第五十六話 尾行者は、報告先を隠す
「止まれ」
治療師の声で、鬼太郎は足を止めた。
診察室の端から端まで、速足で三往復。
最後だけ歩幅を広げ、右足を前へ出した状態から身体を横へ向けた。
視界は揺れていない。
呼吸も乱れていない。
右脇腹の傷痕へ手を当てる。
「痛みは」
「ありません」
「張る感じは」
「今はありません。前回の試射後も、翌朝には残っていませんでした」
「三発でやめたんだろうね」
「ええ」
「本当に?」
「薬莢も三つでした」
壁際の椅子から、キーノが答えた。
治療師が片眉を上げる。
「一緒に行ったのかい」
「帰ってきたこいつが持ってた」
「数えたのか」
「三つなら数えなくても分かる」
「なるほどね」
治療師は鬼太郎を寝台へ座らせた。
右脇腹を押し、腕を上げさせ、深く息を吸わせる。
塞がった傷が開く兆候はない。
脈を測った後、左上腕も確認する。
「短い仕事なら、もう止めないよ」
「短い、とは?」
「一日中走り回らない。何日も寝ずに追いかけない。傷へ強い衝撃を受けたら帰る」
「帰れる状況なら」
「帰れない仕事を選ぶな」
「依頼を受ける前に確認します」
「それから、あの妙な治癒魔法で無理やり動き続けるのも駄目だ」
ディアのことだ。
治療師は名前も仕組みも知らない。それでも、鬼太郎の右脇腹を閉じた力が、失った血や体力まで戻さなかったことは診察で知っている。
「傷を治しても、消耗は残る。もう一度同じことをすれば、次も起き上がれるとは限らない」
「分かりました」
「守れない条件なら、最初から返事をするんじゃないよ」
「守れないと判断した時点で、依頼条件を変えさせます」
治療師はしばらく鬼太郎を見た。
「受けないとは言わないんだね」
「必要なら断りますよ」
「必要じゃなきゃ受けるんだろう」
「条件が合えば」
治療師は額を押さえた。
「許したのは仕事だ。切り刻まれて戻ってくることじゃないからね」
「区別しておきます」
「その区別が信用できないんだよ」
キーノが椅子から立った。
「終わったなら行くぞ」
「あんたもだよ」
「私は戦わない」
「なら、なおさら巻き込まれるんじゃないよ」
「巻き込まれたら、逃げる」
「そっちの返事の方がまだ安心できるね」
「僕も撤退条件は決めますよ」
「はいはい。次は倍取るからね」
「前にも聞きました」
「聞くだけで来るから、何度でも言うんだ」
治療師の声を背中に受けながら、二人は裏口を出た。
◆
仲介人の机には、三枚の依頼書が置かれた。
鬼太郎は椅子へ座り、キーノはその斜め後ろへ立った。
扉と窓の両方が見える位置だ。
「復帰したばかりなら、これだ」
仲介人が一枚目を指で弾いた。
封印された小箱を、横丁内の店から別の店へ運ぶ仕事だった。
距離は短い。
期限にも余裕がある。
中身を見ず、封を壊さなければよい。
「襲撃の見込みは?」
「低い」
「報酬も低いですね」
「安全代だ」
「僕を指名した理由は?」
「誰でもいい仕事だ。お前が軽いものを欲しがるかと思ってな」
鬼太郎は依頼書を戻した。
「候補には残します。次を」
二枚目は、持ち主の死後に残された銀製の器の回収だった。
郊外の屋敷にある。
依頼書には、器へ呪いがあるとだけ書かれている。
「呪いの種類は?」
「聞いていない」
「以前に回収を試した人は?」
「依頼人は答えなかった」
「持ち主の死因は?」
「病死だと言っている」
「確認は?」
「取れていない」
鬼太郎は二枚目も戻した。
「これは断ります」
「呪いが怖いか」
「分からないものは、どれも危険です。問題は、依頼人が危険を知らせず安く済ませようとしていることですよ」
