第七十六話 若い顔は、古い金を量る
押し潰されるような圧迫が消えた瞬間、鬼太郎の靴底が濡れた石を踏んだ。
肺へ空気を入れるより先に、右の脇腹が強く引きつる。
身体が傾いた。
腕を掴んだダンブルドアが、壁へぶつかる前に支える。
「そのまま動かん方がよい」
「問題ありません。少し、傷に響いただけです」
「それを問題というのじゃよ」
若い男の声で言われても、口調は森にいた老人のままだった。
鬼太郎は呼吸を整えながら、周囲を見る。
高い煉瓦塀に囲まれた、小さな中庭だった。
積まれた空樽。
閉じた木戸。
曇った空から、細い雨が落ちている。
英国へ戻ったらしい。
「これが、姿現しか」
キーノは塀へ片手をついていた。
顔を上げているが、口元から血の気が引いている。
サーシェスは二歩よろめいただけで踏み止まり、首を鳴らした。
「ずいぶん長く感じたぞ」
「国を越えたからの。三人を同時に連れるとなれば、近所へ出かけるのと同じにはいかん」
「次は別料金だ」
「わしが払うのかね?」
「坊主との契約に追加する」
「僕は事前に聞いていませんよ」
「今、伝えた」
鬼太郎はダンブルドアの手を借りず、自分で立つ。
傷は開いていない。
左肩も動く。
ダンブルドアは鬼太郎の脇腹へ一度杖を向け、淡い光を走らせた。
「出血はない。じゃが、帰りも同じ方法じゃ。今日一日、無理に動かんこと」
「歩く程度なら問題ないのでしょう?」
「なぜ、許される限界を先に探すのかのう」
「動ける範囲を知っておいた方が予定を立てやすいからです」
「こいつに言っても無駄だ」
キーノが壁から離れた。
「止まったら私が言う」
「任せよう」
「本人を飛ばして決めないでいただけますか?」
「お主へ任せると、もう一軒増やすじゃろう」
「必要ならば」
「ほれ見なさい」
若い姿のダンブルドアは、赤褐色の髭を指で撫でた。
長さは胸へ届かず、髪にも白いものはない。
顔から深い皺が消え、背筋も僅かに伸びている。
地味な濃灰色の外套を着ていれば、白い長衣の校長と同じ人物には見えない。
ただし、半月眼鏡の奥にある青い目だけは変わっていなかった。
ダンブルドアは中庭の木戸を開く。
「まずは、持ってきた物の査定じゃ。杖はその後。グリンゴッツへ寄るかどうかは、売れた額を見て決めよう」
「キーノさんの検査と書類は?」
「担当者と午後に会う。時間は取ってあるよ」
「俺の契約は?」
「それもじゃ。署名するかは、読んでから決めればよい」
「当たり前だ」
サーシェスは、若いダンブルドアを上から下まで見る。
「しかし、その顔なら誰も気づかねえのか?」
「古い知り合いには、目と話し方で分かるかもしれん」
「変装の意味が半分しかねえな」
「通りを歩くたびに呼び止められぬだけで、十分意味はある」
木戸の外には、細い路地が続いていた。
その先で、人の声と馬車の音が混じっている。
三人にとって、知らない入口ではない。
以前は追う者の有無を確かめ、必要な品だけを買い、長居を避けた。
今日は違う。
学校へ入るために、戻ってきた。
◆
漏れ鍋を抜け、煉瓦の壁が開く。
雨に濡れたダイアゴン横丁では、朝から多くの魔法使いが行き交っていた。
羽根ペンを束で運ぶ男。
鍋を頭へ載せた子供。
軒下で眠る、灰色の梟。
キーノは周囲へ驚かず、人の流れと脇道だけを見る。
サーシェスも店先の商品ではなく、屋根と窓の位置を確認していた。
ダンブルドアは大通りを途中で曲がり、古い時計店と薬屋の間へ入る。
細い路地の奥に、銀色の天秤が描かれた看板があった。
店の名は、〈銀の天秤〉。
窓は狭く、飾られているのは銀の杯と、石の外れた指輪だけだった。
扉を開けると、小さな鈴が鳴る。
「まだ開けたばかりだよ。売るなら順番に――」
帳場の向こうにいた女主人が、顔を上げた。
灰色の髪を後ろで固くまとめている。
片目には、何枚もの薄い硝子が重なった鑑定眼鏡を掛けていた。
ダンブルドアを見る。
眼鏡の硝子を一枚上げる。
もう一度見る。
「……ずいぶん若返ったね」
「朝から客の秘密を口にするものではないよ、ミセス・グレイヴス」
「秘密にしたいなら、その目も変えてくるんだね。声は少し上手くなったようだけど」
ダンブルドアは苦笑した。
「信頼できる店じゃと、三人へ説明したところじゃ」
