第五十五話 火薬の音、杖先の灯
床板の継ぎ目を、爪先が越えた。
鬼太郎はそこで足を止め、踵を返した。
窓まで七歩。
扉まで八歩。
以前なら、数える必要もなかった距離だ。
窓際へ戻り、腰を落とす。膝を曲げ、背を伸ばしたまま立ち上がる。
一度。
二度。
三度目で、右脇腹の奥がわずかに張った。
痛みではない。
だが、なかったことにする理由もない。
鬼太郎は机の上の紙へ、三本目の線を引いた。
「もう終わりか」
向かい側で、キーノが杖を持ったまま言った。
「屈伸は、です。次は抜くだけにします」
〈シュライク〉から弾倉を外す。
遊底を引き、薬室が空であることを目で確かめる。弾倉と抜いた弾は、机の端へ置いた木箱へ収めた。
右脇のホルスターへ、空になった〈シュライク〉を戻す。
腕を下ろす。
息を吐く。
右手を上げ、握りを掴み、抜く。
銃口は床と壁の境へ向けたまま止める。
撃たない。
戻す。
同じ動きを繰り返すたび、療養で鈍った身体の位置が少しずつ分かってくる。頭の中にある動きへ、今の腕と腰が遅れてついてきた。
五度目で止める。
手首に痛みはない。
右脇腹にも、先ほど以上の張りはなかった。
鬼太郎が紙へ結果を書き加える間に、キーノは開いた本へ目を戻した。
挿絵の中では、杖を掲げた魔法使いが暗い部屋を照らしている。
その下にある短い文章を、キーノは指で追った。
「つ、え、の……さ、き……」
一つの単語で止まる。
鬼太郎は待った。
キーノの指が、前の頁へ戻る。同じ文字を探し、また今の頁へ戻ってきた。
「あかり」
「合っています」
「先に言うな」
「言っていませんよ」
「顔が言おうとしてた」
「それは気をつけます」
キーノは疑わしそうに一度だけ鬼太郎を見てから、杖先を本から離した。
「ルーモス」
白い光が灯る。
最初の頃より、形が崩れない。
十を越えても消えず、十五を数えたところで少し揺れた。キーノは杖を強く握り直す。
光が、かえって小さくなった。
「ノックス」
消えない。
「ノックス」
白い光は弱く脈打っただけだった。
キーノの眉間に皺が寄る。
「ノックス」
三度目で消えた。
キーノは紙へ三つ印をつけ、最後の一つだけ丸で囲んだ。
「昨日と同じだ」
「昨日は四回目でした」
「一回しか違わない」
「一回、減っています」
「まだ二回も失敗した」
「では、次は一回に減るか確かめられますね」
キーノは返事をせず、もう一度杖を上げた。
鬼太郎は自分の紙へ視線を落とした。
歩行。
屈伸。
抜銃。
できることは増えている。
以前と同じではない。それでも、昨日よりは動けた。
向かい側でも、また小さな光が灯った。
◆
三日後、治療師は鬼太郎の右脇腹を指で押した。
「痛むかい」
「いいえ」
「昨日は」
「捻ったときに少し張りました。休めば消えました」
「隠してないだろうね」
「隠すなら、張ったことも言いませんよ」
「あんたは隠す場所を選びそうだから聞いてるんだ」
治療師は顔をしかめたまま、鬼太郎の両腕を上げさせた。
左上腕の傷は動きを妨げない。
深く息を吸っても、右脇腹は痛まなかった。
部屋の端まで歩き、戻る。
今度は少し速く。
急に止まり、身体を横へ向ける。
視界は揺れない。
治療師は腕を組んだ。
「少しなら撃っていい」
「何発です?」
「最初は三発。間を空けろ。立ったまま撃って、痛みも目眩もないと確かめる。走り回った後に撃つのはまだだ」
「遮蔽物へ移動する程度は?」
「ゆっくり歩け。痛んだら、三発残っていても終わりだ」
「分かりました」
「戦う仕事を受けていいとは言ってないよ」
「それも分かっています」
「その顔は、もう仲介人のところへ行くつもりだね」
「仕事の内容を聞くことと、受けることは別です」
「言い返す元気まで戻ったか」
「前からあったと思います」
治療師はため息をつき、キーノへ手招きした。
「次はあんただ」
キーノは椅子から立った。
首、手首、足首。古い拘束痕の周囲を確かめられる。
治療師の手を振り払うことはない。ただ、触れられる場所を目で追っている。
「歩いた時間は」
「昨日は四半刻くらい」
「休まずに?」
「途中で一度止まった」
「食べたかい」
「朝も昼も」
「魔法は」
「光を出して、消してる」
「何回」
「決めた数だけだ」
「誰が決めた」
「私だ」
治療師は鬼太郎を見た。
「本当かい」
「ええ。失敗した回数も自分で記録しています」
