第八十一話 鍵は、帰る場所を縛らない
サーシェスが持ち帰った泥は、門から主棟の手前まで続いていた。
キーノは足跡を見て、戸口に立つ男へ目を向ける。
「そこで落とせ。中まで持ち込むな」
「ずいぶん立派な家になったもんだな。前は床にも土が積もってたぜ」
「掃除したからだ」
サーシェスは笑い、石段の端で靴底をこすった。
近隣の仕事から戻ったところだった。肩から荷物を下ろし、主棟へ入る前に、門の方を一度振り返る。
「爺さんは、まだか?」
「約束の時間までは、少しあります」
食卓で鬼太郎が答えた。
彼の前には、羊皮紙と一年生の教科書が開かれている。厚い防護理論の本は、今日は脇へ置かれていた。
「今日はお前の授業じゃねえんだろ」
「先に、サーシェスさんのお話です」
「先に、か」
サーシェスは椅子を引いた。鬼太郎の肩越しに本を覗き、呪文の並ぶページを見る。
「新しい玩具を手に入れたら、試したくなるわな」
「まだ、明かりを出せるだけですけれどね」
鬼太郎は指を挟んで、本を閉じた。
◆
ダンブルドアが広げた契約書を、サーシェスは途中で裏返した。
最後の欄まで見てから、表へ戻す。
「こっちから断れるってのは、依頼を受ける前までだな」
「そうじゃ。受けた後に放り出されては困る。変更が必要になった場合は、連絡をもらう」
「話と違う仕事を押しつけられた場合もか?」
サーシェスが、一行を指で叩いた。
ダンブルドアはそこへ目を落とす。
「その点は、依頼ごとの書面で仕事内容を決める。ただ、今の文面だけでは分かりにくいの」
「分かりにくいまま、俺に署名させる気か?」
「修正するとも」
ダンブルドアは羽根ペンを取り、依頼内容の変更には双方の合意を要する旨を加えた。書き終えると、サーシェスの方へ戻す。
男はそこを読み、頷いた。
「報酬は、その都度。待ってるだけで金が出るわけじゃねえ」
「常勤として雇う契約ではないからの」
「なら、依頼のねえ日は俺の勝手だ」
「学校との約束に反しない範囲で、他の仕事を受けてもらって構わん」
鬼太郎は、二人の間の羊皮紙を見ていた。
この契約に、自分の名前でサーシェスを動かす条項はない。学校が仕事を提示し、本人が引き受ける。森での取り決めとは、別の契約だった。
サーシェスが、次の段へ指を移す。
「学校の内情は売らねえ。許可なく校内へ入らねえ。依頼があるときも、勝手に生徒へ接触はしない。ここは前に聞いたとおりだな」
「うむ。校外で協力してもらう立場じゃ。学校の生徒を使って、別の仕事をすることも認めん」
「ガキを使うより、自分でやった方が早えよ」
「その考えを、ずっと保っておくれ」
サーシェスは鼻で笑った。
もう一度、最初から読む。ダンブルドアは急かさず、茶を一口飲んだ。
読み終えた男が、羽根ペンを取る。
「いいぜ。仕事の話は、その都度持ってこい」
署名は、思ったより小さな字だった。
ダンブルドアも所定の欄へ名前を記し、双方の書面を揃える。サーシェスは自分の分を折り、荷物へしまった。
「これで、俺も学校の人間か?」
「校外の協力者じゃよ」
「残念だったな、坊主。俺に命令できる札は増えなかったぜ」
「必要でしたら、これまでどおりお願いして、条件を相談します」
「そうしろ」
サーシェスは椅子の背へ身体を預けた。
◆
ポートキーの砦側の発着場所は、門の内側に決まった。
荷物を持って立てる広さがあり、修繕の資材も積まれていない。門番や訪問者の通り道からは、少し外れる。
ダンブルドアは地面を確かめ、周囲の石壁へ目を向けた。
「今後も、ここへ物を積まないように。向こうから戻る者が、荷車の上へ落ちることになっては困る」
「森の方々にも伝えます」
鬼太郎は答えた。
