第61話 誰も選ばなかった杖
鐘の音が消えても、店主は現れなかった。
細い店の壁を、杖の箱が天井まで埋めている。鬼太郎は入口から奥まで見渡し、棚の間を一人で通るには鞄が邪魔だと思った。右肩から紐を外し、足元へ置く。左腕で受けようとはしなかった。
「おはようございます」
いつからいたのか、棚の端に白髪の老人が立っていた。
淡い銀色の目が三人を順に見て、最後に、赤褐色の髭をした付き添いへ止まる。
「随分と、お久しぶりの姿ですね」
「今日は、この子たちの付き添いじゃよ」
「承知しました」
老人はそれ以上尋ねず、鬼太郎へ向き直った。
「では、あなたから。お名前と、利き手を」
「墓場鬼太郎です。右です」
答えた途端、巻き尺が帳場から飛び上がった。
指から手首、肘、肩へと這い上がる。左肩に触れた時だけ鬼太郎が身を引くと、巻き尺は少し浮いて、反対側から長さを取った。
「他の方の杖を使ったことは?」
「何本か。ルーモスとノックスを試しました。比較的応えた物でも、針の先ほどの光が数秒だけです」
「既に使い手のいた杖ですね」
「はい」
老人は測り終えた巻き尺をそのままに、棚から箱を一つ抜いた。
「楡、十一インチ。ユニコーンの尾の毛。まずは、こちらを」
鬼太郎が柄を握ると、木が震えた。
指へ伝わる細かい振動は、手の震えとは違った。先端だけが外へ逃げようとする。
力を込める前に、乾いた音が鳴った。
「……戻します」
開いた箱へ下ろす。杖の中央に走った亀裂は、手を離してからも木目に沿って伸びていった。
巻き尺が床へ落ちた。
「何をした?」
キーノが箱の中を覗く。
「持っただけですよ」
校長が杖を出し、割れ目の上へかざした。オリバンダーは破片を動かさず、杖の端から端まで顔を近づけて見る。
「外から折った跡はないの」
「ええ。力を流し込んで壊した形でもありません」
「相性が悪かったのですか?」
鬼太郎が聞くと、店主は目を上げた。
「相性が合わず、応えない杖は多くあります。ですが、これは……あなたへ応じることを、杖の方から拒んだ」
「折れるほどに?」
「そのようです」
鬼太郎は右の掌を見た。木の感触はまだある。こちらが何かをした覚えはなかった。
オリバンダーは箱を脇へ移し、次を取りに行った。
「一本では判断できません。今度は、私が箱を持ちましょう。軽く触れるだけにしてください」
二本目は、サンザシだった。ドラゴンの心臓の琴線を芯にしているという。
鬼太郎は右の人差し指を柄へ添えた。
杖が箱の向こう側へ跳ねる。
触れた指を離すより先に、木が捻れた。縦に裂け、赤いものが細く覗く。
店主はすぐ蓋を閉じた。
「まだ、振っていませんね」
「ええ。よく見ていました」
返事の速さは変わらなかった。銀色の目だけが、先ほどより大きく開いている。
「前の杖は、壊れませんでしたよ」
「前の主との結びつきを残す杖が、新しい手へ十分に応えないことと、これから主を選ぶ杖が、その機会そのものを拒むことは別です」
鬼太郎は、蓋の閉じた箱へ目を戻した。
他人が使っていたから、と考えれば済んでいた。では、誰の物でもない杖なら使えるのか。今日ここへ来て、確かめたかったことの半分には、もう答えが出始めていた。
「次も、同じように?」
「材も性質も変えます」
「オリバンダー」
校長が店主を呼び止める。
「続けるなら、触れる前の反応から見た方がよかろう」
「そのつもりです」
出された三本目へ、鬼太郎はゆっくり手を近づけた。
指先が届く前に、杖が転がった。箱の縁へ当たり、赤い火花を散らして外へ跳ぶ。
オリバンダーが受け止めると、それきり静かになった。
「逃げましたね」
「見れば分かる」
