神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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弾丸と教科書を、同じ鞄へ

 

第五十四話 弾丸と教科書を、同じ鞄へ

 

 

「息を吸いな」

 

 治療師の指が、鬼太郎の右脇腹を押した。

 

 大きな傷痕は残っている。

 

 だが、押されても痛みはない。

 

 深く息を吸う。

 

 肋骨の下が広がり、閉じた皮膚が引かれる。以前のように、内側から裂ける感覚は起こらなかった。

 

「吐け」

 

 ゆっくり息を吐く。

 

 治療師は手を離し、次に左腕を持ち上げた。

 

 肩より上へ回す。

 

 左上腕の浅い傷も、動きを妨げない。

 

「目眩は」

 

「立ち上がった直後に、時々」

 

「走ったかい」

 

「まだです」

 

「撃ったかい」

 

「まだです」

 

「強い魔法は」

 

「使っていません」

 

 治療師が疑う目を向ける。

 

「弱いものは?」

 

「杖で明かりを出そうとしました」

 

「出たのかい」

 

「ほとんど出ませんでした」

 

「なら身体には優しいね」

 

「反論しにくい言い方ですね」

 

 壁際の椅子で、キーノが鼻を鳴らした。

 

「こいつは十回やって、一回しか光らない」

 

「あんたは?」

 

「私はもっとできる」

 

「それで無理をして倒れたら、二人分の治療費を取るよ」

 

「倒れない」

 

「倒れる奴は、みんな先にそう言う」

 

 治療師は鬼太郎の瞳を見て、脈を測った。

 

 それから、以前より色の戻った掌を裏返す。

 

「短い運動からだ。歩く。身体を捻る。軽い荷物を持つ。異常がなければ、次へ進め」

 

「銃の整備は?」

 

「座ってやるなら構わない。撃つのは、動いて傷が痛まないと確かめてから」

 

「依頼は?」

 

「聞く必要があるのかい」

 

「確認です」

 

「駄目だ。机に座って終わる仕事なら勝手にしな。戦う仕事はまだ受けるな」

 

「分かりました」

 

「返事だけは本当にいいね」

 

 治療師はキーノへ向き直った。

 

 首、手首、足首を確かめる。

 

 古い拘束の痕は消えていない。

 

 新しい傷はすべて閉じ、血色も前より良い。細かった腕にも、わずかに肉が戻っていた。

 

「あんたも短い運動から。傷が閉じることと、身体の中身が戻ることは別だよ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「何度も聞いた」

 

「聞くのと守るのも別だ」

 

 治療師は二人を見比べた。

 

「お前たちは、動けるようになるとすぐ殺し合いを始めそうだ」

 

「僕は依頼がなければ始めませんよ」

 

「依頼があれば始めるって意味だろうが」

 

「ええ」

 

「正直に答えるな」

 

 治療師が額を押さえる。

 

「次に運び込まれてきたら、倍取るからね」

 

「妥当だと思います」

 

「来ないと言え」

 

「それは約束できません」

 

 キーノが先に立ち上がった。

 

「話が終わったなら帰るぞ」

 

「そうしましょう」

 

「二人とも、私の話を聞いてたのかい?」

 

 裏口の扉が閉まるまで、治療師の声が追ってきた。

 

     ◆

 

 部屋へ戻ると、鬼太郎は机の上へ厚い布を敷いた。

 

 窓を閉める。

 

 扉へ鍵を掛け、手を洗う。

 

 右脇のホルスターから〈シュライク〉を抜いた。

 

 弾倉を外す。

 

 戦闘後に残った弾を抜き、一本ずつ布の上へ並べる。

 

 使ったのは六発。

 

 その六発分は、まだ戻していない。

 

 キーノは向かいの椅子へ座った。

 

「壊れてるのか」

 

「確認します」

 

「撃てば分かるだろ」

 

「壊れていた場合、撃ってからでは遅いですよ」

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を分解した。

 

