第77話 湖の向こうの城
窓の中に、客室の明かりが映り始めていた。
キーノはガラスへ少し顔を近づけた。昼間は遠くまで見えていた畑がなくなり、木々の黒い影が続く。その向こうに山があるのか、空の下の方だけが暗かった。
映った自分の肩の後ろで、ロンが荷物へ手を伸ばす。
「そろそろ、着替えた方がいいかな」
ハリーが言った。
「そうだね。着いてから慌てるの、嫌だし」
ロンがローブを出すと、キーノも窓から離れた。
自分の分は、鞄のすぐ開けられるところにある。服と本を分けておいたので、下のものまで出さずに済んだ。
包みを膝へ置く。
鬼太郎が向かいから尋ねた。
「先に着替えますか。僕たちは、通路へ出ていますから」
「ああ。すぐ済む」
三人が立ち上がると、狭い客室の足元が一度に動いた。ハリーがロンの靴を避け、鬼太郎は座席の端へ鞄を寄せてから出る。
扉を閉め、通路側の窓の覆いを引いた。
急に静かになった。
汽車の音は同じだ。だが、今まで聞こえていた三人の息遣いや、すぐ隣で服が擦れる音がない。
キーノは包みを開いた。
黒いローブを広げる。まだ、どの寮の色もついていない。
店で寸法を合わせ、砦の部屋でも着てみた。そのときは、鬼太郎に見せることを考えていた。今日は、自分と同じ服を着た子供の中へ入る。
袖に腕を通し、裾を引いた。
廊下からロンの声がした。兄たちはもう着替えたか、という話をしている。ハリーが何か答え、鬼太郎の声も続いた。
誰も、別の客室へ行ってはいなかった。
キーノは扉の覆いを戻し、外へ顔を出す。
「終わったぞ。今度は、私が外だな」
三人が振り返った。
ロンは何か言いかけたが、ハリーが先に、中へ入っていいか尋ねた。
「ああ」
キーノは道を空けた。
◆
鬼太郎は客室へ戻ると、服を包んだ鞄を自分の側へ寄せた。
ハリーが扉を閉め、ロンが通路側の覆いを引く。スキャバーズは座席の端へ下ろされ、丸くなったまま動かなかった。
鬼太郎は制服へ着替え、旅の上着を畳んだ。長い黒檀を収め直し、右腰も整える。外から銃の形が分からず、手を下ろした際にも引っ掛からないことを確かめた。
隣では、ロンがローブの袖を引いていた。
「同じ寮になるといいね」
ハリーは頭を襟から出してから答えた。
「うん。別々になったら、授業も違うの?」
「ほかの寮と一緒の授業もあるって、兄貴たちは言ってたよ。でも、寝る部屋とか談話室は違う」
ハリーは眼鏡を掛け直し、少し黙った。
鬼太郎は畳んだ服を鞄へ戻した。朝から一緒の席へ座っていた相手と、次にどこへ行くかも分からないまま分かれる。それは、ハリーがさっきまで考えていなかったことなのだろう。
「お食事も、別の場所なのですか?」
鬼太郎が尋ねると、ロンは首を振った。
「大広間だよ。寮ごとにテーブルがあるんだ」
「それなら、顔を見る機会はありそうですね」
ハリーがこちらを見た。
「そうだね。話せなくなるわけじゃないか」
「ええ。部屋へ入れるかどうかは、教わってからにするとして」
「君、そのまま別の寮まで行きそうだな」
ロンが言った。
「道を間違えたら、お願いするかもしれません」
返すと、ハリーが笑った。
着替えを終えた三人は荷物を戻し、キーノを呼んだ。彼女も入ってくると、窓の外を見て、先ほどより暗くなったと言った。
着いたら何をするのかと、ロンへ尋ねる。
その途中で、到着が近いと知らせる声が車内へ響いた。
大きな荷物は汽車へ残すように、という案内が続く。
キーノが箱を見た。
「鍋も、運んでくれるのか」
「荷物を置くように、とのことでしたね」
鬼太郎は留め具を確かめ、箱を安定する向きへ寄せた。鞄も閉じ、財布と杖は身につけたままにする。キーノは紺色の帳面をしまい、口が開いていないか指で確かめた。
