第八十話 白紙に、名前を置く
砦へ戻った夜、キーノは寝台の上へ黒いローブを広げた。
袖を伸ばし、襟を整える。畳んでしまえば済むものを、もう一度肩へ当てて、裾の長さを見た。
学校で着る服。
その隣には、まだ角の潰れていない教科書が八冊。松の杖は、箱を開けたまま枕元へ置いてある。
制服を着て、杖を持ち、本を抱えて出かける。
どこへ行って、何をするのか。その先は、まだうまく思い浮かばなかった。
キーノが学校について知っていることは、少ない。
物心がついた頃には、もう見世物小屋にいた。外の子供たちがどんな朝を迎え、どんな場所で昼を過ごすのか、見たこともなかった。
客が、ときどき子供の話をした。
娘が学校から持ち帰った物。息子が友達とふざけて叱られたこと。休みになったら、家へ帰ってくること。
檻の外で交わされる話を、キーノは黙って聞いていた。
知らない言葉も多かった。それでも、子供たちが毎日そこへ通い、誰かと何かをして、帰ってからもその話をするのだとは分かった。
きっと、楽しいところなのだろう。
自分もいつか行く、とは思わなかった。
今は、その場所へ持っていく物が、寝台の上に並んでいる。
キーノはローブを畳み、教科書を机の端へ積んだ。紺色の帳面を開いて、羽根ペンを持つ。
最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。
間違えれば、次のページへ書き直せばいい。分かってはいたが、最初の白いページを汚したくなかった。
ゆっくりと、自分の名前を書く。
最後の線を引いてから、ペン先を持ち上げた。
キーノ。
インクが乾くのを待って、帳面を少し遠ざけて見る。
悪くない。
口元が緩み、彼女はそれを隠すように唇を結んだ。けれど部屋には、誰もいなかった。
◆
翌朝、主棟の食卓で鬼太郎が読んでいたのは、一年生の教科書ではなかった。
キーノは厚い背表紙を見て、彼の向かいへ座る。
「先に教科書からだって、言われてただろ」
「こちらも、最初から読むつもりはありません。どこに何が書かれているかを確かめています」
「昨日も目次だけって言ってた」
「今は、目次の続きです」
鬼太郎が指を挟んでいるのは、本文のページだった。
キーノがそこへ目を落とすと、彼は静かに本を閉じた。
「朝食にしましょう」
「ごまかしたな」
「食べながら読むと、本を汚しますから」
彼女は鼻を鳴らしたが、それ以上は追及しなかった。自分も昨夜、名前を書いた帳面を何度も開いた。新しく手に入れた物を、すぐにしまっておけない気持ちは分かる。
食事を終えると、キーノは『基本呪文集』を持ってきた。
まだ、読めない言葉がある。
鬼太郎へ意味を尋ねながら、最初のページを少しずつ進めた。
◆
数日後、ダンブルドアは事前に知らせた時刻に、砦の門へ姿を現した。
今度は一人ではない。
傍らの女性は、石壁と門の周囲へ目を向けてから、出迎えたキーノを見た。手には、口金のついた鞄を提げている。
「ホグワーツで生徒の健康を預かっている、ポンフリー夫人じゃ」
ダンブルドアが紹介した。
「今日はキーノさんの確認をお願いしておる」
「キーノね。よろしく。落ち着いて話せる部屋はあるかしら」
「ある。こっちだ」
キーノは自分で二人を案内した。
主棟の小部屋には、椅子と机を用意してあった。窓から光が入り、扉は廊下へ開いている。
鬼太郎は、窓の脇に立っていた。
ポンフリー夫人は鞄を机へ置いたが、すぐには開けなかった。
「最初に、今日することを説明します」
キーノは椅子へ座らず、鞄を見ていた。
「普段の身体の調子を聞くこと。それから、負担の少ない診察の魔法で、今の状態を確かめること。杖を使うときに無理がないかも見ます。学校で暮らすうえで、私たちが何に気をつければいいかを知るためです」
「身体を調べて、それを誰に渡す?」
「詳しい診察の記録は、私が管理します。校長には、通学できるかどうかと、必要な配慮を伝えます」
ポンフリー夫人は、ダンブルドアへ目を向けた。
「教師へ知らせることが必要になれば、その内容をあなたにも説明します。誰にでも記録を見せるわけではありません」
「切ったりは?」
「今日はしません」
「後なら、するのか」
キーノの声が低くなった。
ポンフリー夫人は、彼女の目を見た。
「治療が必要になったら、そのために何をするかを説明します。研究のために、あなたの身体を切ることはありません」
机の脇で、ダンブルドアが口を開く。
「キーノさんが納得しないまま進めぬという約束は、今日も同じじゃ。まだ聞いておきたいことがあるなら、先に聞いておくれ」
キーノは、椅子の背へ手を置いた。
「途中で止めろと言ったら?」