「口は堅いよ。値段は甘くない」
「望むところです」
鬼太郎が答える。
ミセス・グレイヴスの鑑定眼鏡が、鬼太郎へ向いた。
「その子たちが客かい?」
「うむ。今日は品の確認と、問題のない物だけの買い取りを頼みたい」
「問題があるかもしれない品を、うちへ持ち込んだのかい?」
「問題があると分かった物は置いてきました」
鬼太郎は拡張鞄を台へ置く。
中から、三つの布包みを取り出した。
一つには鬼太郎の印。
一つにはキーノの印。
最後の小さな包みには、サーシェスの印がある。
「持ち主は分けています。混ぜて査定しないでください」
「出所は?」
「僕たちを殺そうとした方々や、森で捕まえた密猟者から回収しました」
店の奥で、時計の針が一つ進んだ。
ミセス・グレイヴスは、鑑定眼鏡越しに鬼太郎を見る。
ダンブルドアは目を閉じた。
「嘘ではありませんよ」
「お主には、嘘をつけとは言っておらん」
「では、何がいけなかったのでしょう?」
「物事には、説明する順序と強調する場所があるのじゃ」
「倒した後、契約に従って分けた。盗んだわけじゃない」
キーノが補足する。
「死んだ奴もいるが、生きて帰した奴もいる」
サーシェスも続けた。
ダンブルドアは目を開けない。
「二人とも、助けておるつもりかね?」
「事実を足しただけだ」
「俺もだ」
「余計に難しくなったのう」
ミセス・グレイヴスが、低く笑った。
「あんたが三人も連れてきた理由は分かったよ。少なくとも、帳簿をごまかす客じゃなさそうだ」
「売れない物は返してください。理由も知りたいです」
「当然だ。うちは盗品の引受所じゃない。呪われて死にたい客には、ノクターン横丁を勧めてる」
女主人は杖を振った。
帳場の上へ、白い布が広がる。
銀の小皿が三枚。
細い鎖のついた分銅。
水晶板と、青い炎を灯した小さなランプ。
「まず、子供の分から。包みを開けるよ」
◆
金の腕輪が、銀の皿へ置かれた。
天秤は傾かない。
ミセス・グレイヴスが分銅を一つ足すと、腕輪の表面から黒い線が浮かんだ。
肉眼では見えなかった紋章だった。
「古い家印だ。削った跡がある」
「売れませんか?」
「今はね。盗難届と相続記録を調べる。問題がなければ、後日買う」
腕輪は、赤い札のついた箱へ入れられた。
次は、裸の青い石。
青い炎へ翳すと、石の内側へ細い文字が現れる。
「追跡用の術式だよ。持ち主が探そうと思えば、場所を辿れる」
「砦へ置かなくて正解でしたね」
「そういう感想が先に出るのかい?」
「売れないことより重要ですから」
青い石も、別の箱へ移される。
三枚目の古い金貨は、ランプへ近づけた途端に甲高い声を上げた。
意味の分からない言葉を叫びながら、皿の上で跳ねる。
ミセス・グレイヴスは慌てず、硝子の蓋を被せた。
「儀式用だ。金として潰せば何が起きるか分からない。買い取らない」
「昨日、分けた闇の品には反応しませんでしたが」
鬼太郎がダンブルドアを見る。
「わしは鑑定士ではないからの」
「最も詳しい方だったので、お願いしました」
「君は、人の使い方に迷いがないのう。わしも一応、そこそこ有名な魔法使いなんじゃがな」
「存じていますよ。ですからお願いしています」
昨日と同じ答えに、ダンブルドアは赤褐色の髭を撫でた。
ミセス・グレイヴスが笑いを堪えるように咳をする。
「ずいぶん気安く使われてるじゃないか」
「最近、取り繕うだけ無駄だと分かってきたところじゃよ」
「よかったね。長生きしても学ぶことはあるらしい」
「その話は、査定が終わってからにしてくれんかの」
調べられた品の全てに、問題があったわけではない。
刻印のない金の鎖。
術式を持たない裸石。
混ぜ物の少ない銀塊。
宝飾品としてではなく、素材として買い取れる物が一つずつ分けられていく。
鬼太郎の包みは最も多かった。
キーノの包みには、小さな指輪と銀貨が数枚入っていた。
過去の仕事で、報酬として明確に分けられた分だけだ。
サーシェスの包みはさらに少ない。
「俺の分は、銃と弾を引いた残りだ」
「分配の記録は?」
「あります」
鬼太郎は帳簿を出した。
日付。
場所。
誰から回収したか。
売却前に誰の取り分としたか。
全てではないが、英国を離れる頃から残している。
ミセス・グレイヴスは数頁を読み、鬼太郎を見た。
