第七十一話 白い杖は、歳月を測る
ダンブルドアは答えなかった。
開いた窓から入り込む風が、白い髭の先を僅かに揺らす。
キーノは杖から手を離し、サーシェスは椅子の背に預けていた身体を起こしていた。
鬼太郎だけが、返事を急かさない。
老人の目が、自分のどこを見ているのか確かめるように待っている。
「戦い方を教えてほしい、と」
やがて、ダンブルドアが繰り返した。
「ええ」
「なぜ、わしなのかね?」
「今ここにいる方の中で、最も強いからです」
サーシェスが鼻で笑う。
「随分とはっきり言いやがる」
「違いますか?」
「少なくとも今の坊主よりは、な」
「今の僕と比べる必要はありませんよ。先ほど申し上げた通り、勝負にすらならないでしょうから」
鬼太郎の声には、悔しさがなかった。
届かない距離を認めることと、そこへ届くことを諦めることは別だった。
ダンブルドアは椅子の背へ片手を置いたまま、再び腰を下ろさなかった。
「強くなって、何をするつもりかね?」
「今より強い方と戦います」
「そのためだけに?」
「失ったものを取り戻すためでもあります」
「失ったものとは?」
「以前の僕が持っていた力です」
鬼太郎はそこで言葉を止めた。
神を殺したこと。
青い服の男と共に戦い、最後には互いの未来を譲らず殺し合ったこと。
それらを、この老人へ話す理由はまだない。
「以前の君、か」
「何かおかしいでしょうか?」
「十歳になったばかりの子が口にするには、少し変わった言い方じゃと思っての」
「十年で失うものがないとは限りませんよ」
「それは、もっともじゃ」
ダンブルドアは笑った。
問いを引いたように見えたが、青い目は鬼太郎から離れない。
「じゃが、すぐによいとは言えん」
「理由を伺っても?」
「君が求めておる強さと、わしが教えるべきだと思う強さが、同じとは限らんからじゃ」
ダンブルドアはようやく椅子へ戻った。
巻いてしまった羊皮紙には触れない。
ここから先は、入学の条件ではなかった。
「敵を倒す力だけが、強さではない。恐怖に耐えること。助けを求めること。守るために踏みとどまること。そして、倒せる相手を殺さずに済ませることもじゃ」
「そうでしょうね」
否定されると思っていたのか、ダンブルドアの眉が僅かに動いた。
「随分と素直じゃな」
「間違ってはいませんから」
「では、君もそれを学びたいと思うかね?」
「役に立つのであれば」
「役に立たぬと思えば?」
「使わないだけです」
キーノが溜息をつく。
「そういうところだぞ」
「何がです?」
「正しいことを言ってるようで、最後に全部おかしくするところだ」
「使わないものを持っていることに、問題がありますか?」
「お前の場合、使わないんじゃなくて捨てるだろ」
「必要になれば、拾い直しますよ」
「拾える場所に残ってればな」
ダンブルドアは二人のやり取りを聞き終えてから、静かに口を開いた。
「生きて帰ることも、強さの一つじゃ」
「ええ」
「そのために、戦わず退くこともある」
「それも理解しています」
「ならば、なぜ殺し合いでなければ強くなれぬと考える?」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
中庭では、小人が積み直した石の隙間を調べている。
森トロールが運んだ木材を、ゴブリンが測っていた。
風が木々を揺らし、葉の重なる音が砦まで届く。
この世界の森は、静かだった。
怪物はいる。
人を狙う者もいる。
それでも、眠るための部屋がある。
食事を用意し、本を読み、次に何をするか考える時間がある。
以前に知っていた場所とは違う。
「力がなければ、次の瞬間には亡骸になっている。そんな場所を、僕は知っています」
ダンブルドアの指が、椅子の背で止まった。
「どこの話かね?」
「今は、全てを思い出しているわけではありません」
「思い出していない?」
「ええ。ですが、そこでどう生きていたかは、身体が覚えています」
キーノとサーシェスは黙っていた。
二人には、英国を離れる前に話している。
前の生があったこと。
強者へ挑み、最後には敗れたこと。
だが、ダンブルドアは知らない。
