盤上にない色
第六十三話 盤上にない色
神を殺せし魂は、墓場を越える。
その言葉を、アルバス・ダンブルドアは一度も忘れたことがなかった。
◆
ホッグズ・ヘッドの二階には、酒と埃の臭いが染みついていた。
シビル・トレローニーが最初の予言を告げた直後、扉の外にいた何者かは、階下の店主に見つかって連れ去られた。
闇の帝王を打ち破る可能性を持つ子供。
七月が終わるころ、三度彼へ抗った者たちのもとに生まれる者。
一つ目の予言を終えたシビルは椅子へ沈み、自分が何を口にしたのかも知らずに瞬きをした。
ダンブルドアが答えようとした時、彼女の背筋が再び伸びた。
眼鏡の奥から焦点が消える。
一度目とは違う声だった。
低いというだけではない。人の喉を通っていながら、息遣いも、迷いも、感情もない。歯車が定められた文を読み上げるような、抑揚のない声だった。
「――神を殺せし魂は、墓場を越える」
ダンブルドアは息を止めた。
「敗れてなお屈せず、選ばれず、従わず、定めの外より還り来る」
窓の外で、風が鳴った。
「古き魔法の血を引きながら、その力を持たぬ父と、日の昇る国より来た母。その間に、定めの外なる子は生まれる」
機械じみた声には、最後まで何の感情も宿らない。
「白にも黒にもなれる者を、仲間と思うな。一人は闇に選ばれ、一人は神を拒む。二つの道が交わるとき、魔法の世は、墓場より還りし者の望みを知るであろう」
シビルの頭が、力なく垂れた。
今度こそ、部屋に沈黙が戻った。
「校長先生?」
二度目の予言も、彼女は覚えていなかった。
一つ目には、少なくとも目を向けるべき敵がいた。
闇の帝王と、その敵になり得る子供。
だが、二つ目には敵も味方も記されていない。
神を殺し、敗れ、定めの外から還る魂。
白にも黒にもなれる者。
そして、仲間と思うなという警告。
何よりも、古き魔法の血という言葉が胸に残った。
それが自分と無関係だと、ダンブルドアには思えなかった。
◆
長い調査は、一本の細い枝へ行き着いた。
ダンブルドア家から遠く分かれ、英国を離れた血筋。
その末裔の一人は、魔法族の血を引きながら魔法を使えないスクイブだった。男は、予言にあった日の昇る国から来た女性と結ばれた。
二人の間には、英国で一人の男児が生まれた。その後、一家はブルガリアへ移り住んだ。
墓場鬼太郎。
闇の帝王を打ち破る可能性を持つ子供と同じ年に生まれた、ダンブルドア家の遠い血を引く子供。
だが、それだけだった。
魔法族の家系を数代遡れば、遠い親類など珍しくない。父親がスクイブで、母親が日本人である子供も、世界にただ一人とは限らない。
予言は名を告げなかった。
額に印を残す者も、闇の帝王から直接選ばれる者も示さなかった。
その後、ブルガリアの家は焼けた。
両親は死に、幼い息子の行方は分からなくなった。
焼けた家から、子供の死を確定できるものは見つからなかった。
ダンブルドアは名を記録へ残した。
それから、年月が過ぎた。
◆
英国の裏側に、奇妙な子供が現れた。
最初の報告を受けた時、ダンブルドアはまだ笑っていた。
外国訛りを残す幼い少年。
小型の拳銃を持ち、杖を使わずに炎を生み出す。
魔法使いと争っても、未成年魔法使いを見張る仕組みには何も残らない。
噂だけなら、いくらでも膨らむ。
裏社会には、自分の商品を高く見せるために呪いの名を足す者も、子供に敗れた恥を隠すために怪物を作る者もいる。
しかし、年齢と出自は無視できなかった。
ダンブルドアは、机の引き出しに眠っていた古い記録を取り出した。
墓場鬼太郎。
家が焼けた後、行方の分からなくなった子供。
可能性はある。
だが、脅威と決めるには早い。
トム・リドルを孤児院へ訪ねた日のことを、ダンブルドアは思い出した。
他の子供を怖がらせ、傷つけ、奪った品を箱へ隠していた少年。
自分が特別であることを、歓喜とともに受け入れた子供。
あの時、異質さには気づいていた。
力を見せて従わせることはできた。盗んだ物を返すよう命じることもできた。
だが、恐れさせることと、導くことは違った。
そして自分は、その違いを埋められなかった。
失敗は認めている。
しかし、同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。
あの頃から、さらに長い年月を生きた。
多くの生徒を見た。
善意が人を傷つける時も、厳しさが人を救う時も、正しい言葉が届かない時も知った。
そして今の自分には、かつて以上の経験がある。
最悪の場合には、それを止める力もある。
机の脇に立てかけた杖へ、視線を向ける。
ニワトコの杖。
決して口にはしないが、正面から自分を打ち破れる魔法使いは、そう多くない。
相手は、まだ十歳にもなっていない子供だった。
ダンブルドアは、銀の髭を撫でた。
「トムの時は、上手くできなかった」