「そっちは銃まで持ち始めるんじゃないだろうね」
キーノが鼻を鳴らした。
「今は杖だけだ」
「へえ」
「なんだ」
「そっちの子より話が早いと思ってね」
「否定はしません」
「お前が言うな」
キーノが鬼太郎を睨む。
治療師は初めて少し笑い、キーノの腕を離した。
「日常の外出は構わない。軽い運動も続けな。ただし、傷が閉じることと、失った血や体力が戻ることは別だ」
「何度も聞いた」
「なら、何度でも守りな」
「分かってる」
「本当に、こっちの方が話が早いね」
「僕も指示は守っていますよ」
「三発撃って帰ってきたら信じてやる」
「では、信じてもらえそうです」
「余計な一言が多いんだよ」
◆
治療所を出た後、二人は人通りの少ない道を選んだ。
鬼太郎は歩調を上げない。
キーノも、先に行こうとはしなかった。
「いつ撃ちに行く」
「明日です。以前使った場所が空いているか、先に確かめます」
「私も行くのか」
「希望するなら、見学はできます」
キーノは少し考えた。
「行かない」
「そうですか」
「本を読む。ノックスもまだ失敗する」
「銃の扱いについては?」
「後でいい。先に杖だ」
答えに迷いはなかった。
「銃は弾がなければ使えない。音もする。私の手に合うものもない」
「そのとおりです」
「杖はもうある。光しか出せないけど、ほかにも使えるんだろ」
「本に書かれているものを、そのまま使えるとは限りません。杖との相性もあります」
「なら、なおさら先に試す」
キーノは自分の上着の内側へ入れた仮杖を押さえた。
「字が読めなければ、本に何が書いてあるかも分からない。全部を同時にはできないなら、こっちからだ」
「妥当な順番だと思います」
「なら、銃は要らない」
「当分は教えません」
鬼太郎はそれ以上勧めなかった。
見世物小屋で、キーノは自分の手で拘束を外した。
先ほども、自分に必要なものを自分で選んだ。
鬼太郎が決め直す理由はない。
◆
翌日、鬼太郎は一人でロンドンを離れた。
向かったのは、町外れに残された小さな作業場だった。
煉瓦を焼いていた古い建物で、奥には掘り返された土が厚く盛られている。表の道から入口は見えず、今は荷車も入らない。
以前にも、武器の状態を確かめるため短時間だけ借りたことがある。
持ち主は、何を撃つのか聞かなかった。
鬼太郎も、何に使っていた場所かは聞いていない。
扉の封は、昨日伝えられた形のままだった。
中へ入っても、すぐに〈シュライク〉は抜かない。
床の足跡を見る。
古い靴跡は乾いた土で縁が崩れている。新しく踏まれた跡はない。
梁の上。
割れた窓の外。
土壁の裏側。
人が隠れていないことを確かめる。
退路は入ってきた扉のほかに、崩れかけた資材口が一つ。板は外側へ倒せる。
鬼太郎は厚い土壁の前へ、印を描いた紙を置いた。
そこから距離を取り、〈シュライク〉を抜く。
弾倉を入れる。
遊底を引く。
一発が薬室へ送られた。
足を開く。
腕だけで支えず、肩から腰までを使う。
照準の向こうで、紙の中心が止まった。
引き金を絞る。
乾いた銃声が、使われなくなった窯へ反響した。
銃口が跳ねる。
土壁から細かな粉が落ちた。
鬼太郎は銃口を下げず、周囲の音を聞く。
誰かが近づく気配はない。
安全装置をかけ、〈シュライク〉を下ろした。
右手首を曲げる。
左腕を上げる。
右脇腹へ手を当て、深く息を吸う。
痛みはない。
紙へ近づく。
弾は中心より下へ外れていた。
狙いが誤っていたわけではない。
引き金を引いた瞬間、体幹が反動を受け切れず、銃口がわずかに沈んでいる。
頭の中に残る技量へ、今の身体が合っていない。
見世物小屋へ入る前とも違う。
鬼太郎は射線へ戻った。
足の幅を少し狭める。
右脚へ寄りすぎていた重心を中央へ戻す。
呼吸を整え、二発目を撃った。
一発目より中心へ近い。
今度も、すぐに続けない。
手首。
腕。
脇腹。
異常はない。
最後の一発は、離れた木箱の陰から撃つことにした。
走らない。
歩いて近づき、腰を落とす。
箱の縁から銃口を出す。
身体を横へ捻ったとき、右脇腹の奥が引かれた。
撃てないほどではない。
鬼太郎は照準を合わせ、三発目を撃った。
弾は紙の内側へ収まった。
そのまま四発目を撃つこともできる。
弾倉には、まだ弾が残っている。
敵もいない。
期限もない。
鬼太郎は安全装置をかけ、〈シュライク〉から弾倉を抜いた。
薬室の一発も取り出す。
三発で終える。
