第79話 返事を待たない帽子
腰掛けの前へ来ると、鬼太郎は一度、教師たちへ会釈した。
ダンブルドアはこちらを見ている。その少し離れたところには、黒い髪の男がいた。ほかの教師よりも、顔だけでなく手元へ目を向けているように見えた。
鬼太郎は座った。
両足を床へ置き、帽子を取る。近くで見ると、布の折れ目には細かい埃があり、縫い直した糸の色も揃っていなかった。
「よろしくお願いします」
挨拶をして、頭へ載せた。
大広間が隠れた。
目の上へ落ちた布の向こうから、声が届く。
――礼儀正しいね。
「ありがとうございます」
鬼太郎は膝へ手を置いた。
耳で聞く声とは違う。すぐ近くで話しているようでもあり、自分が考えた言葉へ、別の言葉が返ってくるようでもあった。
――私の歌は、聞いていたかな。
「ええ。寮によって、重んじるものが違うのですね」
――そのとおり。では、君は何を求めて来たのだろう。
「学ぶためです。本を読むだけでは、使い方まで分からないことがありますから。詳しい方へ、直接教えていただきたいのです」
――知恵を求める心か。それだけではなさそうだね。
鬼太郎は、布の裏を見たまま答えた。
「知れば、今の自分にはできないことも、できるかもしれません」
――何か、成し遂げたいこともある。
「ありますよ」
帽子が少し動いた。
――勇気も、野心もありそうだ。さて、どこへ行けば、その力を伸ばせるか。
鬼太郎は返事を待った。
寮ごとの話は聞いたが、そこにいる者を知っているわけではない。キーノたちが座ったテーブルの方を考えたところで、帽子の声が続いた。
――言葉だけでは、決めきれない。君の内側を見せてもらおう。
「それは、お断りします」
帽子の動きが止まった。
――怖がる必要はない。これまでの子供たちも、そうして組分けを受けている。
「怖がっているのではありません。必要なことは、お尋ねください。答えられることはお話しします」
――自分では気づいていないものも、あるのだよ。見せたくないものがあっても、それだけで悪く決めたりはしない。
「僕が見せると答えた後に、考えていただきたいですね」
鬼太郎は両手を動かさず、相手の声を待った。
帽子は古い布の匂いを残したまま、頭へ載っている。
――私には、見たものを扱うだけの経験がある。
「経験のお話ではありません。許可はしません」
短い沈黙があった。
その間も、大広間の物音は遠くで続いていた。椅子が擦れ、誰かが小さく話す。ほかの者には、どちらの返事が届いているのか分からなかった。
――すぐに終わる。
言葉が終わる前に、何かが触れた。
鬼太郎は息を止めた。
自分で何かを思い出そうとしたのではない。それなのに、考えているものの向こうへ、別の働きが入り込んでくる。
膝の上で、指がわずかに曲がった。
その感覚が記憶の方へ動いたとき、鬼太郎の口元から笑みが消えた。
◆
帽子は、まず近くにあるものを見た。
黒い湖。進む小舟。肩を並べていた子供たち。
その中に、窓際へ座る少女がいた。向かいの席、差し出された菓子、引かれた手首。今日だけでも、誰と話し、何を好み、何を嫌ったかが残っている。
言葉にしたものだけを聞けば、知識を求める少年だった。
だが、目の前の少女へ手を伸ばした相手に対する感情は、それだけではなかった。
奪わせない。
帽子はそこから、もう少し遡った。
森が見えた。
石の砦で、紙を広げる小さな手。品物を渡す者、受け取る者、断る者。それぞれが話し、少年は横で聞いている。
次に見えた手は、銃を持っていた。
暗い木々の間で、相手が倒れる。
血のついた地面。使えるものを拾い、不要なものを脇へ分ける動き。相手が死んだ後にも、少年の仕事は続いていた。
