第49話 ケストレル
ブルガリアへ戻った日の夕方、鬼太郎は宿の机へ二つの金袋を置いた。
サーシェスは、まだ外套を脱いでいなかった。椅子へ荷を下ろし、片方の袋を開ける。
「こっちが、船と道中の残りだな」
「ええ。こちらは、今日からの一か月分です」
英国を離れた後も、移動は続いた。乗り換える場所ごとに荷を確かめ、泊まる場所を変え、大陸の道を東へ進んだ。預けた品は決めた地点で返され、三人とも、自分の荷を持ってここまで来た。
サーシェスは二袋を別々に数えた。旅の報酬を受け取ったと書き、新しい優先交渉の開始日も確かめる。
「森へ入るまでに、こっちの仕事口も見てくる」
「連絡先は、決まりそうですか?」
「まだ残ってりゃな。昔の場所へ行けば、昔の奴が座ってるとは限らねえ」
「銃の相談をしますので、しばらくこの町にいます。戻る見込みが分かれば、宿へ伝えてください」
「分かった。急に出るなら、そっちも紙を残せよ」
男は受け取った金をしまい、自分の荷を持って部屋を出た。
向かいで、キーノは旅の帳面へ何かを書いていた。途中で聞き直し、ようやく覚えた町の名だった。
「ここで、銃を作ったんだな」
「ええ。工房が移っていなければ、明日伺います」
「それまでの部屋は?」
「こちらです。見てから、使えるか確かめてください」
鬼太郎が差し出した鍵を、彼女は受け取った。
荷を運んだ後、窓と扉を調べたキーノは、一人で廊下へ戻ってきた。内側の錠が掛かり、隣の声もさほど聞こえないと言う。
「これならいい」
「では、しばらくこちらで」
キーノは鍵を服へしまった。予備について、鬼太郎は尋ねなかった。
その夜は荷を広げすぎず、食事を済ませて眠った。寝台は海のようには揺れず、窓の外には、鬼太郎が知っている言葉が聞こえた。
◆
翌朝、鬼太郎は覚えている角を曲がり、その先で足を止めた。
以前は通れた場所に、新しい塀があった。
「違うぞ」
キーノが言った。
「道が変わっていますね」
「迷ったのか?」
「ここから戻れば、別の通りへ出られます」
彼女は帳面を開き、曲がった角へ印を加えた。鬼太郎は塀の向こうを覗こうとはせず、来た道を戻る。
油の匂いがしたのは、二本先の通りだった。
古い看板が壁へ掛かり、その下の扉は閉まっている。蝶番だけ、記憶にあるものより新しかった。
鬼太郎は扉を叩いた。
「今日は、まだ開けてねえ」
「では、開くまで待ちましょうか。ペタルさん」
中で金属を置く音がした。
錠が外れ、扉の隙間から男の顔が覗く。ペタル・ヴァルチェフは、鬼太郎の顔を見てから、上着の右側へ目を落とした。
「……生きてたか」
「お久しぶりです」
「入れ」
扉が広く開いた。ペタルは後ろに立つキーノを見る。
「そっちは?」
「キーノだ。一緒に来た」
「台の物には触るな。足元の箱もだ」
彼女が頷くと、ペタルは作業場の奥へ戻った。
鬼太郎は狭い通路を歩いた。棚の位置は変わっていたが、工具の柄へ巻いた布や、窓際の傷んだ椅子には覚えがあった。
「出してみろ」
鬼太郎はシュライクを抜いた。人のいない方へ銃口を向け、弾倉を外す。薬室も空にし、弾と銃を分けて作業台へ置いた。
ペタルは、その手順が終わるまで待った。
最初に見たのは、握把へ巻かれた革だった。
「いつからだ」
「少しずつ足しています。指の位置が、合わなくなりましたので」
「手を出せ」
鬼太郎の右手を銃へ重ねさせ、指を開かせる。親指の付け根から、小指の収まる場所まで、ペタルの目が動いた。
「このままでも撃てますよ」
「聞いてねえ。引き金に合わせて、手を捻ってるな」
「英国でも、似たことを言われました」
「言われて、どうした」