「出所は物騒だが、分け方は妙に几帳面だね」
「後で争う方が面倒ですから」
「大人になったら、質屋より金貸しに向きそうだ」
「利息を取る仕事ですか?」
「興味を持たせるんじゃない!」
キーノが割って入った。
査定は、一時間以上かかった。
最初の量に比べれば、買い取られた品は多くない。
それでも、天秤の横へ積まれた硬貨は、二人分の教科書、制服、杖、鍋、そのほかの入学用品を揃えて余る額になった。
一生働かずに暮らせるほどではない。
森の砦を直し続け、必要な薬や弾薬を買えば、いずれ尽きる。
鬼太郎は金額を聞き、帳簿へ記した。
「十分ですね」
「何に対してだい?」
「学校へ入り、砦を維持し、しばらく鍛えるためにです」
「しばらく、という言葉が短いことを祈るよ」
「必要になれば、また稼ぎます」
「方法は聞かないでおこう」
「それがよい」
ダンブルドアが即座に同意した。
◆
質屋を出た後、四人はグリンゴッツへ向かった。
白い建物は、以前に見た時と変わらず横丁の店々を見下ろしている。
鬼太郎は売却代金の大半を預けた。
キーノの分は、鬼太郎の金へ混ぜない。
仮の保管口座ではあったが、名義はキーノ自身のものになった。
サーシェスは自分の硬貨を預けず、革袋へ入れる。
「ゴブリンへ預けるより、自分で持つ」
「落としても補償しませんよ」
「落とす前に、拾った奴の腕がなくなる」
「銀行の中で物騒な話をせんでくれんか」
ダンブルドアが周囲を見る。
近くの窓口にいたゴブリンが、羽根ペンを止めてサーシェスを睨んでいた。
「僕の話は止めるのに、サーシェスさんの話は止めないのですね」
「お主より年上じゃから、自分で責任を取るじゃろう」
「不公平です」
「十歳と大人を同じように扱えと言う方が無理じゃ」
「殺した人数なら、年齢だけでは決まりませんよ」
「そこで張り合うな!」
キーノの声が、高い天井へ響いた。
ゴブリンたちの視線が集まる。
若い姿のダンブルドアは帽子を深く被った。
「早く出よう」
「次は、杖ですね」
「その前に、店では余計な説明をせぬこと」
「必要な質問には正確に答えます」
「それで十分じゃ。自分から殺した人数を話す必要はない」
「杖を選ぶのに関係しますか?」
「少なくとも、普通は聞かれんよ」
グリンゴッツを出る。
細い雨は止み、濡れた石畳へ薄い光が落ちていた。
◆
オリバンダーの店は、以前と同じ場所にあった。
剥げかけた金文字。
埃を被った窓。
色褪せた紫のクッションに、一本だけ置かれた杖。
扉を開ける前に、ダンブルドアが三人を見る。
「ここから先は、杖が選ぶ。値段や見た目で決めることはできん」
「知っています」
キーノが答える。
「前に来た時は、買えなかっただけだ」
「うむ。今日は君の杖も探そう」
「先に鬼太郎でいい。私は見てる」
「よろしいのですか?」
「お前の方が時間がかかりそうだ」
「根拠は?」
「今まで、まともに使えた杖が一本もない」
「それは、全て他人の杖でした」
「なら、今日は分かるだろ」
キーノが扉を押す。
頭上で鐘が鳴った。
細長い店の壁を、天井まで杖の箱が埋めている。
誰もいないように見えた。
やがて、棚の奥で何かが擦れる。
白い髪の老人が、音もなく現れた。
「おはようございます」
淡い銀色の目が、一人ずつ客を見た。
キーノ。
サーシェス。
鬼太郎。
最後に、若いダンブルドアへ止まる。
「これは――」
「今日は付き添いじゃよ、オリバンダー」
老人は目を細めた。
「その姿を最後に見たのは、随分と昔です。ですが、目は同じだ」
「店の外まで聞こえる声で言わんでくれると助かる」
「もちろんです。杖作りは、客の秘密と共にある仕事ですから」
オリバンダーは鬼太郎へ向き直る。
「あなたが最初ですか?」
「はい。鬼太郎と申します」
「利き手は?」
「右です」
巻き尺がひとりでに飛び上がった。
肩から指先。
肘から手首。
指の長さ。
腕だけでなく、肩幅、身長、耳の間まで測っていく。
「他人の杖を使ったことは?」
「あります。何本か試しました」
「結果は?」
「ほとんど反応しませんでした。比較的反応した一本でも、ルーモスの光が針のような大きさで数秒続いただけです」
「その杖には、以前の持ち主が?」
「いました。全て、戦った相手から回収した物です」
ダンブルドアが横から咳をした。