使用者の名前と固定経路を記した書面は、既に食卓で確認していた。第三者へ貸さないこと。決められた場所を変えないこと。学校側へ使用の連絡を入れること。
そのうえで、今日はダンブルドアの同行による往復確認を行う。
差し出された古い金属製の輪を、キーノは覗き込んだ。
「これで行くのか?」
「そうじゃ。見た目は地味でも、役目は果たす」
「どこへ触ればいい?」
ダンブルドアは持ち方を示し、到着時には足元へ注意するよう告げた。
鬼太郎、キーノ、サーシェスが輪へ手を伸ばす。全員が触れたのを確認してから、老人が時刻を数えた。
腹の奥を、急に引かれた。
キーノは輪を握る指へ力を込める。足の下の地面が消え、風に衣服を引かれたかと思うと、今度は別の地面が近づいてきた。
靴底が土へ触れる。
彼女は二歩よろめき、膝を曲げて踏みとどまった。
「……着く方が、難しいな」
「最初は、そう感じる者も多い」
ダンブルドアが言った。
鬼太郎も足を置き直していた。サーシェスは一歩で身体を支えたが、輪を放すと腹の辺りへ手を当てる。
「便利だが、乗り心地まで面倒見ちゃくれねえのか」
「椅子に座って旅をする道具ではないからの」
ダンブルドアは三人の様子を確かめ、それから周囲を示した。
学校外の指定地点だった。
近くに人影はなく、足元には短い草が生えている。砦の森とは、風の匂いが違った。
「ここから校内へは、学校の指示に従って移動する。これで直接、好きな部屋へ入れるわけではない」
サーシェスが学校の方角へ目を向ける。
「迎えが要る仕事なら、ここで待てばいいんだな」
「依頼の際に、待ち合わせも指定する」
鬼太郎は発着場所と、そこから続く道を見比べた。
「週末に砦へ戻る場合も、ここまで来るのですね」
「許可と連絡を済ませてからじゃ。授業の途中で、黙って森へ戻るのは認めん」
「急な知らせが来た場合は?」
「まず、こちらへ知らせる。そのための連絡方法も書面にある。急いでいることと、誰にも告げなくてよいことは、同じではない」
鬼太郎は頷いた。
戻る道があっても、学校にいる間の規則までなくなるわけではない。交渉で決めた範囲を、彼はもう一度確かめた。
キーノは二人の話を聞きながら、学校の方を見ていた。
「あっちか?」
「ホグワーツは、あちらじゃよ」
ダンブルドアが示す。
キーノは背筋を伸ばした。まだ教室へ入ったわけでも、先生と授業をしたわけでもない。
それでも、教科書に書いた学校の名前が、地図の上だけのものではなくなった。
「今日は、中には入らないんだな」
「今日は経路の確認までじゃ。入学の日には、皆と一緒に来てもらう」
「分かった」
返事をしても、すぐには目を離さなかった。
サーシェスが、その横顔を見て笑う。
「そんなに見ても、今日のうちには生徒になれねえぞ」
「見てるだけだ。悪いか」
「別に」
男が肩をすくめる。
キーノはもう一度、学校の方を見た。
◆
往復の確認を終えると、ダンブルドアは砦で運用の書面を揃えた。
試験移動で問題がなかったことを記録し、使用者と発着場所を最終確認する。鬼太郎も自分の分へ目を通した。
これで、帰還手段が正式に使える。
だが、紙をしまう前に彼が見たのは、窓の外の森だった。
連絡が届き、学校からここへ戻るまでの間。
その時間を、砦と森の者たちが持ちこたえなければならない。
「谷の相手のことを、考えておるのかね」
ダンブルドアの声で、鬼太郎は顔を戻した。
「ええ。ただ、今から行くつもりはありません」
「身体が戻るまで待つ、ということか?」
「戻っても、同じことをすれば同じように負けます」
鬼太郎は黒檀の杖へ目を落とした。
「これを手に入れました。こちらの世界の呪文も、使えるものを増やしたいのです。以前から使っている魔法と銃に、どう組み合わせるか。その練習まで済ませてから、もう一度伺います」
