第50話 二晩先の地図
宿の窓から、森の端は見えなかった。
家々の屋根の向こうで、黒い緑が山の斜面を覆っている。低くなった所にも木があり、そこを越えた先にも、また木が続いていた。
鬼太郎は地図を窓辺へ置いた。
紙の上では指一本で隠せた場所が、窓に収まらない。
「全部、あれか」
キーノが隣へ来た。机へ置いた自分の帳面と、外の森を見比べている。
「地図にあるのは、そうですね」
「向こうの山まで?」
「その先も含まれるようです。ただ、どこまで同じように歩けるかは分かりません」
町へ来る途中にも森は見えていた。近づけば奥の形が分かるかと思ったが、見える木が大きくなっただけだった。
キーノは窓から離れ、寝台へ下ろした荷を開いた。
「中で二晩。町まで戻る分は、別だったな」
「ええ。食べ物も、余分に持ちます」
「雨が続いたら?」
「進める場所で待つか、戻ります。建物があると決めて進むことはしません」
彼女は頷き、すぐ使う食料を自分の袋へ移した。
鬼太郎も鞄を開いた。本と紙の包みに湿りはない。三冊の帳簿は奥へ固定したままにし、野営で必要な物へ手が届くかを確かめる。
扉が叩かれた。
「坊主。俺は、しばらく外を回る」
サーシェスは廊下から言った。
「こちらの連絡先ですか?」
「ああ。町の連中が、どこへ話を持っていくかも聞く。日が落ちる前には戻る」
「では、その頃にこちらへ」
男の足音が階段へ遠ざかった。
鬼太郎が本を一冊取り出すと、キーノは袋の口を結び、机へ地図を広げ直した。
「私たちは?」
「森の物を扱う店を探します。町の道も、先に覚えましょう」
「なら、それは戻ってからだな」
キーノは、彼が開こうとした本を見た。
鬼太郎は表紙を戻し、外出に必要な物だけを持った。
◆
薬草を買う店を尋ねると、二軒目で、町外れの薬種店を教えられた。
何でも買うわけではない。よく分からない根や、普通の猟師が持ち帰らない物なら、そちらへ行けという話だった。
表の棚には、乾いた葉と根が並んでいた。鬼太郎は瓶へ貼られた札を読み、帳場で草を束ねる老女へ声をかけた。
「森の中で採れる物について、伺えますか」
「売りに来たのかい」
「これから入るので、先に」
「何を採る」
「今は、何も。住める場所を探しています」
老女の指が止まった。
顔を上げ、鬼太郎を見る。次に、隣のキーノへ目を移した。
「宿で聞きな。空いてる家なら、あそこが知ってる」
「普通の猟師が、途中で引き返してしまう場所へ入りたいのです」
鬼太郎は窓から店先の通りを確かめた。キーノが外套の内側から仮杖の柄を見せると、老女は草の束を台へ置いた。
「しまいな」
札を裏返し、戸口へ鍵を掛ける。二人は棚の奥へ通された。
そこには、蓋を内側から叩く箱と、根がゆっくり動く鉢があった。キーノは近寄らず、机へ置かれた紙を見る。
老女が地図を広げた。
「知ってて入るなら、忠告だけで帰りゃしないね」
「入ってみて、無理なら戻ります」
「戻るつもりの奴でも、戻れん時はある」
鬼太郎は地図を覗いた。描かれているのは外周と、森へ近づく道だった。内側へ伸びる線は短く、途中で途切れていた。
「南から、こちらへ入りたいのですが」
自分の地図へ示していた候補を指す。
老女はその位置を見て、目を細めた。
「奥だね」
「入口の近くで、人と行き合い続ける場所は避けたいので」
「人を避けりゃ、別のものへ会うよ」
「それも、現地で確かめます。案内を頼める方はいませんか」
老女はすぐには答えなかった。
「この辺りの薬草を採る者ならいる。だが、そこまで送って、帰り道まで保証する奴は、あたしからは出せないよ」
鬼太郎は頷き、候補の印を動かさなかった。
代わりに、道が分かっている範囲を尋ねた。老女は森へ続く道と、雨の後に水が溜まりやすい低地を教える。それより奥については、歩いたことがないと言った。
