神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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空けておく場所

第70話 空けておく場所

 

 鞄を閉めた後で、キーノはまた留め具を外した。

 

 机の上には本が一冊と、紺色の帳面がある。まだ使うつもりで、外へ出したものだった。

 

「忘れ物ですか?」

 

 鬼太郎が尋ねると、彼女は鞄の口を押し広げた。

 

「最後に入れる場所を見ただけだ。下へ潜ると、また全部出すことになる」

 

「では、こちらは入れてしまっても?」

 

 畳んだ冬マントを示すと、キーノは頷いた。本の角が服へ食い込まないよう、包みを分けて収める。

 

 荷造りを始める前には、椅子にも床にも物があった。今は机の脚まで見える。

 

 鍋の入った箱は、扉の近くへ寄せてある。小瓶は中でぶつからないよう別に包んだ。着くまで使わない荷と、道中で開ける鞄を、キーノは置く場所から分けていた。

 

「少なくなったな」

 

「鞄の中には、同じだけありますよ」

 

「分かってる。部屋の話だ」

 

 鬼太郎は笑い、窓辺へ置いていた地図を折った。

 

 出発の日と時刻は、もう何度も確かめていた。それでも、物が片づくにつれて、予定の紙を見るのとは違う近さで、その日が迫ってきた。

 

 キーノは箱の蓋へ手を載せ、部屋を見回している。

 

「ここに残す分は、動かさなくていいんだな」

 

「ええ。戻ってきたときにも使いますから」

 

 彼女はすぐに返事をせず、椅子を机へ戻した。いつも自分が座る側だった。

 

     ◆

 

 出発までの数日、鬼太郎は鍛錬を短く切り上げた。

 

 杖を戻す手と、次に動く足を揃える。土へ引いた線の外へ出られなければ、速さを落としてやり直す。上手くいった一回を増やそうとして、何度も続けることはしなかった。

 

 サーシェスが戻った日の午後、食堂で当面の予定を聞いた。

 

 椅子の脇には、町へ持ち出す彼の荷がある。二人の学用品を包んだ箱には、手を掛けなかった。

 

「俺は、しばらくこっちだ。町で受けられる仕事もある」

 

「今回は、僕たち二人で向かいますね」

 

「ああ。駅まで送りに行く仕事は、受けてねえ」

 

 キーノが顔を上げた。

 

「私たちが戻る前に、ほかへ行くこともあるのか」

 

「仕事次第だ。出る前に、行き先と戻る見込みは残す。帰ったら俺がいるつもりで、何でも積んどくなよ」

 

「お願いする分は、その前に相談します」

 

 鬼太郎が答えると、サーシェスは卓の水差しを取った。

 

「学校から話が来ても、中身を見て決める。犬が道を見るから、俺が暇になるわけでもねえからな」

 

「グロブニクさんも、谷を空けて待つ約束ではありませんからね」

 

「なら、留守にする奴ばかり増えねえようにしろよ」

 

 サーシェスの笑いに、キーノが鼻から息を吐いた。彼女は自分の紙へ書き込まず、鬼太郎が取引の紙とは別の一枚を出すのを待った。

 

 その翌日、荷を運んできたヴェトルにも、出発する日を伝えた。

 

 青緑の背から荷帯を外す間、翼は畳まれたままだった。鬼太郎は下ろされた包みを受け取り、翼の端へ紐が触れていないのを見てから脇へ寄る。

 

「今日は、もう戻る」

 

「ええ。次の荷は、運べる日を確かめてからお願いします」

 

「風が強ければ、飛ばない。あの小さいのを置いて、何度も往復もしない」

 

「そのように伝えておきます」

 

 ヴェトルは荷から顔を上げた。

 

「飛んでいて人間を見たら、今度は誰へ言う」

 

「砦で知らせを受ける方へ。ヴェリナさんにも、あなたから届くことを伝えておきます。見えた場所と、いつ見たかを。追って確かめる必要はありません」

 

「見えた分だけだ」

 

「ええ。それで結構です」

 

 サーシェスも、町へ出る日を相談した。ヴェトルはその日は分からないと答え、前に確かめた南の着地点を使うことだけを確かめた。

 

 鬼太郎は、二人の話に別の運搬を足さなかった。

 

