神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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留守にも、森は牙を持つ

 

第七十三話 留守にも、森は牙を持つ

 

 砦へ戻る頃には、焼けた草の臭いも遠くなっていた。

 

 鬼太郎は先頭を歩いている。

 

 歩調は変わらない。だが、右肩を動かすたびに、僅かに腕の位置を直していた。

 

 空中へ蹴り上げた〈ケストレル〉を背後へ向けた時、今の身体では技術に追いつけなかった。その遅れが、痛みとして残っている。

 

「治さないのか」

 

 隣を歩くキーノが言った。

 

「骨や筋が大きく傷ついたわけではありません。これくらいなら、どの動きに無理があったのか覚えておく方がよいでしょう」

 

「次も同じことをして、もっと痛めるなよ」

 

「同じ失敗は避けます」

 

「別の失敗ならするって顔だな」

 

「失敗を全て避けていては、覚えられませんから」

 

 キーノは言い返そうとして、やめた。

 

 代わりに後ろを見る。

 

 ダンブルドアは、行きと同じように杖をしまい、白い長衣の裾を揺らして歩いていた。あれだけの攻撃を防いだ後だというのに、息は乱れていない。

 

 その隣では、サーシェスが何度も老人の横顔を見ている。

 

「爺さん」

 

「何かね?」

 

「さっき、どこまで本気だった?」

 

「年寄りの秘密を、そう簡単に聞き出せると思うかね」

 

「聞くだけなら無料だ」

 

「答えぬのも無料じゃよ」

 

 サーシェスが笑う。

 

「やっぱり食えねえ爺だ」

 

「よく言われる」

 

 鬼太郎は二人の会話を聞きながら、先ほどの一歩を思い返していた。

 

 炎で視界を奪い、風で煙を動かし、冷気で地面へ水分を残す。銃弾で杖の動きを増やし、その隙に雷を流した。

 

 そこまで重ねて、ようやく一歩。

 

 しかも、ダンブルドアは動かずに処理することもできた。より小さな手間を選んだ結果、足を動かしたにすぎない。

 

 それでも、何も得られなかったわけではなかった。

 

 次は、あの一歩を二歩にする。

 

 そのために何が足りないのかを考える時間は、いくらあっても困らない。

 

     ◆

 

 砦へ入ると、ダンブルドアは食堂へ戻らず、中庭で足を止めた。

 

 崩れていた北壁では、小人たちが石の間へ新しい目地を詰めている。少し離れた場所では、森トロールが運んできた太い木材をゴブリンが削っていた。

 

 老人が戻ってきたことに気づき、何人かが作業の手を止める。

 

 ダンブルドアは彼らへ軽く頭を下げた。

 

 警戒は消えなかったが、逃げ出す者はいない。

 

「ここで失礼しようと思っておったが、その前に話しておかねばならぬことがある」

 

「授業の予定ですか?」

 

「それもじゃ」

 

 鬼太郎の返事が早かったことに、ダンブルドアは白い眉を僅かに上げた。

 

「先ほど、入学までの間に教えると言った。しかし、毎週ここへ来られるという意味ではない」

 

「お忙しいのですか?」

 

「わしは一応、学校の校長での。新学期の準備もあれば、学校の外で引き受けておる仕事もある。君一人へ、全ての時間を使うことはできん」

 

「当然でしょう」

 

 鬼太郎は迷わず答えた。

 

 落胆した様子も、不満もない。

 

「入学までに、日を空けて数回。それ以上は約束できん。ホグワーツへ入った後も、わしが君の個人的な教師として付ききりになることはない」

 

「学校には、他の生徒もいるのですからね」

 

「そのとおりじゃ。入学後に今日のような時間を取れるとしても、長い休暇の間に数回ほどになるじゃろう」

 

「十分ですよ」

 

「随分とあっさりしておるな」

 

「あなたが強いから教えを請いました。ですが、あなたの時間が全て僕のものになるとは考えていません」

 

 鬼太郎は、修繕の進む壁へ目を向けた。

 

「それに、教えていただく日だけ鍛えるつもりもありません。一度教わったことを次までに試し、上手くいかなかったところを持ってくればよいのでしょう?」

 

「森へ来る者を、授業の試し台にするつもりではないじゃろうな」

 

「殺しに来る方がいるなら、実戦で確かめる機会にはなります」

 

「鬼太郎くん」

 

「教わったことを使うために、こちらから無関係な方を襲うつもりはありませんよ」

 

