第五十七話 荷車が動く、その前に
地面に描いた線を、サーシェスの指がなぞった。
「俺は一度、給水塔へ戻る」
指先が、集積所の二階窓へ向く。
「窓の杖持ち。正面の銃持ち。この二人までは長銃で落とす」
次に、裏手の荷車へ移った。
「撃ったら裏へ回る。箱と荷車は俺が押さえる」
「工具箱には、できるだけ触れないでください」
「持っていかれそうでもか?」
「その場合は御者を。馬や車輪を撃って横転させれば、工具箱が壊れるかもしれません」
「面倒な荷物だな」
「壊せば報酬と紹介状が消えます」
「急に大事に見えてきた」
鬼太郎は地面の別棟へ指を置いた。
「僕は壁側の見張りを処理して、そのまま別棟へ入ります。ヴェイルさんを確認した後、地下の音を調べる」
「先に地下へ行くなよ」
「ええ。音の正体より、依頼対象を優先します」
「逃げた奴は?」
「依頼対象から離れるなら追いません」
サーシェスが鬼太郎の右脇腹を見る。
「医者の言いつけか?」
「追う価値がないからです。身体を壊す理由もありません」
「前より聞き分けがよくなったじゃねえか」
「撃ってよいと言われた日に、また寝台へ戻るのは非効率でしょう」
鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。
弾倉。
薬室。
撃鉄。
暗がりの中で手触りだけを確かめる。
今夜、撃った弾だけを数える。
総装弾数を頭の中で固定する必要はない。残りが足りなくなる前に、使った数と交換の要否を判断すればよい。
「合図は、僕の一発目で」
「窓、正面の順で二発だ」
「荷車の箱を最優先に」
「お前は爺を取れ」
二人は地面の図を靴底で消した。
サーシェスが先に石橋を出る。
鬼太郎は五十を数えてから、反対側へ進んだ。
◆
正面の見張りは、まだ同じ場所にいた。
短銃を持つ男は、倉庫の扉脇で煙草を吸っている。
長い刃物を上着へ隠した男は、線路側の暗がりを見ていた。
二階窓にも、人影がある。
杖先の薄い光が、一度だけ揺れた。
鬼太郎は壊れた外壁に沿って進んだ。
低い草。
積まれた枕木。
割れた煉瓦。
踏めば音が出るものを避ける。
刃物持ちとの距離が縮まった。
七歳の身体で、成人の首を一息に折ることはできない。
口を塞いだまま引き倒すにも、腕力が足りない。
音を消すことへ固執するより、相手が防御を整える前に人数を減らす。
鬼太郎は足元から小石を拾った。
線路の向こうへ投げる。
石が、錆びた鉄へ当たった。
刃物持ちが顔を向ける。
右手が上着の内側へ動いた。
鬼太郎は壁の陰から〈シュライク〉を上げた。
一発。
弾丸は、男の首と肩の境へ入った。
身体が壁へぶつかる。
その音へ、二階の人影が杖を向けた。
盾の呪文を唱えるより先に、遠くから銃声が重なる。
二階窓の硝子が割れた。
人影が奥へ消える。
短銃を持つ男が、煙草を落として振り向いた。
二発目の長銃が鳴る。
男の胸が跳ねた。
扉へ背を打ちつけ、そのまま崩れる。
三人。
最初の数秒で、正面と二階の目が消えた。
倉庫の中から怒鳴り声が上がる。
灯りが増えた。
完全な不意打ちは、ここまでだ。
鬼太郎は倒れた刃物持ちへ近づかない。
別棟の壁へ沿い、そのまま裏側へ回った。
◆
別棟の正面扉の向こうで、靴音が止まった。
声がする。
「来い!」
待っている。
扉の隙間から、淡い膜が見えた。
正面へ盾を向けている。
鬼太郎は扉へ近づかなかった。
裏へ回る。
高い位置に、小さな窓が一つあった。
木の留め金は古い。
だが、音を立てず外すには固すぎる。
鬼太郎は左手を上げた。
「ブフ」
白い冷気が留め金だけを覆う。
木と金具の間へ薄い氷が入り、湿気を含んだ古木が軋んだ。
短い鉄片を差し込む。
力を掛けると、留め金が脆い音を立てて割れた。
窓を押す。
正面扉へ杖を向けた男の背中が見えた。
