第62話 最初の頁はまだ白い
黒い箱の留め具を閉じると、オリバンダーは鬼太郎の前へ代金を記した紙を置いた。
割れた杖の分は、含まれていなかった。
「壊れた物については?」
「あなたへ続けるよう頼んだのは、私です。選ばれなかった杖の代金を、客へ求めることはありません」
老人は箱の並んだ台へ布を掛けた。
「調べたいことも、随分増えましたから」
鬼太郎は自分の財布から支払いを済ませ、黒檀の入った箱を鞄へ収めた。長さがある。奥へ押し込まず、取り出す時にも他の包みへ引っ掛からない向きにする。
右腕を下ろすと、キーノが前へ出た。
「次は、私だ」
オリバンダーは帳面の頁をめくった。
「利き手をお願いします」
「右。借りた杖で光を出したことがある。消すのもできる。それ以外は、まだだ」
「では、その二つを試しましょう」
巻き尺が彼女の指へ巻きついた。キーノはくすぐったそうに指を曲げかけ、測り終わるまで伸ばし直して待った。
鬼太郎は椅子へ座ったまま、店主が選ぶ箱を見ていた。
自分の時と同じように、まず一本が台へ置かれる。
キーノが柄を握った。
割れなかった。それだけで、先ほどまで張っていた肩の力が少し抜ける。
「軽く振ってみてください」
先端から散った火花は、床へ落ちる前に消えた。
「違いますね」
オリバンダーは受け取り、次を渡す。
二本目を持ったキーノは、すぐ眉を寄せた。
「熱い」
「戻しましょう。無理に握らないで」
彼女は開いた箱へ杖を置き、指先を確かめた。皮膚は赤くなっていない。
三本目は、ルーモスを唱えても応えなかった。
四本目では光が出た。キーノは先端を見てから、少し右へ動かす。光は強くなり、次には消えそうなほど細くなった。
「ノックス」
明滅が続く。
もう一度唱えかけたところで、ようやく消えた。
「遅いな」
「あなたの意図へ、十分に応じていません」
店主が手を差し出す。キーノはためらわず返した。
光ったから、これでよいとは言わなかった。
鬼太郎にも違いは分かった。借り物でできたことを、買った杖でもできるだけでは惜しい。自分の手で灯し、消せることを確かめに来たのだ。
五本目は、細く真っ直ぐな杖だった。
「松。十と四分の一インチ。芯は一角獣の尾の毛。やや硬めです」
キーノの右手が、柄へ収まる。
指の位置を一度だけ直した。
「……これは、持ちやすい」
「松の杖は、自分の道を選ぶ、独立心のある使い手を好むことがあります」
「まだ、何もしてないぞ」
「ええ。ですから、あなた自身で確かめてください」
店主は手を離し、台の前を空けた。
キーノが杖先を上げる。
「ルーモス」
白い光が灯った。
先ほどの四本目とは違い、明るさが揺れない。彼女は手を止めたまま見つめ、それからゆっくり、先端を横へ向けた。
光はついていく。
唇の端が上がった。
「ノックス」
すぐに消える。
キーノは空いた左手を柄の下へ添え、木肌を見た。そのまま何か言いかけて、口を閉じる。
「キーノさん」
「何だ」
「もう一度、灯してもらえますか」
「見てたろ」
「ええ。綺麗に出ていました」
こちらを一度睨んだが、杖を戻しはしなかった。
もう一度のルーモスも、同じように灯った。
「これにする」
光を消してから、キーノは店主へ告げた。
「これなら、私が使える」
オリバンダーが箱を用意する間も、右手は柄を離さなかった。代金を聞いてようやく左手で財布を出し、杖を一度、台へ置く。
鬼太郎は手を出さずに待った。
硬貨を数え、受け取った釣銭を戻すところまで、キーノは自分で済ませた。
老人が松の杖を包み、その上へ彼女の名を記した。