 銃身。

 

 遊底。

 

 ばね。

 

 小さな金属部品。

 

 順序を崩さず、布の上へ並べる。

 

 石床へ落とした際についた細かな傷がある。

 

 乾いた血が入り込んでいた隙間もあった。治療所で表面だけは拭いたが、完全には落としていない。

 

 布と油を使い、一つずつ汚れを取る。

 

 歪み。

 

 亀裂。

 

 ばねの弱り。

 

 指で触れ、光へかざして確かめる。

 

「魔法があるのに、それも使うのか」

 

 キーノが尋ねた。

 

「魔法より早い場合があります。MAGを使わずに済むのも利点です」

 

「あの劇場でも使ってたな」

 

「ええ」

 

「私にも使えるか?」

 

 鬼太郎は部品から目を離した。

 

「使うだけなら、引き金を引けば弾は出ます」

 

「なら使える」

 

「狙った場所へ当て、反動を受け、次も撃てる姿勢を保つには練習が必要です。今のキーノさんの身体では、持ち方から始めることになります」

 

「お前も子供だろ」

 

「ですから、僕の身体に合わせて作られています」

 

 鬼太郎は握りの部分を示した。

 

 六歳の手に合わせてペタルが削り、成長に合わせて一度調整した形だ。

 

「普通の銃より、僕の手には馴染みます。キーノさんの手に合うとは限りません」

 

「杖と同じか」

 

「似ています。ただ、銃は撃った後で弾を戻せません」

 

 キーノが机へ手を伸ばす。

 

 指先は、分解された銃身の手前で止まった。

 

「触っていいか」

 

 鬼太郎は一度、キーノの手を見る。

 

「今は銃身だけなら。弾へは触れないでください」

 

 キーノは銃身を持ち上げた。

 

 穴の向こうから窓の光を見る。

 

「思ったより重い」

 

「その重さが反動を受けます」

 

「私にも教えろ」

 

「今すぐですか?」

 

「使うかどうかは、知ってから決める」

 

「では、身体が戻ってから安全な持ち方を教えます。その後も続けたいかは、ご自分で決めてください」

 

 キーノは銃身を元の位置へ戻した。

 

「先に杖だ」

 

「ええ。両方を同時に覚える必要はありません」

 

 清掃を終えた部品を組み直す。

 

 動きを確かめる。

 

 引っかかりはない。

 

 鬼太郎は保管していた弾薬から六発を取り出した。

 

 使った数だけを弾倉へ戻す。

 

 これで、見世物小屋へ入る前と同じ数へ戻った。

 

 弾倉を〈シュライク〉へ戻し、装填状態を確認してから安全に収める。

 

 まだ撃たない。

 

 銃が戻っても、身体まで同時に戻るわけではなかった。

 

     ◆

 

 机から銃の整備布を片づけた後、鬼太郎は別の帳簿を開いた。

 

 見世物小屋の出資者帳簿ではない。

 

 自分の収入と支出を書いたものだ。

 

 治療費。

 

 キーノの服と部屋。

 

 食費。

 

 サーシェスへ先に払った一か月分の継続報酬。

 

 今すぐ生活に困るほどではない。

 

 だが、何でも買えるほどでもなかった。

 

 鬼太郎は必要な品を紙へ書く。

 

 読み書きの教材。

 

 初歩の杖魔法書。

 

 魔法界の常識と法律。

 

 魔法薬と危険物。

 

 魔法生物。

 

 英国と欧州の地図。

 

 野営用品。

 

 弾薬と整備用品。

 

 丈夫な鞄。

 

 拡張魔法のかかった鞄。

 

「全部買うのか」

 

 キーノが紙を覗く。

 

「いいえ。今必要なものからです」

 

「金があるなら、全部買えばいいだろ」

 

「必要性が低いものまで買えば、次に本当に必要なものを買えなくなります」

 

「金を増やせばいい」

 

「そのためには、また仕事を受ける必要があります」

 

