第87話 真夜中の署名
ハリーが戻ってきたのは、飛行訓練で使った箒を片づけた後だった。
城へ入ろうとしていたロンが、廊下の向こうへ手を上げる。
「ハリー!」
鬼太郎とキーノも足を止めた。
マクゴナガルは一緒ではなかった。ハリーは三人を見つけると近づいてきたが、何から話そうか迷っているようだった。
「どうだった? 退学じゃないよね?」
「うん。違った」
ロンが大きく息を吐く。
「クィディッチのチームに、入ることになったんだ」
今度は、その口が開いたまま止まった。
「グリフィンドールの? 君が?」
「シーカーだって」
ロンの声が大きくなり、ハリーは廊下を行く上級生へ目をやった。
「まだ、あまり言わないで。ウッドが、そうしてほしいって」
声を落として、先生が窓から見ていたことを話した。ガラス玉を捕まえた飛び方を見て、すぐキャプテンを呼び出したのだという。
「でも、一年生だろ?」
「僕も言ったよ。箒も持ち込めないはずだって。でも、校長先生へ話すって」
キーノが腕を組んだ。
「お前が入りたいと頼んだのか?」
「頼む前に決まってた。返事は、はいかイエスでいいって」
ロンが吹き出した。
ハリーも、ようやく笑う。
「それでは、断る方は選べませんね」
鬼太郎が言うと、彼は頷いた。
「そうなんだ。でも、また飛びたいとは思ってる」
その返事は、早かった。
鬼太郎は芝生の上で見た姿を思い出した。箒を握って立っていたときより、玉を追っているときの方が、ハリーの動きには迷いがなかった。
「どこで、追いつけると思われたんですか」
「どこで?」
「マルフォイさんが投げた玉へ、すぐに向かいましたよね。掴んだ後には、もう箒を戻していましたから」
ハリーは片手を伸ばしかけ、それから下ろした。
「取れると思ったんだ。前へ傾いたら箒が動いて、地面が近くなったから、柄を上げた。そんな感じで……うまく説明できないけど」
「最初から、順番を確かめる必要はなかったんですね」
「考えてたら、落ちてたかもしれない」
ハリーは自分の手を見た。
鬼太郎も、あの短い飛行の間に、考え直す余裕はほとんどなかっただろうと思った。
「それを、これから教わって磨けるのでしょう。楽しみですね」
「君の箒は、まだ駄目だった?」
「ええ。今日は、最後まで地面にありました」
鬼太郎は答えた。
残念だったことと、ハリーの飛行が見事だったことは、別だった。自分が使えない道具を、目の前の友人は初めてで扱えた。その感覚を、聞いておきたかった。
「私は少し浮いたぞ」
キーノが言った。
「フーチ先生が戻ってから、低いところでな。ハリーみたいには動かせないが」
「次も見てもらえるよ」
ロンが言う。
「ああ。まずは、下りる方までちゃんとできるようにする」
彼女が答えると、ハリーは嬉しそうに頷いた。
四人は並んで、廊下を歩き始めた。
◆
夕食の席でも、ロンはまだクィディッチの話をしていた。
ハリーは、思い出し玉をネビルへ返してくれたことにも礼を言った。治療を受けたネビルは、もう寮へ戻っているという。
鬼太郎は料理を取り分け、キーノがロンへ尋ねるのを聞いていた。
「捕まえる役のほかには、何がいるんだ?」
「点を取る役とか、味方を守る役とか。シーカーだけじゃ試合はできないよ」
ロンが説明し始めたとき、食卓の脇に影が落ちた。
「まだいたんだね、ポッター」
マルフォイだった。クラッブとゴイルも後ろに立っている。
「君は、僕がもう帰ったと思ってたんだろ」
ハリーが顔を上げた。
「ちょっと飛べたくらいで、いい気になるなよ。先生に見逃してもらえて、よかったじゃないか」
マルフォイは、こちらの皿には目もくれなかった。
「教師が見てないところでも、同じように強気でいられるのかな」
「君も、地上で友達と一緒だとよく話すね」
クラッブが指を鳴らした。
ハリーはそちらを見ず、マルフォイを見続けた。教師の席から、ここはよく見える。
「一人でも相手をしてやるよ。魔法使いの決闘なら、知ってるだろう?」
鬼太郎は匙を止めた。
「今夜だ。真夜中に、トロフィー室で。杖と呪文だけ。来る勇気があればね」
「行くよ」
ハリーが答えた。
ロンがすぐに身を起こす。
「僕が付き添いになる。君は誰を連れてくるんだ?」
「クラッブだ」
マルフォイが答えたところで、鬼太郎は匙を皿へ置いた。
「それでしたら、僕が立ち会ってもよろしいでしょうか」
三人の目が、こちらへ向いた。
「君も、ポッターの付き添いか?」
「いいえ。開始の合図と、勝敗を決める役です。お二人が、何を使ってどう戦うのか、見てみたいんです」
マルフォイの口元が歪んだ。
「同じ寮の君に、判定させろって?」
