第73話 蛙チョコの包み紙
ハリーが髪を上げると、額に細い傷痕が見えた。
途中で折れ曲がり、稲妻のような形をしている。ロンは身を乗り出しかけ、自分の膝へ手を置き直した。
「それが、あのときの?」
「うん。僕は覚えてないんだけど」
鬼太郎は傷を見た。
閉じた傷がどんな線を残すかは、自分の身体でも見てきた。だが、今、目の前にある痕が何によってついたものか、形だけで分かるわけではない。
赤ん坊の頃に、闇の帝王を倒した子供。
新聞で読んだ名と、傷を見せる少年が、ようやく重なった。
ただ、その話を額面どおり受け取る気にはなれなかった。ダンブルドアと向かい合ったとき、自分は手持ちのものを使っても届かなかった。その老人に並ぶと言われる者が、赤ん坊に実力で敗れたとは思いにくい。
守った者がいたのか。何か仕掛けがあったのか。
相手が使った術に、本人も予想しないことが起きた可能性もある。
鬼太郎は、髪を押さえるハリーの指へ目を移した。
今の少年を見ても、その答えは出なかった。
「本当に、何も覚えてないの?」
「緑の光くらい。あとは、ほとんど」
ハリーは答え、ロンの顔を見た。それから鬼太郎にも目を向ける。まだ、何か聞かれると思ったらしかった。
鬼太郎は視線を傷から外した。
「覚えていないことを尋ねられても、困りますね」
「僕、責めてるわけじゃないよ」
ロンが慌てて言った。
「ええ。気になるのは分かります」
鬼太郎はそう答えて、ハリーが髪を下ろすのを見た。
森の商人からは、闇の帝王が今もどこかにいるという噂も聞いた。それを確かめる材料はないが、赤ん坊を仕留め損ねたことと、その場で死んだことは別だろう。
いずれ、もっと詳しく知る機会もあるかもしれない。
今は、本人も覚えていない夜を何度も尋ねるより、目の前の相手と話す方がよさそうだった。
向かいで、キーノがロンを見ていた。
「私たちの名前は、まだ聞かないのか?」
「あ、ごめん。僕、つい」
ロンは彼女へ顔を向け、すぐに鬼太郎との間へ目を動かした。
「キーノ・ファスリス・インベルンだ。キーノでいい」
「キーノ……」
繰り返した後も、ロンは彼女の顔を見ていた。
「何だ?」
「えっ?」
「聞こえなかったか?」
「聞こえたよ。キーノだよね」
「そうだ」
彼女は眉を寄せた。ロンの耳が、少し赤くなっている。
鬼太郎は隣の少年へ顔を向けた。
「僕は墓場鬼太郎です。よろしくお願いします、ロンさん」
「うん。キタロウ、でいい?」
「ええ」
今度の返事は早かった。
キーノは二人を見比べてから、自分の頬へ指を当てた。
「何か、ついてるのかと思った」
「ついてないよ!」
ロンの声が大きくなり、ハリーが少し驚いてそちらを見た。
鬼太郎は口元を緩めたが、指摘はしなかった。隣の少年は、今の返事だけでも充分に困っている。
そのとき、窓の外からロンを呼ぶ声がした。
赤毛の女の人が、小さな女の子と一緒に立っていた。キーノが窓の前を空けると、ロンが顔を近づけて返事をする。
ハリーが入口のお礼を言い、女の人の顔が和らいだ。
そこへ、よく似た顔の少年が二人来た。
「ロン、ちゃんと座れたか」
「迷子になったら、母さんがまた乗り込むところだった」
「迷ってないよ。もう行ってくれよ、兄貴たち」
ロンが言い返す。
キーノはその勢いのよさを、横から見ていた。さっきまで自分へ向けていた声とは随分違う。
ハリーは二人をフレッドとジョージだと教えてくれた。荷物を上げるのを手伝ってもらったという。
鬼太郎も窓へ会釈した。双子は気軽に手を上げ、弟のことを頼むと言ってから、またロンを困らせるようなことを言った。
母親に促されて二人が離れると、女の子がこちらを見ようと背伸びをした。
「妹のジニーだよ」
ロンが言う。
