神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

6 / 10
買い手は、炎を見る

第五話 

 

 男は、車の鍵を握ることさえできなかった。

 

 震える指の間から鍵が落ち、硬い床を跳ねる。

 

 墓場鬼太郎は、その音を黙って聞いていた。

 

「拾ってください」

 

「わ、分かってる……」

 

 男は腰を屈めた。

 

 一度目は鍵をつかみ損ねた。二度目でようやく拾い上げたが、今度は立ち上がるときに車の側面へ肩をぶつける。

 

 この状態で運転させれば、買い手へ会う前に事故を起こす。

 

 鬼太郎は車庫の中を見回した。

 

 木箱に燃え移った火は、砂をかけて消してある。ぼろ布からは細い煙が上がっていたが、再び燃え広がる様子はなかった。

 

 男の上着の裾には、炎の熱で縮れた跡がある。

 

 頬にも赤みが残っていた。

 

 鬼太郎のアギは、男へ直接当たっていない。

 

 それでも男は、自分が焼け死んだような顔をしていた。

 

「すぐに出る必要はありません」

 

「な、何をするつもりだ」

 

「あなたが落ち着くのを待ちます。そのまま運転される方が危険ですから」

 

「逃がしてくれ」

 

「それはできません」

 

 鬼太郎は即答した。

 

 男の顔が引きつる。

 

「場所は話した。知っていることは全部話した」

 

「ええ。ですから、次は案内をお願いします」

 

「自分で行けばいいだろう!」

 

「僕は六歳です」

 

 鬼太郎は先ほどと同じ言葉を繰り返した。

 

「車の運転はできませんし、大きな街で知らない方を捜すのも大変でしょう?」

 

 男は何かを言い返そうとした。

 

 だが、鬼太郎の右手を見ると口を閉じた。

 

 鬼太郎は男を壁際へ立たせた。

 

 上着とズボンのポケットから、中身を一つずつ床へ出させる。

 

 財布。

 

 煙草。

 

 安い金属製のライター。

 

 折り畳み式のナイフ。

 

 鬼太郎はナイフを布で包み、自分の鞄へ入れた。

 

 男の財布から必要以上に金を奪うことはしなかった。途中で燃料や食事が必要になれば、男自身に払わせた方がよい。

 

「しばらく座っていてください」

 

 鬼太郎は車庫の端にある椅子を指した。

 

「急に立ち上がったり、外へ出ようとしたりしなければ、何もしません」

 

 男は言われたとおりに座った。

 

 両手を膝の上へ置き、何度も深く息を吸う。

 

 鬼太郎も、壁へ背を預けた。

 

 身体が重かった。

 

 朝から長い距離を歩き、家を焼き、町を調べ、さらに二度アギを使った。

 

 内側の力がなくなったわけではない。

 

 それでも、六歳の身体には確かな疲労がある。

 

 男へ見せるつもりはなかった。

 

 弱っていると知られれば、恐怖より逃げたい気持ちが勝つかもしれない。

 

 鬼太郎は目を閉じず、男の呼吸が落ち着くまで待った。

 

     ◆

 

 車庫を出たときには、日が傾き始めていた。

 

 男が運転席へ座り、鬼太郎は後部座席へ乗った。

 

 鞄は膝の上に抱える。

 

 男は何度も鏡を見た。

 

 そのたびに、後部座席の鬼太郎と目が合う。

 

「前を見てください」

 

「見てる」

 

「今はこちらを見ていましたよ」

 

「……分かった」

 

 車が動き出す。

 

 町の建物が窓の外を流れ、やがて畑と林の続く道へ出た。

 

 鬼太郎は男の両手を見ていた。

 

 急にハンドルを切る。

 

 車を何かへ衝突させる。

 

 走行中に飛び降りる。

 

 男が自分から死を選ぶ可能性は低いが、恐怖に駆られた人間が合理的に動くとは限らない。

 

「買い手について、もう少し教えてください」

 

「さっき話した」

 

「落ち着いていませんでしたから。確認したいのです」

 

 男は唾を飲み込んだ。

 

「何を聞きたい」

 

「その方は、子供だけを買うのですか?」

 

「違う。金になるなら何でもだ」

 

「人以外も?」

 

「盗品。書類。国外へ出したい荷物。表じゃ頼めない仕事も、人を探して回してる」

 

