第六十二話 地図の余白に、牙を立てる
十一か月は、紙の上では一行だった。
鬼太郎は、九歳になった日から数えた数字を、購入品の一覧の端へ書いた。
十。
その下に、小さく一と加える。
「何の数だ」
向かいで依頼書を読んでいたキーノが聞いた。
「英国を離れるまでです」
紙から上がった目が、鬼太郎へ向く。
「月?」
「ええ。多少は前後しますが」
「次の場所に行くまで」
「その予定です」
キーノは続きを待った。
場所も、理由も、まだ聞いていない。
鬼太郎は一覧へ目を戻した。
「経路が決まれば、お話しします」
「今じゃないのか」
「辿り着く経路も決めていない場所を、先に目的地とは呼べませんから」
キーノの眉が寄った。
「また、それか」
「ええ」
「十一か月ずっと待てとは言ってないからな」
「分かっています」
納得した顔ではなかった。
それでもキーノは、それ以上聞かなかった。
鬼太郎が紙へ書いた数字を、自分でも読めるようになっている。隠しても、減っていくものは見つかる。
鬼太郎は、最初の一を横線で消した。
◆
仕事の数を減らしても、報酬まで減らす必要はなかった。
期限が短いもの。
持ち出す品が一つで済むもの。
依頼人同士の争いが、英国の外まで続かないもの。
鬼太郎は条件を選んだ。
断った依頼の方が多い月もあった。
「坊主が仕事を選り好みするのは今さらだがな」
屋根の縁から下を見ながら、サーシェスが言った。
「最近は、つまらねえ方へ寄りすぎじゃねえか」
雨の残る石畳を、二人の男が走っている。
一人は右腕を押さえていた。
もう一人は、後ろを振り返る余裕もない。
回収対象だった銀の筒は、既に鬼太郎の鞄へ入っている。封も留め金も壊れていない。
「依頼品は取り戻しました」
「あいつらは残ってる」
「追う契約ではありませんよ」
「知ってる」
サーシェスは濡れた髪を掻き上げた。
笑ってはいるが、口元には物足りなさが残っている。
「だから面白くねえんだ。撃ったのは一発だぞ」
「弾薬代が安く済みましたね」
「そいつを喜ぶのは、お前ぐらいだ」
下の路地から、短い光が三度上がった。
最後の光が消える。
「キーノさんも離れました」
「見りゃ分かる」
サーシェスは屋根から下りる梯子へ足を向けた。
「次は、もう少し撃てる仕事を持ってこい」
「条件が合えば」
「その条件が細くなってんだよ」
不満を隠さないまま、サーシェスは笑った。
鬼太郎は追わなかった二人の足音を聞く。
敵を残したことに、惜しさはない。
追えば殺せた。
殺しても報酬は増えない。
今の英国で、増やす必要のない敵だけが増える。
次の場所へ持っていけないものを、わざわざ抱える理由はなかった。
◆
九か月が、七か月になった。
七か月は、四か月になった。
拡張鞄の中へ、英国と大陸を結ぶ時刻表が増えた。
鉄道だけの経路。
海を渡る経路。
途中から魔法使いの移動手段を使う経路。
国境で書類を調べられた時の迂回路。
鬼太郎一人なら、選べる道は多い。
キーノが加われば、身分を詳しく調べられない道を選ぶ必要がある。
サーシェスが加われば、銃と弾薬を運ぶ方法が変わる。
どちらも来るとは、まだ決まっていない。
来ない場合の道も捨てなかった。
鬼太郎は三通りの費用を別々に計算した。
キーノは、数字の少ない方から読み比べた。
「三人の方が高い」
「移動する人が増えますから」
「こっちは二人」
「ええ」
「一人もある」
「必要でしょう」
キーノの指が、三枚目で止まる。
「私が行かなくても?」
「その場合も、僕は行きます」
「サーシェスが断っても」
「同じです」
紙を押さえる指へ、少しだけ力が入った。
「最初から一人で決めてたんだな」
「行き先については」
「私たちに話すのは、ついでか」
「選んでいただくためです」
「何を」
「一緒に来るかどうかを」
キーノは鬼太郎の顔を見た。
感情の見えにくい目ではなかった。
苛立っている。
