第五十一話 檻の外では、服を選ぶ
次の食事も出る。
その言葉が本当かどうかを、キーノは三度確かめた。
朝には、薄く煮た麦の粥と卵。
昼には、刻んだ肉を入れたスープと黒パン。
夜には、柔らかく煮た豆と、塩気の薄い魚。
どれも治療所の食事で、見世物小屋の客へ出されていたものより質素だった。
だが、キーノの器へ最初から分けられていた。
食べ終えても、身体を切られなかった。
残しても、取り上げられなかった。
翌朝になれば、また別のものが置かれた。
四度目から、キーノはパンを毛布の下へ隠さなくなった。
残さなくなったわけではない。
半分を布へ包み、寝台脇の卓へ置く。
誰の目にも見える場所だった。
「それなら、黴が生える前に分かりますね」
隣の寝台から鬼太郎が言った。
「お前に見せるためじゃない」
「ええ。キーノさんが後で食べるためでしょう」
鬼太郎は、二日前から上体を起こせるようになっていた。
背中には丸めた毛布を挟み、左腕はまだ深く曲げない。右脇腹の下には包帯が巻かれている。閉じた傷を覆うためではなく、急に身体を捻らないよう意識させるためだと、治療師は説明していた。
床へ下りたのは、昨日が初めてだった。
三歩進み、壁へ手をつく前に寝台へ戻された。
今朝は七歩だった。
七歩目で顔から血の気が引き、治療師に襟を掴まれた。
「今日のところは、それで終わりだ」
「まだ倒れてはいませんよ」
「倒れてから止めたら、床の修理代も取るよ」
「では、明日は八歩にしましょう」
「そういう意味じゃない」
治療師が離れる。
キーノは壁へ肩を預けたまま、鬼太郎を見た。
「弱いな」
「現在は、否定できませんね」
「あれだけ殺しておいて、七歩か」
「殺せることと、血が足りていることは別です」
「言い訳だけは立派だ」
「事実を区別しただけですよ」
息は少し速い。それでも声には笑いが混じっていた。
キーノは自分の寝台まで歩く。
壁から手を離して進める距離は、鬼太郎より長かった。
ただし、寝台の縁へ座ったときには脚が震えている。
鬼太郎はそこを見たが、何も言わなかった。
できないことを笑わない。
できたことだけを、勝手に大きくもしない。
見世物小屋にいた者たちは逆だった。
立てなくても、傷が閉じれば舞台へ出した。
泣かなければ、痛くないのだと言った。
痛いと言えば、客が喜ぶからもう一度切った。
鬼太郎は、壁から手を離せたことを褒めなかった。
まだ歩けるようになったとは言えないからだ。
その方が、キーノには分かりやすかった。
◆
四日目の午後、治療師が二人の寝台の間へ椅子を置いた。
座ったのは、治療師ではない。
灰色の外套を着た、背の低い女だった。
足元には、革紐で縛った大きな包みが三つある。
「これが客かい」
「名前は聞くな。ここに来た理由もだ」
治療師が答える。
「聞いたら値段を上げていいのか」
「次から呼ばない」
「それは困るね」
女は包みを解いた。
シャツ、ズボン、上着、靴。古着ばかりだが、洗われ、破れた箇所には補修が入っている。
色は茶、灰色、濃紺。街中へ出ても目を引かないものが多い。
キーノは、寝台脇に畳まれた自分の衣装を見た。
乾いた血は落とされている。
それでも布のあちこちに切れ目があり、見世物として目立たせるための飾りが残っていた。
「それでは外を歩けません」
鬼太郎が言った。
「歩ける」
「歩くことはできるでしょう。ただ、あの劇場を知る者に見つけてもらう格好になります」
「なら、お前が決めろ」
「僕が?」
キーノは鬼太郎を見る。
「お前が呼んだんだろ。必要なものも分かってる」
