第58話 留守の門
机へ紙を広げると、右肩の痛みが少し強くなった。
鬼太郎は椅子を寄せ、肘を支えて書き始めた。
火の渦を作る時、足が止まっていたこと。自分の手を見て、相手を見ていなかった時間。その後で、どこへ銃を向けたか。
肩を捻った動きは、線だけではうまく描けなかった。
ダンブルドアは、その紙を横から見た。
「今、立って確かめる必要はないぞ」
「椅子からは、動いていませんよ」
「足の位置を気にして、ずっと机の下を見ておった」
鬼太郎は、床に置き直した靴を止めた。
老人はそれ以上言わず、持ち帰る羊皮紙を巻いた。
「日が決まったら、先に知らせる。次の授業と、今日の条件の返事じゃ」
「入学用品の準備も、その後ですか」
「整ったものからになる。横丁へ行く時には、わしが案内しよう」
キーノが、自分の杖を包む手を止めた。
「私の杖を選ぶのも、そこか」
「そうじゃ。今の杖でできることと、あなたに合う杖でできることは、同じとは限らん」
彼女は包んだ杖を見てから、しまった。
待つしかない話だと分かっていても、先のことを考えずにはいられないらしい。
鬼太郎も同じだった。
本にある魔法を、書かれた手順どおりにしても、同じようにできない。何が違うのかを聞ける場所が、ようやく見え始めていた。
門の外まで見送ると、ダンブルドアは三人から少し離れた。
「当日は、姿現しで連れていくつもりじゃ。国を越えるポートキーを、その前に使えると約束したわけではないからの」
「同行して、一緒に移動するものですか」
「その説明は出発前に。今日は、わしが消えた所へ近づくより、自分の部屋へ戻って休みなさい」
鬼太郎が返事をする前に、小さな音がした。
白い衣が、目の前から消えていた。
サーシェスが、老人のいた場所を見た。
「あれを使える奴には、門を高くしても足りねえな」
鬼太郎は、自分たちの門へ目を向けた。
金具を新しくし、木を組み直して、ようやく閉まるようになったものだ。
閉めたから、それで守れる。
そう思っていたわけではないが、壁を通らずに来る相手まで考えると、直すだけでは終わらなかった。
「まず、普通に来る相手を止められるようにしましょう」
キーノが、鬼太郎の袖を引いた。
「その前に、休め」
鬼太郎は門の内側へ戻った。
まだ新しい呪文を一つも習っていないのに、考えることだけは増えている。
それを書き終える前に、腕が重くなった。
◆
翌朝、鬼太郎は、砦へ来た者から順に学校の話をした。
外へ出ていた者にも伝える必要があり、一度に全員が揃う話ではなかった。
決まっているのは、行くための条件を話し合っていることだけだ。
許可も、森と英国を結ぶ道も、まだできていない。
門の金具を調べに来たボグダンは、その話を聞くと、持参した紙を卓へ置いた。
「残りの仕事は、どうする」
「頼んだものは、お願いします。ここから出ていくために、直していただいたわけではありません」
「いない間に、追加の品が要ったら」
鬼太郎は、紙の材料欄を見た。
金も品も、全部を自分の部屋へ入れておけば、頼む時に一つずつ確かめられる。
しかし、自分がいなくなる日まで同じにしていたら、足りない釘のために作業を止めることになる。
「既に頼んだ仕事の分は、先に分けましょう。余った物と、使った分を残していただければ、僕が戻るまで待つ必要はありません」
「何でも、そこから取っていいわけじゃないな」
「ええ。別の仕事なら、別に話します」
ボグダンは、紙の端に線を引いた。
使い残した金具を、どこへ置くかから話が始まった。
昼にはヴェリナが来た。
彼女は、その日聞いた話と、自分ではまだ会えていない者を分けて伝えた。
「ここを使う者で、話しておきたい。お前が戻るまで待てないこともある」
「日々の相談は、今までどおり進めてください」
「それは進める。聞きたいのは、狩る人間が来た時のこと」
鬼太郎は、書きかけの紙を脇へ寄せた。
門が閉まらなかった頃には、誰もその内側へ逃げようとは思わなかった。
今は屋根も水もあり、荷を置き、休む者もいる。
「砦へ向かう途中なら、できるだけ早く知らせてほしいです。ですが、僕がいない時に、ここへ集まるのが安全かは別ですね」
「皆を一つの所へ入れれば、探されやすくもなる」
ヴェリナは、窓から門を見た。
逃げ込む場所が、閉じ込められる場所になることも知っている。
「隠れる所と、逃げる道を、使う者たちで確かめてもらえますか。僕にも、戻った時に教えてください」
「分かった。誰かを迎えに行くなら、それも先に話す」
鬼太郎は頷いた。
自分が戻るまで何もしないで待っていてもらうより、その方がよい。
ただ、それだけで、襲ってくる相手を遠ざけられるとは限らない。
鬼太郎は、学校との間に描きかけた線を見た。
