第七十話 白紙には、牙と火薬が残る
空になった紙袋を、ダンブルドアは丁寧に二度折った。
菓子はなくなった。
それでも、食卓の上には先ほどより多くのものが残っている。
鬼太郎とキーノの入学。
サーシェスを学校の近くへ置くための立場。
英国とブルガリアを往復するポートキー。
そして、森で今も続いている殺し合い。
ダンブルドアは折った紙袋を長衣の内側へしまうと、キーノへ顔を向けた。
「まずは、できることから確かめようかの」
「何をすればいい」
「先ほど見ておった杖を、使ってもらえるかね?」
キーノの手は、机の端に置いた杖へすぐには伸びなかった。
敵から奪った三本のうち、最も反応のよかった一本。
それを選んだのはキーノだが、最初から彼女のために作られた杖ではない。
「ここでか」
「危険な呪文を頼むつもりはないよ。今、使えるものだけでよい」
キーノはダンブルドアを見たまま、杖を取った。
細い先端が、窓から差す光を横切る。
「ルーモス」
杖先に白い灯りがともった。
昼の室内では強く見えない。それでも、輪郭は崩れず、揺れもしない。
ダンブルドアの青い目が、灯りではなくキーノの手元へ向く。
「ノックス」
光が消えた。
「もう一度、お願いできるかの?」
キーノは眉を寄せたが、断らなかった。
灯し、消す。
二度目も、杖先の光は同じ大きさで現れた。
「誰に教わった?」
「本を読んだ。最初は鬼太郎にも見てもらったが、こいつは私より酷かった」
「針先ほどの光は出ましたよ」
「あれを数に入れるな」
ダンブルドアが髭の下で笑う。
「杖には、持ち主との相性がある。借り物でそれだけ安定しておるなら、少なくとも魔法を学べぬ心配はなさそうじゃ」
「なら、入れるのか」
「入れる道を作るための理由が、一つ増えた」
「まだ足りないんだな」
「わし一人が頷けば、明日から全てが整う――と言えれば格好はよいのじゃがな」
ダンブルドアは懐から細長い羊皮紙と羽根ペンを取り出した。
インク壺は出さなかった。
羽根ペンの先が紙へ触れると、黒い文字が勝手に並び始める。
「あなたを、鬼太郎くんに付随する滞在者として城へ入れるつもりはない。受け入れるなら、一人の生徒としてじゃ」
キーノは、紙の上を走る羽根ペンを見る。
「途中で、やっぱり化け物だから追い出すと言わないか」
「規則を破れば、罰を受けることはある。重大な危険があれば、退学について話し合うこともあるじゃろう。それは他の生徒も同じじゃ」
「血のことだけで追い出すかと聞いてる」
羽根ペンが止まった。
ダンブルドアは、柔らかな笑みを消さないまま答える。
「それだけを理由にはせんよ」
「口だけじゃないだろうな」
「書面にする。校長の署名も添えよう」
キーノは老人の顔を見続けた。
嘘を探している。
やがて杖を置いたが、警戒までは解かなかった。
「必要な確認とは、何をする」
「魔法の適性については、今ので一部を見られた。あとは、学校生活であなたの身体へ害が出ぬよう調べる。ホグワーツには、ポピー・ポンフリーという優秀な治療師がおる」
「そいつには、私のことを話すのか」
「必要な範囲では。知らずに治療する方が、あなたにとって危険じゃ」
「他には?」
「入学の許可を得るため、本当に必要な者だけじゃ。興味本位で広めることはさせん」
「約束できるのか」
「できる範囲と、できぬ範囲を分けて約束しよう。噂を一つ残らず消すとは言えん。じゃが、学校があなたの出自を触れ回ることはない」
すべて隠せるとは言わない。
聞こえのよい言葉だけを選んでもいない。
キーノは僅かに顎を引いた。
「それなら、確認は受ける」
「では、そのように進めよう」
「まだ一つある」
キーノは机の上の羊皮紙を指した。
「鬼太郎が行かなくなっても、私の入学は消えないようにしろ」
鬼太郎が隣を見る。
キーノは視線を返さなかった。
「お前が勝手に条件へ入れたんだ。私まで、お前の気分一つで学校へ行けなくなるのはおかしい」
「僕が入学しない場合でも、キーノさんは行くのですか?」
「それを決めるのは私だ」
「なるほど」
「何を笑ってる」
「よい条件だと思っただけですよ」