前の世界なら、傷が残っていても動いた。
次の瞬間には敵が来る。
弱ければ死ぬ。
休む場所も、食事も、明日まで身体を戻す保証もない。生きるために必要なら、壊れる寸前まで使うしかなかった。
そうして力をつけた。
最後には、強い者と戦うことだけが残った。
今は違う。
帰れば部屋がある。
食事もある。
傷が張るなら、明日まで休める。
力だけで何もかもを通せない仕組みは面倒だった。部屋を借りるにも、銃を撃つにも、金と人のつながりと約束が要る。
けれど、それも前の世界にはなかったものだ。
嫌ではない。
急いで身体を壊すより、使える時間を使って調べ、鍛えた方が強くなれる。
鬼太郎は三つの弾痕が残った紙を外した。
空薬莢も拾う。
来たときより痕跡を増やしていないことを確かめ、作業場を出た。
◆
部屋へ戻ると、白い光が机を照らしていた。
キーノは杖を上げたまま、紙に並んだ印を見ている。
扉が開いても、すぐには振り返らない。
「ノックス」
光が消えた。
一度で。
薄暗くなった部屋で、キーノが鬼太郎を見た。
「見たか」
「ええ。一回でしたね」
「その前は二回失敗した」
「何を変えました?」
鬼太郎は上着を脱ぎ、〈シュライク〉を机から離れた棚へ置いた。まだ弾は戻さない。
キーノが紙を指す。
縦線と横線。
丸。
文字として読めるものは少ない。
「大きく振っても変わらない。早く言っても変わらない。強く握ると、失敗が増えた」
「成功したときは?」
「腕に力を入れなかった」
キーノはもう一度、杖を上げる。
指を固めず、落とさないだけの力で握った。
「ルーモス」
白い光が灯る。
呼吸を一つ置く。
「ノックス」
光は、一度で消えた。
キーノの口元が、ごくわずかに上がる。
「二回だ」
「同じ条件で二度成功しました。覚えておきましょう」
「もう覚えた」
「記録にも残してください。明日、うまくいかなかったときに比べられます」
キーノは面倒そうな顔をしたが、紙へ新しい丸をつけた。
「お前は当たったのか」
「三発とも紙には」
「真ん中は?」
「一発目は下へ外れました。二発目は中心近くです。三発目は内側へ入りました」
「下手になったな」
「ええ。身体の使い方を直す必要があります」
「それだけか」
「脇腹が少し引かれました。明日まで残るか確認します」
キーノが鬼太郎の右脇腹を見る。
「四発目は?」
「撃っていません」
「撃てなかったのか」
「撃てましたよ」
「なら、なぜ撃たない」
「撃てることと、撃ち続けてよいことは別です。傷が開けば、また何週間も失います」
キーノは自分の脇腹へ一瞬だけ触れた。
見世物小屋で何度も切られた場所だ。
「治るなら使えばいいと思ってた」
「傷だけ治っても、失うものはあります」
「治療師と同じことを言うな」
「正しい話は、誰が言っても同じになります」
「あいつみたいな言い方になってるぞ」
「それは困りますね」
キーノは鼻で笑い、また杖を持ち上げた。
鬼太郎も、保管していた借り物の杖を一本出した。
ウォードから奪った杖ではない。残る二本のうち、握っても掌を押し返さなかった方だ。
杖先を、誰もいない壁へ向ける。
「ルーモス」
何も起こらない。
二度目。
杖先がわずかに熱を持っただけだった。
三度目も光らない。
「力を入れすぎてるんじゃないか」
キーノが言った。
「試してみます」
鬼太郎は指を緩めた。
現世の魔力を、杖へ流す。
その経路へ、別のものが触れた。
熱を持つMAGが、同じ細い道へ入り込もうとする。
分ける。
押し戻す。
杖へ通すものだけを選ぼうとする。
「ルーモス」
針先ほどの光が浮かんだ。
二秒も経たずに消える。
「出た」
「少しだけですが」
「私の方が先に覚えるな」
「その可能性は高いでしょう」
「悔しくないのか」
鬼太郎は杖先を見た。
熱は残っている。
焦げてもいない。
自分が失敗したからといって、キーノの光が弱くなるわけではない。
違う結果が出るなら、原因を分ける材料になる。
「キーノさんの成功が減る方が、困ります。違いがあった方が調べやすいですから」
「変なやつだな」
「初めて言われた気はしませんね」
鬼太郎は、光が出た回数と時間を書き留めた。
キーノは、自分の丸が並んだ紙をその隣へ置く。
一方は、銃声を三度。
もう一方は、光を灯して消すことを何度も。
同じ部屋に戻っても、身につけるものまで同じである必要はなかった。
◆
翌日の午後、二人は食料を買いに出た。
