第六十五話 森はまだ、主を持たない
森に最も近い町は、地図で見た時よりも小さかった。
石を積んだ家が、一本の通りを挟んで並んでいる。
宿は一軒。
食料を扱う店が二軒。
馬車の停まる広場から北を見れば、家々の屋根越しに森が見えた。
端は見えない。
低い山をいくつも呑み込み、黒い緑が東西へ続いている。
「あれ全部か」
キーノが言った。
「地図では、そうなっています」
「端が見えないぞ」
「広い森だと聞いていたでしょう」
「聞くのと見るのは違う」
キーノは目を細めた。
その横で、サーシェスは森ではなく町を見ている。
「隠れて暮らすには悪くねえ。誰がよそ者で、誰が何を買ったか、夕方には町中へ広がるがな」
「探す手間も少なくて済みそうですね」
「魔法使いが素直に名乗りゃあな」
もちろん、名乗るはずはなかった。
◆
三人は宿を取った。
荷物を置くと、サーシェスは酒場へ向かい、鬼太郎とキーノは店を回った。
尋ねたのは魔法使いの家ではない。
森で採れた薬草を、誰が高く買うのか。
傷ついた猟犬を、医者より早く治したのは誰か。
夜中に森の方角から戻っても、翌朝には何事もなかったように店を開ける者はいるか。
同じ問いを言葉だけ変えて重ねると、一人の女へ行き着いた。
町外れで薬種店を営む、白髪の老女だった。
店の棚には、乾燥させた草と根、獣脂を詰めた壺が並んでいる。
表から見える範囲に、不自然なものはない。
老女は鬼太郎たちを見ても、客へ向ける以上の反応を示さなかった。
「旅人向けの薬なら、そこの棚だよ」
「森について伺いたいのですが」
「猟師に聞きな」
「普通の猟師が入れない場所についてです」
老女の目が、初めて鬼太郎へ合った。
「何の話だい」
キーノが、外套の内側から杖を少しだけ見せた。
老女は杖を見た。
次に、店の窓から通りを確かめた。
入口の札を裏返し、扉へ鍵をかける。
「奥へお入り」
店の奥には、表へ出せない品があった。
内側から淡く光る茸。
季節に合わない花。
蓋を押さえる紐が、ひとりでに震えている箱。
扉が二度叩かれた。
老女は鬼太郎を見た。
「連れです」
鍵が開き、遅れてサーシェスが入ってくる。その時には、老女はすでに鬼太郎の置いた硬貨を数えていた。
「俺がいなくても見つけたか」
「ええ。そちらは?」
「森の品を町へ流してる奴がいる。表の仲買人を二人挟んで、その婆さんへ繋がった」
「年長者を婆さんと呼ぶんじゃないよ」
「聞こえてたか」
「まだ耳は売ってないからね」
老女は硬貨を布袋へ入れた。
「森へ何をしに行く」
「住む場所を探しに」
老女の手が止まった。
「あそこへ?」
「そのつもりです」
「命を捨てる場所なら、崖の方が近いよ」
「気に入る場所がなければ戻ります」
「その顔は、戻る気のない顔だ」
老女は溜息をつき、机の上へ古い地図を広げた。
描かれているのは森の外周と、そこへ続く道だけだった。
内側は、ほとんど空白になっている。
「森全体に、マグルを遠ざけるものがかかってる。迷った気になって引き返すか、急に用事を思い出す。魔法を知る者なら越えられるが、それで安全になるわけじゃない」
節くれだった指が、地図の北側を叩いた。
「中には魔法生物も、薬になる草もある。それを狙う密猟者もいる。最近は銃を持った連中まで増えた」
「森へ入る魔法使いは?」
「いるさ。だが、あそこへ入る全員が大物ってわけじゃない。獣を縛って切るだけで、自分を強者だと思ってる馬鹿も多い」
サーシェスが鼻で笑った。
「どこにでもいるな、そういう手合いは」
「古い建物が残っているという話は?」
「聞いたことはある。森の奥に、戦で捨てられた砦や見張り台があるとな。場所を知ってる奴は、知ってても他人には教えない」
「十分です」
鬼太郎は地図の外周だけを紙へ写した。
