第七十七話 黒い杖は、帰還を迎える
「……これは、少々時間がかかりそうです」
オリバンダーは、縦に裂けた杖の箱を帳場へ置いた。
店の棚は静まっている。
先ほどまで聞こえていた小さな物音も、今はない。
鬼太郎が右手を開閉する。
指に傷はない。
木片も刺さっていなかった。
「次も試しますか?」
「もちろんです」
オリバンダーは即答した。
銀色の目に、不安より強い興味が浮かんでいる。
「二本で結論を出すには早すぎる。杖材も芯も、長さも性質も変えてみましょう」
「また割れた場合は?」
「私が調べます。あなたは、先ほどと同じように力を込めないでください」
「分かりました」
ダンブルドアが、脇へ置かれた二つの箱を見る。
「オリバンダー。無理に続ける必要はないのではないかね?」
「二本目で止めれば、この方に合う杖が存在しないのか、選び方が間違っていたのかも分かりません」
「店中の杖を割るわけにはいかんじゃろう」
「そこまでは試しません」
「今、一瞬考えたのではないかね?」
「杖作りが家業なもので」
オリバンダーは棚の間へ入った。
すぐに、青い箱を抱えて戻ってくる。
「葡萄の木。十二インチ。芯はドラゴンの心臓の琴線。以前の二本より、強い意志と広い視野を持つ使い手へ応えやすい」
箱は台へ置かれた。
鬼太郎は、すぐに触れない。
「蓋を開けていただけますか?」
「ええ」
オリバンダーが蓋を持ち上げる。
濃い茶色の杖が現れた。
何も起こらない。
「手を近づけます」
鬼太郎は右手を伸ばした。
指先と柄の間が、拳一つ分になる。
杖が小さく跳ねた。
鬼太郎の手とは反対側へ転がり、箱の縁へ当たる。
さらに近づける。
先端が持ち上がり、細かく左右へ振れた。
来るなと告げているようだった。
「まだ触れていませんよ」
「ええ。見ています」
オリバンダーの声が僅かに高くなる。
鬼太郎の指が柄へ触れる直前、杖先から赤い火花が弾けた。
攻撃ではない。
鬼太郎の手を避け、箱から飛び出す。
オリバンダーが空中で受け止める。
その手の中で杖は静かになった。
「これは、折れませんでしたね」
「代わりに逃げました」
キーノが言う。
「お前、杖にまで嫌われるのか」
「初対面ですから、仕方ありません」
「普通は、初対面で逃げない」
「人からは、よく逃げられますよ」
「理由を考えろ」
サーシェスが棚へ背を預け、笑う。
「坊主を知ってる奴なら分かるが、杖は何を見て逃げてんだろうな」
「知っているからではありませんか?」
鬼太郎は、オリバンダーの手にある杖を見る。
「何をだ?」
「それが分からないので、試しているのでしょう」
「杖は、持ち主の全てを読むわけではありません」
オリバンダーが答えた。
「ですが、杖材と芯は、手を伸ばした者の中にある何かへ応じる。本人がまだ知らない資質を選ぶことさえあります」
「では、今のは僕の何かを嫌った」
「その可能性は高いでしょう」
オリバンダーは葡萄の木の杖を箱へ戻した。
「拒絶の仕方が、あまりに強い。それも、三本とも同じ方向です」
「僕の魔力が強すぎて、押し返している可能性は?」
「ありません」
ダンブルドアが先に否定した。
「君から力が溢れた形跡はない。最初の二本も、外から力を受けて壊れたのではなかった。杖自身が、君と繋がる前に拒んでおる」
「僕が使っている力との衝突でも?」
「少なくとも、今起きた現象からはそう見えん。君は、何も使っておらんからの」
鬼太郎は頷いた。
これまで、敵から回収した杖は僅かにしか応えなかった。
既に別の主を選んだ杖だったからだ。
今、目の前にある杖には、まだ主がいない。
誰かを選べる状態で、それでも鬼太郎を拒んだ。
二つは、同じ反応ではない。
「続けてください」
「痛い目を見るまで止めないところは、犬と戦った時から変わっておらんようじゃな」
ダンブルドアが言った。
「今は、まだ怪我をしていませんよ」
「杖が二本壊れた」
「僕ではなく、杖が痛い目を見ています」
「それでよしとするでない」
オリバンダーは二人の会話を聞きながら、次の箱を選んだ。
◆
四本目は、鬼太郎が触れる前に箱の中で向きを変えた。
柄を奥へ隠し、先端だけを鬼太郎へ向ける。
五本目は、手に載せた途端に冷たくなった。
