第68話 谷から続く道
「僕が留守にする間、砦の近くへ来る侵入者を、止めていただきたいのです」
鬼太郎が答えると、グロブニクの右目が細くなった。
「なぜ我が、お前の留守を守る」
「あなたにも、都合のよい話にしたいと思っています。ただ、その前に」
鬼太郎は肩へ当てた布を少し浮かせた。血の染みた端が、皮膚へ貼りつきかけている。
「傷を塞ぎます。あなたへ向ける魔法ではありません」
「立てなくなってから話す気か」
「それでは、お待たせしてしまいますね」
左手で支えていた杖を石の上へ置き、布を膝へ下ろす。右の掌を左肩へ添え、残していた力へ意識を向けた。
「ディア」
裂けた皮膚の縁が寄り、新しく血が流れるのが止まった。上腕にも掌を移し、もう一度唱える。
腕を下ろすと、痛みは弱まっていた。それでも、腿は重く、息を整えるには時間が要った。
グロブニクは、その掌を見ていた。
「そちらも、よろしければ」
「お前がつけた傷だ」
「ええ。浅く裂けたところなら、塞げます」
鬼太郎は血の滲む前脚へ目を向けた。黒い毛の焦げた肩や口元までは、指ささない。
しばらくして、グロブニクが片脚を前へ出した。
「ここだけだ」
「承知しました」
鬼太郎は立ち、膝が伸びるのを待ってから近づいた。伏せていても、黒い頭は高い。鼻先がこちらへ動けば、牙は肩へ届く距離だった。
示された傷へだけ掌を添え、「ディア」と唱える。
浅い裂け目が閉じたのを確かめ、手を引いた。相手が脚を曲げ、爪を地面へ立てる間に、鬼太郎は石へ戻る。
塞がった左目も、焦げた口元も、そのままだ。
「それで、何を寄越す」
グロブニクが言った。
鬼太郎は血のついた布を畳み、杖の横へ置いた。
「僕が学校へ行っても、ここを捨てるつもりはありません。森の方々との取引も続けます。ですが、いつでも侵入者を追えるわけではなくなる」
「我の谷を空けろというのか」
「毎日、砦にいていただく話ではありません。あなたが動けるときに、見ていただける道を決めたいのです」
鬼太郎は細い枝を拾い、土へ谷と砦の位置を描いた。そこから南へ、短く線を延ばす。
「狩る土地は足りている」
「では、獲物を増やす話でもありませんね。あなたが困っていることなら、どうでしょう」
グロブニクの爪が、土を擦った。
「罠を持つ人間を、ここへ入れるな」
鬼太郎は白い石の方へ目を向けた。枝に吊られた折れ杖の下で、キーノとサーシェスが待っている。
「来てから追い返すのでは、遅いのですか」
「我が見つけたときには、もう掘っている。草の下に鉄を隠す」
黒い爪の先に、湿った土がついていた。
鬼太郎は描いた谷の外側へ印を足した。
「森には、人間を見つけて知らせる方々がいます。その知らせを、あなたにも渡せます。進む道と人数、罠を運んでいるか。分かったところから」
「誰が来る」
「引き受ける方と、これから相談します。白い石の外で呼ぶ。中へは入らない。それでよろしいですか」
「あそこで呼べ。人間の知らせなら聞く」
「罠も、見つかった位置を知らせます。外せるものは、こちらで撤去の手配を」
「外せぬなら」
「場所を伝えて、近づかないようにします。仕掛けの分からないものを、知らせに来た方へ触らせるわけにはいきません」
グロブニクは鼻を鳴らした。すぐに片づくとは言わなかったことを、不満に思ったのかもしれない。
鬼太郎はその返事を変えずに待った。
「分かる者を呼べ」
「ええ。それまで、罠のある道は避けてください」
枝の先で、谷へ続く線の脇に小さな印をつけた。
「傷も、僕が戻っていれば今日のように診られます。ただし、何でも治せるわけではありません。留守中なら、砦へ知らせていただくことになります」
「すぐ来るとは言わんか」
