神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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檻の外では、服を選ぶ

 

第五十一話 檻の外では、服を選ぶ

 

 

 次の食事も出る。

 

 その言葉が本当かどうかを、キーノは三度確かめた。

 

 朝には、薄く煮た麦の粥と卵。

 

 昼には、刻んだ肉を入れたスープと黒パン。

 

 夜には、柔らかく煮た豆と、塩気の薄い魚。

 

 どれも治療所の食事で、見世物小屋の客へ出されていたものより質素だった。

 

 だが、キーノの器へ最初から分けられていた。

 

 食べ終えても、身体を切られなかった。

 

 残しても、取り上げられなかった。

 

 翌朝になれば、また別のものが置かれた。

 

 四度目から、キーノはパンを毛布の下へ隠さなくなった。

 

 残さなくなったわけではない。

 

 半分を布へ包み、寝台脇の卓へ置く。

 

 誰の目にも見える場所だった。

 

「それなら、黴が生える前に分かりますね」

 

 隣の寝台から鬼太郎が言った。

 

「お前に見せるためじゃない」

 

「ええ。キーノさんが後で食べるためでしょう」

 

 鬼太郎は、二日前から上体を起こせるようになっていた。

 

 背中には丸めた毛布を挟み、左腕はまだ深く曲げない。右脇腹の下には包帯が巻かれている。閉じた傷を覆うためではなく、急に身体を捻らないよう意識させるためだと、治療師は説明していた。

 

 床へ下りたのは、昨日が初めてだった。

 

 三歩進み、壁へ手をつく前に寝台へ戻された。

 

 今朝は七歩だった。

 

 七歩目で顔から血の気が引き、治療師に襟を掴まれた。

 

「今日のところは、それで終わりだ」

 

「まだ倒れてはいませんよ」

 

「倒れてから止めたら、床の修理代も取るよ」

 

「では、明日は八歩にしましょう」

 

「そういう意味じゃない」

 

 治療師が離れる。

 

 キーノは壁へ肩を預けたまま、鬼太郎を見た。

 

「弱いな」

 

「現在は、否定できませんね」

 

「あれだけ殺しておいて、七歩か」

 

「殺せることと、血が足りていることは別です」

 

「言い訳だけは立派だ」

 

「事実を区別しただけですよ」

 

 息は少し速い。それでも声には笑いが混じっていた。

 

 キーノは自分の寝台まで歩く。

 

 壁から手を離して進める距離は、鬼太郎より長かった。

 

 ただし、寝台の縁へ座ったときには脚が震えている。

 

 鬼太郎はそこを見たが、何も言わなかった。

 

 できないことを笑わない。

 

 できたことだけを、勝手に大きくもしない。

 

 見世物小屋にいた者たちは逆だった。

 

 立てなくても、傷が閉じれば舞台へ出した。

 

 泣かなければ、痛くないのだと言った。

 

 痛いと言えば、客が喜ぶからもう一度切った。

 

 鬼太郎は、壁から手を離せたことを褒めなかった。

 

 まだ歩けるようになったとは言えないからだ。

 

 その方が、キーノには分かりやすかった。

 

     ◆

 

 四日目の午後、治療師が二人の寝台の間へ椅子を置いた。

 

 座ったのは、治療師ではない。

 

 灰色の外套を着た、背の低い女だった。

 

 足元には、革紐で縛った大きな包みが三つある。

 

「これが客かい」

 

「名前は聞くな。ここに来た理由もだ」

 

 治療師が答える。

 

「聞いたら値段を上げていいのか」

 

「次から呼ばない」

 

「それは困るね」

 

 女は包みを解いた。

 

 シャツ、ズボン、上着、靴。古着ばかりだが、洗われ、破れた箇所には補修が入っている。

 

 色は茶、灰色、濃紺。街中へ出ても目を引かないものが多い。

 

 キーノは、寝台脇に畳まれた自分の衣装を見た。

 

 乾いた血は落とされている。

 

 それでも布のあちこちに切れ目があり、見世物として目立たせるための飾りが残っていた。

 

「それでは外を歩けません」

 

 鬼太郎が言った。

 

「歩ける」

 

「歩くことはできるでしょう。ただ、あの劇場を知る者に見つけてもらう格好になります」

 

「なら、お前が決めろ」

 

「僕が?」

 

 キーノは鬼太郎を見る。

 

「お前が呼んだんだろ。必要なものも分かってる」

 

