第五十三話 引き金には、先約がある
正午まで、あと十分あった。
仲介人が使う貸し部屋は、酒場の二階にある。
表の階段とは別に、裏路地から上がる細い階段があり、二つの扉にはそれぞれ違う錠がついていた。
鬼太郎は一段ずつ上がる。
手すりには触れない。
歩調も乱れていない。
それでも、後ろを歩くキーノには、左脚を上げるたびにわずかに間が空くのが見えた。
「遅い」
「時間には間に合いますよ」
「またそれか」
「急ぐ理由がありませんから」
踊り場で、鬼太郎は一度だけ呼吸を整えた。
右脇には〈シュライク〉がある。
見世物小屋で六発使った後、まだ補充していない。残った弾で撃つことはできても、普段どおりの戦闘をするための状態ではなかった。
キーノの仮杖は、上着の内側にある。
使えるのは光を灯し、消す魔法だけだ。
どちらも、武器を持っていることと、戦えることが同じではないと知っていた。
鬼太郎が扉を二度叩く。
内側から、椅子を引く音がした。
「入れ」
鬼太郎は錠を開けた。
部屋には、長机と椅子が四脚ある。
窓は一つ。鎧戸が半分閉じられ、差し込む光が床を斜めに切っていた。
サーシェスは窓から離れた壁際へ座っている。
外套の下にリボルバー。机の端には帽子と革手袋。長銃はない。
もう一人、仲介人の男が紙束とインクを前にしていた。
「やっと立って歩けるようになったか、坊主」
「交渉中に倒れない程度には」
「その基準で外へ出るな」
キーノが扉を閉める。
「私も同じことを言った。こいつは聞かない」
「気が合うじゃねえか、小娘」
「気持ち悪いことを言うな」
サーシェスが笑う。
鬼太郎は扉に近い席へ座った。
キーノはその隣ではなく、机の短辺を選ぶ。鬼太郎とサーシェスの両方が見える位置だった。
仲介人がキーノを見る。
「立会人か」
「見てるだけだ」
「口も出すそうです」
鬼太郎が付け加えた。
サーシェスは椅子の背へ身体を預ける。
「俺の契約にか?」
「あんたが、どんな条件でこいつと組むのか見る。こいつが後から話を変えないかもな」
「口を出して、俺が聞くと思ってんのか」
「聞くかどうかは、あんたが決めろ」
「言うだけは言うってか」
「そうだ」
サーシェスは鬼太郎へ目を戻した。
「お前が連れてきたんだ。黙らせるのもお前の仕事じゃねえのか」
「必要なら反論します。黙らせる契約はしていません」
「面倒なのを拾ったな」
「あんたよりはましだ」
「比べる相手が悪いぞ、小娘」
仲介人が咳払いをした。
「部屋は一時間分押さえてある。喧嘩をするなら、延長分も払え」
「では、始めましょう」
鬼太郎は机へ一枚の紙を置いた。
◆
「僕が必要としたとき、サーシェスさんの時間と仕事へ、ほかの依頼人より先に条件を提示できる権利が欲しいのです」
鬼太郎が最初に出したのは、そこだけだった。
金額も、期間も書いていない。
何を買いたいのかを、一行で示した紙だった。
サーシェスが読む。
「専属か?」
「いいえ」
「俺にほかの仕事をするなって話じゃねえのか」
「それでは、サーシェスさんへ払う金額が高くなりすぎます」
「払えるなら、するのか?」
「今は必要ありません。僕が依頼を出していない間まで、行動を制限する理由がないでしょう」
サーシェスは紙を指で弾いた。
「俺に首輪をつけたいのかと思ったがな」
「首輪をつければ、あなたの判断が鈍ります。僕が欲しいのは服従ではありません」
「なら、何だ」
「必要なときに、あなたが連絡のつく場所にいることです」
「仕事の話を聞くだけで金を払うってのか」
「ええ。聞いた後に受けるなら、仕事の報酬は別に払います」
サーシェスの目が少し細くなる。
冗談を聞いた顔ではない。
値段を測る目だった。
「俺じゃなきゃ駄目なのか?」
「誰でもよければ、継続報酬は払いません」
「何が違う」
「僕が見ていない場所でも、報酬対象を優先できる。状況が変われば役割を変えられる。敵が撃てる位置にいても、撤退が必要なら引き金を引かない」
見世物小屋で、サーシェスはモーンを追うより先に鉄箱とトーマスの回収を確かめた。
鬼太郎が倒れた後も、治療、引き渡し、清算を順に終えた。
