神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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炎より早いもの

第六話 

 

 買い手の倉庫を出ると、夜の空気が頬に冷たかった。

 

 誘拐犯は、入口の前で足を止めていた。

 

 車へ戻ろうとしない。

 

「行きますよ」

 

 墓場鬼太郎が声をかけると、男は振り返った。

 

「本当に行くのか」

 

「そのために、送っていただくのです」

 

「あいつらは銃を持ってる」

 

「聞きました」

 

「死ぬぞ」

 

「僕が死ねば、あなたは自由になれますね」

 

 男は答えなかった。

 

 鬼太郎が先に車へ向かう。

 

 逃げるなら、今しかない。

 

 男もそれを理解しているはずだった。

 

 それでも、背後で靴音が続いた。

 

 逃げたところで、買い手の部下に捕まるかもしれない。鬼太郎が生き残れば、炎を向けられる。

 

 どちらを恐れたのかは分からない。

 

 男は運転席へ乗り込んだ。

 

     ◆

 

 買い手から渡された紙には、街の外れにある古い修理工場の位置が記されていた。

 

 建物は細長い。

 

 表には車両を入れる大きな扉が一つ。その横に人が出入りするための小さな扉がある。

 

 裏手には窓が三つ。

 

 見取り図が正しければ、事務室は建物の奥にあった。

 

 帳簿がそこにあるとは書かれていない。

 

 相手の正確な人数も、武器も分からない。

 

 買い手は、何も知らない六歳児を試している。

 

 炎を出せるだけの子供なのか。

 

 考え、自分で戻ってこられる人間なのか。

 

 おそらく、見たいのは後者だった。

 

 鬼太郎は紙を折り、鞄へ戻した。

 

「あの場所へ行ったことはありますか?」

 

「ない」

 

「帳簿を盗んだ方々は?」

 

「顔も知らない」

 

「そうですか」

 

 男はしばらく黙っていた。

 

「俺を、どうするつもりだ」

 

「運転をお願いします」

 

「そのあとだ」

 

 鬼太郎は窓の外を見た。

 

 街の灯りが少なくなっている。

 

「まずは仕事を終わらせましょう」

 

 それ以上は答えなかった。

 

 男も、もう尋ねなかった。

 

     ◆

 

 修理工場の手前で、車を止めさせた。

 

 建物の明かりが見えない距離だった。

 

「ここから歩きます」

 

「車で近づかないのか」

 

「音を聞かれます」

 

 鬼太郎は鞄から折り畳みナイフを取り出した。

 

 刃は開かない。

 

 閉じたまま、上着のポケットへ入れる。

 

 六歳の手では、正面から大人と刃物で争っても勝てない。

 

 それでも、何も持たないよりはよい。

 

「あなたは、先に行ってください」

 

 男の顔が強張った。

 

「何をさせる」

 

「扉を叩いて、中の方と話してください」

 

「殺される」

 

「すぐに撃たれるような話をしなければよいでしょう」

 

「何を話せばいい」

 

「買い手から逃げたい。帳簿の中身と引き換えに、街を出る手助けをしてほしい、と」

 

 男が鬼太郎を見つめる。

 

「俺にも、裏切れっていうのか」

 

「あなたは、子供を売っているのでしょう?」

 

 鬼太郎は穏やかに尋ねた。

 

「今さら、誰を裏切るかで悩むのですか?」

 

 男の口が閉じる。

 

「中へ入れられても、できるだけ長く話してください。帳簿の置き場所を見つけられれば、なお助かります」

 

「お前は?」

 

「別の入口を探します」

 

 男は動かなかった。

 

 鬼太郎は右手を上げる。

 

「歩けないのでしたら、少し温めましょうか?」

 

「分かった!」

 

 男が声を上げた。

 

「行く。行けばいいんだろう」

 

「静かにお願いします」

 

 鬼太郎は手を下ろした。

 

     ◆

 

 工場の周囲には、使われなくなった車体やタイヤが積まれていた。

 

 壊れた金網が敷地を囲んでいる。

 

 表の大扉は閉じているが、端から細い光が漏れていた。

 

