第81話 明日、談話室で
銀の皿から、最後の菓子が消えた。
キーノは空になったところを一度見てから、教師の席へ顔を戻した。ダンブルドアが、一年生にも聞こえるように話し始めている。
校庭の外にある森へは、入らないこと。
新入生だけでなく、上級生にも守ってもらう注意だという。
鬼太郎は窓の方へ目をやった。
湖を渡ったとき、城の周りに見えた木々を思い出す。ブルガリアとは違う森だ。何が暮らしているのか、どこまで続くのかは、まだ知らない。
キーノがこちらへ顔を向けたが、何か言う前に、校長の話が続いた。
廊下で勝手に魔法を使わないこと。クィディッチの選手選抜について。
ロンがその話では顔を上げた。
鬼太郎も教師の席へ視線を戻す。
「それから、今年は三階の右側の廊下へ入ってはならん。ひどい苦痛の末に命を落としたくなければ、近づかぬことじゃ」
近くで、笑い声がした。
冗談と受け取った生徒がいるらしい。だが、ダンブルドアは笑っていなかった。
鬼太郎は、その顔を見た。
校内に、そこまで危険なものを置いている。
注意の言い方からして、転べば怪我をするような場所ではなさそうだった。わざわざ皆へ知らせる理由も、何があるか言わない理由も気になる。
「ぜひ、行ってみたいですね」
キーノに届くくらいの声で言うと、彼女はすぐこちらを見た。
その向こうで、ダンブルドアの目も動いた。
視線が合う。
校長の眉が、一瞬だけ下がった。
行ってはならぬ。
砦で無茶な考えを聞かれたときにも見た目つきだった。鬼太郎は口元を緩めたが、校長はそのまま、ほかの生徒へ向けた話を続けた。
「止められただろ」
キーノが囁く。
「ええ。僕へのご注意でしたね」
「全員に言っていたぞ」
「そうでした」
鬼太郎は椅子へ座り直した。
ハリーもこちらを見ていたが、校長が杖を上げると、そちらへ顔を戻した。
金色のものが細く伸び、大広間の上で文字になった。
校歌だという。
好きな曲調で歌えばよいと告げられると、鬼太郎は並んだ言葉を見上げた。どこで区切って歌うか考えている間に、すぐ隣から声が上がった。
ロンは、もう歌っていた。
ほかのテーブルからも、違う速さの声が重なる。
鬼太郎は一度それを聞き、それから歌詞へ目を戻した。
キーノは近くの声に合わせようとしたが、先へ進んだ相手と、まだ前の言葉を歌う相手がいる。どちらへ続けばよいか迷い、結局、自分の読んだところを歌い始めた。
向かいのハリーと目が合う。
彼は笑いそうになり、歌詞を一つ落とした。キーノも口元を動かしてから、また上を見た。
鬼太郎も最後まで歌った。
早く終わった者は隣の声を聞き、遅い者は周囲が静まっても続けている。
最後に残ったのは、赤毛の双子だった。
驚くほどゆっくりした調子で、まるで何かを厳かに送り出すように歌っていた。
ロンが両手で顔を覆う。
ハリーはとうとう笑い、キーノも肩を揺らした。
ダンブルドアは最後まで待ち、杖で拍子を取っていた。歌い終わると拍手をし、今夜はよく休むようにと生徒たちへ告げた。
椅子が動き出す。
鬼太郎も立ち上がった。食べ終えたばかりの身体を動かすと、座っていたときには気づかなかった脚の重さがあった。
◆
「グリフィンドールの一年生は、こちらへ。離れずについてきて」
パーシーが手を上げていた。
キーノは鬼太郎と一緒に集まり、ハリーとロンが来るのを待った。ハーマイオニーはまだ天井へ目を向けていたが、列が動き始めると、すぐに後へ続く。
大広間を出ると、食器の音が遠ざかった。
階段を上り、踊り場を曲がり、長い廊下へ入る。
キーノは前を行く赤毛を見た。上がった先に入口があるのかと思えば、また階段がある。
「まだ、上るのか」
「そのようですね」
鬼太郎は次の角を見ていた。
「お前、覚えているのか?」
「できるだけ。明日は、この道を戻るのでしょうから」