表面へ霜が広がり、握られる部分だけが細く縮む。
鬼太郎が放すと、元の形へ戻った。
六本目は、反応しなかった。
鬼太郎が一度だけ振る。
光も、風も、火花も出ない。
もう一度振ろうとした時、柄の端から乾いた音がした。
オリバンダーが止める。
杖の内部に、輪状の亀裂が入っていた。
「ここまでにしよう」
ダンブルドアの声が、先ほどより低くなる。
「この子に合う杖を探すためとはいえ、これ以上は壊す数が増えるだけじゃ」
「僕は、杖がなくても困りませんよ」
鬼太郎は右手を下ろした。
「使える力は、他にあります」
「学校で困る」
キーノが言う。
「授業は杖を使うんだろ。毎回、手から火を出すつもりか?」
「必要ならば」
「必要にするな」
「鬼太郎。君が使う力と、学校で学ぶ魔法は別物じゃ」
ダンブルドアも続ける。
「杖なしで入学できぬとは言わん。じゃが、授業の大半で大きな不都合が出る。君自身も、現世界の魔法を学びたいと言っておったじゃろう」
「ええ。だから試しています。ただ、壊れると分かった物を、同じように握り続ける意味はありません」
「同じように、ですか」
オリバンダーが呟く。
鬼太郎を見るのではなく、天井まで積まれた箱を見上げていた。
やがて、銀色の目が店の奥へ向く。
「少し、お待ちください」
老人は返事を待たず、棚の間へ消えた。
足音が遠ざかる。
何かを動かす音。
鍵が一つ開く。
さらに、重い蓋が擦れる音がした。
「まだ試すつもりらしいな」
サーシェスが言う。
「止めますか?」
「俺に聞くな。壊した分を払うのはお前だ」
「まだ値段を聞いていません」
「全部買う気か?」
「僕が触れなければ壊れなかった物ですから」
「杖自身が選んだことじゃ」
ダンブルドアが割れた箱を見る。
「オリバンダーも、代金を請求するつもりはあるまい」
「それでは、店だけが損をします」
「お主が今、気にするところはそこなのかね?」
「他に何がありますか?」
「自分を拒むために、杖が自ら折れたことじゃよ」
「嫌われることには慣れています」
「慣れるような年齢ではなかろう」
「十年あれば十分ですよ」
「十分ではない」
キーノが短く言った。
鬼太郎は返事をせず、オリバンダーが消えた棚の奥を見る。
やがて、足音が戻ってきた。
老人が抱えていたのは、黒い木箱だった。
これまでの箱より長く、幅もある。
表面には艶がない。
銀色の留め具は黒ずみ、角の一部が欠けていた。
オリバンダーは両手で箱を台へ置く。
鈍い音がした。
「重そうですね」
「箱だけの重さではありません」
老人は、蓋の埃を布で拭った。
「これは、私が作った杖ではない。先代――私の父が残したものです」
ダンブルドアの目が、細長い箱へ向く。
「先代の杖が、まだ残っておったのかね?」
「売れ残ったのではありません。誰も選ばなかったのです」
留め具が外される。
「正確には、誰かを選ぶところまで進まなかった」
蓋が開く。
黒い杖が現れた。
光を吸い込むような、深い黒。
装飾はない。
真っ直ぐに削られているが、根元は一般的な杖より太い。
長さも、十歳の子供が使うには明らかに長かった。
「黒檀。十六インチ半。硬く、重い。芯に使われているのは、一本の羽根です」
キーノが眉を寄せる。
「何の羽だ?」
「分かりません」
オリバンダーは、黒い杖から目を離さずに答えた。
「先代も特定できなかった。この世界で知られている、どの鳥や魔法生物の羽とも一致しなかったそうです」
「分からない物を、杖の芯にしたのか?」
キーノの声へ、警戒が混じる。
「出所は、先代が私的な記録へ残しています。当時、名を知られていた一人の魔術師が主導した、大規模な研究に関係するものです」
ダンブルドアの青い目が細くなる。
「まさか、異界生成計画かね?」
「ご存じでしたか」
「ごく一部の記録だけじゃ。一般に教えてよい話ではない」
「先代も、その計画へ参加していました」
ダンブルドアが、初めてオリバンダーから黒い箱へ目を移した。
「公式の参加者名簿に、杖職人の名はなかったはずじゃが」
「表へ出る立場ではありませんでした。異界で未知の素材が発見されれば、杖作りにも新しい可能性が生まれる。先代はそう考え、素材の鑑定役として協力していたそうです」
「異界とは何ですか?」
鬼太郎が尋ねる。
