第89話 三つの頭、その足元
廊下の突き当たりで、ハーマイオニーが歩みを緩めた。
窓へ目を向け、それから先の階段を見上げる。昼間なら外の景色も目印になったが、今は暗いガラスに、こちらの小さな光が映っているだけだった。
「ここを上がれば、来るときの廊下へ戻れるはずよ」
「さっきとは、向きが違わない?」
ロンが手すりの上を見た。
「だから、確かめてるの」
鬼太郎も階段へ目を向けた。
上の踊り場には、廊下へ通じる入口がある。三人が先に段へ足を掛け、キーノが続いた。鬼太郎は少し後ろから上がった。
靴の裏で、石が低く震えた。
ハリーたちはもう、踊り場にいる。
鬼太郎が手すりへ寄ったところで、階段の先が壁から離れ始めた。
「また動くぞ」
ロンの声がした。
キーノが足を止める。彼女の立つ段ごと、ゆっくり横へ回っていった。
ハリーが一歩、こちらへ戻りかけた。
「飛び移らないでください」
鬼太郎は声を掛けた。
石の縁と踊り場の間には、もう隙間が開いている。ハリーは下を見て、足を引いた。
「そっちから、帰れる?」
ハーマイオニーが手すりへ寄った。
鬼太郎は、階段が向かう先を見た。別の廊下が、回るにつれて正面へ近づいてくる。
「こちらも、別の廊下へ出られそうです。寮で合流しましょう」
キーノが三人へ手を上げた。
ハーマイオニーは頷き、踊り場の奥を振り返る。その姿が、壁の向こうへ隠れた。
階段が止まるまで、二人は手すりの内側で待った。
石の端が廊下へ接し、足元の振動が消える。
鬼太郎が上へ進むと、キーノもついてきた。
壁には細長い絵が掛かっていた。鬼太郎は、その先の角を見た。授業の帰り、どこへつながるか確かめたことがある。
「こっちなら、分かるな」
キーノも絵を見ていた。
「ええ。先に戻って、待ちましょう」
彼女は一度、後ろの階段を振り返った。今は止まっているが、次にいつ、どちらへ動くかは分からない。
そこで待つより、先に伝えた場所へ戻る方がよかった。
二人は角を曲がった。
◆
ハリーは、踊り場から続く廊下へ入った。
燭台と古い扉が並び、少し先には鎧が立っている。昼間に見たことのある廊下とは、どこか違った。
「ここ、三階じゃない?」
ハーマイオニーが言った。
ロンが足を止める。
「三階の、どっち側だよ」
ハリーも壁を見た。
歓迎の宴で聞いた注意が、戻ってきた。
右側の廊下には、入らないこと。
入ってから、どこがその廊下か考えている場合ではなかった。
「戻ろう。階段のところで待てば、また動くかもしれない」
ハリーが向きを変えたとき、向こうから足音がした。
三人とも止まる。
ゆっくりした足音だった。角の先に、手で持ったらしい明かりが揺れた。
「ノックス」
ハリーは囁き、杖先を消した。
ハーマイオニーも杖を身体へ寄せる。ロンは鎧の陰へ身を寄せた。
「こっちだ、ミセス・ノリス」
フィルチだった。
今から戻ろうとした方にいる。
ハーマイオニーが奥を指した。ハリーは頷き、鎧から離れた。ロンも続く。
足音を抑えているつもりでも、靴底が石を擦る音がした。ハリーは後ろへ耳を澄ませながら進んだ。
すぐ曲がれる角はなかった。
壁際の扉へ手を伸ばす。
取っ手が止まった。
「開かない」
ロンも手を掛けた。引いた金具が、小さく鳴る。
「どいて」
ハーマイオニーが前へ出た。
杖を錠へ向ける。
「アロホモラ」
中で、かちりと音がした。
ロンが取っ手を回すと、今度は動いた。ハリーは隙間から身体を入れ、二人も続いた。
最後にハーマイオニーが、扉を静かに押し戻す。
廊下の明かりが、細い線になって消えた。
ハリーは息を抑えた。
ロンの肩がぶつかる。
狭かった。
もう少し前へ出ようとして、止まった。目の前に、大きな何かがいる。
頭の上から、温かい空気が下りてきた。
濡れた獣の匂いがする。
低い音が、足の裏まで伝わった。
ハリーはゆっくり顔を上げた。
目があった。
二つ。
少し横にも、二つ。
その先で、別の目が動いた。
窓から差す薄明かりが、濡れた鼻の縁を照らす。
犬だった。
ファングとは、比べものにならなかった。正面の頭だけでも、抱えることなどできそうにない。その両脇に、もう二つの頭があった。
三つとも、同じ身体から生えている。
真ん中の唇が持ち上がった。
牙が見えた。
ロンが息を吸う。声は、出なかった。
左の頭が下がり、その鼻先が、彼の頭上へ近づく。
ハリーは後ろへ手を伸ばした。
扉はすぐそこにあった。入ってから、ほとんど動いていなかったのだ。
「開けて」
声を絞る。
ハーマイオニーの腕が、背中の向こうで動いた。
犬の前脚が、床を擦った。
爪だけでも太い。肩の筋肉が動き、三つの頭が少しずつ違う方へ傾く。
ロンがハリーの腕を掴んだ。
扉が外へ開く。
三人は押し合うようにして廊下へ出た。唸り声が、背中のすぐ後ろから届く。
ハリーとロンが扉へ手をついた。
閉じる直前、隙間の向こうへ大きな鼻が近づいた。
ハリーは両腕へ力を込めた。
扉が枠へ収まる。
金具の鳴る音がした。
中から、爪が床を踏む音が届いた。
ハリーは扉から離れた。
ロンはもう、来た方へ走り始めていた。ハーマイオニーもついていく。
フィルチがいたはずの角に、今は明かりが見えなかった。
見えたとしても、あの扉の向こうへは戻りたくなかった。
