第60話 秤に載らないもの
朝の食事は、寝台へ運ばれてきた。
鬼太郎が上体を起こすと、左脇腹が引きつった。傷の口は閉じている。それでも、椀を取ろうと左腕を伸ばせば、肩から背中へ鈍い痛みが走った。
昨日、谷から戻る途中で休んだ回数を思い出す。
「今日は出かけませんよ」
「出かける相談はしてない」
キーノは盆を机へ置き、椅子を寝台へ寄せた。そこへ椀を移す。右手なら、無理に身体を捻らず届いた。
「食べたら、傷の布を替える。昨日の続きはそれからだ」
「記録を読ませていただけますか」
「食べてから」
湯気の立つ汁を口へ運ぶ。腹は減っていた。汁と柔らかいパンを平らげても、立ち上がりたいとは思えない。そのことが少し不愉快で、同時に、昨日の判断を測る分かりやすい結果でもあった。
キーノが布を外している間に、サーシェスが紙を持って入ってきた。
「坊主。お前、何発目から退く気だった?」
「脇腹を裂かれた後です」
「それまでは?」
「もう一手、確かめたかった」
右の眼を狙う直前、まだ通せると思った。避ける動きを覚えている身体なら、間近でも戦えると。
紙の上には、その前に左腕を打たれたことが書かれていた。
「ここで、一度退路へ寄れたな」
サーシェスの指が、その行を叩く。
「次を当てることしか考えてねえ。下がりながら試す手もあった」
「ええ。最初の二度を、三度目にも使えるものとして数えました」
「使い方が分からないのに、だ」
キーノが新しい布を当てる。鬼太郎は息を止めかけ、ゆっくり吐き直した。
「今は、待っても出てきません。覚えている動きと、選んで使える動きは違うようですね」
「それを知るために、腕一本持ってかれかけたわけだ」
「高い授業料でした」
「まだ請求は終わってないぞ」
キーノは結び目を傷からずらした。
「私があの石を越えたら、お前一人の話じゃなくなった。次も外で待てば済むとは思うな」
鬼太郎は紙から目を上げた。
あの時、二人は境界を守っていた。助けが入れば取引が変わると、自分も分かっていた。だが、内側で倒れた後まで同じ判断をするとは、約束されていない。
「次に行く時は、その条件も相談します」
「行くことから相談しろ」
「そこは、意見が分かれそうですね」
「だから相談するんだろ」
鬼太郎は少し考えてから、紙を返した。
今日は書き足さない。右手で書く間も、身体を支える背中は休めなかった。
数日は、食事と休息に使った。
ヴェリナは水を替えに来た際、留守の間に屋根材を動かしたことを伝えた。雨の当たらない置き場を、使う者同士で決めたという。
「入口を狭くしないなら、僕に異存はありません」
「もう確かめてあるわ。あなたに見てもらいたいのは、上の壁。そこは私たちだけでは触れない」
「動けるようになってから、見に行きます」
「それまで印を残しておく」
彼女は返事を待つために居残らず、空いた水差しを持って出ていった。
窓の外では、誰かが板を運んでいる。鬼太郎が横になっていても、砦の仕事は止まらなかった。
五日目、ようやく食堂まで一人で歩いた。
椅子に座り、右の掌へ小さくアギを灯す。大きく放つ代わりに、同じ大きさへ留めようとすると、炎はすぐに細くなった。戻そうとして流しすぎれば、縁が膨らむ。
ダンブルドアへ浴びせた渦を思い出す。あの時も、形を見直すたびに足が止まった。
三度目で火を消した。左肩に力が入り始めている。
「終わりか?」
向かいで読んでいたキーノが顔を上げた。
「ええ。火を保つために、身体まで固めていました」
「じゃあ、それも書いとけ」
紙には、保てた時間と、消した後の疲れを残した。翌朝まで重さが残るなら、その分も。
使える量が増えたと喜ぶには早い。まず、使ったつもりのない力まで抜けていく場所を探すことにした。
◆
谷から戻って十日ほど経った夕方、砦の近くへ銀色の鳥が来た。
ヴェリナに呼ばれて門へ出ると、枝に触れず浮かんだ鳥が、ダンブルドアの声で翌朝の来訪を告げた。
声が終わると、光の羽はほどけて消えた。
「返事は持って帰らないのですね」
「撃って調べる気だったのか?」
キーノに見られ、鬼太郎は空いた手を下ろした。
「触れるか、確かめたかっただけです」
「伝言を聞いてからにしろよ」
「聞きましたよ」
翌朝、校長は前に待った浅瀬まで来た。知らせを受けた鬼太郎たちが迎えに出ると、紙袋を提げた白髭の老人は、挨拶の途中で鬼太郎の左腕を見た。
「……その歩き方は、何をした結果かね?」
「留守の守りを相談しに行きました」
「相談相手は?」
「グロブニクさんです」
ダンブルドアは袋をキーノへ渡した。