「ハリーさんが負けたら、そう告げますよ」
鬼太郎はハリーを見た。
「それでよろしいですか?」
ハリーは少し間を置き、頷いた。
「僕は、いい」
マルフォイは鬼太郎から目を外さなかった。
「勝手なことはするなよ」
「ええ。始める前に、二人で決めておきましょう」
鬼太郎は膝元の鞄から紙と筆記具を出した。
キーノが自分のカップを寄せ、紙を置く場所を空ける。ただし、こちらを見る目は、手伝いを喜んでいるものではなかった。
鬼太郎は礼を言い、羽根ペンを取った。
◆
紙へ文字が並び始めると、ハリーは急に、約束が近づいたように感じた。
今夜、真夜中。トロフィー室。
自分の名と、マルフォイの名。
口にしたばかりの言葉が、食卓の上で消えずに残っている。
「一対一で、使うのは杖と呪文。付き添いは、途中で攻撃しない。始める合図と、止める合図には従ってください」
鬼太郎がペンを止めた。
「ここまでは?」
「いいよ」
「当たり前だろう」
マルフォイも答えた。
「勝敗は、降参したとき。杖を失って拾えないとき。それから、立って続けられなくなったとき。このどれかで、終わりにしましょう」
ハリーは、立てなくなるという文字を見た。
さっきまで思い浮かべていたのは、マルフォイに何か言い返すことばかりだった。今は、自分が床へ座り込んでいるところまで浮かんでくる。
「相手へ傷をつけるためのものや、周りを壊すものは使わない。かけた呪文は、その場で解いていただきます。解き方を知らないものは、使わないでください」
「そんなものを使うと思ってるのか?」
マルフォイが聞いた。
「分からないので、今、確かめています」
鬼太郎は顔を上げたまま待った。
「分かったよ」
返事を聞いてから、紙へ書き加える。
ロンが覗き込んだ。
「もし、来なかったら?」
「来ない方の不戦敗と記します。後で、そんな約束ではなかったと言われないように」
マルフォイの視線が、ロンから紙へ動いた。
「僕が逃げるとでも?」
「予定どおり来ていただければ、予定どおり始められますね」
鬼太郎は最後の行を空け、紙をマルフォイへ向けた。
「違うところがあれば、今、直しましょう。よろしければ、お名前を」
羽根ペンが差し出された。
マルフォイは、すぐには取らなかった。
ハリーもロンも、クラッブまで、その手を見ていた。自分から来いと言ったのは、マルフォイだ。
彼はペンを取り、紙へ名を書いた。
「これで満足か?」
「はい。ありがとうございます」
ハリーは渡されたペンを握った。
書く前に、条件をもう一度読む。杖だけ。付き添いは手を出さない。降参すれば終わる。
どれも、相手だけへ向けた条件ではなかった。
ハリーは自分の名を記した。
鬼太郎も立会人として署名し、インクが乾くまで紙を広げていた。
「では、真夜中に」
マルフォイは短く頷き、クラッブたちを連れて離れた。
ハリーは料理の残る皿へ目を戻した。
ロンが、声を低くする。
「大丈夫だよ。あいつだって、そんなに色々できるわけじゃない」
「僕もだよ」
「今週、くすぐりの呪文をやっただろ。あれなら、ちゃんと当たれば相手も唱えにくい」
リクタスセンプラ。
フリットウィックの前で試したときには、いったん発音を直された。唱え直すと、相手役のロンが急に笑い出した。
そのときのロンは、逃げなかった。
マルフォイも同じように、こちらへ向けて何か唱えるのだ。
「うまく出なかったら?」
「もう一度だよ。向こうのも避けて」
ロンは答えたが、それで簡単になった気はしなかった。
ハリーは冷めた料理を口へ運んだ。真夜中までには、まだ時間があった。
◆
談話室へ戻ると、キーノは窓際の椅子へ腰を下ろした。
鬼太郎が向かいへ座るのを待って、口を開く。
「あんな紙を作って、何をしたいんだ」
「二人の勝ち負けを、同じ条件で決めたいんです。後から、あれもよかった、これは駄目だったとなると、終わりませんからね」
「紙の話じゃない。お前が見に行く方だ」
鬼太郎は畳みかけた紙を、膝へ置いた。
「同じくらいの年頃の方が、どれほど戦えるのか、まだ見ていませんので」
「授業では、一緒だろ」
「ええ。ただ、相手が先に動いてくるところではありませんでした。唱えている間に避けられたら、次はどうするのか。手元の物へかけるのとは、違うでしょう」
キーノは少し黙った。
こちらの答えに納得したというより、何を考えているかは分かった、という顔だった。
「昼間に、先生のいるところでやればいい」
「その機会もあれば、伺いたいですね」
「今夜をやめる気はないんだな」
「立ち会うと、お伝えしましたから」
「それは、お前から言ったんだろ」
鬼太郎は頷いた。
