第八十八話 帰る場所に、足音を残す
出発の朝に持ち出す荷が、部屋の隅へ揃えられた。
キーノは紺色の帳面を鞄から出し、机へ戻した。
まだ書くことがある。
教科書も一冊だけ外へ残し、ほかは包み直した。制服は皺にならないよう畳んで、その上へ置く。
鬼太郎が窓のそばで地図を見ていると、キーノは鞄の口を開いたまま振り返った。
「これで、全部だと思う」
「今、使っている本も忘れないでくださいね」
「それは、最後に入れる」
彼女は机の上の本を指し、それから部屋を見回した。
買ってきた物を初めて並べたときには、床にも椅子にも包みがあった。今は机の脚まで見える。
「少なくなったな」
「荷物の中には、同じだけありますよ」
「分かってる。部屋の話だ」
鬼太郎は笑い、地図の端を押さえた。
入学の日は、遠くに置いた予定ではなくなっていた。
◆
残りの日々も、朝の鍛錬は続いた。
鬼太郎は、同じ動作を何度か重ねると、そこで手を止める。
光を出して離れる。杖を身体の近くへ戻し、空いた手を次の動きへつなぐ。
速さだけを求めて足元を見失った回は、紙へ印をつけた。
出発前だからと、急に新しい技を増やすことはしなかった。身体を疲れさせたまま長い移動へ出れば、学校へ着いた後の時間まで失う。
サーシェスが砦へ戻った日の午後には、食堂で当面の予定を話した。
彼の荷は、二人がまとめている学用品とは別に置かれている。
「俺は、しばらくこっちだ」
サーシェスは椅子へ座り、脚を伸ばした。
「町で受けられる仕事もある。学校の方から話が来たら、その中身を見て決める」
「では、今回は僕たち二人で向かいますね」
「ああ。駅まで送りに行く仕事は、受けてねえからな」
キーノが教科書から顔を上げた。
「お前たちが帰る前に、どこかへ行くこともあるのか?」
「仕事次第だ。ここにいねえときは、出る前に行き先と、戻る見込みを伝える」
サーシェスは鬼太郎へ目を向けた。
「俺がいれば、何でも片づくとは思うなよ、坊主」
「もちろんです。留守中の対応をお願いする場合も、その都度、相談します」
サーシェスは頷いた。
「あの犬にも、そう言っとけ。俺が谷まで呼びに走る役になった覚えはねえ」
「知らせを届ける方は、別に決まっていますよ」
「なら、そいつの方が足が速えだろうな」
彼が笑うと、キーノは呆れたように息を吐き、本へ視線を戻した。
鬼太郎は机の端の紙を引き寄せ、サーシェスの予定をほかの連絡と分けて記した。
◆
出発が近づくと、鬼太郎は森の道を歩いた。
キーノも、途中までは一緒だった。
川の近くでは、ヴィーラが水を汲んだ器を木陰へ置いていた。二人に気づくと立ち上がり、もう行くのかと尋ねた。
「出発は、明後日です」
鬼太郎が答える。
「留守中の知らせは、これまで相談したとおり砦へ。急ぎでなければ、僕が戻ったときに伺います」
ヴィーラは川の向こうを見た。
その先から、荷車の音が聞こえる。
「こちらの道に罠があれば、先に知らせる。見つけた者だけで外そうとはしない」
「ええ。助かります」
キーノが持っていた小さな袋を、持ち直した。
中には砦へ持ち帰る薬草が入っている。渡されたとき、乾かす場所と、湿らせない扱いを教わったばかりだった。
「これ、あの窓の近くでいいんだな?」
彼女が確かめると、ヴィーラは頷いた。
「夕方には、窓を閉じることを伝えて」
「分かった」
キーノは袋へ目を落とし、それから鬼太郎を見た。
「先に戻って、置いてくる。お前は、まだ回るんだろ?」
「ええ。糸の境界の方へも」
「じゃあ、本の続きは戻ってからだな」
