第74話 眼鏡の継ぎ目
ロンの上着の中で、何かが動いた。
食べ終えた菓子の紙をまとめていたハリーが、手を止める。ロンはポケットへ手を入れ、灰色のネズミを取り出した。
「こいつも、起きたかな」
掌に載せられても、ネズミは目を開けなかった。鼻先が少し動き、丸い身体が指の付け根へ寄る。
キーノが窓から顔を戻した。
「ずっと、そこにいたのか?」
「うん。スキャバーズっていうんだ。寝てばっかりでさ」
ロンは膝へ下ろし、背を撫でた。毛は少しくたびれているが、触れられても逃げようとはしない。
「前はパーシーのだったんだけど、監督生になってフクロウを買ってもらったから、僕に回ってきたんだ」
「お兄さんの?」
ハリーが尋ねると、ロンは頷いた。
「そう。杖も兄貴のだし、何でもお下がり。こいつまで」
最後の方は声が小さくなった。
鬼太郎はネズミを見た。
道具なら、手入れをしながら長く使うことはある。自分の鞄にも、点検してしまってある古い銃があった。だが、今聞いたのは生き物の話だ。
「パーシーさんは、どのくらい飼っていらしたのです?」
「何年だろう。僕が小さい頃から、うちにいたよ」
「学校へ入られる前から?」
「うん。パーシーは今、五年生だけど、その前から。こいつがいなかったときって、覚えてないな」
鬼太郎は灰色の背へ目を戻した。
普通のネズミとしては、随分長く生きている。
魔法生物の一種だろうか。それとも、飼う間に何か魔法をかけたのか。森には、見た目がよく似ていても、普通の生き物と同じに扱えないものがいた。
ロンは、その長さを気にしていないようだった。
「何か、変わったことをするのですか?」
「何もしないよ。本当に、寝てるだけ。フクロウなら手紙を運ぶのに」
ロンが膝を少し動かすと、ネズミは鼻を服へ押しつけた。
長く生きる理由が見えるような特徴はない。鬼太郎は質問を重ねず、名前と飼われていた期間だけ覚えておくことにした。
窓の外で畑が途切れ、線路沿いに木が並び始めた。
客室の扉が開いたのは、その少し後だった。
◆
「ヒキガエル、見なかった?」
丸顔の少年が立っていた。目の辺りが赤く、話しかけた後も、視線が座席の下へ動いている。
ハリーは足元を見た。
「ここには、来てないと思う」
「どのくらいの大きさだ?」
キーノが尋ねると、少年は両手で幅を示した。名前はトレバーだという。
鬼太郎も靴を少し動かし、座席の端から下を確かめた。箱と鞄はあるが、ヒキガエルはいない。
「こちらでも、見かけていませんね」
「そっか。……また逃げちゃったんだ。いつも、どこかへ行くんだよ」
少年は唇を噛んだ。
ハリーが通路の先へ目を向ける。向こうでも、誰かが客室を覗いているようだった。
「見つかるといいね」
「うん。ありがとう」
少年は扉を閉め、次の部屋へ向かった。
ロンは膝の上へ掌を載せた。
「こいつは、探し回る心配はないけどね」
「逃げないなら、いいだろ」
キーノが言う。
「まあ、そうなんだけど。もうちょっと見栄えがすればさ」
ロンはネズミを見下ろし、荷物へ手を伸ばした。
「ジョージが、黄色くする呪文を教えてくれたんだ。まだ上手くいったことはないんだけど、今度はできるかも」
ハリーが背を起こした。
「やってみせてよ」
ロンは一度キーノを見て、杖を取り出した。
使い込まれた木の先から、白いものが覗いている。鬼太郎がそこへ目を留めると、ロンは持つ位置を少し変えた。
「これも、お下がり。チャーリーのなんだ」
「長く使われたのですね」
鬼太郎は答え、隣に残っていた菓子の箱を引き寄せた。スキャバーズの周りが空く。
ロンが杖を上げたところで、また扉が開いた。
先ほどの少年と、ふさふさした髪の少女が立っていた。
「ネビルのヒキガエルを探しているの。ここでは、見ていない?」
「さっきも聞かれたけど、来てないよ」
ロンの返事に、少女は隣の少年へ顔を向けた。それから杖へ目を戻す。
