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第64話 折れ口の向こう
サーシェスは、門をくぐる前に荷物を下ろした。
靴底を石へ擦りつけ、こびりついた泥を落とす。中から出てきたキーノがその手元を見ると、男は片方の眉を上げた。
「言われる前にやってるだろ」
「そこに積んだ泥も、道の端へ寄せとけ」
「前は、どこへ捨てても同じような床だったんだがな」
「掃除したからな」
鬼太郎は食堂の窓から二人を見ていた。
男が町の仕事へ出ている間に、主棟の扉が一枚直った。屋根材の置場も変わっている。どちらも、帰ってきた者へ説明する必要がある程度には、前より暮らせる場所になっていた。
机には、学校との契約案が広げられていた。
鬼太郎の教科書はその隣にある。サーシェスが椅子を引くと、先に自分の本を片づけた。
「爺さんは?」
「もうすぐです。今日は、こちらのお話から」
「お前が読むんじゃねえぞ」
「サーシェスさんの契約ですから」
男は案を手元へ寄せた。
鬼太郎も、自分が何を頼めるようになるのかは気になる。だが、学校と男の間へ入る名前は、自分のものではなかった。
校長は約束した頃合いに来た。
茶を受け取るより先に、サーシェスが書面の一行を指で叩く。
「依頼を受けた後の、変更の扱いだ」
ダンブルドアが向かいへ座った。
「内容と報酬は、その都度示す」
「受けてから、話になかった相手や仕事が増えたら? 断れば、俺が放り出したことになるのか」
校長は示された行を読み直した。
「その書き方では、そうも取れるの」
「取れるようにしておいたのか?」
「今、直すと言うておる」
「まだ言ってねえぞ」
校長は羽根ペンを取り、変更には双方の合意が必要だと書き加えた。サーシェスはそこだけでなく、前後の文も読み直す。
「これならいい。依頼がなきゃ、待ってる義務はねえな」
「常勤の職員として雇うわけではない。他の仕事を受けるのも構わん。ただし、ここにある学校との約束は守ってもらう」
学校の内情や、依頼で知った生徒の情報を売らない。
無断で校内へ入り込まない。生徒を別の仕事へ利用しない。
サーシェスは先に報酬と禁止事項を読み、それから最初へ戻った。校長は茶を飲み、鬼太郎は二人の顔を見ていた。
条件を曖昧にしたまま強い者へ頼めば、使いたい時ほど話が変わる。それは男を雇った時から、知っていたことだった。
「俺が断った仕事を、坊主との契約へ混ぜるなよ」
「そちらは、君たちの間の取り決めじゃ。学校の依頼を引き受けたことにはせん」
「なら、いいぜ」
男がペンを取る。
署名は小さく、読みやすい字だった。校長も名を入れ、同じ内容の書面をそれぞれ受け取った。
「残念だったな、坊主。俺に命令できる口が増えたわけじゃねえ」
「必要でしたら、これまでどおり相談しますよ」
「高い仕事もあるぞ」
「見合う相手なら、考えます」
「そちらの相談は、わしがおらぬ時にしてくれんかね」
校長は自分の書面を揃え、鞄へしまった。
◆
門の内側に、荷も資材も置かない空間を作った。
鬼太郎たちがいない間も、そこへ物を積まないよう、使う者へ知らせてある。ヴェリナは置場を変える必要のあった者と話し、今日は片側へ板を寄せていた。
「戻ってくる人が、ここへ落ちてくるのね」
「毎回、落ちるつもりはありませんよ」
「最初は、分からないでしょう」
鬼太郎は返事を考え、何も言わずに空いた地面を見た。
ダンブルドアが取り出したのは、金属の輪だった。
鬼太郎へ渡し、もう一つをサーシェスへ向ける。
「鬼太郎の分には、キーノも同行できる。サーシェスの分は別じゃ。行き先は、ここから学校の外に定めた場所まで。その逆も同じ」
「駅や、横丁へは?」
キーノが尋ねた。
「行けん。この二地点を結ぶための物じゃ」
校内へ直接出る道でもない。学校側の発着場所からは、自分の足で出入りする必要がある。
鬼太郎は輪の内側へ指を入れた。
これを持っていれば、南へ森を抜け、町で次の足を探す旅を毎回繰り返さなくて済む。ヴェトルが飛べる日を待たなくてもよい。
だからといって、彼の運搬が要らなくなるわけではなかった。町への用も、資材を運ぶ仕事も残る。この輪が知るのは、二つの場所だけだ。
「使う前の連絡と、学校での申請は忘れぬこと。授業や行事を放って、勝手に帰ってよい許可ではないぞ」
「分かっています」
「渡した相手以外へ貸すのも、認めん」
キーノは、輪より先に利用の日を書いた紙を見ていた。
「帰っている間も、学校の課題はあるんだろ」
「出されておれば、持ち帰って取り組むことになるじゃろうな」