「値を上げさせれば?」
「情報を隠したまま値だけ上げる人は、次の情報も隠します」
「違いない」
仲介人は二枚目を机の端へ寄せた。
三枚目は、ほかの二枚より記載が多かった。
生存回収。
対象はエドガー・ヴェイルという魔法使い。
五十代。
灰色の髪。
右耳の上部が欠けている。
空間を拡張した鞄や箱の補修を仕事にしている。
鬼太郎の指が、そこで止まった。
「拡張鞄の職人ですか」
「新しく術式を掛けるより、壊れかけた内側を安定させるのが得意らしい」
「なぜ捕まったんです?」
「密輸屋が安物の鞄を買い集めた。中の空間が歪み始めて、こいつへ直させようとした」
「断った」
「下手に触れば、中身ごと消えるか、外へ吐き出す。そう言ってな」
「そのまま連れ去られた?」
「昨夜だ。最後に生きているのを見た者もいる」
依頼書には、ヴェイル本人のほかに回収対象がもう一つあった。
銅の縁取りがある黒い工具箱。
開封禁止。
破損禁止。
「工具箱の中身は?」
「職人道具だそうだ」
「防護は?」
「所有者以外が開ければ、中を焼く簡単なものがあるらしい」
「らしい、ですか」
「依頼人も仕組みまでは知らない」
「依頼人とヴェイルさんの関係は?」
「共同で仕事を回すことがある。客を紹介して、売上の一部を取る」
「本人が逃げただけでは?」
「なら、自分の工具箱を置いていく理由がない。それに、連れ去られるところを見た証人がいる」
場所はロンドン近郊の旧貨物集積所。
マグル側では使われなくなっているが、地下と倉庫の一部は密輸品の一時保管に利用されている。
確認できた敵は少なくとも六人。
うち二人が杖を持つ。
残りは銃器や刃物を使う可能性がある。
「いつの情報です?」
「昨日の夕方」
「期限は」
「明日の夜まで。ヴェイルを生きた状態で、工具箱と一緒に指定場所へ運ぶ」
「拘束している側は?」
「生死を問わない」
「ヴェイルさんが負傷していても?」
「本人確認ができて、引き渡しまで生きていれば条件内だ」
「依頼人の希望ではなく、契約上は?」
「同じだ」
報酬は、一件目の数倍だった。
準備金は書かれていない。
その代わり、末尾に別の条件がある。
完遂した場合、依頼人は信頼できる拡張鞄の製作者へ紹介状を出す。
商品の値引きや無償提供までは含まれない。
「紹介先の名前は?」
「契約成立前には出さないそうだ」
「紹介状を後から取り消す条件は?」
「書かれていない」
「では、加えましょう」
鬼太郎は依頼書を机へ置いた。
「準備金を先に。現地の人数が情報より三人以上多い場合は追加報酬。紹介状は、依頼人の都合で取り消せない。ヴェイルさん本人が紹介を拒否した場合は、僕の失敗にしない」
「注文が多いな」
「人と壊してはいけない箱を、人数の分からない場所から運ぶ仕事ですから」
「紹介状が目当てか」
「報酬もですよ」
「拡張鞄なら、横丁で見ただろう」
「壊れたときに中身ごと失う品でした。安いものを二度買うより、信用できるものを一度買う方が安く済みます」
仲介人は条件を書き取り、奥の扉へ消えた。
キーノは机の三枚を見下ろした。
「一つ目の方が簡単だった」
「ええ」
「なぜ、こっちだ」
「金と紹介状が残ります。職人本人とも話せるかもしれません」
「助けたいからじゃないのか」
「会ったこともない人ですよ」
「死んでもいい?」
「死なせれば報酬が減ります」
キーノは鬼太郎の顔を見た。
「本当に、それだけか」
「今のところは」
「そうか」
責める声ではなかった。
見世物小屋から自分を連れ出した理由についても、鬼太郎は善意だとは言わなかった。
