二本の針
第82話 二本の針
カーテンの向こうで、誰かが鞄を開けていた。
鬼太郎は目を開けた。布の隙間から入る光が、枕の端を細く照らしている。寝台の外へ耳を澄ませると、窓の近くで小鳥の声がした。
黒檀の杖は、置いたところにあった。
身体を起こし、カーテンを開く。昨夜には黒かった窓から、遠くの木々が見えた。先に起きたネビルが荷物の前に屈み、トレバーへ何か話しかけている。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
ネビルは顔を上げ、掌の中のヒキガエルを見せた。
「今日は、ちゃんといるよ」
「ご一緒に朝を迎えられましたね」
鬼太郎が返すと、彼は少し笑い、寝台へ戻った。
荷を開け、着替えを取り出す。昨夜外したホルスターを身につけ直し、銃が収まっているのを指で確かめた。制服で覆い、杖は取り出せるところへ入れる。教科書と筆記具を鞄へ移す頃、隣の赤い布が動いた。
眼鏡を掛けたハリーが、しばらく部屋を見渡していた。
「おはよう、鬼太郎。もう行くの?」
「食事へ行く道を、明るいうちにも確かめたいと思いまして。ご一緒しますか」
「うん。ちょっと待って」
ハリーはトランクを開けてから、隣の寝台へ声を掛けた。
「ロン。起きてる?」
「……今、起きた」
返事の後も布は動かなかった。鬼太郎が留め具を閉じると、ようやく赤毛の頭が出てくる。
「もう朝ご飯?」
「ええ。その前に、談話室で待ち合わせでしたね」
「キーノたち、もういるかな」
「これから、確かめます」
ロンは毛布を退けた。ハリーもシャツへ腕を通し、鞄に入れる本を選び始める。
鞄を肩へ掛けると、ロンが慌てて靴を探した。
◆
キーノは、暖炉の近くにいた。
ハーマイオニーと並んで立ち、階段へ顔を向けている。鬼太郎が下りていくと、彼女は先に手を上げた。
「おはよう。眠れたか」
「ええ。キーノさんは?」
「眠れた。起きたとき、カーテンが近くて驚いたが」
「僕もだよ」
後ろから来たハリーが言った。
キーノは彼を見て、口元を緩めた。
「閉じると、部屋がずいぶん狭くなるな」
「着替えるところを見られずに済むのは、助かりましたね」
鬼太郎が返すと、ロンが欠伸を噛み殺した。ハーマイオニーは皆が揃ったのを確かめ、入口へ向き直る。
「朝食の後で、教室も探しましょう。最初から遅れたくないわ」
「まずは、食べようよ」
「そのつもりよ」
ハリーが笑い、ロンは何も言わずに肖像画の穴へ進んだ。
昨夜はパーシーの後を追った道だった。
鬼太郎は角を曲がるたびに、次に戻る方も見ておいた。壁の絵は目印になりそうだが、描かれた人物は隣の額へ移っている。人の立つ位置より、額縁の形を覚える方がよさそうだった。
階段を下りると、焼いたパンの匂いがした。
大広間の天井には、朝の空が広がっていた。キーノが上を見たまま入口をくぐり、ハーマイオニーに袖を引かれて歩く方へ顔を戻す。
五人で空いた席へ座った。
パンの皿を回し、鬼太郎は卵を取った。昨夜、こちらを遠巻きに見ていた上級生が、今朝も少し先にいる。目が合ったので会釈すると、相手も曖昧に頭を動かした。
話しかけてくることはなかった。
鬼太郎も、食べる手を止めなかった。
途中で、時間割が配られた。
「最初は、変身術」
キーノが紙へ指を置く。
ハーマイオニーは自分の分と見比べた。
「マクゴナガル先生ね」
「今日は、何を変えるんだろうな」
「小さなものからでしょうね。教科書の説明も、もう一度見ておきたいわ」
ハーマイオニーは鞄へ手を伸ばしかけ、皿へ目を戻した。パンがまだ残っている。
鬼太郎は紙にある教室の名を読んだ。
「場所は、どなたかに尋ねた方が早そうですね」
「昨日の道から、行けないのか」
キーノが聞いた。
「どこで分かれるか、まだ知りませんので」
「じゃあ、早めに出るか」
彼女は残っていた卵を食べ、杯を空にした。
頭上から羽音が降ってきたのは、そのときだった。
何羽ものフクロウが、大広間へ入ってくる。封筒や包みを持ち、長い食卓へ次々に下りていった。
