励みになります!
第七十八話 松の杖は、孤独を選ぶ
黒檀の杖が、鬼太郎の手の中で静かに脈打った。
オリバンダーの店には、まだ先ほどの影の気配が残っているようだった。
床も棚も、何も変わっていない。
それでも、誰もすぐには口を開かなかった。
ダンブルドアが杖を下ろす。
「選んだのは間違いないようじゃな」
「ええ。これ以上の試しは不要でしょう」
オリバンダーは黒檀の杖を眺めた。長さも重さも、十歳の子供の手には過剰に見える。けれど鬼太郎は、慣れた道具のように柄を握っていた。
「その杖は、まだ君の手に馴染んでおらん。持ち歩くときは鞄へ入れ、振り回すのは必要なときだけにしなさい」
「分かりました」
「本当に分かっておるかのう」
「はい」
「今の返事は、聞き流した時のものじゃ」
鬼太郎は返事をせず、黒檀の杖を拡張鞄へしまった。
キーノがそれを見届けてから、オリバンダーへ向き直る。
「次は私の杖だ」
「ええ。あなたの手を測らせてください」
巻き尺が宙へ浮かび、キーノの腕や指、肩幅を測る。彼女はくすぐったそうに眉を寄せたが、手を振り払うことはなかった。
「右利きですか?」
「そうだ」
「これまで杖を使ったことは?」
「借りた杖で、光を出したことがある。今も使えるのは、それだけだ」
「では、その呪文を基準にしましょう」
オリバンダーは棚へ向かった。
最初の杖は、キーノの手に収まっても何も起こさなかった。彼女が一度振ると、先端から細い火花が落ち、床へ届く前に消える。
「違いますね」
オリバンダーはすぐに杖を受け取った。
二本目は握った途端、柄が熱を帯びた。キーノは眉をひそめ、杖を箱へ戻す。
「これも違う」
「急がなくていい。杖は、あなたが選ぶものではありません」
「分かっている」
キーノは短く返した。
三本目は、ルーモスを唱えても光らなかった。四本目は光を放ったものの、キーノが杖を下ろしても明滅を続けた。彼女は手首を返し、光を消そうとする。杖は、彼女の動きに遅れてようやく沈黙した。
「制御しにくいな」
「杖があなたの意思を探っているのでしょう。ですが、まだ合っていません」
オリバンダーは、箱を戻す。
キーノは苛立つでも、落胆するでもなく、次の杖を待った。
五本目を持ったとき、彼女の指が柄の上で止まった。
杖は細く、まっすぐな木肌をしていた。色は明るい茶色で、余計な装飾はない。
「松材。十と四分の一インチ。芯は一角獣の尾の毛。しなりはやや硬めです」
オリバンダーが説明する。
「松の杖は、独立心が強く、自分の道を選ぶ持ち主を好むことがあります。新しい使い方にも柔軟に応じる杖です」
「私が、独立しているように見えるのか?」
キーノが訊いた。
「杖がそう判断したのでしょう」
「人間より、杖の方が見る目があるな」
「そうかもしれません」
オリバンダーは微笑んだ。
「一度、ルーモスを」
キーノは杖を構えた。
「ルーモス」
杖の先に、柔らかな光が灯る。
揺れない。
明るさも、キーノが手を動かす速さに合わせて保たれていた。
彼女はしばらく光を見つめた。それから、口元が少しだけ緩む。
本人はすぐに表情を引き締めたが、頬に残ったわずかな笑みまでは隠せなかった。
「これなら、私が持っていていいんだな」
言葉の終わりで、口元がまたにやける。
ほんの一瞬だった。それでも、嬉しさは隠しきれていなかった。
「キーノさんに、よく似合っています」
鬼太郎が言う。
「……うるさい」
そう返しながらも、キーノは杖を握った手を緩めなかった。
「ノックス」
光が消える。
今度は、彼女が命じた瞬間に。
キーノは杖を見下ろし、もう一度だけ小さく笑った。
「これでいい」
「ええ。杖があなたを選びました」
オリバンダーは長さと材質を帳面へ記した。鬼太郎の杖のような異変については口にしない。キーノの杖選びは、静かに、しかし確かな形で終わった。
店を出る前、ダンブルドアが今後の手続きを確かめる。
「キーノの適性確認は、約束どおり必要な範囲で行う。吸血鬼との混血についても、関係する者へ必要なことだけを伝える。サーシェスの契約は、文面を読んでから決めればよい」
「分かっている」
「俺は読む。署名するかは別だ」
「もちろんじゃ」
「残りの学用品も今日買うのか?」
キーノが尋ねた。