それでも条件を交わし、破ってはいない。
仲介人が戻ってきた。
「通った。準備金は今ここで払う。敵が九人以上なら追加。紹介状は依頼完遂と同時に封をした状態で渡す。職人本人が紹介を拒んでも、お前の責任にはしない」
「工具箱の防護を作動させた場合は?」
「箱を壊した扱いだ」
「運搬中にヴェイルさん本人が開けるのは?」
「依頼人に確認した。中身を失わないために必要なら認める。ただし、道具を抜き取れば減額だ」
「分かりました」
鬼太郎は期限、引き渡し場所、追加条件を読み直した。
不明な表現を二つ尋ね、仲介人に書き換えさせる。
最後に署名の代わりとなる依頼人番号を記した。
準備金を受け取る。
「受けます」
回復後、最初の依頼が決まった。
◆
仲介人の建物を出る前に、キーノが言った。
「私の仕事は」
「旧貨物集積所へは連れていきません」
「まだ何も言ってない」
「今のキーノさんに、あそこでできる仕事はありません」
「見ることはできる」
「銃と魔法が飛ぶ場所で、ですか?」
「逃げられる」
「逃げる経路を知らない場所へ連れていくことになります。今回は駄目です」
キーノの目が細くなる。
「できないと決めるのか」
「現場で任せられる役割がないと判断しました。代わりに、別の仕事があります」
「何だ」
「茶色い外套の人を探してください」
キーノの表情から、苛立ちが少し消えた。
鬼太郎は条件を一つずつ挙げる。
仲介人との往復や、打ち合わせへ向かう間だけ周囲を見る。
男を発見したら、持っている包みを右手から左手へ持ち替える。
自分から近づかない。
男がキーノだけを追った場合は、人の多い店へ入り、決めた場所で鬼太郎と合流する。
捕縛も逆尾行もしない。
「現れなかったら?」
「見張った時間に対する固定報酬は払います」
「見つけたら?」
「新しい特徴か、同行者か、連絡方法を確認できれば追加します。ただし、追いかける必要はありません」
「お前が追うのか」
「いいえ。僕が追えば、尾行される人がいなくなります」
「なら誰が」
「サーシェスさんへ頼みます」
キーノは少し考えた。
「あいつには、別の金を払うのか」
「役割が違いますから」
「私が見つけて、あいつが追う」
「ええ」
「あいつが失敗しても、私の報酬は減らない?」
「減りません。キーノさんの仕事は、正しく見つけて合図するところまでです」
「受ける」
「では、時間と固定報酬を書きます」
鬼太郎は新しい紙を出した。
キーノはまだ全文を一人では読めない。
鬼太郎が短い言葉で読み上げる。
キーノは、自分の知っている数字と単語が口頭の条件に合っているかを確かめた。
「追加の金は、見つけただけでは出ないのか」
「すでに特徴を知っている人を見つけるのは、固定分へ含めます。服装や連れが変わっていても同じ人だと判別できれば追加です」
「分かった」
キーノが紙の端へ、自分の名前をゆっくり書いた。
◆
サーシェスへは、通常の伝言を使った。
緊急印は押さない。
明日の夜までという期限はあるが、即座に返事がなければ失敗する段階ではない。
返答は夕方前に届いた。
以前から受けていた仕事は終わった。
二時間後、指定の貸し部屋へ行く。
鬼太郎とキーノが先に入った。
サーシェスは約束の時刻より少し前に現れた。
上着の下にはリボルバーがある。
長銃や大きな鞄は持ち込んでいない。
「仕事を出すまで、思ったより早かったな」
「身体が戻りましたから」
「医者は泣いてなかったか?」
「次は倍取ると言っていました」
「そいつは楽しみだ」
「僕は安く済ませたいですね」
