではなく、杖へ巻きつく蛇と針が刻まれていた。
サーシェスは扉を三度叩き、間を置いて二度叩いた。
細い覗き窓が開く。
「誰だ」
「患者が二人だ。名前は聞くな。金は払う」
「朝に来い」
「朝まで生きてりゃ、ここには来ねえよ」
覗き窓の向こうから、荷台へ視線が向けられた。
鬼太郎の服に残る血を見て、窓が閉じる。
しばらくして、裏口の錠が外れた。
出てきたのは、灰色の髪を後ろで束ねた女だった。杖を袖へ隠し、血の染みた前掛けをつけている。
「二人で金貨十枚。薬は別だ」
「診る前からか?」
「その量の血を見て安くなると思うのかい」
「死んだら?」
「治療を始める前なら半分返す」
「始めた後は?」
「死体を裏口から出してやる」
サーシェスは笑い、上着の内側から金を出した。
劇場で回収した革鞄には触れない。
自分の財布から前金を数え、女の掌へ置く。
「薬を使う前に値段を言え。余計な検査はするな。払った分は後で坊主へ請求する」
「そいつが起きればね」
「起こせ」
治療師は金を前掛けの隠しへ入れ、裏口を開け放った。
石床の処置室には、細い寝台が二つ並んでいる。
トーマスと鉄箱は、裏庭の荷馬車へ残した。
裏口と荷馬車の間を遮るものはない。逃げようとすれば処置室からも見える。
トーマス自身も、鉄箱から離れようとはしなかった。
生きたまま引き渡されなければ、今度こそ何の値段もつかないと分かっている。
サーシェスは鬼太郎を抱き上げた。
七歳の身体は軽い。
失った血の量だけ、さらに軽くなったように感じる。
寝台へ横たえようとすると、治療師が止めた。
「銃を外しな」
「俺が持つ」
「杖もだ。治療中に暴発されたくない」
サーシェスは鬼太郎の上着を開いた。
右脇の専用ホルスターから〈シュライク〉を抜く。
弾の残りにも作動部にも触れず、寝台脇の小卓へ置いた。
ウォードから奪った杖も上着から出し、その横へ置く。
内側のポケットには、封をされた紙があった。
孔雀の羽と横笛。
サーシェスは印だけを見て、折り目も封も変えず、小卓の反対端へ置いた。
キーノが、その手元を見ていた。
「盗まないのか」
「何をだ」
「金も銃も、その紙も。あいつは今なら何もできない」
「盗んだ後で目を覚まされた方が面倒だ」
「目を覚まさなかったら?」
「そのとき考える」
「結局、盗むかもしれないんじゃないか」
「欲しいものならな」
サーシェスは鬼太郎の上着を治療師へ渡した。
「銃と紙には触るな。杖も勝手に使うんじゃねえぞ」
「ここは治療所だ。質屋じゃない」
「どっちも死体から物を取るだろ」
「死んでから言いな」
治療師は鬼太郎の服を傷の周りから切った。
右脇腹に残った血が、固まった布と一緒に剥がれる。
現れた皮膚には、深い傷口がない。
細く赤い線が、肋骨の下から腹へ斜めに走っているだけだった。
治療師の手が止まる。
「これが患者かい」
「そう見えるだろ」
「からかうなら帰りな。これだけ血を流す傷が、一晩でこんな線になるわけがない」
「一晩もかかってねえ」
女はサーシェスを見た。
冗談を探す目だった。
見つからなかったらしい。
杖を抜き、傷へ向ける。
サーシェスの右手が、リボルバーの柄へ触れた。
「何をする」
「中を診るだけだ。治癒呪文じゃない」
「先にそう言え」
治療師は舌打ちし、短い呪文を唱えた。
淡い光が、鬼太郎の腹の上をゆっくり滑る。
光は傷の線で一度揺れ、脇腹から胸、頭へ移った。
「傷は塞がっている。内側もだ。だが、血は戻ってない」
「見りゃ分かる」
「なら黙って聞きな。左腕と左脚に浅い裂傷。後頭部に打撲。呪文をいくつも受けてるね。筋肉も神経も、長く痙攣した後みたいに疲弊している」