ハリーが手を振ると、ジニーは母親の陰へ隠れかけ、それでも顔だけは出していた。
笛が鳴った。
ホームの大人たちが少し下がる。足元へ揺れが伝わり、窓の向こうの顔がゆっくり動き始めた。
キーノが窓枠へ手を置く。
ロンは母親と妹へ手を振っていた。ジニーが少し追いかけ、母親の声で止まる。その姿が遠ざかると、ハリーも窓から身体を戻した。
キーノはまだ外を見ていた。
ホームの端が後ろへ流れ、線路脇の壁が続く。
「出たな」
呟いた声に、鬼太郎は頷いた。
「窓側を取っておいて、よかったですね」
「ああ」
彼女は笑い、それから通路側の二人へ顔を向けた。
「見たいときは、言えよ」
◆
街を離れるまでの間に、ロンは兄弟の名前を順に挙げた。
キーノが数を確かめると、指を折って見せる。ハリーも驚き、今度はロンが二人の暮らしていた場所を尋ねた。
「今は、ブルガリアにいます」
鬼太郎が答えると、ロンは背を起こした。
「そこから来たの? 昨日?」
「そうだ。漏れ鍋に泊まった」
キーノは窓から目を戻して答えた。
「僕も行ったよ。あそこ、ハグリッドと」
ハリーが少し嬉しそうに言う。
ロンは二人を見比べた。
「じゃあ、前は別の学校へ通ってたとか?」
「いいえ。学校は、初めてです」
「私もだ」
「そうなんだ。僕、兄貴たちから話だけは聞いてるけど、どんなところか、まだちゃんとは分かんないな」
ロンは窓の外へ一度顔を向けた。
「組分けも、何をするか教えてくれなかったし」
「寮を決めるやつか?」
「うん。なんか、すごい試験があるって。兄貴の話だけど」
ハリーが顔を曇らせた。
「僕、まだ呪文なんて何もできないよ」
キーノもロンへ身体を向けた。
「先に教科書の、どこを読めとか言われてないぞ」
「僕だって、見たことないんだ。もしかしたら、からかわれただけかもしれないけど」
「さっきの二人か?」
「違う。もっと上の兄さん。でも、あの二人も絶対そういうこと言うよ」
鬼太郎はハリーとキーノを見た。
「何をするにしても、説明はあるでしょう。入る前から全員が同じことをできるとは、学校も考えていないと思いますよ」
ハリーが少し息を吐いた。
「そうだね」
「お前は、怖くないのか」
キーノが尋ねる。
「何をされるか、分かりませんからね。怖がる方も、まだ準備ができません」
ロンが笑いかけ、途中で彼女の顔を見て口を閉じた。
キーノは気にせず、袖の中へ引きかけていた手を膝へ戻す。
「なら、着いてから聞く」
それからハリーへ、自分も明かりの呪文を習ったところだと話した。ハリーは何をすると明かりが出るのか尋ね、キーノは言葉だけでは上手くいかなかったことも答えた。
鬼太郎はそのやり取りを聞いていた。
自分が説明しなくても、彼女には話すことがあった。相手の質問に答えた後で、今度はハリーがどこで育ったのかを尋ねる。
似た家が並ぶ通りの話になった。
ロンが自分の家の庭には厄介なものがいると言い出し、キーノが何だと聞き返した。彼は今度は言葉を詰まらせず、庭小人の話を続けた。
話が途切れると、誰かが窓を見た。
ハリーはヘドウィグを確かめ、ロンは荷物の方へ手を伸ばす。キーノは帳面を出しかけたが、遠くに水面が見えたので、また鞄へ戻した。
家や親の話も出たが、彼女の過去を隅から隅まで聞き出そうとする者はいなかった。
鬼太郎は背を座席へ預けた。
窓の向こうでは、建物の代わりに畑が広がっていた。
◆
昼が近づくと、通路から小さな車輪の音がした。
扉の前で止まり、ワゴンを押す女の人が顔を出す。菓子はいかが、と聞かれて、ハリーがすぐに立ち上がった。
鬼太郎も品物を見た。
箱も包みも、見慣れないものばかりだった。蛙チョコレートの名をキーノが読む間に、ハリーは次々と菓子を選んでいる。
ロンは座ったまま、持参した包みを開いた。