鬼太郎は依頼書の写しを机へ置いた。
職人エドガー・ヴェイル。
銅縁の黒い工具箱。
旧貨物集積所。
敵は六人以上、魔法使い二人以上。
翌日の夜まで。
サーシェスは一通り読んだ。
「生きた職人と、壊すなって箱か。面倒な二つを別々に置かれてたら?」
「役割を分けます」
「増援は」
「九人以上なら追加報酬です。増えたから依頼をやめる条件にはしていません」
「魔法使いが増えてても同じか?」
「人数の追加へ含まれます。魔法使いの数だけを別条件にはしていません」
「そこは取り損ねたな」
「次から気をつけます」
サーシェスが喉の奥で笑った。
「で、俺に何をさせる」
「現地の外周確認と、必要なら長距離からの射線確保を。突入時の役割は、下見後に決めます」
「報酬は?」
鬼太郎が額を提示する。
サーシェスは即答しなかった。
「箱と人間を両方守るなら、もう少しだ。弾と移動はそっち持ち。爆薬を使うなら別」
「爆薬は、現地を見てから相談します。弾薬と移動費は経費へ。報酬はここまでなら上げます」
「治療費は契約どおりだな」
「仕事中の負傷なら」
「受けよう」
まだ話は終わっていない。
鬼太郎は茶色い外套の男について説明した。
魔法界で二度。
マグル側で一度。
二度の進路変更へ追従。
左袖の擦れ。
右肩がわずかに下がる歩き方。
攻撃も接触もなく、距離を保って観察している。
「仕事と関係あるのか?」
「まだ分かりません。僕たちを以前から見ています」
「そいつも追えって?」
「現れた場合だけです。キーノさんが見分け、僕たちは気づかないふりを続けます。サーシェスさんには、その人が離れた後を追ってほしい」
「捕まえるな、と」
「報告先を優先してください」
「本来の依頼とは別だな」
「ええ」
「なら金も別だ」
「そうなると思っていました」
逆尾行が発生した場合の報酬。
相手と戦闘になった場合の危険手当。
尾行のために使った移動費。
サーシェスが相手の報告先まで突き止められなくても、一定時間追跡し、確認できた事実を持ち帰れば報酬は発生する。
「逃げられたら失敗か?」
「逃げ方や使った道具が分かれば、情報になります。何も見ずに見失った場合は、固定分だけです」
「相変わらず、結果を細かく刻むな」
「何へ払ったか分からない金は、次に使えませんから」
「いいぜ。そっちも受ける」
サーシェスは優先交渉契約があるから従ったのではない。
二つの仕事内容と金額を聞き、そのうえで受けた。
鬼太郎は、現地の下見までの時刻と合流場所を決めた。
◆
貸し部屋を出た後、三人は一緒には歩かなかった。
鬼太郎とキーノが先に通りへ出る。
サーシェスは時間を置き、別の出口から出た。
鬼太郎の手には、依頼の資料を入れた茶色い包みがある。
キーノは食料の入った小さな袋を右手で持っていた。
二人は普段と同じ速さで歩く。
背後を振り返らない。
店の窓や磨かれた金属へ、正面の風景を見るように視線を流す。
一つ目の角を曲がる。
何もない。
二つ目の通りへ入る。
キーノが、並んだ店の帽子を見た。
茶色い外套はない。
代わりに、灰色の襟巻きをした男がいる。
帽子も以前とは違った。
外套の前を閉じ、左袖の大半を隠している。
男は古道具店の窓を見ていた。
歩き始める。
右肩が、左よりわずかに下がった。
窓へ近づくとき、顔ではなく目だけが硝子の中を動いた。
キーノは足を止めない。
右手の袋を、左手へ持ち替えた。
鬼太郎は何も言わない。
歩調も変えない。
通りの先にあるパン屋へ入り、予定どおり小さなパンを一つ買う。
キーノは釣りを確かめた。
店を出る。
