第五話
男は、車の鍵を握ることさえできなかった。
震える指の間から鍵が落ち、硬い床を跳ねる。
墓場鬼太郎は、その音を黙って聞いていた。
「拾ってください」
「わ、分かってる……」
男は腰を屈めた。
一度目は鍵をつかみ損ねた。二度目でようやく拾い上げたが、今度は立ち上がるときに車の側面へ肩をぶつける。
この状態で運転させれば、買い手へ会う前に事故を起こす。
鬼太郎は車庫の中を見回した。
木箱に燃え移った火は、砂をかけて消してある。ぼろ布からは細い煙が上がっていたが、再び燃え広がる様子はなかった。
男の上着の裾には、炎の熱で縮れた跡がある。
頬にも赤みが残っていた。
鬼太郎のアギは、男へ直接当たっていない。
それでも男は、自分が焼け死んだような顔をしていた。
「すぐに出る必要はありません」
「な、何をするつもりだ」
「あなたが落ち着くのを待ちます。そのまま運転される方が危険ですから」
「逃がしてくれ」
「それはできません」
鬼太郎は即答した。
男の顔が引きつる。
「場所は話した。知っていることは全部話した」
「ええ。ですから、次は案内をお願いします」
「自分で行けばいいだろう!」
「僕は六歳です」
鬼太郎は先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「車の運転はできませんし、大きな街で知らない方を捜すのも大変でしょう?」
男は何かを言い返そうとした。
だが、鬼太郎の右手を見ると口を閉じた。
鬼太郎は男を壁際へ立たせた。
上着とズボンのポケットから、中身を一つずつ床へ出させる。
財布。
煙草。
安い金属製のライター。
折り畳み式のナイフ。
鬼太郎はナイフを布で包み、自分の鞄へ入れた。
男の財布から必要以上に金を奪うことはしなかった。途中で燃料や食事が必要になれば、男自身に払わせた方がよい。
「しばらく座っていてください」
鬼太郎は車庫の端にある椅子を指した。
「急に立ち上がったり、外へ出ようとしたりしなければ、何もしません」
男は言われたとおりに座った。
両手を膝の上へ置き、何度も深く息を吸う。
鬼太郎も、壁へ背を預けた。
身体が重かった。
朝から長い距離を歩き、家を焼き、町を調べ、さらに二度アギを使った。
内側の力がなくなったわけではない。
それでも、六歳の身体には確かな疲労がある。
男へ見せるつもりはなかった。
弱っていると知られれば、恐怖より逃げたい気持ちが勝つかもしれない。
鬼太郎は目を閉じず、男の呼吸が落ち着くまで待った。
◆
車庫を出たときには、日が傾き始めていた。
男が運転席へ座り、鬼太郎は後部座席へ乗った。
鞄は膝の上に抱える。
男は何度も鏡を見た。
そのたびに、後部座席の鬼太郎と目が合う。
「前を見てください」
「見てる」
「今はこちらを見ていましたよ」
「……分かった」
車が動き出す。
町の建物が窓の外を流れ、やがて畑と林の続く道へ出た。
鬼太郎は男の両手を見ていた。
急にハンドルを切る。
車を何かへ衝突させる。
走行中に飛び降りる。
男が自分から死を選ぶ可能性は低いが、恐怖に駆られた人間が合理的に動くとは限らない。
「買い手について、もう少し教えてください」
「さっき話した」
「落ち着いていませんでしたから。確認したいのです」
男は唾を飲み込んだ。
「何を聞きたい」
「その方は、子供だけを買うのですか?」
「違う。金になるなら何でもだ」
「人以外も?」
「盗品。書類。国外へ出したい荷物。表じゃ頼めない仕事も、人を探して回してる」
「英国へ人を運んだことは?」
「知らない」
男はすぐに付け加えた。
「本当に知らないんだ。俺が持っていくのは近くで拾った子供だけだ。向こうが、そのあとどこへ売るかなんて聞かされない」
「なるほど」
少なくとも、英国まで直接つながる保証はない。
だが、偽造書類や国外へ出す荷物を扱っているなら、この男よりは役に立つ。
「買い手の周りには、何人ほどいるのですか?」
「いつも同じじゃない。二人のときも、もっといるときもある」
「武器は?」
「ある」
「どのような?」
男は鏡越しに鬼太郎を見た。
「銃だ」
鬼太郎はそれ以上尋ねなかった。
銃であることは、男の答えを聞く前から分かっていた。
この世界でも、新聞や本を通じて存在は知っている。
断片的に戻った前世の光景にも、銃は存在していた。
瓦礫の間で響く破裂音。
火薬の臭い。
倒れる人間。
だが、自分自身がどのように扱っていたのかは思い出せない。
構え方も、狙い方も、手入れの方法も、霧の向こうに沈んでいる。
銃そのものを知らないわけではない。