 誰かの笑い声が聞こえる。

 

 一人ではない。

 

 誘拐犯は、言われたとおり小さな扉へ向かった。

 

 鬼太郎は、積まれたタイヤの陰を通って裏へ回る。

 

 最初の窓は板で塞がれていた。

 

 二つ目は、汚れたガラスの向こうに棚が見える。

 

 三つ目の下部には、割れた箇所へ薄い板が打ちつけられていた。

 

 板と窓枠の間に隙間がある。

 

 大人の身体は通らない。

 

 鬼太郎は板へ指をかけた。

 

 釘が錆びている。

 

 一度引いただけでは動かなかった。

 

 足を壁へ押しつけ、両手で引く。

 

 板が小さく軋んだ。

 

 鬼太郎は動きを止める。

 

 表から扉を叩く音がした。

 

 中の笑い声が途切れる。

 

「誰だ」

 

 男の声。

 

「話がある。開けてくれ」

 

 誘拐犯の声が続いた。

 

「何の話だ」

 

「買い手の帳簿についてだ」

 

 少しの沈黙。

 

 金属の擦れる音がした。

 

 表の扉が開く。

 

「両手を見せろ」

 

「何も持ってない」

 

「こっちへ来い」

 

 話し声が中へ移っていく。

 

 鬼太郎はもう一度、板を引いた。

 

 今度は外れた。

 

 地面へ落ちる前に受け止める。

 

 窓枠に残ったガラスを避け、頭から隙間へ入った。

 

 肩を斜めにする。

 

 鞄が引っかかった。

 

 先に鞄だけを中へ落とし、身体を滑り込ませる。

 

 床へ降りると、油と鉄の臭いがした。

 

 棚の並んだ部品置き場だった。

 

 壁の向こうから声が聞こえる。

 

「誰から聞いた」

 

「あんたたちが持っていることは、街じゃもう知られてる」

 

「嘘をつくな」

 

 硬い音がした。

 

 何かで殴られたらしい。

 

 誘拐犯が呻く。

 

「買い手に送られたのか?」

 

「違う。本当に逃げたいんだ。あいつは、もう駄目だ。妙なものまで使い始めた」

 

「妙なもの?」

 

「子供だ」

 

 鬼太郎は棚の間を進んだ。

 

 部屋の出口から、工場の中央が見える。

 

 男は三人いた。

 

 一人が誘拐犯を壁へ押しつけている。

 

 二人目は机のそばに立ち、拳銃を向けていた。

 

 三人目は、奥の事務室らしい扉の前にいる。

 

 少なくとも三人。

 

 買い手の情報と一致する。

 

 机の上には、酒瓶と灰皿が置かれていた。

 

 帳簿らしいものはない。

 

「どんな子供だ」

 

「火を出す」

 

 三人の表情が変わった。

 

「何だ、それは」

 

「手から火を出すんだ。俺は見た。買い手のところにも連れていった」

 

「それで、お前はここへ来たのか?」

 

 拳銃を持つ男が周囲を見る。

 

「その子供はどこにいる」

 

「知らない。俺は逃げてきた」

 

 誘拐犯の声は震えていた。

 

 嘘をついているからではない。

 

 鬼太郎が近くにいると分かっているからだ。

 

「外を見てこい」

 

 事務室の前にいた男が、壁際の男へ命じた。

 

 一人が表の扉へ向かう。

 

 鬼太郎は部品置き場へ身を戻した。

 

 このままでは、裏の窓も調べられる。

 

 帳簿は事務室にある可能性が高い。

 

 だが、扉までの間には二人いる。

 

 正面から炎を放てば、一人は倒せる。

 

 もう一人が撃つ方が早い。

 

 鬼太郎は棚を見上げた。

 

 布の束。

 

 空の木箱。

 

 蓋の閉まった金属缶。

 

 床には、黒い油染みが伸びている。

 

 鬼太郎は布を一枚取り、油染みへ押しつけた。

 

 手前の木箱へ載せる。

 

 燃やすのは、帳簿から離れた場所だけでよい。

 

