第88話 立会人
肖像画を戻すと、談話室の明かりが細くなり、消えた。
鬼太郎は廊下へ顔を向けた。
ハリーが小声でルーモスを唱える。杖先の光が、ロンの肩と、その先の石床を照らした。
昼間の話し声は、もうなかった。
ロンが角を確かめてから曲がる。ハリーが続き、鬼太郎も足音を抑えて歩いた。鞄の留め具へ手が触れ、金具が鳴らないよう、指を離す。
マルフォイが来ているかどうかは、まだ分からなかった。
来なければ、そこへ結果を書いて帰る。それも、本人が読んで署名した条件だった。
◆
キーノは、隣の扉が開く音で顔を上げた。
ハーマイオニーが廊下へ出てくる。二人とも、まだ寝間着にはなっていなかった。
「止めるのか」
「ええ。行く前に、もう一度」
彼女の返事を聞き、キーノも扉を閉めた。
談話室へ下りると、椅子は空いていた。暖炉の前にも、肖像画のそばにも、三人の姿はない。
キーノは歩みを速めた。
「先に出たな」
肖像画を押すと、外の廊下は暗かった。向こうの角に小さな光が見え、すぐに隠れる。
ハーマイオニーが杖を出した。
「追いつけるわ」
キーノは頷き、光が消えた方へ進んだ。
見物はしないと言った。
そのつもりは変わっていない。三人が始める前に追いつき、戻らせたかった。紙まで書いた鬼太郎なら、相手が来れば、そのまま始めるだろう。
走りかけたハーマイオニーの袖を、キーノは引いた。
「足音が響く」
彼女も気づいて歩調を落とす。
二人は歩幅を大きくして、角へ向かった。
◆
トロフィー室には、先客がいた。
マルフォイが棚の前から顔を向ける。クラッブは、入口から少し離れたところに立っていた。
「遅かったね、ポッター」
「約束の時間ですよ」
鬼太郎が答えた。
ハリーは杖の光を消し、マルフォイを見た。室内には壁際の明かりがあり、銀の杯や飾り皿の縁が鈍く光っている。
鬼太郎は棚から離れた床へ進んだ。
互いに近すぎず、後ろへ退く場所もある。転んだとき、すぐ展示台へ頭をぶつける位置は避けたかった。
二人へ立つ場所を示してから、鞄を下ろす。紙と筆記具を取り出したところで、入口から声がした。
「待ちなさい」
ハーマイオニーだった。
キーノも隣へ来て、まず二人の杖を見た。それから、鬼太郎へ目を向ける。
「戻るぞ」
「ついてきたの?」
ロンが聞いた。
「止めに来たのよ。二人とも、まだ何もしていないでしょう。今なら戻れるわ」
「僕は、約束どおりに来たんだ」
マルフォイが言った。
「ポッターが逃げるなら、僕は構わないけどね」
「逃げないよ」
ハリーの返事は、すぐだった。
キーノが鬼太郎へ近づく。
「お前も、帰るんだ」
「二人とも、始めるつもりのようですね」
「だから、それを――」
強くなりかけた声に、鬼太郎は入口へ目をやった。
「少し、声を落としていただけますか」
キーノが口を閉じた。
廊下に足音はなかった。だが、自分たちの声が、棚の並ぶ部屋で思ったよりよく響いている。
ハーマイオニーも、一度だけ後ろを見た。
「静かにしたら、始めていいことにはならないわ」
「ええ」
鬼太郎は答え、紙を二人へ向けた。
「ハリーさん、マルフォイさん。この条件で、まだ始める意思はありますか」
「ある」
「早くしてくれ」
二人から返事があった。
キーノは鬼太郎を睨んだまま、横へ退いた。ハーマイオニーはその場に残ったが、ハリーが指定された位置へ移ると、自分も杖先の向かない方へ下がる。
「危ないと思ったら、止めるから」
「僕も、そのつもりです」
鬼太郎は紙を棚から離れた台の端へ置き、筆記具を横へ揃えた。
開始と停止の合図、続けられなくなったときの終わり方。かけた呪文は解くこと。
