第八十三話 森の声が、牙を揃える
朝の空き地には、靴の跡が幾重にも残るようになった。
鬼太郎は一つの跡へ足を戻し、利き手に持った黒檀の杖を上げる。もう片方の手は空けてある。
懐の〈ケストレル〉は、まだ見せない。
短い光が灯り、消える。
横へ動いて、小さな炎を放つ。
その後の動作まで終えると、彼は開始位置へ戻った。
前には一度繋がるだけで満足した手順が、今は何度も続く。途中で足元を変えれば崩れることもあったが、どこで遅れたのかを、終わる前に分かるようになってきた。
昼には杖の呪文を磨き、夕方には身体を動かす。
休む時間も、記録の中へ入れる。
砦での一日は、少しずつ形を整えていった。
◆
ダンブルドアが訪れる日は、門の近くでキーノが待つこともあった。
学校の話を尋ね、次の訪問までに読んでおく箇所を確かめる。答えを聞いた後は、帳面へ自分の言葉で書いた。
鬼太郎の指導は、砦から離れた場所で行われた。
その日、ダンブルドアは三枚の布を木の間へ吊るした。
「光の後に、どこを見るか決めておくれ」
「真ん中ですね」
「最初はの」
鬼太郎が杖を上げると、中央の布が横へ動いた。
短く光を灯し、消してから視線を移す。だが、鬼太郎が見たのは、もう布のない空間だった。
「相手は、予定の場所へ戻ってはくれん」
ダンブルドアが言う。
鬼太郎は布を追い、杖を下げた。
「先に場所を決めるだけでは足りませんね」
「動くものを見失わず、必要なら次を変える。お主が繋げようとしている技は、途中で止めることも含めて覚えるのじゃ」
もう一度、開始位置へ立つ。
今度は光を出す直前まで布を見た。発光と共に視線を外し、光が終わった後、動いた先を捉える。
前より早い。
ただ、反対の手へ力を通しかけたところで、脇の布まで動いた。
鬼太郎は攻撃を止め、まず位置を変えた。
「今の判断はよい」
ダンブルドアが頷く。
「使うつもりだった力を、使わずに済ませることもできるようになったの」
「あちらを先に見なければ、次が分かりませんでしたので」
鬼太郎は息を整えた。
「その判断を、光を強くしたときにも保てるようにします」
「今日は、そこまで一度に欲張らんことじゃ」
ダンブルドアは布を止めた。
訪問のたびに、新しい呪文が増えるわけではなかった。
同じ技を見てもらい、次の動作へ移る前に空く時間を指摘される。退く方向を変えられ、守るものがある場合は、そちらへ目を戻すよう求められた。
老人が帰ると、鬼太郎は直された箇所を記録した。
次に来る日まで、そこを繰り返す。
◆
レパロの練習に使う木は、机の上へ収まらなくなった。
太い枝から、既に倒れていた木の折れた部分へ。
根のついた生木を治そうとはせず、戻す破片の残っているものを選ぶ。
鬼太郎は折れた幹の片側を見た。
「レパロ」
離れた部分が寄り、折れ口へ戻る。
接ぎ目を確かめ、次は反対側を中心にした。
動く木の向きが変わる。
まだ、重さが増すほど時間がかかる。戻す位置を選ぶと、呪文を使う前に対象へ意識を向ける時間も長くなった。
鬼太郎は、できた大きさをそのまま実戦で使える大きさへ数えなかった。
ゆっくりなら直せる木と、相手の動きへ間に合わせられる木。
記録では、その二つを分ける。
キーノに頼んで確認してもらうと、彼女は地面につけた印と接ぎ目を見比べた。
「位置は、前より揃ってる」
「速さは?」
「これだと、通り過ぎる方が早いだろ」
鬼太郎は頷いた。
「では、次は少し小さくします」
別の日には、枝の破断面へ木片を挟んだ。
戻る中心と、接ぎ目の位置を選ぶ。同じ配置なら、以前より短い時間で、狙った場所へ噛み込ませられる。
同じ呪文でも、戻す方向が変われば、罠の入口も変わる。
森の中で、都合のよい木が毎回同じ向きに倒れているはずはなかった。
鬼太郎は場所を変え、見える角度を変えた。