 足音が近づく。

 

 外を見に行った男が戻ってきた。

 

「車が一台ある。ほかには誰もいない」

 

「裏は?」

 

「今から見る」

 

 鬼太郎は、木箱へ右手を向けた。

 

 内側の力へ触れる。

 

 今日、すでに何度も使っている。

 

 身体の奥に、鈍い疲れがあった。

 

 それでも、火は形になった。

 

「アギ」

 

 声は小さく抑えた。

 

 赤い火球が木箱を砕く。

 

 油の染み込んだ布へ火が移り、一気に燃え上がった。

 

「火だ!」

 

 三人の視線が、部品置き場へ向く。

 

「消せ!」

 

「誰かいるぞ!」

 

 鬼太郎は棚の反対側から走った。

 

 六歳の足は短い。

 

 だが、低い身体は机の陰へ隠れる。

 

 一人が火へ向かい、もう一人が拳銃を部品置き場へ向けている。

 

 事務室の前が空いた。

 

 鬼太郎は扉へ滑り込んだ。

 

     ◆

 

 事務室は狭かった。

 

 机。

 

 椅子。

 

 書類棚。

 

 床に置かれた旅行鞄。

 

 鍵はかかっていない。

 

 鬼太郎が開くと、衣服と紙幣の下に厚い帳簿があった。

 

 黒ずんだ革の表紙。

 

 買い手から聞いた特徴と同じ傷が、背の部分に走っている。

 

 数頁を開く。

 

 日付。

 

 名前らしい記号。

 

 金額。

 

 内容を読む必要はない。

 

 表紙と中身が一致すれば十分だった。

 

 鬼太郎は帳簿を鞄へ入れた。

 

 外で銃声が響いた。

 

 壁の金属板が鳴る。

 

「出てこい!」

 

 男の怒鳴り声。

 

 火はまだ広がっている。

 

 油が燃え、黒い煙が天井へ溜まっていた。

 

 表から出れば撃たれる。

 

 入ってきた窓へ戻るには、工場の中央を通らなければならない。

 

 鬼太郎は事務室を見回した。

 

 壁の上部に、小さな換気窓がある。

 

 机を動かせば届く高さだった。

 

 鬼太郎は椅子を机の上へ載せた。

 

 小さな身体でも、軽いわけではない。

 

 椅子が揺れる。

 

 外から足音が近づく。

 

 鬼太郎は窓の留め金を外した。

 

 錆びついて動かない。

 

 ポケットから折り畳みナイフを出す。

 

 閉じた柄を金具へ当て、何度も叩いた。

 

 事務室の扉が開く。

 

「いたぞ!」

 

 鬼太郎は振り返った。

 

 拳銃を持つ男が、扉の向こうにいる。

 

 銃口が上がる。

 

 椅子から飛び降りても間に合わない。

 

 鬼太郎は右手を向けた。

 

 内側の力をつかむ。

 

「アギ」

 

 銃声と炎が、ほとんど同時に走った。

 

 弾丸が換気窓の枠を砕いた。

 

 木片が鬼太郎の頬を掠める。

 

 火球は男の胸へ当たった。

 

 服が燃え上がり、男が背中から倒れる。

 

 拳銃が床を滑った。

 

 鬼太郎はそれを見た。

 

 拾いに行く時間はない。

 

 炎を見た残りの男たちが、こちらへ来る。

 

 鬼太郎はもう一度、ナイフの柄で留め金を叩いた。

 

 金具が外れる。

 

 換気窓を押し開き、椅子から机へ上がった。

 

 背後で怒鳴り声がする。

 

 窓へ頭を入れ、鞄を押し出す。

 

 続いて身体を滑らせた。

 

 地面へ肩から落ちる。

 

 息が詰まった。

 

 立ち上がったとき、事務室の中で別の銃声が響いた。

 

 窓枠へ弾が当たる。

 

 鬼太郎は鞄を拾い、車のある方角へ走った。

 

     ◆

 

 誘拐犯は、先に外へ逃げていた。

 

 車のそばで立ち尽くしている。

 