短く確かめ直しても、二人は異議を言わなかった。
ロンとクラッブを脇へ下がらせ、鬼太郎も二人の間から外れる。
ハリーの指が、杖を強く握っていた。
マルフォイは少し脚を開き、ローブの裾を靴から離す。こちらを見ていた目が、ハリーへ戻った。
「僕が止めたら、それ以上は唱えないでください」
鬼太郎は二人の杖先を見た。
「始め」
◆
「リクタスセンプラ!」
ハリーが先に唱えた。
杖先へ光が集まりかけ、そのまま消えた。
手元を見る。
授業ではできた。言葉は同じだったはずなのに、杖を振る方が先に終わってしまった気がした。
「タラントアレグラ!」
マルフォイの声がした。
ハリーは横へ跳んだ。さっきまで立っていたところを光が抜ける。
何の呪文かは、分からなかった。
マルフォイが自分の杖先へ目をやる。その間に唱え直そうとしたが、着地した足が滑りかけ、言葉が喉で詰まった。
ロンが息を吸う音がする。
ハリーは足を揃え直した。
授業のとき、ロンは前に立っていた。こちらが発音を直している間も、先生の指示を待っていた。
今のマルフォイは、待ってはくれない。
杖がこちらへ戻る。
ハリーは肩へ力を入れ、相手を見たまま唱えた。
「リクタスセンプラ!」
今度は光が飛んだ。
マルフォイが身体を捻る。腕の辺りへかすめたところで、短い笑い声が漏れた。
当たった。
ハリーは一歩進みかけた。
「ロコモーター・モルティス!」
マルフォイの杖が足元を向いていた。
ハリーは脚を引き、身体を横へずらす。光は靴の近くを抜けた。
これも、知らない呪文だった。
今のが当たったら、どうなっていたのだろう。
マルフォイは唇を噛んでいた。笑いを抑えようとしているようだったが、杖は下げない。
「その程度の呪文なら、僕も使えるよ」
こちらへ向け直す。
「リクタスセンプラ!」
ハリーは上体を伏せた。
眼鏡が鼻の上でずれる。空いた手で戻しながら、すぐ相手を見た。
マルフォイは笑っていた。
くすぐりの効果が残っているのか、自分の格好を見ているのか、よく分からなかった。
ハリーは次の言葉を思い出そうとした。
同じ呪文を、もう一度。
分かっているのに、相手の杖が少し動くと、先に身体が引けた。
◆
鬼太郎は、二人の足を見ていた。
ハリーは避けてから、唱え直そうとする。だが、足を置き直すことと発音を揃えることが重なると、どちらも止まりかけた。
マルフォイは呪文を出せている。
しかし、外れると杖先を確かめる。避けた相手へ向け直すまでに、随分時間があった。
どちらも、その間に踏み込まれたら、どうするのだろう。
鬼太郎は二人の距離を見た。
今は、片方が長い言葉を唱え終わるまで、もう片方が待っているような時間がある。ハリーが自分の杖へ目を落としたときにも、マルフォイは次をすぐに出せなかった。
弱い。
見始めてから、それほど経っていなかったが、評価はもう変わりそうになかった。
背丈は、自分と大きく違わない。
だが、前に知っていた世界では、力が出なかった後で手元を眺めていれば、その間に次の一撃が来た。相手が言葉を思い出すのを、待つ理由もなかった。
ハリーとマルフォイは、まだ、それを必要としていない。
鬼太郎は口元を緩めかけ、やめた。
もう少し、動く相手へ何ができるか見られると思っていた。実際の二人は、その相手を見ながら、知っている呪文を出すだけで精いっぱいだった。
ハリーが避ける方向へ、また足を開いた。
マルフォイの杖が上がる。
ハリーは、それを見て身体を引いた。
まだ、声は出ていない。
マルフォイは一度上げた腕を下げ、足元へ向け直した。
「ロコモーター・モルティス!」