「こちらへ来るまで、無理のない持ち方を探しました」
ペタルは革を外し、もう一度握らせた。
小指の一部が下へ出る。以前のように握ろうとすると、引き金へ触れる指が深く入りすぎた。
「銃へ身体を合わせ始めてる。まだ使えるが、そのまま覚え直す必要はねえ」
「新しいものをお願いできますか」
「値段を聞いてから言え」
「そのためにも、まず伺わなければ」
ペタルは鼻を鳴らし、布を広げた。シュライクを分解すると、擦れた部品を光へ翳す。
「手入れはしてたらしいな」
「教わりましたから」
「余計な物を削ったか?」
「いいえ。巻いた革以外は、変えていません」
キーノが台の端から部品を見た。
「古い方は、どうなる?」
「点検していただいて、予備にします」
「まだ持つんだな」
鬼太郎は、小さな金属の部品へ目を向けた。
英国で仕事を始めた時も、この銃だった。床へ落とし、火の中を通し、魔法で手から弾かれた。使えなくなったのではない。今の自分の手が、作られた時と違っている。
「捨てるには、よく働いてくださいましたからね」
「銃へ言うな」
ペタルは、手元から目を上げずに言った。
「整備代へ払え」
「そちらも、お願いします」
◆
採寸の途中で、戸口へ影が差した。
「坊主。ここだったか」
サーシェスは鬼太郎の手にある握りの見本を見て、それからペタルへ顔を向けた。
「職人か」
「客でもないなら、外で待て」
「連れだ。銃の邪魔はしねえよ」
「それを作ってる時に来てる」
サーシェスは笑い、入口に近い壁へ背を預けた。
ペタルは鬼太郎の肘を曲げさせた。指だけでなく、腕を伸ばした時の肩と、腰から手を上げる動きも見る。
「次は、どこで使う」
「森です。雨と泥は、避けられないと思います」
「何を撃つ」
「武器を持つ方。それから、生き物も。まだ現地を見ていませんので、相手の大きさまでは分かりません」
「ずいぶん幅があるな」
「ですから、重すぎるものにはしたくありません」
「重くすりゃ、撃てる相手が増えるってわけでもねえ」
ペタルは鉛筆を置いた。
「左手は、前と同じか」
「空けておきます」
「火を使うために?」
「ええ。今は、ほかにも少し」
男の目が左手へ向いた。
「増えたのか」
「ですが、それを銃へ加える注文ではありませんよ」
「当たり前だ。分からんものを混ぜて、俺の仕事にするな」
鬼太郎は頷き、空のシュライクへ持ち替えた。言われた位置から抜き、壁の染みへ向ける。
ペタルは上着を避けて出る銃と、握りへ届く指を見た。
「最初の一発を、重く見るか」
「相手が杖を振る前に撃てることは、大切ですね」
「杖?」
その言葉で、ペタルの手が止まった。
鬼太郎は、短い棒を持つ仕草をした。
「それを振って、火や光を放つ方がいます。物を弾いたり、防壁を作ったりもします」
ペタルは黙って聞き、窓際のキーノへ目をやった。
「お前もか」
「光を出すのと、消すのなら」
「ここで振るなよ」
「振ってないだろ」
「先に言ってる」
ペタルは紙の端へ短く書いた。
「防ぐものが出る前に、撃ちたいわけだな」
「出た後に正面から撃っても、止められました」
「銃を大きくすれば通る、と分かってるか?」
「いいえ」
「なら、その注文は受けん。今の手で、確実に抜けるものから作る」
サーシェスが、壁から声をかけた。
「初弾の後もな。坊主が狙いへ戻せねえ重さにするなよ」
ペタルの鉛筆が止まる。
「撃つのか」
「まあな」
「なら、こいつの肩を見ろ。銃だけ重くしていい身体じゃねえ」
「分かってるじゃねえか」
サーシェスは楽しそうに歯を見せた。ペタルは返さず、鬼太郎へもう一度腕を上げさせる。
急いで森へ入る日を先に決めることはしなかった。