「必要なのは、替えを含めて二組の服と、上着と靴です。ただ、どれを着るかまで僕が決める理由はありません」
「何でも同じだ」
「本当に?」
古着商の女が、二枚のシャツを掲げた。
一枚は薄い生成りで、もう一枚は灰色だった。
「こっちは軽いが、肘が弱ってる。こっちは少し重いが、縫い直してある。値段は同じだよ」
キーノは答えなかった。
女は次に二本のズボンを置いた。
「片方は腰紐。片方は留め具だ。靴は三足。履けるかは足を入れてみな」
「好きな色を選べという話ではありません」
鬼太郎が言う。
「走るときに邪魔にならないか。破れにくいか。隠したいものを持てるか。選ぶ理由は、それで十分ですよ」
キーノは灰色のシャツを手に取った。
布を左右へ引く。
裏返し、縫い目へ指を滑らせる。
袖を通す前に、首元へ紐や金具がないことを確かめた。
次にズボンを持ち上げる。
腰の留め具を三度開閉した。
足首を締める革紐のついた一本は、すぐ脇へ避けた。
「これはいらない」
「丈夫だよ」
「足へ巻くものは邪魔だ」
古着商は肩をすくめ、別の一本を出した。
キーノは着替え用の衝立の裏へ入る。
治療師が手伝おうとすると、布越しに声が飛んだ。
「触るな。自分でやる」
「転んだら呼びな」
「転ばない」
時間はかかった。
だが、衝立が動いたとき、キーノは自分で立っていた。
灰色のシャツ。黒に近い茶のズボン。底の厚い編み上げ靴。
どれも少し余裕があり、身体の線を飾るためには作られていない。
キーノはその場で膝を曲げた。
腕を前へ出し、腰を捻る。
数歩進んで止まり、靴底を床へ擦りつけた。
「どうだい」
「走らないと分からない」
「今走ったら、服より先に治療師が怒りますよ」
「お前は黙ってろ」
それでも脱ごうとはしなかった。
もう一組には濃紺のシャツと灰色のズボンを選ぶ。上着は、丈が短く、腕を上げても裾が脚へ絡まないものにした。
最後にキーノは、報酬の布袋を取り出した。
上着の外側には浅いポケットが一つだけある。
袋を入れ、二度跳ねた。
硬貨が鳴り、口から半分はみ出した。
「内側につけられるか」
古着商が眉を上げる。
「どの辺に?」
キーノは上着を脱ぎ、自分の脇腹より少し前を指した。
「ここ。手を入れやすくて、外から見えないようにしろ。走っても落ちない蓋もいる」
「注文が多いね」
「できないのか」
「できるよ。別料金だ」
「では、お願いします」
鬼太郎が答えた。
キーノが振り返る。
「まだ私の話だ」
「失礼しました。決めるのはキーノさんですね」
「つけろ」
「はいよ」
古着商は針箱を取り出した。
上着の裏へ布を当て、キーノが示した位置に印をつける。
鬼太郎は、その手元を見てから言った。
「良い位置だと思います。外から膨らみが見えにくく、利き手でも反対の手でも届きます」
「褒めても何も出ないぞ」
「何も求めていません。良かったから、そう言っただけです」
キーノは鼻を鳴らした。
古着商は何も聞かなかった。
ただ、針を進める手が一度だけ止まり、それから前より早く動いた。
◆
代金を示されると、キーノは自分の袋を開いた。
硬貨を掌へ出す。
金貨と銀貨と銅貨の違いは教わった。だが、服一組とパン一個の値段がどう違うのかは、まだ頭の中でつながっていない。
「どれだ」
古着商へ尋ねる。
「その銀貨なら――」
「衣服代は、僕が払います」
鬼太郎が言った。
キーノの目が細くなる。
「私の服だ」
「ええ」
「なら、私が払う」
「その必要はありません」
「後で取り立てないと言ったからか?」
「それもあります」
「ほかは」
鬼太郎は、硬貨を選びながら答えた。