「なら、私にも仕事を出せ」

 

 鬼太郎はペンを止めた。

 

「勉強を続けることは、仕事にしませんよ」

 

「分かってる。食べ物と部屋の金も、後から取らないんだろ」

 

「ええ」

 

「それとは別に、仕事を出せと言ってる」

 

 キーノは内ポケットを叩いた。

 

 見世物小屋での働きへ払われた報酬と、店で買い物をした際の釣りが入っている。

 

「持ってるだけじゃ増えない」

 

「使わなければ減りません」

 

「お前の金だけで食ってるのも気に入らない」

 

「それは、借金にしないと決めた条件とは別の話ですか?」

 

「別だ。払えと言われるのと、自分で稼ぐのは違う」

 

 鬼太郎は少し考え、書いた買い物の一覧を見た。

 

「では、今日の買い物を仕事にしましょう」

 

「荷物持ちか」

 

「それだけではありません」

 

 別の紙へ、仕事内容を書く。

 

 周囲を見て、同じ者がついてきていないか確かめる。

 

 鬼太郎が店主と話している間、購入品を監視する。

 

 店と道順の特徴を覚える。

 

 勝手に盗まない。

 

 指示なく攻撃しない。

 

 危険を感じたら、その場で報告する。

 

「子供二人で大きな買い物をすれば、荷物か金を狙う者がいるかもしれません」

 

「見つけたら殺していいのか」

 

「駄目です」

 

「盗まれる前でも?」

 

「報告してください。戦う必要があるかは、その後に決めます」

 

「本当に敵だったら?」

 

「戦闘が必要になれば、危険に応じて追加報酬を出します」

 

「私が先に見つけたら?」

 

「その判断が正しく、役に立てば評価します」

 

「間違えたら?」

 

「理由を聞きます。故意でなければ罰金はありません」

 

「何もしなかったら?」

 

「頼んだことを故意にしなかったなら、報酬は減らします」

 

「全部か?」

 

「何をしなかったかによります」

 

 鬼太郎が固定報酬を示す。

 

 命の危険を前提としない、半日の見張りと荷物管理に対する金額だった。

 

 キーノは、以前教わった硬貨の価値へ直して考える。

 

「少ない」

 

「戦闘を含まない仕事です」

 

「尾行を見つけるかもしれない」

 

「見つけた場合は、成果として追加しましょう」

 

「いくらだ」

 

 鬼太郎が額を足す。

 

 キーノは紙を見る。

 

 すべての文章は読めない。

 

 だが、数字と、報酬、拒否、危険を表す短い語は分かる。

 

「盗みはしない。勝手に攻撃もしない。見つけたら先に言う」

 

「はい」

 

「その金ならやる」

 

「契約成立ですね」

 

 キーノは、自分で読める数字の横へ印をつけた。

 

     ◆

 

 外出前、鬼太郎はウォードの杖を上着へ入れた。

 

 漏れ鍋奥の壁を開くために必要な一本だ。

 

 キーノも仮杖を上着の内側へ隠す。

 

「魔法界で、自分から吸血鬼との混血だと話さないでください」

 

 鬼太郎が言った。

 

 キーノの手が止まる。

 

「隠せってことか?」

 

「恥じろという意味ではありません。相手が何を知っていて、その情報を何に使うか分からないからです」

 

「聞かれたら、嘘をつくのか」

 

「答える必要はないと言ってください。それでも聞く相手からは離れます」

 

「お前も隠してるのか」

 

「本名、寝床、MAG、使える魔法。必要がなければ話しません」

 

「サーシェスにも?」

 

「すべては話していません。向こうも同じです」

 

「ならいい」

 

 キーノは仮杖を収めた。

 

「使えるのは、光を出して消すだけです。戦えるつもりで抜かないでください」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「治療師と同じことを言うな」

 

「合理的な確認だと思いますよ」

 

 二人は人通りのある道を選び、漏れ鍋へ向かった。

 