光が鬼太郎の胸元で細かく震えた。
治療師の眉間へ皺が寄る。
「それだけじゃない。何かを、無理に身体へ通した痕がある」
「何かってのは?」
「知らないよ。魔力に似ているが、私の知っている流れじゃない」
MAGという言葉を、サーシェスは知らない。
鬼太郎が知っているかも分からない。
「治せるのか」
「強い治癒呪文は使わない。この傷を塞いだものと喧嘩をしたら、せっかく繋がった内側をまた壊す」
「じゃあ何ができる」
「浅い傷の処置。腫れ止め。血を補う薬を少しずつ。あとは眠らせる」
「もう寝てるぞ」
「これは眠ってるんじゃない。身体が勝手に止めたんだよ」
治療師は戸棚から暗赤色の瓶を出した。
「血液補充薬。一本、金貨三枚」
「高えな」
「外で水でも飲ませるかい?」
「二本使えば早くなるのか」
「この身体に一度で二本は多い。半分飲ませて反応を見る。残りは起きてからだ」
「それでやれ」
サーシェスは追加の金を机へ置いた。
◆
「次はあんただ」
治療師がキーノを振り返った。
助手の男が、寝台の端へ革の帯を通している。
キーノは鍵束を握ったまま動かなかった。
「それを外せ」
「暴れられたら診られない」
「なら診なくていい」
「さっき倒れかけてただろう」
「縛られるよりましだ」
助手が近づく。
キーノは身体を壁へ寄せ、歯を見せた。
力は入らない。
それでも、噛みつく場所だけは選んでいた。
「勝手に触るな」
「治療するんだよ」
「何をするか先に言え。縛るなら帰る」
「帰るって、どこへだい」
「あんたには関係ない」
治療師の顔から、わずかに忍耐が消えた。
その間へ、サーシェスが口を挟む。
「帯は外せ」
「あんたの娘かい?」
「冗談でもやめろ。そいつは、坊主が連れていくと決めた」
「そこの子供が?」
「檻と鎖は禁止。血と身体を勝手に使うのもなし。そういう条件らしい」
「面倒な患者ばかり持ってきたね」
「その分は払った。何をするか説明してから触れ。そいつが暴れたら、薬棚の弁償まで増えるぞ」
治療師はサーシェスとキーノを交互に見た。
助手へ顎を向ける。
革帯が寝台から抜かれた。
「脈を診る。次に目を見る。服は傷の周りだけ開く。杖で身体の中を診る。切らない。針も刺さない。それでいいかい」
「薬を使うなら、先に見せろ」
「分かったよ」
「味も言え」
「そこまで知るかい」
「知らないものを飲ませるな」
「苦い。それで満足かい」
「最初からそう言え」
キーノは寝台へ上がった。
横にはならず、端へ腰を下ろす。
治療師が手首へ指を当てる。
キーノはその指と女の目を交互に見た。
「脈が速い。熱は低い。瞼を上げるよ」
言葉どおりに指が動く。
「口を開けな」
「何を見る」
「歯と舌。それから喉だ」
キーノが口を開く。
犬歯を見た助手が、一歩下がった。
「吸血鬼か」
「半分だ」
キーノが答える。
「残り半分は?」
「知らない」
治療師はそれ以上聞かなかった。
脇腹の破れた服を開く。
解体役に切られた場所には、薄い赤みしか残っていない。
「この服の血は、あんたのかい」
「そうだ」
「傷は?」
「塞がった」
「どれくらいで」
「見てなかった」
「もう一度――」
「切るな」
キーノの声が低くなる。
「誰も切るとは言ってない」
「今、考えただろ」
治療師は答えなかった。
キーノは目を逸らさない。
「調べるために傷をつけるなら帰る。血も取るな」
「血を調べれば、分かることもある」
「私には必要ない」
「そうかい」
治療師は杖を出した。
「今から、さっきあの子へ使ったのと同じ診断魔法を使う。痛みはない」
「やれ」
淡い光が、キーノの身体を滑った。