部屋の奥には、椅子へ座らされた灰色の髪の男がいる。
左手には血の滲んだ布。
右耳の上部が欠けていた。
エドガー・ヴェイル。
鬼太郎は窓枠へ片腕を掛ける。
傷を庇い、腹から持ち上げない。
足を先に入れ、床へ下りた。
護衛が振り向く。
盾も一緒に動かそうとした。
間に合わない。
鬼太郎は〈シュライク〉を一発撃った。
今夜の二発目。
護衛の杖を持つ手首から血が散る。
杖が床へ落ちた。
男は正面扉へ張っていた盾を失いながら、反対の手を腰へ伸ばした。
短剣が抜かれる。
鬼太郎へではない。
椅子のヴェイルへ向いた。
「動くな!」
鬼太郎は止まらなかった。
短剣の切っ先がヴェイルへ届く前に、三発目を撃つ。
弾丸が護衛の胸へ入った。
男は一歩よろめき、椅子の横へ倒れた。
短剣が床を滑る。
鬼太郎は、すぐにヴェイルへ近づかない。
部屋の隅。
天井裏。
奥の小扉。
ほかに人がいないことを確認する。
床へ落ちた杖を蹴り、死体の手が届かない位置へ送った。
「エドガー・ヴェイルさんですか?」
灰色の髪の男は、鬼太郎の顔と銃を交互に見た。
「誰だ」
「あなたと、銅で縁取られた黒い工具箱を回収する依頼を受けました」
「依頼人は」
鬼太郎は契約に記された依頼人番号を告げた。
引き渡し場所の最初の二語も続ける。
ヴェイルの目が、わずかに変わった。
「あいつが、こんな子供を寄越したのか」
「紹介したのは仲介人です。依頼人が僕を選んだわけではありません」
「外で撃っているのも、子供か?」
「あちらは成人ですよ」
「そういう問題じゃない」
「歩けますか?」
鬼太郎は椅子を縛る縄を切った。
ヴェイルが立つ。
足元は揺れたが、自力で踏みとどまった。
「歩ける。左手は使えん」
「工具箱の防護を教えてください」
「どこにある」
「荷車です。銅の留め具へ触れても?」
「触るだけならいい。蓋を開けようとするな。私以外が錠を動かせば、中の術式が道具を焼く」
「横倒しは?」
「防護は動かん。だが、中の器具が壊れる。左右の取っ手で水平に運べ」
「分かりました」
倉庫側で、続けて銃声が鳴った。
サーシェスのリボルバーだ。
鬼太郎は窓の外へ一度だけ視線を向ける。
「地下から金属を叩く音がしました。あれは?」
ヴェイルの顔が硬くなった。
「私の弟子だ」
「依頼書にはありませんでした」
「あの子も一緒に連れてこられた。下へ閉じ込められている」
「依頼人は知っていますか?」
「知らんだろう。連れ去られる直前まで、別の部屋で帳簿をつけていた」
「歩けますか?」
「弟子を置いてはいかん」
「その人は依頼対象ではありません」
ヴェイルが鬼太郎を睨んだ。
「見殺しにする気か」
「地下には、まだ確認していない敵と罠があるかもしれません。あなたと工具箱を失う危険が増えます」
「人一人が閉じ込められているんだぞ」
「ええ。ですが、その人を回収しても、元の依頼から報酬は増えません」
「子供が言うことか」
「年齢で、危険と報酬は変わりませんよ」
ヴェイルの右手が強く握られた。
左手は、布の下で指が腫れている。
外から、また怒鳴り声がした。
長く話す時間はない。
「なら、私が払う」
「何を?」
「拡張鞄を探しているんだろう」
鬼太郎は黙って先を促した。
「紹介状を持っていっても、素人には中の出来まで分からん。弟子を生きて連れ出せ。そうすれば、お前が最初に買う一つを私が検査する」
「検査内容は?」
「内部容量。空間の揺れ。縫い目と術式の接続。耐荷重。壊れたとき、修理できる製作者の印かどうか」
「費用は?」
「最初の一品は取らん」
「粗悪品だった場合は?」
「理由を説明して止める」
「書面にできますか?」
「ここでか?」
「口頭でも契約は成立します。ですが、引き渡し後に書いていただきます」
ヴェイルは、信じられないものを見る顔をした。
