第63話 ホグワーツで待つ
砦へ帰ると、キーノは自分の荷を部屋へ運んだ。
箱から出したローブを寝台へ広げ、袖と裾を伸ばす。店の鏡では見た。それでも、石壁と自分の寝台の間へ持ってくると、違う物に見えた。
これを着て出かける場所がある。
教科書を机へ積み、松の杖をその横へ置いた。八冊の背表紙は、どれもまだ角が立っている。触れば、自分の指の跡の方が先につきそうだった。
キーノは扉を閉めた。
誰も見ていないのを確かめてから、ローブを肩へ当てる。
客たちが話していた学校のことを、少し覚えていた。
息子が先生に叱られた。娘が友達を連れて帰ってきた。休みの宿題を、いつまでも終わらせない。
何をする場所なのか、詳しくは分からなかった。ただ、檻の外の子供たちはそこへ行き、帰ってからも、その場所であったことを話すらしい。
自分もいつか行くとは、考えなかった。
肩へ当てた布を下ろす。今は、行くために買った服がある。
まだ、決まってはいない。
そのことも分かっていたから、綺麗に畳んで、汚れない所へ置いた。
紺色の帳面を開く。
羽根ペンへインクをつけてから、少し待った。最初の頁を埋める言葉が、買った時からずっと決まらなかった。
授業で覚えたことを書くつもりだ。
だが、それより先に書けることが、一つあった。
キーノ・ファスリス・インベルン。
途中で省かず、最後まで書く。少し傾いた字を見直したが、書き直しはしなかった。
インクが乾いてから、帳面を閉じる。
留め金の下へ、自分の名前が収まった。
◆
翌朝、鬼太郎が食堂へ持ち込んだのは、『闇の力――護身術入門』だった。
横丁で買い足した防護理論書は、部屋へ置いてきた。そちらで分からなかった言葉を、指定の教科書から確かめ直すつもりだった。
キーノが向かいの椅子を引き、表紙を見る。
「今日は、教科書か」
「ええ。盾の作り方を知る前に、何から身を守るのか、こちらも読んでおこうと思いまして」
「先に難しい方へ手を出したんだろ」
「質問することは増えましたね」
鬼太郎は開いていた頁へ紙を挟んだ。
銃弾を止める防壁へ、また正面から撃ち続けても仕方がない。相手の詠唱を知れば、狙いを早く見分けられるだろうか。知らない呪文なら、何を見るべきか。
欄外へ勝手な答えを書き込む代わりに、別の紙へ疑問を残した。
「キーノさんは、何を読みました?」
「これ。まだ、最初の方だ」
机へ置かれたのは、ミランダ・ゴズホークの『基本呪文集(一学年用)』だった。表紙を開き、紙を挟んだ場所を探す。
「後で、分からない言葉を聞く」
「僕も同じ本を持ってきます。食べてからにしましょう」
食後に並んだ二冊は、同じ著者の同じ教科書だった。
鬼太郎は先の方へ目を移しかけ、キーノが指を置いた所へ戻る。
「まだ、ここだ」
「では、その言葉から」
意味を言い換えると、彼女は自分の紙へ短く書いた。それから机の端にある松の杖を見る。
「同じ言葉を言っても、借りた杖と今の杖じゃ違っただろ。本にある通りに言えれば、それでいいわけじゃないんだな」
「僕の光も、黒檀を持つ前は小さいままでした。発音を直せば全部解決する、とも思えませんね」
「じゃあ、何が違うかは、先生に見てもらうのか」
「ええ。言い方なのか、杖の動かし方なのか。できなかった理由まで、自分たちで決めてしまわない方がよさそうです」
鬼太郎は紙へ、杖を替える前後の光の違いを書き足した。次の授業までにできるだけ多く試す、という予定にはしなかった。
キーノは『変身術入門』も机へ持ってきていた。エメリック・スイッチの名がある本を重ね、二冊の厚みを比べる。
「同じ杖で、光を出すのも、物の形を変えるのも習うのか」
「校長が木片を動かした時も、何をしているかまでは分かりませんでした」
「お前が撃って動かすのとは違うからな」
「それなら、動かす前に壊れることもありますね」
「だから、本の話をしてるんだろ」