キーノは鬼太郎の右手と、店主の手の中の杖を見比べていた。
サーシェスは棚へ触れない位置で足を止め、口の端を上げる。
「人間の客でも、そうはいかねえ逃げ方だな」
「僕が何かする前に逃げるのは、賢いのでしょうか」
「こいつらは、お前が何をするか知らねえだろ」
「そうなのですか?」
店主へ尋ねると、老人は杖を箱へ戻しながら答えた。
「杖が、使い手の人生を全て知るわけではありません。まだ本人も知らない資質に応えることはある。ですが、何を感じてこうしたかは、今の私にも分かりません」
鬼太郎は、内側の力へ意識を向けかけてやめた。
何も使わずに起きた反応へ、別の力を加えても分からなくなるだけだ。
四本目は柄を奥へ向け、五本目は触れた所から冷たく縮んだ。
六本目だけは、素直に掌へ収まった。
鬼太郎は人のいない壁へ向け、軽く振る。何も起きない。もう一度と手首を返しかけた時、柄の中で小さく音がした。
「そのまま、箱へ」
店主の声に従う。
表面の割れ目は僅かだったが、先ほどまで真っ直ぐだった木は、中央から少し傾いていた。
「ここで止めよう」
校長の声から軽さが消えた。
「選び方を変えねば、同じことになる」
オリバンダーは箱へ蓋をせず、割れ目を見ていた。
「僕も、残りを順に壊したいわけではありません。別の方法はありますか?」
鬼太郎が問うと、店主の視線がようやく上がった。
「……別の方法」
それから、棚のいちばん奥を見た。
「少々、お待ちを」
老人の足音が遠ざかる。
鬼太郎は空いた右手を下ろし、左脇腹へ力をかけないよう椅子へ座った。ここまで立っていたことを、身体が遅れて知らせてくる。
「杖がなくても、入学できるのですか?」
「それを理由に門前払いはせん。ただ、授業には大きく差し障るじゃろう」
校長は割れた箱の列を眺めていた。
「君が使う力だけでは、変身術も魔法薬学も学べん」
「薬を作るにも必要なのですね」
「全てを杖で混ぜるわけではないがの。学ぶ前から、できることを狭めるのは惜しかろう」
それは、鬼太郎にも分かった。
火を出せるからといって、校長が木片を歩かせた仕組みまで分かるわけではない。銃があればよいと帰るために、ここへ来たのでもなかった。
店の奥で鍵が回った。
続いて、重い物を持ち上げる音がした。
オリバンダーが持ってきたのは、艶を失った黒い箱だった。
台へ下ろす時、これまでより低い音がする。老人は留め具の埃を拭い、先に校長を見た。
「父が残した物です。私の作ではありません」
「先代の杖かね」
「ええ。売れなかったというより、売るところまで進めなかった」
蓋が開いた。
中の杖も、黒かった。柄に飾りはなく、木の色だけが深い。鬼太郎の手には太く、長すぎるように見えた。
「黒檀。十六インチ半。硬く、重い杖です。芯は一本の羽根ですが、その主だった生き物は特定できていません」
「分からない素材で作ったのか?」
キーノの声に、店主はすぐには手を進めなかった。
「先代は、新しい芯の可能性を試していた。これは、その頃の研究から持ち帰った素材です」
「何の研究ですか」
「異界生成計画」
答えたのは、校長だった。
老人の杖が店の扉へ向けられる。一振りすると、外から聞こえていた客の声が遠くなった。
「その名を、父の記録で知りました」
オリバンダーが言う。
「素材の鑑定に協力していたようです。公の記録へ名を残す立場ではなかった」
鬼太郎は二人の顔を見た。校長がこの箱まで知っていた様子はない。それでも、研究の名だけで外の音を遮った。
「異界とは、別の世界へ行く研究でしょうか」
「少し違う。この世界の内側に、通常の場所とは異なる領域を人の手で作ろうとしたものじゃ。何十年も前、ある高名な魔術師を中心に、大勢の専門家が集められた」