 鬼太郎を見ると、男は目を見開いた。

 

「乗ってください!」

 

 鬼太郎が叫ぶ。

 

 男は動かなかった。

 

「帳簿は取ったのか」

 

「鞄の中です。早く」

 

 背後で扉が開く音がした。

 

 男がようやく運転席へ飛び込む。

 

 鬼太郎も後部座席へ乗った。

 

 エンジンがかかる。

 

 工場から二人の男が出てきた。

 

 一人は拳銃を持っている。

 

「伏せろ!」

 

 誘拐犯が叫んだ。

 

 後ろの窓が砕けた。

 

 ガラス片が座席へ降り注ぐ。

 

 車が急発進する。

 

 鬼太郎は鞄を胸へ抱き、身を低くした。

 

 帳簿へ弾は当たっていない。

 

 車が金網の切れ目を抜ける。

 

 工場の前に停められていた別の車へ、男たちが向かっていた。

 

「追ってくる!」

 

 誘拐犯の声が裏返る。

 

「速度を落とさないでください」

 

「無茶を言うな。あいつらの方が速い!」

 

 鬼太郎は割れた後部窓から外を見た。

 

 暗い道の向こうで、車の前照灯が灯る。

 

 距離がある。

 

 走る車へ直接炎を当てるのは難しい。

 

 だが、相手はまだ動き始めたばかりだった。

 

 鬼太郎は座席へ膝をつき、両手で身体を支える。

 

 揺れで狙いが定まらない。

 

 工場の出口。

 

 前照灯の間。

 

 車の正面を見据える。

 

 身体の奥から力を引き出す。

 

 頭が重い。

 

 喉が乾く。

 

 これ以上は、何度も使えない。

 

「アギ」

 

 火球が夜道を飛んだ。

 

 狙った車体には当たらなかった。

 

 手前の地面へ落ち、赤い炎が弾ける。

 

 相手の車が急に向きを変えた。

 

 金網の支柱へ側面から衝突する。

 

 前照灯が一つ消えた。

 

 それでも、すぐに追ってくるかもしれない。

 

「曲がれる道を使ってください」

 

「分かってる!」

 

 誘拐犯は何度も角を曲がった。

 

 工場の明かりが見えなくなる。

 

 後方に前照灯は現れなかった。

 

 鬼太郎は座席へ座り直す。

 

 呼吸が速い。

 

 右手がわずかに震えていた。

 

 銃弾は、アギより早かった。

 

 事務室で相手が一瞬でも迷わなければ、頭を撃ち抜かれていたかもしれない。

 

 手段が一つしかないことは、何も持たないことと大きく変わらない。

 

 鬼太郎は、胸の前の鞄を見た。

 

 それでも、仕事は終わった。

 

     ◆

 

 買い手の倉庫がある街へ戻る途中、鬼太郎は車を止めさせた。

 

 工場からも街からも離れた、建物のない道だった。

 

「なぜ止める」

 

 誘拐犯が尋ねる。

 

「少し休みます」

 

「早く戻った方がいい。あいつらが先に買い手へ――」

 

「追いつかれませんよ」

 

 鬼太郎は鞄から水を出した。

 

 少しずつ飲む。

 

 続けてアギを使ったため、身体が熱を持っている。

 

 力が完全になくなったわけではない。

 

 だが、今すぐ戦うのは避けたい。

 

 誘拐犯は、運転席で何度も後ろを見ていた。

 

「俺は、言われたとおりにした」

 

「ええ」

 

「工場にも入った。お前を逃がした。街まで運んだ」

 

「まだ街には着いていません」

 

「同じことだ」

 

 男は唇を舐めた。

 

「買い手にも、俺が役に立ったと言ってくれ」

 

「それで、どうするのです?」

 

「今までのことは忘れる。お前のことも話さない。もう子供にも手を出さない」

 

 鬼太郎は男を見つめた。

 

「信じてほしい。頼む」

 

「信じる理由がありません」

 

「なら、何をすればいい」

 

「もう十分です」

 

 男の顔に、安堵が浮かびかけた。

 