帽子は、その事実だけでは退かなかった。
人を傷つけた子供も、殺した者も、これまでに見た。恐怖で手を動かした者も、怒りに任せた者もいる。何をしたかだけでなく、それをどう受け取っているかを知らなければ、見誤る。
少年は、すべてを同じに扱ってはいなかった。
力を向けてくる相手を見るとき、恐れより先に、確かめたいという気持ちが動く。強ければ、なおさらだった。
帽子はその奥へ進んだ。
見世物の明かりがあった。
身体が裂かれ、熱いものが服の内側を流れている。呼吸するたび、傷の場所がはっきり分かった。
死が近い。
その痛みの向こうで、別の年月が重なった。
帽子は一度、意識を止めた。
この肉体の時間だけでは、足りない。
今の少年として歩いてきた道の続きに、収まらないものがある。
人の形をしていない敵がいた。
手から生まれる火、冷気、雷、風。それらを使うことが、何かを初めて覚えた経験ではなく、身体の動かし方のように残っている。
遠くには、青い服の男が見えた。
顔は定まらない。
共に戦い、やがて刃を向け合った。その輪郭に触れると、もっと奥が靄に隠れた。
帽子は、少年が意図して隠したものかと探った。
違う。
今、この少年自身が、そこまでを取り出せるわけではなかった。
帽子は迷った。
表に出ているものでも、寮を考えることはできる。知識へ向かう意欲も、欲するものを手に入れようとする意思も、危険を前に退かない性質も見えた。
だが、それらが何に繋がるのか。
ここを見れば、分かる。
帽子は靄へ触れた。
大広間の物音が、消えた。
そこに立っていたのは、子供ではなかった。
大人の男が、知らない空の下で手を下げていた。服には血がつき、その後ろに、いくつもの影が続いている。
角。翼。獣の脚。
人の顔に似ていても、人間の身体へは繋がらないものがある。ひとつの形を見たと思うと、その隣には、まったく違うものがいた。
悪魔。
その呼び名は、ここでは比喩ではなかった。
男は、その間に立っていた。
怯えて囲まれているのではない。言葉を掛け、返事を聞き、相手が動く。嫌がる声が返ることもあれば、笑うものもいる。
やがて、向こうから敵が来た。
男の姿を見て、敵の声が変わった。
相手は、知っている。
この男が誰で、どれほどの力を持つかを。
帽子は、一人の異様な子供を調べていたはずだった。
今は、異形の強者たちの中で、それらからも強いと認められた者の記憶を見ている。
炎が広がった。
異形の身体が倒れる。その動きを確かめ、男は次の相手へ向かった。
誰かに襲われるまで、待っているばかりではない。戦うと決め、自分から間合いへ入る。隣にいた悪魔が動き、男がその間を抜けた。
帽子は戻ろうとした。
次の光景が、その前へ重なった。
光があった。
見上げても、ひとつの身体として捉えきれない。周囲のものが照らされるのではなく、その存在に近づくほど、ほかの輪郭が薄れていく。
向けられた力は、ただ相手を倒そうとするものではなかった。
従え。
そこにいる者の意思よりも先に、そうあることを求めてくる。
帽子は、男がそれを何と見ているかを知った。
神。
そして、男は頭を下げなかった。
青い服の男が、傍らにいた。顔の分からないまま、同じ方へ進んでいく。
力が降った。
男は避け、受け、崩れた場所からまた動いた。自分を守るだけでは終わらない。見上げた存在へ届くために、距離を詰める。
帽子は、その意思から逃れられなかった。
許しを得たいのではない。
そこにいる相手を、倒そうとしている。
大きな力がぶつかり、光の形が崩れた。
男は止まらず、最後まで手を伸ばした。
届いた。
帽子には、それを学校で知る何かへ置き換えることができなかった。知っている強さの先に、さらに違うものがある。
