汽車に乗る前の夜
第71話 汽車に乗る前の夜
靴の底が土を踏んだ。
鬼太郎は膝を曲げ、前へ流れかけた箱を身体へ引き寄せた。金属の輪に触れていたキーノの手が離れる。彼女も一歩踏み直したが、鞄を落とすことはなかった。
砦の門は、もう見えない。
以前、往復を試した学校外の指定地点だった。少し離れたところで、旅装の男がこちらを見ていた。白い髭の代わりに赤褐色の髪があり、顔も若い。
「二人とも、揃っておるな」
声はダンブルドアだった。
「箱もありますよ。少し、先に行きたそうでしたが」
「手を離さんでよかったのう」
鬼太郎は箱を下ろし、キーノが持ち手を握り直すのを待った。輪をしまってから左肩を動かす。荷を支えても、痛みはなかった。
校長は二人の足元と荷を順に見た。
「気分が悪ければ、ここで少し休もう」
「平気だ。それより、学校はどっちだ?」
キーノが辺りを見回す。
ダンブルドアは一方へ顔を向けたが、城を見せるために歩き出しはしなかった。
「ここからは見えんよ。明日の晩には、もっとよい場所から眺められる」
「また、ここへ戻るのにか」
「今度は、ほかの一年生と一緒じゃ」
キーノは背を伸ばして向こうを見た。それでも塔は見つからなかったらしく、やがて足元の鞄へ目を戻す。
鬼太郎も、校長の示した方を見ていた。
あの近くに、これから通う場所がある。教科書の言葉を知るだけでなく、実際に扱い、教えられる者がいる。
「何か気になるかね」
「皆さん、もういらっしゃるのでしょうか。先生方は」
「準備のためにの。今から会いに行くつもりなら、明日まで待ちなさい」
「ご挨拶くらいは、と思ったのですが」
「挨拶の後に、質問を十ほど並べる顔をしておる」
キーノが隣で吹き出した。
「その後に、試してくれって言うぞ」
「お二人とも、まだ尋ねていないことまでお断りになるのですね」
「尋ねられてからでは、出発が遅れるのでな」
校長は腕を差し出した。鬼太郎は箱を持ち上げ、空いた手を掛ける。キーノも反対側へ寄った。
輪で来た道の先を、今度は校長に連れていってもらう。
周りが狭まった。胸も腕も、荷物ごと押し込められる。鬼太郎は箱の持ち手を離さず、固い地面へ出たところで息を吐いた。
隣では、キーノが大きく息を吸っていた。
「……こっちは、何度やっても慣れんな」
「急いで歩くことはない。落ち着いてからでよい」
人目を避けた場所から出ると、車の走る音が近づいた。森の湿った匂いは薄れ、建物の壁と、人の肩が見える。
漏れ鍋の扉は、通りの向こうにあった。
◆
トムは、カウンターの前へ来た二人の荷物を見た。
「買い物かい?」
「今日は、一泊お願いしたいのです。二人で、一部屋ずつ空いていますか」
鬼太郎が尋ねると、トムは後ろの鍵へ目を向けた。
空き部屋と料金を聞き、夕食もここで取れることを確かめる。横でキーノが帳面を開いた。
「明日の朝、早く食べて出たい。何時からなら頼める?」
「学校の汽車だね。それなら、間に合うように用意できるよ」
トムは時計を見て、時刻を教えた。キーノが書き留める間に、鬼太郎は代金を数えた。
校長は少し後ろに立ち、二人が鍵を受け取るのを待っていた。階段へ向かうときにも、キーノの鞄へ勝手に手を伸ばすことはなかった。
二つの部屋は隣同士だった。
鬼太郎は自分の部屋へ箱を置き、鍋と小瓶が中で動いていないか確かめた。本を収めた鞄は机の脇へ。窓と扉を見てから廊下へ戻ると、キーノもちょうど鍵を掛けたところだった。
「今度は、ここで一晩か」
彼女は鍵を掌の中で回し、しまった。
