第86話 地面に残った箒
廊下の角を曲がる前に、次の教室がどちらにあるか分かるようになってきた。
それでも階段に行き先を変えられれば、少し遠回りになる。ロンが近道を見つけたと言い、結局、四人とも授業へ駆け込んだ日もあった。
夜には談話室の卓で本を開いた。
キーノが書き留めた言葉を尋ね、鬼太郎も答えに迷うと、ハーマイオニーが自分の教科書を寄せる。ハリーはその横で、授業中に書き損ねたところを埋めていた。
銀行の包みについて、新しいことは分からなかった。
ハリーがふと思い出して口にすることはあったが、話しているうちに教科書へ戻った。次の授業までに済ませることも、毎日増えていく。
翌週の木曜日、朝食の席では、午後の授業が話題になった。
「飛行訓練だよ」
ロンが言い、少し声を落とした。
「スリザリンと一緒だけど」
ハリーは向こうの食卓へ目をやった。マルフォイは、ここ何日か、箒の腕前を随分大きな声で話していた。
「初めて乗るところを、あいつに見られるのか」
「あいつだって、先生に教わるんだろ」
キーノがパンをちぎった。
「私も乗ったことはない。今日は、そのための授業じゃないのか」
「君は、怖くないの?」
ハリーが聞くと、彼女は一度考えた。
「まだ、どんなものか分からないからな」
鬼太郎はカップを置いた。
「僕も、飛ぶのは初めてです。店では持たせていただいただけでしたから」
「楽しみそうだね」
「ええ。動かし方を、実際に教われますね」
ハリーは、横丁の店に飾られていた箒を思い出した。あれに跨がって空へ上がれたら、どんな気分がするのだろう。
そのとき、ネビルの前へフクロウが下りた。
祖母から届いた包みを開けると、中からガラス玉が出てきた。金色の飾りがついていて、内側には薄い煙が漂っている。
「思い出し玉だよ。何か忘れてると、教えてくれるんだ」
ネビルが掌へ載せた。
煙が、赤くなった。
「……何を忘れたんだろう」
彼が眉を寄せたところで、横から手が伸びた。
マルフォイがガラス玉を取り上げ、指の間で回す。
「返してよ」
ネビルが立ちかけた。ハリーも腰を浮かせる。
「何をしています、マルフォイ」
マクゴナガルの声だった。
マルフォイは玉を食卓へ置いた。
「見せてもらっていただけです、先生」
教師の目を避けるように、向こうの卓へ戻っていく。
ネビルは思い出し玉を両手で包んだ。煙は、まだ赤かった。
◆
午後の芝生には、古い箒が二列に並べられていた。
鬼太郎は一本の横へ立ち、傷のついた柄を見下ろした。小枝の先が、何本か違う方へ突き出している。
向かいの列では、マルフォイが自分の箒を確かめていた。キーノが鬼太郎の隣へ来て、風に持ち上がるローブの裾を押さえる。
フーチが列の間を歩いてきた。
短い髪の下で、黄色い目が全員を見渡す。
「右手を、箒の上へかざしなさい。まずは、手元へ呼びます」
鬼太郎は掌を下へ向けた。
「上がれ!」
皆の声が重なる。
ハリーの箒が、すぐに手へ飛び込んだ。
キーノのものは草を擦り、少しだけ跳ねる。彼女は手の位置を直し、もう一度呼んだ。今度は柄が高く上がり、伸ばした指へ収まった。
「来た」
鬼太郎の足元では、何も動かなかった。
声を掛け直す。
草に触れた小枝は、風で揺れるだけだった。
杖で呪文を使うときと、同じようにはいかない。
箒へ働きかけようとすると、身体の内側で、魔力とは違うものが引っかかった。普段から巡らせているMAGが、そこへ噛み込んでくる。
手を下ろすと、その感覚も静まった。
もう一度試せば、また同じところで乱れる。
「墓場。反応がありませんか」
フーチが前へ来た。
「はい。一度も動かないんです」
「手をかざして。そのまま、呼んでごらんなさい」
鬼太郎は指示どおりにした。
教師はその手と箒を見てから、別の一本を持ってきた。
結果は、同じだった。