「忠告は売ってない。勝手に持っていきな」
老女が言う。
「森で誰かに会っても、杖を持ってるだけで怯えるんじゃないよ。強い奴ほど、自分の強さを見せびらかさない」
「覚えておきます」
「あんたじゃない。そっちの娘に言ったんだ」
「分かってる」
キーノは不満そうに答えたが、目は地図から離さなかった。
◆
翌朝、三人は町を出た。
北へ続く道は、途中から細くなった。
荷車の轍が消え、人の足跡も減る。
それでも道そのものは森へ向かっていた。
やがて、道端に古い標識が現れた。
矢印は森を避けるように東を向いている。
鬼太郎が森へ足を向けると、頭の片隅へ、町へ戻った方がよいという考えが浮かんだ。
理由はない。
宿へ忘れ物をした気もする。
急いで確かめなければならない用事があったようにも思えた。
一歩進むと、その考えは薄れた。
二歩目で消える。
キーノは眉を寄せ、後ろを振り返った。
「今、戻ろうとした」
「僕もです」
「気持ち悪い森だな」
サーシェスは首の後ろを掻いた。
「道を曲げられるよりはましだ。進む方角は見えてる」
三人は、そのまま木々の間へ入った。
数十分も進めば、町の音は聞こえなくなった。
森は外から見た以上に深い。
太い幹が幾重にも重なり、枝葉が空を狭く切り取っている。
湿った土。
落ち葉の下を流れる細い水音。
遠くで、鳥とも獣ともつかない声がした。
「それで」
キーノが口を開いた。
「拠点はどこにするんだ」
「まだ決めていません」
「候補は」
「ありませんよ」
キーノが足を止めた。
「ない?」
「この森へ入るのは初めてですから」
「お前、拠点を作るためにここまで来たんだろ」
「ええ」
「なのに、どこへ作るか決めてないのか」
「見てもいない場所を決める方が、不自然ではありませんか?」
「せめて候補くらい探してから来い!」
キーノの声が木々の間へ響いた。
サーシェスが声を上げて笑う。
「坊主らしいじゃねえか。森を見て、気に入った場所を取る。それで終わりだ」
「あんたも同じか」
「寝床がなきゃ野営する。敵がいりゃ殺す。難しい話じゃねえ」
「二人とも馬鹿だ」
「キーノさんが慎重なのですよ」
「褒めたように言うな」
キーノは吐き捨てるように言い、また歩き出した。
◆
最初に見つけたのは、獣ではなかった。
木の根元へ固定された、太い鋼線だった。
落ち葉を被せ、踏んだ足を締め上げるよう組まれている。
少し先には、同じ仕掛けが作動した跡があった。
地面が抉れ、血が黒く乾いている。
銀色の毛が数本、鋼線へ絡んでいた。
「逃げたのか」
キーノが屈み込む。
「いいえ」
鬼太郎は血の跡を辿った。
十歩ほど先で、土に引きずった跡へ変わっている。
その先には車輪の跡があった。
「運ばれています」
「生きたままか?」
「そこまでは分かりません」
サーシェスは鋼線へ触れず、仕掛けの位置だけを見た。
「獣道を知ってる奴の置き方だ。素人じゃねえ」
「獣を捕ることに関しては、でしょうね」
鬼太郎は罠を作動しない形へ崩した。
助けるためではない。
帰りに自分たちが踏む障害を残す理由がなかった。
車輪の跡は、森の奥でいくつもの足跡と重なり、やがて硬い地面の上で途切れた。
三人は方角だけを覚え、先へ進んだ。
二度目は、向こうから現れた。
「止まれ」
木の陰から、男が出てくる。
汚れた外套。
腰には刃物と、いくつもの小さな瓶。
右手には杖があった。
「その鞄を置け。武器もだ」
一人ではない。
左の茂みに銃身が見える。
背後にも、落ち葉を踏んだ音がした。
キーノが木の右側へ一歩寄り、小さく指を二本立てた。
見えている男以外に、二人。
「断れば?」
鬼太郎が尋ねる。
「三人埋める手間が増える」
男は杖を持ち上げた。
速くはない。
獣へ向けて呪文を放ち、怯んだところを縛る。その動作が身体へ染みついている。
