第75話 取らなかった手
木々の影が途切れると、ハリーの眼鏡に窓の光が映った。
鬼太郎は畳んだ包み紙を箱の脇へ挟み、鞄を足元へ寄せ直した。向かいではキーノが、自分の膝へ残った菓子の欠片を払っている。
「あの子、全部読んだって言ってたよね」
ロンが閉まった扉を見て言った。
「教科書だろ。知らないことが多いと、読むところも増える」
キーノは答えたが、ロンはまだ扉の方を見ていた。
「それは分かるけど。入ってきて、いきなり、本当に呪文なのかってさ」
ハリーが眼鏡から手を下ろした。
「でも、直してくれて助かったよ」
「君の眼鏡はね」
ロンは膝のスキャバーズを撫でた。
鬼太郎は口を挟まず、その手を見た。使ってみせようとしたところへ人が増え、できなかった理由まで問われた。眼鏡の扱いが丁寧だったことと、それがロンにとって愉快だったかは別だった。
キーノが窓の方へ身体を戻す。
その途中で、彼女の目が扉に止まった。
ガラスの向こうに、三人の少年が立っていた。
真ん中にいる少年が、中を覗いている。薄い色の髪と白い顔が見えた。両脇の二人は大柄で、一人は通路へ目を向け、もう一人は客室に残る菓子を見ていた。
扉が開く。
「ハリー・ポッターがいるって聞いたんだが」
真ん中の少年が言った。
ハリーはその顔を見て、わずかに表情を変えた。
「君が、そうなんだな」
「うん」
「制服の店で会ったよね。僕はドラコ・マルフォイ。こっちがクラッブと、ゴイルだ」
示された二人は、名を呼ばれても挨拶をしなかった。
ロンが短く鼻を鳴らす。
マルフォイはすぐにそちらを見た。
「何を笑ってる?」
「別に」
「名乗る前から、人の名前がおかしいのか」
ロンが言い返す前に、マルフォイの目が赤毛から上着へ動いた。使い込まれた袖口を見て、何か分かったという顔になる。
「ウィーズリーだな。赤毛で、物を買い替える余裕もない。父さんから聞いたとおりだ」
「ロン・ウィーズリーだ」
ロンはネズミへ添えていた手を引いた。
鬼太郎は、マルフォイがハリーの返事を待つ様子を見た。家名を挙げたことへの反応を、確かめているようだった。
だが、ハリーは笑わなかった。
マルフォイはロンから目を外し、その隣へ視線を移した。
「君は?」
「墓場鬼太郎です。よろしくお願いします、マルフォイさん」
「ハカバ?」
「日本の姓です」
「英国の魔法使いの家とは、どう繋がっている?」
鬼太郎は少年の顔を見た。
今、名を聞いた相手について、本人より家のことが先に出る。商人が紹介状の名前を確かめるのとは、少し違う順番だった。
「家系には、あまり詳しくありません」
「知らないのか?」
「ええ。お役に立つようなお話は、できそうにありませんね」
鬼太郎が答えても、マルフォイは笑わなかった。知っている名が続くのを少し待ち、出てこないと分かると、関心を向かいへ移した。
◆
ドラコは、窓際の少女を見た。
整った顔が、こちらへ向いている。
最初はハリーを探していたので、よく見ていなかった。だが、一度目を留めると、ほかの二人とは違う姿に思えた。
赤毛の少年のような、くたびれた上着ではない。話し方も、こちらを歓迎して愛想を振りまく様子もない。
どこか、外国の家の娘かもしれなかった。
少なくとも、隣の日本人だという少年と同じ家の者には見えない。
「君は、何という名前だい?」
ドラコは客室へ一歩入った。
「どこの家の人間なのかな」
少女は、すぐには答えなかった。
聞こえなかったのかと思い、少し顔を近づける。彼女の眉が寄った。
名前さえ聞けば、話の続け方も分かるはずだった。父が知っている家なら、英国にいる間の知り合いが増えることも、悪い話ではないだろう。
少女の目が、ドラコから隣のハリーへ一度動いた。
ドラコは、その動きが少し気に入らなかった。