「手入れの方法もお渡しします。初めから、できるだけあなたの手で使ってください」
「借りた杖は、使わない方がいいのか?」
「使えなくなるわけではありません。ただ、この杖との付き合いを始めるには、こちらを使う時間が必要です」
キーノは説明の紙を折らず、箱に重ねて鞄へ入れた。
店を出る前、鬼太郎は一度だけ棚の奥を見た。
黒い箱のあった場所は、ここからは見えない。今も数え切れない杖が、まだ来ていない客を待っていた。
◆
外の明るさに目を細めた時、左の脇腹が引きつった。
座って休んだ分だけ楽にはなったが、姿現しで響いた場所まで消えたわけではない。
校長はその歩き出しを見ていた。
「残りの品は、別の日にしよう」
「制服と本なら、今日でも――」
「制服の採寸で、腕を上げ下げするのは誰かね?」
鬼太郎は左手を見た。
「僕ですね」
「分かっておるなら、今日はここまでじゃ」
キーノは自分の鞄を押さえ、通りの先の書店を見た。すぐ戻ってきた視線が、鬼太郎の左肩へ止まる。
「次にまとめて買えばいい。今は杖がある」
「本は、次ですね」
「逃げないだろ」
四人は出口へ向かった。
人の流れが多い所では、サーシェスが少し前へ出る。キーノは鞄の口を確かめてから、隣へ戻った。
校長だけが、店先の品書きへ目を留めた。先へ行くよう手で示し、二、三歩遅れる。
鬼太郎は止まらず歩いた。
向こうから、通りの看板より高い所に顔のある大男が来る。横には眼鏡の少年がいた。どちらも知らない顔で、こちらを呼ぶ声もしなかった。
◆
ハリーは、大男の肘の向こうから三人連れを見た。
赤みがかった髪の男と、自分と近い年頃の二人。
少女は端正な顔立ちをしていたが、店の窓よりも手元の鞄を気にしているようだった。隣の黒髪の少年は、少しゆっくり歩いていた。
顔が、ハリーの見慣れた子供たちとはどこか違う。
つい目で追っていると、ハグリッドが振り向いた。
「知り合いか?」
「ううん。知らない子だよ」
少年は前を向いたまま通り過ぎた。少女も、鞄から手を離して歩いていく。
あの二人も、学校へ行くのだろうか。
考える間に、ハグリッドの指が別の看板を示した。
「杖は、あそこだ。おまえに合うもんを探してもらおう」
ハリーは前へ向き直った。
今日だけで、まだ知らない物を随分見た。その上、自分のための杖まで買うのだという。
細い店の窓へ近づく足が、自然と速くなった。
◆
ダンブルドアは、ハリーがオリバンダーの店へ入るところを遠くから確かめた。
ハグリッドを見上げる顔は、新しい世界への驚きに満ちていた。
今日を選んだ理由の一つは、それを見ることだった。わざわざ声を掛け、自分の存在を教える必要はない。
鬼太郎たちと、会話はなかった。
今の二人に、互いの特別な事情を結びつける手掛かりを与えずに済んだ。それでよい。学校へ入れば接点はできるが、今日ここで急がせる理由はなかった。
ただ、店に残した出来事はある。
無数の影が、鬼太郎を迎えた。
恐れて服従しているようには見えず、かといって、単に杖が喜ぶ際の火花とも違った。あの子が語った、今の身体ではない戦いの経験。
問いを増やす材料にはなった。答えにしてしまうには、足りない。
オリバンダーと確かめることも、後で残る記録を探すこともある。だからこそ、今この場で鬼太郎を追い詰め、黙る理由を増やすのは得策ではなかった。
まずは学校へ来る道を整える。
教える者、共に学ぶ者、帰る場所。こちらが渡すものにも、鬼太郎自身が手放したくないと思えるだけの価値が要る。
ダンブルドアは帽子のつばを直し、先で待つ三人の方へ足を向けた。