「荷を持って、道を探しながらなら、二晩は見な。進むためだけに日が暮れるまで歩けば、寝る所を選べなくなる」
「途中に、建物は?」
「古い砦や見張り台が残ってる話はある。場所を売る奴もいるが、金を払った後で、崩れた壁だけ見せられても文句は言えないね」
キーノは、自分の帳面へ言葉を書いた。
「住んでる奴がいるかもしれないんだな」
「空いてりゃ、他の誰かも目をつける。雨を避けられる所は、森じゃ高いよ」
表の戸が叩かれた。
サーシェスだった。中へ通されると、老女の机と地図を見た。
「こっちも、ここへ来たか」
「どなたから聞きました?」
「森の薬を扱う店を辿ったら、この婆さんだとよ」
「耳はまだ売ってないよ」
老女が言った。
「聞こえる所で言ったんだ」
「なら、値段も聞こえるように言おうか」
鬼太郎が先に硬貨を置いた。サーシェスは笑い、机の端から地図を覗く。
森には、古くからマグルを遠ざける魔法がかかっている。
近づくと用事を思い出し、別の道を選びたくなる。魔法を知る者なら越えられるが、その先を守ってくれるものではない。
「罠もある。何かが引っかかってても、先に手を出すんじゃないよ」
「持ち主が見ている?」
「それもある。助ける奴を捕る仕掛けもね」
キーノのペンが止まった。
老女は彼女の方を見たまま、続けた。
「獣を追うのに上手い者と、人を相手にするのに上手い者は、同じじゃない。だが、どっちもあそこへ入る」
「覚えておきます」
鬼太郎は代金と、写した範囲を確かめた。
町へ戻った時にここが開いている日も聞いたが、老女は指を一本振った。
「店を閉める日もある。急ぎの頼みを持ってきて、必ずいると思うな」
「では、その時は別の方を探します」
「それならいい」
裏の鉢の根が、鉢の縁を越えようとしていた。老女は杖を向けてそれを押し戻し、地図を畳んだ。
◆
サーシェスは、町で仕事の話を受け取る先を見つけていた。
鬼太郎もその場所へ行き、本人がいない時に用件を残す方法を確かめた。返事を取りに来る予定はサーシェス自身が決める。森へ入った三人を、町からすぐ呼べるわけではなかった。
「戻ったら、先に顔を出す」
男は言った。
「その時に次の予定を決めましょう」
「ああ。今のうちから、毎週歩いて往復する気はねえぞ」
「まず、実際にどれほど掛かるかですね」
宿の部屋についても話をした。森から出てきた時に使いたいが、空室がなければ別を探す。今から、戻る日も決まらない部屋へ金を払い続けることにはしなかった。
最後に買ったのは、食料と水を入れる分の補充だった。
キーノは店の札を読み、分からない一語だけを鬼太郎へ尋ねた。必要な物を選び終えると、帳面へ店と通りの位置を残す。
出発の朝には、それぞれ自分の鍵を返した。
町にある扉のどれかが、必ず自分たちのために開くわけではない。それでも、話を残せる場所と、帰った時に尋ねる相手はできた。
北へ続く道は、家が途切れると細くなった。
古い標識が立つ場所で、鬼太郎は一度立ち止まる。
宿へ何かを忘れた気がした。
鞄の口を確かめようとしたところで、隣のキーノが眉を寄せた。
「戻る用事、あったか?」
「今、同じことを考えました」
足元の道は、森を避けるように曲がっている。
鬼太郎は進む方角を地図と合わせ、もう一歩、木々の方へ入った。忘れ物をしたという気持ちは薄れ、何を取りに戻ろうとしたのかも曖昧になった。
サーシェスが首の後ろを掻く。
「分かってても、気味はよくねえな」
「方角は変わっていません」
鬼太郎は答え、後ろの目印を振り返った。
キーノも帳面を開き、三人が来た道を記した。それから、今度は自分の足で標識を越えた。
◆
午前のうちに、歩ける道は細い獣道へ変わった。