危険な相手へ挑むわけではない。だからこそ、二人が何を選び、何に困るかを、近くで見られると思った。
キーノが向こうの卓へ目を向けた。
ハリーとロンが、小声で話している。ロンの指が杖を振るように動き、ハリーはそれを見ていた。
「あいつらは、お前みたいに見たいだけじゃないぞ」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、で済ませるな。熱くなったら、止まるのか」
鬼太郎は紙へ目を落とした。
「止めると告げて、それでも続けるなら、間に入ります」
「怪我をした後じゃ、遅いこともある」
彼女の声が、少し硬くなった。
鬼太郎は、自分が森から戻った日の彼女の顔を思い出した。あのとき、先に聞けることを聞いていなかった。
「ええ。そこは、見ておきます」
キーノは返事をしなかった。
その向こうで、ハーマイオニーが二人の卓へ近づいた。
「本当に、行くつもりなの?」
ロンが顔を上げる。
「聞いてたのかよ」
「あれだけ食卓で話していれば、聞こえるわ。夜中に寮を出て見つかったら、何点引かれると思ってるの?」
「君が行かなきゃいいだろ」
「同じ寮でしょう。あなたたちのせいで、ほかの人が取った点までなくなるのよ」
ハリーは杖を膝へ下ろした。
「マルフォイは、僕が来ないと思ってる」
「思わせておけばいいじゃない」
「君には、関係ない」
言った後で、ハリーは口を閉じた。
ハーマイオニーの目が、鬼太郎へ向いた。
「止めなかったの?」
「僕も、立会人として行きます」
「あなたまで!」
彼女は椅子の背へ手を掛けた。
「条件を紙にしたって、寮から出ていいことにはならないでしょう」
「ええ。学校から許可をいただいたものではありません」
「分かっているなら、やめて」
鬼太郎は彼女を見た。
夜中に外へ出れば罰される。それは、紙を作る前から変わっていなかった。
「それでも、今回は見に行きたいんです」
ハーマイオニーは、彼の膝にある紙を見た。
「書いたら、守らないといけないと思ってるの? そもそも、してはいけない約束なのよ」
「魔法で縛った紙ではありませんよ。僕も、二人も、自分で決めました」
「なら、自分でやめられるでしょう」
返事を待つ目だった。
鬼太郎が紙を折り直すと、彼女は唇を結んだ。
「見つかってから、知らなかったなんて言わないでね」
女子寝室へ向かう足音が、いつもより強く響いた。
キーノも立った。
「私は、見物には行かない」
「ええ」
「二人が勝手に決めたから、自分には関係ないなんて顔をするなよ。お前も、その紙を書いたんだ」
鬼太郎は畳んだ紙を見下ろした。
自分の名も、そこにあった。
◆
寝室の灯りが落ちても、ハリーは眠れなかった。
天蓋を見ていると、マルフォイの顔が浮かぶ。芝生でこちらを見下ろし、思い出し玉を持ち上げていた。
今度は、箒には乗れない。
枕元へ置いた杖に手をやった。
くすぐりの呪文なら、授業で一度はできた。先生の前ではなく、動く相手へ向けても、同じように唱えられるだろうか。
ハリーは口の中で、ゆっくり発音を確かめた。
向こうの寝台で、ロンが身じろぎする。眠っていないのは同じらしかった。
やめればいい。
ハーマイオニーには、そう言われた。鬼太郎が書いた条件でも、来なければ負けと書かれるだけだ。
けれど、明日、マルフォイに会ったときのことを考えると、布団の中で待っている方が嫌だった。
小さく、寝台が軋んだ。
「そろそろだ」
ロンの囁きがした。
ハリーは脚を下ろした。ローブを羽織り、杖を取る。
鬼太郎も、もう起きていた。
鞄へ何か入れ、留め具を確かめている。三人の目が合うと、彼は扉へ顔を向けた。
ほかの寝台を起こさないよう、ロンが先に歩いた。
ハリーは一度、振り返った。
ここへ戻ってきたときには、決闘は終わっている。
そう思っても、どちらが勝つところも、まだうまく浮かばなかった。
◆
階段の下では、暖炉の燃え残りが赤く光っていた。
鬼太郎は椅子の間を通り、肖像画の入口へ向かった。
昼間は埋まっていた卓が、今は空いている。ハリーたちの小さな足音だけが、先へ進んでいた。
鞄の中に、畳んだ紙がある。
同じ呪文を覚えていても、誰が先に出し、外れた後で何をするかは違うはずだった。二人の間にどのくらい差があるのか、まだ知らない。
鬼太郎は留め具へ指を添え、それから手を離した。
公平に判定する、と言った。
ハリーが勝つとは約束していない。二人が読んで名を書いた条件を、自分の興味で途中から変えるつもりもなかった。
ロンが肖像画を押し開ける。
夜の廊下から、冷えた空気が入ってきた。
ハリーが後へ続く。
鬼太郎も、二人を追って外へ出た。