 ヴェトルは首を巡らせ、包みが全て下りたのを見た。翼が開く前に三人が離れると、低い枝を避けて飛び上がった。

 

 背中が木々の上へ抜けた後も、しばらく葉が揺れていた。

 

 鬼太郎はその日のうちに、ヴェリナへ飛行中の知らせについて伝えた。彼女は受けた場所と時刻も残すと答え、次の相談へ戻った。

 

     ◆

 

 挨拶に歩く場所は、何日かに分けた。

 

 森の全てを回るつもりはない。糸の境界や川沿いの道も、地図の上では近く見えて、歩けば休む時間が要る。初めて砦へ来たときのように荷を背負わなくても、足元を選ばずに進めるわけではなかった。

 

 川へ向かった日には、キーノも一緒だった。

 

 ヴェリナは水の入った器を木陰へ置き、二人の姿を見て立ち上がった。

 

「もう、行くの?」

 

「明後日です。留守中の紙は、食堂のいつもの場所へ残します」

 

 鬼太郎が告げると、ヴェリナは頷き、相談の済んでいない屋根材のことだけを聞いた。下から動かせる分は片づけるが、上の壁へ取りつける新しいものは、そのまま待つという。

 

「できたことは、戻ったら話すわ。途中で変えたことも」

 

「お願いします。皆さんで決められる分は、進めてください」

 

「同じことを、また一人ずつ聞いて回らないでね」

 

 鬼太郎は一度瞬きし、笑った。

 

「先に、お話を伺うことにします」

 

 キーノは、渡された小さな薬草の袋を持ち直した。砦へ持ち帰り、乾かす場所へ置く仕事を頼まれている。

 

「窓の近くで、重ねなければいいんだな?」

 

「ええ。夕方は窓を閉じることも、そちらにいる者へ伝えて」

 

「分かった。先に戻る」

 

 キーノは鬼太郎へ、次に歩く場所を確かめてから、知っている帰り道へ入った。小さな袋を鞄の下へ押し込まず、手に提げている。

 

 鬼太郎も川を離れ、糸の境界へ向かった。

 

 日の当たる隙間で、細い糸が光を拾っていた。鬼太郎は先へ踏み込まず、ミラの名を呼ぶ。

 

 木々の間で脚が動いた。

 

「糸を見に来たのか」

 

「今日は、ご挨拶です。次に出す量は、もう伝えていただいたそうですね」

 

「まだ全部は渡さない。乾いていない分がある」

 

「ええ。急がせるつもりはありませんよ」

 

 ミラは枝へ掛けた糸を手元へ寄せ、鬼太郎の地図を見た。

 

「それは、置いていくのか」

 

「使う方を砦へ残します。こちらの印は、教えていただいたままです」

 

 開いて見せると、ミラは一本の木を示した。紙の線と実際の境が、同じ場所にあるのを確かめる。

 

「帰ってからも、ここで呼べ」

 

「もちろんです。また、お話をしましょう」

 

 ミラは彼を見たまま、糸を巻いた。

 

「なら、そのときに出す分も残しておく」

 

 鬼太郎は地図を畳んだ。彼女が持つ糸へ手は伸ばさず、来た道を戻った。

 

     ◆

 

 砦では、ボグダンが受渡しの紙を揃えていた。

 

 鬼太郎が台へ近づくと、彼は次に来るボリスの返事を見せた。来訪日と、買出しの品が書いてある。出す包みの数は、別の欄だった。

 

「数の分からん物を、ここへ混ぜるなと言ってある」

 

「困ったときは、僕が戻ってからでも」

 

「知らん物を、知っている顔で渡さん」

 

 ボグダンは紙を台へ戻した。

 

「お前がいなくても、前に受けた物なら分かる。持ってきた者にも聞く」

 

 そこへ、小人が道の向こうから来た。午後に荷車を入れる場所を伝えかけ、鬼太郎を見ると止まった。

 

「そちらへ言うのか?」

 

「今の話なら、ボグダンさんへ。その荷は、僕が受け取るものではありませんから」

 

 小人はボグダンへ向き直った。

 

 鬼太郎は横へ退き、二人が道と時刻を確かめるのを待った。帰還用の空間へ台を置こうとした者がいたらしく、ボグダンが別の通り方を指で示す。

 

 話が済んでから、鬼太郎は短く挨拶をした。

 

 翌日は、北へ歩いた。

 