灰色の襟巻きは、向かいの通りへ移っていた。
今度は新聞を広げている。
鬼太郎たちが進むと、少し遅れて紙を畳んだ。
同じ男だ。
服を変えただけではない。
キーノが前回伝えた、歩き方と見る癖が残っている。
鬼太郎とキーノは、仲介人の建物へ戻った。
扉を閉める直前、鬼太郎は通りの端へ一度だけ目を向けた。
男は見えない。
見えない場所にいることは、分かっていた。
◆
サーシェスは、二人を追っていなかった。
追っている男を見ていた。
最初に見つけたのは、キーノが袋を持ち替える少し前だ。
灰色の襟巻き。
違う帽子。
外套の左袖は見えにくい。
だが、子供二人の進路へ合わせて立つ場所を変えている。
サーシェスは通りの反対側へ渡った。
男との間に荷車と三人の通行人を入れる。
同じ窓へ二度映らない。
男が新聞を開いたときは、靴屋の客になった。
鬼太郎たちが建物へ入る。
男は、すぐには動かなかった。
しばらく新聞を読み続ける。
やがて紙を畳み、来た道へ戻った。
サーシェスも動く。
男は帽子屋へ入った。
正面の硝子越しに、店内が見える。
棚の陰へ消えた後、別の帽子を被って出てきた。
灰色の襟巻きは外し、丸めて脇へ抱えている。
茶色い外套だけが残った。
通りを二つ進み、角を曲がる。
急に足を止め、靴紐を直すふりをした。
サーシェスはその前に肉屋へ入っていた。
吊られた肉の向こうから、男の背中を見る。
男は立ち上がると、今度は来た道を半分だけ戻った。
同じ角を、時間を空けて二度通る。
後ろに同じ顔がいないか確かめている。
素人ではない。
サーシェスは距離を広げた。
一度見失っても、進む方向は絞れる。
近づいて気づかれるよりましだった。
男は大通りを離れ、古い煉瓦壁に挟まれた路地へ入った。
サーシェスは入口へ近づかない。
向かいの建物にある割れた窓を使い、斜めから路地の奥を見る。
男が懐へ手を入れた。
出したのは銃ではない。
杖だった。
短く何かを唱え、壁の煉瓦を叩く。
腰ほどの高さにあった一枚が、音もなく奥へ沈んだ。
黒い投函口が現れる。
男は外套の内側から、封をした薄い封筒を出した。
表には、遠目で見える宛名がない。
封筒を入れる。
投函口が閉じ、煉瓦が元の位置へ戻った。
男は周囲を見た。
サーシェスは窓の陰へ身体を引く。
数秒後。
乾いた破裂音がした。
もう一度覗いたとき、路地に男はいなかった。
足跡も出口へ続いていない。
魔法使いが使う移動だ。
サーシェスは路地へ入らなかった。
投函口へ触れば、封筒の受取人へ気づかれるかもしれない。
煉瓦そのものに罠がある可能性もある。
位置を覚える。
周囲の店。
路地の入口。
叩いた煉瓦の高さ。
男が入れた封筒の厚さ。
姿を消す前に使った杖。
追えないものを追うために、分からない魔法へ手を出す必要はない。
サーシェスは路地を離れた。
◆
合流場所は、仲介人の建物ではなかった。
そこを監視されている可能性がある。
三人は時間をずらし、人の出入りが多い食堂の奥で顔を合わせた。
サーシェスは飲み物を一つ頼み、口をつける前に言った。
「魔法使いだ」
キーノが身を乗り出す。
「杖を使ったのか」
「壁に隠した投函口を開けた。宛名のない封筒を入れて、その後は音だけ残して消えた」
「姿くらましでしょう」
鬼太郎が言う。
「追えるか?」
「僕には使えません。移動先も分からないなら無理です」
「俺にも無理だ」
サーシェスは、男が取った道と行動を順に説明した。
帽子を替えた。
襟巻きを外した。
突然止まり、同じ角を時間差で二度通った。
窓の反射で背後を見た。
