第八十七話 留守の席にも、商いは続く
キーノが指で押さえていたのは、教科書の下から三行目だった。
鬼太郎はそこを読み、前の頁へ戻った。
「こちらで説明していることを、もう知っているものとして書いているのですね」
「やっぱり、そこか。読んだときは分かったつもりだったんだが」
キーノは紺色の帳面を引き寄せた。
先ほどまで窓の外で聞こえていた重い足音は、もう遠ざかっている。代わりに、荷車の車輪が石の継ぎ目を越える音がした。
鬼太郎が前の説明とのつながりを話すと、キーノは途中で一度止め、分からなかった言葉を尋ねた。
答えを聞いてから、自分の言葉で帳面へ書く。
「これなら、次に読んでも分かる」
「学校では、先生へ直接聞けますね」
「お前より、ちゃんと教えるだろうな」
「それは、僕も期待しています」
鬼太郎が笑うと、キーノも口元を緩めた。
次の頁には、まだ触れたことのない道具の使い方が載っている。
部屋の隅の箱には、それと同じ形のものが入っていた。
キーノは挿絵と箱を見比べ、続きを読み始めた。
◆
それから何日か、砦では朝の鍛錬と、机に向かう時間が交互に続いた。
鬼太郎は、谷で受けた爪の動きを紙へ書き残していた。
光で目を閉じさせても、相手の脚は止まらなかった。自分が声を出した場所から離れるだけでは、広く振られた爪の外まで出られない。
練習では光を出す位置と、その後の足の置き方を変えた。
土へ引いた線を越えたところで一度止まり、次に向ける掌と杖の位置を確かめる。速く動こうとして腕だけが遅れたときには、最初からやり直した。
同じ場所で、キーノは教科書を開いていることもあった。
鬼太郎が休む時間に質問をし、答えを聞くと自分の頁へ戻る。
森から来た小人が、川沿いの道に落ちた枝のことを伝えたのは、その最中だった。
「荷車は、少し上を通した。石を運ぶ方にも言ってある」
「ありがとうございます。僕が見に行く必要はありますか?」
「枝だけだ。罠じゃない。もう端へ寄せた」
小人はそう言って、返事を待つ間にキーノの本を覗いた。
挿絵の大鍋を見て、砦の調理場のものより小さいと言う。
「料理に使うんじゃないんだ」
キーノが説明すると、小人は首を傾げ、もう一度絵を見た。
鬼太郎は二人の声を聞きながら、土の線を足で消した。
自分を呼びに来る前に、道は直され、荷を運ぶ相手にも知らせが届いている。
窓の中の机には、留守中の連絡をまとめた紙が置いてあった。紙の上だけで決めたことが、少しずつ森の足音へ変わっていた。
◆
ボリス・マルコフが次の荷を持ってきた日、鬼太郎は門の内側に台を出して待っていた。
その横には、ゴブリンの石工がいる。
石工は積んだ包みを数え、台の脚が傾いていないか足元を確かめていた。少し離れた場所では、小人が薬草の籠から枯れ葉を取り除いている。
ボリスは二人へ目を向け、それから鬼太郎へ挨拶した。
「今日は、そちらも一緒か」
「ええ。僕が学校へ行った後も、受け渡しを続けられるようにしたいので」
鬼太郎は台の上の包みを示した。
「こちらの方々にも、直接確認していただきます」
ボリスは荷を下ろし、台の前へ立った。
石工が先に紐を解く。
薄い鱗が、布の間に分けて挟まれていた。ボリスはすぐには手を伸ばさず、石工へ顔を向ける。
「一枚、持って見てもいいか?」
「端を掴め。曲げるな」
指示されたとおりに持ち上げ、窓からの光へ透かした。
割れはない。縁にも、刃で無理に剥がした跡がなかった。
「これなら、今までと同じ買い手が取る。包み方も、このままでいい」
石工は頷き、別の包みを前へ出した。
こちらには乾かした糸が巻かれている。
ボリスは巻きの内側を確かめたいと告げた。石工だけでは答えず、糸を持ってきたアラクネが決めた扱い方を、脇の紙で確認する。
ほどいてよい長さを聞くと、ボリスはその範囲だけを伸ばした。
「湿りが残ると、店に着くまでに傷む。今度も、これくらい乾かしてくれると助かる」
「急いで出せと言われても、乾くまでは渡さん」
「その方がいい。傷んだ物を早く受け取るより、使える物を待つ」
ボリスは糸を戻し、持ってきた帳簿を開いた。
薬草の籠も、同じように中身を確かめる。
小人が採った日を伝えると、ボリスはその日付を記した。次に欲しい量を話したところで、小人は首を横へ振った。
「そんなに取れば、次が生えない」
ボリスは羽根ペンを止めた。
「では、出せる量は?」
小人が籠を指して答える。
ボリスは書いた数字を消し、書き直した。
顔の形も、身体の大きさも違う。
それでも、受け取る品を知り、渡せる量を決め、傷む扱いを嫌う相手だった。話を聞かなければ、次の荷が悪くなる。