ハリーはヘドウィグの籠へ声を掛けていた。ロンはネズミをポケットへ戻し、通路を覗く。
外には、もう生徒が出ていた。
出口へ向かう者の身体が揺れ、誰かの肩が扉へ当たる。
「まだ、止まっていませんよ」
鬼太郎が言うと、ロンは客室の中へ足を戻した。
キーノは窓の下へ手を置いていた。外に小さな灯りが流れ、その間隔が少しずつ変わる。
車輪の音が低くなった。
最後の揺れに合わせ、廊下で子供たちが一斉に足を踏み直す。
汽車が止まった。
鬼太郎は扉を開けた。人が動き始めたのを見てからキーノへ場所を譲り、二人の後へ続いた。
◆
ホームへ降りたハリーの頬に、冷たい空気が当たった。
湿った土と、汽車の煙の匂いがする。
ロンドンの駅とは違った。目を上げても、高い天井や大きな案内表示は見えない。暗がりに生徒の肩が並び、あちこちから名前を呼ぶ声がした。
ハリーは一度、後ろを振り返った。
ロンがいる。キーノが段を下り、その後ろから鬼太郎も降りてきた。
「一年生! こっちだ、一年生!」
大きな声が響いた。
子供たちの頭よりも高いところで、ランプが揺れている。
ハリーは背を伸ばした。
「ハグリッド!」
髭に覆われた顔がこちらを向く。ランプの明かりに目が細まり、大きな口元が笑った。
「おお、ハリー。汽車はどうだった?」
「楽しかったよ」
考えるより先に答えが出た。
ハグリッドが嬉しそうに頷く。ハリーは後ろを見て、近づいてくる三人を示した。
「同じ部屋に座ってたんだ」
「そうか。みんな、一年生だな。離れんように、こっちへ来てくれ」
ハグリッドは三人にも顔を向けたが、挨拶を始める前に、向こうへ歩きかけた子供を呼び止めた。
「そっちは上級生だぞ。初めて来た子は、こっちだ!」
迷っていた少年が引き返す。ハグリッドはその子を急かさず、ほかに残っていないか見回した。
キーノが傍らで呟いた。
「大きいな」
「ええ」
鬼太郎も見上げていた。
ハリーは二人の顔を見て、少し笑った。初めて会ったときの自分も、同じように上を向いた。
ランプが動く。
ハグリッドは集まった子供たちへ声を掛け、ホームから続く道へ進み始めた。
ハリーもその後を追った。
◆
下り道へ入ると、足元の明かりが少なくなった。
鬼太郎は前のキーノと少し間を空け、小石を避けて歩いた。ローブの裾が靴へ触れるので、階段ではなくても、踏まないよう気をつける必要があった。
前方では、ハグリッドの広い背がランプの光を隠したり、見せたりしている。
あれほど大きな身体なら、狭いところで動くには不便もあるだろう。だが、ホームでは押されてきた子供を片手で寄せ、乱暴に振り回すことはなかった。
鬼太郎は、その大きな手を一度見た。
巨人の血でもあるのだろうか。
考えはしたが、姿だけで決めることはできなかった。
背後で靴が滑り、短い声が上がった。振り返ると、近くの子供が腕を支え、転ばずに済んだらしい。
鬼太郎は前へ顔を戻した。
キーノも一度立ち止まっていたが、後ろが進むと、自分も歩き始めた。
「学校まで、まだ歩くのか?」
彼女が尋ねる。
ロンは木々の先へ首を伸ばした。
「一年生は、湖を舟で渡るんだって。兄貴が言ってた」
「舟?」
キーノが顔を上げる。
「みんな、そうやって入るのか」
「最初の年はね」
鬼太郎も前を見た。
学校外の指定地点へは行ったことがある。だが、そこから城へ向かって歩く代わりに、昨日はロンドンへ連れていかれた。今夜の道も、自分たちだけでは通らなかっただろう。
木々の間で、ハグリッドが歩く速さを落とした。
「もうすぐ、城が見えるぞ」
後ろまで声が届く。
誰かが話すのをやめた。キーノが前の子供の肩越しに顔を出し、ハリーも暗い道の先を見た。
最後の木の幹を過ぎると、目の前が開けた。
黒い湖があった。