羽根ペンが、再び動き出した。
「わしも賛成じゃ。あなたの入学資格は、鬼太郎くんの在籍とは分けて扱う」
「最初からそうしろ」
「最初から、そのつもりだったのじゃがの」
「なら、先に言え」
「今、あなた自身の口で条件にできた。それも学校へ入る前の勉強じゃよ」
キーノは露骨に嫌そうな顔をした。
「やっぱり、この老人は信用できない」
「悲しいのう」
声は、少しも悲しんでいなかった。
◆
ダンブルドアが次に羊皮紙を向けた相手は、サーシェスだった。
「さて。君についてじゃが」
「先に言っておくが、ガキの世話も、城の門番も御免だぜ」
「制服も用意せずに済みそうで安心した」
「赤ん坊みてえな連中と揃いの服を着せるなら、金貨を積んでも足りねえな」
「残念じゃ。よく似合うと思うのじゃが」
「爺さん。喧嘩を売ってるなら、買ってやるぜ」
サーシェスは笑っている。
ダンブルドアも笑っている。
どちらも、冗談だけで言葉を交わしてはいなかった。
「ホグワーツは、普段から傭兵を城へ置く学校ではない」
「なら、俺を連れていく理由もねえだろ」
「城の中へ置く理由はない。じゃが、城の外でなら話は変わる」
羽根ペンが、羊皮紙の別の場所へ線を引いた。
「学校の周辺には、森もあれば、村へ続く道もある。荷や人を校外で受け渡すこともある。常勤の職員にするのではなく、必要な仕事ごとに頼む外部の警護協力者なら、席を作れるじゃろう」
「肩書だけで、仕事がねえってのは気に入らねえな」
「肩書だけで給金を払うとも言っておらんよ」
サーシェスの笑みが深くなる。
「話が早いじゃねえか」
「依頼する時に、仕事の範囲と報酬を示す。受けるかどうかは、その都度君が決める。受けた後に無断で放り出すことは認めん」
「当然だ。契約を途中で捨てる奴は、次の仕事を失う」
「学校の近くに住むことは?」
「断る。仕事がなきゃ、好きな場所にいる。ここにも戻るし、他の依頼も受ける」
「構わん。ただし、先ほど伝えた条件は残る。学校の者を標的にせず、得た情報を売らず、許可なく校内へ入らない」
「俺が別の場所で誰を殺そうが、学校は口を出さねえ。それも入れろ」
羽根ペンが止まる。
「何をしてもよいとは書けんのう」
「なら、学校と関係のない仕事まで命令する権利はねえと書け」
「法に触れる仕事を認める文にはせん。じゃが、学校との契約が、君を専属にするものではないとは明記しよう」
「それでいい」
「報酬は、金貨かね?」
「仕事による。金でも、弾でも、情報でもいい。面白い相手なら、それ自体が報酬になることもある」
「最後の条件は、できれば避けたいものじゃな」
「学校の依頼で殺させる気はねえって顔だな」
「少なくとも、君が喜ぶための相手を用意するつもりはない」
「なら、別で探すさ」
サーシェスは椅子の背へ預けていた身体を起こした。
「名前は、どうする」
「何のことかね?」
「俺は魔法使いじゃねえ。だが、あっちの世界に顔を知られて困る仕事もある。素性を全部、学校の帳簿へ書く気はねえぞ」
「契約に必要な情報まで偽られては困る」
「校長が本名を知るのは構わねえ。教師や役人へ、何でも見せるなと言ってる」
「必要な者に限る。それ以上に広げぬよう、わしが管理しよう」
「破ったら?」
「君が仕事を断る理由になるじゃろうな」
「それだけか?」
「わしへ苦情を言う権利もつけよう」
「そいつは高く売れそうだ」
「買い手がおればの」
二人の笑いが、同時に止まった。
羊皮紙には、サーシェスを鬼太郎の護衛とも、部下とも書いていない。
学校へ必要な時だけ仕事を受ける、独立した外部の人間。
それならば、彼がここで続ける仕事とも衝突しない。
「正式な契約は、内容を整えてから改めて見せる。それまでは、何も引き受けたことにはならん」
「分かってるじゃねえか。署名する前から俺を使ったら、倍を取るぜ」
「覚えておこう」
◆
羊皮紙の三つ目の欄には、二つの円が描かれた。
一つは、この砦。
もう一つは、ホグワーツの外。
ダンブルドアが羽根ペンで円と円を結ぶ。
「城内へ直接入る道は作らん。学校の防護の外に、人目につかず、こちらで管理できる場所を一つ定める」