フーチが自分で呼ぶと、その柄はあっさり掌へ上がった。
「箒の方は、動きますね」
「手で持ってからでも、試してよろしいでしょうか」
「私が見ているところで。地面は蹴らないように」
渡された柄を握り、教わった位置へ脚を掛ける。
手で持ち上げることには、何の問題もなかった。だが、箒に身体を支えさせようとすると、内側でまた抵抗が起きる。
鬼太郎は握り締めていた指を緩めた。
MAGを増やせば済むものではない。むしろ、今はこちらが邪魔になっている。
「こちらも、難しいようです」
フーチは足元まで確かめ、首を振った。
「今日は飛ぶのを見合わせましょう。無理に跳び上がらず、扱い方を見ておくこと」
「分かりました」
脚を外して柄を下ろすと、向かいから声がした。
「箒にも、乗せたくない相手はいるらしいね」
「マルフォイ。自分の練習をしなさい」
フーチが顔を向けた。
マルフォイは口を閉じ、自分の箒を持ち直した。
教師が離れると、キーノが少し身を寄せた。
「杖なら使えるのにか」
「ええ。こちらでは、内側の力が邪魔をするようです」
声を落として答える。
彼女は鬼太郎の手を見て、それ以上は尋ねなかった。
鬼太郎は箒を芝生へ横たえ、教師へ目を戻した。飛ぶための握り方も、下りるときの動かし方も、まだ見ていない。
残念ではあったが、ここで聞かずにいてよいことでもなかった。
◆
ハリーは柄を握り直した。
自分の手には、すぐ来た箒だ。
あの鬼太郎にできないことが、自分にはできた。それが少し不思議で、もう一度、手の中の柄を見た。
フーチが握り方を直して回る。マルフォイまで注意されていて、ロンがハリーへ目を向けた。
二人とも、笑うのは堪えた。
「笛が鳴ったら、地面を蹴ります。少し浮いたところで保ち、それから前へ傾けて下りなさい。必ず、私の合図を待つこと」
ネビルが何度も頷いていた。
その膝が、不意に伸びた。
まだ笛は鳴っていなかった。
「ロングボトム、待ちなさい!」
箒がネビルを持ち上げる。皆の頭を越え、止まらずに高く上がった。
ハリーは顔を上げた。
ネビルが柄へしがみつき、身体を前へ戻そうとしている。だが、箒は横へ走り、城壁へ近づいていった。
急に向きが変わる。
ローブの裾が壁の突起に引っかかり、ネビルの身体だけが止まった。箒は手をすり抜けて飛んでいく。
両脚が、何もないところを蹴った。
「動かないで!」
フーチが駆け出す。
布が裂けた。
ハリーは一歩出かけ、ネビルの身体が落ちるのを見た。
芝生へぶつかる音がした。
フーチが膝をつき、近づこうとした皆を片手で制した。
「下がりなさい。場所を空けて」
ネビルは涙を浮かべ、腕を抱えていた。
教師が手首を確かめる。声は低くなり、立てるかと尋ねていた。ネビルは頷き、支えられながら身体を起こす。
立ち上がったフーチが、残る生徒たちを振り返った。
「私が戻るまで、全員ここで待っていなさい。箒に乗ってはいけません」
黄色い目が、一人ずつを見た。
「勝手に飛んだ者は、ホグワーツに残れないと思うこと。分かりましたね」
誰も箒を動かさなかった。
ネビルの泣き声が、城へ向かって遠ざかる。
マルフォイが笑い出した。
「あれじゃ、忘れ物の心配をする前に、箒を持たせない方がよかったんだ」
「やめなさいよ」
パーバティが言った。
マルフォイは答えず、草の上へ屈んだ。拾い上げたものが、日の光を反射する。
思い出し玉だった。
「それはネビルのだ。返せよ」
ハリーは前へ出た。
「君のものでもないだろう、ポッター」
「だから君が持っていっていいわけじゃない」
マルフォイの指が、玉を握り込んだ。
ハリーが手を伸ばすと、彼は先に箒へ跨がった。足が地面を蹴り、黒い裾が宙へ上がる。
「欲しいなら、取りに来たら?」
少し高いところから、ガラス玉を見せた。
ハリーは自分の箒を掴んだ。
「駄目よ、ハリー!」
ハーマイオニーが叫ぶ。