既に直せるものを、どこからでも同じように扱えるまで練習する。
ルーモスも、普段の照明から離れていった。
強い光が一瞬だけ走り、その後に細い灯りを残さず終わる。
音も衝撃もなく、明るさだけが弾ける。
鬼太郎は光の出る位置を意識し、顔と視線を次の動作へ移した。反射を避ける向きを変えると、終えた後も標的の輪郭を追えた。
ただし、どこでも同じように見えるわけではない。
白い石壁の近くと、暗い土の空き地では、光の返り方が違う。
その違いも、記録へ残した。
◆
前世の魔法を使う時間も、伸びていた。
同じ大きさのアギを保ち、消してから、別の場所へ出す。
以前なら休んでいた回数を越えても、力が残っている。小さく使うときの無駄が減っただけではなかった。
十分休んだ後に、同じ条件で使える量を比べる。
身体の中へ戻る力そのものも、前より厚くなっていた。
冷気、雷、風でも、同じように確かめる。
強く出す練習と、必要なところへ必要な量を通す練習を分けた。疲れた後も、退くための力まで使い切らない。
サーシェスとの練習では、銃を見せる時機が変わった。
杖へ目を向けさせたまま、反対の手から魔法を使う。
その手を空け、懐へ移す。
最初は肩や視線が先に動いたが、反復すると、銃を取り出す前に相手を見失うことは減った。
射撃も、立ったままの練習だけでは終えない。人のいない場所と背後を確かめ、移動した後に標的を捉え直した。
サーシェスは結果を見て、笑った。
「杖だけ見てる奴なら、嫌な目に遭いそうだな」
「見ている方には?」
「お前が懐へ手をやる理由を考えるだろうよ。俺みたいにな」
「では、そういう方には別の順番で」
「俺を相手に試すなら、弾は使うなよ」
「もちろんです」
鬼太郎は銃を戻した。
速くなったからといって、既に知っている相手の警戒まで消えるわけではない。
サーシェスが帰っている日を選び、条件を相談し、見てもらう。
男が外の仕事へ出ている間は、一人で繰り返した。
◆
ゴブリンの石工は、砦の門へ来ると、まず荷車を脇へ寄せるようになっていた。
空けておけと言われた場所がある。
何に使うのか、細かく聞いてはいない。だが、そこを塞がなければ、荷を受け取る者も仕事の話を急がず聞く。
今日は、先にヴィーラが来ていた。
以前なら、用件が済むまで離れた木陰で待っただろう。石工は彼女たちの森へ入らず、彼女も石を積む仕事へ口を挟まない。
ところが、門の前には小人もいた。
「川沿いの道が崩れている」
小人が言う。
「車で通るなら、北側へ回った方がいい」
石工は眉を寄せた。
「北へ回ると、糸の張ってある場所へ近づく」
「境界の外を通ればいい。昨日、向こうの女に聞いた」
アラクネのことだった。
小人が、枝で地面へ線を引く。
石工はその線を見下ろし、ヴィーラへ顔を向けた。
「お前たちの水場は、こっちだったか」
「荷車を入れないなら、その手前は通れる」
短い返事だった。
それでも、道を尋ねる相手が増えた。
砦の修繕が始まった頃には、誰も自分の縄張り以外を話したがらなかった。今でも、住処を何もかも明かすわけではない。
ただ、同じ場所へ荷を運び、同じ人間と取引する。
待つ間に雨の話をし、道の話をし、誰がどこで罠を見つけたかを聞く。
自分が見つけた罠を取り除くだけでは、隣へ移った狩人が戻ってくることもある。
それが分かると、知らせる相手も増えた。
石工は、教えられた道へ印をつけた。
今度、同じ道を使う者が来たら、自分から伝えればよい。
◆
荷を下ろしていると、主棟の向こうから短い光が見えた。
石工は手を止める。
少し後に、人間の子供が歩いてきた。
長い黒い杖を持っている。身体は、まだ小さい。
「道を変えて来たのですか?」
鬼太郎が尋ねた。
石工は川沿いの崩れを話し、誰から迂回路を聞いたかも伝えた。
「それは助かりましたね。荷を運ぶ方には、こちらからも知らせます」
