第83話 帽子に断ったこと
廊下の角に、片腕を上げた甲冑があった。
鬼太郎が足元の台を見ていると、キーノもそちらへ顔を向けた。
「覚えておくのか」
「帰るときの目印になるかと」
「その腕、下りていたらどうする」
「台まで歩かなければ、助かりますね」
ハリーが少し歩く速さを上げた。甲冑の指が動くか、確かめるつもりはないらしい。
次の教室は、上級生に教わったところで見つかった。
中では、小柄な教師が本を整えていた。生徒たちが席へ着くのを待ち、机の後ろに積んだ本へ上がる。
「おはよう、皆さん。フリットウィックです。これから、よろしくお願いしますね」
声が、よく届いた。
鬼太郎も挨拶を返し、教科書を置いた。キーノは先ほどの変身術で書いた紙をしまい、新しい羊皮紙を広げる。
出席を確かめる声が続いた。
ハリーの名を読んだところで、フリットウィックは急に顔を上げた。
「ああ、ポッター!」
身を乗り出した身体が揺れた。
ハリーが腰を浮かせる。先生は机の縁へ手をつき、積まれた本の上で姿勢を戻した。
「大丈夫、大丈夫。あなたが来てくれて嬉しいよ」
ハリーは少し赤くなって座った。
キーノの長い名が呼ばれ、彼女が返事をする。鬼太郎も応じた。先生はそれぞれの顔を確かめてから、名簿を閉じた。
「今日は、杖を使う前に覚えてほしいことから始めます。筆記用品を出してください」
鬼太郎は鞄へ伸ばしかけた手を戻した。
今度も、すぐ試すわけではない。
フリットウィックは教科書を開かせ、変身術との違いから説明した。先ほど見た針を思い出しながら聞くと、読んだときには曖昧だった言葉が、少し分かる。
書き終えたところで、黒板へ線が引かれた。
キーノはそれを写し、本の図と比べていた。途中でペンを止め、手を上げる。
「先生。この印は、杖を止めるところなのか」
フリットウィックが、示されたところを見た。
「そこまでの動きが、一まとまりになっています。その先の線とは分けて見てごらん」
先生は同じところを黒板へ大きく描いた。
キーノは目を上げ、また本へ戻す。
「全部、続けて動かすのかと思っていた」
「図を見ただけでは、そう思うこともありますね。だから、授業で一緒に確かめるのです」
ハーマイオニーも、自分の本へ何か書き込んでいた。
鬼太郎は羽根ペンを止めた。
ルーモスとレパロでは、自分でも動きを変え、働き方を確かめてきた。うまくいった形は覚えているつもりだったが、途中の手の位置まで残していただろうか。
手を上げると、先生がこちらを向いた。
「同じ呪文で結果が揃わないときは、声と杖の動きを、別々に確かめた方がよろしいでしょうか」
「ええ。一度に何もかも変えると、どこがよくなったかも分からなくなるでしょう。ただし、原因がその二つだけとは限りませんよ」
「うまくいったときも、残しておくのですね」
「もちろん。よかったところまで直してしまっては、困るからね」
鬼太郎は、今朝の針について書いた紙を思い出した。
変わらなかったところを、詳しく描いた。
最初に針へ変えたときの動きは、それほど細かく残していない。
次に開いたとき、そちらも書き足しておこう。
隣では、ロンが指のインクを擦っていた。ハーマイオニーから声を掛けられ、慌てて黒板へ目を戻す。
授業が終わるまで、杖を出すようには言われなかった。
それでも、鬼太郎の紙は、空白のままではなかった。
◆
昼食の席で、ロンは自分の指を見せた。
「こんなに書くと思わなかったよ」
「先生の説明、速かった?」
ハリーが尋ねる。
「速いんじゃなくて、多いんだ。書き終わったと思ったら、次がある」
「最初に分からないまま試すより、いいでしょう」
ハーマイオニーが言った。
キーノはパンを取ってから、彼女へ顔を向けた。
「お前も、あの印を書き直してたな」
「続けて読むものだと思っていたの。聞いてくれて、助かったわ」