「ホグズミードという村の近くですか?」
鬼太郎は、ボリスに仕入れさせた英国の地図で見た名を挙げた。
「よく調べておる。じゃが、村の中へ子供と武装した男が突然現れては、余計な目を引く。場所は別に選ぶ」
「移動できれば、場所にこだわりはありません」
「国を越えるポートキーじゃ。英国側だけでなく、こちらでも必要な手続きを調べねばならん。好きな時に誰でも使える物にはできんよ」
「使用者は、僕とサーシェスさん。それから、キーノさんが望んだ時です」
「キーノさんは生徒になるなら、外出の規則も守ってもらう」
「私だけ残るか、帰るかは自分で決める。だが、帰る時は勝手に消えない。それでいい」
キーノが言う。
「よろしい。鬼太郎くんも同じじゃ。週末だからと、授業や罰則から逃げるためには使わせん」
「授業へ出る価値があれば、逃げませんよ」
「価値を決めるのは、受ける前ではない」
「無価値だと分かった後は?」
「教師と話し合う」
「面倒ですね」
「学校とは、そういうものじゃ」
鬼太郎は地図へ目を落とした。
森との契約を維持するには、週に一度戻れれば足りる。
異変があれば、サーシェスかボリスを通じて知らせる方法も作れる。
毎日の鍛錬場所は、学校の近くで別に探せばよい。
「出発と帰還の報告は、誰にします?」
「担当の教師を決める。使う日時を知らせ、戻った後にも顔を見せる。ポートキーは第三者へ貸さず、登録した経路以外には繋げない」
「緊急の場合は?」
「何を緊急と呼ぶかによる」
「砦が襲撃された場合です」
「連絡方法を用意しよう。確認が取れれば、予定外の使用を認める」
「確認している間に、皆さんが死んだ場合は?」
「そのために、できるだけ早く知らせる手段を作るのじゃ。じゃが、君一人の判断で防護を出入りする道は渡せん」
鬼太郎は数秒だけ考えた。
完全な自由ではない。
だが、相手の学校へ入る以上、無条件で通すはずもない。
「分かりました。その条件で構いません」
ダンブルドアの眉が上がった。
「もう少し争うと思っておった」
「必要な理由が分かる条件へ、反対する趣味はありませんよ」
「坊主の場合、面倒だから破る可能性は残るけどな」
「サーシェスさん」
「違うか?」
「破った方が得であれば、考えます」
「ほらな」
ダンブルドアは溜息をつき、羊皮紙へ何かを書き足した。
「その正直さを評価するべきか、頭を抱えるべきか迷うのう」
「両方でよいのでは?」
「そうさせてもらおう」
◆
書き上がった羊皮紙は、契約書ではなかった。
キーノを一人の生徒として入学させるための条件。
サーシェスと学校が、仕事ごとに別の契約を結ぶための条件。
ポートキーを使う者と、経路と、報告の条件。
そして、鬼太郎が校内で守るべき規則。
話し合った内容を、ダンブルドアが持ち帰るための覚え書きに過ぎない。
それでも、白紙だった場所には三人分の立場が、混ざらずに残っていた。
ダンブルドアは羊皮紙を読み返し、最後の空欄へ羽根ペンを置く。
「ここだけは、まだ埋まらんようじゃ」
書かれているのは、森で捕らえた者の扱いだった。
「先ほどお話しした通りです。全員を生かすとは約束できません」
「全員を生かせと言っておるのではない。武器を捨て、森の外へ追い返せる者まで、実戦相手として殺さぬよう求めておる」
「降伏が本物で、追放しても再び害を与えず、こちらの情報も漏らさないと判断できれば、生かすことはあります」
「戦う力がない者なら?」
「力がなくても、情報を売ることはできます。仲間を連れて戻ることも」
「では、ボリスさんを残したのはなぜかね?」
「殺すより役に立ったからです」
「役に立たぬ者には、生きる理由がないと?」
「僕が理由を与える必要はないでしょう。僕たちへ害を与えずに生きるなら、好きにすればよいのです」
「それを判断する前に、銃を向けることがある」
「相手も同じですよ」
ダンブルドアは羽根ペンを置いた。
「君は、自分が殺す側に立ち続けられると思っておる」
「いいえ」
即座に返ってきた答えに、青い目が細くなる。
「僕も負ければ死にます。ですから、次も殺す側に立てるよう強くなります」
