やる気でました!
第67話 牙の届く間に
谷へ持っていく記録を、鬼太郎は二枚に減らした。
初戦で岩へ叩きつけられた場所と、先日の護衛が杖を出した場所。並べてみても、同じように使える隙は見つからない。
キーノが向かいの椅子を引いた。
「また、行くんだな」
「ええ。明日、身体を確かめてから」
「勝てるのか?」
「今度は、話を聞いていただけるところまで」
彼女は座らず、机に手をついた。
「あの男に通じたからって、同じことをするなよ。見えなくなっても、爪は振れるだろ」
「そうですね。顔を引いて、防護を張り直してくださる相手ではありません」
鬼太郎は谷の紙へ指を置いた。二度、身体が先に避けた。その次にも同じ動きを待ち、間に合わなかった場所だ。
「こちらも、避けてくれるのを待たずに動きます」
「お前の身体に頼むみたいに言うな」
鬼太郎は小さく笑い、紙から手を離した。
左肩を回しても、もう重さはなかった。先日の仕事の後も休み、眠りと食事を取っている。練習で腕を張らせた日のまま出るつもりはない。
「境までは、私も行く」
キーノはようやく椅子へ腰を下ろした。
「前みたいに、戻ってから言われるのは嫌だ」
「分かっています。谷の中へは、僕だけで」
「ああ」
「俺の分も空けとけ」
入口からサーシェスが言った。肩へ掛けた荷を下ろし、水差しを取る。
「明日は、ほかの仕事がないんですか?」
「ねえから言ってる。金を取って横から撃つ話なら、先に犬へ通しとけよ」
「今回は、お願いしません」
「なら見物だ。戻るための力だけは残せ、坊主」
水を飲む音を聞きながら、鬼太郎は二枚の紙を重ねた。
帰れるところで止める。そのつもりは、前にもあった。
今度は、傷を受けてから初めて退き方を考えることのないようにしたかった。
◆
翌朝、短く身体を動かしてから砦を出た。
前に通った道でも、倒れた枝の位置までは同じでない。鬼太郎は湿った斜面で足を置き直し、二人が続ける場所を選んだ。谷へ近づくほど、人の通った跡より、太い爪が残した土の傷が目につく。
白い石が見えたときには、三人とも歩くための汗をかいていた。
鬼太郎は水を飲み、呼吸が落ち着くのを待った。サーシェスは石の外へ荷を置き、木々の隙間から谷の奥を見ている。キーノは、折れた杖の吊られた枝の手前に立った。
「グロブニクさん。戻りました」
鬼太郎は境の外から呼んだ。
すぐには返事がない。風で枝が擦れ、その音が途切れたところへ、岩を踏む重い爪の音が重なった。
黒い巨体が、低い木の下から現れた。
塞がった左目と、暗い赤色の右目。欠けた耳が三人の方へ向く。鼻先が動き、鬼太郎の腕と、その右腰へ視線が移った。
「傷を塞いだだけか」
「それなら、もう少し待ってから来ます」
鬼太郎は黒檀の杖を右手へ持ち、左手を空けた。
「今度は、僕のお話も聞いていただきたいのですが」
「口だけなら、前にもあった」
「ええ。ですから、一度そちらに退いていただく。僕も、倒れずにいる。その後で、お話を」
グロブニクの唇が持ち上がった。並んだ牙の間から、低い息が通る。
「できるなら、入れ」
鬼太郎は二人を振り返り、白い石を越えた。
谷の地面には、前回砕かれた木片が残っていた。低い岩、その先の二本の根、根に引っ掛かった折れ枝。鬼太郎は歩きながら折れ口を見た。腕より細い枯れ枝で、太い方は根に支えられ、短い方だけが少し離れている。
そこへ戻る道を確かめ、巨体へ向き直った。
「次も境で止まると思うな」
「その前に、止まっていただけるようにします」
グロブニクの後ろ脚が沈んだ。
鬼太郎は肩が迫るのを待たず、横へ足を出した。
黒い前脚が上着の裾を裂いた。
爪の届いた先を見ず、もう一歩。低い岩の横へ身体を滑らせる。土を掴んだ前脚を軸に、グロブニクが向きを変えた。