ボリスにとっては、それで十分だった。
◆
品の確認が終わると、鬼太郎はボリスの帳簿が閉じられるのを待った。
「先日、教えていただいた密猟者の件ですが」
ボリスの手が止まる。
「来たのか」
「六人と、雇われた護衛が一人。全員、狩りました」
鬼太郎は、乾いた糸の包みを台の奥へ移した。
軽い物が重い鱗の下にならない位置へ置く。
ボリスはその手元を見た。
「護衛もか」
「ええ。あの方は、ほかの六人より手間がかかりましたね」
声は、品物の確認をしていたときと変わらなかった。
ボリスは口の中を一度湿らせた。
あの一団が戻らないことは、町でも少しずつ噂になるだろう。だが、帰りが遅いのか、別の獲物を追っているのか、まだ誰も確かめられてはいない。
その答えが、今、台の向こうにある。
「それと、今後はグロブニクさんも、この近くの道を見ることになりました」
ボリスの視線が上がった。
「北の谷の?」
「ご存じでしたか」
「名前と、近づかない方がいいという話はな」
大きな黒い獣がいる。入った者が帰らない。
そういう話を聞くたび、ボリスは買い手の欲しがる毛や牙の値段と、そのために必要な人数を考えたものだった。
今は、その獣が荷を運ぶ道にも出てくる。
鬼太郎は台の端へ地図を広げた。
「あなたが通る道と、顔は、先に知らせます。ですが、道を変える場合や、別の方を連れてくる場合は、事前に伝えてください」
ボリスは示された線を目で追った。
「途中で、あれに止められたら?」
「止まって、来た目的を伝えてください。確認が必要なら、こちらへ知らせが来ます。急ぐからといって、脇へ抜けたり、杖を向けたりしないように」
石工が地図の北側へ指を置いた。
「ここは通らん。谷の境だ」
「ええ。白い石の向こうへは、許可なく入らないでください」
鬼太郎はボリスへ目を戻した。
「買い手が素材の出所を見たいと言っても、連れてこない。罠を置かない。生き物を捕らえない。これまでのお約束も、守っていただきます」
「分かっている」
「あなたの商売は、続けていただきたいのですよ」
微笑みが添えられた。
ボリスは地図から顔を上げ、頷いた。
◆
最初の取引から、帳簿の数字は増え続けていた。
森へ狩り手を集める金がいらない。捕獲を待つ必要も、逃げられた損を埋める必要もない。
決めた日に来れば、使える品が揃っている。
本や薬や道具を頼まれれば、実費を受け取って仕入れる。売る素材そのものには仕入れ値がかからず、運搬と商売に必要な分を引いた後にも、十分な利益が残った。
以前なら、同じだけ儲けるために、何人の狩り手と揉めただろう。
台の向こうで、小人が薬草の籠へ蓋をしている。
石工は次の受け渡しの日を、鬼太郎と相談していた。
ボリスがこの場所を別の買い手へ売れば、一度はまとまった金になるかもしれない。だが、その後に残るのは、品を渡さなくなった森と、七人を狩っても静かに話す子供だった。
今の商売なら、次も、その次もある。
損得を並べるより先に、長く商売をしてきた勘が答えを出していた。
この相手には、逆らわない方が儲かる。
ボリスは、帳簿をもう一度開いた。
「町の方でも、少し話が出ている」
鬼太郎がこちらを見る。
「どのような?」
「ここから出した糸を買った店に、どこで手に入れたか聞きに来た者がいた。森だとは話していない。俺から仕入れたとだけ答えさせている」
ボリスは、取引先の反応と、問われた品の種類を順に話した。
高く買うと言って近づく者が、全員、長く買ってくれるとは限らない。品より、仕入れ先を欲しがる者もいる。
「今のところ、狩りに入る準備までは掴んでいない。そこは混ぜずに伝えておく」
「助かります。実際に動く話があれば、また教えてください」
「そのつもりだ。裏で買い手が替わったり、妙な品を集め始めたりしたら、それも知らせる。森へ入る話になってからでは、遅いこともある」
鬼太郎は、少し目を細めた。
「あなたの方から、そこまで聞かせてくださるのですね」
「ここの取引が止まれば、俺も困るからな」
ボリスは帳簿を指で叩いた。
「前より儲かっている。わざわざ、それを潰す気はない」
鬼太郎の笑みが深くなる。
「ええ。その方が、僕にとっても都合がよいです」
◆
留守中の受け渡しは、ゴブリンの石工が窓口を引き受けることになった。
毎日、門で待つ仕事ではない。
来訪する日と、持ってくる物を先に知らせ、石工の都合も確かめる。品を出す者へはそこから伝え、予定が合わなければ日を変える。
「俺が、お前の知らん物まで勝手に渡すことはないぞ」
石工が言うと、鬼太郎は頷いた。
「今まで渡していた種類と、その持ち主が認めた分だけで結構です。新しい品の話は、僕が戻ったときに相談しましょう」