引き金を引けば弾が飛び、人間を殺せる。その危険性は理解している。ただ、構え方も、狙い方も、撃ったときに身体へかかる力も、今の自分にはまだ馴染んでいなかった。
アギを使うには、内側の力へ触れ、炎を形作り、言葉にしなければならない。
銃弾は、それより早いかもしれない。
相手が撃つ前に殺せると考えるべきではない。
窓の外が暗くなっていく。
遠くに、大きな街の灯りが見え始めた。
◆
男が車を止めたのは、街の中心から離れた一角だった。
大きな建物が並び、荷物を積んだ車が出入りしている。
その中に、古い部品や機械を扱っているらしい倉庫があった。
看板は出ているが、客の姿はない。
入口には、体格のよい男が一人立っていた。
「いつもどおりにしてください」
鬼太郎が言うと、運転席の男は首を振った。
「無理だ。あいつらに何をされるか……」
「僕のことを話しても構いません」
「何だと?」
「隠せる状態ではないでしょう?」
男の声も、手も、まだ震えている。
平静を装わせても、倉庫の者にはすぐ見抜かれる。
「ただし、勝手に逃げないでください。あなたには、まだ用があります」
男は青ざめたまま車を降りた。
鬼太郎も鞄を背負い、その後ろへ続く。
入口にいた男の視線が、鬼太郎へ向けられた。
「ずいぶん遅かったな」
「買い手に会わせてくれ」
「そいつか?」
「違う。いや、最初はそのつもりだった。だが――」
「何を震えてる」
入口の男が眉を寄せた。
上着の内側へ手を入れる。
鬼太郎には、そこに何があるのか分からなかった。
しかし、手の位置と男の警戒から、武器だと判断した。
「その手は出さない方がよいですよ」
鬼太郎が告げる。
入口の男が目を細めた。
「今、何と言った?」
「その子に触るな!」
誘拐犯が叫んだ。
声が裏返っていた。
「頼む。買い手を呼んでくれ。俺じゃ話にならない」
入口の男はしばらく二人を見比べた。
やがて、倉庫の奥へ消えた。
戻ってきたとき、その後ろには二人の人間がいた。
一人は入口の男と同じように、上着の内側へ手を入れている。
もう一人が、買い手だった。
年齢の読みにくい顔をしていた。
歩き方に急ぐ様子はない。
最初に見たのは鬼太郎ではなく、誘拐犯の焦げた上着だった。
次に頬の赤みを見て、最後に鬼太郎へ視線を移す。
「中へ入れ」
低い声で告げた。
◆
倉庫の奥には、小さな事務所があった。
机と椅子。
壁際の棚。
積み上げられた書類箱。
買い手は机の向こうへ座った。
二人の部下は、鬼太郎と誘拐犯を左右から挟む位置に立つ。
「話せ」
買い手が誘拐犯へ命じた。
「この子供を、いつものように連れてきた。広場に一人でいた。だが、違うんだ」
「何が違う」
「火を出した」
買い手の目がわずかに細くなった。
「火?」
「何も持ってない。手を向けて、変な言葉を言った。それだけで火が飛んだ。木箱が燃えた。扉の前も……」
誘拐犯の呼吸が速くなる。
「悪魔だ。こいつは悪魔だ。俺を焼き殺せる。今だって――」
「黙れ」
買い手の一言で、男は口を閉じた。
買い手は鬼太郎から視線を外さない。
笑わなかった。
「二人とも、その子供へ近づくな」
部下たちがわずかに位置を変えた。
鬼太郎を挟むのではなく、距離を取る。
「信じるのですか?」
鬼太郎が尋ねた。
「長くこの仕事をしていると、妙な話を聞く」
買い手は答えた。
「鍵のかかった部屋から消えた人間。武器も傷もないのに死んだ男。何も触れずに扉を開けた運び屋。大半は、酔っ払いの作り話か、失敗をごまかすための嘘だ」
「では、これも嘘だと?」
「そうなら話は簡単だ」
買い手は誘拐犯の焼けた上着を指した。
「だが、こいつは私の前で芝居のできる人間ではない」
誘拐犯が何度も頷いた。
「本当だ。俺は嘘をついてない」
「道具は使ったか?」
「何もない」
「油や火薬は?」
「ない。手から出たんだ」
買い手はしばらく黙った。
「見せてもらえるか?」
今度は鬼太郎へ尋ねる。
「ここでですか?」
「外でやる。燃やすものはこちらで用意する」
拒否すれば、噂を利用した虚勢だと思われる。
能力を見せれば、警戒される。
だが、何の力もない六歳児として扱われるよりはよい。
「構いませんよ」
◆
倉庫の裏には、コンクリートで固められた荷捌き場があった。
中央へ、壊れた木製の椅子が置かれる。
周囲に燃え移るものはない。
買い手と部下たちは、十分に距離を取っていた。
誘拐犯だけが、さらに後ろへ下がろうとして止められた。
「あの椅子を燃やせ」
買い手が言った。
鬼太郎は右手を上げる。
部下の一人が上着の内側から黒い拳銃を抜いた。
銃口が鬼太郎へ向けられる。
鬼太郎は手を止めた。
「それを向けたままでは、集中しづらいのですが」