その向こうの高いところに、いくつもの塔が立っていた。
鬼太郎は足を止めた。
窓の光が、幾重にも並んでいる。塔の先を目で追うと、その隣にも屋根があり、奥へ続く壁があった。新聞で見た平たい絵とは、広がりが違う。
湖面には、建物の灯りが細長く映っていた。
風が吹くと、それが揺れて崩れる。
「……あれか」
キーノの声がした。
鬼太郎は返事をしようとして、もう一度城を見た。
この場所へ向かうと決めてから、考えたことは多かった。森へ戻る手段、キーノの入学、学びたいこと。必要な話を一つずつ進め、荷物も用意してきた。
それでも、城を初めて見る瞬間に、何を思うかまでは決めていなかった。
「大きいですね」
ようやく答えると、キーノは頷いた。
「さっきも、そう言ったな」
「今度は、首をもっと上げないといけません」
彼女は少し笑いかけ、また窓の列へ目を戻した。
隣でハリーも上を見ていた。ロンは兄から聞いていたはずだが、同じように口を開けていた。
前から、舟へ乗るようにという声が来た。
子供たちが、ゆっくり動き出す。
◆
岸辺には、小舟が並んでいた。
キーノは水の近さを見てから、舟の縁へ目を向けた。ハグリッドは一艘四人までと告げ、自分も少し離れた舟へ向かっている。
「これにしよう」
ロンが近くの舟を指した。
ハリーが頷いて続く。鬼太郎は縁へ手を添え、ロンが乗る際に船体が動くのを見た。
キーノも岸から足を出す。
「そこへ置けば、大丈夫だよ」
ハリーが空いたところを指した。
「分かる」
答えたが、彼の示したところへ靴を置いた。もう片方の足も移し、揺れが小さくなってから腰を下ろす。
最後に鬼太郎が乗った。
四人で座ると、汽車の中より膝が近くなった。キーノはローブの裾を水へ垂らさないよう引き上げ、隣の舟を見た。
ハーマイオニーとネビルがいた。
ネビルは岸の方へ顔を動かしている。トレバーは、まだ見つかっていないらしい。
キーノが水際を見ても、小さな影は見つからなかった。
ハグリッドの声が響く。
全員が乗ったか確かめる返事が、いくつか上がった。
舟が動き始めた。
キーノは縁を握る。誰も漕いでいない。それなのに船首が岸から離れ、前の舟と同じ方へ進んでいく。
「勝手に動くのか」
「魔法だろうね」
ロンが答えた。
鬼太郎は船首から、隣の舟へ視線を移した。
「間も、揃っていますね」
「ぶつかったら、困るだろ」
「ええ。急に誰かが立って傾いても、進む向きは同じなのかと思いまして」
「試すなよ」
キーノがすぐ言うと、彼は顔を上げた。
「座って見ていますよ」
ハリーが少し笑い、舟の外へ手を出しかけて、戻した。
岸が遠ざかる。
窓から見ていた景色とは違い、目を向けた先に、暗い水面が続いていた。船体へ波が当たり、小さな音を立てる。隣の舟の子供が何か囁くと、水の上では思ったよりよく聞こえた。
キーノは縁から指を少し緩めた。
ロンが城を見ながら、食事の話を始めた。
兄たちが教えた料理の量と、好きなものを取れるという話だった。
「あんなに菓子を食べたのに、まだ入る?」
ハリーが尋ねる。
「もう、何時間も前だよ」
ロンは自分の腹へ手を当てた。
キーノも、空腹に気づいた。さっきまで城を見ていて忘れていたが、温かいものが食べたかった。
「その前に、寮を決めるんだな」
言うと、ロンの声が少し小さくなった。
「うん」
ハリーも彼を見た。
何をするかは、まだ分からない。できないことを試されたら、聞けばいいと考えていた。それでも、別々のところへ行くかもしれないことは、さっきから気になっている。
キーノは袖口を押さえた。
ここまで、ずっと同じ四人だった。
汽車へ来たときには、誰が座るかも分からなかった。今は、ハリーがどこを見ているか、ロンが何を言いそうか、少しだけ分かる。