「戻る段取りは取ります。ですが、お約束できない早さまで申し上げても、困るのはあなたでしょう」
グロブニクの耳が動いた。
鬼太郎は枝を置く。
「それから、時々、僕と戦っていただきたいのです」
赤い目が、彼の顔へ戻った。
「まだ傷が欲しいか」
「同じものばかりでは、困りますね」
鬼太郎の声に、楽しさが戻った。左肩を動かしかけ、そこでやめる。
「僕はもっと強くなりたい。あなたも、逃げる者を追い払うだけより、今日の方が動かれたのではありませんか」
グロブニクは答えず、砕けた枯れ枝へ鼻先を向けた。
「次は、そこへ脚を置かん」
「ええ。僕も、別のことを考えます」
鬼太郎は、その黒い脚を見た。自分の思いつきが通じたのは、一度だけだ。次にそこへ連れ戻そうとすれば、あの爪は別の場所を選ぶ。
また来る理由が、早くも一つ増えていた。
「お前の都合で呼ぶな」
「もちろんです。僕が帰っているときでも、あなたが戦いたくなければ別の日にしましょう。こちらも、戻った日に必ずとは言いません」
「我も決める」
「ええ。お互いに」
鬼太郎は両手を膝へ戻した。
「ただ、毎回、どちらかが動かなくなるまで続けるのでは困ります。終えると告げたら、そこで止める。その約束もしたい」
グロブニクの唇が上がった。
「牙を抜けというか」
「今日の速さで来ていただきたいですよ。だからこそ、止めるところも決めておきたいのです」
風が谷を通った。焦げた臭いの向こうに、濡れた土の匂いが戻ってくる。
鬼太郎は返事を急がせなかった。
「終えろと言った相手へ、火を出すな」
「出しません。あなたも、爪を止めてください」
「止まると分かるまで、背を見せるな」
「そうしましょう」
グロブニクが鼻から長く息を吐いた。
「弱いまま来るな」
鬼太郎は笑った。
「次も、動いていただけるようにします」
◆
土の上に引いた線を、グロブニクの爪が指した。
「この道は、お前のものか」
「途中に、ほかの方の境界があります。そこを僕だけで決めることはできません」
「我を通せぬなら、どう守る」
「帰ってから相談します。通れる場所を確かめて、お見せする。今日、ここで全ての道をお約束することはできません」
鬼太郎は、住処へ近づきすぎた線を枝で消した。
「お願いしたいのは、砦の近くと、南へ続く道です。森全てを歩くことも、毎日見回ることも求めません」
「我の谷へ敵が来たら」
「そちらを優先してください。こちらにも分かれば、あなたが砦へ来ると思って待たずに済みます」
「知らせを寄越しただけで、我が走ると思うな」
「ええ。ただ、引き受けると返事をしたときには、途中で黙って放り出さないでいただきたい。来られなくなったことも、知らせてください」
グロブニクは鬼太郎を見た。
「我の谷へ入るな」
「僕も、ほかの方も、許可がなければ白い石を越えない。知らせに返事がなくても、中へ探しには入らない。そのように伝えます」
今度は、赤い目が谷の外へ向いた。
「あの二人もか」
「ええ。谷に入ることと、砦へ来ることは別です。あの二人や、森で暮らす方々へ、道で牙を向けないでください」
「人間も通すのか」
「取引する方は来ます。顔と声、通る道を確かめていただきたい」
「杖を持っていても?」
鬼太郎は自分の脇の黒檀へ目を落とした。
「僕も持っていますからね。杖だけで決められると、帰るたびに戦うことになってしまいます」
グロブニクは笑わなかった。枝に吊られた古い杖へ目を向け、それから鬼太郎を見た。
「知らぬ顔が入ったら」
「止めて、用向きを確かめる。分からなければ砦へ知らせ、こちらが確認するまで通さない。確認できなければ、来た道へ戻して構いません」
「罠を置く者は」
