神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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鞄の底へ、旅を畳む

 

第五十九話 鞄の底へ、旅を畳む

 

 

 二日間、鬼太郎は仕事を受けなかった。

 

 最初の朝は、陽が高くなるまで眠った。

 

 目を覚まして食事を取り、右脇腹の傷を確かめる。

 

 捻っても、深く息を吸っても痛まない。

 

 それでも外へは出なかった。

 

 机へ布を敷き、〈シュライク〉を完全に分解する。

 

 旧貨物集積所でついた泥は、前夜に落としてある。

 

 残っているのは、隙間へ入り込んだ細かな埃と、薄い火薬の汚れだった。

 

 銃身。

 

 ばね。

 

 握り。

 

 一つずつ清め、油を引く。

 

 四発撃った後に異常はない。

 

 見世物小屋の石床へ落とした際の細かな傷も、広がっていなかった。

 

 組み直した後は、机から離れた棚へ置く。

 

 抜銃の練習はしない。

 

 二日は休むと答えた。

 

 治療師の言葉を、自分に都合よく読み替える必要はなかった。

 

 午後は、本と道具を整理した。

 

 魔法界の一般書。

 

 簡易法律書。

 

 魔法薬と危険物の本。

 

 基礎魔法理論。

 

 読み書きの教材。

 

 普通の鞄へ入る量には、まだ余裕がある。

 

 だが、これから増やすなら足りない。

 

 一冊ずつ題名と置き場所を書き、購入した日を記録する。

 

 隣では、キーノが短い単語を書いていた。

 

 出口。

 

 毒。

 

 値段。

 

 危険。

 

 見本を見て、その下へ同じ文字を並べる。

 

 一度書いた文字を布で隠すと、いくつかは止まった。

 

「これ、似すぎだ」

 

「形がですか」

 

「並べる向きまで決まってる」

 

「違えば別の言葉になりますからね」

 

「面倒だな」

 

「ええ。ですが、読めれば契約書を他人に任せずに済みます」

 

 キーノは、止まっていた文字をもう一度書いた。

 

 今度は見本を見なかった。

 

 少し歪んだが、読める。

 

「合っています」

 

「今の一回だけだ」

 

「一回できれば、次の一回もできますよ」

 

「お前の光は、次も出ないけどな」

 

「それと比べますか」

 

「比べられるうちは比べる」

 

 キーノが仮杖を持つ。

 

 肩と指から力を抜いた。

 

「ルーモス」

 

 杖先に白い光が灯る。

 

 以前より明るさは変わらない。

 

 だが、揺れは少なかった。

 

 十まで数えた後、キーノが息を吐く。

 

「ノックス」

 

 一度で消えた。

 

「二つとも成功ですね」

 

「次はお前だ」

 

 鬼太郎も、保管していた杖の一本を取る。

 

 現世の魔力だけを、腕から杖へ通す。

 

 そのつもりで意識を絞る。

 

 身体の内側で、別の流れが触れた。

 

「ルーモス」

 

 杖先に針より小さな光が生まれる。

 

 二秒も保たず、弾けた。

 

 焦げた匂いはない。

 

 杖にも異常はなかった。

 

「出たぞ」

 

「ええ。昨日の九回よりは早かったですね」

 

「それで喜ぶのか」

 

「失敗の仕方が同じなら、比べられますから」

 

 結果を紙へ記録する。

 

 成功一回。

 

 持続二秒未満。

 

 光量は針先ほど。

 

 MAGの混入あり。

 

 原因は、まだ分けられない。

 

 自分を選んでいない杖。

 

 杖魔法そのものの未熟さ。

 

 二種類の力が、同じ経路へ流れ込むこと。

 

 どれか一つか、すべてか。

 

 答えを出すには、試す回数が足りなかった。

 

 二日目も、同じように過ぎた。

 

 眠る。

 

 食べる。

 

 読み、書き、道具を確かめる。

 

 戦わずに使える時間は、生前にはほとんどなかった。

 

 力を増やすために、目の前の敵を殺す必要もない。

 

 明日まで生きているか分からない場所では、数年先に使う道具を選ぶ意味は薄かった。

 

 今は違う。

 