自分より先に人間が攻撃する可能性を、考えていない動きだった。
右手が〈ケストレル〉の握把へ触れる。
上着の裾に引っかからない。
銃身がホルスターを抜け、男の杖が鬼太郎へ向くより先に、引き金を引いた。
銃声が森を裂く。
弾丸は男の胸へ入った。
呪文は出ない。
男が倒れるより早く、左の茂みでも銃声が鳴った。
サーシェスの弾が、隠れていた男の額を抜いている。
背後の一人が、慌てて猟銃を上げた。
鬼太郎は振り返りながら二発目を撃った。
胸。
男の指が引き金へ届く前に、身体が落ち葉の上へ崩れた。
それで終わった。
「遅いな」
サーシェスが銃口を下げる。
「獣が相手なら、待ってくれたのでしょう」
鬼太郎は周囲を確認してから、〈ケストレル〉を戻した。
抜く時の抵抗はない。
二発目へ移る時も、銃口は素直に戻った。
ペタルの調整は、森でも狂っていない。
杖を持っているから、強いわけではない。
この男たちは、抵抗する術を持たない獣を追い回し、その力を自分のものと取り違えていただけだ。
英国の裏社会で何度も戦った魔法使いたちの中には、正面から杖を見せず、盾や遮蔽物、死角を使う者もいた。
この男たちは、そこにすら届いていない。
同じ杖を持っていても、同じ敵ではなかった。
「これが、新しい銃か」
キーノが倒れた男から目を逸らさずに言った。
「ええ」
「前より速い?」
「抜きやすくなっています」
「弾も重いか」
サーシェスが男の傷を見ている。
「少しだけ」
「悪くねえ」
「ペタルさんが聞けば、あなたに褒められるために作ったのではないと言いますよ」
「次に会ったら直接言ってやる」
「店から追い出されるぞ」
キーノの言葉に、サーシェスは楽しそうに笑った。
男たちの荷には、罠、縄、眠り薬、血のついた刃物があった。
売買の記録も、森の地図もない。
三人は使える弾薬と薬だけを回収し、死体をその場へ残した。
◆
銃声から離れるため、進路を西へずらした。
しばらく進むと、森の空気が変わった。
風が止まったのではない。
枝の揺れる音に混じって、何かが走ってくる。
一人分。
足取りは乱れ、何度も木へぶつかっている。
サーシェスが銃へ手をかけた。
鬼太郎も右手を下げる。
茂みが大きく揺れた。
飛び出してきたのは、女だった。
長い髪には葉と泥が絡み、服は何か所も裂けている。
腕と脚には細い傷が重なり、脇腹の布は血で濡れていた。
それでも、泥の下に見える顔立ちは異様なほど整っている。
女は三人を見た。
視線が、鬼太郎の銃で止まる。
怯えて後ずさり、それでも逃げずに手を伸ばした。
「助けて」
声が震えている。
「お願い、あの子たちを、早く、連れていかれる、殺される、戻らないと、でも、戻れば――」
言葉が繋がらない。
息を吸うたびに脇腹から血が滲んだ。
「誰に追われています?」
「人間、罠、鉄、杖も、みんな捕まった、私だけ、違う、逃げたんじゃない、助けを――」
女は一歩進み、膝から崩れた。
鬼太郎は銃から手を離し、その身体を受け止める。
「キーノさん、周囲を見てください。サーシェスさんは、来た方角を」
「分かった」
「追手が来たら撃つぜ」
「お願いします」
鬼太郎は女を木の根元へ座らせた。
脇腹の傷は深いが、内臓までは届いていない。
腕と脚の傷も多い。
逃げる途中で枝に裂かれたものと、刃物によるものが混じっている。
「今から傷を塞ぎます」
女は聞いていなかった。
「仲間が、あそこに、早く、お願い、私が案内する、だから――」
「ディア」
鬼太郎の掌から力が流れ込む。
開いていた脇腹の傷が寄り、血が止まった。
腕と脚の裂傷も、浅いものから塞がっていく。
全ては消えない。
失った血も、走り続けた疲労も戻らない。
女の呼吸はまだ速かった。