ポートキーができれば、移動は短くなる。だが、それを使う理由が起きたと、どうやって知るのかは別だった。
「向こうへ知らせる方法も、まだ決まっていません。僕に知らせるためだけに、捕まりそうな所を通るのはやめてください」
「伝えに行く者を、どう残すかも話す」
ヴェリナは、紙を自分の側へ寄せた。
相手を見た者が逃げきれなければ、知らせは届かない。皆が同じ場所へ集まる案では、その役まで一緒に捕まるかもしれない。
話すうちに、ここへ戻る道だけを作れば済むと思っていた時より、必要なものが増えていった。
鬼太郎は、地図へ引いた一本の線の脇に、小さく問いを残した。
ミラが来た時には、その話の続きになった。
彼女は、糸で束ねた道具を置き、壁際へ脚を畳む。
「逃げる道へ、人が後から付いてきたら?」
「途中で分かれる所を、確かめたいです」
「私の道も使える所はある。でも、皆が通れば、分かる」
鬼太郎は、自分の地図を出しかけて、やめた。
彼女が知る道を全部ここへ書けば、安全になるわけではない。
「誰が使えるかと、どこまで案内できるかを、先に決めましょう」
「それと、来た者が逃げた後も、追わないで」
「僕がですか」
「ほかの者も。逃がすために空けた所へ、追って入られると困る」
鬼太郎は紙へ、その一行を書いた。
相手を逃がしたくないことと、自分たちが逃げられる道を残すことは、同じにはならない。
サーシェスは、そのやり取りを戸口で聞いていた。
「逃げる時は、荷を全部持つつもりで考えるなよ。瓶の箱を抱えて走る奴まで待ってりゃ、後ろから追いつかれる」
ミラは、鬼太郎の机の本を見た。
鬼太郎も、積んだ背表紙へ目をやる。
「……選ぶのに、時間がかかりそうですね」
「今、選んどけってことだ」
サーシェスは、それだけ言って庭へ下りた。
彼には明日から町の仕事がある。戻る日と、ヴェトルに頼める日を、既に相談していた。
鬼太郎が学校の話を始めたからといって、その予定は消えなかった。
◆
数日経つと、右肩の痛みは薄くなった。
鬼太郎は水桶を持つ前に腕を動かし、引っかかる感じがあれば、左手へ替えた。
銃を蹴り上げる動きを、もう一度することはなかった。
紙に描いてみても、今の足と肩で間に合う形が見つからない。
火と風を重ねる方も、すぐには繰り返さなかった。
使い終えた後、銃をどの手で抜くか。相手が近づいたら、どちらを先にやめるか。
形にする前に抜けていたことが、幾つも出てくる。
それでも、森での仕事はあった。
ヴェトルから、見慣れない網を持つ者が通ったという知らせを受ける日がある。ミラが使う道の近くで、古い罠を見つけることもある。
分かるものは外し、分からないものは目印を残す。
見た人数以上に敵がいないと、決めつけない。
サーシェスのいない日は、二人いるつもりで道を分かれなかった。
校長が帰ってから二十日ほど経った頃、砦の卓には別々の紙が並ぶようになった。
材料の残り。南へ出る日。近くで罠が見つかった場所。
ヴェリナが、そのうちの二枚を重ねた。
「この日は、ヴェトルも荷を運んでいる」
鬼太郎は、空いている日だと思っていた所へ線を引いた。
「では、上から見てもらえるとは限りませんね」
「私が飛ぶのを、いつも待っているな」
門の外にいたヴェトルが言った。
「頼む日に、こちらも見てほしいとは言える。でも、荷を積んだまま、人間を追い続ける気はない」
「分かりました。見つけていただける分だけで、助かっています」
鬼太郎は、地図の砦の印へ指を置いた。
目はある。
道も、少しずつ分かってきた。
知らせを受けた後、相手を退ける力だけは、その紙へいくら書いても増えなかった。
サーシェスが、町から戻ってきていた。
彼は積んだ箱を確かめ、紙へは手を出さずに言う。
「俺が戻る日を増やしても、穴が動くだけだぜ」
「ええ。あなたを、ずっと門の所へ座らせるつもりもありません」
鬼太郎は、集まっていた顔を見た。
今日は、この作業の相談で来ている者だけだ。
「この辺りで、密猟者が近づこうとしないほど強い方は、いますか」
ヴェトルの尾が、地面を払うのを止めた。
ボグダンは、数えていた釘を袋へ戻した。
答えなかった者がいることも、鬼太郎には答えに見えた。
「話をしに行きたいです」
「話を聞く相手ではない」
ミラが言った。
「言葉が分からないんですか」
「分かる。弱い相手の話は、聞く必要がないと思っている」
鬼太郎は、少しだけ背を起こした。
キーノが、その顔を見て眉を寄せた。
「留守の話から、逸れるなよ」
「まだ、逸れていません」
「もう会いたそうな顔をしてる」
鬼太郎は否定しなかった。
校長へ届かなかった力で、今すぐ別の強者へ勝てるとは思わない。
だが、まだ知らない相手がいる。