「名前くらい、言えるだろう?」
◆
キーノは、目の前の少年を見た。
どこの家。
その聞き方は、ハリーやロンとは違った。相手は、自分の答えに何か見知ったものを期待している。
言った後に、何を尋ねられるのだろう。
父や母の名前か。どんな場所から来たのか。知らない家だと言われたら、その続きをどう話せばよいのか。
昨日の夜、考えていたことが、別の顔をして目の前に来た。
「私は――」
声を出したところへ、先ほどの言葉が重なった。
名前くらい。
キーノは唇を閉じ、相手の目を見た。
「少し待て」
腰を浮かせる。
座っているところへ上から顔を覗かれるのが、嫌だった。立ち上がれば、少し離れて話せる。
ハリーが足を脇へ寄せた。
その空いたところへ、マルフォイが踏み込む。
「何をそんなに――」
右手が伸びた。
キーノの前腕へ届く前に、別の手がその手首を取った。
鬼太郎だった。
◆
鬼太郎は座席から立ち、二人の間へ踏み出していた。
掴んだ手首を、キーノの腕から外す。マルフォイの指が何もないところで閉じた。
「僕のものに触れないでください」
声は大きくしなかった。
マルフォイがこちらを見上げる。
「何だって?」
「お話をするだけなら、手を取る必要はありませんよ」
少年が腕を引いた。
鬼太郎は少しだけその動きについていき、キーノから離れる向きへ手を誘導した。抜こうとして引かれる力はあったが、彼女へ触れにいく動きには戻らない。
「離せ」
鬼太郎は、その手が胸元へ戻る位置で指を開いた。
マルフォイはすぐ腕を引き寄せ、反対の手で手首を押さえた。肌に傷はついていない。
クラッブが一歩前へ出た。
鬼太郎はそちらを見る。
肩は大きい。だが、狭い入口にはゴイルもいて、その前にマルフォイがいる。彼が真っ直ぐ来るなら、まず仲間の身体を避けなければならなかった。
鬼太郎は杖へ手を伸ばさず、立ったまま待った。
キーノが、横から口を開く。
「私の腕を、勝手に掴むな」
マルフォイへ言ってから、鬼太郎を見る。
「お前も、ものって言うな」
「失礼しました」
鬼太郎が答えると、彼女はすぐには目を逸らさなかった。
それから自分の座席へ腰を戻す。ハリーが空けていた足元も、彼女の裾が落ち着いたところで戻された。
「ちょっと、触ろうとしただけじゃないか」
マルフォイが言った。
「ええ。ですから、止めただけです」
鬼太郎は相手の手首から顔へ目を上げた。
マルフォイの口元が引きつる。
クラッブはもう前へ出てこなかった。ゴイルは隣へ目をやり、どうするのかという顔でマルフォイを見ている。
鬼太郎はキーノが座ったことを確かめ、身体を少し横へ向けた。
少年の顔を見続けるより先に、ハリーの声がした。
「用事は、それだけ?」
◆
ハリーは、マルフォイの手首を見ていた。
何が起こるかと思ったときには、鬼太郎がもう止めていた。腕を捻ったり殴ったりはしなかったが、相手が引いても、掴んだ手は簡単には離れなかった。
今はもう、離している。
キーノは彼女で、マルフォイにも鬼太郎にも言い返した。どちらかが代わりに答えてしまう前に、自分で嫌だと言った。
マルフォイは袖を直し、ハリーへ向き直った。
「君と話しに来たんだよ、ポッター」
「それなら、僕に話せばいいだろ」
ハリーが答えると、マルフォイは鬼太郎から半歩離れた。
それから、少し声を整えた。
「君は魔法界のことを、あまり知らないんだろう。付き合う相手は、よく選んだ方がいい」
その目がロンへ動く。
「家によって違いがあるんだ。何も知らないまま、変な連中と一緒にいる必要はない。僕なら、教えてやれる」
手が差し出された。
ハリーはそれを見た。
制服の店で会ったときも、この少年は家や寮の話をした。ハグリッドのことも、知ろうとする前に馬鹿にした。
