第52話 住むための条件
寝袋を持ち帰った時、キーノは箒を持っていた。
柄は途中で折れ、穂先には藁と一緒に黒いものが絡んでいる。密猟者たちが何を掃いていたのか、あまり考えたくない代物だった。
「それ、使えますか」
「使う前に洗う」
足元には、既に掻き出された藁が積まれていた。
鬼太郎は荷物を乾いた段へ置き、もう一本の箒を探した。
屋根がある。それだけで、今までの野営とは随分違う。
そう思ったのは本当だが、壁と天井の間に広がる蜘蛛の巣や、湿った藁の下の床を見ると、屋根だけで暮らせるわけではないこともよく分かった。
庭ではサーシェスが、死体から外した装備を仕分けていた。
杖と銃、刃物。中身の分からない容器は別へ寄せる。使えると確かめる前に、誰かの手に渡す気はないらしい。
「そこの袋も、勝手に開けんなよ」
「開けません。そもそも、今は掃除道具が欲しいんですが」
「そっちは稼ぎにならねえな」
笑ったサーシェスの脇を通り、鬼太郎は物置へ向かった。
檻にされていた小屋の中では、ヴェリナが濡らした布を絞っている。もう一人がそれを受け取り、横になった仲間の額へ当てた。
「こちらの床を空けます。動ける方だけ、移ってください」
返事の代わりに、鬼太郎の手元を見る者がいた。
箒しか持っていないと分かってからも、その視線はすぐには上がらなかった。
鍵を外したからといって、持っていた人間の顔まで変わるわけではない。
鬼太郎は扉から一歩離れた。
「ここに残る方が楽なら、そのままで。どちらも、外から鍵は掛けません」
ヴェリナが短く仲間へ話した。
鬼太郎に分かったのは、彼女が何度も相手の返答を待ったことだけだった。
結局、主棟へ移った者と、小屋に残った者に分かれた。
薬の抜けきらない獣二頭は、小屋の奥にいた。開けた檻の戸は、倒れないよう紐で留めてある。一頭が頭を起こしたが、前脚を踏ん張りきれず、また伏せた。
鬼太郎は近寄るのをやめ、水の皿だけを手の届く場所へ滑らせた。
死体を寝床の近くに置いておくわけにもいかなかった。
サーシェスと二人で運ぶたびに、日が傾いていく。戦っていた時には気にならなかった重みが、肩と腰へ順番に来た。
北壁の外、今夜使う水場から離れた場所に集め、布を被せる。埋めるにも燃やすにも、今の手と道具では足りない。
「明日は、これもですね」
「飯より先に腐るもんを片づける。いい家だぜ」
鬼太郎は息を整えた。
奪うところまでは、短かった。
残ったものを片づける方が、ずっと長い。
暗くなる前に、主棟一階の二部屋が使えるようになった。
救出した者たちには奥を空け、鬼太郎たちは入口に近い部屋へ寝具を運ぶ。キーノの寝る一角には、洗った布を張った。着替える時は外へ出ろと、本人から念を押された。
火は庭で焚いた。
台所らしい場所はあったが、煙突が通っているか分からない。鍋を掛けるには、いつもの焚火の方が早かった。
湯に浸した固いパンを噛んでいると、ヴェリナが火の向こうへ来た。
「近くへ、知らせたい」
鬼太郎は顔を上げた。
「帰るんですか」
「私は、戻る。あの子たちがいるから。でも、ここを避けている者がいる。捕まったままだと思っている者も」
彼女は小屋を振り返った。
夜の森へ出たいという顔ではなかった。それでも、行くと言っている。
「どのくらい、かかりますか」
「遠くへは行かない。川を上がった先。道は知っている」
キーノが、火の脇に置いた水筒を彼女へ差し出した。
ヴェリナは一度断りかけ、少し考えてから受け取った。
「ここにいた連中がいなくなったことは、伝えてください。ただ、僕が森のどこへでも助けに行くとは、言わないでほしいです」