階下の空いた卓で、ダンブルドアは駅までの行き方を確かめさせた。汽車は十一時発。九番線と十番線の間にある入口の話になると、キーノの羽根ペンが一度止まった。
「普通に通ればいいのか?」
「途中で止まらぬことじゃ。荷を持った親子も通るじゃろう。人前で入口を大声で尋ね歩くより、周りをよく見なさい」
鬼太郎は、自分たちの切符とキーノの帳面を見比べた。駅名も時刻も合っている。
「サーシェスは、ここには来ないんだな」
書き終えたキーノが尋ねた。
「ええ。今回は、僕たちだけです」
「分かってる。朝、間違えて待たないように言っただけだ」
鬼太郎は茶へ口をつけた。
赤い髪の男は、今頃何をしているだろう。町へ出たか、まだ砦にいるか。自分が英国へ着いたことで、向こうの予定まで変わるわけではない。
校長は二人の荷物がない卓を見て、茶碗を置いた。
「午後は、どうするつもりかね」
「横丁を見てこようと思います。必要な物を探すだけで終わってしまいましたから」
「それもよかろう。夕方まで歩き続けて、明日の汽車で眠ってしまわんようにな」
キーノが顔を上げる。
「窓から外を見たい。寝るつもりはないぞ」
「眠気は、予定を聞いてくれんからの」
ダンブルドアは椅子を引いた。学校へ戻って、迎える支度をするという。
鬼太郎も立ち上がり、礼を言った。
「次は、いつものお姿ですか」
「大広間でこの顔をしておったら、誰が校長なのか分からなくなるわい」
「僕たちは、声で分かりましたよ」
「ほかの生徒にも、一人ずつ話しかける仕事を増やさんでくれ」
キーノは笑い、帳面を閉じた。
若い姿の校長を見送ってから、二人は部屋へ戻った。持ち歩く物だけを取り、重い箱は置いていく。鬼太郎は右腰のホルスターが上着で隠れていることを確かめ、黒檀を手にした。
裏庭で煉瓦を叩くと、見覚えのある壁が開いた。
向こうには、包みを抱えた親子や、店先へ急ぐ生徒がいた。キーノはその流れを見てから、鬼太郎の隣を抜けて通りへ出た。
「今日は、どこからだ?」
「まだ、決めていません」
「なら、あっちへ行こう」
彼女が指した方へ、二人で歩き出した。
前に来たときには通り過ぎた店の窓に、色の違うインクが並んでいた。キーノは深い赤と青を見比べ、鞄の留め具へ手を添える。
「聞くことと、答えを分けて書けるな」
「今の帳面にも、使いますか?」
「ある分を使ってからだ。それに、色を替えるたびに瓶を開けるのは面倒だろ」
そう言って離れたが、隣の窓では、また足が止まった。
本の見開きに描かれた人物が、帽子を取っていた。挨拶を終えると被り直し、次に覗いた客へまた頭を下げる。
キーノは、二度目の挨拶まで見た。
「絵なのに、こっちを見てる」
店の者が見本を差し出すと、彼女は触れてよいか聞いてから受け取った。紙の端を押さえ、少し斜めにする。絵の人物は頁から落ちず、こちらへ顔を向けた。
「帳面に描く絵も、こうできるのか?」
「動くようにする方法は、あるのでしょうね」
「方法を聞いてるんだ。お前に分かるかと」
「まだ、分かりません」
鬼太郎が答えると、キーノは絵へ目を戻した。少し名残惜しそうに見本を返し、礼を言う。
店を離れる前に、紺色の帳面へ短く書きつけた。
鬼太郎も通りを眺めた。次に目を引いたのは、箒の並ぶ窓だった。
柄の太さも、枝の束ね方も違う。速さを大きく掲げた札の横に、扱いやすさを記したものがあった。
店へ入って用途を尋ねると、店主は初めて乗るのかと聞き返した。
「ええ。まだ、飛ばしたこともありません」
「それなら、学校で習ってから選ぶといい。速いものを買えば上手くなるわけじゃないからね」
「乗る方が、浮かせる呪文を使い続けるのではないのですね」