 鬼太郎は右手を上げた。

 

 安堵が凍りつく。

 

「待て」

 

「あなたには、大きな街までの移動手段と、買い手への案内役になっていただきました」

 

 鬼太郎は静かに告げた。

 

「今夜は、仕事先へ入る囮にもなり、帰りの車も運転していただきました」

 

「そうだ。役に立っただろう」

 

「ええ。ですから、今まで生かしていました」

 

 男が扉へ手を伸ばす。

 

「外へ出ないでください」

 

「助けてくれ!」

 

「誰もいませんよ」

 

 男は扉を開けた。

 

 車外へ転がるように出る。

 

 足がもつれ、道路へ倒れた。

 

 立ち上がろうとする。

 

 鬼太郎は後部座席から右手を向けた。

 

 この男は、鬼太郎がどこから来たのかを知っている。

 

 買い手の場所も知っている。

 

 アギを見て、その力を言葉にできる。

 

 もう利用価値はない。

 

「アギ」

 

 炎が男の背中へ当たった。

 

 悲鳴が夜道へ響く。

 

 男は燃える上着を脱ごうとしながら、地面を転がった。

 

 鬼太郎は車を降りた。

 

 男の身体が動かなくなるまで、道路の端で待った。

 

 呼吸が止まったことを確かめる。

 

 鬼太郎は自分の鞄だけを背負う。

 

 帳簿が入っているため、来たときより重かった。

 

 街の灯りは、歩いて行ける距離に見える。

 

 鬼太郎は一度も振り返らず、街の灯りへ向かって歩き始めた。

 

     ◆

 

 買い手の倉庫へ戻ったとき、夜は深くなっていた。

 

 入口にいた男が、鬼太郎を見て眉を上げる。

 

「一人か」

 

「ええ」

 

「あの男は?」

 

「用が済みました」

 

 入口の男は、それ以上尋ねなかった。

 

 鬼太郎の頬には、換気窓の木片が掠めた細い傷がある。

 

 服と髪には煙の臭いが染みついていた。

 

 事務所へ通される。

 

 買い手は、出ていったときと同じ机の向こうにいた。

 

 拳銃を持っていた部下もいる。

 

「戻ったか」

 

「依頼の品です」

 

 鬼太郎は鞄から帳簿を取り出した。

 

 机の上へ置く。

 

 買い手はすぐに手を伸ばさなかった。

 

 鬼太郎の姿を見ている。

 

「ほかの者は?」

 

「三人いました。一人は、僕のアギを直接受けています。残りの二人は生きています」

 

「殺さなかったのか」

 

「依頼は帳簿の回収でした」

 

 買い手の口元が、わずかに動いた。

 

「そのとおりだ」

 

 ようやく帳簿を手に取る。

 

 表紙の傷を確かめる。

 

 最初の頁から順番にめくっていく。

 

 途中を飛ばさない。

 

 頁の端。

 

 書き込まれた数字。

 

 挟まれていた小さな紙片。

 

 一つずつ確認している。

 

 鬼太郎は黙って待った。

 

 買い手が最後の頁を閉じる。

 

「抜かれた頁はない。中に挟んでいたものも残っている」

 

「それはよかったです」

 

「中を読んだか?」

 

「依頼の品か確かめるため、最初の数頁だけ確認しました」

 

「覚えているか」

 

「日付と金額が書かれていました。意味までは知りません」

 

 買い手は鬼太郎の目を見た。

 

 嘘かどうかを測っている。

 

「初めから最後まで読めたとしても、今の僕には使い道がありませんよ」

 

「今は、か」

 

「ええ」

 

 買い手は帳簿を引き出しへ入れ、鍵をかけた。

 

「仕事は終わりだ」

 

「では、次の仕事をいただけますか?」

 

「その前に、約束がある」

 

 買い手が部下へ目を向けた。

 

 部下は腰から拳銃を抜いた。

 

 今度は、鬼太郎へ向けない。

 

 弾倉を外す。

 

 拳銃の上部を引き、薬室に弾が残っていないことを確かめた。

 

 外した弾倉を自分のポケットへ入れる。

 