「呪文を使うところ?」
「そうだよ」
「見てもいい? 何をするの?」
ロンは膝の上を示した。黄色くすると言うと、少女はネズミを見て、その場に立ったまま待った。
ハリーも、キーノも、杖の先へ目を向けている。
ロンは小さく喉を鳴らした。
教わったという言葉は、短い歌のように韻を踏んでいた。最後にネズミへ色を変えるよう命じ、杖を振る。
スキャバーズは灰色のままだった。
鼻先が動き、膝の上で身体を丸め直す。
ロンは杖を下げた。
「それ、本当に呪文なの?」
少女が眉を寄せた。
「私が読んだものとは、随分違うけれど」
「兄さんが教えてくれたんだ」
ロンの声が硬くなった。
鬼太郎は、膝の上へ下がった杖を見ていた。言葉も動かし方も知らない術なので、何が違うかは分からない。だが、教えたという相手には、ひとつ心当たりがあった。
「ジョージさんが使うところも、ご覧になりました?」
「いや。言葉を教えてくれたんだよ」
ロンは鬼太郎へ向き直った。
「では、実際に見せてもらうとよさそうですね」
「僕の振り方が違ったのかな」
「そこまでは、僕には分かりません。ただ、言葉だけを聞いても、いつ、どのように杖を動かすのかは確かめにくいでしょう」
鬼太郎は自分が初めて明かりを教わったときのことを思い出した。言ったつもりでも、期待した光にはならなかった。レパロでも、折れ口が揃わず、戻りかけた木片が落ちたことがある。
「手順が本に載っていれば、比べられます。載っていなければ、どこで覚えたのか、お兄さんに尋ねてみるとよいのでは」
「君、この呪文は知らないんだ?」
「ええ。今の言葉を聞いたのも、初めてです」
ロンは杖の先を指で触りかけ、やめた。
ジョージにからかわれたのではないかという顔だった。だが、鬼太郎は答えを代わりに出さず、隣で待った。
「……今度、聞いてみる」
ロンはそう言って、杖を膝へ置いた。
失敗を見て笑った者はいなかった。それでも、彼はすぐにもう一度試そうとはしなかった。
少女は自分も呪文をいくつか試したことがあると言い、客室へもう一歩入った。
「私はハーマイオニー・グレンジャー。あなたたちは?」
◆
名乗り終えるまで、ネビルは扉の近くに立っていた。
キーノが名前を答えると、ハーマイオニーは少し聞き返し、それから自分の名も呼びやすいように言い直した。鬼太郎の名には、どこまでが姓なのか尋ねた。
「墓場が姓で、鬼太郎が名前です」
「そうなのね。よろしく」
答えを覚えるように頷き、最後にハリーを見る。
彼が名を告げると、目が大きくなった。
「ハリー・ポッター? あなたのこと、本で読んだわ」
「僕のこと?」
ハーマイオニーは魔法界について買った本の名を挙げた。ハリーは知らないものばかりだったらしく、ひとつずつ確かめるように彼女の顔を見た。
鬼太郎も聞いていた。
この少女は、会ったばかりの少年を知ろうとするより先に、読んだ本の中の人物を見つけていた。だが、ハリーが自分では読んだことがないと答えると、今度は本を買った理由を話し始めた。
「両親は魔法使いではないの。知らないことばかりだから、少しでも分かってから来たくて」
「僕も、知らないことばっかりだよ」
ハリーが答え、眼鏡の位置を直した。
ハーマイオニーの目が、その手元で止まる。
「眼鏡、壊れているの?」
「ここ? 前に壊れて、テープを巻いてるんだ」
「直してみてもいい? 修復の呪文なら、練習したことがあるわ」
ハリーは枠へ触れ、少し迷った。
ロンの膝には、まだ杖がある。さっきの呪文では、何も変わらなかった。
「眼鏡、掛けたままで?」
「外してもらった方が、壊れたところを見やすいと思う」
ハーマイオニーが答えると、ハリーは眼鏡を外した。折り畳まず、彼女へ渡す。
鬼太郎は立ち上がらず、少女の手を見た。
テープを巻いたところを確かめ、端を探す。剥がす間に枠がずれると、一度手を止めて持ち替えた。