「必要なのは、替えを含めて二組の服と、上着と靴です。ただ、どれを着るかまで僕が決める理由はありません」

 

「何でも同じだ」

 

「本当に?」

 

 古着商の女が、二枚のシャツを掲げた。

 

 一枚は薄い生成りで、もう一枚は灰色だった。

 

「こっちは軽いが、肘が弱ってる。こっちは少し重いが、縫い直してある。値段は同じだよ」

 

 キーノは答えなかった。

 

 女は次に二本のズボンを置いた。

 

「片方は腰紐。片方は留め具だ。靴は三足。履けるかは足を入れてみな」

 

「好きな色を選べという話ではありません」

 

 鬼太郎が言う。

 

「走るときに邪魔にならないか。破れにくいか。隠したいものを持てるか。選ぶ理由は、それで十分ですよ」

 

 キーノは灰色のシャツを手に取った。

 

 布を左右へ引く。

 

 裏返し、縫い目へ指を滑らせる。

 

 袖を通す前に、首元へ紐や金具がないことを確かめた。

 

 次にズボンを持ち上げる。

 

 腰の留め具を三度開閉した。

 

 足首を締める革紐のついた一本は、すぐ脇へ避けた。

 

「これはいらない」

 

「丈夫だよ」

 

「足へ巻くものは邪魔だ」

 

 古着商は肩をすくめ、別の一本を出した。

 

 キーノは着替え用の衝立の裏へ入る。

 

 治療師が手伝おうとすると、布越しに声が飛んだ。

 

「触るな。自分でやる」

 

「転んだら呼びな」

 

「転ばない」

 

 時間はかかった。

 

 だが、衝立が動いたとき、キーノは自分で立っていた。

 

 灰色のシャツ。黒に近い茶のズボン。底の厚い編み上げ靴。

 

 どれも少し余裕があり、身体の線を飾るためには作られていない。

 

 キーノはその場で膝を曲げた。

 

 腕を前へ出し、腰を捻る。

 

 数歩進んで止まり、靴底を床へ擦りつけた。

 

「どうだい」

 

「走らないと分からない」

 

「今走ったら、服より先に治療師が怒りますよ」

 

「お前は黙ってろ」

 

 それでも脱ごうとはしなかった。

 

 もう一組には濃紺のシャツと灰色のズボンを選ぶ。上着は、丈が短く、腕を上げても裾が脚へ絡まないものにした。

 

 最後にキーノは、報酬の布袋を取り出した。

 

 上着の外側には浅いポケットが一つだけある。

 

 袋を入れ、二度跳ねた。

 

 硬貨が鳴り、口から半分はみ出した。

 

「内側につけられるか」

 

 古着商が眉を上げる。

 

「どの辺に?」

 

 キーノは上着を脱ぎ、自分の脇腹より少し前を指した。

 

「ここ。手を入れやすくて、外から見えないようにしろ。走っても落ちない蓋もいる」

 

「注文が多いね」

 

「できないのか」

 

「できるよ。別料金だ」

 

「では、お願いします」

 

 鬼太郎が答えた。

 

 キーノが振り返る。

 

「まだ私の話だ」

 

「失礼しました。決めるのはキーノさんですね」

 

「つけろ」

 

「はいよ」

 

 古着商は針箱を取り出した。

 

 上着の裏へ布を当て、キーノが示した位置に印をつける。

 

 鬼太郎は、その手元を見てから言った。

 

「良い位置だと思います。外から膨らみが見えにくく、利き手でも反対の手でも届きます」

 

「褒めても何も出ないぞ」

 

「何も求めていません。良かったから、そう言っただけです」

 

 キーノは鼻を鳴らした。

 

 古着商は何も聞かなかった。

 

 ただ、針を進める手が一度だけ止まり、それから前より早く動いた。

 

     ◆

 

 代金を示されると、キーノは自分の袋を開いた。

 

 硬貨を掌へ出す。

 

 金貨と銀貨と銅貨の違いは教わった。だが、服一組とパン一個の値段がどう違うのかは、まだ頭の中でつながっていない。

 

「どれだ」

 

 古着商へ尋ねる。

 

「その銀貨なら――」

 

「衣服代は、僕が払います」

 

 鬼太郎が言った。

 

 キーノの目が細くなる。

 

「私の服だ」

 

「ええ」

 

「なら、私が払う」

 

「その必要はありません」

 

「後で取り立てないと言ったからか?」

 

「それもあります」

 

「ほかは」

 