「箒に魔法がかけてあるんだ。操る方は覚えなきゃならないが」
鬼太郎は許可を取り、店主の支える見本へ手を添えた。木の柄は滑らかで、普通に持てば重さもある。
ここから人を載せて浮く。
輪にも、行く場所と使う者が定められていた。だが、箒には乗り手が向きを決める余地があるらしい。同じ移動の道具でも、覚えることは随分違いそうだった。
「お前、それも作ってみたいのか?」
キーノの声に、鬼太郎は柄から手を離した。
「作るまでに、何を覚えるのかは知りたいですね」
「先に乗れ」
「ええ。そちらも楽しみです」
店主は二人を見て笑い、見本を戻した。鬼太郎は礼を言って外へ出る。
キーノはすぐ歩き出さず、窓の箒をもう一度見た。
「木の上から、城を見ることもできるのかな」
「飛べるようになれば」
「なら、私はそっちがいい」
彼女は言って、今度こそ通りへ戻った。
午後の人混みは、少しずつ厚くなっていた。鬼太郎は荷を抱えた親子へ道を譲り、その先でアイスクリームの店を見つけた。
キーノへ声を掛けると、彼女は疲れていないと言いかけ、並ぶ味を見て口を閉じた。
「……座れるなら、少し休むか」
「僕も、そうしたいと思っていました」
彼女が苺を選ぶのを待ち、自分の分も頼む。席へ着いたときには、膝の上へ置く買い物の包みは一つもなかった。
キーノが匙を入れる。
通りの向こうで、母親らしい女の人が、少年へ小さな包みを渡していた。少年は受け取って何か言い、隣の子供と笑った。
「知ってる奴と来てるんだな」
キーノが呟いた。
「お友達でしょうか」
「兄弟かもしれん。似てないが」
彼女はもう一口食べ、空いている隣の椅子へ目を向けた。
「明日は、誰が座るんだろうな」
「空いていれば、どなたか来るでしょう」
「誰も来なかったら?」
「そのときは、二人で窓を使えますね」
キーノは鬼太郎を見て、少し笑った。
「私は窓側だぞ」
「ええ。空いていれば」
彼女は席へ背を戻し、溶け始めた苺のアイスをすくった。
◆
夕食を終えた後、鬼太郎は部屋の机へ本を広げた。
店の箒は、持ち主が杖を向けなくても飛べるという。鞄も、輪も、使うたびに自分で術をかけ直してはいない。
自分の掌から放つ火とは、違う使い方だった。
知りたいことを紙へ残していると、隣の部屋で鞄を動かす音がした。しばらく静かになり、それから扉が叩かれる。
キーノが立っていた。
「まだ、読むのか」
「もう少しで休むつもりでした。どうぞ」
鬼太郎は椅子を引き、自分は寝台へ腰を下ろした。キーノは持ってきた帳面を机へ置いたが、開かなかった。
夕食では、昼に見た絵の話をしていた。今はその続きを言いに来た顔ではない。
「明日、名前は自分で言う」
「ええ」
「相手にも聞く。それは、考えてる」
キーノは机の縁へ指を置いた。
「でも、どこから来たとか、親は何をしてるとか、聞かれるだろ」
鬼太郎は返事を急がなかった。
「僕たちも、森へ来た方には尋ねますね」
「あれは、何しに来たか聞くんだ。学校へ行く奴の家を、調べたいわけじゃないだろ」
「そうですね。話を続けたくて、聞く方もいると思います」
彼女は一度、廊下へ顔を向けた。扉は閉じている。
「どこまで、言えばいいんだ」
「話したいところまででよいのでは?」
「それで、変だと思われないか」
鬼太郎は机の上の帳面を見た。銀の留め金に、彼女の指が触れていた。
「思う方は、いるかもしれません」
キーノの手が止まった。
「僕には、その方が何を気にするかまでは分かりませんから」
「……吸血鬼のこともか」
「ええ」
鬼太郎は彼女へ目を戻した。