「菓子は無事じゃ。まず、相談の中身を聞こう」
食堂で話したのは、鬼太郎自身だった。
谷へ入る前の取り決めから、力を示せと言われて戦ったこと、退く判断を遅らせたことまで。キーノは聞いていたが、左脇腹を裂かれた箇所で一度だけ、帰路の休憩も付け加えた。
「守り手は得られたのかね?」
「いいえ。僕が退きました。約束は何も」
「では、留守を守ってもらうために、留守にする前のお主が寝込んだわけじゃな」
「そう並べられると、効率が悪いですね」
「並べ方の問題ではないよ」
校長は鬼太郎を立たせ、腕の動く範囲と、痛む場所を尋ねた。杖から伸びた淡い光が左肩と脇腹をなぞる。
「まだ無理な動きはせぬこと。今日は戦う授業はできん」
「歩くのは?」
「普段どおり歩いて痛まぬならよい。そこで走る許可まで探さぬように」
鬼太郎は椅子へ戻った。
校長は腰を下ろさず、紙に残した戦いの記録を見ている。
「最初の二度だけ、身体が先に動いたというのは?」
「以前の戦い方だと思います。岩へぶつかった時、少し思い出しました。人の形をしていない相手とも、何度も戦っていたようです」
「どのようなものを?」
「悪魔、と呼んでいました。姿の断片は浮かびますが、名前も、どこで会ったかも戻りません」
半月眼鏡の奥で、青い目が止まった。
「以前、というのは、いつのことかね」
「今の僕が、この身体で経験した戦いではありません」
それ以上を話すか、鬼太郎は一度考えた。
キーノとサーシェスへ語った夜とは違う。まだ、この老人へ預けたい話の全てが決まったわけではなかった。
「詳しいことは、今はここまでにさせてください」
校長はしばらく鬼太郎を見ていたが、やがて椅子を引いた。
「よかろう。ただし、意識せず動いたことが、いつでも安全に使える証明にはならん。そこは、お主も今知ったようじゃな」
「ええ。今の腕では、思い出した通りにも動けません」
「では、その腕でできるところから始めよう」
返事と同時に、校長は書類を三組取り出した。
キーノへ渡された紙には、本人の生徒資格について書かれていた。
鬼太郎の同行者としてではなく、一人の生徒として審査を進める。出自だけを理由に排除しない。生活に必要な健康確認は、方法と記録の扱いを本人へ説明してから行う。
「検査は、誰がする?」
「学校の医療を任せておるポンフリー夫人じゃ。後日、ここへ来てもらう。必要な事情を知る者も、むやみに増やさん」
「結果が出るまで、入学は決定じゃないんだな」
「そうじゃ。だが、何が問題かも示さず、血筋だけで取り消すことはせん」
キーノは、紙を自分の側へ引き寄せた。
サーシェスの案は、校外で依頼を受ける場合の条件だった。常勤でも専属でもない。仕事と報酬を一件ずつ示し、受けるかは本人が決める。
「こっちが断った分を、坊主へ回すなよ」
「代わりを誰へ頼むかまで、君に約束はできん。ただ、君の拒否をこの子への罰に変えるつもりはない」
「なら、読んでおく」
署名はまだしなかった。禁止事項の途中へ爪を置き、サーシェスは次の頁をめくる。
最後は砦へ戻る手段だった。
「学校の外に指定地点を設け、ここへ結ぶ限定のポートキーなら、許可を進められる。使う者、到着場所、利用する日を定める必要がある」
「週末の帰還も、その中へ?」
「授業や行事に支障のない範囲で。正式な確認と製作はこれからじゃ。今日から使える物があると思わぬように」
鬼太郎は紙に記された場所の条件を追った。
学校の内側へ直接出る道ではない。好きな時に抜け出せもしない。それでも、森へ戻るたびに長い旅をしなくて済む。
「この方向で、お願いします」
隣から、キーノも検査の日取りを尋ねた。鬼太郎へ許可を求める声ではなかった。
休憩の後、校長は小さな木片を二つ、卓へ置いた。
「今日は座ったままでよい。こちらを門へ運ぶつもりで、通る道を考えなさい」
白い木片が立ち上がり、卓の端へ歩く。赤い木片はその前を塞いだ。
鬼太郎が指で別の道を示すと、赤も動いた。白を先へ進めることばかり見ている間に、後ろへ置かれた三つ目の木片が白へ触れる。
「失敗じゃ」
「三つ目は、今置かれましたね」
「増えたのは見えておったろう」
確かに、目には入っていた。関係のない物として捨てたのだ。
二度目は道の出口を見てから、白を進めた。
赤が塞ぐ。戻せば遠回りになるが、後ろの木片との間は広がる。
鬼太郎は、白を二歩戻した。
「今の二歩は、惜しかったかね?」
「ええ。ですが、進ませれば挟まれます」
「谷でも、それを選べるようにしなさい」
鬼太郎は木片へ伸ばしかけた手を止め、門までの残りを見直した。