「命令どおりに動くだけの人なら、もっと安く雇えます」
「褒めても値引きはしねえぞ」
「値引きを求めていません。値段をつける理由を説明しました」
サーシェスの口元が上がった。
「続けろ」
◆
最初に決めたのは、期間だった。
「一年」
鬼太郎が言う。
「長えな」
「必要なときに長期の仕事で不在では、契約の意味がありません」
「こっちは、お前が半年で死んでも残りをもらえねえ」
「前払いにします」
「一年分をか?」
「それでは僕の危険が大きすぎます」
キーノが二人を見る。
「三か月でいいだろ」
サーシェスが笑った。
「小娘が決めるのか?」
「長いって言ったのはあんただ。一年が長いなら、短くしろ」
「一か月じゃ、次の契約を考えるだけで終わるぞ」
「なら三か月だ」
鬼太郎が紙へ書く。
「まず三か月。自動では更新せず、満了前に改めて話す。それでどうです?」
「悪くねえ」
次に、継続報酬。
鬼太郎は、これまで二人で受けた依頼の記録を出した。
短い護衛。
帳簿の回収。
生存者の確保。
危険の程度が中ほどだった仕事を基準にする。
「毎月、この程度を前払いします」
示された額を見て、サーシェスは鼻を鳴らした。
「安いな」
「何も依頼しない月も払います」
「その代わり、俺がほかの仕事を選ぶ順番を売る」
「仕事そのものではなく、話を聞く順番です」
「順番を空けりゃ、その間に別の仕事を逃す」
「返答までの時間を短くします」
「いくらだ」
サーシェスが別の額を紙へ書く。
鬼太郎が見る。
「高いですね」
「俺が決める値段だ」
「僕が買わなければ、値段にはなりませんよ」
二人は、その間へ硬貨を一枚ずつ置くように数字を動かした。
最終的に、平均的な中規模依頼一件分ほどで止まる。
正確な硬貨の枚数ではなく、仲介人がその月の交換率で同じ価値へ揃えることにした。
「一か月ごとの前払いです」
鬼太郎が言う。
「三か月分を最初に渡すわけではありません。次の月も続けるなら、その月の初めに払う」
「払わなかったら?」
「その時点で契約終了です」
「俺が受け取らなかったら?」
「同じです」
サーシェスは頷いた。
◆
「優先って、どこまでだ」
サーシェスが尋ねる。
「今、別の仕事をしていても、呼ばれたら捨てろってのか?」
「いいえ。すでに引き受けた仕事は、そちらを優先してください」
「ずいぶん物分かりがいいな」
「受けた契約を簡単に破る人は、僕との契約も破るでしょう」
「分かってるじゃねえか」
「その代わり、仕事が終わる予定と、次に連絡を受け取れる時刻を知らせてください。待てなければ、僕は別の人を使います」
「それで文句はねえ」
優先権が働くのは、サーシェスがまだ誰の仕事も受けていない時間。
同時に複数の話が来た場合、鬼太郎の条件を先に聞く。
連絡を受けてから一日以内に、条件を聞くか、すぐには聞けない理由を返す。
「一日も待つのか」
キーノが尋ねる。
「遠くにいる場合もあります」
鬼太郎が答える。
「今日呼んで、今日殺されそうなら?」
「一日後に返事が来ても遅いですね」
「なら、役に立たない」
「緊急用の印を決めましょう」
通常の依頼と、今すぐ返事が必要な連絡を分ける。
緊急の印を使う場合、鬼太郎は通常より高い呼び出し料を払う。
サーシェスは、受け取れる状況なら可能な限り早く返す。
ただし、遠方や戦闘中で届かなければ契約違反にはしない。
「印を乱用したら?」
サーシェスが聞く。
「呼び出し料を払います」
「金を払えば、毎回緊急にできるな」
「三度続いたら、次の更新時に金額を上げて構いません」
「今決めろ」
「使ってみなければ、負担が分かりません」
「そこは三か月後か」
「ええ」
サーシェスは、紙の端へ緊急印を描いた。
単純な二本線だった。
◆
「仕事を聞いた後で、断ってもいいんだな?」
「もちろんです」
「金を先にもらっても?」
「継続報酬は、最初に条件を聞くことへの支払いです。仕事を受ける代金ではありません」
キーノが眉を寄せた。
「なら、こいつは毎回断って、金だけ取れるだろ」
「取れるな」
サーシェスが楽しそうに言う。
「いいのか、坊主?」