 面倒な契約も、保証も、修理先もある。

 

 その代わり、今日手に入れたものを、明日も使える可能性が高い。

 

 嫌いではなかった。

 

 二日目の夜、鬼太郎は机へ一枚の紙を置いた。

 

「明日の仕事です」

 

 キーノが手を止める。

 

「鞄か」

 

「ええ。工房までの経路を覚えること。周囲の警戒。以前の監視者と同じ特徴を持つ者がいれば、僕へ知らせること」

 

「買った後は?」

 

「部屋へ戻るまで、品物を見ていてください。工房で聞いた説明も、覚えられる範囲で覚えてほしいです」

 

「前の買い物と同じか」

 

「似ていますが、別の仕事です」

 

 固定報酬を告げる。

 

 買う鞄の値段とは関係がない。

 

 尾行を見つけた場合は追加。

 

 戦闘は含まない。

 

 危険を見つけたら、先に離れる。

 

「分かった。受ける」

 

「では、明日の朝に出ます」

 

「サーシェスは?」

 

「呼びません」

 

「どうしてだ」

 

「今回は工房へ鞄を買いに行くだけです。戦闘を前提に護衛を雇うほどではありません」

 

「あいつなら、鞄の値段より高くなるか」

 

「品によっては、そうですね」

 

 キーノは少し考え、紙を自分の方へ引いた。

 

 短い条件を一つずつ読む。

 

 まだ長い文章は読めない。

 

 だが、報酬、時間、危険、追加という言葉は分かる。

 

「これでいい」

 

「契約成立です」

 

     ◆

 

 翌朝、二人は漏れ鍋を通った。

 

 ウォードから奪った杖で、ごみ箱の上から三つ、横へ二つの煉瓦を三度叩く。

 

 壁が開く。

 

 キーノはもう、動く煉瓦を珍しそうには見なかった。

 

 先に人の流れを見る。

 

 次に、後ろを見る。

 

 茶色い外套はない。

 

 灰色の襟巻きも、右肩を下げて歩く男もいない。

 

 二人は同じ道をまっすぐ進まなかった。

 

 薬屋の手前で一度曲がり、古書店の前を通り過ぎる。

 

 店の硝子へ映る背後を見る。

 

 同じ者はついてこない。

 

 ベアトリス・ホロウェイの工房は、表通りにはなかった。

 

 革製品店と古い時計店の間。

 

 大人一人が通れるほどの細い道を奥へ進む。

 

 突き当たりに、黒い扉がある。

 

 店名は書かれていない。

 

 真鍮の板に、内側へ何重にも折り重なる鞄の印だけが刻まれていた。

 

 取っ手はある。

 

 呼び鈴はない。

 

 鬼太郎は扉へ触れず、普通の鞄から紹介状を出した。

 

 封蝋は欠けていない。

 

 扉の金具へ近づける。

 

 赤褐色の封蝋と、真鍮の鞄が同時に淡く光った。

 

 扉の内側で、短い鈴が鳴る。

 

 待つ。

 

 足音が近づいた。

 

 覗き窓が開く。

 

 片方の目が、鬼太郎とキーノを見る。

 

「誰の紹介だい」

 

「エドガー・ヴェイルさんです」

 

「名前を聞いてるんじゃない。封を見せな」

 

 紹介状を覗き窓の前へ上げる。

 

 内側から細い杖先が出た。

 

 封蝋へ触れる。

 

 赤褐色の光が、今度は二度瞬いた。

 

 杖が引かれる。

 

 複数の錠が外れた。

 

「入んな」

 

 扉の向こうは、細長い工房だった。

 

 壁の棚に、鞄と箱が並んでいる。

 

 旅行鞄。

 

 書類鞄。

 

 肩掛け鞄。

 

 木箱。

 

 どれにも値札はない。

 

 革と油の匂いに、魔法薬とは違う金属の匂いが混じっている。

 

 奥には裁断台があり、細い銀糸と、色の違う革が置かれていた。

 

 扉を開けた魔女は、五十代ほどに見えた。

 

 灰色を帯びた赤毛を後ろで束ね、厚い革の前掛けをしている。

 

 右手には杖。

 

