第六十七話 森は、石壁へ手を貸す
砦で迎えた最初の夜は、眠るための準備だけで終わった。
密猟者の死体を壁の外へ運ぶ。
武器と杖、鍵、薬品を分ける。
鉄の檻から血と毛を洗い落とし、腐った藁を中庭へ積む。
主棟一階の床を掃き、持参した寝具を広げた頃には、森の上へ月が昇っていた。
救出されたヴィーラたちは、同じ部屋の壁際で身体を休めた。
眠り薬を受けた森の生き物も、まだ目を覚まさない。
その中で、比較的傷の浅いヴィーラが一人、立ち上がった。
「森へ知らせてくる」
「何をです?」
鬼太郎が尋ねる。
「密猟者がいなくなったこと。仲間を助けてもらったこと。それから、ここに新しい人間がいること」
「新しい人間、ですか」
「森の者は、人間が何をするか気にする」
当然だった。
密猟者が使っていた砦へ、別の人間が入った。
住人が替わっただけなのか。
それとも、狩る側ではないのか。
確かめようとする者はいるだろう。
「構いません。ただし、僕たちが森全体を無条件で守るとは伝えないでください」
「助けてくれたのに?」
「あなた方を助けることと、森で起こる全てを引き受けることは別です」
ヴィーラは少し考え、頷いた。
「そのまま伝える」
彼女は夜の森へ消えた。
戻ったのは、空が白み始める前だった。
どこまで行き、誰へ話したのか。
鬼太郎は聞かなかった。
◆
朝になり、キーノは昨日の言葉を忘れていなかった。
「まず、屋根」
主棟の二階で、キーノが頭上を指す。
板が外れた場所から、細い朝日が床へ落ちている。
夜の雨はなかった。
だから眠れただけだった。
「降れば、ここは全部濡れる」
「一階は無事ですよ」
「二階を捨てる気か」
「直すまでは使わなければよいでしょう」
「次、水」
キーノは返事を待たず、階段を下りた。
鬼太郎とサーシェスが後へ続く。
砦の外には川がある。
水そのものは手に入る。
だが、主棟まで運ぶには桶を持って何度も往復しなければならない。
「毎日、飲む水も洗う水も、外から運ぶのか」
「運べば済みますね」
「冬でも?」
「凍っていなければ」
「凍ったらどうする」
「割ります」
キーノが足を止めた。
「お前、わざと言ってるのか」
「質問へ答えているだけですが」
「次、台所」
昨日まで食事に使われていた部屋には、石を組んだだけの炉があった。
煙突はない。
壁の穴と窓から煙を逃がしていたらしく、天井は黒く煤けている。
「ここで火を使えば、煙が全部部屋に入る」
「窓を開ければ」
「冬でも?」
「煙よりはましでしょう」
「ましな方を選ぶ話じゃない!」
サーシェスが壁へ肩を預け、笑いを噛み殺している。
キーノの顔がそちらへ向いた。
「あんたもだ」
「俺は何も言ってねえぞ」
「どうせ、もっと酷いところで寝たことがあるとか言うつもりだろ」
「あるぜ。屋根のない泥の中で一月寝た」
「あんたの最低基準と比べるな」
「生きてりゃ十分だろ」
「生き延びられることと、暮らせることは違う」
キーノは二人を睨み、次の場所へ向かった。
便所と呼べるものは、外壁近くに掘られた穴だけだった。
身体を洗える場所はない。
寝室には、湿った藁を詰めた寝台が並んでいる。
個室も、着替えるための仕切りもない。
窓は光を入れるためではなく、外へ矢や呪文を放つための細い穴だった。
扉は厚く、廊下の曲がり角から部屋全体を見張れる。
格子。
鉄輪。
鎖を通した跡。
守るための構造と、閉じ込めるための構造ばかりが残っている。
「壁はある。屋根も半分以上ある。水も近い。倉庫と地下室も使えます」
鬼太郎が言う。
「一時的な野営地としては悪くありません」