 空になった拳銃だけを、机の上へ置いた。

 

「触ってみろ」

 

 買い手が言う。

 

 鬼太郎は机へ近づいた。

 

 黒い金属。

 

 四角い銃身。

 

 人を殺すために作られた道具。

 

 右手を伸ばす。

 

 指が握把へ触れた。

 

 冷たい。

 

 初めて触れるはずの感触だった。

 

 それなのに、まったく知らないものではなかった。

 

 遠い場所で、これに似たものを握ったことがある。

 

 その程度の、曖昧な感覚。

 

 構え方は出てこない。

 

 狙い方も分からない。

 

 分解の手順も、撃ったときの反動も、霧の向こうにある。

 

 鬼太郎は拳銃を持ち上げた。

 

 重い。

 

 握把は手の中へ収まらず、指を回しきれない。

 

 引き金へ人差し指を置こうとすると、握りが崩れる。

 

 銃口が下がった。

 

 両手で支えても、腕に重さがかかる。

 

 拳銃を持つ部下が見ていた。

 

「無理だ」

 

 男が言う。

 

「手が小さすぎる。撃てても、まともには当たらん」

 

「そうですね」

 

 鬼太郎は否定しなかった。

 

「何か思い出したか?」

 

 買い手が尋ねる。

 

「触れたことがあるような気はします」

 

「使い方は?」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は拳銃を机へ戻した。

 

 知っている感覚はある。

 

 だが、この銃は自分の手に合っていない。

 

 借り物の靴へ足を押し込んだようだった。

 

「約束は果たした」

 

 買い手が言う。

 

「ええ。ありがとうございます」

 

「それで諦めるか?」

 

「なぜです?」

 

「今のお前には扱えない」

 

「今の僕へ合わないだけです」

 

 買い手の目が細くなる。

 

「合うものがあると思うのか」

 

「なければ、作ればよいでしょう」

 

 事務所が静かになった。

 

 拳銃を持つ部下が、呆れたように鬼太郎を見る。

 

 買い手だけは笑わなかった。

 

「銃は玩具ではない」

 

「分かっています」

 

「子供の手に合わせて作る職人など、表にはいない」

 

「表にいない方をご存じなのでは?」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

 買い手はしばらく黙っていた。

 

 やがて椅子から立ち上がる。

 

「勘違いするな」

 

「何をです?」

 

「お前は私の仲間ではない。対等な取引相手でもない」

 

「承知しています」

 

「今日の仕事を終えた。それも、帳簿を欠けさせずに持ち帰った。だから、その分の対価を払う」

 

 買い手は上着を取った。

 

「銃へ触れさせる約束は、今ので終わりだ。その先は、次の話になる」

 

「どのような話ですか?」

 

「自分で聞け」

 

 買い手が事務所の扉を開ける。

 

「ついてこい」

 

     ◆

 

 倉庫の外には、別の車が待っていた。

 

 買い手と鬼太郎が後部座席へ乗り、拳銃を持った部下が運転する。

 

 車は街の中心へ向かわず、夜の工業地区を進んだ。

 

 やがて、看板のない小さな作業場の前で止まる。

 

 正面の鎧戸は閉じていた。

 

 買い手は建物の脇へ回り、路地に面した鉄の扉の前へ立った。

 

 買い手が決まった順番で扉を叩いた。

 

 三度。

 

 少し間を置いて、二度。

 

 内側で鍵が動く。

 

 扉が細く開いた。

 

 買い手は、隙間の向こうへ短く告げた。

 

「仕事を持ってきた」

 

 しばらく返事はない。

 

 やがて扉が、鬼太郎一人なら通れる幅まで開いた。

 

 中から、金属を削った臭いと油の臭いが流れてくる。

 

 暗い部屋の奥に、人影が立っていた。

 

 買い手が鬼太郎を見る。

 

「ペタル・ヴァルチェフだ」

 

 それから人影へ視線を戻した。

 

「六歳の手で撃てる銃を欲しがっている」

 

 鬼太郎は、扉の向こうへ一歩踏み込んだ。

 

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