「必要な品は一日で揃えられる。今日は杖と手続きだけにしておこう。先ほどの姿現しで、まだ身体が本調子ではない者もおる」
ダンブルドアが鬼太郎を見る。
「歩けますよ」
「歩けることと、歩かせることは別じゃ」
「では、急がずに回ります」
「今日はもう回らん」
キーノが先に扉を開けた。
「残りは次にまとめて買う。それなら、お前も無理をしないで済む」
「それがよいですね」
「素直に聞くとは珍しい」
「必要な判断だと思っただけです」
四人が店の外へ出る。
ダイアゴン横丁は、午後の人波で賑わっていた。
出口へ向かう途中、ダンブルドアは足を緩めた。店先の品書きを眺めるふりをして、三人から少し距離を取る。若い姿の彼は、人波の中にいれば目立たなかった。
◆
ハリーは、次々に現れる店を見上げていた。
どの店にも、これまで知らなかった物が並んでいる。窓の奥で動く羽根ペンや、檻の中で首を傾ける梟。大鍋を抱えた魔法使いの隣を、子供が杖の箱を持って走っていく。
ハグリッドは、買い物の順番を確かめながら大通りを進んでいた。
「次は杖だ。大事なもんだからな。急がなくていい」
「杖を選ぶのは、そんなに難しいの?」
「難しいっていうより、杖の方が決めるんだ。オリバンダーなら、いろいろ試させてくれる」
ハリーは頷いた。
横丁の先から、三人連れが歩いてくる。
赤みがかった髪の男と、その脇を歩く少女。少し後ろには、自分と同じくらいの年頃の少年がいた。
少女の顔立ちは、人形のように整っていた。まだ年相応のあどけなさが残っているのに、目鼻立ちには不思議なほど隙がない。ハリーは、ついそちらにも目を留めた。
けれど、少年の顔も気になった。東洋と英国の血が混じっているように見える。ハリーには、これまで見慣れてきた英国の子供たちとは違うその顔が珍しく思えた。
ハリーはつい、その少年の顔を見つめた。
少年は、こちらに気づいた様子もない。視線を向けることもなく、連れの二人と一緒に通り過ぎていった。
「知り合いか?」
ハグリッドが尋ねた。
「ううん。知らない子だよ」
ハリーは、遠ざかる三人を振り返った。
少年の手には、杖の箱が見えなかった。
それ以上、考える前に、ハグリッドが店の看板を指差す。
「ほら、あそこだ。杖を買いに行こう」
ハリーは前を向き、彼の大きな背中についていった。
◆
通りを挟んだ店の軒下で、ダンブルドアは三人の姿を見送っていた。
ハリーは、同行する大男を見上げ、説明を聞きながら歩いていく。
新しい世界を知ったばかりの子供らしい目だった。
今日の日取りを選んだのは、ダンブルドア自身だった。ハリーがハグリッドと買い物に来る日だと知り、同じ日に横丁へ出ることにしたのだ。顔を合わせて話すつもりはない。ただ、遠くから様子を確かめたかった。
ダンブルドアは、鬼太郎たちとハリーの間に会話がなかったことを確かめる。
ハリーは鬼太郎の顔を気に留めた。珍しいと思ったのだろう。
鬼太郎は、すれ違った少年に興味を示さなかった。
視線を交わしたのも一瞬。声を掛けず、振り返りもしない。
ひとまずは、それでよい。
ダンブルドアは胸の内で息をついた。今日この場で、二人の間に余計な縁が結ばれることはなかった。
それだけで安心しきれる相手ではない。鬼太郎が誰に関心を持ち、何を自分のものと見なすかは、まだ読み切れなかった。
ダンブルドアは帽子のつばを下げ、横丁の人波へ紛れた。
◆
先を歩くキーノは、鞄にしまった杖を何度も確かめていた。
「嬉しそうですね、キーノさん」
「嬉しくない」
「そうですか」
「笑うな」
「笑っていませんよ」
「顔に出てる」
キーノは前を向いたまま、歩調を少し速める。
鬼太郎は、彼女の口元に残る笑みを見ていた。
黒い杖を得た自分とは違う。
拒絶の末に辿り着いたものでも、帰還を迎える影を伴うものでもない。
ただ、一本の杖がキーノを選び、キーノがそれを自分のものとして受け取った。
その事実を、鬼太郎は悪くないと思った。
「次は必要な品を揃えましょう」
「そうだな。今度は時間をかけて選ぶ」
「鍋や制服にも、杖ほど相性があるのですか?」
「あるわけないだろ」
「では、早く済みそうですね」
「余計な物まで買うなよ」
「必要な物だけにします」
「本当か?」
「たぶん」
「信用できない」
キーノの声に、今度は隠しきれない笑いが混じった。
新しい杖は、鞄の中に静かに収まっていた。