キーノも後ろを見た。
似た廊下が多かった。壁の絵は目印になりそうだったが、描かれた人物まで同じところにいるとは限らない。
夜着の男が隣の額縁へ移り、こちらへ文句を言った。もっと静かに歩けと、眠そうな声で言っている。
キーノはその足元を目で追った。
昼に見た本の絵とは違い、枠の外へ出て、別の絵の中へ移っている。
帳面へ書きたいと思ったが、今立ち止まれば、列から離れてしまう。
彼女は前へ顔を戻した。
先頭の子供が、急に止まった。
その前へ、乾いた音を立てて杖が落ちる。
魔法を使う細い杖ではなく、歩くときに持つ、柄の曲がったものだった。
空中に、小柄な人影がいた。
脚を組み、何本もの杖を抱えたまま、子供たちを見下ろしている。
「ピーブズ、やめるんだ」
パーシーが言った。
人影は嬉しそうに口を広げた。
「監督生のお通りだ! ちびっこを連れて、どちらへ行く?」
もう一本持ち上げる。
キーノは半歩引いた。鬼太郎も足を止め、落ちた杖と相手の手を見ている。
パーシーは道を空けるように繰り返したが、相手は笑いながら頭上へ回り込もうとした。
「血みどろ男爵に話すよ」
その言葉で、笑い声が変わった。
ピーブズは顔をしかめ、抱えていた杖を放り出した。近くの子供の帽子をずらしてから、壁へ消える。
床の上で、何本も跳ねた。
キーノは身体を寄せ、転がってきた一本を避けた。
「足元に気をつけて。あれがピーブズだよ。相手にしない方がいい」
パーシーが列を動かす。
鬼太郎は、相手の消えた壁から彼へ目を移した。
「その男爵さんのことは、嫌がるのですね」
「彼の言うことは聞くんだ。ほかの者の注意も聞けばいいんだけど」
パーシーは短く答え、先へ進んだ。
キーノも転がる杖を跨いだ。
鬼太郎はまだ少し壁を見ていたが、彼女が前へ行くと歩き始めた。
ここでも、身体を通り抜けるものと、手に持って落とすものがある。
キーノには、幽霊との違いもよく分からなかった。明日、誰かへ聞けるだろうかと考えながら、次の角を曲がった。
◆
通路の先に、大きな肖像画があった。
桃色の服を着た、ふくよかな婦人が座っている。パーシーが前へ立つと、婦人は目を開けた。
「合言葉は?」
「カプート・ドラコニス」
答えを聞くと、額縁が動いた。
絵が扉のように開き、その奥に通れる穴が現れる。
キーノが少し顔を近づけた。
ハリーも、絵と入口を見比べていた。壁の中へ消えるのではなく、その向こうに、本当に空間がある。
「合言葉を忘れないように。ここが談話室の入口だよ」
パーシーが先にくぐり、子供たちが続いた。
鬼太郎も少しかがんで通った。
暖かかった。
暖炉の火があり、柔らかそうな椅子が並ぶ。大広間より天井は近く、窓の外は暗い。先に戻った上級生たちが、新入生の入ってくる方を見た。
何人かの目が、鬼太郎のところへ来る。
彼は邪魔にならない場所へ寄り、パーシーの説明を聞いた。
男子の寝室へ行く階段と、女子の寝室へ行く階段が示される。
キーノが鬼太郎を見た。
「ここから、別なんだな」
「ええ」
同じ寮になっても、同じ部屋で眠るわけではない。鬼太郎は彼女の向いた方へ目をやった。
ハーマイオニーが近づいてくる。
「行きましょう。荷物は、もう寝室へ運ばれているんですって」
「ああ」
キーノは答えたが、すぐには階段へ向かわなかった。
「明日は、ここで会うか」
鬼太郎へ尋ねる。
「朝食の前に、こちらへ下りてきますね」
「僕たちも、一緒に行こうよ」
ハリーが言った。
ロンは少し欠伸をしてから、寝坊しなければ、と付け足す。
「起きてなかったら、呼べばいいだろ」
キーノが答えると、ハリーが笑った。
「そうだね」
鬼太郎は彼女へ顔を戻した。
「では、また明日。おやすみなさい、キーノさん」
「おやすみ。お前たちも」
ハリーとロンへも顔を向けてから、キーノはハーマイオニーたちの方へ歩いた。