ダンブルドアはすぐに答えなかった。
杖店の扉と窓を確かめ、外へ声が漏れないよう杖を一度振る。
「世界の内側へ、通常の場所とは異なる領域を人為的に作ろうとした研究じゃよ。今から何十年も前、ある高名な魔術師を中心に、多くの魔法使いと専門家が集められた。長い準備の末、彼らは実際に異界を完成させた」
「成功したのなら、なぜ一般に教えないのですか?」
「完成した直後に、制御を失ったからじゃ」
ダンブルドアの声から、普段の軽さが消える。
「異界は急速に膨張し、研究施設の一部を巻き込んで爆発した。裂けた領域から、術者たちが招いた覚えのない異形が複数、この世界へ出てきた」
「悪魔、と現場の記録には残っています」
オリバンダーが続ける。
「計画へ参加していた魔法使いたちは、その場で悪魔たちと交戦しました。負傷者も出た。施設も、集めていた資料も、ほとんどが失われたそうです」
オリバンダーは黒い杖を示した。
「戦いが終わった後、先代は瓦礫の中で、この羽根を見つけた」
「正式に回収したのですか?」
鬼太郎の問いに、オリバンダーは短い沈黙を置いた。
「いいえ。先代は、誰にも届け出ず持ち帰りました」
「盗んだのか」
キーノが言う。
「否定はできません。先代は、その時点でも新しい杖芯の可能性を捨てていなかった。持ち帰った羽根を調べ、黒檀と組み合わせ、この杖を作ったのです」
「悪魔は、その時に全て倒したのですか?」
「残された記録だけでは分からん」
ダンブルドアが答える。
「現場に出たものが全てじゃったか、異界の向こうに何が残ったか。そのどちらも分からぬ。事故の後、研究施設は封鎖され、残った資料も回収された。異界に関する研究は、期限を定めず永久凍結された。再び同じものを作ることは、今も禁じられておる」
「では、この世界にも悪魔はいるのですね」
「断定はできん。少なくとも、その魔術師が悪魔と呼んだ存在と戦った記録はある。じゃが、確かめるために異界を作ることは許されておらんよ」
「僕が作るとは言っていませんよ」
「お主は、できると分かれば試しかねん」
「今は方法を知りません」
「今は、をつけるでない」
オリバンダーが小さく咳をする。
「先代は、新しい芯の可能性を試しました。形にすることには成功した。ですが、杖として成功作だったかは、今日まで分かりませんでした」
オリバンダーは、黒い杖へ触れない。
「この杖は、完成した時から魔法を持っていた。ですが、差し出された者の手に収まろうとしなかった。火花を浴びせ、指を噛むように締めつけ、時には箱から消えたこともあります」
「消えた?」
「翌朝には戻っていました。別の棚へ」
「面倒な杖だな」
サーシェスが言う。
「坊主には合ってる」
「どの辺りがですか?」
「人の言うことを聞かねえところだ」
「僕は、契約したことは守りますよ」
「言われたことを聞くのとは違うだろ」
「確かに」
「納得するな」
オリバンダーは黒い箱を、鬼太郎の前へ押した。
「先ほどまでの杖より、安全だとは言えません」
「壊れる可能性は?」
「分かりません。長い間、誰にも触れさせていない」
「鬼太郎」
ダンブルドアが呼ぶ。
「嫌ならば、今日はここまででよい」
「嫌ではありませんよ」
鬼太郎は黒い杖を見ていた。
まだ触れていない。
それでも、先ほどまでとは違う。
逃げようとしない。
震えてもいない。
箱の中から、鬼太郎を見返しているようだった。
「試します」
「手を添えるだけにしなさい」
ダンブルドアは自分の杖を出していた。
キーノが半歩近づく。
服の内側へ手を入れかけ、止めた。
今の自分が使えるのは、光を灯し、消す呪文だけだ。
代わりに、いつでも鬼太郎の腕を引ける位置へ立つ。
サーシェスは棚から背を離した。
上着の下にある銃へ手を近づける。
誰も、役に立つとは思っていない。
それでも、見ているだけでいるつもりはなかった。
鬼太郎が右手を伸ばす。
黒檀の柄へ、指先が触れた。
冷たくない。
熱くもない。
杖は逃げなかった。
鬼太郎は指を閉じる。
黒い杖を、箱から持ち上げた。
その瞬間、店の明かりが消えた。
◆
闇ではなかった。
窓から入る昼の光は残っている。
天井のランプも、消えてはいない。
それなのに、店の床へ影が満ちていた。