「その一言を先に言ってほしかったのう」

 

「意味は変わらないでしょう?」

 

「聞く側の心臓には違いがある」

 

「爺さん。坊主に安心できる言い方を期待するだけ無駄だぜ」

 

 サーシェスが壁へ肩を預ける。

 

「お主には言われたくないのう」

 

「そりゃ光栄だ」

 

 ダンブルドアは小さく息を吐いた後、再び鬼太郎へ向き直った。

 

「次に来る時は、最初の授業を行う。今日見た限り、君には攻撃する方法より先に直すべきところがある」

 

「防御と、退き方ですね」

 

「それだけではない。知らぬ術を見た時、何を見ればよいか。攻撃を防げぬなら、どこで受けるか。相手との距離を、いつ切るか。そして、頭に残る技術と今の身体の差を知ることじゃ」

 

 鬼太郎は右肩へ触れた。

 

「先ほどの動きも、直していただけますか?」

 

「同じ動きを繰り返せる身体を作るところからじゃな。昔できたという理由だけで無理をすれば、敵より先に自分で身体を壊す」

 

「分かりました」

 

「本当に分かっておるのかね?」

 

「試せば分かりますよ」

 

「それを、わしの見ておらぬところで無理に試すなと言っておる」

 

 今度はキーノが頷いた。

 

「もっと言ってやれ。この馬鹿は、自分で壊してから加減を覚える」

 

「壊れる前には止めていますよ」

 

「今日、肩を痛めたばかりだろ」

 

「動かせます」

 

「痛めてないとは言わないんだな」

 

 鬼太郎は答えず、右肩をもう一度回した。

 

 小さな痛みが走る。

 

 それを見たキーノの目が細くなり、鬼太郎は何事もなかったように腕を下ろした。

 

     ◆

 

「次に来る目的は、授業だけではない」

 

 ダンブルドアが言った。

 

 キーノが、僅かに姿勢を正した。

 

「持ち帰った条件について調べる。君の入学を、鬼太郎くんとは別のものとして扱えるか。サーシェスくんと、学校の外でどのような契約を結べるか。そして、この砦と英国の指定地点を結ぶポートキーが認められるか。次に来る時には、少なくとも返事を持ってこよう」

 

「少なくとも?」

 

 キーノが聞き返す。

 

「わし一人で決められぬこともある。全てが一度で整うと、今ここで約束はできん」

 

「駄目だった時に、駄目だったと言いに来るだけじゃないだろうな」

 

「理由と、別の方法があるならそれも持ってくる。何も調べずに断るため、ここまで来たわけではないよ」

 

 キーノは老人の目を見た。

 

 すぐには信じたと言わない。

 

「なら、待つ」

 

「それでよい」

 

「俺の方も忘れんなよ」

 

 サーシェスが言う。

 

「学校へ雇われた覚えもねえうちから、勝手に仕事を増やされちゃ困る」

 

「君についても、依頼ごとに内容と報酬を決めるという話を変えるつもりはない。常勤でも専属でもない」

 

「ならいい」

 

「採用すると決まったわけでもないがの」

 

「俺も受けると決めてねえよ」

 

 二人は笑っている。

 

 だが、どちらも冗談だけで済ませてはいなかった。

 

 鬼太郎は、そのやり取りが終わるのを待ってから尋ねた。

 

「返事を持ってくるだけなら、その日に全て終わりますか?」

 

「いや。君たちを、ダイアゴン横丁へ連れていくつもりじゃ」

 

「入学用品を揃えるためですか?」

 

「そのとおりじゃ。杖、教科書、制服、魔法薬の材料。ホグワーツで必要になるものの多くが揃う」

 

「場所なら知ってる」

 

 キーノが言った。

 

 英国にいた頃、鬼太郎とサーシェスだけでなく、キーノもダイアゴン横丁へ足を運んでいる。

 

「三人とも行ったことがあるのかね?」

 

「ええ。ですが、学校へ入るための買い物をしたことはありません」

 

「ならば、道の説明は省けそうじゃな。次に来る日は、午前に授業を行い、その後で三人を連れていく。場所を知っておっても、入学準備には案内が必要じゃろう」

 

「僕たちは、まだ入学を正式に認められていませんよ」

 

 キーノが指摘した。

 

「じゃから、返事を持ってくる。認められたものから準備を始めればよい。必要な確認が残ったなら、横丁で済ませられることを先に行う」

 

「私の杖も、そこで買えるのか?」

 

 キーノの手が、服の内側へ隠した杖へ触れた。

 