「僕が、寝床と食事を用意する条件であなたを誘いました。街へ出るのに必要な服も、その中へ含めます」
「勝手に決めるな」
「では、こうしましょう」
鬼太郎は支払いの手を止めた。
「今選んだ二組と上着、靴は、同行するために必要な最低限として僕が払います。それより高いものや、必要ではないものを欲しくなったときは、キーノさんの報酬から買う。これでどうです?」
「最低限かどうかは、誰が決める」
「意見が割れたら、その都度話します」
「お前が最後に決めるんじゃないだろうな」
「合意できなければ、僕は払いません。キーノさんは自分の金で買うか、買わないかを選べます」
命令ではない。
断った後に鞭が来る形でもない。
キーノは掌の硬貨を袋へ戻した。
「今回は、お前が払え」
「分かりました」
「この金は私のままだな」
「もちろんです」
鬼太郎は古着商へ代金を渡した。
枚数を読み上げ、釣りを一緒に確認する。
キーノも横から見ていた。
何を渡し、何が返ってきたのか。
鬼太郎は一度も、見なくていいとは言わなかった。
◆
五日目の朝、治療師は鬼太郎の包帯を外した。
右脇腹には、まだ大きな傷痕が残っている。
皮膚は閉じ、熱もない。
左腕と左脚の傷も塞がっていた。
「歩く。食べる。眠る。そこまでは自分でやっていい」
「戦うのは?」
「聞く必要があるのかい」
「確認です」
「駄目だ。走るな。重いものを持つな。強い魔法も使うな。目眩がしたら座れ。血を戻す薬は指示した量以上に飲むな」
「分かりました」
「返事だけなら満点だね」
治療師は次にキーノを見る。
「あんたも同じだよ。傷が閉じるからって、血まで湧いてくるわけじゃない」
「分かってる」
「そっちは返事が零点だ」
「内容が分かればいいだろ」
治療師は二人を見比べ、深く息を吐いた。
「今夜まで置いておきたいところだが、あんたたちの顔を探す連中がいないとも限らない。移る場所があるなら、昼のうちに行きな」
鬼太郎はすでに、治療所の使いへ手紙を持たせていた。
以前から使っている建物に、空き部屋が一つある。
自分の個室と同じ階。廊下を挟んだ斜め向かいだった。
長く使う場所ではない。
より広く、出入りを監視しやすい場所を見つけるまでの仮の寝床として、鬼太郎は一月分を先に払った。
条件は、錠を新しいものへ替えること。
できた鍵を、一本も家主へ残さないこと。
「お前の部屋じゃないのか」
キーノが尋ねた。
「僕の部屋には、寝台が一つしかありません」
「床で寝ればいい」
「どちらが?」
「お前だ」
「それは困りますね」
「なら、私が床でもいい」
「そういう問題ではありません」
鬼太郎は小卓に置いてあった〈シュライク〉を取った。
弾倉を外し、残った弾を確かめる。
六発使ったまま、まだ補充していない。
今の手で完全な整備をする気はなかった。弾倉を戻し、専用ホルスターへ収める。
「キーノさんが一人になりたいとき、僕が同じ部屋にいれば邪魔でしょう」
「追い出せばいい」
「僕の部屋から僕を?」
「嫌なら最初から入れるな」
「ですから、別の部屋にしました」
キーノは少し黙った。
「私を閉じ込めるためじゃないだろうな」
「鍵はキーノさんへ渡します」
「何本ある」
「二本です」
「予備は?」
「その二本だけです」
「お前も持つのか」
「いいえ。両方とも、あなたに」
キーノは新しい上着の内側へ手を入れた。
報酬袋は、蓋のついたポケットに収まっている。
走ってはいないが、歩いても落ちなかった。
「返事をしなかったら?」
「緊急でなければ帰ります」
「倒れてると思ったら?」
「扉を壊します」
「鍵を持っていないのにか」