「約束していないことは、言わない」
答えは早かった。
鬼太郎は頷いた。彼女が伝えたいことと、自分が引き受けたいことは、重なる部分だけでよい。
「一人で大丈夫か」
キーノの問いに、ヴェリナは暗がりを見た。
「ここの前を通るよりは」
それ以上、止める言葉は出なかった。
その夜、鬼太郎は何度か目を覚ました。
雨は降っていなかったが、二階のどこかから、雫に似た音がした。風が向きを変えるたび、壊れた門が低く鳴る。
交代で起きていたサーシェスが、入口の横に座っていた。
「寝ろ。今んとこ、木と虫しか動いてねえ」
鬼太郎は目を閉じた。
閉じきらない門の音は、その後もしばらく聞こえていた。
◆
朝、キーノは紙を一枚、鬼太郎の前へ置いた。
「必要なものだ」
屋根。門。水。便所。炊事場。風呂。
部屋。
最後の項目には、線が引かれていた。
「部屋は、昨日の仕切りでは駄目ですね」
「あれは昨夜の分だ」
鬼太郎は紙を持って、主棟を見上げた。
二階は部屋数こそあるが、雨と風が自由に出入りする。北側の壁には手を入れる必要があり、扉の大半は建て付けが悪い。
「直す人を探して、まず一階で鍵の掛かる所を作りましょう」
「内側から掛ける鍵だ。お前の持っている鍵で開くものは、いらない」
「それも、作る人に伝えます」
キーノは頷き、紙の次の行を指で押した。
「水を毎回、川から運ぶのか」
昨日運んだ分は、掃除と飲み水で大半がなくなっていた。
川は近い。だが、鍋を満たすのと、何人分もの身体や衣服を洗うのとでは、要る量が違う。
森の中の暮らしを、本のページをめくる時間として思い描いていたことを、鬼太郎は少しだけ反省した。
本を濡らさない屋根にも、水を運ばずに済む仕組みにも、誰かの仕事が要る。
門の向こうから声がしたのは、そこでだった。
ヴェリナが立っていた。
隣には、革の前掛けを着たゴブリンがいる。後ろから、幅の広い肩に道具の包みを担いだドワーフが現れた。
少し離れて、灰色の大きな身体が木立を分ける。抱えているのは、倒木の一部らしい。
サーシェスの手が銃へ寄った。
持ち上げはしない。そのまま相手の手と、門の左右を見ていた。
「近くに、いたのか」
キーノが尋ねると、ヴェリナは頷いた。
「昨夜会えた者だけ。皆がここへ来ると言ったわけではない」
「あいつらが死んだって聞いたんでな」
ゴブリンが口を挟んだ。
庭へ入らず、まず小屋の扉と、開いた檻を見比べる。
「本当らしいな」
「遺体もあります。確認しますか」
「あとでいい。お前が、ここに居着く人間か」
鬼太郎はキーノの紙を見た。
「住めるようになれば、そうします」
ドワーフが、鼻から短く息を出した。
笑ったらしい。
「その屋根で、よく一晩寝たものだ」
大きな影が、門の外で倒木を下ろした。
地面の震えが靴底へ届く。森トロールは砦を見上げ、次に北壁の崩れを見た。
「石、落ちる。あそこ、通るな」
鬼太郎が返事をする前に、頭上から別の声がした。
「荷物を置く場所も、変えた方がいい」
門柱の裏側に、女の顔があった。
視線を下げていくと、人間に似た上半身の先に、艶のある暗い脚が八本、石へ掛かっていた。
アラクネだ。
鬼太郎が見ている間に、彼女は音を立てず下りてきた。
「上に石が浮いている。夜に、落ちなかっただけ」
鬼太郎は自分の寝具を取りに行った。
戻ると、サーシェスの口元が少し歪んでいた。
「家主の仕事が増えたな、坊主」
「寝ている間に頭を潰されるより、助かります」
アラクネは、鬼太郎の顔を見ていた。
「私を先に追い払わないの」