だが、紙を投げることも、席を立つこともしなかった。
「それを決める話を、まだしてない」
「あと少しです」
「その言い方、嫌いだ」
「覚えておきます」
「直すとは言わないんだな」
「まだ必要ですから」
キーノは息を吐き、三枚の紙を順番に重ねた。
「なら、早く必要なくしろ」
以前なら、黙って待ったかもしれない。
今は、不満を言葉にする。
鬼太郎は、それを止めなかった。
◆
残り二か月になった日、鬼太郎は仲介人へ長い依頼を受けないと伝えた。
「期限は」
「一週間以内に終わるものだけです」
「護衛は」
「英国から出ないものに限ります」
「理由を聞いても?」
「場所を移します」
仲介人は、机の上の依頼書を一枚戻した。
北へ向かう一か月の護衛だった。
「戻るのか」
「今のところ、その予定はありません」
「惜しむ客はいる」
「僕を、でしょうか」
「仕事を終わらせる腕をだ」
「でしたら、代わりは見つかりますよ」
「炎と拳銃を使う九歳の代わりは、そういない」
仲介人は笑わなかった。
「出る日が決まったら言え。期限を越える仕事は回さない」
「ありがとうございます」
寝床も本名も聞かない。
どこへ行くかも追及しない。
それが、この男と続いた理由の一つだった。
同じ週に、サーシェスとの契約も机へ戻った。
三か月の終わりまで、残り二十日。
次の継続報酬を払わなければ、優先交渉はそこで切れる。
「更新しねえのか」
サーシェスは紙を指で叩いた。
「英国での契約は、ここまでにします」
「英国での、ねえ」
口の端が上がる。
「どこへ行く」
「キーノさんもいる時にお話しします」
「あのガキに聞かせられて、俺にゃ聞かせられねえのか」
「同じ内容を二度説明するのが面倒なだけですよ」
一拍置いて、サーシェスが声を上げて笑った。
「違いねえ。だが、つまらねえ話なら途中で帰るぞ」
「まだ契約の外です。ご自由に」
「言うようになったじゃねえか、坊主」
最初から、同じように言っていた。
サーシェスが面白がる場所が変わっただけだった。
◆
残り一か月。
机の上へ、一枚の地図を広げた。
英国ではない。
海峡もない。
山地と森林の記号が、紙の中央を占めている。
キーノは椅子へ座る前に、その地図を見た。
「ここか」
「ええ」
サーシェスは壁際の椅子を引き、背を鳴らしながら座った。
「ようやく秘密の相談か」
「秘密にするかは、お二人が聞いた後で決めてください」
「面倒な前置きだな」
「必要なことです」
鬼太郎は地図の一角へ指を置いた。
「ブルガリアへ戻ります」
キーノの目が、指先から鬼太郎へ動く。
「戻る?」
「以前、住んでいました」
「銃を作った奴がいる場所」
「ええ」
「それだけじゃないだろ」
待たされた分だけ、言葉が早い。
「何をする。どこに住む。私たちを何に使う」
サーシェスが喉の奥で笑った。
「ずいぶん溜めてたな」
「あんたは黙ってろ」
「先に聞いたのは俺だぜ」
「場所しか聞いてない」
「では、順番にお話しします」
鬼太郎は、指を山地の奥へ移した。
「ここには、マグルを遠ざける魔法がかかった森があります」
「誰がかけた」
「分かりません。少なくとも、最近作られたものではありません」
「魔法使いは入れるのか」
「ええ。ですから、守られているとは言いにくいですね」
英国魔法省の管轄は届かない。
マグルは近寄らない。
監視する者も少ない。
森には、魔法を帯びた生物と植物がいる。
それを狙う密猟者が入る。
採った素材をまとめるバイヤーがいる。
人目を避けたい闇の魔法使いも通る。
鬼太郎は、調べたことだけを並べた。
「森の中に、拠点を作ります」
「家か」
キーノが聞く。
「最初は、それに近いものですね。眠る場所と、食料、水、武器、本、素材を置ける場所。外から見つけにくく、襲われても守れるものにします」
「私たちの部屋も?」
「来るのであれば」
「まだ決めてない」
「ですから、空けておきます」