◆
次の買い物は、日を空けた朝になった。
鬼太郎の左肩はまだ大きく捻れば重かったが、普段の歩行や着替えで顔をしかめることはなくなっていた。校長にそう伝えると、今日は急がず回ると決まった。
サーシェスは別の仕事へ出ていた。
砦を発つ前に、帰還を待たず進めてよい修繕をヴェリナと確かめる。大きい石を動かす部分は残し、できる所まで。それだけ伝えて、二人は校長と横丁へ戻った。
渡された持ち物一覧には、それぞれ杖の欄へ印があった。
「残りを、今日は揃える」
校長の指が、制服と本の欄を順に示した。
「追加の棚を見る前に、まずここを終わらせておくれ」
「追加する物があるか、まだ分かりませんよ」
「今からないと約束せよとは言っておらん。順番の話じゃ」
鬼太郎は一覧を畳んだ。キーノは畳まず、最初の店の名を確かめてから歩き出した。
マダム・マルキンの店では、二人が台へ乗った。
黒いローブの肩と裾へ、待ち針が次々留まる。
鬼太郎は右腕を前へ出し、肘を曲げた。左はゆっくり上げる。痛みの手前で止めると、店主はその肩を引っ張らず、生地を少し緩めた。
「今は無理に伸ばさなくていいわ。治ってから動かせる分も残しておくから」
「お願いします」
隣でキーノが、右袖の端をつまんでいた。
「長いと、杖を出す時に引っ掛かる」
「それなら、ここを直しましょう。手首を曲げてみて」
言われたとおりにする。袖口が手の甲から離れた。
「これでいい」
鏡へ顔を向ける時間よりも、腕と裾を確かめている時間の方が長かった。
黒いローブ三組ずつ、帽子、手袋、冬のマント。品物が揃うと、キーノは一つずつ自分の一覧へ印をつけた。
「同じ服でも、お前のとは分けとけよ」
「僕が間違えて着ると思いますか?」
「間違えなくても、鞄から一緒に出すだろ」
名札をつけてもらうと聞いて、ようやく彼女は帽子を箱へ戻した。
次の書店には、紙と革の匂いが満ちていた。
鬼太郎は渡された一覧と背表紙を見比べ、一冊ずつ台へ置いた。
呪文、魔法史、魔法論、変身術。薬草ときのこ、魔法薬、魔法生物、闇の力への護身。
八冊を二人分。
積み重なる本の高さを見て、鬼太郎は自然と手を伸ばした。
『基本呪文集』を開く。
これだけあれば、知らないことは当分なくならない。だが、目次を追っただけでも、杖を振れば済むものばかりではなかった。
キーノも同じ本を開いていた。
「今できるのは、灯すのと消すのだけだな」
「これから増えますよ」
「お前も、まだ同じだろ」
「ええ。僕の杖も、光を出したところです」
二人の間へ、校長が手を出した。
「棚の前で最初から読み通すのは、帰ってからにしよう」
鬼太郎は本を閉じた。
指定の本が店員へ渡ったところで、ようやく別の棚へ目を向ける。
『防護呪文の構造と対抗理論』。
題名を見て引き抜くと、校長が横へ来た。
「それは一年生の教科書ではないぞ」
「防壁には、何度も弾を止められました。こちらから触れればよい物でもないので、まず書かれていることを読みたいのです」
鬼太郎は目次を開いた。知らない言葉がある。術者の姿勢や、維持する際の注意へ続く章もあった。
「分からない箇所を、質問してもよいですか」
「よい。ただし、読んだだけでできると思わんこと。防護を試すために撃ち合うのもいかん」
「今は、自分で防壁を出せませんよ」
「出せた後もじゃ」
校長はそこを譲らなかった。
鬼太郎は条件を了承し、その一冊を自分の分へ加えた。
会計台の横には、羽根ペンとインク、羊皮紙が並んでいた。
キーノは必要な分を選び終えても、そこから離れなかった。