「だから、野営地じゃなくて家にするんだろ」
「拠点です」
「同じだ」
「少し違うと思いますが」
「違わない」
キーノは一つずつ指を折った。
「雨の入らない屋根。水。台所。暖炉。煙突。風呂。まともな便所。それから、三人が別々に眠れる部屋」
「サーシェスさんは、常にここへ住むわけではありませんよ」
「帰ってきた時に寝る場所はいる」
「俺は床でも寝られるぜ」
「あんたは黙ってろ」
サーシェスが肩を竦めた。
「坊主。お前、前の世界じゃどんな場所で暮らしてた」
「暮らす場所がある時ばかりではありませんでしたね」
「聞くんじゃなかった」
キーノが額を押さえる。
「前の世界の基準を持ち込むな。ここでは、次の瞬間に全部なくなるわけじゃないんだろ」
鬼太郎は答えなかった。
以前にも、自分で考えたことがある。
今世には、調べる時間がある。
鍛える場所がある。
食事と部屋を、次の戦いまで失わずに置いておける。
生き残るだけではなく、積み上げる余裕がある。
ならば、その余裕を捨てる理由もなかった。
「分かりました。生活に必要なものも整えましょう」
「最初からそう言え」
「ただし、防衛設備も必要です」
「家を作ってからだ」
「同時に進めればよいのでは?」
「お前が言う同時は、防衛が九で生活が一になる」
「僕をよく理解していますね」
「褒めてない!」
その声が、中庭まで響いた。
直後、外から別の音が返ってきた。
重いものが地面を踏む音。
一度。
二度。
鳥が一斉に枝から飛び立った。
◆
サーシェスの表情から笑いが消えた。
銃を抜き、崩れた北壁へ視線を向ける。
鬼太郎も〈ケストレル〉へ右手を下ろした。
「来た」
主棟で休んでいたヴィーラが、中庭へ出てくる。
「昨夜、話した者たち」
「ずいぶん早いな」
「森では、密猟者が一つ消えれば皆が気づく」
最初に門をくぐったのは、ゴブリンだった。
鬼太郎より少し背が低い。
尖った顔と長い指。
厚い革の上着には、小さな金槌、鑿、定規が並んでいる。
その後ろには、肩幅の広い小人がいた。
腰へ木槌を下げ、片手には節の刻まれた測り棒を持っている。
三人目は、門をくぐるために頭を下げた。
灰色の肌をした森トロール。
肩には、根を落とした太い倒木を担いでいる。
さらに、空から翼の音が降りた。
中庭へ着地したのは、まだ成長しきっていないズメイだった。
四本の脚。
細長い胴。
青緑の鱗と、背へ畳まれた翼。
大人の馬ほどの大きさだが、尾まで含めればその倍はある。
最後の一人は、門の影から静かに現れた。
人間の女性に見えるのは、腰までだった。
灰色の布を纏った上半身。
その下には、暗い緑の甲殻に覆われた蜘蛛の胴と八本の脚が続いている。
脚先が石へ触れても、ほとんど音はしない。
サーシェスの銃口が、その女へ向いた。
「下げて」
キーノが言った。
「まだ何もしてない」
「見た目で撃つほど飢えちゃいねえよ」
「でしたら、そのままで」
鬼太郎は〈ケストレル〉から手を離した。
銃をしまうよう、サーシェスには言わない。
相手も、武器を持っていないとは限らなかった。
「おはようございます」
鬼太郎が言う。
ゴブリンは挨拶を返さず、砦の中を見回した。
「密猟者を殺した人間は、お前か」
「僕たちです」
「ヴィーラを檻から出した」
「ええ」
「捕らえた森の獣も」
「薬が抜ければ森へ戻します」
ゴブリンは、鬼太郎、キーノ、サーシェスの順に見た。
「では、噂は正しい」
「どのような噂でしょう」
答えたのは、蜘蛛の下半身を持つ女だった。
「この森に、狩る者ではなく、狩る者を殺す人間が住み始めた」
低く、よく通る声だった。
「随分と短くなりましたね」