ハリーの脚が、動きかけた途中で止まった。
両脚が引き寄せられるようにくっつく。避けるはずだった方へ、上体だけが傾いた。
膝が床へついた。
空いた手をつき、肩まで倒れるのを防ぐ。ハリーは顔を上げたが、脚を開けず、身体を起こせない。
マルフォイの杖が、その顔へ戻りかけた。
「そこまでです」
鬼太郎が言った。
杖が止まる。
ハリーは床を押し、もう一度立とうとした。片脚を前へ出そうとしても、二本とも同じ方へ動いてしまう。
「ハリーさん。立って続けられますか」
ハリーは脚を見た。
右手には、まだ杖がある。
だが、身体は起きなかった。
「……無理だ」
「では、決めた条件どおり、マルフォイさんの勝ちです」
ロンが、ハリーのそばへ来た。
マルフォイは口元を上げる。息は、彼も少し速くなっていた。
「箒に乗るのとは、違っただろ?」
ハリーが相手を見た。
「今の呪文、授業ではやってない」
「家で覚えたんだよ。学校へ来るまで、何も知らなかった君とは違うんだ」
ハリーの手が、床の上で握られた。
鬼太郎はマルフォイへ向き直る。
「かけた呪文を、解いてください」
「分かってる」
マルフォイが杖を動かす。
ハリーの脚が離れた。ロンが腕を支え、彼は片足ずつ床へついて立ち上がった。
膝を伸ばすと、顔が少し歪む。
「痛めてない?」
ハーマイオニーが聞いた。
「大丈夫。ぶつけただけだよ」
ハリーは答え、脚を曲げて確かめた。
マルフォイが一度、声にならない笑いを漏らす。まだくすぐりの効果があるらしく、自分へ杖を向けて消した。
鬼太郎は紙を開き、結果を書き込んだ。
羽根ペンが紙を擦る音に、ハリーがこちらを見た。
自分の名と、負けたという文字。
紙を向けると、彼はしばらく読んでから頷いた。
次にマルフォイへ見せる。
「本当に、僕の勝ちにしたんだな」
「立って続けられなくなったのは、ハリーさんでしたから」
「まだ、杖は持ってたよ」
ロンが小声で言った。
鬼太郎は紙の条件を指した。
「それでも終えると、先に決めました。立てない相手へ、さらに唱えさせる必要はありませんね」
ロンは黙り、ハリーを見る。
「いいよ。僕も、読んでから名前を書いた」
ハリーが言った。
マルフォイの顔には、また笑みが戻った。
「聞いたか、ウィーズリー。ポッターは――」
「決闘は終わりました。そろそろ、戻りましょう」
鬼太郎は紙を取り上げ、乾いたことを確かめた。
「君に命令されることじゃない」
「ここに残っていても、勝ちは増えませんよ」
マルフォイが眉を寄せる。
クラッブは、もう入口の方を見ていた。鬼太郎がそちらへ目を向けると、廊下には人影がなかった。
「行くぞ」
マルフォイはローブを直し、ハリーへもう一度だけ笑いかけて出ていった。
クラッブの重い足音が続く。
遠ざかるまで、誰も話さなかった。
ハーマイオニーが、残った三人を見渡す。
「今度こそ、帰りましょう」
ハリーが頷いた。
鬼太郎も紙を畳み、筆記具と一緒に鞄へ戻す。キーノはその手元を見ていた。
「見たかったものは、分かったか」
「ええ」
「次は、昼間に先生のいるところでやれ」
鬼太郎は留め具を閉じた。
夜中の展示室で、相手を動かす呪文が外れた先まで確かめ続ける。自分が戦わなくても、見るべきところは多かった。
「その方が、場所も選べそうですね」
「場所だけの話じゃない」
キーノが睨む。
鬼太郎は彼女を見てから、入口へ顔を戻した。
自分の興味のために来たことは、変わらない。彼女が、それを分かった上で怒っていることも分かった。
◆
廊下へ出ると、ハリーは一度、膝を伸ばした。
もう、脚は自由に動いた。
それでも、足を出そうとしたのに出なかった感覚が残っている。