魔法界ではない。
住居から離れた、マグルの店が並ぶ通りだった。
パン。
干し肉。
卵。
キーノは値札を見て、自分で合計を出そうとした。
鬼太郎は答えを言わず、硬貨だけを掌へ載せる。
店主へ渡す前に、キーノは二度数えた。
釣りも、その場で確かめる。
不足はない。
包みを二つに分け、一つずつ持って店を出た。
三歩進んだところで、キーノが鬼太郎の袖を一度引いた。
「いた」
声は低い。
顔は前を向いたままだ。
「誰がです?」
「茶色の外套」
鬼太郎は振り返らなかった。
通りの向かいには、硝子窓の広い仕立屋がある。
布地の向こうに、歩道が映っていた。
茶色い外套の男が立っている。
魔法界で見たときの、片方の靴についた白い泥はない。
「同じ人だと分かりますか?」
「左の袖が擦れてる。歩くと、右の肩が少し下がる」
男は店先へ並んだ帽子を見ていた。
こちらを見てはいない。
「進みましょう」
二人は歩いた。
最初の角を左へ曲がる。
男は来ない。
少し先の金物店へ入り、裏口のない店内を一周する。何も買わずに出て、今度は来た道と反対へ進んだ。
磨かれた鍋の表面に、通りの後ろが歪んで映る。
茶色い外套が、距離を空けて現れた。
キーノは鬼太郎を見ない。
「ついてきた」
「ええ」
二度目は、人通りの多い市場へ入った。
露店の間を抜け、買う予定のなかった林檎を二つ買う。
客の流れに合わせて出口を変える。
男は、また離れた場所へ姿を見せた。
同じ店へ用があっただけではない。
二度の進路変更へついてきている。
「捕まえるか」
キーノが囁いた。
「いいえ」
「敵かもしれない」
「ですから、今は触れません」
「なぜだ」
「一人とは限りません。捕まえれば、帰る先も分からなくなります」
キーノは一度黙った。
「泳がせるのか」
「その言葉も知っていましたか」
「見世物小屋の客が言ってた」
「意味も合っています」
「褒めるな。今はあいつの話だ」
「では、気づいていないふりを続けましょう」
二人は住居へ向かわなかった。
人の出入りが多い食堂へ入り、別々の扉があることを確かめる。
食事をする客の間を抜ける。
裏手へ出た後、狭い路地を二つ使って大通りへ戻った。
茶色い外套は現れない。
それでも、すぐには帰らなかった。
もう一軒の店へ入り、時間を置く。
住居へ続く道を二度通り過ぎ、背後に同じ人影がないことを確かめてから戻った。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
窓の隙間から通りを見る。
茶色い外套はなかった。
◆
鬼太郎は机へ手帳を開いた。
前の頁には、昨日の試射がある。
三発。
一発目は中心より下。
二発目は中心近く。
三発目は移動後、紙の内側。
右脇腹に軽い引きつり。翌日には残らず。
手首、左腕、呼吸に異常なし。
その下には、キーノの記録を短くまとめていた。
ルーモスは安定。
ノックスは、握る力を弱めた状態で二度続けて成功。
試した条件を自分で印に残した。
読み書きと杖魔法を優先。銃の訓練は当分行わない。
新しい頁を開く。
茶色の外套。
三度目。
魔法界ではなく、マグル側の通り。
左袖に擦れ。
歩く際、右肩がわずかに下がる。
二度の進路変更へ追従。
食堂を抜けた後は確認できず。
住居まで追われた形跡なし。
「次に見つけたら、どうする」
キーノが机の向かいから尋ねた。
鬼太郎は最後の一行を書き終えた。
「今度は、こちらが後ろを歩きましょう」
「捕まえないのか」
「帰る場所を確かめてからです。あの人が誰かより、誰へ報告するかの方が価値があります」
「逃げたら?」
「そのときは、逃げ方が分かります」
「魔法を使ったら」
「何を使えるかが分かります」
「私たちに気づいたら」
「尾行に気づける人だと分かります」
キーノは考え、頷いた。
「何をしても、見るものはあるんだな」
「生きて戻れば、ですが」
「なら、死ななければいい」
「簡潔で助かります」
鬼太郎は手帳を閉じた。
机の片側には、清掃を待つ〈シュライク〉がある。
もう片側には、丸と線が並んだキーノの紙と、仮杖が置かれている。
火薬の音を取り戻す者。
杖先の灯を、自分の意思で消せるようになった者。
二人は同じ部屋にいた。
けれど、同じ力を選ぶ必要はなかった。
窓の外には、茶色い外套の姿はない。
見えなくなったことと、いなくなったこともまた、同じではなかった。