「買わないの?」
ハリーが振り返る。
「僕は、これがあるから」
中にはサンドイッチがあった。ロンはパンの間を見て、少し口を曲げる。
「またコンビーフだ。母さん、僕が好きじゃないの忘れたんだと思う」
ハリーは抱えた菓子を席へ置き、かぼちゃのパイを取った。
「これと交換しない? 僕、一人じゃこんなに食べられないし」
「でも、こっちはサンドイッチだよ」
「僕は食べてみたい」
ハリーが包みを開くと、ロンは少し迷い、自分の分を差し出した。
鬼太郎はワゴンの前へ戻った。キーノが蛙チョコの箱を見ている。
「形だけ、蛙なんだな?」
売り子は、少し動くのだと教えてくれた。
キーノは箱を持つ手を止めた。
「……食べる前にか?」
「開けるときだけ、気をつけてね」
彼女は箱を裏返し、鬼太郎を見る。
「お前は、これを買うだろ」
「ええ。キーノさんは?」
「一つにする。あと、そっちのパイ」
鬼太郎は自分の分と一緒に支払った。百味ビーンズも選び、席へ戻ってから包みを分ける。
ハリーとロンは、もう食べ始めていた。
「どんなものです?」
鬼太郎が尋ねると、ハリーは手の中のサンドイッチを見せた。
「普通のサンドイッチ。でも、パイもおいしいよ」
ロンも頷き、口の中のものを飲み込んだ。
「蛙チョコ、買ったんだね。カードも入ってるよ」
鬼太郎は箱を膝の上で開いた。
茶色い蛙が後脚を縮める。
跳んだ。
持ち上げた包みの縁へ当たり、鬼太郎の膝へ転がる。彼は脚を掴む前に掌で受けたが、そのときには、もう動かなくなっていた。
「あまり長くは動かないよ」
ロンが教える。
「本当の蛙より、捕まえやすそうですね」
鬼太郎は脚と腹を見てから、頭の方をかじった。甘いチョコレートだった。
キーノも自分の箱を開く。跳ねる先を両手で囲っておいたので、蛙は包みの中へ戻った。
「これを考えた奴は、逃げたらどうするつもりだったんだ」
「もう一つ、買っていただくのでしょうか」
「お前、店の方を喜ばせるな」
ハリーが笑った。自分の蛙を押さえながら、ロンへ開け方を聞いている。
四人の膝の上に、包み紙が増えた。
鬼太郎が百味ビーンズの箱を開くと、ロンが少し身を寄せた。
「それ、変な味も入ってるからね」
「変な味とは?」
「食べ物じゃないようなのも、あるんだ」
鬼太郎は茶色い一粒を取り、匂いを確かめた。甘い香りがする。噛むと、キャラメルに似た味が広がった。
次は淡い色を選んだ。
匂いは、よく分からない。
口へ入れると、胡椒の刺激が舌へ来た。
「なるほど。こちらは、菓子だけを食べたいときには困りますね」
「何だった?」
「胡椒です」
キーノは彼の掌へ残る粒を見た。
「お前、まだ食うのか?」
「ほかの味も気になります」
今度の緑色は、草のような匂いがした。噛んだときの青臭さまである。
鬼太郎は箱を見直した。
材料を混ぜたのか、魔法で感覚を変えているのか。匂いもするからといって、そのまま草を煮込んだとは限らない。
「ロンさん。作り方は、ご存じですか?」
「知らないよ。僕、食べるだけだもん」
「味は同じでも、材料まで同じとは限りませんね。魔法でつけるなら、どこで働きが終わるのかも気になります」
ロンは一粒持ち上げ、少し顔をしかめた。
「僕は、そんなに考えたら余計食べられなくなるな」
「考えなくても、変なのに当たるんだろ」
キーノが言うと、ハリーが頷いた。
「それはそうだね」
彼女は赤い粒を一つ選び、口へ入れた。
少し待ってから、もう一粒探す。
「悪くない」
ロンはなぜか、ほっとしたような顔をした。
鬼太郎は残りを箱へ戻した。仕組みは分からなくても、次の粒を選ぶ楽しみはあった。ハリーが不思議そうな顔で食べているのを見て、自分も別の色を取った。
◆