キーノは呆れたように言い、開いていた方の頁へ戻った。
杖は二本とも、机の端へ置いたままだった。
読めたことと、使えることの間に、まだ確かめるものがある。その分を尋ねる相手がいるのも、学校へ行く理由の一つだった。
数日後、校長から知らせてきた来訪の日になった。
鬼太郎は午前の練習を入れず、主棟の小部屋へ椅子を運んだ。左腕は上へ伸ばすとまだ重いが、机を動かすほど無理をしなければ、暮らしには困らなくなっている。
キーノは松の杖と、入学について渡された紙を持ってきた。
「帳面は、使わないのですか」
「今日は、こっちで足りる」
彼女が示したのは、別の羊皮紙だった。聞きたいことが短く並んでいる。
鬼太郎は読もうとせず、椅子をどちらへ置くか尋ねた。
「窓の前は、空けとけ」
「眩しいから?」
「顔が、見えにくくなる」
言われて向きを変える。机越しに座る者の顔へ、横から光が当たる場所になった。
出迎えは、砦近くの浅瀬だった。
校長の隣には、口金のついた鞄を持つ女性が立っている。彼女は水辺から門までの足元を見て歩き、挨拶をする時には、まずキーノへ目を向けた。
「ポンフリーです。ホグワーツで、生徒の健康を預かっています」
「キーノだ。部屋は用意した」
「ありがとう。案内してもらえるかしら」
キーノが先に立つ。
鬼太郎は校長と並んで、少し後ろからついていった。
◆
ポンフリー夫人は鞄を机へ置いたが、留め金には手を掛けなかった。
キーノは立ったまま、彼女が椅子を引くのを見ていた。
「先に、今日することを説明しますね」
普段の暮らしと、困っていることを聞く。診察の魔法で身体の状態を確かめる。使い慣れた呪文を試し、杖を使う時に無理がないかを見る。
説明の間、夫人はキーノの手や肩へ触れようとしなかった。
「学校で生活するために、必要なことを知りたいの。分からないことは、その都度聞いてください」
「何を書いて、誰に渡す?」
キーノは用意した紙を見ずに尋ねた。
「詳しい診察の記録は、私が管理します。校長へは、通学の妨げがあるかと、必要な配慮を伝えます。教師へ知らせることがあれば、その内容もあなたへ説明します」
「身体のことを、教室で話すのか?」
「皆の前で話すための記録ではありません」
夫人は机へ、記録用の羊皮紙を置いた。
「血筋については、校長から聞いています。詳しく知る必要のある者を、むやみに増やすつもりはありません」
「傷をつけて、戻るか見るのは?」
「しません」
短い返事だった。
キーノは鞄へ目を戻す。
身体を確かめたいと言う大人は、前にもいた。どこまで切れば、どのくらいで戻るか。客に見せるまでに間に合うか。
今度は違うと言われても、まだ、何も見ていない。
「途中で止めろと言ったら?」
「止めます。嫌な感じがしたら、我慢せず教えてください。理由を話せるなら、それも聞かせてほしいわ」
キーノは校長を見る。
「前にした約束も、変わってないな」
「変わらんよ。ここで、説明していない確認を勝手に付け足すこともせん」
鬼太郎は窓の横にいた。
口を挟まず、二人の返事を聞いている。
「こいつは、いていいか」
顎で示すと、ポンフリー夫人は鬼太郎を見るより先に、キーノへ答えた。
「あなたがいてほしいなら」
「なら、いてくれ」
「ええ」
鬼太郎が椅子へ近づきすぎないのを見てから、キーノは腰を下ろした。
「受ける。今、説明した分を」
夫人が鞄を開いた。
質問は、一つずつだった。
よく眠れるか。食事の後に具合が悪くならないか。今、痛む所や、毎日することで困るものはないか。
眠りについて聞かれ、キーノは少し考えた。
今の部屋のことなら、答えられる。檻で眠った夜まで思い出せば、言葉が多すぎた。
「今の暮らしで、ということでしょうか」
鬼太郎の声がした。
「そうです。以前との違いも大切ですが、まずは今の状態を」
「それなら――」