 鬼太郎は、硬貨を選びながら答えた。

 

「僕が、寝床と食事を用意する条件であなたを誘いました。街へ出るのに必要な服も、その中へ含めます」

 

「勝手に決めるな」

 

「では、こうしましょう」

 

 鬼太郎は支払いの手を止めた。

 

「今選んだ二組と上着、靴は、同行するために必要な最低限として僕が払います。それより高いものや、必要ではないものを欲しくなったときは、キーノさんの報酬から買う。これでどうです?」

 

「最低限かどうかは、誰が決める」

 

「意見が割れたら、その都度話します」

 

「お前が最後に決めるんじゃないだろうな」

 

「合意できなければ、僕は払いません。キーノさんは自分の金で買うか、買わないかを選べます」

 

 命令ではない。

 

 断った後に鞭が来る形でもない。

 

 キーノは掌の硬貨を袋へ戻した。

 

「今回は、お前が払え」

 

「分かりました」

 

「この金は私のままだな」

 

「もちろんです」

 

 鬼太郎は古着商へ代金を渡した。

 

 枚数を読み上げ、釣りを一緒に確認する。

 

 キーノも横から見ていた。

 

 何を渡し、何が返ってきたのか。

 

 鬼太郎は一度も、見なくていいとは言わなかった。

 

     ◆

 

 五日目の朝、治療師は鬼太郎の包帯を外した。

 

 右脇腹には、まだ大きな傷痕が残っている。

 

 皮膚は閉じ、熱もない。

 

 左腕と左脚の傷も塞がっていた。

 

「歩く。食べる。眠る。そこまでは自分でやっていい」

 

「戦うのは?」

 

「聞く必要があるのかい」

 

「確認です」

 

「駄目だ。走るな。重いものを持つな。強い魔法も使うな。目眩がしたら座れ。血を戻す薬は指示した量以上に飲むな」

 

「分かりました」

 

「返事だけなら満点だね」

 

 治療師は次にキーノを見る。

 

「あんたも同じだよ。傷が閉じるからって、血まで湧いてくるわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「そっちは返事が零点だ」

 

「内容が分かればいいだろ」

 

 治療師は二人を見比べ、深く息を吐いた。

 

「今夜まで置いておきたいところだが、あんたたちの顔を探す連中がいないとも限らない。移る場所があるなら、昼のうちに行きな」

 

 鬼太郎はすでに、治療所の使いへ手紙を持たせていた。

 

 以前から使っている建物に、空き部屋が一つある。

 

 自分の個室と同じ階。廊下を挟んだ斜め向かいだった。

 

 長く使う場所ではない。

 

 より広く、出入りを監視しやすい場所を見つけるまでの仮の寝床として、鬼太郎は一月分を先に払った。

 

 条件は、錠を新しいものへ替えること。

 

 できた鍵を、一本も家主へ残さないこと。

 

「お前の部屋じゃないのか」

 

 キーノが尋ねた。

 

「僕の部屋には、寝台が一つしかありません」

 

「床で寝ればいい」

 

「どちらが?」

 

「お前だ」

 

「それは困りますね」

 

「なら、私が床でもいい」

 

「そういう問題ではありません」

 

 鬼太郎は小卓に置いてあった〈シュライク〉を取った。

 

 弾倉を外し、残った弾を確かめる。

 

 六発使ったまま、まだ補充していない。

 

 今の手で完全な整備をする気はなかった。弾倉を戻し、専用ホルスターへ収める。

 

「キーノさんが一人になりたいとき、僕が同じ部屋にいれば邪魔でしょう」

 

「追い出せばいい」

 

「僕の部屋から僕を?」

 

「嫌なら最初から入れるな」

 

「ですから、別の部屋にしました」

 

 キーノは少し黙った。

 

「私を閉じ込めるためじゃないだろうな」

 

「鍵はキーノさんへ渡します」

 

「何本ある」

 

「二本です」

 

「予備は?」

 

「その二本だけです」

 

「お前も持つのか」

 

「いいえ。両方とも、あなたに」

 

 キーノは新しい上着の内側へ手を入れた。

 

 報酬袋は、蓋のついたポケットに収まっている。

 

 走ってはいないが、歩いても落ちなかった。

 

「返事をしなかったら?」

 

「緊急でなければ帰ります」

 

「倒れてると思ったら?」

 

「扉を壊します」

 

「鍵を持っていないのにか」

 

「扉なら壊せます」

 

 鬼太郎は穏やかに言った。

 