「僕も」
ロンがすぐに言った。
キーノは彼を見た。
「そうか」
「先生が大きく描いてくれたから、分かった」
ロンは答え、皿へ料理を取った。
キーノも食べ始めた。少しして、鬼太郎へ顔を向ける。
「お前に聞いても、あれは分からなかったか」
「ええ。僕も教わりました」
「じゃあ、手を上げてよかったな」
鬼太郎は頷いた。
料理の皿を渡していると、マクゴナガルが食卓の脇へ来た。
「墓場。今日の夕食後、校長先生がお話ししたいそうです」
キーノが食べる手を止めた。
鬼太郎は教師へ顔を向けた。
「昨夜のことですね」
「ええ。食事を終えたら、私に声を掛けなさい。場所は案内します」
「分かりました」
マクゴナガルは頷き、別の生徒へ時間割について答えながら、食卓を離れた。
ロンが鬼太郎を見る。
「帽子のこと?」
「まだ、お話ししていませんので」
「何を見たか、教えてもらえるのかな」
ハリーが言った。
鬼太郎は教師の席へ目を向けた。
「まずは、僕の方で何があったか、お伝えしたいですね」
ダンブルドアは別の教師と話していた。こちらへ顔を向けることはなく、鬼太郎も食事へ戻った。
キーノは少し待ってから、午後の時間割を広げた。
「今度は、魔法史だ」
皆が紙へ顔を寄せる。
午前に通った廊下を思い出す声が、卓の上で重なった。
◆
ビンズは、壁を通って入ってきた。
鬼太郎は手を止め、その半透明の身体を見た。ニックと同じ幽霊だった。
だが、教師は生徒の驚きに応じなかった。教える箇所を告げ、声の調子をほとんど変えずに話し始める。
名前と年が続いた。
鬼太郎は綴りを確かめるため、教科書へ目を落とした。顔を上げたときには、次の名へ進んでいる。
聞き慣れないものは、音だけを短く残した。
後で本と比べればよい。
講義には、魔法使いとゴブリンの争いも出てきた。鬼太郎はその前後へ印をつけた。
銀行で金を数えていた者。森で錠前の材料を確かめていたボグダン。
同じ名で呼ばれる種族にも、自分の知らない過去がある。
ただ、その年に戦ったと聞くだけでは、なぜそこまで争ったのか分からなかった。
先生は先へ進む。
鬼太郎は読みかけのところへ小さく印を残し、講義の続きを追った。
隣で、椅子が動いた。
ロンが頬杖をつき、何度も瞬きをしている。少し先ではハリーも姿勢を変えていた。キーノは自分の頬を指で押し、それからペンを持ち直す。
窓から差す日が暖かかった。
ビンズは、誰かが眠そうでも話し方を変えなかった。
終わりを告げられると、ロンは真っ先に身体を伸ばした。
「危なかった。眠るところだった」
「少し寝てただろ」
キーノが言う。
「目を閉じただけだよ」
「長かったぞ」
ハリーが笑った。
鬼太郎は紙を揃え、鞄へ入れた。ロンがその束を見て、眉を上げる。
「君、面白かった?」
「争いが始まったところを、もう少し読んでみたいですね。名前は、確かめ直さないと間違えそうですが」
「まだ読むのか」
「聞いている間は、先の説明まで追えませんでしたから」
ロンはハーマイオニーへ目を向けた。彼女は既に、自分が確かめたい頁を開いている。
何か言いかけ、結局、教科書を鞄へしまった。
談話室へ戻ると、鬼太郎は窓辺の卓を選んだ。
キーノが向かいへ座り、紺色の帳面を開く。朝の変身術で直されたことと、呪文学の図について、別々の行へ書き足していた。
ハーマイオニーは隣で、魔法史の本を開いた。
鬼太郎が読んでいた一文を示すと、彼女は少し前の頁を探した。
「その言葉の説明なら、こっちにあったわ」
「ありがとうございます」
戻って読むと、講義で並んでいた名前がつながった。
それでも、争った両方が何を求めていたかまでは、同じ詳しさでは書かれていない。
鬼太郎はそこへ印を残した。
キーノがペンを置いた。
「聞いても、まだ分からないことが増えるな」