「扉なら壊せます」
鬼太郎は穏やかに言った。
キーノは、その右脇腹の傷痕を見る。
「今のお前には無理だ」
「今すぐ倒れないでください」
「指図するな」
「忠告です」
「同じだ」
二人を見ていた治療師が、堪えきれずに鼻で笑った。
◆
治療所を出るとき、キーノは古い衣装を捨てなかった。
布へ包み、自分で抱えた。
「持っていくのですか?」
「悪いか」
「いいえ。キーノさんのものです」
好きで着ていたものではない。
だが、捨てろと言われて捨てるのも気に入らなかった。
いつ手放すかは、自分で決める。
治療所が用意した幌つきの馬車には、帳簿類と鬼太郎の取り分を入れた箱も積まれた。御者は行き先だけを聞き、二人の名前を聞かなかった。
鬼太郎は窓際へ座った。
揺れるたび、右手を座席へ置いて身体を支える。
キーノは向かいから、その手を見ていた。
「銃を持ってきた意味があるのか」
「撃てないとは言っていません」
「当たるのか」
「普段よりは落ちるでしょうね」
「役に立たないじゃないか」
「役に立つ状況を作らないために、幌を閉じています」
鬼太郎は窓布の隙間から、後ろの通りを見る。
同じ角を曲がる人影はない。
サーシェスはいない。
契約前の彼は、すでに別の仕事を探しているはずだった。
鬼太郎はそれを止めなかった。
今ここにいない者へ、決まっていない義務を負わせるつもりはない。
馬車は二度大通りを外れ、昼過ぎに古い煉瓦造りの建物へ着いた。
先に降りたキーノが、入口の左右を確かめる。
窓の数。路地の幅。屋根へ上がれそうな雨樋。裏へ抜ける細道。
「中にも階段が二つあります」
鬼太郎が言った。
「一つは奥の台所脇です。表が塞がれた場合は、そちらから出られます」
「先に言え」
「外から見て、どこまで分かるか見ていました」
「試したのか」
「ええ」
キーノが睨む。
「結果は?」
「雨樋は途中が腐っています。使えば音が出るでしょう。裏路地を先に見る判断は正しいと思います」
「当然だ」
「お見事です」
「それを何度も言うな」
「正しくできたことを言わない理由がありません」
キーノは先に建物へ入った。
◆
新しい部屋には、寝台と机と椅子が一つずつあった。
窓は一つ。
内側から掛ける金具がある。
暖炉は小さく、灰が残っている。床板は古いが、踏んだだけで抜ける箇所はない。
キーノは扉を開けたまま、部屋の中を調べた。
寝台の下。
窓枠の外。
机の引き出し。
暖炉の煙道。
壁を指の関節で叩き、音の違う場所がないか確かめる。
鬼太郎は廊下で待った。
荷を運んだ御者が帰っても、中へ入らない。
「何をしてる」
キーノが扉から顔を出した。
「確認が終わるのを待っています」
「勝手に入ればいいだろ」
「ここは、キーノさんの部屋ですよ」
鬼太郎は二本の鍵を差し出した。
どちらも新しく、同じ傷一つない形をしている。
キーノは一本だけ取った。
「もう一本は、お前が持て」
「よろしいのですか?」
「二本とも持っていたら、同じ場所でなくすかもしれない。だから預ける」
「分かりました。許可なく使いません」
「使ったら噛みつく」
「覚えておきます」
キーノは部屋へ戻った。
窓の金具を外し、外へ開く。
下には細い路地がある。飛び降りれば無傷では済まない高さだが、布を結べば届くかもしれない。
扉の錠も、内側からなら鍵なしで開く。
外から閉じられ、内側から出られなかった鉄台とは違う。
「入っていい」
鬼太郎は、それから敷居を越えた。
持ってきた箱を机の上へ置く。
中には水差し、乾燥肉、パン、布、石鹸、蝋燭が入っていた。
「足りないものがあれば言ってください」