「なら、帰る度に何を持つかも変わるな」
彼女は本と服の入った鞄を見た。今ここにある物を、毎回全部運ぶ必要はない。学校へ置く物と、砦へ残す物を、自分で決めるつもりらしかった。
「僕の本を、代わりに運んでいただく予定はありませんよ」
「当たり前だ。私の荷が先だ」
鬼太郎は頷いた。戻ってきた後も、二人が同じ時間を同じ仕事へ使うとは限らない。
サーシェスは自分の分を確かめ、上着の内側へしまう場所を選んだ。
「こいつが持ってりゃ、俺が迎えに来る必要はねえんだな」
「鬼太郎たちの帰還に、君の同行を条件とはせん」
「なら、帰りの日に俺を当てにするなよ」
「ええ。そちらはそちらの仕事を」
鬼太郎は輪を握り直した。
説明が終わると、校長は一度、学校側へ移った。向こうで到着を確かめるためだった。
こちらに残った三人は、教えられた手順をもう一度確かめる。
鬼太郎が輪を持ち、キーノが同じ輪へ手を添えた。サーシェスは別の分を使う。
指が触れている位置を見てから、キーノが顔を上げた。
「離すなよ」
「そちらも」
返事をした途端、腹の奥を引かれた。
足元がなくなる。
握った輪は手にあるのに、身体の方がそこへ引っ張られていく。風を切る感触と、地面を探す足の動きが噛み合わなかった。
次に靴底が触れたのは、砦の土ではなかった。
鬼太郎は二歩進み、片膝をつきかけて踏み止まった。左の脇腹を庇いすぎ、右足へ重さを寄せている。
キーノは低くしゃがみ、輪から手を離す前に、もう片方の手を地面へついていた。
「止まってから離すのじゃ」
校長の声がした。
サーシェスも少し離れた所へ到着し、靴底で地面を擦った。
「……これに、毎回金を払う奴がいるのか?」
「今、金を取りたいのはわしの方じゃよ」
「乗り心地に文句を言っただけだ」
鬼太郎は息を整えて、周囲を見た。
校長が示した範囲の外へは出ない。学校はこの先にあると説明されたが、今日はそこへ向かう日ではなかった。
到着した者と荷、物の落下がないかを順に確かめる。
キーノは自分の松の杖へ手をやり、それから鞄の留め具を押した。
「揃ってる」
「僕もです」
鬼太郎は輪を持った手を下ろした。左肩を捻らずに済んだことより、今来た道の長さが足元へ残らないことの方が不思議だった。
帰りは、着く前に脚を揃えすぎないようにした。
それでも、砦の地面へ戻った時には、二人とも一歩ずつ余計に進んだ。
待っていたヴェリナが、板を寄せた方を見てから言う。
「空けておいてよかったでしょう」
「ええ。もう少し、こちらまで何も置かない方がよさそうです」
鬼太郎が示すと、彼女は印に使う石を動かした。
校長が戻り、往復で問題がなかったことを確かめた。使用する者と発着場所を記した書面にも、試験の結果が加わる。
輪は回収されなかった。
鬼太郎は、鞄の取り出しやすい所へ収めた。
学校へ持っていく物が、また一つ増えた。戻るための物だった。
◆
少し休んでから、鬼太郎は黒檀の箱を取りに行った。
キーノの入学書面と、二人分の帰還の道。今日まで待っていた話が済んだところで、ようやく自分から尋ねる。
「一つ、教えていただけますか」
「何を考えておる?」
「レパロです。壊れた物を直す呪文と聞きました。砦にも、直したい物はあります」
校長は門と主棟の壁を見た。
「初めから砦を直すつもりなら、順番が逆じゃな」
「小さな物から、お願いします」
鬼太郎は短い枯れ枝を見つけ、机の上へ置いた。乾いていて、指で曲げると中央から折れた。
黒檀を右手で取り出す。
長い先端を隣の者へ向けないよう、肘を少し引いた。以前の軽い借り物と同じつもりで動かせば、先が余計に振れる。
「まずは置いて、見ておくれ」
校長の杖が、二つになった枝へ向く。
「レパロ」
折れた先が寄った。
互いに噛み合う位置へ戻り、間にあった裂け目が消える。校長が持ち上げると、枝は一本のままだった。
鬼太郎は接ぎ目のあった所へ顔を近づけた。
「どんな物でも、同じように戻せるのですか?」
「物を直す呪文じゃが、万能ではない。強い魔法で壊された物など、直せぬ場合もある。今日の枝が戻ったからといって、杖や魔法の道具まで同じに扱ってはいかんよ」
黒檀を買った店で、割れた杖を職人が別にした理由も、これ一つで片づく話ではないらしい。
「傷には?」
「治療の代わりに使ってはいかん」
即答だった。
鬼太郎は自分の左肩ではなく、机の枝へ目を戻した。
校長はもう一度、枝を折った。二つの折れ口を見せてから、机へ置く。
「これと、別の木を繋ぐ練習ではない。今壊れた、この枝を戻す。どこがどうなっていたかを、先によく見ておきなさい」
鬼太郎は折れる前の枝を思い出した。