 左手の指先には、針で刺したような古い傷がいくつもあった。

 

「紹介状を」

 

 鬼太郎が渡す。

 

 魔女は宛名を見た。

 

 封を裏返す。

 

 杖先で封蝋をなぞり、初めて破る。

 

 中の紙を読む間、二人を座らせなかった。

 

 キーノは棚へ近づかず、扉と窓の位置を見ている。

 

 窓は裁断台の上に一つ。

 

 外から見た位置より、小さい。

 

 魔女が紙を折った。

 

「ベアトリス・ホロウェイだ」

 

「書類上は、キリル・ヴァシレフです。購入記録には、その名を使います。こちらはキーノさん」

 

「姓は」

 

「ない」

 

 キーノが答える。

 

 ホロウェイは追及しなかった。

 

「ヴェイルは、生きてるんだね」

 

「左手を負傷していますが、生きています。弟子のマイルズさんも」

 

「それで、この紹介状か」

 

「ええ」

 

「先に言っておく。紹介状は、扉を開けるためのものだ。値段は下げない。無料で渡す品もない」

 

「承知しています」

 

「七歳の子供が払える値段じゃないものもある」

 

「説明を聞いた後で選びます」

 

「親は」

 

「いません」

 

「後見人は」

 

「いません」

 

「金の出所は」

 

「仕事の報酬です」

 

「何の仕事だい」

 

「紹介状には、そこまで書かれていませんか」

 

 ホロウェイの目が細くなる。

 

「書かれてないね」

 

「でしたら、鞄を買うために必要な範囲でお答えします」

 

 沈黙が落ちた。

 

 ホロウェイは、紹介状をもう一度見た。

 

「子供だから粗悪品を押しつけるな、とある」

 

「そのために得た紹介状です」

 

「子供だから売れとも書いてない」

 

「ええ。ですから、条件をお話しに来ました」

 

 ホロウェイは鼻から息を吐いた。

 

 杖を前掛けの脇へ差す。

 

「座りな。まず、予算じゃなく使い道を聞く」

 

     ◆

 

 裁断台の横に、三脚の椅子があった。

 

 ホロウェイは紙を一枚出した。

 

「何を入れる」

 

「本。衣服。野営用品。銃器の整備用品と弾薬。壊れやすい魔法道具です」

 

 書いていたペンが、一度止まった。

 

「銃を使うのかい」

 

「ええ」

 

「弾薬と魔法薬を、同じ場所へ放り込むつもりなら帰りな」

 

「分けられる品を探しています」

 

 ペンが再び動く。

 

「どこへ持っていく」

 

「当面は英国の中です。将来は英国外へ運びます」

 

「箒か、煙突飛行か、ポートキーか」

 

「まだ決めていません。マグルの船や列車で運ぶ可能性もあります」

 

「投げるか」

 

「戦闘になれば」

 

「水へ落とすか」

 

「その可能性もあります」

 

「燃える場所へ持っていくか」

 

「あります」

 

「呪いを受ける可能性は」

 

「あります」

 

 ホロウェイがペンを置いた。

 

「ずいぶん鞄に厳しい暮らしだね」

 

「鞄だけではありませんよ」

 

「笑うところじゃない」

 

「失礼しました」

 

 口元から笑みを消す。

 

 ホロウェイは、鬼太郎の右脇へ一度だけ目を向けた。

 

 傷は服の下にある。

 

 歩き方にも、もう出ていない。

 

 それでも、何かを察したらしい。

 

「何でも入って、何をしても壊れない鞄はない」

 

「承知しています」

 

「まだ説明してないよ」

 

「では、聞かせてください」

 

 ホロウェイは、棚から古い革の切れ端を取った。

 

 裏側に、細い銀線のような模様が縫い込まれている。

 

「拡張するのは革じゃない。革と縫い目を境にして、別の空間を畳んで留める。口より大きい物は入らない。生き物を長く入れる保証もしない。容量を大きくすれば、支える縫い目と術式が増える」

 

 指で銀の模様を辿る。

 

「一か所が切れても、すぐ全部が消えるとは限らない。だが、安物は切れた場所から空間がほどける。中身が潰れるか、どこかへ落ちるか、取り出せなくなる」

 