 鬼太郎は長く歩いても、もう顔色を変えない。

 

 右脇腹が引かれる感覚は残っているが、痛みにはならなかった。

 

 キーノは店の看板を見ながら歩く。

 

 読める単語は少ない。

 

 それでも、宿、酒、薬、出口を示す文字を見つけるたび、声に出さず形を確かめていた。

 

 チャリング・クロス・ロードの雑踏に、漏れ鍋の入口は埋もれている。

 

 キーノは鬼太郎が立ち止まるまで、そこが店だと気づかなかった。

 

「見えなかったのか」

 

「建物は見えます。周りの人が気に留めていないだけです」

 

 鬼太郎が扉を開ける。

 

 薄暗い酒場の中で、何人かが二人を見た。

 

 子供だけで入ってきたからか。

 

 キーノの淡い金髪を見たからか。

 

 鬼太郎の顔を知っている者がいたのか。

 

 視線の理由までは分からない。

 

 鬼太郎は立ち止まらず、奥の中庭へ進んだ。

 

 キーノは客の数と、杖へ手を近づけた者だけを覚える。

 

 中庭には、ごみ箱と煉瓦の壁がある。

 

「行き止まりだ」

 

「入口です」

 

 鬼太郎はウォードの杖を抜いた。

 

 ごみ箱の上から三つ、横へ二つの煉瓦を探す。

 

 杖先で三度叩いた。

 

 叩いた煉瓦が震える。

 

 周囲の煉瓦が折り畳まれるように動き、壁へ穴を作っていく。

 

 その先に、人と店で埋まった通りが現れた。

 

 キーノは仮杖へ手をかけた。

 

「今のがお前の魔法か?」

 

「いいえ。この杖が、入口の鍵として働いただけです」

 

「杖を持っていれば、誰でも開けるのか?」

 

「決まった場所と叩き方を知らなければ開きません」

 

「どこだ」

 

 鬼太郎は煉瓦を指した。

 

「ごみ箱の上から三つ。そこから横へ二つです」

 

 キーノは動く壁より先に、位置と回数を目で追った。

 

「覚えた」

 

 二人が通り抜けると、背後で煉瓦が元へ戻った。

 

     ◆

 

 鍋が店先で勝手に湯気を吐いている。

 

 羽根ペンが、客の手に触れられないまま試し書きをしている。

 

 積まれた本の表紙で、金色の文字が形を変える。

 

 頭上を梟が横切った。

 

 ローブ姿の魔法使いが杖を振り、荷箱を浮かせて運んでいく。

 

 キーノは、どれにも声を上げなかった。

 

 最初に見たのは、通りの広さだった。

 

 次に、左右の細い道。

 

 店の奥へ抜ける扉。

 

 杖をすぐ抜ける場所へ差した者。

 

 荷物を抱える客の近くを、用もなく歩く者。

 

「全員、杖を持ってるのか」

 

「持っていない人もいます。ただ、持っている前提で考えた方が安全です」

 

「お前の銃を見てる奴はいない」

 

「知らないものは、警戒できませんから」

 

「だから使うのか」

 

「理由の一つです」

 

 鬼太郎は表通りから少し外れた道へ入った。

 

 新品を扱う大きな店ではない。

 

 持ち込まれた本や道具を買い取り、状態ごとに値段をつける古物店が並ぶ一角だった。

 

 看板の文字を、キーノは半分も読めない。

 

 読めない言葉の数が、そのまま知らない店の数になる。

 

 昨日まで、読めないことを知らずに済んでいた。

 

 今は、読めないたびに意味があると分かる。

 

「先に本です」

 

 鬼太郎が言った。

 

「次に鞄。残った金で整備用品を見ます」

 

「魔法生物の本は?」

 

「今回は見送ります」

 

「紙に書いてただろ」

 

「必要ですが、今日でなくても構いません」

 

 キーノは返事をせず、道の反対側を見た。

 