「噂は短い方が遠くまで届く」
「あなたは?」
「アラクネ」
種族の名だけを告げる。
個人の名まで教える気はないらしい。
「私を見て、それだけか」
「上半身が女性で、下半身が蜘蛛というだけでしょう。話が通じるのであれば、問題はありません」
「怪物とは思わない?」
「怪物という言葉は、随分と多くのものへ使われますから」
人間にも。
魔法生物にも。
自分自身にも。
その名で相手の価値が決まったことはない。
「僕にとって重要なのは、皆さんが何を望み、何を差し出せるかです」
アラクネの女は、僅かに目を細めた。
笑ったようにも見えた。
ゴブリンが一歩前へ出る。
「なら、取引の話をする」
◆
彼らは、同じ集落の住人ではなかった。
ゴブリンは森に近い古い坑道。
小人は岩山の裾。
森トロールは北の谷。
ズメイは森と山の境。
アラクネは地中へ伸びる洞窟。
彼らはそれぞれ、森の違う場所で暮らしている。
密猟者が狙うものも、それぞれ違った。
ゴブリンの金属。
小人が加工した石と木。
トロールの血と皮。
ズメイの鱗。
アラクネの毒と糸。
一体ずつなら退けられる。
だが、罠と眠り薬、銃と杖を揃えた集団が何度も来れば、巣や住処を守りながら戦う側が削られる。
「お前たちが、この砦から密猟者を追うなら」
ゴブリンが言う。
「我々は砦を直す」
小人が続けた。
「石壁と屋根は見れば分かる。酷い仕事だ。だが、土台は死んでいない」
森トロールが、肩の倒木を地面へ下ろした。
中庭が震える。
「木、運ぶ」
ズメイが翼を一度開いた。
「石も運べる。上から人間を見つけたら知らせる」
「私は糸を出す」
アラクネが、自分の下半身を指した。
「縄より軽く、縄より強い。足場、屋根、防水布の下地にもなる」
「代わりに保護を?」
鬼太郎が確認する。
「密猟者からの保護と、縄張りの保証だ」
「森全体を、常に見回ることはできません」
「求めていない」
「助けを求められても、他の仕事や危険に見合わなければ、必ず動くとは約束できません」
ヴィーラたちの間に、小さなざわめきが起きた。
鬼太郎は言葉を変えなかった。
守れるか分からないものまで守ると言えば、後で価値を失う。
「代わりに、確認できた密猟者は、この砦の周辺から排除します。捕らわれた者がいて、救出が可能なら助ける。情報を先に渡していただければ、動ける範囲も広がります」
「排除した後の死体は?」
アラクネが尋ねた。
「森へ残すのであれば、こちらで処理できる。肉も骨も、無駄にはしない」
「構いません。ただし、所持品は先に全て砦へ運んでください」
「武器も?」
「銃、杖、弾薬、薬、金、書類。隠していた物資が見つかった場合も同じです。まず僕が確認します」
ゴブリンの目が細くなる。
「森の者が欲しがる品は」
「確認した後で、別の対価として交渉しましょう。死体の処理は皆さんへ。戦利品は、こちらへ。それを基本にします」
「分かった」
「森の者を、お前が狩ることは」
ズメイが問う。
「必要な素材を得ることはあるでしょう。ですが、絶滅させるつもりはありません。生き物がいなくなれば、森を持つ意味も薄れますから」
「善意ではないな」
ゴブリンが言う。
「ええ」
「なら、契約に書ける」
ゴブリンは満足したように、長い指を組んだ。
「境界を決める。知らせる方法を決める。受ける仕事と、追加の対価を決める。死体と戦利品の扱いも、作った物の所有もだ」
「ゴブリンの品は、売った後もゴブリンのものだと言うのか」
キーノが聞く。
「買い手が生きている間、使う権利を渡す」
「壊れたら?」
「我々が直す。勝手に溶かして、別の物へ作り替えることは許さない」