ハリーが頭を引いた。ロンのすぐ上を通った翼が、彼の髪を揺らす。
「いつも、こうなの?」
「郵便だよ。朝、ここへ来るんだ」
ロンは髪を押さえ、近くへ降りたフクロウを見た。
キーノも包みを解く上級生へ目を向けていたが、ハーマイオニーが立つと、自分の鞄を取った。
「見てると、遅くなるな」
「明日の朝にも、見られるでしょう」
鬼太郎が答えると、彼女は一度だけ天井の下を飛ぶ翼へ顔を上げ、それから食卓を離れた。
教室へは、一度道を間違えた。
ハーマイオニーが扉の表示を確かめ、ここではないと言う。鬼太郎は戻る方へ目を向けた。先ほどの踊り場には、もう一本通路があった。
引き返して上級生へ尋ねると、その通路を教えられた。
「あっちで、合っていたのですね」
「分かったなら、次は迷わないだろ」
キーノが言った。
「この階段が、同じところにあれば」
ロンの付け足した言葉に、ハリーが後ろを振り返った。
幸い、教室には余裕を持って着いた。
席はまだ空いていた。鬼太郎は入口と窓を見てから前の方へ進み、鞄を足元へ置いた。
教師の机に、猫が座っている。
縞のある顔が、入ってきた生徒を順に見ていた。
「先生の猫かな」
ロンが小声で言う。
鬼太郎もそちらへ目を向けたが、猫は近づいてこなかった。勝手に触る理由もなく、教科書と羽根ペンを机へ並べる。
キーノとハーマイオニーが、通路を挟んだ隣へ座った。
後から来た生徒の椅子が鳴る。ハリーが教科書を取り出し終えた頃、猫が机から下りた。
鬼太郎は顔を上げた。
小さな身体の輪郭が伸び、脚のあったところへローブが垂れる。床に着いたのは猫の足ではなく、人の靴だった。
マクゴナガルが、そこに立っていた。
キーノの椅子が小さく軋んだ。ハリーは口を開け、ロンは教師と机の上を交互に見ている。
鬼太郎も、視線を戻せずにいた。
人へ戻った足は、確かに床を踏んでいる。猫の姿を映しただけではない。
「おはようございます」
教師の声に、ばらばらの挨拶が返った。
「変身術では、正確に理解し、慎重に杖を扱ってもらいます。説明を聞かずに試したり、ふざけて周囲を巻き込んだりすることは許しません」
マクゴナガルは、教室を見渡した。
「指示を守れない生徒には、授業を受けてもらえません。よろしいですね」
鬼太郎は頷いた。
教師の杖が動く。
机が、豚になった。
鼻を鳴らし、脚を踏み替える。近くの生徒が思わず椅子を引いたところで、豚は元の机へ戻った。
鬼太郎は、机の脚を見た。
壊れたものをつなぐレパロとは違う。動いていなかったものへ脚が生まれ、息をし、声まで出した。
あれは、生きていたのだろうか。
口を開きかけたところで、マクゴナガルが黒板へ向いた。
鬼太郎は羽根ペンを取った。先に聞けば、分かることもあるはずだった。
だが、最初の説明は、家具を動物へ変える方法ではなかった。
変える前のものと、変えたい形を確かめる。教師は生徒の手が止まるのを待ち、次の注意へ進んだ。
鬼太郎は机と豚のことを紙の端へ短く残し、説明へ戻った。
書いたことを読み直していると、マッチ棒が配られた。
一本が、机の上へ転がってくる。
「今日は、これを針へ変えます」
鬼太郎はマッチ棒を持ち上げた。
木の軸は四角く、片端に丸い頭がついている。それを置くと、教師が手本の針を見せた。
銀色の細い軸。糸を通す穴。鋭い先端。
マクゴナガルは杖をゆっくり動かした。
「アクフォルマ。唱える言葉と、今の動きを確かめなさい」
教室に、小声で繰り返す声が重なった。
鬼太郎は黒檀を取り出した。
ハリーの目が、その手元へ来る。
「それが、君の杖?」
「ええ」
「長いな」
ロンまで身を寄せた。
「十六インチ半だそうです」
「十六……」
ロンは自分の杖へ目を落とした。後ろの席からも、顔が覗く。
鬼太郎は黒檀を机の端へ置いた。こうしてほかの者の杖と並ぶと、長さも太さも目につくらしい。
「手元の課題へ集中しなさい」
マクゴナガルが言った。
「隣の杖を見ていても、自分のマッチ棒は変わりませんよ」
ロンが身体を戻した。