 密猟者たちから奪った三本のうち、最も反応のよかった一本。

 

 光を灯し、消すことはできる。

 

 それでも、本来は別の魔法使いが使っていた杖だった。

 

「杖が持ち主を選ぶと言われておる。店で実際に見てもらうのがよいじゃろう」

 

「選ばれなかったら?」

 

「その時は、その理由を確かめるところから始める。試す前に、選ばれぬと決める必要はない」

 

 キーノは何も答えなかった。

 

 だが、杖へ触れていた指は離れない。

 

「サーシェスさんも一緒ですか?」

 

 鬼太郎が尋ねた。

 

「そのつもりじゃ。契約の話を本人抜きで進めるわけにはいかん。それに今度は、ホグワーツの校外協力者になるかもしれぬ者として行く。以前とは、立場も用事も違うのでな」

 

「俺が店を見て回っても、文句はねえんだな?」

 

「立入禁止の場所へ入らず、問題を起こさぬならの」

 

「問題の基準が違いそうだ」

 

「そこは、出発前に確かめよう」

 

 ダンブルドアは穏やかに笑った。

 

     ◆

 

「英国までは、どのように?」

 

 鬼太郎が尋ねる。

 

「箒を三本用意するなら、先に教えてください」

 

「ブルガリアから英国まで、箒で飛ばせるつもりはないよ」

 

「では、ポートキーの試験も兼ねますか?」

 

「そちらは、まだ許可が下りるとも、完成するとも決まっておらん。わしの姿現しで連れていく」

 

「姿現し?」

 

 キーノが言う。

 

「離れた場所へ、一瞬で移動する魔法じゃ。先ほどの戦いで、わしが岩の上へ移ったものとは別じゃが、見失ったという点では似ておるかもしれんの」

 

「三人ともですか?」

 

「ああ。わしの近くへ集まり、互いから離れぬようにしてもらう。一人ずつ運ぶ必要はない」

 

 鬼太郎は、ダンブルドアの足元を見る。

 

「周囲の人間まで、一度に移動させられるのですね」

 

「誰にでも安全にできることではない。距離が長く、連れていく人数が増えれば、それだけ難しくなる。慣れぬ者が真似をすれば、身体の一部を置いていくことにもなりかねん」

 

 キーノの顔が強張った。

 

「先にそれを言うのか」

 

「危険を隠して連れていくよりよいじゃろう?」

 

「失敗しないんだろうな」

 

「君たち三人を連れていく程度なら、心配はいらんよ」

 

 言い方は穏やかだった。

 

 できるかどうかを考えている声ではない。

 

 自分ならできると、初めから決まっている者の答えだった。

 

「便利だな」

 

 サーシェスが言った。

 

「見張りも壁も、あれが使える相手には大した意味がねえ」

 

「入れぬよう守られた場所もある。どこへでも自由に現れられるわけではない」

 

「できる場所と、できねえ場所を調べりゃいい」

 

「君へ教える予定はないぞ」

 

「できねえ魔法を習う気はねえよ。使う奴を撃つ時の話だ」

 

「なお悪いのう」

 

 ダンブルドアが額へ手を当てる。

 

「移動する直前を見分ける方法はありますか?」

 

 今度は鬼太郎が尋ねた。

 

「鬼太郎くんまで、そのような顔をせんでくれ」

 

「授業で防ぎ方を教えていただけるなら、撃つ必要はないかもしれません」

 

「ないと言ってくれれば、少しは安心できるのじゃが」

 

「相手によります」

 

「やはり、先は長そうじゃ」

 

 ダンブルドアは空を見上げた。

 

 木々の向こうから差し込む光は、すでに西へ傾き始めている。

 

「もう一つ、当日の話じゃ。わしは、この姿のままダイアゴン横丁を歩かぬ方がよいじゃろう」

 

「なぜです?」

 

「少々、顔が知られておっての。店へ入るたびに声をかけられては、君たちの準備が進まん。わしと一緒におる三人へも、余計な目が集まる」

 

 サーシェスが白い髭を眺める。

 

「その髭を切るのか?」

 

「もっと確実な方法を使う。横丁へ入る前に、魔法で姿を変えるつもりじゃ」

 

「どんな姿に?」

 

 キーノの問いに、ダンブルドアは目を細めた。

 

「若い頃の、わし自身の顔じゃよ。今の姿しか知らぬ者には、すぐには分からんじゃろう」

 

「今、見せていただけますか?」

 