寮が決まれば、食事の後も一緒とは限らない。
「もし、違う寮になっても」
キーノが言うと、三人がこちらを向いた。
「明日、会ったら声を掛けてくれ」
ハリーはすぐ頷いた。
「もちろんだよ」
「僕も」
ロンが続ける。
鬼太郎はキーノを見て、目を細めた。
「見つけたら、そうしますね」
「私も、見つけたら呼ぶ」
キーノは答え、膝へ手を戻した。
誰も、それだけのことで変だとは言わなかった。
ハリーが、朝はどこで食べるのかとロンへ尋ねる。ロンはまた大広間だと思うと答え、鬼太郎が、では道を覚えておかなければと言った。
キーノも城を見上げた。
窓の数が多すぎて、どの部屋で眠ることになるのかは、まだ想像できなかった。
◆
崖が近づくと、鬼太郎は顔を高く上げた。
岸からは一度に見えた塔が、今は壁に隠れる。湖の上に浮かぶ小さな灯りだった窓も、厚い石の中に開いたものだと分かってきた。
あの一つひとつの向こうに、部屋がある。
教える者や、本や、まだ見たことのないものがあるのだろう。
鬼太郎は隣のキーノを見た。彼女も上を向いていたが、舟の前から声が来ると、すぐに身を低くした。
ハグリッドが頭を下げるよう告げていた。
鬼太郎も膝へ身体を寄せる。
垂れた葉が頭の上を通り、舟は暗い穴へ入った。水を切る音が石へ返り、前方のランプが濡れた壁を照らす。
地下の通り道を進み、小石のある岸へ寄った。
舟が止まると、ロンが先に立った。ハリーが続き、キーノは足を置く場所を見てから下りる。
鬼太郎も岸へ上がった。
背後で、ハーマイオニーがネビルを呼んだ。
顔を向けると、ネビルがハグリッドの方へ駆け寄っていた。大きな手の中に、ヒキガエルがいる。
「トレバー!」
ネビルの声が、石の壁へ響いた。
受け取る両手が、落とさないように慎重に動く。何度も礼を言われ、ハグリッドは髭の奥で笑った。
キーノも足を止めて見ていた。
「いたな」
「ええ。あれだけ探していらしたのですから」
鬼太郎が答えると、ネビルはヒキガエルを抱え直し、ようやく周りへ目を向けた。ハーマイオニーが何か話しかけ、彼はまだ少し息を弾ませたまま頷いている。
ハグリッドは舟から全員が下りたか確かめ、また先へ立った。
石の通り道を抜けると、夜の空気が頬へ戻った。子供たちの列が階段を上り始める。
鬼太郎は靴を置く場所を見ながら進んだ。
船体が何に従って進んだかは分からない。湖のどこを通るかも、帰りに同じ場所から出ればよいのかも、まだ知らなかった。
だが、今は舟から降りて、城へ上っている。
明かりの一つを遠くから眺めているより、早く中を見たかった。
キーノが隣で、また壁を見上げた。
「足元も、見てくださいね」
「お前も、さっき見てただろ」
「ええ。ですから、今は下を」
彼女は鬼太郎を一度見てから、次の段へ足を置いた。
ハリーとロンが、その少し前を歩いている。ハリーは振り返って二人を確かめ、先で列が止まったので、自分も歩みを緩めた。
大きな扉があった。
間近で見ると、その高さも厚さもよく分かる。ハグリッドはランプを下げ、最後の子供が上がってくるのを待っていた。
キーノが鬼太郎の隣へ立った。
袖を直し、息を吸う。昼間、客室へ誰かが来るのを待っていたときより、顔は前を向いていた。
「会ったら、呼ぶぞ」
小さく言われ、鬼太郎は彼女へ目を向けた。
「ええ。聞き逃さないようにします」
「聞こえてるのに、知らないふりをするなよ」
「それは、しませんよ」
キーノは頷き、扉へ顔を戻した。
ハグリッドの手が上がる。
叩く音が、厚い木を通って響いた。
鬼太郎は扉の継ぎ目を見た。ここから先は、湖の向こうで見ていた建物の中だった。
奥で人が動く気配がする。
彼は肩の力を抜き、扉が開くのを待った。