失敗から学べぬほど、耄碌したつもりはない。
今度は性急に決めつけず、まず観察する。
望むものを知り、必要なら正しい場所へ導く。
それでも他者を害するなら、その時は止めればよい。
「まあ、今のわしなら、もう少しましにやれるじゃろう」
その時点では、そう考えていた。
◆
茶色い外套の調査員へ命じたのは、観察だけだった。
接触しない。
試さない。
挑発しない。
捕らえようともしない。
調べるのは、少年が何を望み、何を恐れ、何を守り、誰の言葉なら聞くのか。
そして、噂から誇張を取り除くことだった。
報告は、一度に届かなかった。
異なる仲介人。
名を明かさない依頼人。
魔法界の故買屋。
マグル側の運び屋。
いくつもの経路から集められた断片を、ダンブルドアは一つずつ分けた。
盾の呪文を拳銃で正面から撃ち抜く。
証拠なし。
視線だけで数人を狂わせる。
複数の証言はあるが、条件は不明。
呪いが一切効かない。
反証あり。
一夜で十人以上を殺した。
人数も場所も一致しない。
噂は捨てた。
複数の報告で一致した事実だけを、別の紙へ移す。
少年は、小型拳銃と杖を使わない炎を持つ。
成人の魔法使いを相手に生き残っている。
未成年魔法の探知には反応しない。
マグルと魔法使い、双方の裏社会で仕事を受ける。
条件と報酬を確認し、受けた仕事は高い確率で完遂する。
そして、人を殺す。
六歳ほどの頃から。
その一行で、ダンブルドアの羽根ペンが止まった。
子供が誰かを死なせることはある。
恐怖に駆られて。
怒りに我を忘れて。
制御できない魔法を暴発させて。
だが、集まった報告に記されていたのは、それとは違うものだった。
鬼太郎は、必要な情報を持つ相手を生かした。
案内役が要る時には、敵を殺さなかった。
引き渡し条件に生存とあれば、危険を増やしてでも対象を生かした。
反対に、生かす理由がなく、こちらを殺そうとする者には発砲した。
怒りで前後を失ったのではない。
相手の命を奪うことを理解したうえで、それが最も損失の少ない手段なら選んでいる。
ダンブルドアは椅子へ深く座り直した。
トムは、幼い頃から残酷だった。
自分が他者より優れていると確かめたがった。
恐れられることを喜び、所有した証として盗品を残した。
認められたい。
支配したい。
特別でありたい。
そして何より、死にたくない。
歪んではいても、その欲望は人のものだった。
鬼太郎は違う。
金は求める。
だが、暮らし、武器を整え、次の目的へ進むために必要な分を量っている。
名を売ることは利用する。
だが、称賛も畏怖も求めていない。
組織へ属することを拒む一方で、自分が組織の頂点へ立とうともしない。
敵を殺すことにも、生かして使うことにも、同じように理由を求めていた。
「感情がない、ということではない」
ダンブルドアは、誰もいない校長室で呟いた。
報告には、少年が楽しそうに強敵を選んだ例がある。
両親の遺品と見られる拳銃を、他の武器と分けて扱うともある。
気に入った者を近くへ置こうとする兆候もあった。
感情はある。
ただし、その感情も、人の命も、ダンブルドアが知るものとは異なる秤に載せられている。
衝動だけで動く子供なら、衝動の向きを変えられるかもしれない。
正しいことを知らない子供なら、教えることもできる。
だが、鬼太郎は考えた末に選んでいる。
自分なりの価値を置き、自分なりの合理性によって、人を殺している。
価値観が違う。
少しではない。
善悪のどちらへ傾いているかを測る以前に、同じ秤を使っていない。
ダンブルドアは、机の上に置いたトム・リドルの古い記録へ目をやった。
「お主の方が、まだ分かりやすかったとはのう」
苦い息が漏れた。
「可愛げさえあったように思えてくる」
自分で口にしておきながら、まったく笑えなかった。
◆
やがて、茶色い外套の調査員自身が報告の中心になった。
淡い色の髪をした少女が、外套ではなく左袖の擦れと歩き方から、変装後の同一人物を見抜いた。
少女の名は、キーノ。
見世物小屋で売られていた子供。
傷の塞がる異質な身体を持つという。
鬼太郎と同じ建物に住んでいるが、同じ部屋ではない。
自室の鍵を持ち、自分の報酬を受け取り、自分で仕事を選んでいる。
捕虜ではない。
救われた恩で服従しているとも言い切れない。
もう一人は、サーシェス。
魔法を使わない傭兵。
鬼太郎の部下ではなく、依頼ごとに条件と報酬を決める独立した契約相手。
調査員を捕らえなかった鬼太郎は、監視に気づいていないふりをした。
そして、サーシェスが逆に尾行した。
隠された投函口まで辿られたと知った時、ダンブルドアは直接の追跡を止めた。
続ければ、次は報告経路の先まで探られる。
同じ者を使い続ける理由はなかった。
仲介人が耳にした噂。
終わった依頼の結果。
正規に買われた書籍と道具。