今はロンの服を見て笑い、キーノが返事をしないから腕を取ろうとした。
ハリー自身がどんな人間なのかは、まだほとんど話していない。それなのに、誰といればよいかを、この少年に決めてもらう気にはなれなかった。
「僕は、ここにいたい」
手を取らずに答える。
マルフォイの顔が硬くなった。
「今、親切に教えてやってるんだぞ」
「でも、頼んでないよ」
ロンが隣の座席から身体を起こした。
「聞いただろ。僕たち、話してたんだ」
「君には、言ってない」
「僕も、ここにいるんだよ」
ロンの声が強くなった。
マルフォイは彼へ顔を向け、それからハリーを見る。
「後悔しても知らないぞ。誰と付き合うかで、学校での扱いも変わるんだからな」
「だったら、僕が決める」
ハリーは立ち上がった。
鬼太郎が少し横へ退いた。こちらの前へ割り込まず、席の間を空けている。
ハリーは扉を示した。
「帰ってくれない?」
マルフォイは差し出していた手を下ろした。
すぐには動かなかった。自分から来た部屋を追い出されるのが、納得できない顔だった。
その横から、ゴイルが中を覗いた。
「菓子、まだあるじゃないか」
ハリーはそちらを見た。
次の瞬間、大きな手が伸びた。
◆
ロンは立ち上がり、菓子の前へ腕を出した。
「それ、僕たちのだぞ」
ゴイルは構わず手を進めた。
ハリーの座っていた側には、残ったパイと、口を閉じかけた豆の包みがある。大きな指が、その端へ掛かった。
ロンが止めようとしたとき、座席の上で灰色のものが動いた。
スキャバーズだった。
ロンが立った際に膝から下りていたネズミが、包みの陰から飛びつく。
ゴイルの指へ歯が食い込んだ。
悲鳴が上がる。
振り上げられた腕から菓子の袋が外れ、座席へ豆が散った。ゴイルは手を振ったが、ネズミはぶら下がったままだった。
「何だ、こいつ! 離せ!」
身体が後ろへ下がり、クラッブの肩へぶつかる。
鬼太郎は足元の豆を避け、キーノの方へ腕が振り込まれない位置へ移った。ゴイルが暴れるたび、入口にいる三人の身体が互いの動きを塞いでいた。
ロンは両手を伸ばした。
「スキャバーズ!」
ネズミが歯を離した。
灰色の身体が床へ落ち、ロンが屈んで拾い上げる。ゴイルは指を押さえ、通路へ逃げるように下がった。
クラッブも、その腕を避けるために外へ退く。
マルフォイだけが扉のところに残った。
「その汚いネズミをしまえ、ウィーズリー」
「勝手に取ろうとしたからだろ!」
ロンはネズミを胸の前へ抱えた。
ハリーも座らず、マルフォイを見ていた。
こちらを押して入れば、もう一度騒ぎになる。そのことが分かったのか、マルフォイは唇を曲げ、通路へ一歩退いた。
「覚えておけよ」
誰へ向けた言葉か分からなかった。
鬼太郎は返事をせず、その少年の顔を見た。マルフォイが視線を外し、二人の方へ向き直る。
ハリーが扉を閉めた。
ガラスの向こうで、ゴイルがまだ指を気にしていた。クラッブが何か言うと、マルフォイが短く答える。
三人の姿が、通路の先へ消えていった。
ロンはそこで、ようやく息を吐いた。
「こいつが、あんなことするなんて」
スキャバーズの背を指で撫でる。
ネズミは少し鼻を動かし、それからまた身体を丸めた。
◆
キーノは、自分の隣へ転がった豆を集めた。
食べる分は箱へ、床に落ちたものは捨てる紙へ分ける。鬼太郎が空いた包みを開くと、彼女は拾った分をそこへ落とした。
白い手首を掴んでいたのも、その手だった。
「止めたのは、よかった」
鬼太郎が顔を上げる。
「だが、私はお前の荷物じゃないぞ」
「荷物だと思って、あそこに座っていただいたわけではありませんよ」
「分かってる。だから、言い方の話をしてる」
キーノは鬼太郎を見たまま、空の包み紙を彼の手から取った。
「これは私が持つ。片づけに行くなら、渡す。私には、そう聞け」