 茶色の外套を着た男が、薬店の前で包みを受け取っている。

 

 片方の靴だけ、乾いた泥で白く汚れていた。

 

 キーノは一度見て、視線を外した。

 

     ◆

 

 古書店には、古い紙と革の匂いが詰まっていた。

 

 棚は天井近くまである。

 

 本が自分で動かないよう、何段かには鎖が渡されていた。

 

 店主は片眼鏡越しに二人を見た。

 

「学校用かい」

 

「基礎から学べる本を探しています」

 

「今年の教科書なら奥だ」

 

「特定の学校向けではなく、魔法を知らない人向けのものを」

 

 店主はキーノを見る。

 

「この子が?」

 

「二人ともです」

 

「杖はあるのか」

 

「借り物が」

 

「なら、杖を選ぶところから書いた本がいい」

 

 店主は棚から数冊抜いた。

 

 鬼太郎は、すぐ値段を聞かなかった。

 

 頁をめくる。

 

 途中が抜けていないか。

 

 余白へ危険な呪文や、間違った手順が書き足されていないか。

 

 表紙と本文が別の本へ入れ替えられていないか。

 

 簡単な鑑定を頼む前に、自分で分かる範囲を確認する。

 

 キーノも一冊を取った。

 

 文字が多い。

 

 最初の頁から、知らない単語が続いている。

 

 隣の本には、杖の持ち方と動きが大きな絵で描かれていた。

 

 一つの頁にある文章も短い。

 

 キーノは二冊を持ち比べる。

 

「そちらにしますか?」

 

 鬼太郎が尋ねた。

 

「こっちなら、一人でも見られる」

 

「良い判断だと思います」

 

「読めない本を買っても、重いだけだ」

 

「ええ。実用的です」

 

 鬼太郎は挿絵の多い本を購入候補へ置いた。

 

 ほかに、読み書きの教材。

 

 魔法界の貨幣、店、移動手段を説明した一般書。

 

 基礎魔法理論。

 

 魔法薬と危険物の見分け方。

 

 英国魔法界の法律を簡単にまとめた本。

 

 魔法生物、欧州の移動、野営、上位魔法に関する本も見つかった。

 

 鬼太郎は値段と状態を書き留めるだけにする。

 

「買わないのか」

 

「今日必要なものからです」

 

「また金を稼いだら?」

 

「そのときも、必要な順に」

 

 店主と値段を話している間、キーノは購入候補の本から離れなかった。

 

 店の客が近づけば、手元を見る。

 

 誰も本へ触れない。

 

 鬼太郎が支払いを終え、店主が本を二つの包みに分けた。

 

 重い理論書は下。

 

 挿絵の本は上。

 

 キーノが一つを持つ。

 

「落とさないでください」

 

「落とさない」

 

「盗まれそうなら?」

 

「先に言う」

 

「お願いします」

 

 店を出る。

 

 通りの向かいに、茶色の外套があった。

 

 薬店の前にいた男だ。

 

 今は包みを持っていない。

 

 片方の靴だけが白く汚れている。

 

 男は硝子へ並んだ銀器を見ていた。

 

 キーノは男へ顔を向けず、古書店の窓へ映る姿を見た。

 

 鬼太郎の袖を一度引く。

 

「後ろの男。二度目だ」

 

 鬼太郎は振り返らない。

 

「どの人です?」

 

「茶色の外套。片方の靴だけ泥がついてる。さっきは包みを持ってた」

 

「今は?」

 

「ない。こっちを見ないふりをしてる」

 

 鬼太郎は、前方の店へ視線を向けたまま歩く。

 

「確かめます。次の角を右へ」

 

 二人は人の多い道具店へ入った。

 

 陳列棚の間を一度回る。

 

 裏手の細い出口から別の通りへ出た。

 

 店の硝子と、向かいの磨かれた大釜に背後が映る。

 

 茶色の外套は現れない。

 