脇腹では止まらず、手首と足首の周りで揺れる。
長く金具に締められていた場所だった。
「新しい傷は塞がっている。だが、血はひどく足りない。古い拘束痕もある。骨が折れた跡と、治り方のおかしい箇所がいくつか。栄養も足りてない」
「死ぬのか」
「今すぐにはね。ただ、傷が閉じるからといって元気なわけじゃない。眠って、食べて、失った分を戻すんだ」
「あいつと同じか」
キーノは隣の寝台を見た。
「傷だけ先に閉じたという意味ならね」
治療師は別の小瓶を出した。
「さっきの血液補充薬を薄める。半分が吸血鬼なら効き方が違うかもしれない。まず一口。具合が悪くなればやめる」
「そっちにも一本使うなら、もう金貨三枚だ」
サーシェスは治療師が瓶を机へ置くまで待ち、それから金を三枚出した。
「中身は?」
「薬草と鉄、それに魔法で処理した血液成分。誰かの生血じゃない」
キーノは瓶を受け取らなかった。
「置け。自分で飲む」
治療師が寝台脇へ置く。
キーノは匂いを嗅ぎ、少量だけ口へ含んだ。
苦かった。
顔をしかめる。
「言っただろう」
「聞いたより苦い」
「味まで保証してないよ」
吐き気も、痛みも起こらない。
キーノはもう一口飲み、瓶を戻した。
「今はそれだけでいい。残りは後だ」
治療師は薄い毛布を寝台へ置いた。
「眠りな」
「眠くない」
「倒れるまで起きていたいなら好きにしな」
女と助手が、鬼太郎の浅い傷の処置へ戻る。
キーノは毛布を手に取った。
何かが縫い込まれていないか、端から裏まで確かめる。
ただの毛布だった。
脚へ掛ける。
サーシェスは裏口の近くへ椅子を置き、荷馬車と処置室の両方が見える位置へ座った。
長銃は壁へ立てず、手が届くところへ寝かせている。
「あんた、意外と話は守るんだな」
キーノが言った。
「俺が決めた話じゃねえ」
「それでも破らなかった」
「破る理由がねえだけだ」
「あいつが起きてなかったから、好きにできただろ」
「だから何だ」
「別に」
キーノは毛布の端を握った。
「素直じゃないな」
「お前に言われたくねえよ」
すぐに返ってきた。
キーノは少しだけ口元を歪めた。
笑ったわけではない。
少なくとも、そういうことにした。
◆
窓の外が、黒から薄い灰色へ変わり始めた。
鬼太郎は、夢を見なかった。
炎も、氷も、青い影もない。
身体の外から聞こえる音が、少しずつ意味を持つ。
瓶の触れ合う音。
馬が蹄で地面を掻く音。
知らない女の足音。
革と油の匂い。
血の匂い。
右手を動かそうとして、指先がわずかに曲がった。
まぶたを開く。
白い天井ではなかった。
煤けた梁と、吊るされた薬草が見える。
視線を右へ動かす。
小卓の上に〈シュライク〉がある。
手を伸ばせる距離ではない。
その横にウォードの杖。反対端に、孔雀の羽と横笛の封書。
封は破れていない。
鬼太郎は上体を起こそうとした。
胸の奥で心臓が強く打つ。
視界が狭くなり、腕から力が抜けた。
「寝てな」
灰色の髪の女が肩を押し戻す。
「血が足りない。傷が閉じているからといって、中身まで戻ったわけじゃないよ」
「ここは?」
「治療所だ。名前は聞かない。聞かれても答えない。金はあの男から受け取った」
鬼太郎は顔だけを裏口へ向けた。
椅子に座ったサーシェスが、こちらを見ている。
「トーマスさんは?」
「荷馬車だ。生きてる」
「鉄箱は?」
「同じ場所だ。封も留め具も、そのまま」
「帳簿と金は?」
「俺の革鞄だ」
「〈シュライク〉は?」
「見えてんだろ。弾も作動部も触ってねえ」
鬼太郎は小卓をもう一度見る。
六発を使ったまま。再装填されていない。
「キーノさんは?」