細くなる向きと、横へ出た小さな節。切れ端だけ見れば似ていても、裏返せば折れ口の形は合わない。
発音を聞き、杖の動きを見せてもらう。
そのまま真似をしようとすると、黒檀の重さで先が下がった。
「大きく振る必要はない。まず、力まずに持てる位置へ」
右肘を寄せる。
左腕で支えず、先端を狙った所へ戻した。
「レパロ」
枝の片方が震えた。
少し転がり、止まる。
「今、動きました」
「うむ。続けて勢いを足す前に、どこを見ておったか考えてみなさい」
鬼太郎は一度、右手を開いて柄を持ち直した。
アギなら、掌の前へまとめた力を放つ。だが、枝のある所を焼くのと、折れる前の一本へ戻すのとでは、考えることから違っていた。
同じように狙えば、同じように起きるわけではない。
「呪文を言ってから、動かなければ力を足す、では遅いのですね」
「足りぬ理由が、力の量とは限らんからの。動かす先だけでなく、直したい物を見ておくれ」
鬼太郎は先端を見ていた。
動いた後には、折れ口より、転がった枝の方へ目を向けていた。一本へ戻すより、どれだけ動くかを確かめようとしている。
二度目は、二つの節の位置を先に見る。
「レパロ」
両方が寄った。
だが、繋がらない。片方が横倒しになり、もう片方の下へ潜り込む。
鬼太郎は杖を下ろしてから、枝を離した。力で押し合わせても、折れ口は別の方を向いていた。
「戻った形を、途中で見失いました」
「直した後を考えられるなら、途中も見ておくことじゃ」
校長が枝を元の位置へ戻す。
三度目には、二つの端が噛み合った。
鬼太郎はすぐには持ち上げなかった。杖を下ろし、枝を机に置いたまま軽く転がす。
一本で動いた。
「……繋がっていますね」
右手で持ち上げて、反対側から見る。小さな節は、折る前と同じ側へ出ていた。
キーノが向かいから手を伸ばす。
「見せろ」
渡すと、彼女も両側を見て、接ぎ目へ指を当てた。
「分からないな。触っても」
鬼太郎は返された枝を、少し長く見ていた。
火と風なら、元の物を壊す方が早い。だが、今は壊れる前の形へ戻った。それを自分の手で起こせた。
「次も、同じようにできるかね?」
校長の問いに、鬼太郎は枝を下ろした。
「試します」
次は、片方だけが寄った。
キーノが小さく息を漏らす。笑われたことは気にならなかった。先ほどとどこが違ったかを、まだ自分でも言えない方が気になる。
校長はしばらく見ていたが、成功と失敗が混じるうちに、机の枝を取り上げた。
「今日は、初めて形になったところまでにしよう。疲れてから同じ持ち方を続けると、余計な癖も覚える」
右の手首に重さがあった。
鬼太郎は指を開き、黒檀を箱へ戻した。
校長はキーノへも顔を向ける。
「見て分からなかった所は、今聞いておくとよい。自分で試す時には、別に手元を見よう」
「枝が寄るのと、繋がるのは違うんだな」
「そうじゃ。動いたから完成、とは限らん」
キーノは手元の紙へ短く書いた。松の杖はまだ、箱の中にあった。
◆
校長が帰った後、鬼太郎は習った手順を紙へ残した。
最初に直せた一本。その後に、同じようには寄らなかった一本。
成功した回数だけを数えても、使える場面は増えない。折れ口をよく見るという言葉の横へ、自分が見ていた節の位置を描き足した。
窓の外では、サーシェスが自分の荷を確かめていた。学校と契約した日の夕方にも、次の町の用はなくならない。
「明日は、外へ出るぞ」
「承知しました」
「輪を手に入れたからって、いなくなった俺を呼べると思うなよ」
「そのような使い方は教わっていませんよ」
男は笑い、荷の口を閉じた。
キーノは自分の本を読みながら、時折、鬼太郎の紙を見ていた。
「谷へ行く日を決めたのか?」
「まだです」
今のレパロでは、小枝でも結果が揃わない。あの大きな身体の前で同じように立ち止まれば、枝が動くより先に牙が来る。
鬼太郎は直した枝の両端を見た。
もし、寄る二つの間へ、別の物があったら。
枝が元へ戻る力は、挟まれた物をどう動かすのだろう。
「今、何を考えた?」
「直す途中も、見ておくように言われましたから」
「その答え方は、別のことも考えてるだろ」
鬼太郎は紙の下へ、次に確かめたいことを書いた。
間に物を置いた時。折れ口の向きを変えた時。離れている距離を増やした時。
まだ試していない欄は、空けておく。
「今日は、もう試しません」
「なら、その枝もしまえ」
鬼太郎は言われたとおり、机の端へ枝を寄せた。
輪の入った鞄が、椅子の下にある。
帰る道は、もう確かめた。次に学校へ向かう時までに、手の中の杖で確かめておきたいことが、いくつも残っていた。