 キーノは、その右脇腹の傷痕を見る。

 

「今のお前には無理だ」

 

「今すぐ倒れないでください」

 

「指図するな」

 

「忠告です」

 

「同じだ」

 

 二人を見ていた治療師が、堪えきれずに鼻で笑った。

 

     ◆

 

 治療所を出るとき、キーノは古い衣装を捨てなかった。

 

 布へ包み、自分で抱えた。

 

「持っていくのですか?」

 

「悪いか」

 

「いいえ。キーノさんのものです」

 

 好きで着ていたものではない。

 

 だが、捨てろと言われて捨てるのも気に入らなかった。

 

 いつ手放すかは、自分で決める。

 

 治療所が用意した幌つきの馬車には、帳簿類と鬼太郎の取り分を入れた箱も積まれた。御者は行き先だけを聞き、二人の名前を聞かなかった。

 

 鬼太郎は窓際へ座った。

 

 揺れるたび、右手を座席へ置いて身体を支える。

 

 キーノは向かいから、その手を見ていた。

 

「銃を持ってきた意味があるのか」

 

「撃てないとは言っていません」

 

「当たるのか」

 

「普段よりは落ちるでしょうね」

 

「役に立たないじゃないか」

 

「役に立つ状況を作らないために、幌を閉じています」

 

 鬼太郎は窓布の隙間から、後ろの通りを見る。

 

 同じ角を曲がる人影はない。

 

 サーシェスはいない。

 

 契約前の彼は、すでに別の仕事を探しているはずだった。

 

 鬼太郎はそれを止めなかった。

 

 今ここにいない者へ、決まっていない義務を負わせるつもりはない。

 

 馬車は二度大通りを外れ、昼過ぎに古い煉瓦造りの建物へ着いた。

 

 先に降りたキーノが、入口の左右を確かめる。

 

 窓の数。路地の幅。屋根へ上がれそうな雨樋。裏へ抜ける細道。

 

「中にも階段が二つあります」

 

 鬼太郎が言った。

 

「一つは奥の台所脇です。表が塞がれた場合は、そちらから出られます」

 

「先に言え」

 

「外から見て、どこまで分かるか見ていました」

 

「試したのか」

 

「ええ」

 

 キーノが睨む。

 

「結果は?」

 

「雨樋は途中が腐っています。使えば音が出るでしょう。裏路地を先に見る判断は正しいと思います」

 

「当然だ」

 

「お見事です」

 

「それを何度も言うな」

 

「正しくできたことを言わない理由がありません」

 

 キーノは先に建物へ入った。

 

     ◆

 

 新しい部屋には、寝台と机と椅子が一つずつあった。

 

 窓は一つ。

 

 内側から掛ける金具がある。

 

 暖炉は小さく、灰が残っている。床板は古いが、踏んだだけで抜ける箇所はない。

 

 キーノは扉を開けたまま、部屋の中を調べた。

 

 寝台の下。

 

 窓枠の外。

 

 机の引き出し。

 

 暖炉の煙道。

 

 壁を指の関節で叩き、音の違う場所がないか確かめる。

 

 鬼太郎は廊下で待った。

 

 荷を運んだ御者が帰っても、中へ入らない。

 

「何をしてる」

 

 キーノが扉から顔を出した。

 

「確認が終わるのを待っています」

 

「勝手に入ればいいだろ」

 

「ここは、キーノさんの部屋ですよ」

 

 鬼太郎は二本の鍵を差し出した。

 

 どちらも新しく、同じ傷一つない形をしている。

 

 キーノは一本だけ取った。

 

「もう一本は、お前が持て」

 

「よろしいのですか?」

 

「二本とも持っていたら、同じ場所でなくすかもしれない。だから預ける」

 

「分かりました。許可なく使いません」

 

「使ったら噛みつく」

 

「覚えておきます」

 

 キーノは部屋へ戻った。

 

 窓の金具を外し、外へ開く。

 

 下には細い路地がある。飛び降りれば無傷では済まない高さだが、布を結べば届くかもしれない。

 

 扉の錠も、内側からなら鍵なしで開く。

 

 外から閉じられ、内側から出られなかった鉄台とは違う。

 

「入っていい」

 

 鬼太郎は、それから敷居を越えた。

 

 持ってきた箱を机の上へ置く。

 

 中には水差し、乾燥肉、パン、布、石鹸、蝋燭が入っていた。

 

「足りないものがあれば言ってください」

 