「落ちる石を教えてもらったところですから」
「それだけで?」
「ほかに、今、追い払う理由があるんですか」
八本の脚のうち、前の一本が少し動いた。
それが笑いに当たる動きかどうか、鬼太郎には分からなかった。
「まだない」
「なら、話を聞きたいです」
彼女は門から離れた。人間の歩く道を塞がない位置で、脚を畳む。
その距離は、鬼太郎が小屋の扉から離れた時よりも長かった。
ゴブリンは、鬼太郎の紙を覗き込んだ。
「金はあるのか」
「全部を一度には頼めません。急ぐものから、値段を聞きたいです」
「なら、門の金具と錠は見られる。木まで俺に頼むな」
「そっちは見てやる」
ドワーフが言い、紙を鬼太郎の手から取った。
「屋根は塞ぐだけか。梁まで替えるかで違うぞ。下から見ただけで値を出せる仕事じゃない」
勝手に仲間同士の役割が決まっているわけではないらしい。
互いに口を挟みながらも、道具の包みを開く場所は、それぞれで選んでいた。
「頼む先も書きたいので、お名前を教えてもらえますか」
「ボグダンだ。金具と錠は、俺の名の所へ書け」
鬼太郎は紙に名を書き足した。
「ここを使うなら、こちらにも都合がある」
ボグダンが言った。
「あの連中に、道を潰されていた。次の連中が来ても、お前は門を閉めて知らん顔か」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
捕まえられた者を見れば、檻を開けることはある。襲われれば殺すだろう。
だが、それを森のどこででも求められるなら、暮らしの形が変わる。
「ここへ来る道と、この周りは見ます。ほかの場所のことは、知らせてもらってから考えます」
「助けるとは言わないのか」
「相手も場所も分からないうちには」
ボグダンは眉を寄せたが、ドワーフの方は紙から顔を上げなかった。
「屋根が落ちるか見てもいないのに、直せると言えんのと同じだ」
「お前は黙って寸法を取ってろ」
鬼太郎は門の外へ視線を移した。
ここまで歩いてきた道を、今すぐ走って引き返せと言われても、途中で夜になる。そこから森の反対側までとなれば、地図さえない。
「知らせが届く道は、教えてほしいです。それと、誰がどの辺りで暮らしているかも。知らずに踏み込んで、怒らせたくはありません」
「全部は知らない」
アラクネが言った。
「私が使う道なら、話せる。川の西と、東側の一部。向こうの谷は、この者に聞いた方がいい」
森トロールが、低く何かを言った。
ヴェリナが言い直してくれる。
「北の谷には、罠が残っているかもしれない。死んだから、なくなるわけではない、と」
「場所が分かるものから、教えてください。触っていいか分からないものは、印を付けておきたいです」
サーシェスが、そこで口を開いた。
「俺が見に行く分は、別の話だ。いつでもここにいると思うなよ」
「はい。頼む時に決めます」
ボグダンが二人を見比べた。
鬼太郎は、その視線の意味を説明しなかった。
サーシェスがここに残る理由まで、相手へ売る必要はない。
◆
話をするより、砦を一回りする方が早かった。
ドワーフは二階へ上がる前に、一階の天井を長い棒で突いた。落ちてきた細かい屑を見て、キーノの部屋の候補を一つ却下した。
ボグダンは門の蝶番を叩き、曲がった軸を見て舌打ちする。
森トロールは、崩れた石を持ち上げようとして、ドワーフに止められた。支えを抜けば上が落ちるらしい。
「大きければ、早いわけでもないんですね」
「壊すなら早い」
森トロールの返事に、鬼太郎は頷いた。
それはよく分かる。
水については、川べりまで下りた。