 鬼太郎が言う。

 

「まだ横丁へ行く日ではないぞ」

 

「どの程度変わるのか、興味があります」

 

「楽しみは当日まで取っておきなさい」

 

「残念です」

 

「お主の場合、変装を見破る方法まで考え始めそうじゃからの」

 

「もちろん、それも気になります」

 

「やはり見せぬ方がよさそうじゃ」

 

 ダンブルドアは笑いながら答えた。

 

 変装するのは、ダイアゴン横丁へ向かう当日。

 

 今ここで、白い髭も、年老いた顔も変わらない。

 

     ◆

 

「では、次の日取りが決まったら先に知らせる。今度は突然、森の境界へ現れたりはせんよ」

 

「どのように知らせます?」

 

「それも次までに用意しよう。森の外から、君たちだけが確認できる方法を考えておく」

 

「森の者を驚かせない方法でお願いします」

 

「承知した」

 

 ダンブルドアは三人から距離を取った。

 

 長衣の裾が、中庭を通り抜けた風に揺れる。

 

「次は菓子も多めに持ってくるとしよう」

 

「授業に必要ですか?」

 

「学ぶ者には、休憩も必要じゃ」

 

「僕は構いませんが、キーノさんの分は分けておいてください」

 

「私は頼んでない」

 

「では、僕がいただきます」

 

「誰もいらないとは言ってないだろ」

 

 ダンブルドアが楽しそうに笑う。

 

「忘れぬようにしよう」

 

 次の瞬間、白い姿が捻れるように縮んだ。

 

 風が吸い込まれ、小さく弾ける音がする。

 

 老人は消えていた。

 

 足跡だけが、土の上に残っている。

 

 鬼太郎は、ダンブルドアが立っていた場所へ歩み寄った。

 

 しゃがみ込み、土へ触れる。

 

 焦げても、凍ってもいない。

 

 MAGの残り香も感じない。

 

 魔力らしいものは、一瞬だけ周囲を歪ませた後、すでに薄れていた。

 

「あれで英国まで行ったのか?」

 

 キーノが、誰もいない場所を見る。

 

「おそらくは」

 

「坊主。撃てそうか?」

 

 サーシェスが尋ねる。

 

「消えると分かっていれば、直前を狙えるかもしれません。何の前触れもなく使われれば、難しいでしょうね」

 

「次の授業が決まったな」

 

「ええ」

 

「決めるのはあの老人だろ」

 

 キーノが二人を睨む。

 

「お前たち、教わる前から撃つことしか考えてないじゃないか」

 

「避け方も考えていますよ」

 

「なら、先にそっちを言え」

 

「意味は変わりません」

 

「変わる!」

 

 キーノの声が、修繕中の中庭へ響いた。

 

     ◆

 

 その日の夕方、鬼太郎は森の者たちへ使いを出した。

 

 全ての一族を集める必要はない。

 

 砦との取引をまとめてきた者へ、大切な話があると伝えた。

 

 日が木々の向こうへ沈む前に、ヴィーラの一人が来た。

 

 ゴブリンと小人が一人ずつ。

 

 若いズメイは中庭の端へ身体を伏せ、森トロールは門の外から顔を覗かせる。女性のアラクネは、修繕途中の壁へ細い脚を掛けていた。

 

 彼らの前に、鬼太郎、キーノ、サーシェスが並ぶ。

 

「今日来た老人から、英国にある魔法学校へ入る資格があると聞きました」

 

 鬼太郎は、ホグワーツという学校の存在と、まだ条件を調整している途中であることを話した。

 

 自分だけではない。

 

 キーノも、生徒として認められる方法を探している。

 

 サーシェスは学校へ入るのではなく、別の契約を検討している。

 

 話を聞き終えたゴブリンが、砦の壁を指した。

 

「ここを、捨てるのか」

 

「いいえ」

 

 鬼太郎は即座に答えた。

 

「学校へ通うことになっても、この砦を手放すつもりはありません。あなた方との契約も変えません」

 

 ヴィーラが、森の奥へ顔を向ける。

 

 密猟者は、鬼太郎たちが学校へ行くからといって消えない。

 

「森を離れている間に、侵入者が来たらどうする」

 

 アラクネが尋ねた。

 

「それについては、入学までに備えます」

 

 鬼太郎は、認められれば学校外の指定地点と砦をポートキーで結ぶ予定だと説明した。

 

 週末には戻る。

 

 危険を知らせる方法も作る。

 