「私に聞いてる」
キーノはそちらを見た。
鬼太郎が口を閉じる。
「失礼しました」
自分で答えるまで、待っていた。
「今は、眠れる。食べる物もある。前にいた所と同じじゃない」
ポンフリー夫人は、答えた分だけ書き留めた。
前の場所で何をされたか、全部話すようには言わなかった。聞き返す時も、今の生活で何が変わったかを確かめるためだった。
キーノは少しずつ、机の角から手を離した。
次に夫人が示したのは、左の手首だった。
「ここに触れてもいいかしら。その後、診察の魔法を使います」
キーノは右手に松の杖を持ったまま、左腕を伸ばした。
指が触れる。
反対の手にある杖を目で追った。
「痛みは出ないはずです。何か変だと思ったら、すぐ言ってね」
「分かった」
淡い光が袖口へ浮かんだ。
キーノは腕を見ていた。押さえつけられていない。引けば、戻せる。
そう思っても、息は浅くなった。
夫人は杖を動かす途中で止めた。
「一度、休みましょうか」
「……痛くはない」
「痛いかどうかだけではないの。続けるか、少し待つか」
キーノは、自分の手首と夫人の指を交互に見た。
「手を、離してくれ」
指が離れる。
光も消えた。
しばらく、誰も次を始めなかった。
キーノは左手を握って開き、息を吐いた。鬼太郎を見ると、彼もこちらを見ていたが、代わりに返事をする気配はなかった。
水を一口飲む。
止めたからといって、怒鳴られない。診察が続けられなくなったとも言われない。
「もう、いい。続けてくれ」
自分から腕を出した。
夫人はもう一度、触れる場所を示してから始めた。
今度も、痛みはなかった。
終わって手が離れた時、キーノは初めて背を椅子へ預けた。
杖の確認では立ち上がり、自分で松を構えた。
「光を出すのと消すのだけだ」
「それで構いません。使う時に、身体がどう感じるかを教えてください」
「ルーモス」
光が灯る。
店で選ばれた時と同じ、揺れない明るさだった。
知らない手に触れられる時とは違った。柄は自分の指へ収まり、少し動かせば先端もその通りに動く。
「どこか痛んだり、気分が悪くなったりは?」
「ない」
「では、消していいわ」
「ノックス」
消えた光を見てから、キーノは杖を下ろした。
夫人が最後の一行を書き、記録を机の端へ寄せる。
「今日確かめた範囲では、毎日の授業を受ける妨げになるものは見当たりません」
キーノは聞き返しかけた。
だが、夫人は続けた。
「暮らし始めてから気づくことも、あると思います。その時は医務室へ来てください。大きな怪我をしてからでなくていいの」
「あんたが、いるのか?」
「ええ。授業や生活の中で気になったことも、相談してください」
キーノは松の杖を箱へ戻した。
診察は、それで終わった。
◆
鬼太郎は、夫人が診察の記録を別の封筒へ入れるのを見ていた。
校長へ差し出されたのは、キーノが授業を受けられるという説明と、学校で様子を見ながら相談していくことだった。
途中で触れられるのを止めたことへ、校長は何も言わなかった。
代わりに、別の羊皮紙を机へ広げる。
「では、こちらを確かめよう」
キーノ・ファスリス・インベルン。
名前のある書面へ、キーノが椅子を寄せた。鬼太郎は横へ回らず、彼女が読める位置を空けて立つ。
「今日の確認で、残っていた条件は満たされた。学校で守る規則と、こちらが約束することをまとめてある」
キーノは一行ずつ追った。
独立した一人の生徒として受け入れること。吸血鬼との混血であることだけを理由に、在籍を取り消さないこと。身体に関する情報は、生活と医療に必要な範囲で扱うこと。
読めない言葉を尋ねられるたび、校長は意味を言い換えた。
鬼太郎なら先に説明できた箇所もあったが、黙っていた。先ほど、自分へ向けられた質問ではないと注意されたばかりだった。
「こいつが学校を辞めても、私の話は消えないんだな」
キーノがこちらを見る。
