神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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白い石まで

第59話 白い石まで

 

 グロブニクの肩が、沈んだ。

 鬼太郎は銃を抜こうとした。

 その時には、もう黒い身体が正面から消えていた。

 

 膝が折れる。

 考えて沈んだのではなかった。頭のあった場所を前脚が通り、風に引かれて髪が浮く。

 鬼太郎は左手を土につき、そのまま横へ転がって〈ケストレル〉を抜いた。

 

 二発。

 

 一発目は、向きを変えた身体の後ろへ抜けた。

 二発目が肩の毛を散らす。

 それでも、巨体は止まらなかった。

 

 鬼太郎は立ち上がり、根を一つ越えた。

 右から来た、と分かったのは、前脚が頭の上を通ってからだった。

 先ほどまで見ていたはずの脚を、自分の目は追えていない。

 

 グロブニクが岩へ前脚を掛けた。

 黒い背が横へ跳び、赤い右目が木の裏へ消える。

 鬼太郎は銃口を左へ向けかけた。

 右肘が、その前に引けた。

 

 背後へ回った銃が鳴る。

 

 グロブニクの頬に、赤い筋が入った。

 牙が外套の背を噛み、布を裂く。鬼太郎は前へ転がり、首のすぐ後ろで閉じた顎から離れた。

 

 また、身体が先だった。

 

 ダンブルドアの背後へ銃を向けた時にも、似たことがあった。

 考えて作った手順より早く、身体に残っていた動きが出る。

 今も、それで二度、生きている。

 だが、なぜ今動けたのかは、分からなかった。

 

 グロブニクは低く伏せた。

 鬼太郎は、その肩と後ろ脚を見る。

 次の踏み込みを読もうとしながら、どこかで、また身体が動くはずだと思っていた。

 

 黒い脚が、地面を蹴った。

 

 今度は、何も起きなかった。

 

 正面。

 そう考えた時には、頭が胸元まで来ていた。

 鬼太郎は左腕を間へ差し込む。

 牙ではなく、頭の横が当たった。

 

 腕だけでは受けられない。

 衝撃が肩を抜け、両足が地面から離れた。

 背中を岩へ打ちつける。

 肺から空気が押し出され、銃声の反響も、木々の音も、遠くなった。

 

 黒い口が、目の前で開いた。

 

 その形に、別の輪郭が重なった。

 人間の腕ではないもの。横へ裂けた顎。頭の上から落ちる爪。

 足の数も、身体の向きも違う相手が、自分を囲んでいた。

 どこかの一戦を、順番に思い出したのではない。

 名前も、顔も、まだ掴めなかった。

 

 ただ、人の形を基準にしていては間に合わない攻撃を、自分は何度も受けていた。

 悪魔と戦っていた。

 腕を見る前に腰を落とし、顔が消えたら、別の場所から来る牙を避けるまで。

 今の目より先に、その癖だけが残っていた。

 

 右の牙が、喉へ落ちてくる。

 鬼太郎は左の掌を、その口へ向けた。

 

「アギ」

 

 小さく作った火を、牙の間へ放つ。

 グロブニクが首を振った。

 鬼太郎は岩に背を擦りつけながら、横へ転がる。

 鼻先から煙を吐いた巨体が、そこへ前脚を落とした。

 岩の欠片が、頬へ当たる。

 

 立つまでに、息を二度吸わねばならなかった。

 左腕が痺れている。

 思い出したところで、打たれた痛みは消えなかった。

 

 グロブニクが、焼けた口を舐めた。

 先ほどまでは、獲物を見るように細くなっていた右目が、今はこちらをはっきり捉えている。

 

「火は、あるか」

「ええ。鉄も、まだあります」

 

 鬼太郎は、相手の左側へ回ろうとした。

 傷で塞がれた目の側だ。

 足元を確かめながら半歩ずつ動くと、グロブニクの耳がこちらへ向いた。首は少ししか動かない。それでも、踏み出そうとする場所には、もう太い前脚があった。

 見えていない所へ入れば、一息つける。

 そんな隙にはならなかった。

 

 黒い鼻先が上がる。

 風は、鬼太郎の背から谷の奥へ流れていた。見失ったふりをしても、立っている場所は分かるのだろう。

 相手は片目しか持っていないのではない。

 残る目と耳と鼻で、ここを生きてきた。

 