キーノが口を閉じた。
断った者の部屋まで作るとは言っていない。
来ると決めた後で、必要な分を作る。
サーシェスが地図を覗き込んだ。
「森の奥で本を読むために、英国を捨てるわけじゃねえだろ」
「もちろんです」
鬼太郎は指を離した。
「強くなるためですよ」
サーシェスの笑みが深くなる。
「やっと面白そうな話になったな」
キーノは笑わなかった。
「今でも十分、人を殺せる」
「今の僕としては、そうでしょうね」
「今の?」
部屋の空気が、そこで止まった。
鬼太郎は、二人の顔を順に見た。
話す必要がある。
森へ行く理由だけを伏せれば、選ばせるための条件にはならない。
「僕は、一度死んでいます」
キーノの眉が動いた。
サーシェスの笑みが消える。
「続けろ」
声には、疑いより先に興味があった。
「ここではない場所で、以前にも生きていました。そこでは、弱いままでいると、次の日ではなく、次の瞬間に死体になることがありました」
焼けた街。
崩れた空。
人の形をしていない敵。
記憶は、名前より先に匂いと重さを残している。
「僕は弱かった。ですから、生き残るために必要なものは何でも覚えました。銃も、刃物も、身体の使い方も、今とは違う力も」
「その魔法か」
キーノが聞いた。
「一部は」
「全部、前に使えた?」
「今より多くのことができたはずです。ですが、名前も使い方も戻っていないものが多い」
「はず?」
「記憶が完全ではありませんから」
青い装束。
隣で戦った背。
最後には、正面に立った相手。
「最後に覚えているのは、何度も共に戦った方と殺し合ったことです。進む道が違った。それで僕は負けて、死にました」
「そいつの名前は」
サーシェスが聞く。
「思い出せません」
「顔は」
「同じです」
「それで、前の自分ほど強くなりてえと」
「ええ」
サーシェスの口元へ、ゆっくり笑みが戻る。
「死んだ話を、負けた仕事みてえに言いやがる」
「結果だけなら、似たようなものでしょう」
「似てねえよ」
キーノの声が割り込んだ。
両手が、地図の端を押さえている。
「一度死んだ? 前の場所? お前、そんな話を今まで一度も――」
言葉が止まる。
怒っている。
驚いてもいる。
何から聞けばよいか分からず、それ自体に苛立っている。
「信じなくても構いませんよ」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
声が、部屋の壁へぶつかった。
キーノ自身が、一瞬だけ目を見開く。
それでも、声を小さくはしなかった。
「だから、お前は何でも知ってるみたいに動く時と、何も知らない時があるのか」
「おそらくは」
「死ぬのを怖がらないのも?」
「怖がらないわけではありません。死ぬと分かっている場所へ、理由もなく入るつもりはありませんから」
「でも、強い奴とは戦いたい」
「ええ」
「前に死んだのに」
「楽しかったので」
キーノの口が開き、閉じた。
「お前、本当に……」
続く言葉を探し、見つからなかったらしい。
代わりに額へ手を当てた。
「馬鹿なんじゃないのか」
「初めて言われました」
「嘘だ」
サーシェスが堪えきれずに噴き出した。
「違いねえ。坊主、お前そいつを怒らせる才能は、前の生まれから持ってきたんじゃねえか」
「それについては、覚えがありませんね」
「今ので十分だ」
笑い声が続いた。
キーノはサーシェスを睨んだ後、もう一度鬼太郎を見る。
「部屋で撃つ練習じゃ、足りないのか」
「足りません」
今の世界には、食事がある。
眠れる部屋がある。
調べる時間がある。
弱い時に、次の瞬間には死体になる場所ではない。
鬼太郎は、それを嫌っていなかった。
力だけで何もかもを決められない社会は面倒だった。
同時に、生前には得られなかった時間でもある。
「本を読み、身体を鍛え、同じ動きを繰り返せば、身につくものはあります。ですが、相手が本当に殺しに来る時にしか戻らない感覚もある」