目は鬼太郎を見ているが、その姿を正しく捉えていない。
恐怖だけではない。
長く張り詰めた精神が限界を越え、考えが同じ場所を回り続けている。
「パトラ」
もう一つの力を重ねる。
女の肩から、少しずつ力が抜けた。
恐怖が消えたわけではない。
震えも残っている。
それでも、途切れていた視線が鬼太郎へ合った。
「……あなたは」
「墓場鬼太郎です。こちらはキーノさんと、サーシェスさん」
女は三人を順に見た。
「私は、ヴィーラ。森で、仲間と暮らしていた」
「何があったのか、話せますか?」
ヴィーラは頷いた。
何度か息を整えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「密猟者が来た。眠らせる煙と、鉄の網を使って。杖を持つ者もいた。仲間は捕まった」
「あなたは?」
「運がよかっただけ。運ばれる途中で、荷車が倒れた。網が緩んで、森へ逃げた」
「追手は」
「途中まで来た。でも、撒いたと思う」
サーシェスが戻ってくる。
「今のところ、後ろにゃいねえ」
ヴィーラは、その声にも身体を強張らせた。
鬼太郎が間へ入るように座ったまま、問いを続ける。
「仲間はどこへ?」
「森の奥の砦。小さな、古い砦を使ってる。檻がある。捕まえたものを、そこへ集めてる」
老女が話していた、捨てられた建物。
生活できる状態かは分からない。
だが、密猟者が根城に使えているなら、屋根と壁は残っている。
「お願い」
ヴィーラが、鬼太郎の袖を掴んだ。
「仲間を助けて。私一人では戻れない。でも、このままなら、売られるか、殺される」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
森の内側を知る者がいる。
しかも一人ではない。
助ければ、彼女たちは鬼太郎を知る。
恩を覚えているなら、道を聞ける。生き物と植物を教えさせることもできる。森で何かを動かす時、協力を求めることもできるだろう。
断られれば、それまでだった。
だが、先に貸しを作っておくことに損はない。
さらに、密猟者が使っている砦まである。
探すつもりだったものが、向こうから場所を教えようとしている。
悪くない。
鬼太郎は微笑んだ。
「分かりました。助けに行きましょう」
「本当?」
「ええ」
「お前」
キーノが低い声で割り込んだ。
鬼太郎が振り返る。
キーノは疑うように目を細めていた。
サーシェスも、口の端を吊り上げている。
二人とも分かっていた。
鬼太郎が悪いことを考えている時、笑顔がほんの少しだけ深くなることを。
「助けた後で、何をさせるつもりだ」
「まだ何も決めていませんよ」
「その顔で言っても信じられない」
「恩を覚えていてくださるなら、いつか役に立つこともあるでしょう」
「やっぱり善意じゃないじゃないか」
ヴィーラが、鬼太郎とキーノを交互に見る。
「助けて、くれないの?」
「いいえ。助けますよ」
鬼太郎はヴィーラへ向き直った。
「今は、あなたの仲間を救うことが先です。対価の話は、その後にしましょう」
「対価は取るんだな」
「キーノさん」
「何だ」
「話が進みません」
「お前が誤魔化すからだ」
サーシェスが笑った。
「諦めろ、小娘。坊主がただで人助けするように見えたなら、そっちの方が心配だ」
「分かってるから言ってる」
ヴィーラはまだ困惑していた。
それでも、鬼太郎の袖を掴んだ手は離さない。
選べる相手は、他にいなかった。
「歩けますか?」
「少し休めば」
「では、その間に砦までの道を教えてください」
鬼太郎は紙を広げた。
外周しか描かれていなかった森の地図へ、ヴィーラの指が最初の道を加える。
拠点の場所は、何も決めていなかった。
だが森へ入ったその日のうちに、候補の方から名乗りを上げた。
あとは、そこにいる者たちを退かせればいい。