「追わないのか」

 

 キーノが尋ねる。

 

「今日の仕事は買い物です」

 

「敵かもしれない」

 

「物盗りか、別の客か、僕を知る者か、まだ分かりません。捕まえれば分かる可能性はありますが、戦闘になる可能性もあります」

 

「今のお前は戦えない」

 

「ええ。それに、本を持って追う理由もありません」

 

 鬼太郎は別の道へ進む。

 

「報告は正確でした。外套だけでなく、靴と包みを覚えていたため、別人と見間違えた可能性も低い」

 

「報酬を増やせ」

 

「契約どおりに」

 

「今払え」

 

「荷物を無事に持ち帰ってからです」

 

 キーノは包みを抱え直した。

 

「なら、早く次へ行け」

 

     ◆

 

 鞄を扱う店には、革、布、獣皮で作られた品が並んでいた。

 

 小さな財布から、旅行用の大鞄まである。

 

 店の奥には、見た目より多くの荷物を入れられる品が三つ置かれていた。

 

「拡張魔法付きだ」

 

 キーノが札を見た。

 

 拡張という言葉は読めない。

 

 値段の数字だけは分かる。

 

「高いな」

 

「安いものもあります」

 

 鬼太郎は最も安い鞄を持ち上げた。

 

 縫い目は新しい。

 

 外側の革にも大きな傷はない。

 

 だが、中へ手を入れると、指先の位置がわずかに揺らぐ。

 

 空間が安定していない。

 

「何年使えます?」

 

 店主が肩をすくめた。

 

「乱暴に扱わなきゃ長く持つ」

 

「具体的には?」

 

「魔法の品に保証を求めるのかい」

 

「中の拡張が壊れた場合、入れたものは?」

 

「運がよけりゃ戻る」

 

「悪ければ?」

 

「それまでだ」

 

 鬼太郎は鞄を戻した。

 

「これは買いません」

 

「入るなら、これでいいだろ」

 

 キーノが言う。

 

「中で魔法が壊れれば、入れたものをすべて失います」

 

「高い方は?」

 

 店主が鍵のかかった棚を示した。

 

 安い鞄の何倍もの値札がついている。

 

 製作者の印、内部容量、耐荷重、修理を受ける店が書かれていた。

 

「今買えば、ほかの本と生活費を削ることになります」

 

「金を稼いでからか」

 

「それに、製作者と修理先も確かめます」

 

「面倒だな」

 

「失う方が面倒ですよ」

 

 今回は、拡張されていない丈夫な鞄を選ぶ。

 

 革紐。

 

 底の縫い目。

 

 留め具。

 

 キーノも引っ張り、簡単に切れないことを確かめた。

 

 中へ本を入れて持ち上げる。

 

 重さはそのまま肩へかかった。

 

「重い」

 

「普通の鞄ですから」

 

「何でも入る方を早く買え」

 

「信用できる品を見つけてからです」

 

 鬼太郎は、高い鞄の製作者印と店名だけを手帳へ書き写した。

 

     ◆

 

 帰路では、道を二度変えた。

 

 漏れ鍋へ戻る前に、同じ人影がついていないか確かめる。

 

 茶色の外套は現れなかった。

 

 買った本の包みは二つ。

 

 普通の鞄が一つ。

 

 整備用の油と布。

 

 予定していたものより少ない。

 

 それでも、欠けた頁のある安本や、壊れかけた拡張鞄は買っていない。

 

 漏れ鍋の中庭で、キーノは鬼太郎が叩いた煉瓦をもう一度確認した。

 

「上から三つ。横へ二つ」

 

「ええ」

 

「三回」

 

「覚えていましたね」

 

「一度見れば分かる」

 

「では、次はキーノさんが開けてみますか?」

 

 キーノはウォードの杖を見る。

 

「それはお前の鍵だ」

 

「貸すだけですよ」

 

「私の杖で開くか、今度試す」

 