「以前見た安い品は、破損時の説明をしませんでした」

 

「できなかったんだろうさ。作った本人じゃないか、売った後を知らないかだ」

 

「こちらの品は?」

 

「壊れる前に兆候が出るように作る。口が閉まりにくくなる。中の床が傾く。重量軽減が不均等になる。その段階で持ってくれば直せる」

 

「前触れなしに、中身が失われる場合は」

 

「鞄そのものが焼け切った時。空間を裂く呪いをまともに受けた時。自分で術式を書き足した時。それから、限度を無視して詰めた時だ」

 

「限度は、使う側に分かりますか」

 

「分かる品を出す」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

「最大容量より、安定性を優先します。一部が壊れても、ほかの中身へ影響しにくいものを」

 

「値段は上がる」

 

「必要な額を聞きます」

 

「修理しやすくすれば、さらに上がる」

 

「製作者本人しか直せない品は避けたいです」

 

「私が死んだ後まで使うつもりかい」

 

「先に壊れるつもりで買う必要もないでしょう」

 

 ホロウェイは、初めてわずかに口元を曲げた。

 

「ヴェイルが紹介した理由は分かったよ」

 

     ◆

 

 奥の棚から、三つの鞄が降ろされた。

 

 一つ目は、明るい茶色の旅行鞄。

 

 鬼太郎の身体なら、屈めば中へ入れそうな大きさだった。

 

「容量を優先したものだ。内側は一つ。箱も本も大量に入る。荷物を移す仕事には向く」

 

 ホロウェイが留め具を外す。

 

 口の向こうに、底の見えない暗い空間があった。

 

 内壁に棚はない。

 

「一つの空間なら、破損も一度ですか」

 

「そうなる。奥へ入れた物を取り出すにも時間がかかる」

 

「候補から外します」

 

 ホロウェイは何も言わず、留め具を閉じた。

 

 二つ目は、灰色の肩掛け鞄だった。

 

 見た目は、キーノが持つ普通の鞄より少し小さい。

 

「携帯型。容量は少ないが軽い。逃げる時に邪魔にならない」

 

「本は何冊入る」

 

「厚さによるが、今ここにある程度の本なら十五から二十。衣服を入れれば減る」

 

 鬼太郎はキーノを見る。

 

「足りるか?」

 

「今でも、もっとある」

 

「ええ。足りませんね」

 

 二つ目も戻される。

 

 三つ目は、黒に近い濃茶色だった。

 

 横長の旅行鞄。

 

 手提げと、取り外せる太い肩紐がある。

 

 角には黒い金具。

 

 底には、厚い革がもう一枚重ねられている。

 

 飾りはない。

 

 留め具が三つ並んでいた。

 

「分割型だ。内側は三つ。通常品。金属と工具。危険物」

 

「危険物の区画は、ほかと何が違うんですか」

 

「耐火布と緩衝層を入れてある。弾薬も魔法薬も、さらに専用の容器へ入れるのが条件だ。裸で放り込めば保証しない」

 

「区画ごとに閉じられますか」

 

「閉じられる。術式も完全ではないが分けてある。一つが傷んでも、ほかが同時にほどけにくい」

 

「容量は?」

 

「最初の鞄より少ない。だが、本と衣服、二人分の野営道具を入れても余裕はある。棚と固定帯は後から動かせる」

 

「重さは」

 

「消えない。軽くするだけだ。中身が増えれば、少しずつ重くなる。持った時に急に重く感じたら、それ以上入れるな」

 

 鬼太郎は肩紐へ触れた。

 

 硬すぎない。

 

 縫い目は二重。

 

 金具も、表面だけを飾ったものではなかった。

 

「底が破れた場合は」

 

「外側の革だけなら交換できる。内側の床まで傷めば、区画を閉じて修理する。鞄全体を開く必要はない」

 

「あなた以外にも?」

 

「印を読める職人ならできるよう、修理線を残してある。ただし、腕の悪い者に触らせた結果までは知らないよ」

 

「この品を検査してもらいます」

 

「買うと決める前にかい」

 

「検査の結果が説明と一致すれば、買います」

 

「ヴェイルとの約束は本当らしいね」

 