鬼太郎はそちらを見る。
「必要な質問へ、正確に答えましたよ」
「そうじゃな」
否定できず、ダンブルドアは短く答えた。
オリバンダーは驚かなかった。
「既に選んだ相手のいる杖は、新しい手へ本来の力を明かさないことがあります。所有者が変わる道筋にも、様々な形がある。反応が弱かったことだけでは、あなたと杖の相性は測れません」
「今日は、まだ誰も選んでいない杖を試せるのですね」
「ええ。そのための店です」
巻き尺が床へ落ちる。
オリバンダーは棚の間へ消え、細い箱を一つ持って戻った。
「楡。十一インチ。芯はユニコーンの尾の毛。よく整い、持ち主の意図を正確に形へする杖です」
箱の蓋が開く。
淡い褐色の杖が、布の上へ横たわっていた。
「振ってみてください」
鬼太郎は右手を伸ばす。
杖へ触れた。
持ち上げる。
その途端、細い木が震えた。
鬼太郎の手が震えているのではない。
杖だけが、掌の中で激しく跳ねている。
指の間から逃れようとするように、先端が外側へ曲がった。
「放した方がよいですか?」
オリバンダーが答える前に、乾いた音がした。
杖の中央へ、細い亀裂が走る。
鬼太郎はすぐに力を抜き、杖を箱へ戻した。
亀裂は、それでも止まらなかった。
木目に沿って、端まで伸びていく。
店が静まり返る。
キーノが箱を覗いた。
「お前、何をした?」
「まだ振っていませんよ」
「力を流したか?」
「いいえ。触れて、持ち上げただけです」
ダンブルドアは、割れた杖へ顔を近づけた。
杖先を向け、何かを調べる。
「外から壊す力が加わった跡はない」
「魔力がぶつかった形でもありません」
オリバンダーが、亀裂へ指を添えた。
「この杖は、あなたを拒みました」
「相性が悪いということですか?」
「それより、はっきりしています」
淡い銀色の目が、鬼太郎を見上げる。
「あなたを主に選ぶくらいなら、折れることを選んだ」
鬼太郎は壊れた杖を見る。
「珍しいことですか?」
「杖が不満を示すことはある。何も起こらないことも、持ち主の手を痺れさせることも。ですが、最初に触れただけで、自ら割れるほどの拒絶は――」
オリバンダーは言葉を切った。
「私は、見たことがありません」
「前に使った杖は、壊れませんでしたよ」
鬼太郎が言う。
「針ほどとはいえ、光も出た」
ダンブルドアも続けた。
オリバンダーは、割れた杖を箱ごと脇へ置いた。
「それらには、既に選んだ主がいたのでしょう。以前の結びつきが残る杖が、別の手で十分に応えないことと、誰も選んでいない杖が、選ぶ機会を与えられてなお拒むことは違います」
「今回は、杖自身が僕を選ばなかった」
「選ばなかっただけではありません。近づきたくないと、形を失ってまで示したのです」
キーノの眉が寄る。
「一本だけなら、その杖がおかしかった可能性もあるだろ」
「そのとおりです」
オリバンダーは頷いた。
棚の奥へ戻る。
次に持ってきた箱は、先ほどより短かった。
「サンザシ。十と四分の三インチ。ドラゴンの心臓の琴線。複雑で、矛盾を抱えた者とも深く結びつくことがある」
「今度は、どうすれば?」
「私が箱を持ちます。あなたは、親指と人差し指で軽く触れるだけに」
鬼太郎は言われたとおり、二本の指を伸ばした。
杖の柄へ触れる。
冷たい木の感触が伝わった。
次の瞬間、杖が反対側へ跳ねた。
オリバンダーの手にある箱の中で、鬼太郎から距離を取ろうとする。
箱の端へぶつかる。
戻る。
もう一度、強くぶつかる。
「手を離します」
鬼太郎が指を退けた。
直後、杖が大きく捻れた。
外から折られたのではない。
木の内側から二つへ分かれるように、縦へ裂けた。
先ほどより深い亀裂だった。
赤い芯が、一瞬だけ覗く。
オリバンダーが、素早く箱の蓋を閉めた。
誰も話さない。
棚の上で、積まれた箱が一つだけ小さく鳴った。
続いて、別の棚からも音がする。
鬼太郎がそちらへ目を向けると、音は止んだ。
オリバンダーは閉じた箱へ手を置いたまま、長く考えていた。
「代金は、お支払いします」
「今は、その話ではありません」
「二本とも、僕が触れたことで壊れました」
「ええ。ですが、あなたが壊したのではない」
老人は顔を上げる。
驚きよりも、強い興味が銀色の目へ浮かんでいた。
「……これは、少々時間がかかりそうです」