通路の向こうで、ハーマイオニーが杖を上げる。
「アクフォルマ」
木の色が、銀へ変わった。
四角い軸が細く丸くなり、先が尖る。ハーマイオニーが息を吸い、机へ顔を寄せた。
「できたわ」
マクゴナガルが近づき、針を手に取った。
向きを変え、先端と穴を確かめる。
「よくできました、グレンジャー。グリフィンドールに五点」
ハーマイオニーの頬が明るくなった。
鬼太郎は返された針を見た。木の角は残らず、頭のついていた端も細く整っている。
「穴まで、きちんと開いていますね」
「ありがとう。予習しておいて、よかったわ」
「教わった動きを、迷わず使われましたね」
ハーマイオニーは針を置き、杖を持っていた手を見た。
「先生が見せてくださったところを、間違えないようにしたの」
鬼太郎は頷き、自分のマッチ棒へ戻った。
木の棒を思い浮かべ、それが金属の針へ変わった後を考える。色だけでは足りない。指で持ったときの硬さも、先端の細さも違う。
教師が次の机へ進む前に、手を上げた。
「先生。出来上がった材質と形を、全体ではっきり思い描けばよろしいのでしょうか」
「ええ。ただし、思い描くだけでは変わりません。発音も、杖の動きも正確に」
「はい」
鬼太郎は棒を机の中央へ置いた。
望む形を決め、教わった動きを声へ合わせる。
「アクフォルマ」
丸い頭が消えた。
木の色が銀色へ変わり、細く伸びた軸の一端が尖る。鬼太郎は動きが収まるまで見てから、杖を下げた。
針があった。
マクゴナガルが持ち上げ、目の高さへかざす。
「こちらも、きちんと変わっています。墓場、グリフィンドールに五点」
「ありがとうございます」
受け取った針を、指の腹へ載せる。
冷たかった。
軽いが、木を持ったときの感触ではない。鬼太郎は窓の光へ向け、糸を通す穴を見た。
「二人とも、一回でできたんだ」
ハリーの声がした。
鬼太郎は顔を上げかけ、もう一度針へ目を戻した。
「先生。これへ、重ねてかけてもよろしいですか」
「何を変えるつもりですか」
「針のまま、先端や穴の縁を整えられるかと思いまして」
マクゴナガルは、指に載せた針を示した。
「まず、机へ置きなさい。手に持ったまま唱えてはいけません」
鬼太郎は針を下ろし、指を離した。
「細かな違いを狙うには、その違いを捉え、魔法を制御しなければなりません。何をどう変えたいか、確かめてからです」
鬼太郎は穴を見た。
もう少し滑らかなら、糸が擦れずに済むだろうか。先端も細ければよいというものではない。長く尖らせすぎれば、折れやすくなる。
形を考え、杖を上げた。
「アクフォルマ」
針は、そのままだった。
少し待っても、動かなかった。
鬼太郎は杖を下げ、教師を見る。
「変わっていないようですね」
「ええ。今の試行では、変化はありません」
マクゴナガルが針を確かめた。
鬼太郎も返されたものを見る。最初の針と、同じに見えた。
「穴の内側は、今もよく見えていません。滑らかにしたいと思っても、元がどのくらいなのか分かりませんね」
「それなら、まず観察することです。唱え直す回数を増やしても、見ていないところまで分かるようにはなりません」
鬼太郎は針を置いた。
羽根ペンを取り、成功した変身の横へ、二度目の結果を書き加える。
「手本を、もう一度見せていただけますか」
「授業の終わりに返してください」
教師は針を一本、机へ置いた。
◆
ミネルバは、二本を並べる少年の手を見た。
墓場は向きを揃え、自分が作った方を少し回した。すぐに杖を振り直そうとはしない。紙へ描いた穴の図を見て、実物へ目を戻している。
最初の成功より、その後の態度が気になった。
自分の思う変化が起きなかった。それでも、杖や課題へ責任を押しつけず、見えなかったところを認め、手本を借りた。
昨夜、あの帽子の下に座っていた子供だった。
ダンブルドアから聞いた経歴も、消えたわけではない。教えた力が何に使われるか、考えずに済む生徒ではなかった。
だが、今、自分が与えた課題には真面目に取り組んでいる。
ミネルバは、隣の机へ向かった。