「入口の仕組みを調べてからにしましょう。反応しない杖で無理に叩き続けるのは目立ちます」

 

「次は調べろ」

 

「分かりました」

 

 壁が閉じる。

 

 酒場を抜け、マグルの通りへ戻る。

 

 魔法の看板も、飛ぶ梟も消えた。

 

 鞄の重さだけは残っていた。

 

     ◆

 

 部屋へ戻ると、キーノは購入品を机へ並べた。

 

 包みを開く。

 

 本の数を数える。

 

 頁が折れていないか確かめる。

 

 途中で落としたものも、盗まれたものもない。

 

 普通の鞄にも、新しい傷はついていなかった。

 

「契約した仕事は完了です」

 

 鬼太郎が言った。

 

 最初に決めた固定報酬を渡す。

 

 さらに、尾行者らしき男を見つけた分を追加した。

 

 キーノはその場で数える。

 

 契約書の数字と同じだった。

 

「お見事でした、キーノさん」

 

「見てただけだ」

 

「見ることを仕事として頼みました。男の外套だけでなく、片方の靴の泥と、持っていた包みが消えたことまで確認していた。別人と見間違えた可能性を減らせています」

 

「捕まえなかった」

 

「捕まえる仕事ではありませんでした。報告して、購入品を持ち帰った。契約どおりです」

 

「あれが敵だったら?」

 

「今後、また現れれば判断材料になります」

 

「覚えてるのか」

 

「キーノさんの説明を記録しました」

 

 鬼太郎は手帳の一頁を見せた。

 

 茶色の外套。

 

 片方の靴の白い泥。

 

 最初は包みを持ち、二度目は持っていなかった。

 

 薬店の前と古書店の向かい。

 

 キーノが伝えた内容だけが書かれている。

 

「次に見たら、分かるな」

 

「同じ特徴が残っていれば」

 

 キーノは追加報酬を内ポケットへ入れた。

 

 食事や部屋に後からつけられた値段ではない。

 

 先に内容を聞き、自分で受けると決め、終えた仕事の金だった。

 

 二度目の報酬は、最初から自分のものだと分かっていた。

 

     ◆

 

 新しい鞄へ、買ったものを収める。

 

 重い魔法理論書を底へ。

 

 法律と一般知識の本をその上へ。

 

 キーノの挿絵つき入門書は、すぐ取り出せる場所へ入れる。

 

 整備用の油と布は、液が漏れないよう別の包みへ入れた。

 

 弾薬の箱は布で巻き、本の角が当たらない位置へ置く。

 

 魔法書と弾丸が、同じ鞄の中で仕切られる。

 

 すべてを入れると、持ち上げた鞄は重かった。

 

 キーノが肩へ掛け、すぐ机へ戻す。

 

「やっぱり、何でも入る鞄が必要だな」

 

「ええ。ですから、失敗しないものを買います」

 

「いつだ?」

 

「買えるだけの金と、信用できる店が揃ったときです」

 

「また仕事をするのか」

 

「身体が戻れば」

 

「私にも出せ」

 

「内容が合えば」

 

「先に私へ聞け」

 

「サーシェスさんとのような優先契約を望んでいるのですか?」

 

「違う。あんたにできる仕事なら、私にもできるか先に聞けと言ってる」

 

「分かりました。できると判断したものは、条件を提示します」

 

 キーノは新しい入門書を鞄から抜いた。

 

 机へ置き、昨日覚えた頁を探す。

 

 杖を持ち上げる。

 

「ルーモス」

 

 白い光が、挿絵と短い文章を照らした。

 

 鬼太郎の〈シュライク〉には、使った六発分が戻っている。

 

 机の上には、昨日までなかった教科書がある。

 

 一つは、次に引き金を引くための準備。

 

 一つは、次に誰かへ読んでもらわずに済むための準備。

 

 戦うための道具と、知らないものを減らすための道具を、二人は同じ鞄へ入れて持ち帰った。

 

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