「止めます。どうして嫌なのかを、話せる範囲で教えてもらえると助かるわ」
「こいつは、ここにいていいか?」
鬼太郎を顎で示す。
「あなたがいてほしいなら」
「なら、いてくれ」
「ええ」
鬼太郎が短く答えた。
キーノはようやく椅子を引いた。座り、両足を床へつける。
「分かった。受ける」
それを聞いてから、ポンフリー夫人は鞄を開いた。
◆
普段、よく眠れているか。
食事をした後に、具合が悪くなることはあるか。
痛むところや、日々の暮らしで困っていることはあるか。
質問は、一つずつだった。
キーノは言葉を選びながら答えた。以前と今を区別する必要があるところでは、少し黙った。
眠れなかった夜の話を、どこまで言えばいいのか。
ポンフリー夫人は返事を急かさず、答え終えた分だけを羊皮紙へ記していた。
「今の暮らしで、ですか?」
鬼太郎が確認する。
「そうです。以前との違いも大切ですが、まずは現在の状態を」
「それなら――」
「私に聞いてる」
キーノが彼を見る。
鬼太郎は一度瞬きをして、口を閉じた。
「失礼しました。どうぞ」
「今は眠れる。食事も、前よりちゃんと取ってる」
そう答えると、ポンフリー夫人は頷いた。
過去のことを尋ねられたときも、見世物小屋で何が行われていたのか、細かく語るようには求められなかった。
キーノが話せることを話し、必要なところで質問を受けた。
自分の身体について尋ねる大人を、彼女は知っている。
どこまで傷つければ、どう戻るのか。何をすれば客が喜ぶのか。
けれど、この女性が書き留めているのは、キーノが困っていることや、今の生活のことだった。
「次は、こちらの手首に触れてもいいかしら」
差し出された手へ、キーノは少し遅れて腕を伸ばした。
指が触れる。
反対の手に持たれた杖を、つい目で追った。
「これから診察の魔法を使います。痛みは出ないはずですが、嫌な感じがしたら教えてください」
キーノが頷くのを待ち、ポンフリー夫人が杖を動かした。
袖口の辺りに淡い光が浮かぶ。
キーノは肩を固くしたまま、自分の腕を見ていた。
痛みはない。
腕を押さえつけられることもなかった。
「大丈夫?」
「……ああ」
息を吐いた。知らぬ間に、長く止めていたらしい。
ポンフリー夫人は光を確かめ、手を離す。
キーノは自分の手首をさすった。それから、次に何をするのかを尋ねた。
◆
杖を使う確認は、椅子から立って行った。
キーノが箱から松の杖を取り出すと、ポンフリー夫人は机の上を片づけた。
「使い慣れた呪文で構いません」
「光を出すのと、消すのしか使えない」
「では、その二つを」
キーノは杖を持ち直す。
「ルーモス」
先端に光が灯った。
いつもと同じ、柔らかな光だった。杖を少し動かしても揺れず、手の中へ余計な熱が伝わることもない。
ポンフリー夫人は杖先だけでなく、キーノの顔や握っている指も見ていた。
「身体のどこかが痛んだり、気分が悪くなったりは?」
「ない」
「それなら、消していいわ」
「ノックス」
光が消えた。
キーノが杖を下ろすと、ダンブルドアが頷く。
「よく馴染んでおるようじゃな」
「私を選んだ杖だからな」
返事が、少し弾んだ。
ポンフリー夫人も小さく笑い、記録へ短い一行を書き加えた。
診察が終わると、彼女は椅子をキーノの方へ向け直した。
「今日確かめた範囲では、毎日の授業を受ける妨げになるものは見当たりません。学校で暮らし始めてから、初めて分かることもあるでしょう。そのときは、一人で我慢せずに相談してね」
「あんたに?」
「ええ。具合が悪い日も、少し気になるだけの日も」
キーノは頷き、机へ置かれた診察の記録を見た。
ポンフリー夫人はそれを他の書類と分けて封筒へ収め、鞄にしまった。
◆
ダンブルドアが机へ広げた羊皮紙には、キーノの名前が記されていた。
診察の記録より、ずっと読みやすい字だった。
「これが、キーノさんの入学に関する書面じゃ」
彼女は椅子を寄せる。
「今日の確認で、残っていた条件は満たされた。学校で守ってもらう規則と、こちらが約束することを一緒にしてある」
ダンブルドアは、既に話し合った箇所を指で示した。
鬼太郎とは別に、一人の生徒として受け入れること。
吸血鬼との混血であるという理由だけで、在籍を取り消さないこと。
身体についての情報は、学校生活と医療に必要な範囲で扱うこと。
キーノは最初から、ゆっくりと読んだ。
難しいところは尋ねる。ダンブルドアは言葉を言い換え、彼女がもう一度そこを読むまで待った。
「途中で、こいつが学校を辞めたら?」
鬼太郎へ視線を向ける。
「キーノさんが続けたいなら、それだけを理由に退学にはせんよ」
キーノが眉を上げると、ダンブルドアは言い直した。