「分かった」
「弟子の生存を確認し、歩ける状態で連れ出す。代わりに、最初に購入する拡張鞄一つを無償で検査し、問題があれば理由を説明する」
「それでいい」
「成立です」
鬼太郎は別棟の奥にある物陰を示した。
「ここで伏せていてください。外の安全を確保してから迎えに来ます」
「私も地下へ行く」
「左手を使えず、武器もありません。今は荷物が一つ増えるだけです」
「荷物だと?」
「生きたまま運ぶ契約ですから」
ヴェイルは怒鳴りかけた。
鬼太郎はすでに、窓へ足を掛けていた。
「弟子との契約は僕が守ります。ヴェイルさんは、ご自分との契約を守ってください」
◆
最初の長銃二発を撃った後、サーシェスは給水塔跡を離れていた。
同じ位置へ留まれば、二階以外の魔法使いから狙われる。
長銃は布で巻き、退路に近い枕木の下へ隠した。
リボルバーを抜き、裏手へ回る。
荷車の近くには二人いた。
一人は御者台へ上がろうとしている。
もう一人は工具箱の横で杖を抜いた。
「出せ!」
杖持ちが叫ぶ。
馬が繋がれたまま、御者が手綱を掴む。
サーシェスは馬を撃たない。
車輪も狙わない。
リボルバーの一発目が、御者台の男の脇腹へ入った。
男が手綱を放し、荷車から落ちる。
杖持ちが振り向いた。
「プロテゴ!」
透明な盾が、サーシェスとの間へ立つ。
そのまま撃っても、弾かれる。
サーシェスは左手で煙幕を抜いた。
火を入れ、荷車の反対側へ投げる。
煙が広がる。
杖持ちは、もう一人いると考えた。
盾と杖先が煙の方へ動く。
サーシェスは荷車の陰を使い、逆側へ回った。
透明な盾の外。
リボルバー二発目。
弾丸が杖を持つ前腕へ入った。
指が開く。
杖が泥へ落ち、盾が消えた。
サーシェスは男へ近づかない。
まず荷車を見る。
銅で縁取られた黒い工具箱は、荷台の奥にある。
留め具は閉じたまま。
銃弾も当たっていない。
馬は煙と銃声に怯えているが、まだ繋がれている。
「大人しくしてろ」
サーシェスが誰へともなく言った。
倉庫の扉が開く。
三人が出てきた。
先頭は杖。
後ろに短銃。
最後の一人は棍棒を持っている。
工具箱を守っただけでは、まだ仕事は終わらない。
◆
鬼太郎が別棟の窓から出たとき、倉庫前には薄い盾が広がっていた。
杖持ちは荷車側へ身体を向けている。
その後ろから、短銃の男がサーシェスを探していた。
棍棒持ちは別棟側へ回ろうとしている。
このままなら、ヴェイルへ届く。
鬼太郎は左手を上げた。
倉庫の入口そのものではない。
入口脇へ積まれた、空の木枠を狙う。
「アギ」
炎が木枠の一部へ走った。
建物全体を焼くほど広げない。
荷車からも離れている。
それでも、棍棒持ちの進路には十分だった。
「火だ!」
男が足を止める。
短銃の男は炎を避け、倉庫の外へ飛び出した。
杖持ちが鬼太郎へ気づく。
透明な盾が、荷車側からこちらへ向きを変えた。
鬼太郎は撃たない。
盾が完全にこちらを向くまで、半歩だけ下がる。
横から銃声がした。
サーシェスのリボルバー三発目。
弾丸が杖持ちの肩へ入った。
腕が跳ね上がり、盾が崩れる。
短銃の男が、鬼太郎へ銃口を向けた。
鬼太郎は燃える木枠を遮蔽物にしない。
炎は弾を止めない。
横へ一歩移り、〈シュライク〉を上げる。
今夜の四発目。
弾丸が男の右脚へ入った。
引き金を引く前に膝が折れる。
短銃は地面へ落ちた。
棍棒持ちは、炎の反対側へ逃げた。
線路を越え、暗がりへ走る。
鬼太郎は銃口を向けた。
撃てる。
背中も見えている。
だが、男はヴェイルからも工具箱からも離れていく。
鬼太郎は引き金へ掛けた指を戻した。
「追わねえのか?」
荷車の陰から、サーシェスが言う。
「必要ありません」
「医者が喜ぶな」
「報酬が減らないなら、そちらの方が重要です」
「可愛げのねえ理由だ」