「自分が死ぬかもしれぬと知って、怖くはないのかね?」
「死にたくはありませんよ」
「それでも、殺し合いから離れるという答えは選ばんのじゃな」
「強くなるために必要であれば」
交わらない。
ダンブルドアは、殺さずに済む道を先に探そうとする。
鬼太郎は、生かす価値か、生かしても危険がない理由を先に求める。
どちらも、自分の言葉を引かなかった。
「学校の者も、物も、名も、森で誰かを処刑するためには使わせん」
「それは受け入れます」
「君自身の判断まで、認めたわけではない」
「ええ。止められないことと、認めることは違います」
「先ほど聞いたよ」
「大切な部分ですから」
「もう少し、十歳らしい部分も大切にしてほしいものじゃ」
「年齢を理由に、相手は手加減してくれませんよ」
「学校の中では、手加減を知る者とも会える」
「それには期待しています」
ダンブルドアは、空欄を残したまま羊皮紙を巻いた。
合意できなかったことまで、合意したようには書かなかった。
「今日決められるのは、ここまでじゃな。キーノさんの件も、ポートキーも、調べて整える時間がいる。サーシェスくんには、正式な契約を改めて見せる」
「くんはやめろ」
「では、サーシェスさん」
「気色悪いな」
「難しい若者じゃ」
「あんたに言われたくねえ」
キーノが、小さく息を吐いた。
「結局、いつ決まる」
「入学までには、まだ時間がある。じゃが、待たせすぎぬようにしよう。次に来る時には、少なくとも何が可能で、何に別の許可がいるかを示す」
「来られる前に知らせてください」
鬼太郎が言う。
「今日のように突然ではなく」
「驚かせてしまったかの?」
「罠を仕掛け直す時間がありませんでした」
「連絡は必要じゃな」
「冗談ですよ」
「どこまでか、聞かぬ方がよさそうじゃ」
ダンブルドアは立ち上がり、巻いた羊皮紙を長衣へ収めた。
椅子が床を擦る。
交渉は終わった。
まだ何一つ、正式には決まっていない。
だが、老人は拒絶せず、鬼太郎も席を立たなかった。
入学へ続く扉は、僅かに開いている。
「最後に、一つよろしいですか?」
鬼太郎の声に、ダンブルドアが足を止めた。
「条件なら、今日は随分と聞いたつもりじゃが」
「入学条件ではありません。僕個人からの質問です」
サーシェスが鬼太郎を見る。
キーノも、片づけかけていた杖から手を離した。
「ダンブルドアさんと同じ程度に強い方は、この世界にどれほどいます?」
老人の笑みは消えなかった。
ただ、扉へ向いていた身体が、ゆっくりと食卓へ戻る。
「なぜ、それを知りたいのかね?」
「自分の位置を知るためです」
「戦う相手を探すため、ではなく?」
「それもあります」
鬼太郎は否定しなかった。
「ですが、今の僕では、あなたと戦うところまで届かない」
森の入口で見た歩き方。
サーシェスの銃口が向いても変わらなかった呼吸。
砦の中へ入ってから、一度も無防備にならなかった立ち位置。
杖を抜くより早く撃てるかどうかではない。
鬼太郎が銃へ手を伸ばすより先に、伸ばしたことを後悔させられる。
そう思わせる何かが、この老人にはあった。
「以前の僕が、あなたより強かったかは分かりません」
記憶の中には、神を殺したという事実だけがある。
その時に何を使い、誰と並び、どれほどの力を持っていたのかは、まだ霧の向こうだ。
「今の僕が挑んでも、殺し合いにはならないでしょう。勝負になる前に終わる」
「それを理解しておって、なお強い者を探すのかね?」
「理解したからですよ」
鬼太郎は、穏やかに笑った。
「届かない方がいるなら、届く方法を覚えればよい」
ダンブルドアの目から、今度こそ笑いが薄れた。
鬼太郎は椅子から立たない。
武器にも触れない。
ただ、強者を前にした者の目で、白い髭の老人を見る。
「ダンブルドアさん」
一度、言葉を切った。
「僕に、戦い方を教えていただけませんか?」
窓の外で、修繕中の石を置く音がした。
森トロールの足音が遠ざかり、砦の中庭へ風が抜ける。
ダンブルドアは答えなかった。
鬼太郎が何を求めているのか。
教えた力を、何のために使うのか。
眼鏡の奥の青い目だけが、それを測るように細められた。