誰の記憶を、どこから見ていたのか。
戻る先の、大広間が見つからない。
男が顔を上げた。
笑っていた。
今夜、丁寧に挨拶した子供と、同じ笑みだった。
◆
キーノは、帽子の先が震えたのを見た。
鬼太郎は座ったままだった。膝へ両手を置き、布に隠れた顔を前へ向けている。
ずっと何か話していたが、声はここまで届かなかった。
今は、その口も止まっているらしかった。
「長いね」
ロンが囁く。
キーノは頷こうとして、腰掛けの方へ身を寄せた。
細い声がした。
「あ――」
帽子の声だった。
寮の名ではない。
裂け目が、大きく開いた。
「あ、ああ、あああ――!」
声が広間へ響いた。
キーノは腰を浮かせた。隣でハリーも立ちかけ、手をテーブルへ置いている。
古い縫い目から、煙が出た。
薄い筋が一つ、鬼太郎の頭の上へ上がる。次に別の折れ目からも出て、蝋燭の明かりへ流れた。
上級生の声が止まった。
帽子の叫びだけが残る。
キーノは鬼太郎の手を見た。杖を持っていない。何かを放つように掌を上げてもいなかった。
どうした。
呼ぼうとしたとき、マクゴナガルが一歩近づいた。
「墓場、帽子を――」
鬼太郎の右手が動いた。
帽子の縁を掴む。
叫びが一度、途切れた。
「もう、よろしいですか」
彼の声が聞こえた。
いつもの調子に近かったが、返事を待つ間が、少し長い。
帽子が細かく震える。
鬼太郎は顔をグリフィンドールの方へ向けた。布の下から、キーノのいる辺りを探すように顎を動かす。
「キーノさんと同じでお願いします」
キーノは座席の縁を握った。
返事がない。
やがて、かすれた声がした。
「……グリフィンドール」
それだけ告げて、裂け目が閉じた。
鬼太郎は帽子を外した。
目も、顔も、いつもの彼だった。何が起きたか分からないまま、キーノはその姿を確かめた。
◆
明かりが戻ると、鬼太郎は一度瞬きをした。
頭の内側へ触れていた感覚は、もうなかった。
自分の記憶に、新しい名前や顔が浮かんでいるわけでもない。ただ、誰かが自分とは違う向きへ考えを動かし、その先へ入っていったことは分かった。
手の中の帽子を見る。
煙が、布の折れ目からわずかに漏れていた。
「次は、お返事を聞いてからにしてくださいね」
小さく告げても、帽子は答えなかった。
鬼太郎は腰掛けへ置き、立ち上がった。
マクゴナガルがすぐ傍にいる。
「痛みや、気分の悪さはありませんか」
「今は、ありません」
彼女は顔と頭を確かめた。帽子へ手を伸ばしかけたが、先に鬼太郎へ目を戻す。
「変わったことがあれば、すぐに知らせてください」
「承知しました」
大勢の前で、それ以上尋ねられることはなかった。
鬼太郎は席へ向かった。
近くの生徒が道を空ける。拍手が少し起こったが、揃わずに静まった。ハリーが歩いたときとは、随分違う。
こちらの顔と、腰掛けの帽子を見比べる者がいた。
キーノは立ったまま待っていた。
「何をされた」
近づくと、すぐに聞かれた。
「心の中を見られました。断ったのですが」
「それで、ああなったのか?」
「何を見たのかは、僕には分かりません」
「お前は、平気なんだな」
鬼太郎は一度、席を見た。キーノが横へ寄り、座る場所を空ける。
腰を下ろしてから、彼は答えた。
「気分がよいとは言えませんね。こちらの返事を聞いて、無視したわけですから」
キーノの眉が寄った。
「全員、同じことをされるのか」
「僕も、頭の中で話したよ。でも、嫌だって思ったら、希望は聞いてくれた」
ハリーが言った。
鬼太郎は彼を見てから、運ばれようとしている帽子へ目を戻した。
あれは、こちらの答えを理解していた。それでも、自分のやり方を変えなかった。