「新しい杖を持っただけで、勝てると思わなかった点はよい」
「明かりだけで認めていただけるなら、苦労はありませんね」
鬼太郎の口元が緩む。
「けれど、明かりにも使い道はありそうです」
彼は、読んでいた教科書を開いた。
「ルーモスの光を、一瞬だけ強くできませんか。相手の目がこちらを向いたときに使えば、次に動く時間を作れるかもしれません」
ダンブルドアは、すぐには頷かなかった。
「普段の灯りを保つことと、急に強めて正しく止めることは別の練習になる。自分や近くの者まで眩ませては、せっかくの隙を使えんぞ」
「方向と、消す時機も含めて練習します」
「まずは小さな変化からじゃ。目へ向けて試してはいかん」
「承知しました」
鬼太郎が、別の箇所へ指を置く。
「それから、修復する呪文を教えていただきたいです」
「レパロか。何を直すつもりじゃ?」
「最初は、折れた枝を」
「最初は、と言うたの」
ダンブルドアは眼鏡の上から彼を見た。
「大きな物を直すときに、破片がどう動くか知りたいのです」
鬼太郎は、両手の指を少し離した。
「この間に、別の物があったら。押し退けるのか、止まるのか、それとも挟んだまま戻るのか」
ダンブルドアの目が、彼の指から顔へ移る。
「……相手が通る場所で、壊れた物を直すつもりか」
「使えるなら、ですが」
「お主、物を直す話から、どうしてそうなる」
「相手を傷つける呪文でなくても、動きを止められるかもしれませんから」
鬼太郎は穏やかに答えた。
ダンブルドアは教科書へ目を落とし、短く息を吐く。
「小さな木片で、基本を教えよう。ただし、生き物を挟んで試すことは認めん。大きな物を動かす練習も、今はまだ早い」
「まず、正しく直せるようにします」
老人は机の端を空けた。
◆
折れた枝が二本のまま動かなかったとき、鬼太郎は力を足そうとした。
「待ちなさい」
ダンブルドアが止める。
「杖先がずれておる。声も最後が曖昧じゃった。まず、その二つを直す」
鬼太郎は手首を戻した。
前から使っている魔法とは違う。力を通せば、望んだ現象がそのまま出るわけではない。
呪文を口にし、教わった動きを繰り返す。
「レパロ」
短い方の枝が、机をわずかに滑った。
破断面へ触れ、途中で止まる。
鬼太郎は杖を下ろして、接ぎ目を見た。
「今のは?」
「少し進んだ。完全には直っておらん」
ダンブルドアが枝を持ち上げると、二つに分かれた。
鬼太郎はその動きを目で追い、羊皮紙へ書き留めた。
何度か試して、一度だけ接ぎ目が繋がった。
ただし、曲がっている。
鬼太郎が指で確かめようとすると、老人が先に枝を取った。
「結果を確かめるときも、慌てずに。直ったように見えて、まだ裂けていることもある」
「見た目だけでは、判断できませんね」
「そうじゃ。今日はここまでにしておこう」
鬼太郎は反論せず、杖を置いた。
腕を振り回したわけではない。それでも、繰り返し集中すると疲れる。
身体が治りきるまでは、走ることも筋力を増す訓練も待つ。その間にできることを探しているのに、別の方法で回復を遅らせては意味がなかった。
キーノが机の上の枝を見る。
「これでも、直るんだな」
「まだ、たまたま一度です」
「なら、たまたまじゃなくなるまで練習だ」
「ええ。そのつもりです」
鬼太郎は、曲がった枝を記録の横へ置いた。
◆
ダンブルドアが帰った後、サーシェスは門の内側の発着場所を見ていた。
鬼太郎が隣へ立つと、男は石壁へ肘をつく。
「帰ってくる道はできたな」
「その前に、ここがなくなっては困りますけれどね」
「俺は、四六時中ここにいるわけじゃねえぞ」
「分かっています。外の仕事へ出る予定は、これまでどおり知らせてください。こちらも、森の警戒を組み直します」