「下ろせ」
買い手が命じる。
「ですが――」
「下ろせ。撃つなら、何が起きるか見てからでも遅くない」
部下は迷いながら銃口を下げた。
構え方に無駄がない。
引き金へかかった指。
いつでも持ち上げられる位置。
鬼太郎がアギを放つまでに、あの男なら撃てるかもしれない。
生前にどう扱っていたかは、まだ思い出せない。それでも、目の前の銃口が自分を殺し得ることは理解できた。
鬼太郎は椅子へ意識を戻す。
内側の力へ触れ、炎を形作る。
「アギ」
赤い火球が空気を裂いた。
椅子へ直撃する。
木材が砕け、炎が背もたれから脚へ広がった。
部下の一人が息を呑む。
拳銃を持った男は、反射的に腕を上げかけた。
「動くな」
買い手の声が飛ぶ。
静かだったが、その声も完全には平らではなかった。
買い手自身、燃える椅子から一歩下がっている。
噂として知っていることと、自分の目で見ることは同じではない。
全員の視線が鬼太郎へ集まった。
「あなた方の噂にいる者も、このようなことをするのですか?」
鬼太郎が尋ねる。
「知らない」
買い手は燃える椅子を見たまま答えた。
「実際に見たのは初めてだ」
「そうですか」
「お前は何者だ?」
「それを調べるために、英国へ行こうとしています」
買い手が鬼太郎を見る。
先ほどまでとは、目の色が違っていた。
売り物を見る目ではない。
危険な武器が、どこまで役に立ち、どこで自分へ向くのかを測る目だった。
◆
事務所へ戻っても、部下たちは鬼太郎へ近づかなかった。
拳銃を持った男だけは、いつでも抜ける位置に手を置いている。
「英国まで運んでいただけますか?」
鬼太郎が尋ねる。
「金は?」
「今持っているものでは足りないでしょうね」
「足りない。書類だけではない。国境を越えるたびに人と車を替え、口を閉じさせる金がいる」
「では、働きます」
「六歳の子供がか?」
買い手は燃えた椅子のあった方角へ目を向けた。
「あれだけで英国まで行けると思うな。珍しい力と、使える力は違う」
「試してみますか?」
「そのつもりだ」
買い手は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
そこには建物の位置と、簡単な見取り図が書かれていた。
「私の帳簿を持ち逃げした者がいる」
「警察へ渡されると困るものですか?」
「読めば分かる。もっとも、読んだ人間を生かしておくつもりはないがな」
「何人います?」
「少なくとも三人」
「武器は?」
「持っている」
「どのような?」
「それを確かめるところから仕事だ」
すべてを教えるつもりはないらしい。
買い手にとって、鬼太郎はまだ仲間ではない。
成功すれば利用する。
失敗して死ねば、それまで。
分かりやすい扱いだった。
「帳簿を取り戻せば、英国へ?」
「一度の仕事で払える値段ではない。だが、生きて戻れば次の仕事を与える。寝る場所と食事も用意する。働いた分は、お前の渡航費として記録してやる」
「あなたが記録をごまかさない保証は?」
「ない」
買い手は初めて、わずかに笑った。
「嫌なら、自分で別の道を探せ」
鬼太郎も小さく笑う。
「いいえ。分かりやすくて結構です」
机の上の紙を手に取った。
そのとき、部下の腰にある拳銃が再び目に入った。
買い手が視線に気づく。
「銃が気になるか?」
「ええ」
「使えるのか」
「今は、まだ使えません」
鬼太郎は正直に答えた。
「ですが、便利そうですね。僕が炎を作るより、あの方が引き金を引く方が早い」
拳銃を持つ男が、わずかに眉を動かした。
買い手は鬼太郎を見つめた。
「この仕事から戻ってきたら、触らせてやる」
「教えていただけるのですか?」
「お前の手で扱えるかどうかを見るだけだ。六歳児に撃てるものかは知らん」
「それで十分です」
鬼太郎は紙を折り、鞄へ入れた。
アギだけでは足りない。
今日、それを何度も思い知らされた。
内側の力には限りがある。
発動までには、わずかでも時間が必要になる。
銃がその隙間を埋めるなら、覚える価値はあった。
「こいつに送らせろ」
買い手が誘拐犯を指した。
男の顔が歪む。
「俺は、もう――」
「お前が連れてきた客だ。最後まで面倒を見ろ」
「ですが、この子は……」
「拒むのですか?」
鬼太郎が穏やかに尋ねた。
誘拐犯は黙った。
鬼太郎には、初めて向かう場所までの移動手段が必要だった。
相手の人数も、武器も分からない。
危険な場所へ先に入らせる者もいた方がよい。
この男には、まだ使い道が残っている。
鬼太郎は事務所の扉へ向かった。
「それでは、行きましょうか」
背後で、誘拐犯の息を呑む音がした。