「生き物を捕らえる、住処へ攻撃する、こちらへ武器を向けて襲う。そういう相手は止めてください。ただ、知らないというだけで食べてしまわれると、確かめられません」
低い唸りが返った。
鬼太郎は顔を上げたまま待った。ここを曖昧にして帰れば、取引する者まで、この道を避けるようになる。
「知らせる。そこで確かめろ」
「ありがとうございます」
「遅ければ、戻すぞ」
「承知しました」
鬼太郎は、砦の手前へ短い印をつけた。
その先の道は、まだ線のまま残した。
◆
白い石を越えると、キーノが裂けた袖へ手を伸ばした。
「傷は?」
「塞ぎました。肩と上腕です」
「血が出てないのは見える。動くか?」
鬼太郎は左の指を開き、腕を少し持ち上げた。服が擦れ、眉が僅かに動く。
「歩いて戻れます。疲れは、これから休んで」
「なら、ゆっくり歩け」
サーシェスが荷を持ち上げた。
「話はついたか」
「通れる道を、皆さんと相談してからです。条件は聞いていただけました」
知らせと罠、治療について話す間、キーノは黙っていた。手合わせの話へ移ると、すぐに顔を上げる。
「また戦う約束までしたのか」
「今日は、もうしませんよ。次からは、どちらかが終えると告げたら止める。それも決めました」
キーノは谷の方を見た。グロブニクはまだ伏せている。こちらへ爪を向ける構えではなかった。
「お前だけが、止めた気になるなよ」
「ええ。止まるのを、確かめてから」
「それでいい」
彼女は鬼太郎の傷のない側へ回った。腕を引いて歩かせず、先へ行きすぎると立ち止まって待つ。
サーシェスは、グロブニクを一度振り返った。
「あれを雇ったから、俺の約束も変えるつもりか?」
「別のお願いをするなら、そのとき相談します。今のものを、勝手に変えるつもりはありません」
「ならいい」
帰りは、谷へ向かったときより時間が掛かった。鬼太郎は滑りやすい斜面で一度休み、水を飲んだ。日が傾いてから砦の壁が見えたときには、次の練習より、座れる場所が欲しかった。
◆
翌日、鬼太郎は食堂で地図を広げた。
そこへ来たヴェリナは、最初に肩を見てから、椅子を引いた。
「あの谷から、ここまで来るのね」
「道を確かめるために、一度。先に、通ってよい場所を決めたいのです」
「私だけでは決められないわ。水場を使う者と、石を運ぶ者にも聞く」
彼女は地図の端へ指を置き、すでに相談した迂回路の話と同じかと尋ねた。
「重なるところもあります。ただ、荷車と同じ幅では通れないでしょうね」
ヴェリナは門の方を見た。
「先に、黒い大きな相手が来ると知らせておく。歩いてきてから説明されても、逃げる者がいるわ」
「お願いします」
その日に全てが決まったわけではなかった。
石を運ぶ匿名のゴブリンは、採石場へ入れるなと先に言った。道の外を通す案には、荷車と行き合ったときの避け場所がないと返す。
小人が、少し手前の広い根元を示した。
「ここなら、向こうから来るのが見える。先に止まれる」
ゴブリンは車輪の幅を指で示し、置いてよい石の位置を変えた。水場の近くは別の道になり、ミラからは糸の境界の外を通るよう返事が来た。
鬼太郎は返事がついた場所へだけ印を置いた。
「知らせは、誰が行く」
小人の問いに、彼は谷で決めた呼び方を伝えた。
「白い石の外から。返事がなければ、砦へ戻ってください」
「中へ探しに行かなくていいのか」
「行かないでください。向こうも、そのつもりです」
引き受ける距離と手間も、そこで相談した。いつ来るか分からない知らせを、谷の前で待ち続ける仕事にはしない。いつもの境界で伝言を受け、行ける者へ渡す。道が危なければ戻る。
小人は自分の通れる場所を指し、そこから先を別の者へ頼むと言った。
鬼太郎の描いた線は、何度か消して引き直された。