そのことを、単なる驚きで済ませる気にはなれなかった。
ただ、入り込まれたときの感覚は残っている。
最初は、自分の思考との違いも分からなかった。触れられ、動かされた後で、ようやくどこから別の働きが来たかを意識した。
「次は、入ってくるところで少しでも止められるとよいのですが」
口にすると、キーノがこちらを見た。
「できるのか?」
「まだ、方法も分かりません。初めてでしたから」
鬼太郎は自分の手を見た。杖を掴むときのように、何をすればよいか分かっているわけではない。
「ですが、知らないままではありませんね。何を調べたいかは、一つ増えました」
「お前、今ので、また考えることを増やしたのか」
「勝手に見られるままでは、困りますよ」
キーノは彼の顔をしばらく見ていた。
「それは、そうだ」
答えてから、帽子へ目を向ける。
鬼太郎も教師の席を見た。
ダンブルドアと視線が合った。
◆
じゃから、言っておいたのに。
ダンブルドアはミネルバの手にある帽子を見た。
煙は収まりつつある。彼女は布の表と裏を確かめ、生徒が触れない場所へ移していた。
あんな声は、長い付き合いでも聞いたことがなかった。
何を見たのか。
どこまで触れたのか。
帽子が話せなければ、今は分からない。
だが、鬼太郎が最後に告げた言葉は聞こえていた。次は返事を聞いてからにしろ。それは、事前の忠告で避けようとしたことが、実際に起きたということだった。
グリフィンドールの席で、少年はこちらを見ている。
席を立つつもりはないらしい。怒鳴ってもいない。
それだけで、問題がなかったと扱えば、次に失うものがある。
ダンブルドアは小さく頷いた。
鬼太郎が会釈を返す。
後で本人の話を聞く。そのうえで、帽子に何が起きたかを確かめる必要があった。本人の心をもう一度見れば済む話にはしない。
校長はミネルバへ目を向け、帽子を確かめた後、言葉を交わすつもりだと合図した。
彼女が頷く。
その少し先で、セブルスは少年の両手を見ていた。
杖は抜かれなかった。
大きな動作も、呪文もない。帽子が叫んでから初めて、右手が縁へ伸びた。
何が起きたかを、攻撃だと決める材料はなかった。
だが、何百年も仕事を続けた帽子が、声を失うほどの何かへ触れた。
セブルスは少年の隣を見た。キーノがいて、近くにはポッターとウィーズリーがいる。彼らは顔を寄せ、何かを聞いていた。
昼間の懸念は、薄れるどころではない。
ただし、異常が起きたことと、少年が故意に起こしたことは分ける必要がある。
セブルスは、その顔を覚え直した。
授業では、言葉だけでなく、手と視線を見る。
校長の説明だけでは、分からないことが多すぎた。
◆
クィレルの指が、杯の柄へ触れて止まった。
広間のざわめきが少しずつ戻っている。だが、彼の内側にいる意識は、まだ最後の叫びを考えていた。
あの帽子には、覚えがある。
かつて自分も被った。多少の秘密に触れただけで、あのように取り乱すものではない。
クィレルの喉が動く。
顔を向けるよう、内側から促された。
グリフィンドールのテーブル。
黒く見える髪の少年が、隣の少女へ何か答えている。
墓場鬼太郎。
呼ばれた名は聞いていた。
帽子が見たものを、こちらも見たわけではない。煙の原因も、少年が何かしたかどうかも、今の席からは分からなかった。
それでも、調べる価値はある。
ポッターを見ていたのとは、別の理由で。
クィレルは目を逸らそうとした。
内側の意思が、それを止めた。
もう少し。
少年が、赤毛の子供へ顔を向けた。
何か尋ねられ、短く答えている。その口元に、ようやく笑みが戻った。
誰も、内側から向けられた視線には気づいていなかった。