「助けを求めようにも、その相手が先に死んでいることもありました。守りたいものがあっても、自分が弱ければ、それを守るか捨てるか選ぶ前に奪われます」
鬼太郎は老人へ視線を戻した。
「戦う力が、強さの全てだとは申しません。ですが、ほかの強さを選ぶにも、まず殺されないだけの力が必要でしょう?」
「力があれば、必ず選べると?」
「少なくとも、力が足りないことを理由に諦めずに済みます」
「その先で、殺すことしか選べなくなっては意味がない」
「その時は、僕がそれを選んだだけです」
「選べることと、選んだ結果に責任を持つことは別じゃよ」
「結果が僕へ返ってくるのであれば、受け入れます」
言葉だけなら、覚悟を装う子供にも言える。
だが、鬼太郎の声には、自分の選択で死ぬ可能性をすでに知っている者の静けさがあった。
ダンブルドアは、先ほどの言葉を思い返す。
以前の僕が、あなたより強かったかは分からない。
今の僕が挑んでも、殺し合いにはならない。
十歳の子供が、数年前の自分を指して言ったのではない。
少なくとも、鬼太郎自身はそう考えていない。
「君は」
ダンブルドアが言いかける。
鬼太郎が、続きを待っている。
「いや。今はよそう」
「気になりますね」
「老人にも、考える時間は必要での」
「でしたら、次に伺いましょう」
追及しない。
聞き出すより、相手が話す時を待つ方がよいと知っている。
それもまた、十歳の子供へ抱く印象ではなかった。
◆
肉体が十歳であることは疑いようがない。
記録に残る誕生の時期も、両親がブルガリアへ移り住んだ時期も一致している。
途中で別人へ入れ替わったという報告もない。
それでも、目の前の少年が生きてきた時間と、肉体が重ねた年月は、どこかで食い違っている。
何者かの記憶を受け継いだのか。
未知の魔法で、別の人間の経験を取り込んだのか。
あるいは、鬼太郎自身にも説明できぬ何かが、その内側へ残っているのか。
答えはない。
ここで問い詰めれば、少年は口を閉ざすだろう。
ダンブルドアは、尋ねかけた言葉を胸の内へ戻した。
代わりに考える。
この申し出を受けるべきか。
鬼太郎について集めた戦いの記録は、どれも他人の目を通したものだった。
銃を抜くのが速い。
杖を持たずに炎を起こす。
相手の判断を乱し、味方同士で争わせることがある。
複数の魔法使いを相手にして、生き残ってきた。
だが、噂は強さを大きくも、小さくもする。
実際にどれほど速いのか。
どの距離で、何を見て、攻撃する相手を選ぶのか。
思いどおりにならない状況で、怒りに任せるのか、退くのか。
そして、約束した中止を守れるのか。
まだ、一つも自分の目では見ていない。
断れば、鬼太郎は別の教師を探す。
良識ある者を選ぶ保証はない。
強くなる方法だけを与え、何に使うかを問わぬ者へ辿り着くかもしれない。
ならば、自分が教える方がよい。
手元へ置けば、何を学び、どのように変わるかを見られる。
力への欲を、別の方向へ導ける可能性もある。
導ける手駒になるか。
利害を分け合える協力者になるか。
それとも、いずれ明確に敵対するのか。
第二の予言が指した子供を、噂の向こうへ置いておくよりはよい。
表へ出すつもりのない計算を終え、ダンブルドアは鬼太郎を見た。
少年は、先ほどと変わらぬ姿勢で待っている。
「一度だけじゃ」
「はい?」
「今ここで、君が何を身につけてきたのか見せてもらう。それを見てから、何を教えるべきか。そもそも教えるべきかを決める」
鬼太郎の口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「実力を見ていただけると?」
「授業ではなく、確認じゃ。勘違いしてはいかんよ」
「構いません。僕も、あなたがどれほど遠くにいるのか確かめられますから」
「爺さん」
サーシェスが口を挟んだ。
「こいつを相手にして、軽い運動で済ませる気じゃねえだろうな」
「サーシェスさん。余計な心配は必要ありませんよ」
「坊主の心配じゃねえ。砦の方だ」
「それは僕も気になります」
「お前が言うな」
キーノの声が飛んだ。
ダンブルドアは窓の外へ目を向ける。
「ここでは狭い。森の者の住処と砦から離れた場所を選ぼう」