鬼太郎の左手が、その前の湿った土へ向く。
「ブフ」
白い霜が走り、浅い水溜まりの表面が凍った。
グロブニクの脚は、その手前へ下りた。巨体が低く沈み、岩の上へ前脚を掛ける。
鬼太郎は続けようとした雷を止めた。
滑っては来ない。
岩を蹴った黒い胸が高くなった。鬼太郎は着地点から斜めに離れ、脚の間を抜けようとはしなかった。
背後で牙が噛み合う。
土を踏む音が近い。振り向いた先に、赤い目があった。
「アギ」
左の掌から放った火が鼻先へ迫る。グロブニクは首を振り、頬の毛で炎を受けながら前脚を伸ばした。
鬼太郎は身を沈めた。頭の上を爪が通り、風が髪を持ち上げる。その下から横へ抜けたが、次も同じ方へ潜れる距離には残らなかった。
細い木を挟んで回る。
前脚が幹へ叩きつけられ、樹皮が弾けた。木全体が揺れる。鬼太郎はその反対側へ走り抜けた。
頬の毛が焦げた程度で、相手の速さは落ちない。
ただ、前のように、気づいたときには胸へ爪が来ているわけでもなかった。後ろ脚が踏み締められ、肩が傾く。次に来るところまで、短く見える。
鬼太郎の頬が緩んだ。
見えたからこそ、そこに留まるのは怖かった。
◆
キーノは白い石の外から、黒い背中を追っていた。
鬼太郎が木の横へ出て、すぐ隠れる。黒い脚が追い、その先で土が跳ねた。見えなくなるたび、彼女は少しだけ首を動かした。
横へずれても、境より中へは入らない。
「また笑ってる」
「だろうな」
サーシェスの返事には、面白がる響きがあった。
「あんたまで、そんな顔をするな」
「俺を見ても、坊主の足は速くならねえぞ」
キーノは谷へ視線を戻した。
前回より、鬼太郎が先に動いている。それは彼女にも分かった。それでも、迫る爪と身体の間には、ほんの少ししか空きがない。
火が上がり、すぐに途切れた。鬼太郎が木の陰から離れる。
「今のは、続けなかったな」
サーシェスが言った。
「火を当てた場所へ、もう一度行きたくなるところだが」
キーノは握っていた手を少し緩めた。
そこで止められることを、彼女は見に来た。けれど、止めてほしいところは、まだずっと先にあった。
◆
左の木へ行くふりをして、鬼太郎は岩の右へ身体を返した。
グロブニクは木へ飛び込まなかった。前脚を踏み替え、短く向きを変えて追う。
同じ回り方を続けるのは、もう難しかった。
鬼太郎は掌を脚の付け根へ向けた。
「ジオ」
毛の間に雷が走る。前脚が僅かに強張り、爪が土へ深く入った。
そのまま止まってはくれない。後ろ脚で押し出された巨体から、鬼太郎は横へ離れた。右目へ銃を向けるには、持ち替える間もいる。相手が首を戻すところへ立ち、狙いを揃える時間を取る気はなかった。
木へ入ったところで、息を吐く。
腿の裏が張っていた。魔法を出す力はあるのに、脚を上げる動作が、始めほど軽くない。
鬼太郎は大きく回るのをやめ、近い岩を選んだ。
「逃げるだけか」
「追ってくださるので、助かっています」
返事の途中で息を継いだ。グロブニクの口も開いている。牙の間を通る息が、前より太い。
跳びつくたび、鬼太郎は真っ直ぐには退かなかった。着地しては向きを変え、また重い身体を押し出す。グロブニクの踏み込みの間隔も、僅かに延びていた。
その赤い目が、鬼太郎の左右を見た。
今度は跳ばない。頭を低くし、歩幅を狭めて近づく。
鬼太郎は左へ寄りかけ、止めた。最初に凍らせた場所だった。割れた氷と泥が混じり、靴で踏めば滑る。
右へ出るしかないと思ったときには、黒い前脚が伸びていた。
爪先が左の上腕を掠める。
熱い痛みが走った。袖が裂け、腕へ血が伝う。鬼太郎は身体を引き、着地で沈んだ膝を立て直した。
グロブニクが、岩を回ってくる。