木の根が地面から張り出し、落葉の下には水が溜まっている。地図へ定規で引いた線を、そのまま歩くことはできなかった。
鬼太郎は斜面を回り、振り返って形を確かめた。帰る時には、今見えている面が後ろになる。
「そこ、裏から見ると割れてる」
キーノが木の幹を指した。
鬼太郎は歩いて戻り、彼女の位置から見た。前からは太い一本の木だが、背面には大きな裂け目がある。
「こちらを描いておく方が、分かりやすいですね」
「入口を背にした絵だけじゃ、戻る時に迷うだろ」
彼女は自分の紙にも、その形を描いた。
サーシェスは少し先まで行き、立ち止まって二人を待っていた。道を知っているから先へ出ているのではない。周囲と、進めそうな地面を確かめている。
昼を過ぎても、中央寄りの候補には近づいた実感がなかった。
木々の間で空は小さくなり、町で見た山の形も分からなくなる。
鬼太郎は時々地図を開いた。歩いた時間と、回り込んだ場所を分けて書く。身体が疲れたことだけを、進んだ距離へ数えるわけにはいかなかった。
午後の光が傾き始めた時、サーシェスが低い尾根の脇を示した。
「今日は、あそこを見ておけ」
「まだ進めそうですが」
「見て、駄目なら別だ。暗くなってから比べるか?」
鬼太郎は地図をしまい、示された場所へ向かった。
地面は周囲より高く、水の流れた跡はない。頭上の枝に折れかけたものがないかも確かめ、三人で荷を下ろした。
雨避けの布を張る時には、英国で決めた出入り口を先に空けた。
キーノは寝具を置き、横になってから起き上がる。袋の位置を少し動かすと、外へ出る時に足を取られずに済んだ。
「ここなら、通れる」
「では、重い物は奥へ寄せます」
鬼太郎は鞄を寝具の脇へ固定した。上着の内側の包みには湿りがない。ケストレルを抜く手も、布や紐へ当たらなかった。
夕食を終えると、三人は明るさの残るうちに周囲を見直した。
誰が休み、誰が起きているかを決める。鬼太郎が一番先に横になると、キーノは少し意外そうに見た。
「眠れるのか」
「次に起きる時間まで、休んでおきます」
「本は?」
「濡らしたくありませんし、今は読む方が疲れそうです」
キーノは鼻から短く息を出した。
「それは、そうだな」
夜になると、獣の声が聞こえた。
遠いものと、近いものがある。布の外で枝が鳴るたび、鬼太郎は目を開きかけた。
そのたびに起き上がることはしなかった。眠った時間が短いまま歩けば、明日は足元も見落とす。
次に肩へ触れられた時には、身体に残っていた重さが少し抜けていた。
◆
二日目、鋼線を見つけたのはキーノだった。
木の根元から、不自然な線が落葉の下へ伸びていた。彼女は手を触れず、後ろの鬼太郎を呼んだ。
サーシェスが周囲を見る間に、鬼太郎は離れた位置から仕掛けを確かめる。
少し先には、同じ形の罠が作動した跡があった。血は乾き、鋼線へ銀色の毛が絡んでいる。地面には何かを引いた跡と、車輪の跡が残っていた。
「持っていったんだな」
キーノが言う。
「ここから先へ運んだようです。生きていたかは、まだ分かりません」
鬼太郎は向きと目印を紙へ記した。
動かしてよい部分をサーシェスと確かめ、帰りに踏む危険を残さない形へ罠を崩す。見つけたからと、跡を追って進路を全て変えることはしなかった。
荷を背負い直してから、三人は地面を見る回数を増やした。
その先で、人の声がした。
「止まれ」
男が木の陰から出てきた。右手に杖を持ち、こちらの荷へ目を向けている。
鬼太郎は足を止めた。
左の茂みで金属が光った。後ろにも、落葉を踏む音が一つ。
キーノは太い幹の右へ寄り、声を出さずに指を二本立てた。正面以外に、二人。
「鞄を下ろせ。腰の銃もだ」
男は鬼太郎を見て言った。
「道を空けていただけませんか。今日は、先へ行きたいので」