隠された投函口へ封筒を入れた。
姿くらましで離脱した。
「投函口は開けなかった」
「それで構いません」
「中身を取れば、もっと分かったかもしれねえぞ」
「報告が届かなければ、尾行に気づいたと教えることになります。それに、防護を解除できる保証がありません」
「そう言うと思った」
鬼太郎は手帳へ書く。
「攻撃する機会はありましたか?」
「何度もな。だが、向こうは撃つ気も、杖を向ける気もなかった」
「僕たちの持ち物を盗ろうとは?」
「見てねえ」
「なら、やはり目的は観察と報告です」
キーノが尋ねる。
「何を知りたいんだ」
「それを知るために、もう少し見せましょう」
「依頼へ行くところも?」
「現場までは連れていきません。ですが、僕がどの仕事を選び、誰と組み、何を買うかは、すでに見られています」
「偽物を見せるのか」
「全部を偽物にすれば、見抜かれたときに警戒されます。本物の中へ、見せても困らないものを混ぜます」
サーシェスが笑った。
「面倒な遊びを始めたな、坊主」
「先に見始めたのは、向こうですよ」
キーノの仕事は、男を見分けて合図するところまでだった。
帽子と襟巻きが変わっていても、歩き方と視線の使い方から同じ男だと判断した。
鬼太郎は固定報酬に、変装後の識別分を加えた。
キーノはその場で数える。
「あいつの報告先は、見つからなかった」
「それはサーシェスさんの仕事です。キーノさんの報酬とは関係ありません」
「こいつには、いくら払う」
「おい。俺の懐まで数える気か?」
「私と同じ仕事じゃない」
「そうですね。サーシェスさんは追跡時間、男が魔法使いであること、報告方法、離脱方法を確認しました。事前に決めた情報分を支払います」
サーシェスにも報酬を渡す。
男の依頼主には届いていない。
それでも、三度目までにはなかったものが残った。
魔法使い。
変装と尾行対策に慣れている。
直接帰らず、魔法で隠した投函口を使う。
攻撃ではなく、観察を続けている。
鬼太郎は最後の一行を書いた。
「普通の物盗りではありませんね」
「前からそう言ってる」
「キーノさんが、ですか?」
「私が最初に見つけた」
「ええ。お見事でした」
「もう金はもらった。褒めても増えないぞ」
「増やすために言ったわけではありませんよ」
「ならいい」
キーノは報酬を内ポケットへしまった。
◆
日が落ちてから、鬼太郎とサーシェスは旧貨物集積所へ向かった。
キーノは連れていかない。
代わりに、決めた時刻まで二人が戻らなければ、仲介人へ短い伝言を届ける仕事を提示した。
伝える文章は紙に書いてある。
時刻の数字と、仲介人の店の印はキーノにも読める。
伝言が必要にならなくても、指定時刻まで待機する分の報酬を払う。
キーノは条件を受けた。
「勝手に来るな」とは言わなかった。
来れば危険だからではなく、今回の役割と契約が違うと説明した。
キーノも、自分の仮杖を上着へ入れたまま、部屋に残った。
旧貨物集積所は、使われなくなった線路の先にあった。
壊れた柵。
草に埋もれた貨車。
屋根の一部が抜けた大倉庫。
表向きは放置されている。
だが、裏手の泥には新しい車輪の跡があった。
鬼太郎とサーシェスは、別々の方向から近づいた。
鬼太郎は線路脇の草むらへ身を伏せる。
サーシェスは離れた給水塔の跡へ回った。
正面入口に二人。
一人は短銃。
もう一人は上着の内側へ長い刃物を下げている。
二階の割れた窓に、人影が一つ。
裏手には荷車のそばに二人。
倉庫の中から、さらに複数の声が聞こえる。
六人ではない。
見える者と声を分けても、少なくとも八人いる。