「キーノさん自身の入学じゃからな。鬼太郎の付添人として来てもらうわけではない」
彼女はその部分へ指を置き、もう一度確かめた。
鬼太郎は、横から書面を取り上げなかった。
「質問は、これでよいかね?」
「……ああ」
「では、最後に。キーノさんは、ホグワーツへ入学したいかね?」
キーノは顔を上げた。
ずっとそのために話してきた。杖も買い、服も本も揃えた。今さら尋ねる必要があるのかと、一瞬思った。
けれど、ダンブルドアは鬼太郎を見なかった。
彼女の返事を待っている。
「行きたい」
キーノは答えた。
「私が、行きたい」
「うむ」
ダンブルドアが、羽根ペンを差し出す。
「では、ここへ名前を」
彼女はペンを受け取った。昨夜、自分の帳面へ書いたのと同じように、一文字ずつ線を引く。
書き終えると、ダンブルドアも所定の場所へ署名した。
キーノの分の書面を揃え、彼女へ渡す。
「ホグワーツで待っておるよ」
言葉を聞いた瞬間、キーノは書面から目を上げた。
来てもいい、という話が終わった。
待っている、と言われた。
まだ見たことのない学校に、自分の行く場所ができた。
◆
部屋を出る前、ポンフリー夫人はキーノへ、医務室を訪ねるときのことを簡単に説明した。
ダンブルドアは鬼太郎の方へ向き直る。
「サーシェスさんの契約と、ポートキーの正式な運用は、また別に時間を取ろう。今日はキーノさんの返事を持ち帰る」
「承知しました」
キーノは自分の書面を両手で持ったまま、ポンフリー夫人の話を聞いていた。
その横で、鬼太郎は静かに待っている。
ダンブルドアは、二人を交互に見た。
キーノへ直接尋ねたとき、鬼太郎は口を閉じた。彼女が自分の答えを出すまで、待つこともできた。
それを、彼の善良さの証にしてはならない。
ただ、この二人との約束を保つうえでは、見過ごせぬことだった。鬼太郎だけに話を通せば済むと考えれば、今日のような返事は得られないだろう。
ダンブルドアは、持ち帰る書類を鞄へ収めた。
◆
二人を見送った後、キーノは自分の部屋へ戻った。
入学の書面を机へ置く。
その横へ、紺色の帳面を開いた。
最初のページには、昨夜書いた名前がある。
キーノは羽根ペンを持ち、少し下へ新しい言葉を書いた。
ホグワーツ。
学校の名前を書くだけで、口元が緩んだ。
今度は、すぐに引き締めることもできなかった。
扉を軽く叩く音がする。
「入ってもよろしいですか?」
「いいぞ」
鬼太郎が部屋へ入る。
彼の目が机へ向くと、キーノは帳面を閉じた。
「見るな」
「まだ何も見ていませんよ」
「これからもだ」
「では、許可をいただけたときに」
キーノは閉じた表紙へ手を置いた。
何を書いたのかと、鬼太郎は尋ねなかった。
「入学が決まって、よかったですね」
「……ああ」
キーノは頷いた。
机の教科書を見る。次に、畳んだローブを見た。
「学校では、毎日違うことを教わるのか?」
「科目ごとに授業があるようです。同じことを練習する日もあるでしょうね」
「本に載ってることを、先生に聞けるんだな」
「そのための授業ですから」
「食事のときは、みんな集まるのか?」
「詳しくは、ダンブルドアさんに伺わなければ分かりません」
「お前も知らないのか」
「行ったことがありませんので」
キーノは小さく笑った。
いつも何かを知っている顔をする鬼太郎も、そこでは初めての生徒になる。
「なら、行けば分かるな」
「ええ」
客が話していた学校のことを、キーノは思い出した。
先生に叱られた息子。帰ってきても友達の話を続ける娘。
あの頃は、自分のいる場所とは繋がらない話だった。
今は、その話の続きを自分も知ることができる。
知らないことが、次から次へ浮かんだ。学校はどれほど大きいのだろう。教室には何人座るのだろう。窓の外には何が見えるのだろう。
知りたいと思うたび、胸の奥が弾んだ。
「今度は、本当に行けるんだな」
声にすると、ますます嬉しくなった。
鬼太郎が返事をする前に、キーノは寝台へ向かった。ローブを手に取り、肩へ当てる。
「変じゃないか?」
「よく似合っていますよ」
「まだ着てない」
「では、着て確かめましょうか」
「お前は外に出ろ」
鬼太郎が笑って扉を閉じると、キーノは袖へ腕を通した。
手首で収まる袖口。歩いても踏まない裾。
帽子までかぶり、杖を手に持ってみる。
それから、机の教科書を一冊抱えた。
学校へ行く子供の姿が、どんなものなのか。
今なら、少し分かる気がした。
キーノは部屋を一周歩いた。途中で本を持ち替え、杖をしまう場所を確かめ、もう一度袖を見た。
扉の向こうにいる鬼太郎へ、早く見せてやりたい。
そう思って手を伸ばしたとき、笑っていることに気づいた。
もう、隠すのが面倒だった。
キーノはその顔のまま、扉を開けた。