キーノはそう言い、来た道を戻っていった。
鬼太郎はその背を見送ってから、川を離れた。
◆
アラクネの住処へ近づく道では、張られた糸が光を拾っていた。
鬼太郎は境界の外で足を止めた。
呼びかけて待つと、木々の間で脚が動いた。
「いなくなる前に、糸を見に来たの?」
「今日は、ご挨拶です。次の受け渡しは、石工の方にお願いしています」
「聞いたわ。量も伝えてある」
鬼太郎は頷いた。
アラクネは彼の持つ地図を見る。
「その紙を、まだ直しているの?」
「歩いてみると、使いにくい道もありますからね」
「こちらの端は、前に教えたままよ。そこを越えなければいい」
彼女は一本の木を示した。
鬼太郎は地図と見比べ、印を確かめる。
「学校へ行っても、あなたが決めたことは続くのね」
「続けられるようにしてから、出るつもりです」
鬼太郎は顔を上げた。
「砦も、手放すつもりはありません。帰ってきたときには、また取引のお話をしましょう」
アラクネはしばらく彼を見ていた。
それから、枝へ掛けていた糸を引き寄せる。
「なら、そのときに。今ある物を、先に全部渡す必要もないわね」
「ええ。次もありますから」
鬼太郎は微笑み、地図を畳んだ。
◆
採石場の外では、ゴブリンの石工が荷車の車輪を見ていた。
鬼太郎が近づくと、立ち上がり、門の方角を指す。
「ボリスには、次に来る日を伝えた」
「返事は?」
「その日でいいと。持ってくる物も書いて寄越した。受け取る物と一緒に、砦に置いてある」
鬼太郎は一度、荷車の中を見た。
石材の脇に、糸を包むための布がある。
「確認に困った物があれば、その場で決めなくて結構です。僕が戻ってからでも」
「知らん物を、知っている顔で渡さん」
石工は車輪へ手を戻した。
「前に見た物なら、分かる。数も確かめる」
「お願いします」
鬼太郎が答えたところへ、小人が道の向こうから来た。
石工へ、南の分岐を通った者が戻ったと伝える。
鬼太郎を見つけると、足を止めた。
「そちらへ言うところだったか?」
「いえ。今の知らせは、こちらの方へ渡していただければ」
小人は頷き、荷車の脇へ回った。
二人が道の様子を話している間、鬼太郎は少し離れて待った。
次の荷をいつ運ぶかが決まり、話が途切れる。
そこで鬼太郎は挨拶をし、北へ向かった。
◆
白い石の手前で、鬼太郎はグロブニクの名を呼んだ。
返事は、少し遅れて聞こえた。
岩の間から黒い頭が現れる。
グロブニクは境界まで来ると、鬼太郎の両手を見た。
「今日は何だ」
「明日、学校へ向かいます。その前に、お伝えしておこうと思いまして」
赤い右目が、彼の肩へ向く。
「戦いに来たのではないか」
「今日は、しません」
鬼太郎は楽しそうに答えた。
「次に戻ったとき、あなたも望まれるなら」
グロブニクは鼻を鳴らした。
「木を直すだけなら、もう知っている」
「ええ。同じ場所へ脚を置いてくださらないでしょうから、僕も考えています」
黒い前脚が、白い石のそばの土を掻いた。
「考えて来い」
「楽しみにしています」
鬼太郎は谷の奥へ目を向け、それから相手へ戻した。
「留守中も、知らせはここまで届きます。僕への連絡が必要なら、砦へ伝えてください」
「聞いた」
グロブニクは短く答えた。
鬼太郎も、それ以上は同じ話を重ねなかった。
少し前には、この境へ戻ってくるだけで、息を整える時間が必要だった。
今は二本の脚で立ち、次の約束を話している。
「では、また」
鬼太郎は軽く頭を下げた。
グロブニクが身を翻す。
黒い背が岩の間へ消えるまで見てから、鬼太郎も砦へ戻った。
◆
出発の朝、キーノはいつもより早く食堂へ来た。