「英国へ人を運んだことは?」

 

「知らない」

 

 男はすぐに付け加えた。

 

「本当に知らないんだ。俺が持っていくのは近くで拾った子供だけだ。向こうが、そのあとどこへ売るかなんて聞かされない」

 

「なるほど」

 

 少なくとも、英国まで直接つながる保証はない。

 

 だが、偽造書類や国外へ出す荷物を扱っているなら、この男よりは役に立つ。

 

「買い手の周りには、何人ほどいるのですか?」

 

「いつも同じじゃない。二人のときも、もっといるときもある」

 

「武器は?」

 

「ある」

 

「どのような?」

 

 男は鏡越しに鬼太郎を見た。

 

「銃だ」

 

 鬼太郎はそれ以上尋ねなかった。

 

 銃であることは、男の答えを聞く前から分かっていた。

 

 この世界でも、新聞や本を通じて存在は知っている。

 

 断片的に戻った前世の光景にも、銃は存在していた。

 

 瓦礫の間で響く破裂音。

 

 火薬の臭い。

 

 倒れる人間。

 

 だが、自分自身がどのように扱っていたのかは思い出せない。

 

 構え方も、狙い方も、手入れの方法も、霧の向こうに沈んでいる。

 

 銃そのものを知らないわけではない。

 

 引き金を引けば弾が飛び、人間を殺せる。その危険性は理解している。ただ、構え方も、狙い方も、撃ったときに身体へかかる力も、今の自分にはまだ馴染んでいなかった。

 

 アギを使うには、内側の力へ触れ、炎を形作り、言葉にしなければならない。

 

 銃弾は、それより早いかもしれない。

 

 相手が撃つ前に殺せると考えるべきではない。

 

 窓の外が暗くなっていく。

 

 遠くに、大きな街の灯りが見え始めた。

 

     ◆

 

 男が車を止めたのは、街の中心から離れた一角だった。

 

 大きな建物が並び、荷物を積んだ車が出入りしている。

 

 その中に、古い部品や機械を扱っているらしい倉庫があった。

 

 看板は出ているが、客の姿はない。

 

 入口には、体格のよい男が一人立っていた。

 

「いつもどおりにしてください」

 

 鬼太郎が言うと、運転席の男は首を振った。

 

「無理だ。あいつらに何をされるか……」

 

「僕のことを話しても構いません」

 

「何だと?」

 

「隠せる状態ではないでしょう?」

 

 男の声も、手も、まだ震えている。

 

 平静を装わせても、倉庫の者にはすぐ見抜かれる。

 

「ただし、勝手に逃げないでください。あなたには、まだ用があります」

 

 男は青ざめたまま車を降りた。

 

 鬼太郎も鞄を背負い、その後ろへ続く。

 

 入口にいた男の視線が、鬼太郎へ向けられた。

 

「ずいぶん遅かったな」

 

「買い手に会わせてくれ」

 

「そいつか?」

 

「違う。いや、最初はそのつもりだった。だが――」

 

「何を震えてる」

 

 入口の男が眉を寄せた。

 

 上着の内側へ手を入れる。

 

 鬼太郎には、そこに何があるのか分からなかった。

 

 しかし、手の位置と男の警戒から、武器だと判断した。

 

「その手は出さない方がよいですよ」

 

 鬼太郎が告げる。

 

 入口の男が目を細めた。

 

「今、何と言った?」

 

「その子に触るな!」

 

 誘拐犯が叫んだ。

 

 声が裏返っていた。

 

「頼む。買い手を呼んでくれ。俺じゃ話にならない」

 

 入口の男はしばらく二人を見比べた。

 

 やがて、倉庫の奥へ消えた。

 

 戻ってきたとき、その後ろには二人の人間がいた。

 

 一人は入口の男と同じように、上着の内側へ手を入れている。

 

 もう一人が、買い手だった。

 

 年齢の読みにくい顔をしていた。

 

 歩き方に急ぐ様子はない。

 

 最初に見たのは鬼太郎ではなく、誘拐犯の焦げた上着だった。

 

 次に頬の赤みを見て、最後に鬼太郎へ視線を移す。

 

「中へ入れ」

 

 低い声で告げた。

 

     ◆

 