その血を知っても、取引を続ける者はいる。診察の手を止め、本人がよいと言うまで待った者もいた。だが、明日隣へ座る子供が同じように考えるかは、まだ会ってもいない自分には分からなかった。
「校長が入っていいと言っても、席に座る奴まで、そう思うわけじゃないんだな」
「入学の許可と、お友達になることは違うのでしょうね」
キーノは唇を結んだ。
昼間の通りでは、こちらを見た子供もいた。自分が顔を向けると、そのまま歩いていった。何を思ったかなど、彼女には分からない。
鬼太郎は本を閉じ、机の端へ寄せた。
「明日、会った方全員へ話すおつもりですか?」
「違う。だが、分かったらと思ったんだ。私が言わなくても、校長は気づいた」
「ほかの方に何が分かるかも、今は決められませんよ」
彼女は返事をせず、留め金から指を離した。
「砦では、私を見て逃げる奴はいなかった」
「ミラさんには、僕の方が警戒されていた気もしますね」
「お前は、知らないところまで行こうとするからだ」
すぐ返ってきた声に、鬼太郎は笑った。キーノも口元を動かしたが、それだけでは話を終えなかった。
「あそこでは、何を言ったら嫌がるか、少しは分かる。知らなくても、聞ける。明日は、何も分からん」
「僕にも、分かりません」
「お前、昼は楽しそうだったぞ」
「楽しみですよ。知らないことを、聞ける場所へ行くのですから」
「私は、聞かれる方の話をしてるんだ」
鬼太郎は少し考えた。
自分にも、答えないことはある。父の書類も、過去の記憶も、尋ねられれば全て出すわけではなかった。だが、相手にどう思われるかを、彼女と同じようには気にしていない。
「僕と同じにすればよい、とも言えませんね」
キーノが彼を見た。
「まず、どんな相手か聞いてから決めてもよいのではありませんか。キーノさんだけが、先に全部話すことはないでしょう」
「……私も、選んでいいのか」
「ええ。隣へ座ったからといって、何もかも気に入るとは限りませんし」
「お前にだけは、言われたくない」
鬼太郎は笑い、膝の上で手を開いた。
キーノは帳面を引き寄せた。留め金を外すと、駅へ行く時刻の下に、まだ余白があった。しばらくそこを見たが、羽根ペンは取らない。
「何て答えるか、全部書いても仕方ないな」
「相手にも、読んだとおりに尋ねていただかないと困りますね」
「そんな奴とは、話してもつまらん」
彼女は帳面を閉じた。
胸のつかえが消えた顔ではなかった。それでも椅子から立ち上がり、明日は自分の方が先に起きるかもしれないと言った。
「そのときは、お声を掛けてください」
「起きてなかったらな。窓側を取る前に、汽車に乗れなくなったら困る」
「それは、僕も困ります」
扉へ向かう彼女を、鬼太郎は呼び止めた。
「キーノさん」
彼女が振り返る。
「明日も、何か気になったら聞かせてください。僕が分からないことでも」
「分からなかったら、また一緒に考えるのか?」
「その間に、別の方が答えてくださるかもしれません」
キーノは少し目を見開き、それから頷いた。
「そうだな。明日は、お前だけじゃない」
彼女は自分の部屋へ戻っていった。
鬼太郎も机の紙を鞄へ収めた。扉の鍵を確かめ、杖を手の届くところへ置く。箱を開き直す必要は、もうなかった。
壁の向こうで留め金の鳴る音がした。
隣の部屋では、キーノが帳面をしまっている。明日もそれを持って、まだ知らない相手のいる場所へ行く。
鬼太郎は窓へ近づき、通りの明かりを見下ろした。店の箒を思い出すと、眠るには惜しい気もした。だが、今ここで考え続けても、見本の柄より先へは進めない。
明日は、汽車に乗る。
彼は窓から離れ、寝台へ向かった。隣の部屋も静かになったころ、灯りを消した。