「ええ。ただ、何を聞けばよいかは、前より分かりますね」
彼女は自分の帳面を見て、もう一行足した。
◆
夕食後、マクゴナガルが案内したのは、廊下の先の空いた教室だった。
机が壁へ寄せられ、中央には椅子が二つある。窓の近くにダンブルドアが立っていた。
「ありがとう、ミネルバ」
「長くなりすぎないように。明日も授業があります」
「分かっておる」
彼女は鬼太郎へも目を向け、扉を閉めた。
ダンブルドアが椅子を示す。
「最初の一日は、どうじゃった」
「針を作りました。その先を変えようとすると、動きませんでしたけれど」
「ミネルバから聞いた。最初から、細かいところが気になったそうじゃな」
「見ていないところを整えようとしていたようです。手本を借りて、比べてみました」
鬼太郎は鞄を椅子の横へ置いた。
ダンブルドアも腰を下ろす。
「ほかの授業でも、尋ねられたかの」
「ええ。キーノさんも、ご自分で先生に聞いていました」
「それは、よかった」
校長は笑みを浮かべたが、すぐに手を膝へ戻した。
「今夜は、昨夜の帽子について聞きたい。あのとき、何を言われ、どう感じたか。話せるところを、聞かせてくれるかね」
鬼太郎は帽子を被ったときの匂いを思い出した。
目の前へ古い布が落ち、大広間が隠れた。
「初めは、普通にお話をしていました。寮の違いについて伺った後、内側を見せてほしいと言われました」
「それで、断った」
「はい。怖がる必要はない、ほかの子供も同じように受けていると。そのようなことを言われましたが、見せるとは答えていません」
ダンブルドアは口を挟まなかった。
鬼太郎は続けた。
「すぐ終わると言われた、その途中でしたね。自分が考えているところへ、別のものが入ってきました」
「痛みは?」
「ありません。ただ、気持ちのよいものではありませんでした」
昨夜、寝台で思い返したときと同じだった。
何が見えるか確かめる前に、見ることを拒んだ。
それでも、入ってきた。
「お主は、そのとき、何かを使ったか」
「いいえ。杖にも触っていません。僕が何かをする前に、あちらが叫びました」
「何が見えたか、自分でも分かったかね」
「分かりません。あの帽子が見たのでしょう」
鬼太郎は校長の顔を見た。
「僕に尋ねても、代わりのお返事はできませんよ」
「うむ。そこは、分けて聞いておる」
ダンブルドアは少し顎を引いた。
「わしは、帽子にも、断られたらやめるよう伝えておった。あれが、お主の拒否を越えたことは分かっておる」
「では、組分けに必要だったので、仕方がないというお話ではないのですね」
「そういう話にはせん。わしが止めきれなかったことも、謝らねばならぬ」
校長は、鬼太郎をまっすぐ見た。
「すまなかった」
鬼太郎は返事を急がなかった。
あの帽子の声も、最初は穏やかだった。
目の前の老人の言葉を聞くことと、その先を全て任せることは、同じではない。
「帽子にも、お伝えください。僕は、嫌だと申し上げました」
「伝える。どうしてやめなかったかは、帽子にも聞く」
「もう一度被れば分かる、と言われても、お断りしますよ」
「被せるつもりはない」
すぐに返ってきた。
鬼太郎は、椅子の背へ少し身体を戻した。
「それなら、お話はできますね」
◆
ダンブルドアは、少年の手を見た。
鞄へも、杖へも伸びていない。
ただ、拒んだことを、拒んだままにしている。
帽子が煙を出した理由を確かめたければ、少年の内へもう一度触れるのが早いと考える者もいるだろう。だが、それをすれば、今ここで詫びた言葉から先に壊れる。
この子は、授業で見つけた失敗を教師へ持っていく。
知らないものを見ても、まず尋ねることができる。
その相手から自分を守るために、口を閉ざす方を選ばせたくはなかった。
学校に留まり、こちらと話す理由は、まだ幾つもある。キーノだけへ、その全てを負わせる必要もない。