 倉庫の奥には、小さな事務所があった。

 

 机と椅子。

 

 壁際の棚。

 

 積み上げられた書類箱。

 

 買い手は机の向こうへ座った。

 

 二人の部下は、鬼太郎と誘拐犯を左右から挟む位置に立つ。

 

「話せ」

 

 買い手が誘拐犯へ命じた。

 

「この子供を、いつものように連れてきた。広場に一人でいた。だが、違うんだ」

 

「何が違う」

 

「火を出した」

 

 買い手の目がわずかに細くなった。

 

「火?」

 

「何も持ってない。手を向けて、変な言葉を言った。それだけで火が飛んだ。木箱が燃えた。扉の前も……」

 

 誘拐犯の呼吸が速くなる。

 

「悪魔だ。こいつは悪魔だ。俺を焼き殺せる。今だって――」

 

「黙れ」

 

 買い手の一言で、男は口を閉じた。

 

 買い手は鬼太郎から視線を外さない。

 

 笑わなかった。

 

「二人とも、その子供へ近づくな」

 

 部下たちがわずかに位置を変えた。

 

 鬼太郎を挟むのではなく、距離を取る。

 

「信じるのですか?」

 

 鬼太郎が尋ねた。

 

「長くこの仕事をしていると、妙な話を聞く」

 

 買い手は答えた。

 

「鍵のかかった部屋から消えた人間。武器も傷もないのに死んだ男。何も触れずに扉を開けた運び屋。大半は、酔っ払いの作り話か、失敗をごまかすための嘘だ」

 

「では、これも嘘だと?」

 

「そうなら話は簡単だ」

 

 買い手は誘拐犯の焼けた上着を指した。

 

「だが、こいつは私の前で芝居のできる人間ではない」

 

 誘拐犯が何度も頷いた。

 

「本当だ。俺は嘘をついてない」

 

「道具は使ったか?」

 

「何もない」

 

「油や火薬は?」

 

「ない。手から出たんだ」

 

 買い手はしばらく黙った。

 

「見せてもらえるか?」

 

 今度は鬼太郎へ尋ねる。

 

「ここでですか?」

 

「外でやる。燃やすものはこちらで用意する」

 

 拒否すれば、噂を利用した虚勢だと思われる。

 

 能力を見せれば、警戒される。

 

 だが、何の力もない六歳児として扱われるよりはよい。

 

「構いませんよ」

 

     ◆

 

 倉庫の裏には、コンクリートで固められた荷捌き場があった。

 

 中央へ、壊れた木製の椅子が置かれる。

 

 周囲に燃え移るものはない。

 

 買い手と部下たちは、十分に距離を取っていた。

 

 誘拐犯だけが、さらに後ろへ下がろうとして止められた。

 

「あの椅子を燃やせ」

 

 買い手が言った。

 

 鬼太郎は右手を上げる。

 

 部下の一人が上着の内側から黒い拳銃を抜いた。

 

 銃口が鬼太郎へ向けられる。

 

 鬼太郎は手を止めた。

 

「それを向けたままでは、集中しづらいのですが」

 

「下ろせ」

 

 買い手が命じる。

 

「ですが――」

 

「下ろせ。撃つなら、何が起きるか見てからでも遅くない」

 

 部下は迷いながら銃口を下げた。

 

 構え方に無駄がない。

 

 引き金へかかった指。

 

 いつでも持ち上げられる位置。

 

 鬼太郎がアギを放つまでに、あの男なら撃てるかもしれない。

 

 生前にどう扱っていたかは、まだ思い出せない。それでも、目の前の銃口が自分を殺し得ることは理解できた。

 

 鬼太郎は椅子へ意識を戻す。

 

 内側の力へ触れ、炎を形作る。

 

「アギ」

 

 赤い火球が空気を裂いた。

 

 椅子へ直撃する。

 

 木材が砕け、炎が背もたれから脚へ広がった。

 

 部下の一人が息を呑む。

 

 拳銃を持った男は、反射的に腕を上げかけた。

 

「動くな」

 

 買い手の声が飛ぶ。

 

 静かだったが、その声も完全には平らではなかった。

 

 買い手自身、燃える椅子から一歩下がっている。

 

 噂として知っていることと、自分の目で見ることは同じではない。

 