鬼太郎は石材を確かめ、使う場所を相談した。
頼まれた分より多く運んだからといって、全部を当然のようには受け取らない。追加分が要るなら、先に条件を決める。
石工は彼の手元を見た。
人間は、森から欲しいものを持っていく。
これまで知っていた者の多くは、止めれば杖を向け、弱い者を見つければ囲った。
目の前の子供も、杖を向ける。
ただし、今までそれが向いたのは、森へ罠を持ち込んだ者たちだった。
欲しい素材は口にするが、渡す範囲を決めれば、その外へ勝手に手を伸ばさない。守ると言った場所へ侵入者が来れば、知らせを聞いて動く。
安全な人間なのかと尋ねられれば、石工は答えに迷っただろう。
殺した者の荷を調べる顔と、使える石を見つけたときの顔が、あまり変わらない。
谷から戻った日は、歩き方がおかしかった。けれど、傷がある間も机で何かを続け、動けるようになるとまた外へ出た。
強い相手に負けたからといって、取引を投げ出してはいない。
人間の子供だからと侮るには、見たことが多くなりすぎた。
「北の谷へ、また行くのか」
石工が尋ねると、鬼太郎は顔を上げた。
「行くつもりです。ただ、その前に済ませたいことがあります」
「今度は、戻れなくなるかもしれん」
「そうならないよう、準備しています」
返事をする顔が、少し楽しそうだった。
石工は鼻を鳴らした。
あの谷の相手を思って笑う。
やはり、妙な人間だった。
◆
種族同士の話が、いつも穏やかに済むわけではなかった。
道へ積んだ木の場所を巡り、声が荒くなる日もある。
知らせを届けるためでも、許可なく境界を越えるなと怒る者もいた。
鬼太郎は、そのたびに皆を仲良くさせようとはしなかった。
誰が何に困り、どこまでなら通れるのかを聞く。連絡を取りたいなら、境界で待って知らせる方法を決める。
必要なことが済むと、双方は別々に帰った。
次の知らせは、その境界で渡された。
アラクネの糸を避ける場所を、小人が知る。
ヴィーラが見つけた人間の足跡を、ゴブリンが別の道で確かめる。
森トロールが見た荷の大きさを、ほかの者が残された轍と比べる。
一つの声だけでは分からなかったことが、二つ目で形を持ち、三つ目で進む方角まで見えた。
砦へ届ける前に、話がつながることも増えた。
◆
ホグワーツ入学まで、約一か月になっていた。
キーノは制服を出して、畳み直した。持っていく本と、砦へ残す物も分け始めている。
鬼太郎は練習の記録を揃え、その横へボリスの紙を置いていた。
商人は再訪の際、森の場所を探っていた者たちが、狩りの支度をしていると伝えた。同行する者を集め、捕獲用の荷を用意しているらしい。
人数は、まだ確かではなかった。
その紙へ目を通していたとき、門から声が届いた。
小人とヴィーラが、一緒に来ている。
鬼太郎は本を閉じて、外へ出た。
「人間が入った」
小人が先に言う。
「南の道で四人見た。荷を運んでいる」
ヴィーラが続けた。
「その少し先に、二人いた。合流したところまで見た」
「今、確認できているのは六人ですね。今は?」
「東へ向かっている。次の知らせは、川の向こうから来る」
鬼太郎は地図を持ってきた。
二人が指す場所は、少しずつ違う。
見た時間を聞き、順に印をつけると、進路が一本に繋がった。
「捕まえる道具はありましたか?」
「畳んだ網と、金具のついた箱だ。道を外れて、罠を置く場所を見ている」
「杖は?」
「六人とも持っていた。手に持っていない者も、腰か服の内側へしまっている」
鬼太郎は頷いた。
網や箱を運んでいても、杖を使わない相手ではない。狩りに使う魔法と、人を相手に戦う力がどの程度なのかは、まだ見ていなかった。
鬼太郎はボリスの紙と見比べた。
森へ入る話をしていた一団。
ようやく、噂が足を持って来たらしい。
「砦を探している様子は?」
「まだない。生き物の跡を見ている」