「惜しかったよ」
ロンが隣から囁いた。
「君のも当たってた。あいつ、笑ってたじゃないか」
「少しだけだよ」
ハリーは答えた。
最初は、呪文が出なかった。
次に出たときも、腕をかすめただけだった。もっとちゃんと当たっていれば、マルフォイは次を唱えられなかったかもしれない。
でも、彼には別の呪文が二つもあった。
自分は、同じものを繰り返すしかなかった。
ハリーは後ろを歩く鬼太郎へ顔を向けた。
「君には、どう見えた?」
相手の歩みが、少し緩んだ。
「ハリーさんは、避けた後で、足を置き直してから唱えようとしていましたね。その途中で相手の杖が戻ると、また避ける方へ動いていました」
「だって、何をかけられるか分からなくて」
「ええ。最後は、唱える前の動きで、先に避け始めていました」
ハリーは足元へ目をやった。
マルフォイの腕が上がった。
あのとき、もう声が来ると思った。避けようと脚を出した後で、杖先が下がったのだ。
「向こうは、分かってやったのかな」
「そこまでは、僕にも分かりません。ただ、それまでとは、唱えるまでの間が違いました」
鬼太郎は答えた。
「マルフォイさんも、外した後は、次に狙うところを決めるまで止まっていましたね」
「じゃあ、そこで唱えればよかった?」
「今夜は、ハリーさんも、その間に手元を確かめていました」
ハリーは口を閉じた。
相手にも、止まっている時間があった。
言われると分かるのに、そのときは、自分の呪文が出たかどうかしか考えられなかった。
「知ってるだけじゃ、駄目なんだな」
杖をローブへ収める。
箒を動かしたときのようには、いかなかった。
急いで唱えようとすると、言葉と手の動きがずれる。相手が動けば、さっき狙っていたところには、もういない。
明日も、授業がある。
止まっている相手へ呪文をかけるときにも、今夜のことは思い出すだろうと思った。
◆
鬼太郎は、ハリーが前へ向き直るのを見た。
マルフォイの勝ちだった。
使える呪文が多いことは、確かに役に立っていた。先ほどまでと違うものを向けられるたびに、ハリーは自分から唱えるより、避ける方へ動いた。
だが、その二つをハリーが覚えても、今夜見えた距離が消えるわけではなかった。
一つが外れた後、次を選ぶまでの時間。
相手へ近づかれたときに、自分の身体をどう動かすか。
二人とも、それより前のところで止まっている。
戦う相手としては、あまりにも遠かった。
鬼太郎は、前を行くハリーの背中を見た。
昼間、空で見た捕球の巧さは、変わらない。あの箒なら、マルフォイより速く動けたのかもしれない。
それと今夜の勝敗は、別だった。
弱いと口にしてみても、今さら確かめられるものは増えない。
明日になれば、二人はまた教室へ来る。言葉を思い出すまで立っていても、失敗した杖先を眺めていても、そこで次の一撃に命を奪われるわけではない。
鬼太郎には、その時間が随分長く見えた。
横から、キーノが顔を覗く。
「つまらなかったのか」
鬼太郎は彼女を見た。
先ほど返事をしてから、自分がどんな顔で歩いていたかまでは、意識していなかった。
「思っていたものとは、少し違いましたね」
「お前と同じように戦ってきたわけじゃない」
「ええ。それは、よく分かりました」
キーノはしばらくこちらを見てから、前へ顔を戻した。
ハーマイオニーが次の角を確かめている。ロンはハリーのそばを離れず、小声で何か言った。
鬼太郎は鞄を持ち直した。
立会人として引き受けた役目は、終わった。
畳んだ紙には、食卓で書いた三人の名と、その下へ足した結果が残っている。
ハリーに渡す勝ちは、そこにはなかった。