 ホロウェイは、壁の時計を見た。

 

「来るのは昼前と言っていた」

 

「移動費はこちらで支払います」

 

「左手を潰された男を、二日で働かせる客か」

 

「検査は本人から提案した対価です。左手を使わずにできる範囲で、弟子の方も同行します」

 

「できないと言ったら?」

 

「日を改めます」

 

「急いで買わせようとはしないのか」

 

「三か月の期限はありますが、今日でなければならない理由はありません」

 

 ホロウェイは鞄から手を離した。

 

「なら、待ちな」

 

     ◆

 

 昼前、工房の鈴が鳴った。

 

 ホロウェイが扉を開ける。

 

 エドガー・ヴェイルが立っていた。

 

 左手は厚い固定具で覆われ、首から吊られている。

 

 隣にはマイルズ・ケント。

 

 額の傷には新しい布が巻かれ、腫れていた片目も開いていた。

 

「遅れていないな」

 

 ヴェイルが言う。

 

「約束の時刻です」

 

 鬼太郎は、先に二人分の移動費を渡した。

 

 ヴェイルは右手で袋を受け取り、重さだけを確かめる。

 

「検査料は取らん」

 

「移動費は別です」

 

「契約書を覚えているならいい」

 

 マイルズが、師匠の工具箱を持っていた。

 

 旧貨物集積所から回収した、銅縁の黒い箱。

 

 外側の血と泥は落とされている。

 

 ホロウェイは二人を見た。

 

「ひどい顔だね」

 

「お前の客を連れて帰る途中でな」

 

「私の客になったのは、あんたを連れて帰った後だよ」

 

「細かい女だ」

 

「空間修理で細かくない奴は、客の荷物を消す」

 

 マイルズが工具箱を裁断台へ置いた。

 

 ヴェイルは鬼太郎を見る。

 

「品は」

 

「こちらです」

 

 濃茶色の鞄を示す。

 

「分割型か」

 

「三つの区画。修理線を残したものです」

 

「用途は聞いたのか」

 

「聞いたよ。お前より鞄を荒く使いそうだ」

 

「なら、でかい一室型は売れん」

 

「本人も外した」

 

 ヴェイルが短く頷いた。

 

「始めるぞ。マイルズ、鏡」

 

 工具箱が開く。

 

 中から、縁に目盛りの入った小さな鏡が出された。

 

 マイルズが鞄の口へ向ける。

 

 ヴェイルが角度を指示した。

 

「右へ。止めろ。次の区画だ」

 

 鏡の中では、鞄の内側に細い線が浮かんでいた。

 

 まっすぐではない。

 

 複数の線が折れ、縫い目へ集まり、また分かれている。

 

「内部容量は、説明どおりだ」

 

「見た目で分かるんですか」

 

 キーノが尋ねた。

 

「見た目じゃない。印の間隔と、返ってくる光の遅れを見る」

 

「光が遅いと、広い?」

 

「単純にはな。歪んでいる時も遅れる。だから次を測る」

 

 ヴェイルがマイルズへ別の道具を出させた。

 

 先端に銀の球がついた細い棒。

 

 各区画へ入れる。

 

 球は、わずかに揺れた後で止まった。

 

 一つ目。

 

 二つ目。

 

 三つ目。

 

「揺れは許容内。三つ目だけ少し重い」

 

「耐火層の分だ」

 

 ホロウェイが答える。

 

「不安定では?」

 

 鬼太郎が聞く。

 

「違う。支えている層が多い。空間そのものの揺れではない」

 

 ヴェイルは、次に縫い目を見た。

 

 右手しか使えない。

 

 マイルズが鞄を回し、革を持ち上げる。

 

「外縫いと術式が分けてある。底革だけなら交換できる」

 

「区画の一つが損傷した場合は」

 

「留め具の内側に閉鎖線がある。そこを落とせば、ほか二つから切り離せる」

 

 マイルズが留め具の裏を鏡へ映す。

 

 三本の細い印が見えた。

 

 ホロウェイの説明と一致する。

 

「耐荷重を」

 

 ヴェイルが言う。

 

 ホロウェイは棚から、同じ大きさの重い革袋をいくつか出した。

 