「谷の犬を連れてくるまで、俺で穴を埋めようって話じゃねえならいい」
鬼太郎は、森の北へ目を向けた。
「あの方にも、もう一度会いたいですが。先に身体を治します」
「治ったら、今度は木を直しながら撃つのか?」
「そこまで、手が足りるかどうかを調べます」
サーシェスが笑った。
「杖を握ったままじゃ、銃は抜けねえぞ」
「持ち替える間に何ができるか。それとも、片方ずつ持った方がよいのか。身体を動かせるようになったら、見ていただけますか?」
「条件次第だな」
「では、そのときに」
鬼太郎は頷き、門の横の空いた地面へ目を戻した。
帰る場所と、そこへ戻る道。
両方があっても、守る力は別に要る。
◆
数日間、鬼太郎は短い練習と休息を繰り返した。
小さなアギを維持する。時間を測り、同じ大きさで保てなくなる前に消す。
黒檀の杖で光を灯す。普段より少しだけ強めてから戻し、ノックスで消す。まだ、不意打ちに使えるほどの光にはならなかった。
レパロでは、同じ枝を何度も直した。
繋がっても、弱く曲がる。別の枝になると、またうまくいかない。
鬼太郎は成功した形だけでなく、失敗したときの杖先と破片の位置も記録した。
やがて、小さな枝なら接ぎ目を真っ直ぐに戻せる回が増えてきた。
彼はその枝を机へ置き、次の休息の後、破断面の間へ細い木片を挟んだ。
「手は近づけるなよ」
向かいで教科書を読んでいたキーノが言う。
「ええ」
鬼太郎は両手を離し、杖を向けた。
「レパロ」
二つの枝が寄る。
細い木片が傾き、机へ押し出された。枝はその後に繋がった。
鬼太郎は結果を書き留め、位置を変えた。
次は、すぐには動かなかった。
もう一度、発音と杖の動きを確かめる。
三度目に、枝が木片を挟んだ。
接ぎ目は閉じきらず、引っかかったまま止まる。鬼太郎が杖を下ろしてから木片を調べると、両側に浅い傷が残っていた。
それを見つめる時間が、少し長くなった。
「何を考えてる?」
キーノが本から顔を上げた。
「木の向きと、挟む場所で違うのですね」
「その顔は、それだけじゃないだろ」
鬼太郎は、折れ口の尖った部分へ視線を移した。
「谷の相手なら、幹でも壊すでしょう。それでも、壊すまでの一瞬は作れるかもしれません」
「大きな木を直せるようになれば、だろ」
「もちろんです」
今は小さな枝を直すだけでも、結果が揃わない。離れた物へ届く距離も、修復にかかる時間も、確かめる必要がある。
けれど、細い木片についた傷は、別の可能性を示していた。
木より弱いものが、鋭い折れ口の間にあったら。
戻ってくるものが木ではなく、割れた大岩だったら。
直すための呪文でも、置く場所によっては一度で終わる。
鬼太郎はまだ使えない大きさを、習得済みの力へ数えなかった。ただ、試す順番を記録の下へ加えた。
「……物を直す練習なんだろ」
キーノが、傷のある木片を見て言う。
「直していますよ」
「直した後、何に使うかの話をしてる」
鬼太郎は小さく笑った。
彼女は鼻を鳴らし、教科書へ戻る。
「今日はもう休め。字も、さっきより雑になってる」
鬼太郎は自分の記録を見下ろした。
最後の行が、少し斜めになっていた。
「そうですね」
杖を置き、枝と木片を机の端へ寄せる。
向かいでは、キーノが分からない言葉へ印をつけている。紺色の帳面には、彼女が読めるようになった言葉が少しずつ増えていた。
窓の外で、サーシェスが荷物を肩へ掛けた。門の近くで振り返り、外の仕事へ出ると短く告げる。
鬼太郎は窓から返事をした。
それから椅子へ戻り、目を閉じる。
谷へ行く日は、まだ決めない。
身体を戻し、手の中の力を揃え、その一つ一つを続く動作へ繋ぐ。
あの大きな牙が、今度は何へ向くのか。
その向きを、こちらの仕掛けで変えられるところまで、彼は練習するつもりだった。