庭まで運ぶ溝を掘れば済むかと思ったが、ドワーフは首を振った。
「ここからじゃ、上らん」
上流で高さを確かめ、道を調べ、使える材料を揃える。それまでは運ぶしかない。
便所の場所は、水を汲む所より下へ離す。雨で流れたものが戻らない位置を見てから掘ることになった。
キーノは一つずつ聞き、風呂の印を紙の隅へ移した。
消しはしなかった。
「先に、水だな」
「そうですね」
鬼太郎は、自分の分の水桶を持ち直した。
実際に重みが腕へ掛かると、順番に異論はなかった。
庭へ戻る途中で、アラクネが鬼太郎へ近づいた。
「あの死体、どうするの」
「まだ決められていません」
「運ぶことはできる。布で包むより、私の糸の方が切れない」
鬼太郎は北壁の外を見た。
手伝いの申し出だとしても、その先を知らないまま任せるのは気になった。
「運んで、その後は?」
彼女は答えた。
少なくとも、鬼太郎が食事をしながら聞きたい内容ではなかった。
だが、土を掘れば消えるというものでもない。
「持ち物はこちらで調べます。その後のことを、サーシェスさんとも話します」
「生きている者を、渡せとは言っていない」
「はい。それは、今後も求めないでほしいです」
彼女の目が細くなった。
「私が狩るものまで、全部決める?」
「全部は決められません。ここに泊まる方や、働く方を狙われると、僕は黙っていられませんが」
「その者が先に、私へ杖を向けたら」
鬼太郎は彼女を見た。
「先に向けた方にも、話を聞きます。ここにいる人間だから、何をしてもよいとは思いません」
彼女はしばらく、鬼太郎の顔から目を離さなかった。
それから、脚の一本を横へ伸ばす。細い糸が、庭に積んだ木材の端へ掛かった。
「ミラ」
「え?」
「私の名。糸が欲しいなら、私に聞いて。同じ姿の者へ頼んでも、私の返事にはならない」
鬼太郎は頷いた。
「僕は墓場鬼太郎です。では、ミラさん。その糸は、火の近くでも使えますか」
「縮む。そこへ張りたいなら、やめた方がいい」
彼女が見た先には、鬼太郎たちの焚火があった。
丈夫な糸なら何にでも使える、というわけでもなかった。
昼を過ぎる頃には、今日決められることが見えてきた。
まず、今夜使う場所の上にある危ない石を下ろす。雨を防ぐ屋根と、閉じる門を先に直す。キーノの部屋は、傷みの少ない一階の一室を使う。
ただし、鍵ができるまで完成ではない。
代金は、作るものと材料を見てから決める。
密猟者の持ち物にも欲しいものはあるらしかったが、それを黙って材料に使う者はいなかった。使うなら品ごとに値を付け、支払いと照らす。
「俺の作った金具を、勝手に溶かし直すなよ」
ボグダンは、曲がった門の金具を外しながら言った。
「壊れたら、持ってこい」
「直す時も、あなたへ?」
「そうだ」
鬼太郎はその条件を紙へ書いた。
買って終わり、ではない品もあるらしい。
ミラの糸は、外した木材を束ねるのに使われた。
森トロールが運び、ドワーフが使える木と腐った木を分ける。ヴェリナは途中で小屋へ戻り、起き上がった一頭のために道を空けた。
獣は開いた戸から顔を出したが、庭の人数を見て引っ込んだ。
誰も引きずり出さなかった。
キーノが、空になった水桶を二つ持ってきた。
「鬼太郎。次だ」
新しい寝床をどこに置くか考えていた鬼太郎は、手を止めた。
桶を一つ受け取り、彼女と川へ向かう。
背後で、外された門が地面へ置かれる音がした。
今夜も、ここから森が見えるだろう。
それでも昨日とは違って、門を閉じるために開いている。
鬼太郎は、川へ下りる足場を確かめた。
明日はこの段に、滑らないよう石を一つ置こうと思った。