鬼太郎の足元から、黒いものが広がっていく。
一つではない。
角を持つ影。
翼を広げた影。
人の倍ほどある獣の影。
細い腕を何本も伸ばす影。
人に似た輪郭を持ちながら、頭だけが異様に大きい影。
どれも、店の中には存在しないものだった。
棚を越え、壁を這い、天井まで昇る。
数えられないほどの異形が、狭い店を埋め尽くす。
ダンブルドアの杖先が上がった。
「動かぬように」
若い顔から、先ほどまでの気安い表情が消えている。
サーシェスが銃を抜く。
キーノは鬼太郎の上着を掴んだ。
「放せ」
「まだ何もされていませんよ」
「だから待つのか!」
影は襲ってこない。
鬼太郎を中心に、重なりながら揺れている。
牙のある口が開く。
声は聞こえない。
長い腕が持ち上がる。
爪は、鬼太郎へ届く前に止まる。
次の瞬間、一番近くにいた異形の影が頭を下げた。
その後ろにいた影も続く。
獣が身を伏せる。
翼あるものが羽を畳む。
人に似た影が、両腕を広げる。
従っているようには見えない。
怯えてもいない。
長くいなくなっていた誰かが戻り、それを迎えているようだった。
まるで、無数の悪魔たちが鬼太郎の帰還を歓迎しているような影だった。
鬼太郎は、自分を囲む影を見る。
形を知らない。
名前も出てこない。
どこで会ったのかも、思い出せない。
それでも、影の群れが自分を知らないとは思えなかった。
黒い杖が、手の中で一度だけ脈打つ。
生き物の心臓に似た動きだった。
鬼太郎の口元が、僅かに上がる。
「僕を嫌ってはいないようですね」
「それだけで済ませる光景かね?」
ダンブルドアは杖を下ろさない。
「あれが何か、分かるのか?」
キーノが尋ねる。
「いいえ」
「嘘じゃないな?」
「名前も、顔も思い出せません。ただ――」
鬼太郎が黒檀の杖を握り直す。
長さは合っていない。
十歳の手には太く、重い。
それでも、今まで持ったどの杖より自然に重さを預けられた。
「僕が戻ったことを、喜んでいるように見えます」
影たちが、一斉に揺れる。
笑ったようにも見えた。
次の瞬間、全ての影が鬼太郎の足元へ集まった。
細くなり、黒い杖へ吸い込まれるように消える。
店へ元の明るさが戻った。
棚も、箱も、何一つ壊れていない。
サーシェスが銃口を下げる。
「随分と趣味の悪い歓迎だな」
「賑やかでよいではありませんか」
「お前は、もう少し怖がれ」
キーノは上着から手を離さない。
「襲われていませんよ」
「襲われてからじゃ遅い!」
ダンブルドアは、影が消えた床へ杖先を向けた。
淡い光が石床を走る。
何度か形を変え、杖の箱と鬼太郎の周囲を調べた。
「召喚された生き物ではない。少なくとも、ここへ何かが現れた痕跡はないの」
「幻ですか?」
「単なる幻とも言い切れん。全員が同じものを見た。杖が、君へ応えた時に生じた魔法じゃろう」
オリバンダーは動いていなかった。
銀色の目を見開き、黒い杖と鬼太郎を交互に見ている。
「以前にも、あの影が出たのですか?」
鬼太郎が尋ねる。
「いいえ」
老人は掠れた声で答えた。
「先代の記録にもありません。あの杖は誰の手も拒みましたが、今のように応えたことは一度もない」
「では、試し振りをしても?」
「待ちなさい」
ダンブルドアが止める。
「もう少し調べてから――」
「いえ」
オリバンダーが首を振った。
「選択は、既に終わっています」
鬼太郎の手にある杖を見る。
「杖が魔法使いを選ぶ。これほど明白な選択を、私は見たことがない」
「他の杖は、僕を選ぶくらいなら折れることを選んだ」
「そして、この杖は誰をも選ばず、先代の時代から待ち続けていた」
オリバンダーは、開いた黒い箱へ手を添えた。
「あなたを待っていたのでしょう」
鬼太郎は杖を軽く持ち上げる。
ダンブルドアはまだ警戒していたが、止めなかった。
「ルーモス」
黒い杖の先へ、白い光が灯る。
針のような光ではない。
店の一番奥まで照らす、安定した光だった。
鬼太郎は杖先を見る。
光の周囲で、ほんの一瞬だけ小さな影が踊った。
すぐに消える。
「ノックス」
光が消えた。
杖は割れない。
逃げもしない。
鬼太郎の右手へ、初めからそこにあったように収まっている。
「決まりですね」
鬼太郎が言った。
黒檀の杖は、もう一度だけ静かに脈打った。