「では、姿を見せずに知らせを続けてください。住処へ近づくようなら、そこを先に」
鬼太郎は二人の目を見た。
「ほかに、後から続く者がいないかも分かる範囲で。追うために危険な場所へ入る必要はありません」
小人が頷く。
ヴィーラは地図の一角を指した。
「こちらへ来るなら、先に知らせる」
鬼太郎は、その場所へ別の印をつけた。
◆
サーシェスは話を聞くと、地図の上へ肘をつかず、脇から覗き込んだ。
「六人。ほかは、まだ分からねえか」
「ええ。見つかっている数です」
「六人とも杖はあるんだな。銃を持ってる奴は?」
「今の知らせでは、確認できていません」
鬼太郎は、侵入者の進路を指で辿った。
買い手が欲しがった素材と、荷の中の網。
今のところ、砦を攻める支度ではない。
森の獲物を追い、捕らえられる場所を探している。
「こちらから、追いましょう」
鬼太郎が言った。
サーシェスの口元が広がる。
「向こうが狩る前にか」
「住処へ着いてからでは、こちらの選べる場所が減ります」
鬼太郎は仕事の範囲と報酬、回収品の扱いを相談した。
サーシェスが受けると決めてから、二人で地図へ向き直る。
相手を待ち伏せるために、森の者を危険へ置く必要はない。届く知らせを使い、侵入者が進んでいる先を選ぶ。
何を使うかは、相手を見てから決める。
練習した技を全部見せるための仕事ではなかった。
「俺が別の場所へ回ったら、お前は待てるか?」
「お約束の位置までは。予定が変われば、合図します」
「犬とやる前の仕上げには、なるかもな」
「ええ。動く相手に、どこまで通るか確かめられます」
鬼太郎の声が、少し弾んだ。
魔法を使える量は増えた。呪文も、銃も、動作の中へ収まり始めている。
それでも、今まで向かいにいたのは標的か、彼の動きを知っている協力者だった。
本当に狙ってくる相手を前に、同じように選べるか。
谷へ戻る前に、それを確かめる。
キーノが地図の横へ座った。
「私は?」
「砦へ次の知らせが来たら、時刻と場所を整理していただけますか。届いた順と、見た順が違うかもしれません」
「さっきみたいにだな」
「ええ。引き受けていただけるなら、その分の条件を決めましょう」
キーノは一度地図を見て、頷いた。
「やる。分からないところは、勝手に埋めない」
「それでお願いします」
三人はそれぞれの仕事を確かめた。
◆
森へ入った男たちは、道を外れて歩いていた。
先頭の男が、地面へ残った痕跡の前でしゃがむ。腰には杖がある。後ろでは、荷を担いだ者が息を吐き、上着の内側へ手を入れて、自分の杖の位置を確かめた。別の者は、既に杖を抜いて周囲へ向けている。
「売っていた物は、ここで取れたんだろうな」
「あの商人が仕入れを切らしてないなら、何かはいる」
短い会話が、枝の下を抜けた。
男たちが見ているのは、獲物の通った地面と、捕らえる場所だった。
少し離れた境界で、彼らの歩いた方角を伝える声が渡されたことには気づかない。
その声を受け取った者は、男たちを追わず、別の道へ向かった。
◆
鬼太郎は黒檀の杖を利き手へ収めた。
もう片方の手で、懐の〈ケストレル〉の位置を確かめる。
サーシェスは選んだ装備を持ち、肩へ荷を掛けた。砦へ置いていく物もある。
門の外では、案内に戻った小人が待っていた。
「川の手前で、東へ曲がった」
新しい知らせだった。
鬼太郎は頷き、サーシェスへ目を向ける。
男が笑った。
「獲物を探すのに忙しいらしいな」
「では、こちらも探しましょう」
鬼太郎の返事は、穏やかだった。
背後でキーノが、地図へ新しい印をつける。
二人は門を出た。
以前なら、侵入者の足跡を自分たちで探すところから始まっただろう。
今日は、森のあちこちから届いた声が、その先を示している。
鬼太郎は木々の間へ目を向けた。
狩人たちが獲物へ辿り着く前に、こちらが追いつく。
そのための道は、もう繋がっていた。