 白い石の手前で呼ぶと、返事は少し遅れて来た。岩の間から黒い頭が現れ、暗い赤色の右目がこちらの手を見る。

 

「今日は何だ」

 

「明日、砦を出ます。その前にお伝えしておこうと思いまして」

 

「戦いに来たのではないか」

 

「今日は、しません。次に戻ったとき、あなたも望まれるなら」

 

 グロブニクは鬼太郎の左肩へ目を移した。歩いてここまで来ても、腕の重さはもう感じなかった。

 

「木を直すだけなら、知っている」

 

「ええ。僕も、考えてきます」

 

 鬼太郎の声に、楽しさが混じった。あの前脚をもう一度見るなら、今度はどこへ動かせるだろう。彼は石の手前に立ったまま、その黒い脚を見た。

 

「考えて来い」

 

「楽しみにしています」

 

 グロブニクの爪が、石の脇の土を掻いた。

 

 留守中の知らせの渡し方は、既に確かめていた。鬼太郎は同じ頼みを重ねず、軽く頭を下げる。

 

「では、また」

 

 黒い頭が背を向けた。

 

 谷の奥へ消えるまで見てから、鬼太郎も砦への道へ戻った。行きと帰りの道を、自分の足で確かめて歩ける。

 

 次の勝負を始めるのは、ここへ戻ってきてからだった。

 

     ◆

 

 出発前の夜、キーノは長く本を開いていた。

 

 読むところを増やすより、挟んだ紙を選り分けている。分かった言葉と、まだ聞きたいものを同じ頁へ残していたので、途中で一度、鬼太郎へ確かめた。

 

「これ、もう聞いたか?」

 

「その言葉なら。ですが、こちらの問いは、まだだと思います」

 

 彼が指した方へ、キーノは短い線を引いた。それから帳面を開き、問いだけを書き移す。

 

 鬼太郎が荷の留めを確かめていると、彼女の筆が止まった。

 

「汽車で、同じ部屋になった奴にも、名前を言うんだな」

 

「お話しするなら、そうでしょうね」

 

「私が先に聞いてもいいのか」

 

「ええ。僕も、知らない方ばかりですから」

 

 キーノは最初の頁を見た。そこに書いた長い名前は、もう何度も自分で読んでいる。

 

「お前が、全部先に答えるなよ」

 

「僕の名前まで、教えてくださいますか?」

 

「自分の分は、自分で言え」

 

 鬼太郎が笑うと、彼女も少し口元を緩めた。

 

 窓の外は暗い。どこかで戸が閉まり、廊下を歩く音が遠ざかっていく。キーノはその音を聞き、本の頁へ目を戻した。

 

 明日の夜は、別の部屋で眠る。

 

 鬼太郎も荷を壁へ寄せた。すぐ取り出せるようにした紙には、ダンブルドアと会う場所と時刻がある。そこから先の移動は、校長と一緒だった。

 

「そろそろ、休みましょうか」

 

「ああ。これは、朝に入れる」

 

 キーノは本を閉じ、机の中央へ置いた。

 

     ◆

 

 朝の食事には、二人とも早く来た。

 

 キーノは皿を片づけてから、一度だけ部屋へ戻った。本の間の紙を確かめ、鞄へ入れる。紺色の帳面は、取り出しやすい場所へ。

 

 最後に羽根ペンを収めると、机の上には何もなくなった。

 

 彼女は掌を机へ置いた。

 

 ここで自分の名前を書き、分からない言葉を尋ねた。銀の留め金を掛ける音も、机へ本を落とした音も、この部屋で覚えたものだった。

 

 椅子は、そのまま机の下へ戻した。

 

 廊下へ出ると、鬼太郎も自分の荷を持って来た。

 

「忘れ物は?」

 

「見た。全部ある」

 

 鬼太郎は彼女の持つ鞄を見た。キーノは渡さず、肩へ掛け直す。

 

「これくらい、自分で持てる」

 

「では、行きましょう」

 

 鬼太郎は残った箱の持ち手を取り、キーノが開けた扉を通った。廊下へ出てから荷を掛け直し、階段では先に下りる彼女と間を空ける。

 

 二人は並んで階段を下りた。

 

 門の内側の空間は、空けられていた。その脇で、サーシェスが待っている。

 