ダンブルドアが顔を上げると、鬼太郎は次の問いを用意していた。
「あのように入ってくるものを、防ぐ方法はあるんですか」
「ある。じゃが、入り込まれた感覚を知っただけで、すぐ押し返せるようにはならぬ」
「昨夜、少し考えました。どこへ力を向ければよいかも、分かりませんでしたね」
「今ここで、試しに触れてみようということはせんよ」
鬼太郎の目が、ダンブルドアへ留まった。
「お願いする前に、言っていただけるのは助かります」
「お主なら、言わねば先に試せと返しかねんのでな」
「相手を選べるのでしたら、確かめたいことではあります」
ダンブルドアは小さく息を吐いた。
「今夜は、起きたことを聞く日じゃ。練習を始める日ではない」
「はい」
鬼太郎は素直に答えた。
不快だったことと、知らない術へ興味を持つことが、この子の中では並んでいた。
「防ぎ方を知りたいという話は、覚えておく。ただし、相手が何をするかも、どんな負担があるかも分からぬまま、試す必要はない」
「では、お話を伺ってから考えます」
その返事を聞き、ダンブルドアは頷いた。
「昨夜の後、覚えていることが急に増えたり、いつもと違う感覚が残ったりはしておらぬか」
「ありません。嫌な入り方だったことは、覚えていますが」
「眠れたかね」
「ええ。今日は、授業にも困りませんでした」
「そうか。何か変われば、ミネルバか、わしへ知らせなさい」
鬼太郎は少し考え、それから口元を緩めた。
「針の穴が気になるようになったことは、帽子とは関係なさそうですね」
「それは、授業の方じゃろうな」
ダンブルドアも笑った。
鬼太郎が鞄を取るまで、帽子の見たものを答えるようには、もう求めなかった。
◆
談話室へ戻ると、窓辺の卓にはまだ本が広がっていた。
キーノが顔を上げる。
「どうだった」
「断ったのに入ってきたことを、お伝えしました。帽子にも、聞いてくださるそうです」
「また被れとは?」
「言われませんでした」
「なら、よかった」
キーノは椅子の上の本を退けた。鬼太郎はそこへ座り、鞄を足元へ置く。
ハリーが少し身を寄せた。
「何を見たかは、まだ分からないんだね」
「ええ。僕が何かをしたわけではないことは、お話しできました」
ロンは頷き、自分の開いた本へ戻った。
ハーマイオニーが、キーノの帳面を指した。
「さっきの言葉だけど、ここの説明と一緒に読めば分かると思うの」
「待て。こっちの頁を開く」
キーノは自分で本を寄せた。
鬼太郎は二人の間へ口を挟まず、変身術で書いた紙を取り出した。
最初の針へ変わったとき、杖をどこから動かしたか。朝の手を思い出し、図の横へ線を一本足す。
「まだ、針か?」
ロンに言われ、鬼太郎は顔を上げた。
「今度は、うまくいった方です。こちらも残しておいた方がよいと、教わりましたので」
「それなら、僕の紙にも書いとこうかな」
ロンは呪文学の紙を探した。インクのついた指が、鞄の留め具を開く。
向かいでは、キーノが分かったと言い、ハーマイオニーへ本を返していた。
鬼太郎は図を描き終えた。
帽子が何を見たかは、まだ分からない。防ぎ方も、今夜使えるようになったわけではなかった。
だが、自分が何を断ったかは、相手へ伝えた。
そのために、内側を見せ直す必要はなかった。
紙を揃えると、キーノが帳面を閉じた。
「明日も、朝はここだな」
「ええ」
ハリーとロンも顔を上げた。
今朝は、教室へ行く道も知らなかった。
明日は、今日通った角から選べる。間違えたところも、尋ねた相手も覚えている。
鬼太郎は鞄へ紙を収めた。
「では、おやすみなさい」
返事が重なった。
キーノがハーマイオニーと階段へ向かう。鬼太郎も立ち上がり、ハリーたちと寝室へ歩いた。
次に本を開くとき、確かめたい場所には、既に印がついていた。