校長は黒い杖へ目を落とした。
「領域はできた。じゃが、完成して間もなく制御を失い、膨張して施設を巻き込んだ。爆発の後、そこから異形の生き物が出てきた記録がある」
鬼太郎の右手が、膝の上で止まった。
「招いたのではなく?」
「少なくとも、現場の者が予定していた相手ではなかった」
「父は、悪魔と書き残しています」
オリバンダーの言葉で、谷の記憶が頭をかすめた。
大きな口。人とは違う腕。姿より先に、避けなければならない方向が分かったこと。
だが、目の前の話と結べる名前は出てこない。
「その生き物は、どうなりました?」
「魔法使いたちが交戦したそうです。施設も資料も多くが失われ、父の記録にも、全ての行方はありません」
店主は箱の縁へ手を置いた。
「この羽根は、戦いの後に瓦礫から見つけた物です。父は届け出ず持ち帰り、杖へ仕立てた」
「先ほど、出所の分からない物を持ち帰るなと注意されたばかりなのですが」
鬼太郎が校長を見ると、赤褐色の髭の上で口元が歪んだ。
「先代にも、聞かせたかったところじゃ」
「否定はしません」
オリバンダーは視線を逸らさなかった。
「作られた物を調べることと、作った者の行いを肯定することは別です。私はこれを捨てられなかった。ただ、今日まで、誰の手にも応えなかった」
「触れなかったのですか?」
「触れるだけなら。ですが、火花を浴びせる、指を締めつける。しまった箱と違う棚へ移っていたこともありました」
鬼太郎は箱の中を見直した。
黒い杖は動かなかった。右手を台の端へ置いても、先ほどの杖のように奥へ逃げようとはしない。
「その研究は、今も続いているのですか」
「凍結された。施設は封鎖され、残った資料も回収された。同じ異界を再び作ることも禁じられておる」
校長の返事は短かった。
「向こうに何が残ったか、こちらへ出た者が全てだったかも不明じゃ。興味がある、というだけで開いてよい扉ではない」
「方法まで尋ねてはいませんよ」
「今のうちに言っておる」
鬼太郎は、校長の青い目を見返した。
目の前の未知をただ忘れろと言っているわけではない。杖を試す場には残り、自分も杖を出している。それでも、危険と見た先へ行く許可は渡さない。
「では、今はこの杖を」
「試すかね?」
「はい」
鬼太郎は立ち上がった。
黒檀は長い。勢いをつけて振れば、左肩を庇う姿勢も崩れるだろう。まずは手を添えるだけにする。
キーノが横へ来た。
「何かされたら、すぐ離せよ」
「分かりました」
サーシェスは入口側へ一歩ずれた。棚の隙間を塞がない位置だった。
オリバンダーが箱から手を離す。
鬼太郎は、柄へ指を置いた。
冷たさも、熱もなかった。
木の硬さだけが、指へ伝わる。
少しずつ握り、箱から持ち上げる。重かった。ケストレルとは違い、重さが掌からずっと先まで続いている。
手首を支えるため、肘を身体へ寄せた。
その時、床の模様が消えた。
窓の明るさは変わっていない。天井の灯りもある。だが、鬼太郎の足元から、影が広がっていた。
角のある頭が、黒い箱の下を通る。
翼を広げたものが棚へ重なり、長い腕を持つものが壁を這った。壁にはそれを映す生き物がいない。影だけが、箱を積んだ天井まで昇っていく。
「動かぬように」
校長の杖先が上がった。
鬼太郎の左の袖が引かれる。キーノの指だった。
「手を離せ」
鬼太郎は柄から指を浮かせかけた。
その先で、いちばん近い影が頭を下げた。
巨大な獣が身を伏せる。別の影が翼を畳む。長い腕が上がり、爪の先は鬼太郎へ届かない位置で止まった。
攻撃の間合いを測る動きとは、違って見えた。
「待ってください」
「何が起きてるか分かるのか?」