食事を終えてから部屋へ戻り、最後まで読んでいた教科書を閉じる。
頁の間に挟んだ紙を確かめ、鞄へ入れた。
紺色の帳面は、すぐ手が届く場所へ。
机に残った羽根ペンも収めると、そこには何もなくなった。
キーノは掌を机へ置き、木目を一度撫でた。
この場所で、自分の名前を書いた。
分からない言葉に怒り、鬼太郎へ質問をし、覚えたことを帳面へ増やした。
彼女は鞄を持ち上げた。
廊下へ出ると、向こうの部屋から鬼太郎も出てきた。
「忘れ物は?」
「見た。全部ある」
「では、行きましょうか」
キーノは頷き、並んで階段を下りた。
門の内側の指定空間は、空けられている。
その外で、サーシェスが待っていた。
「学校へ持っていくには、でけえ杖だな」
鬼太郎の荷へ目を向け、笑う。
「選んでくださったので、仕方ありませんね」
「机にぶつけて折るなよ」
キーノが口を挟んだ。
「学校で使う杖を、学校へ着く前に折る奴がいるか」
「そいつなら、何をするか分からねえだろ」
鬼太郎は二人の声を聞きながら、荷の留め具を確認した。
「折らないようにします。戻ったとき、また練習にもお付き合いいただければ」
「そのときに決めるさ」
サーシェスが答える。
石工も門へ来ていた。
鬼太郎が挨拶をすると、頷き、空けてある場所を見た。
「ここへ荷を置かんことも、伝えてある」
「ありがとうございます」
「戻るときは、知らせろ」
「ええ。決まりどおりに」
キーノは、門の上へ目を向けた。
初めてここで眠った夜には、壊れたところから外の暗さが見えていた。
今は石が積まれ、屋根があり、朝の食事をした部屋がある。
背後で小人が、薬草を干す窓を夕方には閉めると話していた。
キーノはそちらを振り返った。
「湿るからな。忘れるなよ」
「聞いた。閉める」
返事を聞くと、彼女は鬼太郎の横へ戻った。
鬼太郎は時刻を確かめ、二人の荷が指定空間に収まっていることを見た。
学校の外で、ダンブルドアが待っている。
その先にはロンドンがあり、翌朝には汽車が出る。
キーノがポートキーへ手を伸ばした。
鬼太郎も手を添える。
「戻ったら、学校の話を聞かせろよ」
サーシェスが言った。
キーノは、少し顎を上げた。
「覚えておく」
鬼太郎は笑った。
次の瞬間、腹の奥を引かれる感覚が来た。
足元の石が遠ざかる。
門も、サーシェスの赤い髪も、二人を見ていた顔も、ひとつに流れた。
◆
門の内側には、誰もいなくなった場所が残った。
石工はしばらくそこを見てから、足元へ視線を戻した。
台を運び出すには、別の場所を通ればよい。
サーシェスは主棟の方へ歩き、小人は薬草を干した窓を見に行った。
石工は倉庫へ戻り、次の受け渡しに使う布を取り出す。
昼近く、糸の包みが届いた。
渡しに来た者が数を言い、石工が台の上へ並べて確かめた。帳面に残した数と合っている。
台の向こうに、いつもの子供はいなかった。
石工は自分で紐を結び直し、次に来る商人の荷へ積めるよう、包みを脇へ揃えた。
門の外から声がする。
南の道を通った小人だった。
「荷車は、夕方に来る。向こうの広い場所で待てるようにしてある」
石工は外へ出た。
「あれも通ったか」
小人は頷き、木々の間を指した。
土には、大きな爪の跡が残っている。
グロブニクが歩いた跡だった。
石工は荷車を迎える時間を確かめ、台へ戻った。
砦の中から、包みを置く音が聞こえる。
道では、次の知らせを届ける足音が遠ざかっていった。
空けておくよう言われた門の内側には、何も置かなかった。
帰ってくる者が、そこへ足を下ろせるように。
第五章 完