◆
買い物へ出る前に、鬼太郎は換金の相談をした。
布の上へ並べた指輪、鎖、銀の杯を見て、校長はしばらく黙っていた。
「……これが、少し、かね」
「鞄に残っている物と比べれば」
「比較する相手まで見たくなくなったのう」
回収した相手を説明すると、校長は素手で触れず、杖先で品を動かした。内側に名のある指輪が、別の布へ移る。
「倒した者が持っていたとしても、その者の所有物とは限らん」
「盗まれた物も混じる、ということですか」
「そうじゃ。持ち主を調べる必要がある」
黒ずんだ飾りへ光を当てた途端、表面の色が濁った。
校長はそれを包み、結び目へ封を施した。正体の分からない品も、売る方へ戻さない。
「ここで判別できぬ物は、専門家へ確認する。それまで開けぬこと」
「では、鑑定を頼める店を紹介していただけますか」
「最初から、そのつもりじゃよ」
鬼太郎は三冊の帳簿を持ち出さなかった。今回売るのは品物だけで、別の売却相談まで一度に進める気はない。
封じた品と、出所の確認が必要な品は砦に残した。持っていく分も取り分を混ぜず、包みに印をつける。
支度を終えると、校長は白髭を短くし、髪を赤褐色へ変えた。外套まで地味な灰色になる。
「その方が歩きやすいのですか?」
「白い髭で横丁へ入ると、店へ着くまでに日が暮れる」
「目はそのままですね」
「全ての知り合いを欺くためではないからの」
若い顔になっても、困った時の眉の動きは同じだった。
同行しての姿現しは、左脇腹へ響いた。
濡れた石に靴が触れた時、鬼太郎は壁へ手をついて息を整えた。校長は急かさず、四人が歩けることを確かめてから路地へ出た。
漏れ鍋を通り、開いた煉瓦の向こうへ進む。
ダイアゴン横丁には、雨上がりの匂いが残っていた。
今日は必要な物を買って逃げる日ではない。それでも、サーシェスは窓と屋根を見ていたし、キーノは人の流れの薄い側を歩いた。
校長が連れていった店には、銀の天秤の看板が掛かっていた。
女主人は鑑定眼鏡を上げ、赤褐色の髭の客を一目見る。
「また、目立たないつもりの格好かい」
「その話を入口でするのは、やめてくれんかね」
「誰も名前は呼んでないよ。で、客はそちら?」
鬼太郎は自分の包みを置いた。
女主人――ミセス・グレイヴスは、出所と取り分を確かめてから、一つずつ皿へ載せた。
金の鎖には買値がついた。紋の削られた腕輪にはつかなかった。
「これも、持ち主の確認ですか」
「そう。削って売れるなら、泥棒は全員やってる」
淡い青の石は、ランプへ近づけると内側に文字が浮いた。
「こっちは術式つき。今日は買わない」
「持って帰って安全でしょうか」
「それを先に聞くのは、いいね」
女主人は覆いのある皿へ石を移し、確認の間は待つよう言った。
鬼太郎は椅子へ腰を下ろした。長く立つより楽だったが、台の上で品が分けられるたび、目はそちらへ戻った。
得た物が、そのまま使える物とは限らない。
それは知っていたつもりだった。だが、分からない術式まで鞄の区画へ分けてしまえば、確かめる機会を後へ送れる。校長が包んだ黒い飾りを、何か月そうしていたか。
「回収する時の記録も、残しておいた方がよさそうですね」
「今からでもね。覚えてない出所を、適当に埋めるんじゃないよ」
「不明と書きます」
「それでいい」
値のついた品は、思ったより少なかった。
それでも、二人の杖と入学用品を揃え、当面の砦の費用を残せる額にはなった。売れなかった物には、確認できた理由を添えてもらう。
硬貨は三人分、別々に渡された。
鬼太郎は重みを確かめ、袋の口を結んだ。
「次も、こちらへお願いしてよいですか」
「出所を聞かれて困らない物ならね」
「では、記録を増やしておきます」
「品を増やす方から始めるんじゃないよ」
校長が横で、深く頷いた。
グリンゴッツで買い物に使わない分を預けた後も、キーノの袋は鬼太郎の金へ混ざらなかった。サーシェスは自分の分を手元へ残し、先に店を出た。
外へ出ると、雲の切れ目から細い光が差していた。
鬼太郎は腰のケストレルを外套越しに確かめた。右腕は普通に動く。左肩の重さは、朝から消えていない。
買える物で埋まる不足と、金を出しても埋まらない不足がある。
今から入る店では、どちらになるのだろう。
埃をかぶった窓の中に、一本の杖が置かれていた。
「先にお前でいい」
キーノが扉の前を空ける。
「見てから、私も選ぶ」
「僕に合う物があるとよいのですが」
「なければ、それも確かめに来た意味があるだろ」
鬼太郎は取っ手へ右手を掛けた。
扉を押すと、頭の上で小さな鐘が鳴った。