 鬼太郎は横へ回るのをやめた。

 相手の弱そうな所だけを探しても、その間に自分の足が読まれている。

 

 鬼太郎は、銃を起こした。

 四本の脚へ、順に重みが移る。尾が向きを変え、その反対側へ肩が沈んだ。

 顔だけを追えば、また消える。

 

 今度は、自分で足を動かした。

 身体が勝手に避けるのを待たず、根の向こうへ走る。

 黒い前脚が、遅れてそこを打った。

 

 振り向きながら一発撃つ。

 前脚の毛が弾け、薄く血が滲んだ。

 人間なら、その脚で体重を支えられなくなる場所だった。

 グロブニクは、そのまま地面を蹴った。

 

 鬼太郎は銃を右に持ち、左手を足元へ向ける。

 

「ブフ」

 

 冷気が湿った落葉と根を覆った。

 踏み込んだ前脚が僅かに滑り、巨体の向きがずれた。

 そこへ、鬼太郎は左手を上げる。

 

「ジオ」

 

 青白い光が、毛の薄い鼻先へ走った。

 顎が、一瞬強張る。

 鬼太郎は銃を両手で支え、残る右目へ照準を合わせた。

 

 口が開いた。

 

 咆哮が、空気ごとぶつかってきた。

 耳の奥で、音が潰れる。

 銃口が跳ね、引いた弾は頭の上へ抜けた。

 胸を押され、踵が滑る。

 

 その一瞬で、前脚が来た。

 

 鬼太郎は後ろへ跳んだ。

 届かないつもりの距離で、外套が裂ける。

 遅れて、左の脇腹に熱い線が走った。

 

 着地した足から、力が抜けた。

 片膝が土へつく。

 左手を当てると、指の間へ血が出た。

 

 白い石の向こうで、キーノが動いた。

 こちらへ来たのではない。石から足を離したまま、何かを取り出している。

 サーシェスは、その横にいた。

 銃声はしない。

 鬼太郎が手を貸してほしいと言えば、男は動くかもしれない。だが、それは谷へ二人で入った別の戦いになる。

 いま守っているのは、自分が一人で話すと決めた線だった。

 

 鬼太郎は、二人を見るのをやめた。

 グロブニクへ視線を戻す。

 校長が相手なら、止めると言えばその瞬間に終わった。ここで同じように終えたいと思うことと、相手が終わらせることは違う。

 谷へ入る前に見ていた帰路を、今の身体で使わなければならなかった。

 

 見た足の長さだけでは、足りなかった。

 伸びる肩と、前へ出る身体。その全部で、爪が届く。

 グロブニクは首を振り、黒い鼻先から焦げた匂いを散らした。

 火傷と、頬と前脚の浅い傷。

 速さが鈍ったとは、思えなかった。

 

 鬼太郎は立ち上がろうとして、脇腹を庇った。

 火と風を両手で重ねれば、今の火より強いものを作れる。

 あの竜巻が、頭に浮かんだ。

 

 だが、銃を収めて、両足を止める時間が要る。

 この相手は、火が回るまで見ていてはくれない。

 残る力を注いで、途中で崩されれば、その後に谷から出るものまでなくなる。

 

 鬼太郎は、銃を収めなかった。

 

 白い石は、まだ見えていた。

 そこへ、真っ直ぐ走るには遠い。

 いま背を向ければ、二歩目には追いつかれるだろう。

 

「まだ、立つか」

 

 グロブニクが言った。

 

「はい」

 

 鬼太郎は、片膝から身体を起こした。

 出血を押さえる左手と、銃を持つ右手。

 次に何をすれば勝てるかを、考えるのはやめた。

 

「今日は、ここまでにします」

「我は、退いておらぬ」

「ええ。ですから、僕が退きます」

 

 牙が見えた。

 相手の動きは、緩まなかった。

 

     ◆

 

 鬼太郎は、グロブニクへ銃を向けたまま下がった。

 左手で傷を押さえ、足を根に引っかけないようにする。

 一歩下がると、黒い脚も同じだけ進んだ。

 

 帰ると言えば通してもらえる話ではない。

 白い石へ着くまで、自分で距離を作らねばならなかった。

 

 斜め後ろに、傾いた枯れ木があった。

 根元は裂け、細い水が、その下の土を削っている。

 鬼太郎はそこへ近づき、銃口を一瞬だけ相手から外した。

 裂け目へ一発。

 