 中には金属片が入っている。

 

 一つずつ、通常品の区画へ入れる。

 

 外から見た鞄の形は変わらない。

 

 鬼太郎が持ち手を上げた。

 

 最初は軽い。

 

 袋が増えるたび、少しずつ重さが加わる。

 

 最後の一つが入ると、急に肩へ掛かる重みが増した。

 

「今が警告だ」

 

 ホロウェイが言う。

 

「これ以上入れると?」

 

「入る。だが、保証しない」

 

「入らなくすることは?」

 

「できるが、入口が急に閉じれば手を挟む。重さで知らせる方が安全だ」

 

 鬼太郎は鞄を下ろした。

 

 袋が一つずつ出される。

 

 元の重さへ戻った。

 

「製作者印」

 

 ヴェイルが言う。

 

 ホロウェイは底の金具を一つ外した。

 

 その下に、扉と同じ折り重なる鞄の印がある。

 

 マイルズが鏡で照らす。

 

 印の奥に、細い文字が浮かぶ。

 

「本人のものだ。上から押した偽物でもない」

 

「過去の修理は?」

 

「ない。未使用だ」

 

「中古の術式や、別の鞄から移した部品は?」

 

「見当たらん」

 

「危険な点は」

 

 ヴェイルは、すぐに答えなかった。

 

 もう一度、三つの区画を見る。

 

 縫い目。

 

 留め具。

 

 肩紐。

 

 底の金具。

 

「絶対に壊れない品ではない」

 

「ええ」

 

「弾薬と魔法薬を、容器にも入れず三つ目へ投げ込めば、中から壊れる。容量を越えて詰めれば、閉鎖線から先に傷む。鞄そのものを焼き切られれば、中身も助からん」

 

「ほかには」

 

「製作者以外にも修理できるよう、術式が読める。つまり、敵にも構造を読まれる可能性はある」

 

「戦闘中に奪われれば、どの鞄でも同じでは?」

 

「これは壊す場所が分かるという意味だ」

 

「理解しました」

 

「その代わり、傷む前に兆候が出る。傷んだ区画だけ閉じられる。修理もできる」

 

 ヴェイルは鞄から離れた。

 

「説明と品は一致している。私なら、今のお前の用途にはこれを選ぶ」

 

「検査完了ですね」

 

「ああ。契約の一回分は終わりだ」

 

 鬼太郎は、持参した契約書を出した。

 

 検査済みの欄へ、ヴェイルが右手で印を記す。

 

 マイルズも立会人として署名した。

 

「ありがとうございます」

 

「弟子を置いていかなかった分だ。礼は要らん」

 

「では、契約完了として受け取ります」

 

「それでいい」

 

     ◆

 

 検査が終わると、ホロウェイが価格を告げた。

 

 安くはなかった。

 

 旧貨物集積所の依頼で受け取った本報酬と追加報酬。

 

 そこからサーシェスへの報酬と経費、キーノへの報酬、治療と移動に使った分を除く。

 

 残りの大半が消える。

 

 それ以前から蓄えた資金まで、すべて失う額ではない。

 

 だが、同じ品を続けてもう一つ買う余裕はなくなる。

 

「値引きはしないと言いましたね」

 

「した方がいいかい」

 

「いいえ。保証を確認します」

 

 ホロウェイが保証書を出した。

 

 通常使用による術式の乱れは、定められた期間内なら無償で点検する。

 

 製作時の欠陥なら、修理か交換。

 

 過積載。

 

 戦闘。

 

 炎。

 

 呪い。

 

 水没。

 

 使用者側の原因による損傷は、有償修理。

 

 鞄本体を失った場合、中身の回収は保証しない。

 

 製作者印を削るか、他人が術式を継ぎ足した時点で保証は終わる。

 

「英国外から修理を頼む場合は?」

 

「梟便で先に状態を知らせな。いきなり鞄を送るんじゃない。損傷した拡張鞄を飛ばせば、途中でほどける」

 

「あなたが不在の場合は?」

 

 ホロウェイは保証書の裏を示した。

 

「同じ印を扱える職人を二人書いてある。片方はフランス、片方はドイツだ。生きていればね」

 