窓の奥で杖の光が動いた。
魔法使いもいる。
鬼太郎は地面へ小さな石を三つ並べた。
合図を確認したサーシェスが、遠くから一度だけ鏡を光らせる。
同じ数を見ている。
倉庫の中から、金属を叩く音がした。
一度。
二度。
間を空けて、また二度。
作業ではない。
床下か地下から聞こえる。
誰かが、一定の間隔で金属を鳴らしている。
助けを求める合図かもしれない。
断定はしない。
裏手の扉が開いた。
灰色の髪をした男が、二人に挟まれて出てくる。
右耳の上部が欠けていた。
エドガー・ヴェイル。
左手には布が巻かれ、血が滲んでいる。
歩けてはいる。
男の一人が背中を押し、別棟へ連れていった。
その少し後、黒い箱が倉庫から運び出される。
縁には銅色の金具。
工具箱だ。
ヴェイルとは反対に、荷車の方へ運ばれた。
人と箱が分けられている。
鬼太郎は位置を記憶する。
依頼書では、移送は明日の夜までとされていた。
だが、荷車にはすでに荷物が積まれ始めている。
毛布。
木箱。
縄。
水袋。
遠出の準備だ。
見張りの一人が言った。
「夜半までに終わらせろ。夜明け前には出る」
もう一人が、別棟を顎で示す。
「あの爺は?」
「手が動かなきゃ置いていけ。箱だけは積め」
鬼太郎は声の位置を確かめた。
依頼の期限は明日の夜。
現場の期限は、今夜へ変わっている。
ヴェイルを連れていくか、殺して置いていくかは、まだ決まっていない。
工具箱は先に運ばれる。
明日まで待てば、二つの回収先が別になる。
鬼太郎は来た経路を戻った。
合流場所は、集積所から見えない壊れた石橋の下だ。
少し遅れてサーシェスが現れる。
「八人はいるな」
「ええ。紹介された数より二人多い。追加報酬には一人足りません」
「そこを先に言うか」
「契約ですから」
「魔法使いは、見えたので二人。奥にもう一人いるかもしれねえ」
「正面に銃一人、刃物一人。裏の荷車に二人。二階に一人。中に三人以上」
「職人と箱は別だ」
「ヴェイルさんは別棟。工具箱は荷車へ」
サーシェスが歯を見せた。
「坊主。期限が縮んだな」
「ええ。明日まで待てば、片方を失います」
「今夜やるか?」
「そのつもりです」
「医者は短い仕事にしろと言ったんじゃなかったか」
「明日まで追うより、今夜終わらせる方が短いですよ」
「いい解釈だ」
鬼太郎は地面へ、集積所の配置を描いた。
正面。
別棟。
荷車。
二階窓。
床下からの音。
人と箱を同時に確保するには、同じ入口から入るべきではない。
サーシェスが、給水塔から見えた射線を書き加える。
「箱を積んだ荷車は俺が止める。お前は爺を取るか?」
「まず、別棟の中を確認します。ヴェイルさんが一人とは限りません」
「正面の二人は」
「音を出す前に処理できるならお願いします。難しければ、移送が始まるまで待ちます」
「銃の方は俺から見える。もう一人は壁の陰だ」
「では、僕が壁側へ回ります」
まだ決めることはある。
逃走路。
工具箱へ触れる方法。
ヴェイルの負傷。
地下にいる何者か。
敵が持つ杖と銃。
鬼太郎は、右脇腹へ一度だけ手を当てた。
痛みはない。
机の上で選んだ依頼は、もう紙の上にはなかった。
夜明け前に動く荷車と、別棟へ押し込まれた職人と、暗い倉庫の八人へ形を変えている。
その背後では、誰かが鬼太郎の行動を封筒へ書き、名前のない投函口へ入れていた。
どちらの依頼人も、まだ顔を見せない。
鬼太郎は地面の図へ、二本の侵入線を引いた。
「始めましょうか、サーシェスさん」
「やっと仕事らしくなったな」
遠くで、荷車へ次の木箱が積まれた。
夜半まで、もう長くはなかった。