 全員の視線が鬼太郎へ集まった。

 

「あなた方の噂にいる者も、このようなことをするのですか?」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

「知らない」

 

 買い手は燃える椅子を見たまま答えた。

 

「実際に見たのは初めてだ」

 

「そうですか」

 

「お前は何者だ?」

 

「それを調べるために、英国へ行こうとしています」

 

 買い手が鬼太郎を見る。

 

 先ほどまでとは、目の色が違っていた。

 

 売り物を見る目ではない。

 

 危険な武器が、どこまで役に立ち、どこで自分へ向くのかを測る目だった。

 

     ◆

 

 事務所へ戻っても、部下たちは鬼太郎へ近づかなかった。

 

 拳銃を持った男だけは、いつでも抜ける位置に手を置いている。

 

「英国まで運んでいただけますか?」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

「金は?」

 

「今持っているものでは足りないでしょうね」

 

「足りない。書類だけではない。国境を越えるたびに人と車を替え、口を閉じさせる金がいる」

 

「では、働きます」

 

「六歳の子供がか?」

 

 買い手は燃えた椅子のあった方角へ目を向けた。

 

「あれだけで英国まで行けると思うな。珍しい力と、使える力は違う」

 

「試してみますか?」

 

「そのつもりだ」

 

 買い手は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。

 

 そこには建物の位置と、簡単な見取り図が書かれていた。

 

「私の帳簿を持ち逃げした者がいる」

 

「警察へ渡されると困るものですか?」

 

「読めば分かる。もっとも、読んだ人間を生かしておくつもりはないがな」

 

「何人います?」

 

「少なくとも三人」

 

「武器は?」

 

「持っている」

 

「どのような?」

 

「それを確かめるところから仕事だ」

 

 すべてを教えるつもりはないらしい。

 

 買い手にとって、鬼太郎はまだ仲間ではない。

 

 成功すれば利用する。

 

 失敗して死ねば、それまで。

 

 分かりやすい扱いだった。

 

「帳簿を取り戻せば、英国へ?」

 

「一度の仕事で払える値段ではない。だが、生きて戻れば次の仕事を与える。寝る場所と食事も用意する。働いた分は、お前の渡航費として記録してやる」

 

「あなたが記録をごまかさない保証は?」

 

「ない」

 

 買い手は初めて、わずかに笑った。

 

「嫌なら、自分で別の道を探せ」

 

 鬼太郎も小さく笑う。

 

「いいえ。分かりやすくて結構です」

 

 机の上の紙を手に取った。

 

 そのとき、部下の腰にある拳銃が再び目に入った。

 

 買い手が視線に気づく。

 

「銃が気になるか?」

 

「ええ」

 

「使えるのか」

 

「今は、まだ使えません」

 

 鬼太郎は正直に答えた。

 

「ですが、便利そうですね。僕が炎を作るより、あの方が引き金を引く方が早い」

 

 拳銃を持つ男が、わずかに眉を動かした。

 

 買い手は鬼太郎を見つめた。

 

「この仕事から戻ってきたら、触らせてやる」

 

「教えていただけるのですか?」

 

「お前の手で扱えるかどうかを見るだけだ。六歳児に撃てるものかは知らん」

 

「それで十分です」

 

 鬼太郎は紙を折り、鞄へ入れた。

 

 アギだけでは足りない。

 

 今日、それを何度も思い知らされた。

 

 内側の力には限りがある。

 

 発動までには、わずかでも時間が必要になる。

 

 銃がその隙間を埋めるなら、覚える価値はあった。

 

「こいつに送らせろ」

 

 買い手が誘拐犯を指した。

 

 男の顔が歪む。

 

「俺は、もう――」

 

「お前が連れてきた客だ。最後まで面倒を見ろ」

 

「ですが、この子は……」

 

「拒むのですか?」

 

 鬼太郎が穏やかに尋ねた。

 

 誘拐犯は黙った。

 

 鬼太郎には、初めて向かう場所までの移動手段が必要だった。

 

 相手の人数も、武器も分からない。

 

 危険な場所へ先に入らせる者もいた方がよい。

 

 この男には、まだ使い道が残っている。

 

 鬼太郎は事務所の扉へ向かった。

 

「それでは、行きましょうか」

 

 背後で、誘拐犯の息を呑む音がした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。