鬼太郎は提示された金額を読み、点検と試射、仕上げの調整まで含むことを確かめた。前金を払い、十日後に握りを合わせる約束をする。
シュライクは、工房へ預けた。
腰から重さが消えると、外へ出てからも、右手が一度その場所へ動いた。
「不安か?」
サーシェスが見ていた。
「習慣ですね」
「銃ができるまで、仕事は選べよ」
「今回は、森へ行く準備をします」
「だったら、暇な間に俺の方も見てくる」
男は町の別の通りを示し、約束した連絡先を伝えた。取り次ぎをする者には話を通したが、本人が町を離れている時には、返事を待つ必要があるという。
鬼太郎は場所を控えた。
宿へ戻る道は、キーノが先を歩いた。今朝間違えた角では、帳面を見ずに曲がっていた。
◆
待つ間に、町で買える物を揃えた。
食料は、食べ慣れた物だけでは埋めなかった。日持ちするものと、途中で使うものを分ける。布と縄は傷みを見て、薬は減った分を補った。
キーノは店の札を前に、長く立ち止まることがあった。
数字は読める。だが、その横に並ぶ文字が、英国で覚えた形と違っていた。
「こっちは、何だ」
「重さですね。値段は、その下です」
「値段だと思ってた」
彼女は二つを見比べ、紙へ写した。
宿へ戻ってからも、すぐには帳面を閉じなかった。鬼太郎が意味を書こうとすると、その手の下から紙を引く。
「言ってくれ。私が書く」
「では、こちらから」
必要な物を買うための言葉を先に覚える。
店の名前と、帰る道。食べ物と薬。立ち入ってはいけない場所へ置かれた札。知っているつもりで進めば困るものから、キーノは書き留めた。
「お前は、全部読めるのか?」
「全部ではありませんよ。長くいませんでしたから、知らない言い方もあります」
「じゃあ、間違ってたら聞けよ」
「ええ。僕が覚えているままとは限りませんね」
彼女は頷き、自分が読めた二つの札へ線を引いた。
サーシェスが戻った日は、三人で食事をした。男は仕事の条件を聞いてきたらしいが、受けたとは言わなかった。
「泊まりが長くなる話だった。今回は断った」
「銃が完成する頃には、出られそうですか」
「ああ。途中で俺の都合へ合わせろとは言わねえよ」
キーノは地図の森を見た。
「町の道も、まだ覚えてる途中なのに、次は道のない所か」
「戻ってきた時には、今覚えたことが使えます」
「その戻る道を、ちゃんと作るんだぞ」
「最初は、確かめながら進みましょう」
彼女は地図を自分の方へ寄せた。帰りに必要な金は、旅の途中で使う分と混ぜずに残っている。
森へ入る日も、そこへ住めるようになる日も、まだ同じ印にはできなかった。
◆
十日目、握りの見本は、鬼太郎の掌へ近づいていた。
ペタルは強く握り込ませず、抜く時の指の形を取らせた。引き金へ触れる位置を確かめ、重りをつけて腕を伸ばさせる。
右腕が、僅かに下がった。
「前へ重いですね」
「持てねえか」
「持てます。ですが、このまま長く狙うと、銃口を戻す時に遅れます」
「左手を添えれば?」
「支えられます。ただ、それを毎回の前提にはできません」
ペタルは重りを外し、別の位置へ置いた。
もう一度。
今度は前腕の上へ、重さが近づいた。鬼太郎がゆっくり銃口を戻すと、ペタルは肩の高さを見て頷く。
キーノは椅子へ腰掛け、削られる握りを見ていた。
「前のも、こんなに何度も合わせたのか」
「前はもっとだ」
ペタルが答えた。
「手が小さすぎた。合う銃がなかったから、最初から作った」
「子供に、よく作る気になったな」
「合わんものを持って、指を壊されるよりましだ。こいつは銃を諦めて帰る客でもなかった」
鬼太郎は見本を台へ戻した。
「作っていただいたおかげで、ここへ戻れました」