「では、外へ案内します」
「その前に条件じゃ」
立ち上がろうとした鬼太郎が止まる。
「君の銃も、杖を使わずに起こす力も使ってよい。じゃが、砦や森の者へ攻撃を向けない。この二人を巻き込まない。わしか君のどちらかが終わりを告げたら、そこで止める」
「勝敗は?」
「今日は決めん。わしが見るのは、君がどのように戦い、どこで止まれるかじゃ」
「手加減した攻撃では、何も分からないのでは?」
「当てるつもりで撃ちなさい」
ダンブルドアは穏やかに言った。
「それで、僕があなたを殺してしまった場合は?」
「その心配は、わしがしよう」
一瞬だけ、食堂が静かになった。
サーシェスが、最初に笑った。
「いいじゃねえか。坊主、遠慮するなってよ」
「最初から、そのつもりはありませんよ」
鬼太郎の声が僅かに弾む。
キーノは椅子から立ち、鬼太郎の正面へ回った。
「条件を忘れるな」
「覚えていますよ」
「楽しくなって、止まれないふりをするなと言ってる」
「約束したことは守ります」
「その顔で言うな」
「どのような顔です?」
「見世物小屋で、あの連中を相手にしていた時と同じ顔だ」
鬼太郎は頬へ触れた。
笑っていることには、言われるまで気づかなかった。
「仕方がありません。これほど強い方と戦える機会は、今までありませんでしたから」
「負けるって分かってるんだろ」
「ええ」
「それでも笑うのか」
「届かないものが見えるのは、楽しいでしょう?」
「私に聞くな」
◆
砦を出て、森の奥へ進む。
若いズメイの巣とは反対。
ヴィーラたちの住処からも離れた方角。
以前、小人が石を切り出した跡に、木々の途切れた場所があった。
地面には低い草が広がり、端には大きな岩がいくつか残っている。
「ここなら、多少壊しても文句を言われません」
鬼太郎が言う。
「多少、で済ませるつもりはあるんじゃな?」
「相手があなたですから、僕が壊せる範囲には限度がありますよ」
「自分が壊す側なのは決まってんのか」
キーノが呆れる。
「小娘、俺たちはあっちだ」
サーシェスが、少し離れた岩場を示した。
「あんたに言われなくても分かってる」
二人が移動するのを待ってから、ダンブルドアが杖を取り出す。
大きく振ったようには見えなかった。
杖先が岩場を向き、次に地面へ下がる。
透明な何かが、キーノとサーシェスの前を覆った。
風がそこだけ避けて流れ、舞っていた葉が空中で向きを変える。
鬼太郎は、その一連の動きを見ていた。
呪文を唱えていない。
迷いも、力を集める間もなかった。
「今の防壁は、銃弾も止めますか?」
「試してはいかんよ」
「性能を尋ねただけです」
「君の弾が逸れても、二人には届かん」
「それなら安心です」
「君が言うと、試す準備が整ったように聞こえるのう」
「気のせいですよ」
ダンブルドアは草地の中央へ歩いていく。
鬼太郎も反対側へ回った。
距離は、およそ二十歩。
これまで相手にしてきた魔法使いなら、杖を抜く前に撃てる。
盾を完成させるより先に、弾丸を届かせられる。
だが、老人の右手にはすでに杖がある。
腕は下げたまま。
構えてはいない。
隙があるように見える。
森の入口で初めて会った時と同じだった。
どこにも隙がないからこそ、どこを見ても隙に見える。
鬼太郎は腰の〈ケストレル〉へ右手を添えた。
心臓が速くなる。
恐怖ではない。
引き金を引いた後、相手が何を見せてくれるのか待ちきれない。
「始めても?」
「いつでも」
老人の返事が終わる。
〈ケストレル〉が専用ホルスターを抜けた。
照準を合わせてからではない。
銃口がダンブルドアの眉間を捉える動きの中で、鬼太郎は引き金を絞っている。
乾いた銃声が森を打った。
ダンブルドアの杖は、弾丸が放たれてから上がった。
それでも、老人の頭へ届くはずだった弾は、顔の手前で横へ曲がる。
離れた地面へ土煙が上がった。
盾へ当たった音はない。
弾丸だけが、進む先を変えられた。
ダンブルドアは一歩も動いていない。
鬼太郎はもう、次の弾丸を撃つ準備に入っていた。
「なるほど」
白い髭の下で、老人が呟く。
「噂で聞くより、ずっと速い」
鬼太郎の笑みが、さらに深くなった。