キーノも、その指の動きを追っていた。
ハーマイオニーは剥がしたテープを空いた包み紙へ置き、部品が落ちないように眼鏡を掌へ収めた。それから杖を近づける。
「レパロ」
枠が動いた。
曲がっていた部分が戻り、離れた継ぎ目が合う。ハーマイオニーはすぐに渡さず、向きを変えて左右を確かめた。
「はい。どう?」
ハリーは受け取って掛けた。
一度瞬きをし、鼻の上の枠へ指を添える。それから、首を少し左右へ動かした。
「すごい。ずれなくなった」
彼は眼鏡をもう一度外し、継ぎ目を見た。
「本当に、直ってる。ありがとう」
ハーマイオニーの顔に、はっきりと笑みが浮かんだ。
鬼太郎は彼女が杖をしまう前に尋ねた。
「グレンジャーさん。その呪文は、どなたかに教わったのですか?」
「いいえ。本を買ってから、自分で試したの」
「それだけで、今のように?」
「最初から全部できたわけではないわよ。上手くいかなければ、読み直すし、やり方も確かめるもの」
彼女は少し早口になった。
「直したつもりでも、持ち上げたら外れたことがあったの。だから、渡す前に見たのよ」
鬼太郎はハリーの手元へ視線を落とした。
戻った形は揃っていて、継ぎ目にもずれがない。細い枠を扱いながら、別の部分を押し曲げもしなかった。
「ご自分で、失敗した理由を確かめられたのですね」
「あなたも使えるの?」
「練習しています。ですから、今の修復が丁寧だったことは分かりますよ」
ハーマイオニーは胸を少し張った。
「壊れたところを見ないと、どう戻したいか分からないでしょう?」
「ええ。外から覆われていた部分も、先に見ていらした」
鬼太郎が包み紙の上のテープへ目を向けると、彼女もそれを見た。
「そこが、折れていたんだもの」
当然のような答えだった。
だが、鬼太郎にはそれが面白かった。誰かに正しい箇所を示してもらうまで待たず、自分で対象を見ている。できたと言うだけでなく、目の前に直した品がある。
伸びるでしょうね。
同じ本を読んでも、どこで手を止めるかは人によって違う。自分が気づかない箇所を、この少女は気に留めるかもしれなかった。
その知識を使えるところも、いずれ増えるだろう。
鬼太郎は、ハーマイオニーの杖から顔へ視線を戻した。
「学校で、またお話を伺いたいですね」
笑みが深くなったところで、キーノが席から立った。
空いた包みを取りに来たように身を寄せ、鬼太郎の脇腹を軽く小突く。
「どうしました?」
「その顔だ」
彼女は声を落としていた。
「さっきまで、普通に感心してただろ」
「今も、感心していますよ」
「その先まで考えてる顔だと言ってる」
鬼太郎は否定せず、手元の包み紙を彼女へ渡した。
キーノは少し睨んでから受け取り、席へ戻る。ハーマイオニーは二人を不思議そうに見たが、ハリーに眼鏡の掛け心地をもう一度確かめる方を選んだ。
◆
ハリーは、視界の端へテープがかからなくなったことに、まだ慣れなかった。
枠を触り直すと、ハーマイオニーが気づく。
「どこか、変?」
「ううん。いつもと違うから。いい方に」
答えると、彼女は安心したように頷いた。
鬼太郎はすごいと思った理由を、細かく言っていた。同じ呪文を使うから分かるのだろうが、ハリーには、眼鏡が直っただけでも充分だった。
昼に聞いた明かりの呪文も、今の修復も、自分にはまだできない。
「僕も、もっと読んでおけばよかったな」
口に出すと、ハーマイオニーがこちらを向いた。
「教科書は持っているんでしょう? まだ着くまで時間があるわ」
「今から、全部は読めないよ」
ロンが言った。
「全部でなくてもいいじゃない。気になるところからでも」
ハーマイオニーはすぐ答えた。
ロンは口を曲げたが、ハリーは荷物の方を見た。入学までに全部覚えなければならないと思うと困る。だが、ひとつを読んでみるだけなら、できるかもしれなかった。