紺色の革表紙の帳面へ、指が触れている。
銀の留め金を開き、中を一度見てから閉じた。値札へ目を落とす。次には、指定の羊皮紙だけを台へ置いた。
「そちらも使いますか?」
鬼太郎が尋ねると、キーノは帳面から手を離した。
「使えるとは思う。習ったことを書いておける」
「なら、追加しては?」
「紙はあるだろ。別に、なくても困らない」
鬼太郎は紺色の表紙を見た。
使えるかどうかなら、既に答えは出ている。それでも彼女は台へ持っていかない。
「欲しいですか」
キーノはすぐに答えず、自分の財布を握り直した。
「……欲しい。買うかを考えてる」
「僕から贈っても、よいでしょうか」
彼女の目がこちらへ戻る。
「何のために?」
「キーノさんが、欲しいと言ったので」
「それだけか?」
「ええ。持っていると、僕も使わせてもらえるという条件はつけませんよ」
キーノは帳面をもう一度開いた。
書きつけた紙を差し込む物ではなく、初めから綴じられた薄い羊皮紙。角まで揃っているのを確かめて、今度は台へ持ってきた。
「なら、これがいい。借りにはしない」
「もちろんです」
鬼太郎は自分の財布から代金を出し、追加した本とは別に帳面を受け取った。
キーノへ渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
小さいが、はっきりした声だった。
彼女は受け取った物を胸へ抱えず、鞄の自分の荷へ入れた。銀の留め金を閉じる指だけが、いつもよりゆっくり動いていた。
鬼太郎はその手を見てから、自分の本を包んでもらうため台へ向き直った。
残りの店では、一覧へ印が増えていった。
錫製の標準二番の大鍋。小瓶、望遠鏡、真鍮の天秤。
キーノは皿の揺れが収まるのを待ち、重りを戻す箱の仕切りまで確かめた。鬼太郎は瓶の口を見て、栓が合うか一つずつ試す。
「店で全部使い始めるなよ」
「帰ってから足りないと分かれば、また来ることになります」
「それは、同感じゃな」
校長まで天秤の皿へ目を向けたので、キーノも何も言わず、最後の重りを確かめた。
全て揃った頃には、鞄の中も並べ直す必要があった。
瓶と望遠鏡は箱ごと固定する。鍋を本へ押しつけず、服の包みへ煤や油がつかないよう離す。黒檀の長い箱を動かそうとして、鬼太郎は左手を引いた。
キーノがこちらを見る。
「持つか?」
「いえ。先に本を出せば、右だけで入ります」
「分かった」
彼女は本の包みを持ち上げ、空いた所へ杖の箱が収まるまで待った。
何でも代わりにしてくれるわけではない。こちらができる方法を示せば、その分だけ場所を空ける。
鞄の口を閉じると、キーノは自分の一覧を差し出した。
「全部、印がついた」
鬼太郎も並べる。
指定品の欄に、空きはない。
「揃いましたね」
「うむ。後は入学の手続きと、予定した確認じゃ」
校長は紙を返した。
買い物を済ませたから、診察まで済んだことにはならない。ポンフリー夫人が来る日には、改めて方法を聞く。サーシェスの書類も、本人が読むため砦に残っている。
それでも、今朝は空いていた欄が埋まった。
キーノは一覧を折ってしまい、代わりに紺色の帳面を取り出した。
「もう書くのですか?」
「中を、もう一度見るだけだ」
銀の留め金が開いた。
最初の頁は、まだ何も書かれていなかった。
「何から書くか、考えてる」
鬼太郎は口を挟まず、彼女が頁を閉じるまで待った。
その余白へ、先に自分の予定を入れる必要はなかった。
校長が歩き出すと、キーノは帳面をしまってついていった。鬼太郎も鞄を右肩へ掛け、人波の薄い方から二人の隣へ戻った。