「構いませんよ」
「馬鹿なのか?」
キーノが言った。
「翌月の継続報酬を払わなければいいだけです」
鬼太郎は紙へ解除条件を書き足す。
「一度断ったから終わりにはしません。ですが、僕が必要とする仕事を何度も断るなら、契約を維持する意味がありません」
「何度断ったらだ?」
「回数では決めません。内容によります」
「曖昧だな」
「僕は契約していない期間なら、理由を示さず更新しない自由を持つ。サーシェスさんも、次の月の金を受け取らない自由を持つ。それで十分でしょう」
「断った罰は?」
「ありません」
「受けなかった仕事の損害を請求するか?」
「しません」
キーノは紙を見る。
読める単語は少ない。
だが、数字と、拒否を示すために教わった短い語は見つけられた。
「だったら、何のために先に払う」
「サーシェスさんが、ほかの依頼を受ける前に僕の話を聞く時間へ払います」
「仕事をしてない時間にも金を払うのか」
「必要なときに、長期の仕事でいなくなるより安いでしょう」
サーシェスは、机に置かれた紙を見下ろす。
服従を買う契約ではない。
断る自由を残したまま、最初に声をかける場所だけを確保する。
「本当に、気味の悪い買い方をするな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてねえよ」
◆
個別の仕事は、受けるたびに別の条件を作る。
報酬。
期限。
回収対象。
生死の指定。
必要な装備。
誰が何を負担するか。
これまでの五分の三と五分の二を、今後すべての依頼へ使うことはしない。
「俺が一人でやる仕事なら、全部俺の取り分だ」
「当然です」
「お前と二人でも、役割が同じとは限らねえ」
「ですから、その都度決めます」
「前金は?」
「必要な経費を先に。残りの前金は危険度次第です」
「弾薬は」
「僕が特定の銃や弾を要求した場合、僕が払います。サーシェスさんが普段から持つ装備は、ご自分で」
「爆薬」
「仕事に必要なら経費へ入れます」
「足は?」
「馬車、車、船、隠れ場所。依頼のために必要なものは、事前に申告してください」
「途中で増えたら?」
「その場で必要と判断できるものなら、後で清算します。ただし、理由は聞きます」
「治療費は」
「受けた仕事で負傷したなら、僕が負担します」
仲介人の羽根ペンが止まった。
サーシェスも一瞬、笑わなかった。
「死んだら?」
「支払う相手を指定しますか?」
「いねえよ」
「では、その条項は空欄にします。契約中に指定したくなれば追加しましょう」
「死体を取り戻す金まで払う気か?」
「必要なら」
「何に使う」
「その時に決めます」
「今決めとけ。売られたらたまらねえ」
キーノが鬼太郎を見る。
「こいつなら、使える部分を調べるかもしれないぞ」
「キーノさんとの条件を、サーシェスさんへ勝手に当てはめるつもりはありません」
「じゃあ決めろ」
サーシェスは机を指で二度叩いた。
「回収できるなら燃やせ。無理なら捨てろ。誰かに売るな」
「分かりました」
仲介人が条項へ加える。
サーシェスは命を軽く扱う。
だが、自分の死体を、知らない誰かの商品にする気はないらしい。
キーノは何も言わなかった。
◆
「こいつはどうなる」
サーシェスが顎でキーノを示した。
「お前の部下か?」
「違います」
「違う」
鬼太郎とキーノの声が重なった。
サーシェスが笑う。
「そこだけは気が合うらしいな」
「キーノさんは、自分で行き先を決めるまでの条件で同行しています。この契約へ、彼女の仕事は含めません」
「俺の仕事へ勝手についてくるのもなしか」
「キーノさん本人が、別に条件を受けた場合だけです」
「あんたの契約で、私の仕事を決めるな」
キーノが言う。
「そういうことです」
鬼太郎は契約書の禁止事項へ目を移した。
「ただし、キーノさんが現在の条件で同行している間、サーシェスさんが彼女を狙う依頼を受けることは禁止します」
「俺が受けたら?」
「契約違反です。僕の居場所や仕事を売るのと同じく、その時点で敵として扱います」
「金を返して終わりじゃねえのか」
「僕を敵に回した後、金を返す意味がありますか?」