鬼太郎は倒れた者たちを見る。
正面に二人。
二階に一人。
別棟に一人。
荷車に二人。
倉庫から三人。
逃げた者を含め、九人。
事前情報より三人多い。
「追加報酬の条件へ届きましたね」
「本当にそこから数えるのかよ」
「重要ですから」
サーシェスが肩を揺らした。
「九人目は、逃げた棍棒か?」
「今見えていた者だけなら、そうです」
金属音がした。
一度。
二度。
間を空けて、また二度。
大倉庫の床下から。
鬼太郎とサーシェスは、同時にそちらを見た。
「まだ下にいるな」
「では、十人目かもしれません」
「追加は九人からだ。増えても金は同じだろ」
「契約を結ぶときは、段階をつけるべきでした」
「次に生かせ、坊主」
◆
ヴェイルを別棟から連れ出す。
倒れた者と、工具箱の位置を見せた。
「箱へ近づいていいのは?」
「私と、私が見ているところで運ぶ者だけだ」
「サーシェスさん。左右の取っ手を使い、水平に」
「聞こえてたよ」
「地下へ行く前に、荷車の奥へ固定してください」
「爺さん、横の縄は使っていいのか?」
ヴェイルは片手で留め具を確かめた。
銅の縁。
錠。
外側の傷。
「その縄ならいい。蓋の中央へ掛けるな。両端を荷台へ留めろ」
サーシェスが工具箱を動かす。
重さはある。
だが、一人でも持ち上げられる程度だった。
箱を傾けず、荷台の奥へ寄せる。
左右を別の縄で固定した。
ヴェイルが引き、動かないことを確かめる。
「これでいい」
「では、弟子の場所へ」
大倉庫へ入る。
入口脇の木枠はまだ燃えている。
鬼太郎はアギを重ねない。
近くの砂を蹴り、広がらないよう火の根元へ掛ける。
完全に消す時間はない。
延焼しないことだけ確かめる。
ヴェイルが床の一角を示した。
「あそこだ」
積まれた麻袋を退けると、鉄輪のついた床扉がある。
鍵は掛かっていない。
内側から押しても開かないよう、木材が渡されていた。
サーシェスが木材を外す。
鬼太郎は床扉の正面に立たない。
横から輪を引く。
暗い階段。
地下の湿った空気が上がってくる。
金属音が止んだ。
「エドガー?」
若い声がした。
「私だ!」
ヴェイルが答える。
「上に一人いる!」
声が続いた。
階段の下で、杖先に光が灯る。
「誰だ!」
男の声。
光が上を向いた。
鬼太郎は階段へ足を入れない。
狭い場所を正面から降りれば、避ける幅がない。
「下がってください」
ヴェイルを床扉から離す。
鬼太郎は左手を、階段の壁と床が接する位置へ向けた。
「ザン」
衝撃が地下へ走る。
人を直接狙わない。
古い壁から埃と木片が剥がれ、階段下へ吹き込んだ。
杖先の光が揺れる。
「くそっ!」
男が咳き込みながら階段へ出てきた。
視界を取り戻すため、顔を腕で覆っている。
杖は前へ向いていない。
サーシェスが床扉の反対側から撃った。
リボルバー四発目。
弾丸が男の胸へ入る。
身体が階段を転がり落ちた。
下で鈍い音がする。
鬼太郎は五発目を撃たなかった。
「ほかにいる人は?」
地下へ向けて尋ねる。
「いない! 見張りだけだ!」
「杖や銃を持っていますか?」
「持ってない!」
「ヴェイルさん。その声は?」
「弟子だ」
ヴェイルが先に降りようとする。
「待ってください」
鬼太郎は死体の杖を、階段上から見える位置で蹴り離した。
サーシェスが先に下りる。
暗がりと死角を確認し、短く合図した。
鬼太郎が続く。
右脇腹に、軽い張りが出た。
走り続けたわけではない。
窓を越え、身体を捻り、ザンを使った負担が重なっている。
痛みではない。
鬼太郎はディアを使わなかった。
治す傷がない。
張りを消すために使えば、身体の限界を見誤る。
地下には若い男が一人いた。
片腕を配管へ縛られている。
足元には、小さな金属工具が落ちていた。
自由な足でそれを蹴り、配管へ当てていたのだ。