鬼太郎は指を動かした。左腕は上がる。脇腹を抉られたときのように、力が抜ける傷ではなかった。
それでも、左の足場を失ったところへ右を追われれば、次は浅く済まない。
鬼太郎は岩の端を回り、谷へ入ったときに見た二本の根へ戻った。
折れた枯れ枝は、その間にあった。
太い破片の折れ口が、上を向いている。短い方も見える。鬼太郎は、その二つが寄る場所を確かめた。
グロブニクが距離を詰める。
鬼太郎は枝の手前で一度だけ足を鈍らせた。赤い目が彼の脚を捉え、黒い肩が前へ沈む。
右手の杖先を、折れ口へ向ける。
「レパロ」
短い破片が動き始めたとき、グロブニクの前脚が間へ入った。
鬼太郎は身を退きながら、杖先を外さなかった。根に支えられた太い破片へ、もう片方が戻る。折れ口は閉じ切らず、脚の両側へ押し当たった。
木が軋み、前へ進む巨体の肩が傾く。
止めておけるとは思わなかった。鬼太郎はその一瞬で、相手の右側へ回った。
反対の前脚が叩きつけられる。
枝は砕けた。
鬼太郎は木片から顔を背けながら、杖を左手へ渡した。受けた腕を身体へ引き、右手で右腰の銃を抜く。グロブニクの首がこちらへ回る。
一発目は頬の毛を散らした。
二発目は、土を掴み直した前脚へ当たった。皮膚が裂け、血が滲む。それでも、脚は鬼太郎を追って伸びてきた。
彼は三発目を撃たなかった。
爪の線から外れ、銃を右腰へ戻す。左から杖を受け直す間にも、巨体は向きを変えていた。
「アギ」
空いた左の掌から火を放ち、近づく肩へ当てる。
毛の表面に炎が走った。グロブニクは低い枝へ肩を擦り、身体を捻って振り払う。
焼けた場所へ雷を続けようとして、鬼太郎は手を止めた。
右目が、こちらを追っている。
身体を捻った分、次に振れる前脚が残っていた。鬼太郎が近寄らずにいると、その爪は二人の間の枝だけを払った。
「そちらも、よく見ていらっしゃいますね」
荒い鼻息が返ってきた。
直した枝は、もう使えない形で散っている。練習よりずっと早く壊された。それでも、あの脚が地面を掴み直す前に、鬼太郎は位置を変えられた。
汗で滑る杖を握り直した。
グロブニクの耳が動いた。こちらの呼吸を聞いているのだろうか。左へ回ろうとすると、今度は先に黒い身体が寄った。
彼も、同じものを二度は待ってくれなかった。
岩の脇へ身を寄せたところで、牙が上着を捉えた。
布が引かれ、身体が後ろへ戻りかける。鬼太郎は足を突っ張る代わりに肩を捻り、牙の前へ左手を向けた。
「アギ」
小さな火に、黒い鼻先が逸れた。
熱で傷んだ布が裂ける。鬼太郎は岩の脇へ抜け、二歩先で止まった。
息が足りない。腿は重く、左腕には血が温かかった。
グロブニクも、すぐには跳ばなかった。口を開けたまま、鬼太郎へ身体を向ける。焦げた毛の隙間から、肩の皮膚が見えた。
この距離なら、まだ火は届く。
相手も、一度地面を蹴れば届く。
鬼太郎は白い石の方角を確かめた。帰る道は残っている。治すための力も、身体の内側にはあった。
次が通らなければ、離れる。
そのつもりで、足を置き直した。
グロブニクの後ろ脚が沈む。鬼太郎の左へ回り込み、逃げる先を削ろうとしていた。
鬼太郎は黒檀の杖を上げた。
「ルーモス」
白い光が一度だけ溢れた。
顔を暗い岩の方へ向け、鬼太郎は右斜め後ろへ動く。光が消えるのを待って、足を出したのではなかった。
グロブニクは右目を閉じながら、前脚を振り抜いた。
声のした場所から、その先まで、広く爪が払われる。鬼太郎は身体を沈めたが、一本が左肩を掠めた。
上腕より高いところへ、鋭い痛みが走る。
足を踏み直し、倒れる前に支えた。
黒い前脚が着地した。右目は細く閉じられたまま、鼻先だけが鬼太郎へ向く。開いた口から、低い唸りが出た。