「学校へ持っていくには、でけえ杖だな」

 

 荷から出た黒檀へ目を向け、彼は笑った。

 

「選んでくださったので、仕方ありませんね」

 

「机にぶつけて折るなよ」

 

「そのために、外へ出る向きも考えましたよ」

 

 鬼太郎は荷を少し動かし、長い杖が隣の鞄へ当たらないのを確かめた。キーノが先に指定の場所へ入り、足元へ荷を寄せる。

 

「戻ったら、学校の話を聞かせろ」

 

 サーシェスの声に、彼女は顔を上げた。

 

「あんたも、町で何があったか話せよ」

 

「金になる話なら、ただじゃ教えねえぞ」

 

「何でも仕事の話にするな」

 

 キーノが言い返すと、サーシェスは声を出して笑った。

 

 ボグダンも門へ来ていた。台を運ぶ者へ、反対側を通れと言ってから二人を見る。

 

「ここへ物を置かんことは、伝えてある」

 

「ありがとうございます。戻るときも、決めたとおりに知らせます」

 

 鬼太郎が返事をすると、ボグダンは頷き、足元の石を靴で擦った。土の塊がひとつ、場所の外へ転がった。

 

 小人が、干してある薬草の窓について尋ねた。

 

 キーノはそちらへ身体を向ける。

 

「夕方に閉める。湿るからな。袋は、その下に置いた」

 

「分かった。見ておく」

 

 短い返事を聞くと、キーノは門の上へ目を向けた。

 

 初めてここで眠ったとき、壊れたところから暗い空が見えた。今は屋根があり、雨を避けて本を置ける。さっき食事をした部屋から、器を片づける音がした。

 

 彼女は、その方角をもう一度見た。

 

 鬼太郎が金属の輪を出す。

 

「時刻ですね」

 

 学校の外では、ダンブルドアが待っている。その先へ行けば、ロンドンの通りと、明日の汽車がある。

 

 キーノは輪へ手を伸ばした。鬼太郎も触れ、荷が互いの足を塞いでいないのを確かめる。

 

「行ってきます」

 

 鬼太郎が言うと、サーシェスが軽く手を上げた。

 

 次の瞬間、腹の奥を引かれた。

 

 足元の石が遠ざかり、門も赤い髪も、二人を見ていた顔も流れる。輪に触れたキーノの手が、一瞬だけ強くなった。

 

     ◆

 

 門の内側には、二人のいなくなった場所が残った。

 

 ボグダンはそこを見てから、台を運ぶ者へ声を掛けた。車輪を通す側を変えれば、空けた場所を踏まずに済む。

 

 サーシェスは主棟へ戻り、小人は薬草を干した窓を見に行った。

 

 ボグダンも倉庫へ引き返した。次の受け渡しに使う布を出し、台へ広げる。

 

 昼近く、糸の包みが届いた。

 

 渡しに来た者が数を告げ、ボグダンが紙と照らす。一つはまだ乾きが悪く、今日渡す分から外すことになった。

 

「なら、こっちは残す。商人にも言うぞ」

 

「そうしてくれ」

 

 紙の数を直し、分けた包みに紐を掛ける。子供を呼んで、どちらへ置けばよいか聞く者はいなかった。

 

 門の外から、別の声がする。

 

 南の道を通ってきた小人が、荷車は夕方になると伝えた。途中の広い場所で、先に待てるようにしてあるという。

 

「大きいのも通ったか」

 

 ボグダンが尋ねると、小人は木々の間を指した。

 

 湿った土に、大きな爪の跡が残っていた。

 

 グロブニクは砦へ来ず、その分岐を歩いていったらしい。小人は見た場所を伝え、谷の方までは見ていないと付け加えた。

 

 ボグダンは荷車の来る時刻を確かめ、台へ戻った。

 

 明細の紙の端が風で浮く。石を載せ、糸の包みが濡れないよう布を掛け直した。夕方には窓を閉めると、小人が奥へ向かって声を渡す。

 

 門の脇へ、余った箱を置こうとする者が来た。

 

 ボグダンは手を上げ、別の壁際を示した。

 

「そっちだ。ここは空けておく」

 

 箱が持ち直され、二人の発った石の上を通らずに運ばれていく。

 

 次の荷を確かめる音が、砦の中で続いた。

 

第5章「留守にも牙は残る」完

 

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