「面倒ですね」
鬼太郎が言う。
「人間の所有という考えの方が、我々には面倒だ」
「でしたら、後で一つずつ決めましょう」
その時、キーノがゴブリンと小人の間へ入った。
「契約の前に、直す順番を決める」
小人が測り棒を肩へ載せた。
「何からだ」
「屋根。次に、水を中まで引く。台所と煙突。風呂と便所。それから寝る部屋」
「北壁と門が先でしょう」
鬼太郎が言う。
「後だ」
「敵が来れば困りますよ」
「屋根も水もない方が、毎日困る」
「門の蝶番だけなら、屋根と並行して作れる」
ゴブリンが口を挟んだ。
「水路は、石と管が要る」
「川から傾斜を取れる」
小人は、すでに砦の外へ目を向けている。
「便所は川の下流へ離す。風呂は主棟の西側だ。日が入る」
キーノが頷いた。
「分かってるじゃないか」
「お前たちよりはな」
小人は鬼太郎とサーシェスを見て言った。
サーシェスが笑う。
「会ってすぐ、役割が決まったな。小娘が監督で、坊主が金を出す」
「サーシェスさんには、防衛側を見ていただきます」
「お前も結局そっちじゃねえか」
「得意な者が担当するべきでしょう」
「防衛設備だけ増やすなよ」
キーノが言う。
「家にするんだからな」
「両方にすればよいのでは?」
「だから、お前から目を離せないんだ」
アラクネの女が、二人の会話を聞きながら主棟の天井を見た。
「糸を張れば、屋根を直すまで雨を防げる」
「天井を巣だらけにするなよ」
キーノが即座に言う。
アラクネの脚が一斉に止まった。
「私にも、住処と仕事場の区別くらいある」
「ならいい」
「それから、私は砦の者を獲物にしない。そちらも、私を素材として見ない。それを条件へ加えろ」
「当然です」
鬼太郎が答えた。
「約束を守る限り、僕も守ります。破るのであれば、人間と同じように処理しますが」
「平等だな」
「そのつもりですよ」
優しい意味ではないと、アラクネも理解したらしい。
「悪くない」
◆
その日のうちに、砦が家へ変わったわけではない。
まず、測る必要があった。
小人が壁と床を叩き、空洞と腐食を探す。
ゴブリンが門の金具を外し、再利用できる鉄を分ける。
森トロールは、積み上げた檻を一度に抱え、壁の外へ運んだ。
ズメイは空へ上がり、石を切り出せる崖と、倒木の多い場所を確かめに行った。
アラクネは中庭の端から端へ一本だけ糸を渡した。
小人が両手で引く。
切れない。
「これなら、屋根の足場に使える」
「加工するなら、勝手に火へ近づけるな。熱で縮む」
「先に言え」
「今、言った」
キーノは、二人の間で始まった言い合いを見てから、鬼太郎へ振り返った。
「これだけいれば、まともに直せる」
「ええ。町から職人を連れてくる必要も減りました」
マグルは森へ入りにくい。
魔法使いの職人を雇えば、拠点の位置が外へ漏れる。
森で暮らし、この場所を守る理由を持つ者たちなら、その問題は少ない。
しかも、彼らは森の道と生き物を知っている。
砦だけではない。
情報と資材が、向こうから集まり始めていた。
「また悪い顔をしてる」
キーノが言った。
「今度は何を考えてる」
「この森は、思っていた以上に価値があるということですよ」
「その答えだけで済む顔じゃない」
「疑い深くなりましたね」
「誰のせいだ」
中庭へ、ズメイが戻ってきた。
前脚に抱えた石材を下ろす。
森トロールが次の倒木を取りに、門を出ていく。
蜘蛛の糸が朝の光を受け、屋根の下で細く輝いていた。
昨夜まで、ここは密猟者の砦だった。
今朝までは、眠れるだけの石壁だった。
まだ家ではない。
だが、森の側から差し出された手が、最初の資材を運び込んでいる。