キーノの前には、マッチ棒があった。
「杖の動きを、もう一度見せてください」
少女は少し背を強張らせ、松の杖を上げた。
◆
キーノは、先生の指が示す先を見た。
「ここで止めず、最後まで。途中で結果を見ようとしていますね」
言われてみれば、そのとおりだった。
木の色が変わるか気になり、動かしている杖より先にマッチ棒を見ていた。
構え直す。
「アクフォルマ」
今度は、教わったところまで動かした。
マッチ棒は、木のままだった。
キーノは口を結んだ。隣にはハーマイオニーの針があり、通路の向こうでは、鬼太郎が二本を比べている。
「今の動きは、先ほどより正確でした」
マクゴナガルが言った。
キーノは顔を上げる。
「ただ、唱える声が途中で弱くなっています。動きを気にするあまり、言葉を忘れないように」
「……もう一度、やってみる」
「ええ。慌てる必要はありません」
教師はハリーたちの机へ進んだ。
キーノは教科書の余白へ、杖を止めたところを記した。その下に、声、と書き足す。
「手本、見る?」
ハーマイオニーが、自分の針を寄せた。
「穴は、このくらい。先生のものも見たけれど、あまり大きくはなかったわ」
「ああ。見せてくれ」
キーノは頭を寄せた。
小さな穴の向こうに、机の茶色が見える。
「私は、まだ木のままだ」
「でも、今の動きは止まらなかったでしょう。次は、それと発音を一緒にすればいいのよ」
「一緒にすると、またどっちか忘れそうだ」
ハーマイオニーは少し考え、先生が教卓へ戻っていないか確かめた。
「だったら、唱える前に、一度確かめましょう。私も見るから」
キーノは杖を持ち直した。
鬼太郎を呼ばずに、その動きを隣の少女へ見せた。
◆
授業が終わる頃、鬼太郎の紙には、二本の針の図が並んでいた。
穴の形を描くだけでも、思っていたより時間がかかった。針を回せば、光る縁が変わる。図を書き直す間に、授業の終わりが近づいていた。
マクゴナガルが練習を終えるよう告げる。
鬼太郎は借りた針を返し、自分の作ったものも指示された場所へ置いた。
キーノが杖をしまう。机の上には、まだマッチ棒がある。
「今日は、駄目だった」
鞄を持ちながら、彼女が言った。
「最後の動きは、途中で止まりませんでしたね」
「ああ。次は、声も揃える」
ハーマイオニーが教科書を閉じた。
「また練習しましょう。私も一緒にできるわ」
「僕も、まだ木のままだよ」
ハリーが自分の机を見て言う。
ロンも頷き、鬼太郎へ顔を向けた。
「君は、一回で針になったのに、どうしてまた変えたかったの?」
「どこまで形を決められるのか、気になりまして」
「僕なら、そこで満足するけどな」
「僕も、満足はしていますよ」
鬼太郎は答え、紙を教科書へ挟んだ。
「できると分かると、次も試したくなるんです」
ロンは少し呆れた顔をしたが、自分のマッチ棒へ目を戻すと、もう一度杖の動きを小さくなぞった。
教室の外へ出る。
廊下には、別の授業を終えた生徒たちがいた。鬼太郎は通る場所を空け、キーノが隣へ来るのを待った。
「先生の机が豚になっただろ」
彼女が言った。
「ええ。鳴きましたね」
「あれを教わるのは、まだ先か」
「その前に、針を揃えておいた方がよさそうです」
「お前もか?」
「僕もです。二度目は、何も変わりませんでしたから」
キーノは頷き、ハーマイオニーが開いた時間割を覗き込んだ。
鬼太郎も次の教室の名を確かめる。
今朝、鞄へ入れたときには、本の説明しか知らなかった。今は、その頁を開けば、机が動いた瞬間も、針の冷たさも思い出せる。
何より、変わらなかったところを持っていけば、見てくれる教師がいた。
次の変身術までに、確かめておきたい箇所がある。
鬼太郎は、教室で書いた図を鞄の上から軽く押さえた。手本の針は返したが、見比べた穴の形は、まだ覚えていた。
先を歩くハリーが振り返った。
「今度は、どっちへ行く?」
鬼太郎は時間割と、廊下の分かれ目を見た。
「まず、あちらの階段まで行ってみましょうか」
五人の足が、また同じ方へ動き始めた。