「修理線を閉じる方法は?」

 

「購入後に教える。ただし、閉じるだけだ。自分で直そうとするな」

 

「分かりました」

 

「保証の説明は以上だ。買うかい」

 

「買います」

 

 鬼太郎は金を出した。

 

 一つずつ、机へ並べる。

 

 ホロウェイが数える。

 

 キーノも横から見ていた。

 

 硬貨の種類。

 

 枚数。

 

 戻された釣り。

 

 受領証へ書かれた額。

 

「合ってる」

 

 キーノが言う。

 

「ええ」

 

「私が数えてる前で、ごまかすと思うのかい」

 

 ホロウェイが見る。

 

「思ってなくても、見る仕事だ」

 

 キーノは目を逸らさない。

 

「そうかい」

 

 ホロウェイは、それ以上何も言わなかった。

 

 受領証へ署名する。

 

 保証書。

 

 修理先。

 

 製作者印の写し。

 

 三枚をまとめ、油紙の袋へ入れた。

 

 最後に、鞄の三つの留め具を順に示す。

 

「中央が通常品。左が金属と工具。右の赤い線が危険物だ」

 

 右の留め具には、外から目立たない細い赤線がある。

 

「区画を閉じる時は、鞄を空にできるなら空にする。できないなら、留め具の内側の線を杖で上から下へなぞる。呪文は要らない」

 

「僕の杖で反応しなかった場合は」

 

「魔力が通ればいい。自分で無理なら、使える者に頼みな」

 

 キーノが仮杖を見た。

 

 ホロウェイも気づいたが、杖の由来までは聞かなかった。

 

「閉じた区画は、素人が開け直すな。そのまま修理へ持ってくる」

 

「分かりました」

 

「分かったつもりで燃やす客はいる」

 

「燃やした場合は有償でしたね」

 

「鞄が残っていればね」

 

 鬼太郎は、肩紐を自分の長さへ合わせた。

 

 七歳の身体には、少し大きい。

 

 だが、地面を引きずらない。

 

 手提げでも持てる。

 

 成長すれば、紐を伸ばせる。

 

「これで売買成立です」

 

「ああ。紹介状も使い切った」

 

 破られた封筒と手紙は、ホロウェイの机にある。

 

 同じ紹介状で二つ目を買うことはできない。

 

 だが、次からは購入者として修理と追加注文の記録が残る。

 

「次に来る時は、扉で受領証を見せな」

 

「承知しました」

 

 ヴェイルとマイルズは、工房を先に出た。

 

 鬼太郎は二人を追わない。

 

 鞄を持ち上げる。

 

 中にはまだ、保証書しか入っていない。

 

 それでも、普通の鞄より少し重かった。

 

 空間を支えるための重さだった。

 

     ◆

 

 帰路でも、キーノは後ろを見た。

 

 工房から出た直後。

 

 細い通路を抜けた時。

 

 古書店の窓の前。

 

 漏れ鍋へ入る前。

 

 同じ者は続いていない。

 

 茶色い外套の男もいなかった。

 

 鬼太郎は、それを安全の証明とは考えなかった。

 

 監視者は、一人とは限らない。

 

 報告先も、隠し投函口の先にある。

 

 今日は見つけられなかった。

 

 分かるのは、それだけだった。

 

 部屋へ戻り、扉と窓を確かめる。

 

 購入した鞄を机の横へ置いた。

 

 キーノが留め具を見る。

 

「もう入れるのか」

 

「一覧を作ってからです」

 

「全部、そのまま放り込めばいいだろ」

 

「取り出す時に困りますよ」

 

「鞄の中にも棚がある」

 

「どの棚へ置いたかは、鞄が教えてくれません」

 

 紙を三枚に分ける。

 

 通常品。

 

 金属と工具。

 

 危険物。

 

 最初に本を並べた。

 

 題名と冊数を記録し、一冊ずつ通常品の区画へ入れる。

 

 鞄の口を通ると、本は内側の棚へ収まった。

 

 外から見える鞄は膨らまない。

 

 次に、予備の衣服。

 

 まだ使っていない野営用品はない。

 

 そこは、今後買う物のために空けておく。

 