ボリスは石工へ顔を向けた。
「足りないからと、その場で森へ採りに行くつもりもない。出せる分を先に知らせてくれれば、買い手へもそう伝える」
「薬草は、こちらが決める」
小人が籠を押さえた。
「分かった。今日と同じだ」
石工は、ボリスが持ってきた物資の包みを開いた。
頼んだ品と、添えられた金額を照らし合わせる。鬼太郎が一つずつ見ていた確認を、今度は横で行った。
ボリスも相手を急かさなかった。
次からは、この手が品を受け取る。
説明が曖昧なら、鬼太郎のいる日に戻ってきてもらうことになる。それは、ボリス自身の足を余計に使うことだった。
包みの内容を伝え、確認が済んだ物から脇へ寄せる。
最後に、情報を書いた紙を渡す場所も決めた。急ぎの知らせは受け渡しの日を待たず、砦へ届ける。
鬼太郎が帰るまで、全部を止める必要はなかった。
ボリスが素材を荷へ収めると、石工は自分で包みの数を確かめ、紐の端を渡した。
「次も、ここでだ」
「ああ。来る前に知らせる」
二人の間で交わされた返事を、鬼太郎は横から聞いていた。
◆
その数日後、ダンブルドアが砦を訪れた。
短い指導の後、食堂へ戻ると、キーノが机の端に揃えていた学用品へ目を向けた。
「こちらも、随分進んだようじゃな」
「まだ箱に戻していないだけだ」
キーノはそう答えながら、制服の入った包みを椅子の上へ移した。
ダンブルドアは向かいへ座り、鬼太郎が出した茶を受け取った。
「さて、汽車へ乗るために、英国へ行く段取りを決めておこう」
「ロンドンまでは、どう向かえばよいでしょう?」
鬼太郎が尋ねると、ダンブルドアは机の上へ指を置いた。
「汽車に乗る前日、ここのポートキーで、学校の外の指定地点へ来なさい。ワシがそこで待っておる」
指が、机の上を少し移る。
「そこから、前と同じ同行姿現しでロンドンへ。漏れ鍋に泊まり、翌朝、駅へ向かう。それなら、当日の朝に長い移動を抱えずに済む」
キーノが顔を上げた。
「学校の近くまで行って、またロンドンへ戻るのか?」
「うむ。そこへ着くポートキーを、もう持っておるからのう」
ダンブルドアは茶を一口飲んだ。
「汽車には、これから同じ学校で学ぶ子供たちが乗る。城へ着く前から、学校は少しずつ始まるものじゃ」
キーノは、机の上の教科書を見た。
自分と同じ物を鞄へ入れ、同じ駅へ向かう子供たちがいる。
「汽車の中で、話すこともあるんだな」
「もちろんじゃ。何を食べるか迷う時間も、窓の外を眺める時間もある」
キーノの目が明るくなった。
鬼太郎は彼女を見てから、ダンブルドアへ向き直る。
「では、その経路でお願いします。集合の時刻も、決めていただけますか」
ダンブルドアは頷き、紙を引き寄せた。
出発日と時刻、待ち合わせ場所を書き、三人が確認できる向きへ置く。
サーシェスも椅子の背から身を起こして覗いた。
「俺の動きは、別に詰めるぜ。坊主たちの汽車に合わせて、全部を決めるわけじゃねえ」
「ええ。そちらは別に相談しましょう」
鬼太郎が答えると、ダンブルドアも頷いた。
キーノは紙に書かれた時刻を、帳面へ写した。
◆
出発へ向けて荷物をまとめると、机の上が少し広くなった。
鬼太郎は森で使う物と、学校へ持っていく物を分けていた。留守中にも必要な道具を、まとめて鞄へ入れてしまわないよう、一つずつ置き場所を確かめる。
地図の脇には、次の取引の日が記されている。
その日は、自分が台の前へ立たない。
ボリスが荷を下ろし、石工が包みを開ける。薬草の量は、採ってきた者が決める。
鬼太郎はその紙を、砦に残す方へ置いた。
キーノは紺色の帳面を閉じ、銀の留め金を掛けた。
「これは、すぐ出せるところがいいな」
「汽車でも、使うおつもりですか?」
「何かあったら、書いておけるだろ」
キーノは鞄へ入れかけ、もう一度帳面を開いた。
最初の頁に、自分の名前と、ホグワーツの名がある。
その後ろには、砦で覚えた言葉が少しずつ増えていた。
まだ何も書いていない頁をめくると、指の下で羊皮紙が乾いた音を立てる。
「学校へ行ったら、もっと増えるな」
「ええ。僕の知らないことも、教えていただけるかもしれませんね」
キーノは顔を上げた。
「ちゃんと聞くならな」
「それは、ぜひ」
鬼太郎が答えると、彼女は満足そうに帳面を閉じた。
窓の外では、荷車が門を出ていく。
石工が道の先へ声を掛け、少し離れた木陰から返事が戻った。
鬼太郎はその声を聞きながら、机に残った教科書を手に取った。
持ち出す本の場所と、ここへ残す紙の場所が、ようやく決まった。
砦で続く商いの次の日付より少し先に、二人の汽車の時刻が書かれていた。