「言えば買うのか」
「必要なものなら」
「本」
鬼太郎の手が止まった。
「何についての本です?」
「知らない」
「それでは選べませんね」
「金の使い方。この街のこと。魔法使いのこと」
キーノは、少し考えてから続けた。
「魔法の本もだ」
「使えるかは、まだ分かりませんよ」
「だから試す。何も知らないまま、使えないと決めるのは気に入らない」
鬼太郎は小さく笑った。
「僕も同意見です」
「お前は知ってるだろ」
「いいえ」
「魔法使いを何人も殺したのにか?」
「殺し方を知っていることと、同じ技術を使えることは別ですよ」
鬼太郎は右の掌を上へ向ける。
炎は出さない。
治療師から、強い魔法を使うなと言われたばかりだった。
「僕が使ってきたものは、彼らの杖魔法とは別です。杖を振って呪文を学んだ経験はありません」
「一度も?」
「ええ。杖を手に入れてからも、依頼、銃、身体、僕自身の魔法へ時間を使ってきました。生き残るための優先順位では、杖魔法は後でした」
「今は?」
「学ぶ余裕ができました」
キーノは鬼太郎を見る。
「私に教えるんじゃないのか」
「一緒に学ぶことになりそうですね」
◆
鬼太郎の部屋の錠も、以前に交換してある。
治療所から持ち帰ったウォードの杖は、机の端へ別に置いた。あれは漏れ鍋奥の壁を開く鍵として、すでに役目が確かめられている。今は試し撃ちへ混ぜない。
自分の鍵で扉を開け、床板の一枚を外す。
布へ包み、互いに触れないよう離して保管していた三本の杖を取り出した。
最初の襲撃者から得た一本。
薬品商の地下へ侵入した二人から得た二本。
どれも、鬼太郎のものではない。
持ち主を選び、持ち主だった者の癖を残している。
そのうち一本は、攻撃の魔法を多く通したらしいと鑑定されていた。
「折れても知りませんよ」
鬼太郎は三本を机へ並べた。
「お前の物じゃないのか」
「敵から奪ったものです。道具としては僕が保管していますが、僕を選んだ杖ではありません」
「なら同じだ」
キーノは端の一本へ手を伸ばした。
「待ってください」
「何だ」
「強く握らず、まず触れるだけにしてください。何が起きるか分かりません」
「怖いのか」
「未知の道具を警戒しています」
「同じだろ」
「怖くても警戒はできます。怖くなくても警戒は必要です」
キーノは返事の代わりに、指先で一本目へ触れた。
何も起きない。
握って持ち上げる。
杖先がわずかに震えたが、それだけだった。
二本目は、掌へ押し返すような硬い感覚があった。
「気に入らない」
「どのように?」
「持つなと言われてるみたいだ」
「では、無理に使う必要はありません」
三本目へ触れる。
キーノの指が木肌を包んだ瞬間、杖先で白い火花が一つ弾けた。
キーノは手を離さなかった。
机の上へ落ちた光が、消えるまで見ていた。
「今のは、お前がやったのか」
「いいえ」
「なら、私か」
「杖がキーノさんへ反応した、と考える方が近いでしょう」
「これが一番ましだ」
「僕もそう思います。正式な杖を得るまで、仮に使ってみましょう」
鬼太郎は三本目だけをキーノの前へ残した。
残る二本を、自分の側へ引く。
以前に買っていた薄い入門書を開いた。
魔法界の文字と基本的な用語を知るために手に入れた本だ。文章は読んだ。杖の動きを図で見たこともある。
だが、練習へ時間を使ったことは一度もなかった。
最初の項目は、杖先へ明かりを灯す呪文だった。
物を持ち上げるより危険が少なく、狭い部屋でも試せる。
鬼太郎は窓掛けを半分閉じた。
「呪文は、ルーモス。動きは――この図のとおりです」
「お前が先にやれ」