「まだ、分かりません」
キーノの指が強くなった。鬼太郎は引かれる方へ無理に抗わず、杖先を床へ下げた。
影は消えない。
だが、自分へ迫ってもこなかった。
幾つもの輪郭が重なり、揺れる。声のない口が開く。その一つを知っている気がして、目を凝らした途端、別の影が横切った。
名前が出ない。
何かを失ったような気分になった。初めて見たはずの姿を、思い出せないことが惜しかった。
「……迎えているように見えますね」
鬼太郎が呟くと、右の掌の中で黒檀が一度、脈を打った。
影の群れが揺れた。
帰った者へ場所を空けるように、足元の輪郭が開く。
胸の奥へ、喜びに似たものが浮かんだ。それが自分のものか、杖へ触れて感じたものかまでは分からない。
「鬼太郎。痛みは?」
「ありません。手も、勝手には動きません」
校長へ答える間に、壁の影がほどけた。
天井から棚へ、棚から床へ。重なった黒が足元へ戻り、細く引き伸ばされる。
最後の一つが杖へ消えると、床板の傷まで元どおり見えるようになった。
サーシェスが、抜いていた銃の狙いを下げた。
「何を撃てばよかったんだ、今のは」
「少なくとも、棚ではなさそうです」
「そういう話じゃねえ」
鬼太郎は黒檀を握ったまま、店主を見た。
オリバンダーは箱の脇へ手をつき、銀色の目で杖を見ていた。
「以前にも、これが?」
「いいえ。父の記録にもありません」
掠れた声だった。
校長は鬼太郎の周囲と床へ、順に杖を向けていった。全員がその確認を待つ間、黒檀は静かだった。
「生き物がここへ出てきた痕跡は、見つからん。少なくとも、今も店内へ何かが残っておる形ではない」
「杖が見せたのでしょうか」
「君が持ち上げた時に起きた。それ以上は、まだ決められん」
鬼太郎は先ほど影の頭があった場所を見た。
あれを、知っている誰かだと言うことはできない。谷で戻った断片と似ているだけで、同じ相手だったという証拠もなかった。
キーノが袖を放す。
「知ってる顔は?」
「見つかりませんでした」
嘘ではなかった。キーノはそれ以上尋ねず、自分の手を引いた。
鬼太郎は黒檀を箱の上へ戻した。
誰も止めなかった。手を離しても、影は戻ってこない。
「もう一度持って、光を試してもよいですか」
校長は少し考え、周囲を確かめてから頷いた。
「知っておる呪文だけじゃ。何か変われば、そこで止める」
鬼太郎は再び柄を握った。
重さは変わらなかった。自分のために短くなりもしない。それでも、先ほどの六本を持った時の、押し返されるような感触はない。
人へ向けず、先端を空けた場所へ上げる。
「ルーモス」
白い光が灯った。
針ほどの点ではなかった。奥の棚へ、箱の細い縁が浮かぶ。鬼太郎が息を吐いても、光は小さくならなかった。
杖先を少し右へ動かす。
照らす場所が、その通りに変わる。
「ノックス」
光が消えた。
握る指へ食い込むものも、木が割れる音もない。
オリバンダーが長く息を吐いた。
「この杖が誰かへ応えるところを、ようやく見られました」
「僕のために待っていたのでしょうか」
「そう申し上げたくなる光景です。ですが、私が知っているのは、今日まで誰も選ばず、今あなたを選んだことです」
鬼太郎は黒い木目へ目を落とした。
先代の時代からここにあった。自分が生まれる前から、誰の手にも収まらなかった杖。
その理由を、今は知ることができない。
「では、この杖をいただきます」
老人は空の黒い箱を鬼太郎の前へ寄せた。
左手で蓋を支えると、肩に鈍い重みが走る。鬼太郎は右手で杖を収めてから持ち替え、ゆっくり閉じた。
痛みはそのままだった。
新しい杖が選んだのは、まだそれを自由に振ることもできない、今の自分だった。