「目の前にいるだろ」
反対側の寝台から声がした。
キーノは毛布を脚へ掛け、壁へ背をつけている。
右手には、まだ鍵束があった。
「治療は受けられましたか?」
「受けた。勝手に縛られそうになったけど、こいつが止めた」
キーノがサーシェスを顎で示す。
「そうですか。サーシェスさん、ありがとうございます」
「礼より先に治療費を払え」
「もちろんです。経費として記録してください」
「薬込みで金貨十六枚だ」
「内訳は?」
治療師が呆れた顔をした。
「起きて最初にする話がそれか」
キーノが言う。
「必要な確認ですから」
「死にかけても変わらないんだな、お前」
「変える理由がありません」
鬼太郎は治療師から、診察、処置、薬の額を一つずつ聞いた。
血液補充薬の残りがあることも確認する。
その間も、声には力がなかった。
長く話すたびに呼吸が浅くなる。
治療師が途中で遮った。
「少なくとも今日は歩かせない。数日は寝床から動くな。魔法も銃も使うんじゃないよ」
「数日では、どこまで戻りますか?」
「立って便所へ行ける程度だ。戦えるまでとは言ってない」
「傷は閉じています」
「血は傷より遅く戻るんだよ」
鬼太郎は、右脇腹へ視線を落とした。
確かめるために触れようとした手を、途中で止める。
「分かりました」
素直に目を閉じる。
キーノが眉を上げた。
「言うことを聞くのか」
「治療については、僕より詳しい方ですから」
「戦うなって言われたぞ」
「今すぐ戦う予定はありません」
「引き渡しはどうする」
サーシェスが尋ねた。
鬼太郎は再び目を開く。
「期限は?」
「まだ過ぎてねえ。だが、ここで何日も待つ余裕はない」
「僕が同行することは条件に含まれていません。鉄箱とトーマスさんが揃っていれば、引き渡しはできます」
「俺にやれってのか」
「追加の仕事になりますので、報酬はお支払いします」
「治療費もだ」
「ええ」
「荷馬車もだ」
「それも経費です」
サーシェスは口の端を上げた。
「倒れてる方が話が早えな、坊主」
「今後の参考にします」
「するな」
キーノが言った。
鬼太郎とサーシェスが、同時にそちらを見る。
「また死にかけるつもりなら、先に言え。巻き込まれる方が迷惑だ」
「善処します」
「それ、やらない奴の言い方だろ」
「よくご存じですね」
「馬鹿にしてるのか」
「いいえ。正当に評価しています」
鬼太郎の口元が、ごくわずかに緩んだ。
キーノは睨み返す。
見世物小屋の舞台では、どちらかが目を逸らすまで見られていた。
今は、先に目を逸らしても刃は落ちてこない。
それでもキーノは逸らさなかった。
「眠れ、坊主」
サーシェスが椅子から立つ。
「箱と運び屋は俺が届ける。残りの金を受け取ったら戻る」
「封と留め具を、引き渡す前にもう一度確認してください」
「分かってる」
「受領の印も――」
「分かってるっつってんだろ」
サーシェスは、帳簿と金の入った革鞄を寝台の下へ置いた。
「これは置いていく。小娘も治療屋も、中身に触るなよ」
「触らない」
キーノは、言われるより早く返した。
鬼太郎は目を閉じた。
今度は、自分で眠ると決めるより先に、意識が沈み始める。
最後まで聞こえていたのは、荷馬車へ向かうサーシェスの足音だった。
キーノは、その音が裏庭へ消えるまで聞いていた。
鬼太郎が眠っていても、決めた条件は消えなかった。
サーシェスがいなくなっても、処置室の扉に鍵は掛けられなかった。
鍵束は、自分の手にある。
行こうと思えば、今でも外へ出られる。
けれどキーノは立たなかった。
立てなかったからだけではない。
少なくとも今は、ここにいると自分で決めたからだった。