 金属と工具の区画には、銃の整備用具。

 

 油の瓶は布で包み、立てた状態で固定する。

 

 鬼太郎が保管している二本の杖も、別の布へ包んで入れた。

 

 キーノの仮杖は入れない。

 

 本人が持つ物だからだ。

 

 危険物の区画には、予備弾薬を専用の箱へ入れて収める。

 

 身体側へ持つ分までは入れない。

 

 すぐに使う弾薬が鞄の奥では、意味がなかった。

 

 〈シュライク〉も右脇のホルスターに残す。

 

 現金。

 

 保証書。

 

 契約書。

 

 ヴェイルの検査済み書面。

 

 それらも、すぐ手に取れる別の包みへ入れた。

 

 原本帳簿三冊と番号札、本名対応表は、一度手に取った後で戻す。

 

「入れないのか」

 

「鞄一つへ、失いたくないものをすべて集める必要はありません」

 

「持って逃げるなら、一つの方が早い」

 

「奪われた時も、一つで済みます」

 

 キーノが鞄を見る。

 

「なら、これは逃げるためじゃないのか」

 

「逃げる時にも使えます」

 

「本も服も弾も、全部持っていける」

 

「ええ」

 

「部屋を捨てても?」

 

「必要なら」

 

 キーノは、開いた通常品の区画を覗いた。

 

 棚には本が並んでいる。

 

 外側の鞄より、明らかに広い。

 

 見世物小屋から出た時、キーノが持っていたのは、血の染みた衣装だけだった。

 

 今は自分で選んだ服がある。

 

 仮杖がある。

 

 自分で稼いだ金がある。

 

 だが、それらをどこへ持っていくかは、まだ決めていない。

 

「これで、全部持って逃げられるな」

 

「ええ。ですが、逃げるためだけではありません」

 

「じゃあ、何だ」

 

 鬼太郎は、鞄の内側に空いた棚を見た。

 

「次の場所へ、持っていくための鞄です」

 

 キーノが顔を上げる。

 

「次の場所?」

 

「少なくとも、すぐの話ではありませんよ」

 

 英国を出る時期は、決めている。

 

 十歳の誕生日を迎える少し前。

 

 向かう先も、ブルガリアと決めている。

 

 だが、住む場所も、移動方法も、必要な品も揃っていない。

 

 キーノがその時までここにいるかも、まだ決まっていなかった。

 

 嘘をつく必要はない。

 

 今、すべてを話す必要もなかった。

 

「ふうん」

 

 キーノは、それ以上聞かなかった。

 

 鬼太郎は仕事の報酬を渡す。

 

 経路記憶。

 

 周辺警戒。

 

 購入品の監視。

 

 説明内容の確認。

 

 尾行は見つけていないため、追加報酬はない。

 

 キーノは袋を受け取り、自分の内ポケットへ入れた。

 

「次に行く時も、道は分かる」

 

「工房の扉には、受領証が必要です」

 

「道を覚える仕事は終わってる」

 

「ええ。完了です」

 

     ◆

 

 夜、机の上に新しい一覧ができた。

 

 欧州の移動手段。

 

 野営。

 

 魔法生物。

 

 魔法薬。

 

 英国外の法律。

 

 地図。

 

 防寒具。

 

 弾薬。

 

 今すぐ必要な物ばかりではない。

 

 高価な物もある。

 

 一度に買えば、鞄へ入れる前に資金が尽きる。

 

 鬼太郎は、優先する順に番号を振った。

 

 キーノが横から紙を覗く。

 

「全部買うのか」

 

「必要になった順に」

 

「いつまでに?」

 

 鬼太郎は、濃茶色の鞄を見る。

 

 閉じた外見は、以前まで使っていた普通の鞄と大きく変わらない。

 

 違うのは、その内側だった。

 

 今日までに得た本と道具が収まり、それでも空いた棚が残っている。

 

 生前には持てなかった、数年先のための空白だった。

 

「時間はありますから」

 

 三つの留め具を、順に閉じる。

 

 最後の金具が、小さな音を立てた。

 

 まだ旅は始まっていない。

 

 けれど、そのための場所は、もう鞄の底にできていた。

 

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