「先生の話を聞いたでしょう。退学になるわ!」
聞こえていた。
それでも、マルフォイを見上げたまま、脚を掛けた。
地面を強く蹴る。
足の下から、芝生が離れた。
腹の辺りが軽くなり、風が顔へ当たる。柄を握る手は動かなかったが、箒はハリーを振り落とそうとはしなかった。
もう少し高く、と身体を起こす。
そのとおりに上がった。
曲がろうと思えば、向きが変わる。
ハリーはマルフォイと同じ高さへ進み、そこで止まった。
「返せ」
マルフォイの笑みが薄くなった。
下にはクラッブもゴイルもいるが、ここには上がってこない。ハリーは柄を握ったまま、相手へ少し近づいた。
「ネビルに返すんだ」
「そんなに欲しいなら、落ちる前に取ってみろよ!」
腕が振られた。
光る玉が、弧を描いて離れていく。
ハリーは目を向けた。
落ち始めたところへ身体を倒す。箒の先が下を向き、急に風が強くなった。
追いつける。
玉の向こうで、芝生の緑が広がっていった。下から上がる声は、風に混じってよく聞こえない。
もう少し。
ハリーは片手を離した。
指へ、滑らかなガラスが触れる。
握り、残った手で柄を引き上げた。
足先の下を草が流れた。
ぶつからなかった。
速度を落として両足をつけると、ハリーは握った手を開いた。
思い出し玉は、割れていなかった。
◆
鬼太郎は、ハリーが下りたところを見ていた。
玉へ目を合わせ、すぐに箒の先を向けた。掴んだときにはもう、残った手で柄を起こしている。
地面へ近づいてから慌てて引いたのでは、間に合わなかっただろう。
「ぶつかるかと思った」
キーノが、止めていたらしい息を吐いた。
「最後まで、目を離しませんでしたね」
鬼太郎は言った。
本人は掌の玉を見ている。初めて乗った道具で、あれだけ動けたことに、自分でも驚いているようだった。
ロンが走り寄る。
「ハリー、今の、すごかったよ!」
「ポッター!」
別の声が、城の方から届いた。
マクゴナガルが近づいていた。周りの生徒が口を閉じ、上にいたマルフォイも急いで下りてくる。
教師はハリーの前で止まった。
「今の飛行は、どういうことです?」
「先生、マルフォイが先に――」
「ウィーズリー。ポッターに聞いています」
ロンが黙った。
ハリーは玉を持つ手を開いた。
「ネビルの思い出し玉を、取り返そうとしたんです」
教師は一度だけ、掌へ目を落とした。
「私についてきなさい」
ハリーの肩が下がった。
箒を置き、ロンへ思い出し玉を渡す。
「ネビルに返しておいて」
ロンは受け取ったが、返事は遅れた。
マクゴナガルが歩き出す。ハリーは後を追った。さっき、空へ上がったときとは違う足取りだった。
マルフォイが、その背中を見て笑っていた。
◆
廊下では、先生の靴音だけが先へ進んだ。
ハリーは遅れないように歩いた。
退学。
フーチ先生は、確かにそう言った。
寮の寝台も、朝食へ行く道も、ようやく覚えたところだった。また、あの家へ戻るのだろうか。
「先生。勝手に飛んだのは僕です。でも――」
「説明は、後で」
マクゴナガルは足を止めなかった。
ある教室の扉を開け、フリットウィックへ声を掛ける。ウッドという生徒を呼び出したいらしかった。
出てきたのは、ハリーより随分大きな男子生徒だった。
二人とも近くの空き教室へ通される。扉が閉まると、マクゴナガルはその上級生へ向き直った。
「ウッド。シーカーが見つかりました」
ハリーは顔を上げた。
ウッドも、驚いたようにこちらを見る。
「彼ですか?」
「ええ。窓から見ていました。ガラス玉へ急降下し、片手で捕まえて、地面すれすれで箒を戻したのです」
声に、力が入っていた。
芝生で呼び止められたときと同じ先生のはずなのに、目が違う。ウッドは一歩近づき、ハリーを見た。
「箒には、どのくらい乗ってる?」
「今日が初めてです」
ウッドが教師を振り返った。
「初めてで、あれです」