鬼太郎は左腕を上げた。傷へ服が擦れ、指先へ向ける力とは別に、肩へ力を入れる必要があった。
「アギ」
火が、牙の間へ迫る。
グロブニクの顎が閉じた。振り抜いた脚は、今ようやく地面を捉えたところだった。血の滲む片脚へも、身体の重さが掛かっている。
鼻先を横へ振るより先に、炎が口元へ届く。
後ろ脚が土を蹴った。
巨体が後方へ跳び、鬼太郎から離れた。牙の先を火が舐め、鼻の下の毛が焦げる。
着地した爪が、地面へ長い傷を残した。
鬼太郎は、次の火を出さなかった。
◆
聞こえるのは、二つの荒い息だった。
鬼太郎は左腕を下ろした。肩から袖へ新しい血が流れ、上腕の傷と混じる。腿は震えていたが、足を置き直すことはできた。
グロブニクも立っている。
前脚を開き、赤い目を細めたまま、彼を見ていた。口元と肩から焦げた臭いが漂い、脚から血が落ちる。
鬼太郎は息を吸った。
今なら、もう一度近づけるかもしれない。踏み込んだら、あの前脚はどちらから来るだろう。
その先を見たい気持ちは、まだ強かった。
「退いていただけましたね」
声にすると、途中で息が切れた。一度継ぎ、続ける。
「どちらも、立っています」
グロブニクの耳が動く。
「追わないのか」
「追えば、迎えてくださるでしょう。それも、魅力的ですが」
鬼太郎は杖を身体の近くへ寄せた。手放してはいない。
「先に、お話を。僕は、そのために来ました」
低い唸りが返った。
鬼太郎も、その場で待った。相手の前脚は、まだ地面を蹴れる位置にある。勝ったつもりで歩み寄れば、また牙の届くところへ入る。
グロブニクが長く息を吐いた。
「我を倒したと思うな」
「ええ。そうは思っていません」
彼は黒い脚へ目を向け、それから赤い目へ視線を戻した。
グロブニクは、血の染みた袖と長い杖を見た。砕けた枝へ一度だけ鼻を向け、唇を下ろす。
「前よりは、牙がある」
鬼太郎の笑みが深くなった。
「それは、嬉しいですね」
「聞くだけだ」
「それで結構です」
それでも、すぐには動かなかった。グロブニクの肩が下がり、前脚の構えが緩むのを見てから、鬼太郎は近くの平たい石を指した。
「座っても?」
「勝手にしろ」
石へ腰を下ろすと、腿の重さが一度に分かった。膝の上へ杖を置き、右手を添える。
グロブニクも前脚を伸ばし、腹を地面へ近づけた。頭は上げたままで、鬼太郎の手が見える向きにいる。
◆
キーノは白い石へ一歩近づき、そこで止まった。
「今度は、あいつから言った」
横のサーシェスも、谷の奥を見ていた。
「犬の方も、話す時間を取ったな」
「また血が出てるぞ」
「出さずに済む相手なら、あんな顔で来てねえだろ」
キーノは返事をせず、鬼太郎の左肩を見た。座ってからも笑っている。自分が何を言うか、あの顔は少しくらい考えているのだろうか。
ただ、まだ追えたところで止めたのも、彼だった。
彼女は、境を跨ぎかけた靴を戻した。
こちらへ来いと言えるのは、あの黒い相手だ。今、割って入って話を壊すつもりはなかった。
◆
鬼太郎は杖を左手で膝に支え、右手で布を取り出した。
肩へ当てると、布の端が赤くなる。指で押さえ、相手の前脚へ目を向けた。血の落ちる間隔は遅くなっていたが、傷が消えたわけではない。
自分の傷も、治すには触れて力を流す必要がある。その動きを始める前に、まず話す方がよかった。
グロブニクが焦げた口元を舐めた。
あの前脚は、光の中でも来た。次は、木片が動き始める音にも気づくだろう。鬼太郎は砕かれた枝へ目をやり、また口元を緩めた。
膝の杖を支える左腕が痛む。
今、その次を始めなくてよい。
グロブニクの右目が、彼の顔へ戻った。
「何を望む」
鬼太郎は息を整え、背を伸ばした。
前には、言い終える前に牙が来た。
今は、その牙を持つ相手が、彼の答えを待っていた。