「キーノも、修復を使うの?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「いや。明かりを出して、消すのだけだ」
「ルーモスとノックスね」
「そう。修復は、まだ見ただけだ」
キーノは言って、ハリーの眼鏡を見る。
「最初に試したのも、眼鏡だったのか?」
「違うわ。もっと単純なものよ。壊れたところが分かりやすくて、部品の少ないものから」
「なら、私もそっちからだな」
彼女は鞄の口へ指を掛けたが、帳面は出さなかった。ハーマイオニーがまだ話しているので、そちらへ顔を戻していた。
専門の言葉が分からないこともあると、キーノが言う。
「私も、調べることは多いわ。魔法界で育ったわけではないもの」
「別の本でも、また知らない言葉が出てくるだろ」
「そういうときは、どこまで分かったか確かめるの。何も分からないと思っていたことが、少し分かることもあるわよ」
キーノは少し考え、頷いた。
ハリーは二人の話を聞きながら、ロンを見た。
ロンはまだ膝の杖をしまっていなかった。少女たちの声へ耳を向けつつ、スキャバーズの背を指で撫でている。
灰色のネズミは眠ったままだった。
その向こうで、ネビルが通路へ顔を向けた。
ハリーもつられて見る。誰かが通ったが、ヒキガエルを抱えてはいない。
ネビルがハーマイオニーへ向き直り、少し口を開いた。
「あの、トレバー……」
「そうだった。ごめんなさい。まだ探している途中なの」
ハーマイオニーはすぐに扉へ戻った。ネビルも彼女が先に行く場所を空ける。
「見かけたら、教えてね」
「うん。僕たちも見ておくよ」
ハリーが答えると、ネビルが小さく礼を言った。
鬼太郎も二人へ顔を向ける。
「見つかるとよいですね」
ネビルは頷き、廊下へ出た。ハーマイオニーが後に続き、扉が閉まる。
外で次の客室を叩く音がした。
◆
鬼太郎は、ネビルの姿がガラスの向こうから消えるのを見届けた。
ハーマイオニーはよく話す。自分の知っていることを相手も知っているとは考えていないが、聞いてもらう間は、話を終えるつもりもなさそうだった。
その勢いに、ロンは少し疲れた顔をしている。
「ずいぶん、予習してきたんだな」
杖をしまいながら、彼が言った。
「ええ。呪文を見られたのは、よかったです」
「君は、褒めてたもんね」
鬼太郎は隣へ目を向けた。
ロンはネズミを膝の上へ寄せ、話を続けるか迷っていた。ハリーは直った眼鏡の枠を触り、キーノは包み紙の端を折っている。
鬼太郎はハーマイオニーの評価をもう一度並べる代わりに、ロンの返事を待った。
「さっきの呪文、僕の本に載ってるか、後で見てみるよ」
「見つからなければ、ジョージさんに実演をお願いできますね」
「絶対、笑うと思う」
「それなら、使えるところを先に見せていただきましょうか。できると言ったのは、お兄さんですから」
ロンが顔を上げた。
少し間があり、それから口元が緩む。
「そうだね。まず、兄貴にやってもらえばいいんだ」
彼は杖を収め、スキャバーズの背へ手を戻した。
鬼太郎は灰色の毛を一度見てから、ハリーへ顔を向けた。
「掛けたときも、違うものですか?」
「うん。前は、ちょっと傾いてたから」
ハリーは眼鏡へ手を上げかけ、今度はそのまま下ろした。
「何度も直さなくてよくなった」
キーノがハーマイオニーの置いていったテープを拾い、捨てる紙の内側へ包んだ。ハリーに要るかと聞くと、もう使わないよ、と返事があった。
彼女は包みを閉じた。
鬼太郎も自分の鞄へ目を向ける。次にレパロを練習するときには、細い部品を戻すところも、もう少しよく見てみたい。
だが、その前に、隣の少年の杖が何をできるのかは、教えた本人に確かめてもらうことになる。
客室の外で、またヒキガエルを尋ねる声がした。
ハリーは一度そちらを見て、それから窓へ向き直った。
鬼太郎も外を見る。
近づいた木々が、四人の手元へ短い影を落としていた。