声は穏やかなままだった。
脅すために低くもしない。
決まった処理を説明しているだけだった。
「いいねえ」
サーシェスの笑みが深くなる。
「その方が分かりやすい」
「私が先に、あんたを攻撃したら?」
キーノが尋ねた。
「撃つに決まってんだろ」
「その場合は、サーシェスさんの自衛を妨げません」
「私だけ不利だ」
「では、キーノさんも正当な理由なくサーシェスさんへ攻撃しないでください」
「正当かどうかは、誰が決める?」
「三人とも納得できなければ、その場で話しましょう」
サーシェスが片眉を上げる。
「戦ってる最中にか?」
「可能なら」
「無理なら?」
「生き残った後です」
サーシェスが声を上げて笑った。
「生き残った方だけで話すのかよ」
「両方が生き残る努力はしてください」
「努力で済むならな」
キーノはサーシェスを睨み、鬼太郎を見る。
「お前は、私がこいつを殺したらどうする」
「理由を確認します」
「先に怒らないのか」
「サーシェスさんが先に契約を破った可能性もありますから」
「俺が何もしてなかったら?」
サーシェスが聞く。
「キーノさんを敵として扱います」
鬼太郎は二人を順に見た。
「逆の場合も同じです」
どちらかだけを無条件に庇う言葉ではなかった。
理由と契約を先に置く。
その上で、破った者を敵とする。
キーノは不満そうに見えたが、反論はしなかった。
◆
禁止事項は、三つに分けた。
鬼太郎への敵対依頼を受けない。
鬼太郎の居場所、能力、依頼内容を売らない。
一度引き受けた仕事から、合意なく離脱しない。
鬼太郎側にも同じ形の条件を置く。
サーシェスの居場所と仕事を、必要なく他人へ売らない。
契約中に、別の傭兵へサーシェスを狙わせない。
引き受けた仕事の条件を、途中で一方的に変えない。
「お前が報酬を払わなかったら?」
「仕事を中断して構いません。ただし、回収対象を持っている場合は、その扱いを話し合います」
「話し合えなかったら?」
「仲介人に預けます」
仲介人が頷いた。
「預かり料は取る」
「当然です」
「どっちが払う」
「原因を作った側です」
「両方が、自分は悪くないと言ったら?」
キーノが聞く。
仲介人が答える。
「両方から取る」
「こいつが一番得するな」
「だから中立でいられる」
契約を解除する場合、受けている仕事がなければ、どちらからでも次の月を待たずに終えられる。
ただし、前払いされた継続報酬は返さない。
受けた仕事が残っていれば、完了させるか、双方の合意で引き継ぎと清算を決める。
「俺が今日やめると言って、明日また金をもらうのは?」
「同じ月には払いません」
「細けえな」
「試していますね?」
「穴があるなら、使うに決まってんだろ」
「ですから、今塞いでいます」
鬼太郎の口元にも、わずかに笑みが浮かんでいた。
◆
仲介人が、新しい紙を二枚並べた。
ここまで決めた内容を、同じ順序で書き直す。
三か月。
一か月ごとの前払い。
未契約の時間における優先交渉権。
既存依頼の優先。
一日以内の返答と、緊急印。
拒否権。
個別報酬と必要経費。
ほかの仕事を受ける自由。
禁止事項と解除条件。
互いの本名も住所も書かない。
仲介人が管理している依頼人番号と、仕事上の呼称だけを使う。
この世界では、役所へ出す名前より、誰が前金を預かり、誰が違反を記録するかの方が役に立つ。
仲介人は一枚を書き終えるたび、もう一枚と文字を照らし合わせた。
鬼太郎が最初から声に出して読む。
キーノは紙へ目を落とした。
知っている数字がある。
三。
一。
同じ言葉が、二枚の同じ位置に書かれている。
鬼太郎が次の条項へ進んだ。
「待て」
「どうしました?」
「今の行をもう一度読め」
「先ほど説明した内容と同じですよ」
「私が読めないからって飛ばすな」
「飛ばしてはいません」
「なら、もう一度読め」
「分かりました」
鬼太郎は同じ行を、今度は指で追いながら読み直した。
受諾していない依頼は、拒否できる。
拒否したことだけを理由に、損害や罰金を請求しない。
キーノは、拒否を示す短い単語を見つけた。
「同じだ」