校長は即座に答えた。
「消えんよ。鬼太郎の付添人を入学させるのではないからの。君自身が続けたいなら、この子が辞めることは退学の理由にならん」
鬼太郎は、キーノの目を見返した。
自分が学校で得たいものも、砦へ戻りたい理由も知っている相手が、それでも確かめている。
「僕からも異存はありませんよ」
「お前の許可は、聞いてない」
「ええ。今度は、僕の意見です」
キーノは一度だけ鼻を鳴らし、書面へ戻った。
最後まで読み終えると、校長は羽根ペンを机へ置いた。
「キーノ。君は、ホグワーツへ入学したいかね?」
既に、何度も話してきたことだった。
必要な物を揃えるために、横丁へも行った。検査の日を待ち、聞きたいことまで紙へ書いた。
それでも、校長が返事を待っている相手は鬼太郎ではなかった。
「行きたい」
キーノが答えた。
「私が、学びたい」
「うむ。では、ここへ」
ペンを受け取った指は、すぐには動かなかった。
キーノは署名する場所を確かめ、インクをつけ直した。一文字ずつ書く間、校長も鬼太郎も急かさない。
名前を書き終える。
校長も自分の署名を入れ、彼女の分を揃えて渡した。
「ホグワーツで待っておるよ」
キーノが顔を上げた。
書面を受け取ったまま、口を少し開いている。
次に紙を見た時、指がその端を強く挟んだ。
「……ああ。行く」
鬼太郎はその横顔を見ていた。
入れてもらうために、代わりの言葉を選ぶ必要はもうなかった。
ポンフリー夫人は、校内で医務室を訪ねる時のことを少し話した。キーノは書面を手にしたまま、場所の説明を聞く。
その間に、校長が鬼太郎へ顔を向けた。
「サーシェスの契約と帰還の道は、別に時間を取ろう。今日は、この返事を持ち帰る」
「お願いします」
鬼太郎は自分の左肩を一度回し、途中で止めた。
校長の眉が上がる。
「そちらも、無理をせぬように」
「今日は、何もお願いしていませんよ」
「お願いされる前に言っておる」
キーノがこちらを見たので、鬼太郎は腕を下ろした。
◆
二人の客を見送った後、キーノは自分の部屋へ戻った。
書面を机へ置く。
紺色の帳面を開いた。名前の少し下へ、今度は迷わず書けた。
ホグワーツ。
インクが乾くのを待つ間、何度もその字を見た。
扉を叩く音に顔を上げ、帳面を閉じる。
「入っていいぞ」
鬼太郎が顔を出した。
「水を、こちらへ置いても?」
「そこ。紙から離せよ」
机の空いた所へ水差しが置かれる。彼の目が書面へ向いたので、キーノはその端を自分の方へ寄せた。
「帳面は見るな」
「承知しています」
何を書いたか、尋ねてこなかった。
「学校では、飯も一緒に食べるのか?」
「生徒が集まる場所はあるようですが、どんな食卓かまでは知りません」
「教室は?」
「まだ見ていませんよ」
「お前も、知らないんだな」
声に笑いが混じった。
鬼太郎が何でも知っているとは思っていない。それでも、分からないことを尋ねる相手になることが多かった。その鬼太郎も、学校の中では、初めて見る物を前に立ち止まるのだろう。
「行けば、分かるか」
「ええ。聞く相手も増えます」
先生に聞ける。
同じ本を持つ子供がいる。
間違えたら、それを覚え直すために、また次の授業へ行く。
まだ知らない場所のことを考えるたび、次の問いが浮かんだ。
キーノは立ち上がり、畳んでおいたローブを取った。
「着てみる。外に出ろ」
「分かりました」
扉が閉じる。
袖へ腕を通し、裾を整える。学校の本を一冊持ってみた。重みが肘へ掛かる。杖を手に持ったままでは扉を開けにくくて、一度しまった。
部屋を半周し、歩いても裾を踏まないことを確かめた。
店で買った服を着ているだけだ。
けれど、もう、行けるか分からない場所の支度ではなかった。
キーノは扉の前へ立った。
外で待つ鬼太郎に、見せてやろうと思った。
口元が緩んでいる。直そうとして、やめた。
左手に本を抱え、右手で扉を開けた。