マクゴナガルが頷く。その口元が上がった。
「練習を積ませなければ。そうでしょう?」
「もちろんです。僕はオリバー・ウッド。グリフィンドールのチームのキャプテンだ」
差し出された手を、ハリーは握った。
まだ、何の話なのか分からなかった。
「あの。僕は、退学じゃないんですか?」
「退学?」
教師の眉が上がる。
「あの飛行を見た後で、あなたを学校から出すはずがないでしょう」
「でも、勝手に飛んだらって、フーチ先生が」
「その話は、私がします」
「一年生は、チームに入れないんじゃ――」
「校長に話します。箒の件もね」
何を言っても、答えがすぐに返ってきた。
ウッドは、ハリーの背丈と腕を見比べている。止めてくれそうな様子はなかった。
「小さくて軽い。速さもあるなら、ぴったりです」
「僕、ルールもまだよく知らないんです」
「ウッドが教えます」
マクゴナガルの手が、彼の肩へ置かれた。
「そうですね?」
「全部、教えます」
ウッドは力強く答えた。
「シーカーは、小さな金色のボールを見つけて捕まえる役で――」
「説明は、この後にしましょう。ポッターの返事が、まだです」
二人の目がハリーへ向いた。
先生は、待っているらしかった。
ハリーが口を開きかけると、先に言葉が来た。
「『はい』か『イエス』で結構です」
ウッドが、口元へ手をやった。
「……はい」
「結構」
マクゴナガルは満足そうに頷いた。
「今年は、スリザリンに勝ちますよ」
「はい、先生」
返事の声まで大きくなったウッドを、ハリーは見た。
退学を言い渡されるはずだった。今は、試合へ出る話になっている。
窓の向こうに、空があった。
身体を動かしただけで、箒が向きを変えた。落ちる玉へ手を伸ばしたときにも、どこで柄を起こせばよいか分かった。
もう一度、飛びたかった。
それを口にする前に、練習の話が進んでいることには、まだ慣れなかったが。
マクゴナガルが出ていくと、ハリーはようやく息を吐いた。
「先生、いつもああなの?」
ウッドは閉じた扉を見た。
「クィディッチならね」
近くの椅子を引き、ハリーへ勧める。
「まず、ボールから説明しようか」
◆
芝生には、まだ箒が並んでいた。
ロンは思い出し玉をポケットへ入れ、また城を見た。
「遅いな」
ハリーは戻ってこない。フーチもまだだった。
鬼太郎は、足元の柄を見下ろした。誰も乗っていなければ、空を飛ぶ道具には見えなかった。
「お前、残念そうだな」
キーノが言った。
「ええ。使ってみたかったです」
目を向けると、彼女は自分の箒へ手を置いていた。
「私も、少しくらい浮くと思ってた。ああなると、次に跨がるのは少し嫌だが」
ネビルの落ちた場所を見たらしかった。
「次は、先生の合図で、低いところからですね」
「分かってる。お前は、無理に跳ぶなよ」
「地面へ下りる方しか、できそうにありませんから」
鬼太郎が答えると、キーノは鼻を鳴らした。
杖を通せば、明かりも修復も働く。だが、箒を使おうとすると、同じ身体の中にある力が妨げになった。
手を握り直しただけでは、変わらなかった感覚を覚えておく。
キーノが顔を上げた。
「ハリーは、うまかったな」
「ええ。捕まえた後の動きまで、続いていましたね」
鬼太郎も、ハリーが下りたところを見た。
投げられた玉へ追いつくことだけを考えれば、地面へぶつかっていたはずだった。初めての道具を動かしながら、最後まで自分の身体を戻せていた。
魔法薬学で答えに詰まっていた彼とも、教室へ駆け込んで息を切らしていた彼とも、違って見えた。
「戻ってきたら、伺ってみたいですね」
「飛び方か?」
「いつ、あの玉へ追いつけると思ったのかを」
キーノは城へ目を戻した。ロンも、入口から誰か出てこないか見ている。
鬼太郎は箒の横で待った。
自分の手へは上がらなかった柄に、芝の葉が一本、引っかかっていた。