キーノは横で、来る者の名前を別の紙へ書いていた。ボリスの顔をまだ知らない者がいると聞き、次の受渡しでは入口から迎えをつけることも残す。
鬼太郎が紙を取ろうとすると、彼女は渡さず、先に読ませた。
「決まってない相手まで、通れる方へ書くなよ」
「分かっています。こちらは、これから確かめる方ですね」
キーノはその欄へ、短く線を引いた。
◆
数日後、鬼太郎は小人と北へ向かった。
傷は開かず、歩いた後の肩の痛みも弱くなっていた。今回は、途中で稽古を足さずに来ている。
白い石の外で呼ぶと、しばらくして黒い頭が現れた。
「今日は、道を見ていただきたいのです」
「脚は戻ったか」
「歩く方は。戦う日は、改めて」
赤い目が左肩へ動いた。それから、小人の方を向く。
小人は一歩退いたが、逃げなかった。
「知らせを届ける方です。顔と声を覚えてください。今日は、境界も教えていただきます」
グロブニクが、白い石を越えた。
小人は根の先へ進み、糸の掛かった場所を示した。
「ここから先へは入らない。道は、こっちだ」
黒い鼻先がそちらへ向いた。低い枝の下で頭を下げ、巨体は示された側へ歩く。
鬼太郎も、その後に続いた。
荷車と行き合う場所では、ゴブリンが取っ手を握って待っていた。石の載った車輪は、道の広い側へ寄せられている。
グロブニクが止まった。
右目がゴブリンと石材を順に見る。鼻先が車輪へ近づくと、取っ手を握る指に力が入った。
「砦へ石を運んでくださる方です。この道を使います」
鬼太郎が言うと、グロブニクの頭が上がった。
「谷へは入るな」
「採石場へも入れるなよ」
ゴブリンは車輪から手を離さずに返した。
グロブニクは鼻を鳴らし、荷車の横を通った。牙は見せなかった。
鬼太郎が振り返ると、ゴブリンはまだ立っていた。やがて、車輪の前の小石を足で退け、荷車を道へ戻す。
「次に運ぶ者にも、ここで待てと言っておく」
その声を聞いて、前を行く小人が歩き出した。
◆
砦の門の外で、グロブニクは足を止めた。
鬼太郎は北から来た道と、南へ続く分岐を示した。今日通った境界と、入らない住処をもう一度確かめる。
「知らせを受けて、こちらへ来ると決めたときには、この範囲を。毎日ここへ来ていただく約束ではありません」
グロブニクは、門より先に南の道を見た。
「我の谷へ続く道でもあるな」
「ええ。そこへ罠を持ち込まれる前に、知らせを回します」
「罠も外せ」
「外せるものは。分からないものは、場所を知らせて手配します」
鬼太郎が答えを変えずにいると、赤い目が彼へ戻った。
「なら、ここまで見る」
「お願いします」
主棟の入口にはキーノがいた。サーシェスも壁の脇から離れ、門の手前まで来る。
鬼太郎が改めて紹介すると、グロブニクは二人の顔を見た。キーノが名を告げ、サーシェスが短く応じる。その声を聞いてから、黒い頭が南へ向いた。
「分岐を見る」
小人が先へ立った。
グロブニクは門へ入らず、砦の外を回って歩き出す。ずっと住む場所を移したわけではない。帰る谷は北にあった。
鬼太郎は、その背中が木々へ隠れるまで見送った。
隣へ来たキーノが、紺色の帳面を開く。
「次に校長へ聞くこと、増えた」
「何をです?」
「傷を直すのと、枝を直すのは、どこが違うのか。お前、傷には杖を使わなかっただろ」
「ええ。僕が使ったのは、もう一つの方です。レパロを身体に試したことはありません」
「なら、そこから聞く。勝手に同じだと思うのは嫌だ」
鬼太郎も、その問いを覚えておくことにした。
門の外から、次の曲がり角を教える声が聞こえた。重い足音がその後に続き、今度は砦から離れていく。
キーノが帳面を閉じるまで、鬼太郎は隣で待った。それから二人で、買い揃えた本のある部屋へ戻った。