「言えば買うのか」

 

「必要なものなら」

 

「本」

 

 鬼太郎の手が止まった。

 

「何についての本です?」

 

「知らない」

 

「それでは選べませんね」

 

「金の使い方。この街のこと。魔法使いのこと」

 

 キーノは、少し考えてから続けた。

 

「魔法の本もだ」

 

「使えるかは、まだ分かりませんよ」

 

「だから試す。何も知らないまま、使えないと決めるのは気に入らない」

 

 鬼太郎は小さく笑った。

 

「僕も同意見です」

 

「お前は知ってるだろ」

 

「いいえ」

 

「魔法使いを何人も殺したのにか?」

 

「殺し方を知っていることと、同じ技術を使えることは別ですよ」

 

 鬼太郎は右の掌を上へ向ける。

 

 炎は出さない。

 

 治療師から、強い魔法を使うなと言われたばかりだった。

 

「僕が使ってきたものは、彼らの杖魔法とは別です。杖を振って呪文を学んだ経験はありません」

 

「一度も?」

 

「ええ。杖を手に入れてからも、依頼、銃、身体、僕自身の魔法へ時間を使ってきました。生き残るための優先順位では、杖魔法は後でした」

 

「今は?」

 

「学ぶ余裕ができました」

 

 キーノは鬼太郎を見る。

 

「私に教えるんじゃないのか」

 

「一緒に学ぶことになりそうですね」

 

     ◆

 

 鬼太郎の部屋の錠も、以前に交換してある。

 

 治療所から持ち帰ったウォードの杖は、机の端へ別に置いた。あれは漏れ鍋奥の壁を開く鍵として、すでに役目が確かめられている。今は試し撃ちへ混ぜない。

 

 自分の鍵で扉を開け、床板の一枚を外す。

 

 布へ包み、互いに触れないよう離して保管していた三本の杖を取り出した。

 

 最初の襲撃者から得た一本。

 

 薬品商の地下へ侵入した二人から得た二本。

 

 どれも、鬼太郎のものではない。

 

 持ち主を選び、持ち主だった者の癖を残している。

 

 そのうち一本は、攻撃の魔法を多く通したらしいと鑑定されていた。

 

「折れても知りませんよ」

 

 鬼太郎は三本を机へ並べた。

 

「お前の物じゃないのか」

 

「敵から奪ったものです。道具としては僕が保管していますが、僕を選んだ杖ではありません」

 

「なら同じだ」

 

 キーノは端の一本へ手を伸ばした。

 

「待ってください」

 

「何だ」

 

「強く握らず、まず触れるだけにしてください。何が起きるか分かりません」

 

「怖いのか」

 

「未知の道具を警戒しています」

 

「同じだろ」

 

「怖くても警戒はできます。怖くなくても警戒は必要です」

 

 キーノは返事の代わりに、指先で一本目へ触れた。

 

 何も起きない。

 

 握って持ち上げる。

 

 杖先がわずかに震えたが、それだけだった。

 

 二本目は、掌へ押し返すような硬い感覚があった。

 

「気に入らない」

 

「どのように?」

 

「持つなと言われてるみたいだ」

 

「では、無理に使う必要はありません」

 

 三本目へ触れる。

 

 キーノの指が木肌を包んだ瞬間、杖先で白い火花が一つ弾けた。

 

 キーノは手を離さなかった。

 

 机の上へ落ちた光が、消えるまで見ていた。

 

「今のは、お前がやったのか」

 

「いいえ」

 

「なら、私か」

 

「杖がキーノさんへ反応した、と考える方が近いでしょう」

 

「これが一番ましだ」

 

「僕もそう思います。正式な杖を得るまで、仮に使ってみましょう」

 

 鬼太郎は三本目だけをキーノの前へ残した。

 

 残る二本を、自分の側へ引く。

 

 以前に買っていた薄い入門書を開いた。

 

 魔法界の文字と基本的な用語を知るために手に入れた本だ。文章は読んだ。杖の動きを図で見たこともある。

 

 だが、練習へ時間を使ったことは一度もなかった。

 

 最初の項目は、杖先へ明かりを灯す呪文だった。

 

 物を持ち上げるより危険が少なく、狭い部屋でも試せる。

 

 鬼太郎は窓掛けを半分閉じた。

 

「呪文は、ルーモス。動きは――この図のとおりです」

 

「お前が先にやれ」

 

「僕も初めてですよ」

 

「だからだ。失敗したら笑える」

 