額が切れ、片目の周囲が腫れている。
それでも意識ははっきりしていた。
「師匠」
ヴェイルが階段を下りてくる。
「歩けるか」
「走れはしない。でも歩ける」
鬼太郎が縄を調べる。
魔法の拘束ではない。
ナイフで切れる。
「この人で合っていますか?」
「そうだ。私の弟子だ」
「追加条件の対象ですね」
「ああ」
縄を切る。
弟子が自由になった腕を押さえた。
ヴェイルは右手だけで、その肩を支える。
「追加条件?」
弟子が尋ねる。
「後で話す」
「僕は、あなたの救出を依頼されていませんでした」
「お前、今それを言うのか」
「条件は先に知っていた方がよいでしょう」
弟子は鬼太郎を見下ろした。
子供。
拳銃。
埃に汚れた服。
階段下には、胸を撃たれた見張りが倒れている。
「師匠。誰なんだ、こいつ」
「私にも分からん」
「依頼を受けた者です。詳しい話は外でしましょう」
◆
地上へ戻る。
逃げた棍棒持ちは戻っていない。
倒れた魔法使いの一人が呻いている。
追撃する必要はない。
ヴェイルと弟子を荷車へ乗せる。
工具箱は荷台の奥で固定されたままだ。
ヴェイルがもう一度、銅の留め具を見る。
右手で箱の側面を触る。
「防護は動いていない。外側も壊れていない」
「中の確認は?」
「ここでは開けん。引き渡し先で、私が開ける」
「それで構いません」
サーシェスが御者台へ上がる。
撃たれた御者は、荷車から離れた泥の上で動かなくなっていた。
落ちた手綱を拾う。
馬を落ち着かせ、作業道へ向ける。
「長銃を取ってくる」
「待ちます」
「二分だ」
サーシェスが枕木の下へ隠した長銃を回収する間、鬼太郎は荷車の外に立った。
線路側。
倉庫の屋根。
別棟。
追ってくる人影はない。
右脇腹の張りは残っている。
強くはなっていない。
息を吸っても痛まない。
傷も開いていない。
鬼太郎は、その状態を覚えておく。
今は動ける。
だからといって、さらに走ってよいとは限らない。
サーシェスが戻り、長銃を荷車の前へ置いた。
「増援は?」
「まだです」
「逃げた奴が呼ぶなら、もうじきだ」
「では出ましょう」
鬼太郎も荷車へ乗る。
ヴェイルと弟子は荷台。
鬼太郎は、その前方に腰を下ろした。
周囲を見られ、工具箱にも手が届く位置だ。
サーシェスが手綱を動かす。
荷車が進み始めた。
車輪が泥を踏む。
黒い工具箱は傾かない。
旧貨物集積所が、少しずつ遠ざかる。
「おい」
ヴェイルが呼んだ。
「何でしょう」
「弟子を助けたのは、鞄を調べさせるためだけか」
「今のところは」
「今のところ?」
「ほかの理由ができれば、そのとき考えます」
ヴェイルは、何か言おうとしてやめた。
弟子が自分の腫れた目を押さえながら、鬼太郎を見る。
「礼を言うべきか、まだ迷ってる」
「契約したのはヴェイルさんです。あなたが僕へ支払うものはありません」
「そういう話か?」
「少なくとも、今は」
御者台から、サーシェスが笑った。
「こいつに善人らしい答えを期待するだけ無駄だぜ」
「善人だと言ったことはありませんよ」
「知ってる」
荷車が壊れた柵を抜けた。
夜明けまでは、まだ時間がある。
契約上の回収対象である職人。
未開封で無傷の工具箱。
現場で新しく条件を交わした弟子。
三つが荷車に揃っている。
確認した敵は、逃走者と地下の見張りを含めて十人。
追加報酬の条件も満たした。
鬼太郎が使った〈シュライク〉は四発。
ブフ、アギ、ザンを一度ずつ。
ディアは使っていない。
サーシェスは長銃二発、リボルバー四発、煙幕一つ。
爆薬は使わなかった。
右脇腹には軽い張りだけが残っている。
依頼は、まだ終わっていない。
生きたまま、箱とともに引き渡すまでが契約だった。
サーシェスは作業道を選び、荷車を暗い集積所から遠ざけていく。
夜明けより先に、二人と一箱を運び出した。