会う理由を一つ聞いた時から、それ以外の理由も増えていた。
「どちらにしても、条件を聞かずに頼めませんから」
「言い方だけ、まともにするな」
サーシェスが、横を向いて笑った。
北の岩の谷に、一頭で暮らす黒い犬型の魔法生物がいる。
グロブニク。
ミラはその名を言い、地図の白い所を指した。
「私が知っているのは、谷の手前まで。奥へは行かない」
「狙われたことは、あるんですか」
「人間は、あの毛と牙を欲しがった。今は、避けて通る者の方が多い」
ボグダンが、釘の袋を締めた。
「こっちの都合じゃ動かんぞ。誰にも雇われてない」
「それなら、何が欲しいかを聞く所からですね」
鬼太郎は、紙を自分の方へ引いた。
森の全てを守ってもらう話ではない。
まずは砦と、協力している者が使う近くの道。
代わりに出せるものは、相手の答えを聞いてから決める必要があった。
◆
北へ向かったのは、翌朝だった。
肩は、普通に腕を振る分には痛まなくなっていた。
鬼太郎は抜いた銃を空いた場所で持ち上げ、狙いへ戻す動きを確かめてから、収めた。
昔の動きが出てくるのを待つ準備ではない。
今、自分ができることを確かめていた。
ミラは、川沿いに進んでいた道を途中で離れた。
谷の場所だけなら、上からの方が早く分かるとヴェトルは言った。だが、降りる場所まで分かっているわけではない。
今回は、足で帰れる道を確かめて行くことにした。
「ここから先で、大きな声を出さないで」
ミラが、木々の間で止まる。
鬼太郎は、突き出した根を避けて、その後ろへ続いた。
サーシェスが、戻る時に見える木の面を確かめる。キーノも自分の帳面へ、曲がった所を描いた。
砦から離れるにつれ、見覚えのある印がなくなった。
同じ森でも、来たことのない場所だ。
低い石柱と、半ば土へ埋まった平たい岩が現れた。
墓に見えたが、ミラは違うと言った。それ以上は、彼女も知らなかった。
やがて地面が下がり、木立の間から暗い岩肌が見えた。
その手前に、白い石が並んでいる。
「あそこまで」
ミラは石の列から離れた所で止まった。
脚を岩へ掛ける音さえ、小さかった。
「越えれば、自分で入ったことになる」
鬼太郎は、石の向こうを見た。
大きな足跡が、湿った土に残っている。
犬に似ていた。一つの跡は、鬼太郎が両手を並べるよりも大きい。
爪が根を削り、その先で、落葉が裏返っていた。
キーノが、谷の入口と、自分たちの来た道を見比べた。
「話が終わったら、ここへ戻れ」
「ええ」
「私たちは、向こうへ追っていかない」
サーシェスも、白い石から足を離したまま言った。
「俺が出れば、二人で喧嘩を売った話になる。そういう仕事は受けてねえぞ」
「分かっています。まず、僕が話します」
鬼太郎は、銃を抜かなかった。
両手を見せ、石の手前から谷へ声を掛ける。
「グロブニクさん。お話をしに来ました」
返事はなかった。
風が木々を動かす。その音の下で、どこかの草が踏まれた。
鬼太郎は足を出さず、声の戻る方を待った。
「帰れ」
右手の木立に、黒いものが立っていた。
四本の脚で立った肩が、鬼太郎の顔より高い。
首から背へ、長い毛が流れている。耳の端が欠け、左目は古い傷に塞がれていた。
残る右目は、暗い赤だった。
「砦から来ました。近くの道を守ることで、取引ができないかと」
「いらぬ」
低い声が、腹へ響いた。
鬼太郎は、相手の顔だけを見続けないようにした。
四本の脚と、肩の高さと、後ろへ引かれた尾。人間とは、動き始める場所が違う。
「何か、こちらからお出しできるものはありますか」
「弱い者の約束など、腹の足しにもならぬ」
鬼太郎は、息を整えた。
取引の言葉以前に、自分が何をできるかを疑われている。
「では、何ができるか、見てから決めていただけますか」
黒い鼻先が、僅かに上がった。
「我の谷へ入るか」
「話を聞いていただくために、必要なら」
グロブニクは、白い石の奥へ身を引いた。
道を空けたようにも、逃げ道から離れただけのようにも見えた。
「一人だ」
鬼太郎は後ろの二人へ、一度だけ顔を向けた。
キーノは唇を結んだまま、石の外へ足を置いていた。
サーシェスも、銃を構えてはいなかった。
鬼太郎は向き直り、石を越えた。
両手は、まだ見える所へ出していた。
近くで見る黒い身体には、古い傷が幾つもあった。
それが、弱っている印には見えなかった。
「我を退かせてみろ」
鬼太郎は、そこで右手を腰へ下ろした。
老人の一歩を取るために使ったものを、思い返しかけて、やめる。
この相手は、同じ所で待ってくれるとは言っていない。
「退かせたら、話の続きを」
「立っておればな」
牙が見えた。
鬼太郎は、足元の根と、白い石までの距離を確かめた。
帰る道は、今も見えている。
その道を使えるかどうかは、ここから決まる。