ハリーが蛙チョコのカードを裏返した。
銀色の髪と髭の長い魔法使いが描かれている。目が動き、眼鏡の奥からこちらを見た。
「ダンブルドアだ。校長先生だよね」
「うん。僕、そのカードは何枚も持ってる」
ロンは自分のカードを取り出し、目当ての人物でなかったらしく、少し残念そうにした。
ハリーが説明を読む間、鬼太郎も絵を見ていた。
昨日、若い姿で二人を宿へ連れてきた相手だ。今日はどこで、新入生を迎える支度をしているだろう。
「グリンデルバルドを破って、ニコラス・フラメルと錬金術の研究もしたんだって」
ハリーはカードを少し近づけた。
「いろんなことができるんだね」
「ええ。手合わせしていただいたことがあるのですが、何をしても余裕がありました」
ロンが顔を上げた。
「校長と?」
「はい。あれほど違うと、自分にできないことがよく分かります」
キーノの目が細くなった。
鬼太郎はそれに気づき、彼女へ顔を向けた。
「カードに載っていたので」
「そこから、その話になるとは思わんだろ」
ロンが吹き出した。
「そりゃ、ダンブルドア相手じゃ勝てないよ。僕なら、挑む前に逃げるけど」
「勝てないからと、見ないで済ませるには惜しい方ですよ」
「本当に、そう頼んだの?」
「ええ。教えていただきたいとも」
ロンはまだ笑っていた。
ハリーも口元を緩めたが、鬼太郎を見る目には、少し戸惑いがあった。どこから冗談なのか、判断しかねているらしい。
鬼太郎はその先を話さず、カードへ目を戻した。
ハリーがつられて見下ろす。
「あれ?」
絵の中から、校長がいなくなっていた。
「さっきまでいたのに」
「いつも座ってるわけじゃないんだ。そのうち戻るよ」
ロンが答える。
キーノはカードの端へ顔を寄せた。裏を見てから、また表を確かめる。
「絵の外へも、行けるのか」
「そうらしいですね」
鬼太郎が言うと、彼女は鞄へ手を伸ばした。
紺色の帳面を出し、昨日の問いを探す。動く絵、と書いた下へ、今見たことを短く足した。
ロンが横から見ようとして、少し身を引いた。
「勉強のこと、書いてるの?」
「聞きたいことだ。忘れるからな」
「授業で教えてもらえるかもね」
「何の授業だ?」
「……それは、分かんないけど」
キーノが顔を上げると、ロンは急いで付け足した。
「先生なら、知ってると思うよ」
「なら、聞く」
彼女はインクが乾くのを待ち、帳面を閉じた。
鬼太郎は蛙チョコの包みを畳んだ。カードへ書かれた錬金術の名も覚えておく。菓子の味と同じ仕組みとは限らないが、物を調べ、変える知識には興味があった。
向かいで、ハリーがかぼちゃのパイを一つ持ち上げた。
「ロン、これも食べる?」
「半分なら」
ロンは受け取り、包み紙の上で割った。片方をハリーへ返すとき、小さな欠片が落ちる。
キーノが先に空いた紙を差し出した。
「そっちへ落とすと、服につくぞ」
「あ、ありがとう」
ロンはまた少し慌てたが、今度は言葉を止めずに礼を言った。
ハリーが紙を受け取り、欠片をまとめた。
鬼太郎も自分の分を畳み、座席からずり落ちないよう箱の横へ挟む。通路へ片づけに出るのは、四人とも食べ終わってからでよさそうだった。
「戻ったぞ」
キーノがカードを指した。
銀色の髭が、また枠の中にあった。
ハリーが持ち上げ、ロンも覗き込む。いつ戻ったのかと聞かれて、キーノは今見たところだと答えた。
鬼太郎は三人の間から、その小さな顔を見た。
昨日の宿では、この老人が去ると二人きりになった。今はカード一枚を眺めるにも、自分以外に三人の声があった。
ロンが次に集めたいカードの名を挙げる。
キーノは知らない名前を聞き返し、ハリーは自分の包みから、まだ菓子が残っていないか探した。
鬼太郎は膝の上へ転がった豆を拾った。
何味かは、まだ分からなかった。