 だが、まだ許可の出ていないものを、できるとは断言しなかった。

 

「少なくとも、学校へ行くから契約を終える、ということはありません。砦の修繕も、森を荒らす者の排除も、素材の取引も続けます」

 

 小人がサーシェスを見る。

 

「この男が、ずっと残るのか」

 

「残らねえよ」

 

 サーシェス本人が答えた。

 

「俺は坊主の留守番じゃねえ。仕事があれば外へ行くし、受ける依頼も俺が決める」

 

「サーシェスさんとの条件も変わりません。僕が学校へ通うことを理由に、砦へ縛りつけるつもりはありませんよ」

 

「だったら、誰が守る」

 

 ゴブリンの問いに、鬼太郎は少しだけ考えた。

 

「僕がいなければ何もできない森にするつもりはありません」

 

 森の者たちを見渡す。

 

「侵入者を見つける目は、すでに森の各所にあります。どこから入り、どこへ向かっているかを伝える経路を増やす。戦わずに住処を隠す方法と、時間を稼ぐ場所も作る。そのうえで、僕たちが戻れる道を用意します」

 

「戻れなかったら?」

 

 アラクネの声は静かだった。

 

「その時に備えるため、今から話しています」

 

 安心させるためだけの約束はしない。

 

 必ず間に合うとも、誰も傷つかないとも言わない。

 

 それでも、捨てないことだけは迷わなかった。

 

「この森は、力と資源を得られる場所です。砦も、あなた方との取引も、僕にとって価値がある。学校へ行く程度で手放す理由はありません」

 

 キーノが横から鬼太郎を見る。

 

「もう少し、別の言い方はなかったのか」

 

「嘘は言っていませんよ」

 

「そういう問題じゃない」

 

 ヴィーラが、小さく笑った。

 

 最初に森で会った時から、鬼太郎が善意だけで動く者ではないと知っている。

 

 利用価値があると言いながら、契約した相手を見捨てないことも。

 

 若いズメイが頭を持ち上げ、砦の石壁へ鼻先を向けた。

 

 修繕を続ける、という意思表示だった。

 

 ゴブリンも、積まれた石材を見る。

 

「なら、こちらも仕事は変えない。壁を直す。森へ入る者を知らせる」

 

「お願いします」

 

「学校から戻るたび、森へ知らない者を連れてくるな」

 

「それは、こちらからも望みません。ポートキーが認められても、使える者は限定します」

 

「あの白い老人は?」

 

「必要があれば来るかもしれません。その時は、先に知らせます」

 

 森トロールが、門の外で低く唸った。

 

 今日突然現れた老人を、まだ歓迎してはいないらしい。

 

「次は菓子を持ってくるそうですよ」

 

 鬼太郎が言う。

 

 森トロールの唸りが止まった。

 

 キーノが呆れた顔をする。

 

「それで納得するのか?」

 

 森トロールは答えず、門から顔を引っ込めた。

 

 少なくとも、先ほどより反対は弱くなっていた。

 

     ◆

 

 夜。

 

 鬼太郎は食堂の机へ、一枚の紙を広げた。

 

 中央に、今日戦った草地を描く。

 

 最初に自分が立っていた位置。

 

 ダンブルドアとの距離。

 

 撃った弾丸。

 

 炎、冷気、風、雷を使った順番。

 

 老人が初めて足を動かした場所。

 

 そして、自分が完全に拘束された位置。

 

 勝つための記録ではない。

 

 次に同じ差を前にした時、生きて帰るための記録だった。

 

 キーノは向かいの席で、借り物の杖を布から出している。

 

 ダイアゴン横丁で、自分を選ぶ杖が見つかるのか。

 

 期待しているとは言わない。

 

 だが、何度も杖を手に取り、置き直していた。

 

 サーシェスは椅子を傾け、英国魔法界で使っている偽名を変えるべきか考えている。

 

 学校へ行くための準備。

 

 森を留守にするための準備。

 

 そして、次の授業で一つでも多く奪うための準備。

 

 どれも、鬼太郎が以前に知っていた生き方にはなかったものだった。

 

 力がなければ、明日には亡骸になる場所ではない。

 

 だからこそ、明日のために手を打てる。

 

 鬼太郎は紙の端へ、最初の一行を書いた。

 

 ――相手を動かす前に、自分が退く道を残す。

 

 一度読み返し、その下へ次の課題を書き始める。

 

 森を離れる日は、まだ決まっていない。

 

 それでも砦には、留守にしても残る牙が必要だった。

 

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