鬼太郎の目が、一度紙へ落ちた。
それから、彼女へ戻る。
「その紙を、片づけてきてもよろしいですか?」
「今は、まだ拾ってる途中だ」
彼女が答えると、鬼太郎は手を引いた。
「では、終わってから」
「ああ」
キーノは足元の最後の一粒を拾った。
無理に腕を掴まれるのを止めたことまで、悪いとは思っていない。あの少年が近づいてきたとき、鬼太郎が動くのも見えた。
だが、それで自分の呼ばれ方まで彼に任せる気はなかった。
紙を畳み、今度は自分から差し出す。
「これでいい。頼む」
鬼太郎が受け取る。
ハリーも集めた分を渡し、ロンは座席の下をもう一度見た。鬼太郎はそれを待ってから、自分たちの分と一緒に持って廊下へ出た。
扉が閉まると、ロンがキーノを見た。
「あいつ、君のこと、何も知らないくせに」
「私の名前も、結局聞いてないな」
答えると、ハリーが頷いた。
「家の名前が、聞きたかったんだろうね」
「マルフォイの家は、そういうのを気にするんだ。父さんも、あいつの父親を知ってる」
ロンは家で聞いた話をした。
自分の父親が何を言っていたか。その名前を聞くと、どんな顔をするか。言葉の途中で何度も、先ほどの上着への視線を思い出したように袖を引く。
キーノは聞きながら、さっきのマルフォイの顔を思い返した。
自分を見ていても、自分の答えを待ってはいなかった。
ハリーやロンに名乗ったときは、違った。長い名前を聞き返されても、急かすためではなかった。
「あいつに、急いで言わなくてよかった」
呟くと、ハリーがこちらを見た。
「嫌なら、言わなくてもいいと思う」
「お前には、もう言ったぞ」
「うん。覚えてるよ」
ハリーは少し笑った。
キーノも鼻から息を吐き、空いた隣の席へ手を置いた。ハリーがそこへ座り直す。
ロンもスキャバーズを膝に載せ、向かいへ腰を下ろした。
◆
鬼太郎が戻ると、客室ではマルフォイの家の話が続いていた。
扉を開ける手元へハリーが顔を向け、すぐに足を寄せた。鬼太郎は礼を言い、自分の席へ戻る。
右腰の銃も、杖も、抜く必要はなかった。
大きな少年たちは、狭いところへ人数を集めていた。背後に立つ二人を頼みにしていたのだろうが、いざ手を動かすと、自分たちで退く場所まで塞いでいた。
鬼太郎は窓へ目を向けた。
家名が使えること自体は知っている。紹介状があれば開く扉もあり、誰の言葉かで仕事の条件は変わる。
ただ、先ほどの少年は、その名を聞いた相手が何を望むのかを、ほとんど見ていなかった。
ハリーは手を取らなかった。
知っていることが少なくても、隣へ座る相手を選ぶ理由は持っているらしい。
「キタロウ」
呼ばれて顔を戻すと、ハリーが残った菓子の箱を持っていた。
「こっちは落ちてないよ。食べる?」
「ええ。いただきます」
差し出された箱から、一つ取った。
ハリーは箱をキーノにも向ける。彼女は中を見て、もう要らないと首を振った。
箱が閉じられる。
ロンが膝のネズミを見下ろし、今日初めて役に立ったかもしれないと言った。ハリーは、菓子を守ってくれたのだから立派だと返す。
キーノも灰色の背へ目を向けたが、手を伸ばすことはしなかった。
鬼太郎は菓子を口へ運んだ。
目の前では、断られた箱が無理に押しつけられることもなく、持ち主の膝へ戻っていた。
彼はその箱を一度見てから、窓の外へ顔を向けた。
汽車は、三人が来る前からずっと進んでいる。話している間に、並んでいた木々は低い柵へ変わっていた。
向かいで、キーノが窓へ少し顔を近づけた。
「今の、川か?」
ハリーも肩越しに見たが、もう後ろへ流れていた。
「見逃した。次は教えて」
「ああ」
キーノが答える。
鬼太郎は菓子の残りを食べ、窓の先へ目を戻した。次の水面が見えたら、自分からも声を掛けられそうだった。