鬼太郎は、その背が階段へ入るまで見ていた。
彼女は途中で立ち止まらず、隣の少女へ何か尋ねている。ハーマイオニーが答え、二人の声が上の方へ遠ざかった。
◆
男子の寝室には、天蓋つきの寝台が並んでいた。
深い赤のカーテンが垂れ、その脇には、それぞれの荷物が置かれている。
ハリーは自分のトランクを見つけた。
「ちゃんと、来てる」
近づいて留め具へ手を掛ける。朝、重くて汽車へ持ち上げられなかった荷物が、今は城の上の方にある。
ロンも近くの寝台へ腰を下ろした。
ネビルはまずトレバーを確かめ、シェーマスとディーンも自分の荷物を探している。鬼太郎は窓寄りの方へ進み、鞄と箱を見てから寝台の横へ寄せた。
ハリーは寝るための服を取り出した。
誰かが欠伸をする。
「長い一日だったな」
シェーマスが言い、靴を脱いだ。
「汽車で、ずっと座ってたのにね」
ハリーが返すと、彼は少し笑った。
その目が鬼太郎へ動き、また荷物へ戻る。何か聞こうとしたのかもしれないが、言葉にはしなかった。
鬼太郎も気づいたようだった。それでも、自分から帽子の話を始めることはなかった。
ロンが靴を揃えながら顔を上げる。
「キタロウ。三階の廊下、行ってみたいって本気で言ったの?」
ハリーも手を止めた。
「何があるか、気になりますから」
「死ぬって言われたんだぞ」
「だから、気になるのでしょうね。普通の廊下では、そうは言わないでしょう」
ロンは少し口を開き、返事を探した。
ハリーにも、その気持ちは分かった。学校の中に、そんな場所がある。入らなければよいと言われても、何があるのかを一度は考える。
ただ、それを見に行こうとは、まだ思えなかった。
「今夜は、行かないよね?」
「今夜は寝ますよ」
鬼太郎が答えると、ロンはやっと肩を下ろした。
ハリーも自分のトランクへ戻った。
窓の外は暗く、湖がどの辺りにあるかも分からない。ほんの少し前には、あの水の上から、この城を見上げていた。
眼鏡を外し、寝台へ上がる。
身体を横にすると、思っていた以上に疲れていたことが分かった。
ネビルがトレバーへ話しかける声がした。ロンがカーテンの向こうから、おやすみと言う。
ハリーも答えた。
赤い布を閉めると、部屋の明かりが薄れた。
階段の下にあった狭い場所とは違う。
ここには自分の寝台があり、その周りには、今日知った相手が眠ろうとしている。
ハリーは枕へ頬を寄せた。
◆
キーノは寝台の端へ座り、紺色の帳面を膝へ載せた。
鞄も制服以外の服も、間違いなく届いていた。寝台の下を覗き、置かれた場所を確かめてから、銀の留め金を外す。
向こうでは、ハーマイオニーが教科書を取り出しかけていた。
少し迷い、それを戻す。
「明日で、いいわね」
独り言のように言って、寝る支度へ戻った。
キーノは帳面を開いた。
砦で書いた自分の名前。その先には、分からなかった言葉や、聞いて確かめたことが増えている。
昨日の宿で見た動く絵、汽車のカード。さっきは、絵が入口まで開けた。
まだ、書きたいことがあった。
だが、先に余白へ別の言葉を記した。
ハリー。
ロン。
ハーマイオニー。
少し考えて、ネビルも書く。ヒキガエルを見つけたときの顔が浮かんだ。
フレッドとジョージは、並べて書いた。顔を間違えそうなので、どちらが最初に名乗ったかも短く添える。
その下へ、グリフィンドールと記した。
羽根ペンを止め、文字を見る。
昨夜は、話した後に何を聞かれるかが気になっていた。今も、話したくないことはある。自分の血を知ったら、どう思うかも分からない。
それでも、今日、一緒に座った。
名前を聞き、こちらも答えた。言い返したことも、聞き返したこともある。笑ったこともあった。
「何を書いているの?」
ハーマイオニーの声に、キーノは顔を上げた。
「忘れたくないことだ」