「だから、密猟者が来る森か」
サーシェスが笑いを収めた。
「ええ。実戦の中で鍛えます」
「来た奴は全部殺す?」
キーノが聞く。
「いいえ」
鬼太郎は地図の別の場所へ指を移した。
「それでは、いずれ誰も来なくなります」
◆
森に入る者を排除する。
だが、森へ入ろうとする者までは絶やさない。
鬼太郎が説明すると、キーノの顔は、聞くほど険しくなった。
魔法生物を狩る者。
魔法植物を根から持ち去る者。
素材を買い集める者。
その全員を一度に消せば、森には危険だけが残る。
死体ばかり増え、品が外へ出なければ、やがて近づく者はいなくなる。
「ですから、バイヤーを一人残します」
「見逃すのか」
「取引します」
森から得た素材を、一定量だけ渡す。
羽根。
自然に落ちた角。
脱皮殻。
実と種子。
本物を持たせる。
その代わりに、森にはまだ多くの素材があると話させる。
危険ではある。
だが、宝の山だと。
実物があれば、噂だけでは終わらない。
欲しい者は、自分で確かめに来る。
「それで、また密猟者を呼ぶのか」
「ええ」
「守るのに?」
「来なければ、実戦になりませんから」
「森を荒らす奴を呼んで、来たら殺す。残した奴にまた呼ばせる」
「殺すとは限りません。二度と来ないなら、追い返すだけでも足ります」
「来たら?」
「次は、前より高くつくでしょうね」
キーノが、信じられないものを見る目をした。
「森を守る話かと思ったら、敵まで育てるつもりなのか、お前は」
「人は育てませんよ。勝手に来ていただきます」
「同じだ!」
サーシェスが、また笑い始める。
「いいじゃねえか。獲物が勝手に補充される森だ」
「あんたは黙ってろ!」
「さっきから俺にだけ厳しくねえか?」
「笑ってるからだ!」
キーノは地図を叩いた。
「魔法生物も、そこに閉じ込めるのか」
「元から森にいるものは、そのままです」
「素材を取る」
「生き続けられる範囲で」
「檻に入れて、傷をつけて、また治るまで待つ?」
声の奥に、別の場所が混ざった。
鉄台。
刃。
傷が閉じることを、金に換えた観客席。
「それはしません」
「何が違う」
「見世物にする必要がありません。壊せば、次の素材も得られなくなります。生き、増え、森へ残る状態を保つ方が、長く使えるでしょう」
「かわいそうだからじゃない」
「ええ」
「守りたいからでもない」
「僕のものにするなら、他の方に使い潰されるのは困ります」
キーノは黙った。
優しい答えではない。
正しいと言える答えでもない。
だが、鬼太郎は、彼女が聞きたい言葉へ形を変えなかった。
「最低だな」
「そうかもしれません」
「否定しろ」
「事実と違うのであれば」
「そこが腹立つんだ、お前は」
キーノは吐き捨てた。
それでも、地図から手を離さない。
「森の生き物を、殺させないんだな」
「必要以上には」
「お前も?」
「絶やすほど取れば、僕も同じです。必要な分と、増える分を調べます」
「分からなかったら」
「分かるまで採りません」
キーノの指が、地図に描かれた森の縁をなぞった。
「……最初から、そう言え」
「今、お話ししましたよ」
「順番の話だ!」
◆
ブルガリアに、ダイアゴン横丁のような大きな魔法使いの町はない。
魔法使いは、マグルの町へ紛れて暮らしている。
表では薬屋、古物商、運送屋、宿、農家。
裏では、魔法薬、道具、素材、依頼を扱う。
入口だけが隠された通りもある。
だが、一つの大きな町へ集まってはいない。
「買い手はいるのか」
サーシェスの質問は早かった。
「います。魔法生物と植物の素材を扱う方も、マグルの品を魔法使いへ流す方も」
「仕事は」
「以前、僕がいた時にも仲介人はいました。魔法使いだけでなく、マグル側の仕事も扱っています」
「森の番だけしろって話じゃねえんだな」
「その契約を結ぶつもりはありません」
サーシェスは椅子の背から身体を起こした。