「まだ支払いが残ってるぞ」
「そちらを忘れる気はありません」
ペタルは、鉛筆で書いた数字を一つ直した。
「なら、生きてるうちに取りに来い」
仕上がったと知らせが来たのは、それから八日後だった。
◆
作業台には、二つの包みがあった。
鬼太郎は先に、小さい方を開いた。
シュライクには、巻いた革がなくなっている。空であることを確かめ、部品の動きを見ると、ペタルが交換した箇所を示した。
「摩耗した小さい部品だけだ。撃つ前の点検は、今までと変わらん」
鬼太郎は礼を言い、布で包み直した。鞄の普通品を入れる区画へ、弾薬と分けて固定する。
それから、新しい銃を受け取った。
握りへ指が収まった。
引き金へ届かせるために、手首をずらす必要がない。腕を上げても、銃口が先へ落ちすぎなかった。
初めてシュライクを持った時のように、知らなかった動きが戻ることはなかった。今は、この重さへどう手を合わせるかを、自分で確かめている。
「外で見る」
ペタルが言った。
試射場の奥には、土が盛られていた。標的の先と左右に人はいない。キーノは渡された耳当てを着け、サーシェスは射線から外れた横へ立った。
最初は三発だった。
鬼太郎は銃を構え、一発撃つ。
銃口が上がった。シュライクより反動は重い。だが、握りの中で銃がずれず、腕を戻すと狙いへ近づいた。
二発目で、肩と肘の位置を少し直す。
三発目の穴は、その近くへ開いた。
「痛みは」
「ありません」
「指の付け根は?」
「擦れていませんよ」
ペタルは手を見て、もう三発を渡した。
今度は、木箱の横から半身を出した。右手だけで支え、一発。身体を隠し、姿勢を低くして、もう一発。
最後の一発を撃った後、鬼太郎は銃口を下げた。弾倉と薬室を空にし、手首を曲げて確かめる。
無理に握り込んだ跡はなかった。
「戻す時も、前へ持っていかれませんね」
ペタルは標的を見た。
「今日の調子だけで決めるな。しばらく使って、当たる場所がありゃ言え。革を足す前にな」
「承知しました」
サーシェスが近くへ来て、穴の開いた紙を眺めた。
「二発目へ戻るのは、悪くねえな」
「森で、もっと動いてからですね」
「分かってりゃいい」
作業場へ戻ると、専用のホルスターも用意されていた。隠して歩く位置と、外へ出して抜く位置を確かめる。上着の裾へ引っかからないことを見てから、鬼太郎は残金を支払った。
ペタルは数え終えた硬貨をしまい、新しい銃へ指を向けた。
「ケストレルだ」
サーシェスが口元を上げた。
「小さい鷹か。また鳥なんだな」
「文句があるなら、自分の銃へつけろ」
「ねえよ。坊主より、似合いそうじゃねえか」
「銃は銃です。僕に羽はありませんから」
キーノが、腰へ収められた銃を見た。
「前のと、両方持つんだな」
「ええ。今度はこちらを使います」
鬼太郎は右手を下ろした。
新しい握りが、指へ触れた。
工房を出る前に、ペタルが呼び止める。
「森で何をするかは聞かん。だが、身体が変わったら、銃も見直せ。今度は指を曲げて誤魔化す前に来い」
「次も、お願いしてよいのですね」
「金と、生きた手を持ってくりゃな」
鬼太郎は戸口で振り返った。
「では、そうします」
扉が閉まった後も、内側から工具の音がした。
翌朝、三人は荷を持って町を出た。
次は、森に近い町へ向かう。サーシェスの連絡先も、そちらで改めて確かめることになる。
キーノは歩きながら、覚えた通りの名を帳面へ書き足した。鬼太郎が先を指すと、彼女は頁を閉じ、同じ方へ顔を上げる。
右腰には、ケストレルがあった。
シュライクは、鞄の中で揺れないよう収まっている。
右手を腰から離し、鬼太郎は二人と並んで、森へ続く道を進んだ。