一つの線にならない断片へ、監視の形を変えた。
その報告から分かったのは、三人が一つの命令で動く集団ではないということだった。
キーノは、自分の仕事を断れる。
サーシェスは、他の依頼を受けられる。
鬼太郎は二人を同じ契約へ入れていない。
従わせないことが、優しさからなのかは分からない。
だが、使える相手の意思を残した方が、長く、よく働くと理解していることだけは確かだった。
トムなら、力ある者を従わせようとしただろう。
鬼太郎は、離れられる相手が自分の近くを選ぶための条件を作っている。
どちらが扱いやすいか。
考えるまでもなかった。
◆
ダンブルドアは、ニワトコの杖を手に取った。
古い木肌が掌に収まる。
今の鬼太郎と正面から戦えば、自分が勝つ。
集めた報告が正しければ、その判断を覆す材料はない。
少年の炎は危険だ。
拳銃も、魔法使いが軽んじてよい武器ではない。
それでも、積み重ねた魔法とニワトコの杖を正面から越えるほどではなかった。
だが、別の紙には、正面から戦わなかった記録が並んでいる。
鬼太郎は、勝てない場所から退く。
相手の情報を集める。
地形を選ぶ。
罠が疑われる入口には触れない。
自分にできない仕事は、報酬を払って別の者へ任せる。
監視者を見つけても、その場で倒さず、背後を辿ろうとする。
ダンブルドアが敵だと判断されれば、少年が校長室の扉から訪ねてくるとは限らない。
自分がどれほど強くとも、常に隣にいる者を守り、すべての経路を見張り、正体の分からない襲撃を永遠に防げるわけではない。
力で勝てることと、相手を制御できることは違う。
かつて、グリンデルバルドとの決闘に勝った後にも知ったはずのことだった。
ダンブルドアは杖を置いた。
「これは、杖の強さでどうにかする子供ではないのう」
白にも黒にもなれる者を、仲間と思うな。
予言の警告は、鬼太郎が必ず敵になるという意味ではないのかもしれない。
同じ敵へ杖を向けたとしても、同じものを守ろうとしていると思うな。
隣に立ったとしても、同じ道を望んでいると思うな。
それこそが、警告なのではないか。
◆
最後の報告は、薄い一枚の羊皮紙だった。
三人が英国を離れた。
墓場鬼太郎。
キーノ。
サーシェス。
長期の仕事を断り、必要な物資を揃え、それぞれ異なる条件を結んだ後、同じ経路で英国を離れた。
行き先は、報告には記されていない。
だが、購入した地図。
寒冷地用の道具。
魔法生物と欧州の生息域を扱った書籍。
そして、墓場家がかつて暮らした土地。
ブルガリア。
断定はできない。
それでも、戻った可能性は高かった。
英国にいた数年、鬼太郎はホグワーツへ近づかなかった。
ハリー・ポッターを探しもしなかった。
二つの道は、まだ交わっていない。
だから安全だとは、ダンブルドアは考えなかった。
鬼太郎は、まだハリーに興味を持っていない。
ただ、それだけだ。
闇の帝王は消えていない。
ハリーには、いずれ自分の立場と選択を知る時が来る。
それまでに学ぶべきことがある。
得るべき友がいる。
自分で進んだと信じられる道を、用意しなければならない。
その道へ、予言にも計画にも従わない者が入ってくる。
味方として使えるのか。
障害になるのか。
光と闇のどちらにも属さない、第三の勢力となるのか。
遠くから集めた報告だけでは、もう判断できない。
会う必要がある。
だが、今すぐ追えば、監視していた者が自分だと教えるようなものだった。
鬼太郎は、十歳の誕生日を間もなく迎える。
ブルガリアへ戻ったのであれば、まずは新しい場所を見て、自分の足場を作ろうとするだろう。
そこへ、少し遅れて訪ねる。
ダンブルドアは、最初に見せる顔を考えた。
予言を知る者ではない。
監視を命じた者でもない。
ニワトコの杖を持つ決闘者でもない。
遠い血縁にあたる子供を見つけ、魔法の世界と学校について知らせに来た老人。
穏やかに笑い、菓子を好み、少しばかり風変わりで、子供の言葉を急かさずに聞くホグワーツの校長。
嘘ではない。
それもまた、アルバス・ダンブルドアの一面だった。
ただし、最初に見せる面を選ぶだけだ。
鬼太郎がどこまで見抜くかも、その時に分かる。
ダンブルドアは、ハリーに関する記録と、鬼太郎に関する資料を机の上へ並べた。
一人は、闇に選ばれた。
一人は、神を拒む。
ハリーには、歩くべき道を用意できる。
少なくとも、ダンブルドアはそう信じている。
だが、鬼太郎は、用意された道を見つければ、その上を歩く前に、誰が何のために敷いたのかを調べるだろう。
そして気に入らなければ、道ではない場所を進む。
羊皮紙を閉じる。
「トムの方が、まだ分かりやすく、可愛げさえあった」
青い瞳から、笑みが消えた。
「……これは、骨が折れそうじゃのう」
白か。
黒か。
その二つを量る盤上に、墓場鬼太郎という色は、まだ置かれていなかった。