「それは楽しそうですね」

 

 鬼太郎は、最初の一本を握った。

 

 拒絶されるような感覚は薄い。

 

 それでも、自分の手の延長には感じられなかった。

 

 右腕を上げ、図に沿って杖先を動かす。

 

「ルーモス」

 

 何も起きない。

 

 キーノが言った。

 

「下手だな」

 

「まだ一度目です」

 

「成功しなかった」

 

「それは事実ですね」

 

 二度目。

 

 杖先から乾いた音だけがした。

 

 三度目には、鬼太郎は流す力を変えた。

 

 体内には二つの流れがある。

 

 今世の肉体に生まれた魔力。

 

 それとは別に、炎や氷、電撃、衝撃を形にするMAG。

 

 杖へ向けて現世の魔力だけを送り出そうとすると、MAGが同じ道へ重なる。混ざり合うのではない。狭い出口で互いに押し合い、流れを鈍らせる。

 

 それでも力を通す。

 

「ルーモス」

 

 針の先ほどの白い光が生まれた。

 

 瞬きをする間もなく消える。

 

「弱い」

 

「ええ。驚くほど弱いですね」

 

「その杖が悪いんじゃないのか」

 

「可能性はあります」

 

 鬼太郎はもう一本へ替えた。

 

 同じ動き。同じ発音。

 

 今度は火花すら出ない。

 

 胸の奥から腕へ向かった魔力が、MAGとぶつかり、さらに杖の中で他人の癖へ引っかかった。

 

 原因は一つではない。

 

 未熟な使い手。

 

 他人を選んだ杖。

 

 異なる二つの力。

 

 鬼太郎は入門書の余白へ、三つを書き留めた。

 

「悔しくないのか」

 

「なぜです?」

 

「できないんだぞ」

 

「できない理由が、いくつか分かりました」

 

「それで満足か」

 

「いいえ。次は、一つずつ分けて確かめます」

 

 鬼太郎は杖を机へ置いた。

 

「ただし今日はここまでです。治療師さんとの約束がありますから」

 

「さっきのが強い魔法か?」

 

「今の僕には、思ったより負担でした」

 

 顔色は、馬車を降りたときより白い。

 

 キーノはそれを見て、仮の杖を取った。

 

「次は私だ」

 

「どうぞ」

 

 本を自分の方へ向ける。

 

 杖の動きを一度見る。

 

 キーノは文字より先に図を覚えた。

 

 舞台で刃が来る方向を読んだときと同じように、手首の角度と止める位置を目で測る。

 

 杖を振った。

 

「ルーモス」

 

 何も起きない。

 

 鬼太郎は笑わなかった。

 

 二度目。

 

 白い火花が二つ飛んだ。

 

 三度目。

 

 杖先に、小さな光が灯る。

 

 蝋燭より弱い。

 

 揺れ、今にも消えそうだった。

 

 それでも、鬼太郎の光より長く残った。

 

 キーノは息を止めたまま、白い点を見た。

 

 誰かに切られたから起きたことではない。

 

 血を流したから見せられたものでもない。

 

 自分で本を見て、自分で杖を振り、自分で生んだ光だった。

 

 五つ数える前に、光は消えた。

 

「今のところ、私の方が上だな」

 

 キーノが言った。

 

「ええ。現時点では、キーノさんの勝ちです」

 

「言い訳しないのか」

 

「勝ったのはキーノさんですから」

 

 鬼太郎は入門書の次の頁をめくった。

 

「お見事でした。図を見て、二度目で手首の角度を直していましたね」

 

「見てたのか」

 

「一緒に学んでいますので」

 

 机の上には、二本の借り物の杖と、一本の仮の杖がある。

 

 どちらも、自分の杖を持っていない。

 

 どちらも、杖魔法を知らない。

 

 同じ頁から始めても、流れる力は同じではなかった。

 

「では、追いつくことにしましょう」

 

「追い越してから言え」

 

 キーノは立ち上がり、鬼太郎を部屋の外へ押し出した。

 

「もう出ろ。眠い」

 

「分かりました。明日の食事は――」

 

「自分で食う。忘れない」

 

「本はここへ置いていきます」

 

「言われなくても返さない」

 

 扉が閉まる。

 

 鬼太郎は預かった予備の鍵を使わず、自分の部屋へ戻った。

 

 廊下の向こうで、金属の動く音がする。

 

 キーノが自分の手で、内側から鍵を掛けた音だった。

 

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