「ええ」
「次へ行け」
「お前が契約するみてえだな、小娘」
「あんたが読まないからだ」
「坊主が読んでるだろ」
「あんたも見ろ」
「見てるよ」
サーシェスは紙を自分の方へ引いた。
読めないふりをしていたわけではない。
キーノがどこまで口を出すのか、面白がっていただけだった。
二枚の内容が一致したところで、仲介人が末尾へ日付と自分の印を入れた。
鬼太郎は依頼人番号の横へ、これまで仕事で使ってきた印を残す。
サーシェスも同じように、自分の仕事上の呼称を書いた。
本名を知る必要はない。
契約を守る相手が、目の前にいる本人だと分かればよかった。
◆
鬼太郎は革袋を机へ置いた。
一か月分の継続報酬。
仲介人が数え、異なる貨幣を今日の交換率で価値へ直す。
契約書に記された額と一致した。
サーシェスが自分でも数え直し、袋の口を締める。
「これで、三か月分じゃねえんだな」
「一か月分です。次の月も続けるなら、次の月の初めに同額を払います」
「三か月契約なのに、払わなきゃ途中で終わる」
「そういう条件です」
「変な契約だ」
「お互いを縛りすぎないためですよ」
サーシェスは革袋を外套の内側へ入れた。
「今のところ、仕事はあるのか?」
「ありません」
「俺に何もさせず、金だけ払うのか」
「まだ僕が戦える状態ではありませんから」
「なら、治ってから契約すればいいだろ」
「その間に、サーシェスさんが長期の仕事を受けるかもしれません」
「受けるかもな」
「あなたが消えないように、先に払いました」
サーシェスはしばらく鬼太郎を見る。
「言い方が気持ち悪いな、坊主」
「よく言われます」
「私しか言ってないだろ」
キーノが横から言った。
「では、二人に言われました」
「増やすな」
仲介人が、二通の契約書をそれぞれへ渡した。
鬼太郎は紙を折り、内側のポケットへ入れる。
サーシェスは一度だけ目を通し、革袋とは別の場所へしまった。
「これで成立だ」
仲介人が言う。
「次の月の金を受け取るまで、勝手に延長はしない。違反か揉め事があれば、まず俺を通せ」
「分かりました」
「俺が坊主を撃った後でもか?」
「生きていればな」
「その返事なら信用できる」
サーシェスが立ち上がる。
「じゃあな、坊主。次の依頼が光をつけたり消したりする仕事じゃねえことを祈ってるぜ」
キーノの上着に隠した杖を、入室したときから見抜いていたらしい。
「あんたより先に二つ使えるようになった」
「俺は杖を使えねえよ」
「なら私の方が上だ」
「撃たれる前に灯せたらな」
「試すか?」
「やめてください」
鬼太郎が二人の間へ言葉を挟んだ。
「契約初日に、自衛の条項を試す必要はありません」
サーシェスは笑いながら部屋を出た。
◆
階段を下り、裏路地へ出る。
サーシェスは一人で歩き始めた。
鬼太郎とキーノは、少し間を空けて逆へ向かう。
住居の場所は聞かなかった。
あの坊主も、教えなかった。
それでいい。
サーシェスはこれまで、護衛、暗殺、襲撃、奪取の契約を受けてきた。
何を殺すか。
何を守るか。
何を持ち帰るか。
仕事には必ず、実行する内容があった。
今回の契約には、今すぐ撃つ標的も、守る荷物もない。
必要なときに話を聞ける位置にいろ。
それだけで、先に金を渡された。
命令に従うだけの兵士なら、もっと安く雇える。
狙撃ができる者も、魔法使いより先に撃てる者も、探せばほかにいる。
だが、撃てる敵を前にして撃たず、報酬対象を持ち帰る者。
依頼人が倒れても、受領印と清算まで終える者。
変わった状況で、自分の頭を使って役割を替える者。
坊主が金を払ったのは、その部分だった。
従順さではない。
サーシェス本人を、代わりの利かないものとして手の届く場所へ置こうとしている。
「面白えガキだ」
サーシェスは呟いた。
自由は失っていない。
次の角を右へ曲がれば、昨日受けた別の仕事へ向かう道だった。
その仕事を捨てろとは言われていない。
ただ、次に二つの依頼が同時に届いたなら、先に条件を聞くべき相手が一人いる。
サーシェスは外套の上から、継続報酬の革袋を叩いた。
引き金を引く仕事には、初めて先約がついた。