 木屑が飛ぶ。

 グロブニクの肩が沈んだ。

 鬼太郎は傷から左手を離し、枯れ木の高い所へ向けた。

 

「ザン」

 

 風が木を横から叩いた。

 折れきらずに残っていた根が千切れ、幹が二人の間へ倒れる。

 巨体は止まらない。

 前脚が幹へ掛かり、その上を越えてくる。

 

 鬼太郎は、木の向こうの濡れた土へ左手を下げた。

 

「ブフ」

 

 水と泥の表面が凍った。

 グロブニクの着地した後ろ脚が滑り、爪が石を擦る。

 鬼太郎は、身体を半分だけ入口へ向けて走った。

 

 足元で、氷の砕ける音がした。

 止められたのではない。

 短い時間を、一つ得ただけだ。

 

 脇腹から、熱いものが流れた。

 左腕を振ると、痺れの奥が痛む。

 それでも足は動いた。

 白い石が、木々の間で少しずつ大きくなる。

 

 背後の足音が近づいた。

 鬼太郎は振り返りきらず、身体の向きを斜めへ戻した。

 銃口を、赤い右目へ向ける。

 グロブニクが、木の根を避けて横へずれた。

 

 撃たなかった。

 狙いを外して走らせたくなかった。銃口を置く場所だけを変え、進む線を一つ曲げる。

 相手がそのまま来れば、防げないかもしれない。

 撃てば必ず止まる、という期待も持てなかった。

 

 鬼太郎は、間にある乾いた枝へ左手を向けた。

 

「アギ」

 

 小さな火が枝と枯葉へ入った。

 煙が立つ。

 その向こうで、黒い顔が消えた。

 

 頼れるのは、煙の壁ではなかった。

 飛び出す場所を、一瞬だけ自分から見えなくしただけだ。

 鬼太郎は、それを長く保とうとせず、入口へ足を速めた。

 

 黒い身体が、炎を抜けた。

 

 白い石まで、あと数歩。

 鬼太郎は左手を上げかけ、止めた。

 この距離を逃げるために、最後の一手を残していた。

 今、相手へ当てても、そのまま踏み込まれるかもしれない。

 

 グロブニクの脚が、地面へ沈む。

 跳ぶ。

 

 鬼太郎は、左の掌を正面の土へ向けた。

 

「ザン」

 

 風が地面を打ち、巻き上がった砂と共に身体を押した。

 前へ踏み込んでいた足を緩め、その勢いに乗って後ろへ倒れる。

 黒い爪が胸を擦り、外套の留め具が飛んだ。

 

 白い石が、すぐ横を過ぎた。

 

 背中が地面へ落ちた。

 痛みに目が眩む。銃を離さず、横へ転がり、谷へ向き直った。

 

 グロブニクは、石の一歩手前にいた。

 黒い毛の先から、細い煙が上がっている。

 右目は鬼太郎を見ていたが、その足は石を越えなかった。

 

 何も約束されていない。

 鬼太郎は銃を向けたまま、相手の脚を見た。

 動かないことを確かめてから、ようやく息を吐いた。

 

「話は、また別の日に」

 

 言うと、喉に乾いた痛みがあった。

 グロブニクは、裂けた外套と、左手の血を見た。

 

「その身体で、来るな」

 

 それだけ言って、顔を背けた。

 黒い背が木立へ入る。

 鬼太郎は姿が見えなくなってから、銃口を下げた。

 

     ◆

 

 キーノが、すぐ横に来ていた。

 鬼太郎が立とうとすると、肩を押さえられる。

 

「待て。傷はどこだ」

「左の、脇腹です。胸にも少し」

 

 サーシェスが、銃を受け取った。

 鬼太郎は右手を離してから、初めて、指が握りの形に固まっていることに気づいた。

 

「こっちは預かる。お前は血を止めろ」

 

 キーノが、切れた布を傷から離す。

 鬼太郎は右手を脇腹へ当てた。

 左腕は、上げるだけで痺れが強くなった。

 

 傷を塞ぐために使う分は、取ってあった。

 息を整え、掌の下へ意識を寄せる。

 

「ディア」

 

 内側の力が、傷へ流れた。

 裂けた縁が寄り、指の間へ出ていた血が止まる。

 全てを元に戻そうとはしなかった。止血できた所で止め、手を離す。

 胸の浅い傷は、キーノが布で押さえた。

 