「聞こえなかったか?」
「ええ。僕のお願いも、聞こえていたようですね」
男の杖が上がった。
鬼太郎の右手は、もう握りへ届いていた。ケストレルが布へ引っかからず抜ける。
銃声が木々へ返った。
男は胸を押さえ、杖先を下げながら倒れた。ほぼ同時に、左の茂みでもサーシェスの銃が鳴る。
背後で、誰かが息を呑んだ。
鬼太郎は幹へ身体を寄せながら振り返った。猟銃を上げようとしている男がいる。銃口が自分へ向く前に、二発目を撃った。
男の身体が後ろへ倒れる。
鬼太郎は銃を向けたまま、動く手と、ほかの音がないかを確かめた。
キーノは幹の陰にいる。
サーシェスが位置を変え、左の男から離れた。
「こっちは終わりだ」
「こちらも」
正面の男が落とした杖を遠ざけ、隠れていた者がほかにいないことを見てから、鬼太郎は銃口を下げた。
男たちの荷には、罠と縄、小瓶、血のついた刃物があった。
森の中を知る地図は出てこなかった。小瓶は開けずに厚布で包み、持ち主が分かる印をつけて別の区画へ収めた。使える物と書類、硬貨もまとめ、サーシェスと回収分を確かめる。
「獣を捕る方が、上手かったようですね」
鬼太郎が言うと、サーシェスは倒れた男の杖を見た。
「人間も、同じように待つと思ってたんだろうよ」
キーノは男たちがいた茂みを見た。
「罠のそばを通る奴も、見てたのかもしれないな」
「ええ。戻る時には、この場所を避けましょう」
鬼太郎は紙へ印を加えた。
ケストレルを戻すと、今度は握りを見なかった。抜く時も、続けて撃つ時も、指の位置を直す必要はなかった。
手首へ痛みはない。
ペタルへ話せることが、一つできた。
◆
二度目の夜は、銃声のした場所から進路をずらした先で迎えた。
同じ所を歩けば、見つけた罠を避けやすい。だが、ほかの人間が通る道でもある。
三人は明るいうちに場所を選び、次の朝に元の方角へ戻れる目印を確かめた。
食事の後、キーノが帳面を開いた。
最初の日より、線が増えていた。水を避けた場所、罠と人間に会った場所、泊まった場所。同じ一本の道として描けば、分からなくなる。
「これ、明日戻るなら、こっちを通るんだな」
「ええ。あの斜面を越えたら、一日目の道へ合流できます」
「先へ行く方は?」
鬼太郎は地図へ指を置いた。
「明日は、この辺りを見ます。水を得られて、休む場所も作れそうなら、そこから広げます」
「もう、中央に近いのか?」
「入口から十分奥へ来ています。ですが、地図に置いた印へ着いたと言い切るには、目印が足りませんね」
キーノは自分の図と比べた。
鬼太郎は、候補を示した丸を消さなかった。その手前へ、二晩目の印をつける。
「森の方に伺えれば、別の道も分かるでしょう。会えれば、ですが」
暗がりで、サーシェスが笑った。
「先に、こっちを売り物にしねえ奴ならな」
「その条件は、お願いしておきたいですね」
キーノは帳面を閉じた。
最初の晩より、布の外を見続ける時間は短かった。夜の音に慣れたからといって、安全になったわけではない。
鬼太郎も靴をすぐ履ける位置へ置き、休む順が来ると横になった。
森には、まだ屋根の形が見えなかった。
それでも、戻るために見直せる紙は増えていた。
翌朝、布を畳んだ地面には、三人の寝た跡が残った。
鬼太郎は杭を抜き、数を確かめて袋へ入れる。サーシェスが先に周囲を見て戻り、キーノは荷の紐を肩へ合わせた。
三日目の光は、葉の上にあった。
木々の下は、まだ薄暗い。
荷を背負って歩き始めたところで、鬼太郎は足を止めた。
前方から、何かが近づいている。
枝を避けず、何度もぶつかる音だった。
サーシェスも気づき、銃へ手をかける。キーノが道の脇へ退き、進んでくるものを見る。
茂みが揺れた。
「助けて」
女の声がした。