「そう。明日も、きっと増えるわね」
彼女はそれだけ言って、自分の寝台へ向かった。帳面を覗き込もうとはしなかった。
キーノは、もう一度頁を見た。
明日の朝は、談話室へ下りる。
鬼太郎だけでなく、ハリーもロンも来ると言った。
彼女は最後の行へ、待ち合わせる場所を書き足した。詳しい時刻までは決めていなかったが、朝食の前に下りればよい。
インクが乾くのを待ち、留め金を掛けた。
鞄を手の届くところへ置く。
寝台のカーテンを閉めると、ほかの少女たちの物音だけが聞こえた。服を畳み、布を引き、誰かが小さくおやすみと言う。
キーノも返した。
暗い布の内側で、自分の声が思ったより近くに聞こえた。
◆
ハリーは、夢の中でターバンを巻いていた。
頭を締めつける布が、声を出す。
今いる寮ではなく、スリザリンへ行くべきだと告げてくる。
ハリーは外そうとした。
指へ布が絡み、引くほどきつくなった。近くでマルフォイが笑っている。その顔が、黒い髪の教師へ変わった。
笑い声が高くなる。
緑の光が見えた。
ハリーは目を開けた。
息が速くなっていた。
頭へ手を置く。ターバンはない。
目の前にあるのは、寝台の赤いカーテンだった。
部屋の向こうで、誰かが寝返りを打った。その音を聞いて、ハリーはゆっくり息を吐く。
夢だった。
ベッドも、枕も、横になったときと同じだ。家へ戻されたわけでも、違う寮へ運ばれたわけでもない。
ハリーは布団を引き上げた。
目を閉じる前に、明日はロンもいると思い出した。
◆
鬼太郎は、寝台の脇へ荷物を寄せ直した。
鞄の口は閉じている。大鍋と小瓶の箱も、歩く場所を塞がない。財布をしまい、外したホルスターは着替えと一緒に自分の側へ収めた。
黒檀は、手を伸ばせるところへ置く。
初めて眠る場所で、何も確かめずに横になる気にはなれなかった。窓と扉、ほかの寝台の位置を見てから、ようやく腰を下ろす。
カーテンの向こうで、誰かが小さく話していた。
砦とも、昨日の宿とも違う音がする。
鬼太郎は荷物へ伸ばしかけた手を止めた。
本を出しても、今から長く読める時間ではない。ニックの身体をどう調べるか考えるにも、まず知らなければならないことが多すぎた。
頭の内側へ入ってきた感覚も、まだよく分からない。
帽子を被ったときのことを思い返す。
断った後も、声は穏やかだった。そのまま終わると言い、返事を待たずに触れてきた。
何をされたかさえ分からないままにしておくのは、気に入らない。
だが、同じ感覚を覚えていることと、押し返す方法を知っていることは違う。今夜、目を閉じて念じれば、どうにかなるものでもなさそうだった。
ダンブルドアとは、まだ話していない。
本人へ聞いてから考えることもあるだろう。こちらが何を断り、どう入られたかは、伝えておきたかった。
鬼太郎は寝台へ横になった。
三階の廊下も思い出す。
あの目つきで止めるほどなら、何があるのかは気になる。だが、今この場所で目を向けたいものは、それだけではなかった。
湖を進む舟。空を映す天井。壁を通る幽霊。
教科書を読んで、自分で修復の手順を確かめた同級生もいる。
入ったばかりの城で、禁じられた扉だけを追うには、ほかのものが多かった。
明日、教師のいる場所へ行く。
何を聞き、何から教わるかは、実際に会ってから考えればよい。
鬼太郎は天蓋へ目を向けた。
朝になれば、この階段を下りる。キーノが来ていれば声を掛ける。まだなら、ハリーやロンと少し待っていてもよいだろう。
汽車へ乗る前には知らなかった名前が、明日の予定に入っていた。
近くで、カーテンの輪が小さく鳴った。
「おやすみ」
誰かの声がする。
鬼太郎も、同じくらいの声で返した。
「おやすみなさい」
布を閉じ、灯りを落とす。
明日、談話室へ下りていくときには、声を掛ける相手がいる。
鬼太郎は目を閉じた。
第六章「名前を呼ぶ場所」完