 ミラは近くの道を見ていた。

 石の内側へは、一度も入っていない。

 

「戻るなら、こっち。急な所を通らずに済む」

 

 鬼太郎は頷こうとして、目の前が暗くなった。

 血は止まった。

 だが、流れた分が身体へ戻ったわけではない。

 岩へ打った背と、左腕の痛みも残っている。

 

「少し、休ませてください」

 

 キーノが、押さえていた肩から手を離した。

 

「そうしろ」

 

 サーシェスは白い石の方を見ていた。

 追ってくる音はなかった。

 それでも、鬼太郎をすぐに歩かせようとはしなかった。

 

 しばらくしてから、水を少し飲んだ。

 傷へ布を当て、ずれないよう巻き直す。

 

「戻れるか」

 

 サーシェスが聞いた。

 鬼太郎は、すぐには頷かなかった。足を曲げ、土を踏み、体重を掛ける。

 脚そのものより、息を吸った時の背中と、左腕を下げた時の肩が痛んだ。

 

「休みながらなら。急いでは、歩けません」

「それでいい。途中で無理なら、言え」

 

 ミラは木立の先を見てから、戻る道の方へ向いた。

 行きと同じ所でも、今の身体には越えにくい根がある。少し遠回りをすれば、足を高く上げずに済むらしい。

 鬼太郎は、教わった道を帰れることと、どの状態でも帰れることは違うのだと、遅れて分かった。

 立つ時は、サーシェスの腕を借りた。

 歩き始めてからも、ミラが先で何度か止まり、ついて来られるかを見た。

 

 行きよりも、ずっと時間がかかった。

 

 途中で、鬼太郎は最初の二度の動きを話した。

 身体が勝手に動いたことと、三度目には動かなかったこと。

 悪魔を相手にしていた記憶が、形の違う攻撃と重なったこと。

 名前や顔は、やはり分からなかった。

 

「今から、もう一度避けろと言われても、できませんね」

 

 鬼太郎が言うと、キーノが顔を向けた。

 

「分からないものを、当てにしたんだな」

「二度、助かったので」

「三度目は?」

 

 鬼太郎は、痺れた左腕を見た。

 

「当てにした分だけ、遅れました」

 

「強いからって、またすぐ来る気か」

 

 キーノは、谷を振り返らずに尋ねた。

 

「今のままでは、同じことになりますね」

「来ないとは、言わないんだな」

「まだ、お願いしたいことは残っています」

 

 彼女は歩く速さを落とした。

 

「戻るための力を残したのは、分かった。だが、その力で戻れるか分からなくなってから退くのは遅い」

 

 鬼太郎は、裂けた外套の端を見た。

 止まった相手へもう一つ当てたいと思い、目へ狙いをつけた。その直後に咆哮が来て、脇腹を裂かれた。

 逃げるための力を分けていても、それを使う自分が動けなくなれば、残した意味がない。

 

「それは、書いておきます」

「今は、覚えてるだけでいい」

 

 サーシェスが、片手で短い言葉を書いていた。

 次の休み場所で、鬼太郎の話を二つ、聞き直す。

 同じことを言ったつもりでも、二度目の方が短くなっていた。

 

 砦の門が見えた頃には、陽が大きく傾いていた。

 ヴェリナが先に部屋を空け、水と布を用意した。

 誰がどこまで行ったかは、ミラが伝えると言った。

 

 鬼太郎は椅子へ手を掛けかけた。

 机に、前の手合わせの紙が残っている。

 今日の谷も、忘れないうちに書きたかった。

 

「寝床が、先だ」

 

 キーノに言われ、鬼太郎は紙から手を離した。

 

「最初の動きだけ、残しておきたいんですが」

「俺が書いた。起きたら足せ」

 

 サーシェスが、折った紙を机へ置いた。

 その横に、泥を払った〈ケストレル〉を置く。

 

 鬼太郎は、紙を開かなかった。

 寝室へ歩き、腰を下ろす。

 左腕を寝具へ置くと、脇腹を庇わなくてよくなった。

 

 白い石は越えられた。

 取引は、何も決まっていない。

 それでも、次を考えるための自分は、ここまで戻ってきた。

 

 鬼太郎は、今度は目を閉じた。

 

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