「町じゃ、マグルと魔法使いの両方から仕事を取れる。森へ戻れば、密猟者と闇の魔法使いが向こうから来る」
「そうなりますね」
「英国より景気がよさそうじゃねえか」
歯を見せて笑う。
「拠点を使う値段は?」
「そこは、これから決めます」
「防衛は別料金だ」
「ええ」
「森で見つけた仕事と、お前から受ける仕事も別だ」
「そのつもりです」
「弾薬と移動費」
「個別の依頼ごとに」
「俺が町で受けた仕事へ、口を出すな」
「僕やキーノさんを狙う依頼でなければ」
サーシェスは、そこで目を細めた。
「まだ、そのガキが来ると決まってねえぞ」
「来た場合のお話です」
「先に部屋まで数えてやがる」
「必要になる可能性がありますから」
「欲しいとは言わねえのか」
「言えば、契約条件が変わりますか」
一瞬の後、サーシェスが腹を抱えて笑った。
「変わるに決まってんだろ! 俺を欲しがる奴からは高く取る!」
「でしたら、言わない方がよさそうですね」
「もう遅えよ、坊主」
サーシェスは上機嫌だった。
同行を承諾したわけではない。
それでも、断る者の顔ではなかった。
◆
地図の上には、三本の経路が残っている。
一人。
二人。
三人。
キーノは、そのすべてを見比べた。
「行くとは、まだ言ってない」
「ええ」
「前に死んだ話も、まだ全部信じてない」
「構いません」
「でも、嘘なら、もっとまともな嘘をつくと思う」
「評価していただけたようで何よりです」
「褒めてない」
返事が、以前より早い。
表情も、声も、隠す前に出てくる。
キーノは地図の森へ指を置いた。
「寒いのか」
「冬は」
「食べ物は」
「町から買えます。森でも得られますが、最初から頼るつもりはありません」
「家は誰が作る」
「必要な方を雇います。足りない部分は自分たちで」
「私に何をさせる」
「それは、キーノさんが来ると決めた後で、別に契約します」
「また契約か」
「嫌ですか」
「曖昧にされるよりはいい」
キーノは、地図から指を離した。
「全部聞くまでは帰らない」
「まだ聞きたいことが?」
「ある。たくさん」
怒ったまま、椅子へ座り直す。
サーシェスも、契約書のない机へ両肘を置いた。
「俺は値段の話だ」
「今からですか」
「俺を連れていきたいならな」
窓の外では、英国の夜が雨を落としている。
机の上には、ブルガリアの森がある。
同じ地図を囲んでいても、三人の欲しいものは違っていた。
鬼太郎は強さを求める。
キーノは、檻ではない場所かどうかを見ている。
サーシェスは、戦場と報酬を量っている。
同じ場所へ行く理由まで、同じである必要はなかった。
鬼太郎は、地図の余白へ新しい紙を置いた。
「では、条件を決めましょうか」
そこから先も、雨は長く降り続いた。
キーノは、曖昧な言葉を一つずつ止めた。
サーシェスは、危険へ片端から値段をつけた。
鬼太郎は、どちらの条件も同じ紙へまとめなかった。
三人が同じ立場になる必要はない。
同じ理由を持つ必要もない。
それでも、灯りが短くなる頃には、三枚の白紙へそれぞれ違う文字が並んでいた。
忠誠を誓う文はない。
去る自由を捨てる文もない。
だが、一人分の経路には線が引かれた。
二人分の経路にも、同じ線が増えた。
残ったのは、三人で英国を出るための道だった。
十一か月前には一行だった数字も、もう消えている。
英国へ来た時、鬼太郎が持っていたのは、小さな拳銃と借り物の名前だけだった。
今は、季節を収めた鞄がある。
自分の鍵で扉を開けるキーノがいる。
金で縛れず、戦場の匂いで笑うサーシェスがいる。
どちらも、同じ鞄へ詰めて運べるものではなかった。
だから、条件を交わした。
選んだまま、同じ場所へ行くために。
夜明け前、雨が止んだ。
地図の上の森は、まだ三人の足音を知らない。
その余白には、異なる印を持つ三枚の紙が重なっていた。
霧の国で研がれた三つの牙は、まだ見ぬ森へ向いていた。
第四章 完