「僕も初めてですよ」
「だからだ。失敗したら笑える」
「それは楽しそうですね」
鬼太郎は、最初の一本を握った。
拒絶されるような感覚は薄い。
それでも、自分の手の延長には感じられなかった。
右腕を上げ、図に沿って杖先を動かす。
「ルーモス」
何も起きない。
キーノが言った。
「下手だな」
「まだ一度目です」
「成功しなかった」
「それは事実ですね」
二度目。
杖先から乾いた音だけがした。
三度目には、鬼太郎は流す力を変えた。
体内には二つの流れがある。
今世の肉体に生まれた魔力。
それとは別に、炎や氷、電撃、衝撃を形にするMAG。
杖へ向けて現世の魔力だけを送り出そうとすると、MAGが同じ道へ重なる。混ざり合うのではない。狭い出口で互いに押し合い、流れを鈍らせる。
それでも力を通す。
「ルーモス」
針の先ほどの白い光が生まれた。
瞬きをする間もなく消える。
「弱い」
「ええ。驚くほど弱いですね」
「その杖が悪いんじゃないのか」
「可能性はあります」
鬼太郎はもう一本へ替えた。
同じ動き。同じ発音。
今度は火花すら出ない。
胸の奥から腕へ向かった魔力が、MAGとぶつかり、さらに杖の中で他人の癖へ引っかかった。
原因は一つではない。
未熟な使い手。
他人を選んだ杖。
異なる二つの力。
鬼太郎は入門書の余白へ、三つを書き留めた。
「悔しくないのか」
「なぜです?」
「できないんだぞ」
「できない理由が、いくつか分かりました」
「それで満足か」
「いいえ。次は、一つずつ分けて確かめます」
鬼太郎は杖を机へ置いた。
「ただし今日はここまでです。治療師さんとの約束がありますから」
「さっきのが強い魔法か?」
「今の僕には、思ったより負担でした」
顔色は、馬車を降りたときより白い。
キーノはそれを見て、仮の杖を取った。
「次は私だ」
「どうぞ」
本を自分の方へ向ける。
杖の動きを一度見る。
キーノは文字より先に図を覚えた。
舞台で刃が来る方向を読んだときと同じように、手首の角度と止める位置を目で測る。
杖を振った。
「ルーモス」
何も起きない。
鬼太郎は笑わなかった。
二度目。
白い火花が二つ飛んだ。
三度目。
杖先に、小さな光が灯る。
蝋燭より弱い。
揺れ、今にも消えそうだった。
それでも、鬼太郎の光より長く残った。
キーノは息を止めたまま、白い点を見た。
誰かに切られたから起きたことではない。
血を流したから見せられたものでもない。
自分で本を見て、自分で杖を振り、自分で生んだ光だった。
五つ数える前に、光は消えた。
「今のところ、私の方が上だな」
キーノが言った。
「ええ。現時点では、キーノさんの勝ちです」
「言い訳しないのか」
「勝ったのはキーノさんですから」
鬼太郎は入門書の次の頁をめくった。
「お見事でした。図を見て、二度目で手首の角度を直していましたね」
「見てたのか」
「一緒に学んでいますので」
机の上には、二本の借り物の杖と、一本の仮の杖がある。
どちらも、自分の杖を持っていない。
どちらも、杖魔法を知らない。
同じ頁から始めても、流れる力は同じではなかった。
「では、追いつくことにしましょう」
「追い越してから言え」
キーノは立ち上がり、鬼太郎を部屋の外へ押し出した。
「もう出ろ。眠い」
「分かりました。明日の食事は――」
「自分で食う。忘れない」
「本はここへ置いていきます」
「言われなくても返さない」
扉が閉まる。
鬼太郎は預かった予備の鍵を使わず、自分の部屋へ戻った。
廊下の向こうで、金属の動く音がする。
キーノが自分の手で、内側から鍵を掛けた音だった。