ハリーは二人を追った。
踊り場へ着くと、別の方向から階段が動いてきていた。
ロンが先へ出かけ、ハーマイオニーが袖を掴む。
「止まってから」
ハリーも縁から足を引いた。
後ろの廊下を見て、それから、近づく石の段を見た。
接するまでの時間が、ひどく長かった。
◆
寮の肖像画に合言葉を告げると、婦人は不満そうに二人を見た。
「ずいぶん遅いお帰りね」
鬼太郎は開いた入口へ手を添え、キーノを先に通した。
談話室には、出発したときと同じように、小さな火が残っていた。
三人の姿はなかった。
キーノが入口に近い椅子を引く。
「ここで待つ」
「ええ」
鬼太郎も腰を下ろし、鞄を足元へ置いた。
手のひらから、まだ羽根ペンを握っていた感覚が抜けていない。紙に書いた結果も、二人の動きも、よく覚えていた。
キーノは入口を見たままだった。
「ハーマイオニーもいる。道が分からなくなっても、探すだろうが」
「向こうに残った廊下は、こちらからは見えませんでしたね」
鬼太郎は答えた。
三人がどちらへ進んだかまでは、分からない。今から階段へ戻っても、同じところへつながっているとは限らなかった。
暖炉の中で、小さく薪が崩れた。
キーノが組んだ脚をほどき、両足を床へつける。
それからしばらくして、入口の向こうで声がした。
肖像画が開く。
ハリーたちだった。
キーノが立ち上がる。
「遅かったな」
ロンは答えず、椅子の背へ両手を置いた。ハリーも胸へ手を当て、息を整えている。
ハーマイオニーは、二人の間から入ってきた。
「どうしました?」
鬼太郎も椅子を離れた。
「誰かに見つかったのか」
キーノが聞くと、ハーマイオニーが首を振った。
「フィルチは避けたわ。でも、もっとひどいものがいたの」
ハリーが椅子へ座った。
暖炉を見た目が、一度だけ大きくなる。目の前の火とは違うものを、思い出しているようだった。
「犬だよ」
ハリーは言った。
「すごく大きな犬。頭が、三つあった」
鬼太郎は彼を見た。
ロンが背もたれから片手を離し、膝へ擦りつける。
「部屋いっぱいだったんだ。あれ、僕たちくらいなら、一口だよ」
「どこにいたのですか」
「三階の、右側よ」
ハーマイオニーが答えた。
「入るなと言われた理由が、よく分かったわ」
鬼太郎は椅子を寄せた。
三人は、順番に話した。
階段が離れ、戻ろうとした方からフィルチが来たこと。避けて奥へ進み、鍵のかかった扉に行き当たったこと。
ハーマイオニーが開けた、その向こうにいたという。
ハリーは両手を広げかけ、すぐ下ろした。
「真ん中の頭が、僕の前にあった。横のは、ロンの上に来てて。三つとも、別々に動いたんだ」
「身体は、一つだったのですね」
「うん。前脚も見えた」
鬼太郎はその手元を見た。
いくらか大きさを伝えようとしても、広げた腕では足りないらしい。
「扉の外までは、追ってきませんでしたか」
「出る前に閉めたよ」
ロンが答えた。
「鼻が隙間に来そうだったから、二人で押した。それから逃げたんだ」
鬼太郎は頷いた。
聞いただけでは、どのくらい速く動くかは分からない。三人が部屋へ入ってから出るまでの、短い間に見た姿だった。
それでも、ハリーの声がまだ落ち着かない理由は分かった。
ハグリッドの小屋で、ファングに手を嗅がせていたときとは、まるで違う。
ハーマイオニーが二人へ顔を向けた。
「足元は、見た?」
「足元?」
ハリーが聞き返した。
「僕は、牙を見てたよ」
ロンが言った。
「あんなものの前で、床まで調べる余裕があったの?」
「調べたんじゃないわ。取っ手へ手を伸ばしたときに、見えたの」
彼女は自分の足元へ目を落とし、指で四角を示した。
「前脚の間に、床の扉があった。あの犬は、その上に立っていたのよ」
鬼太郎は彼女へ顔を向けた。
「床に、別の入口があったのですか」
「ええ。下へ開く仕掛け扉。きっと、何かを守っていたんだわ」
ハリーが椅子の背から身体を起こした。
「守ってた……」
ロンを見る。
「ハグリッドの包みかもしれない」
鬼太郎も、その話は聞いていた。
小屋にあった、銀行への侵入事件の記事。ハリーが横丁へ行った日と、事件の日付が同じだった。
「七百十三番の金庫に、小さな包みがあったんだ。ハグリッドは、学校の仕事で預かったって言ってた」
ハリーは続けた。
「学校に持ってきたなら、あの下かも」
「包みの中を見たわけでは、ないんでしょう?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「うん。でも、誰かが銀行まで入って探したものなら、ああやって守る理由もあるよ」
「同じ金庫かも、まだ分かっていないわ」
ハリーは黙り、暖炉へ目を戻した。
考えるのをやめた顔ではなかった。
鬼太郎は、今度は犬の方を思い浮かべていた。
三つの頭と、大きな身体。
それぞれの口が別々に向くなら、正面を避けただけでは足りないのだろうか。前脚を動かしてから、頭が届くまで、どのくらいあるのだろう。
さっき見た二人の決闘より、ずっと気になった。
十分に強いなら、向かい合ってみたい。
鬼太郎の指が、椅子の肘掛けへ掛かった。
ただし、今の話では、大きさと恐ろしさしか分からなかった。三人は逃げてきたのであって、強さを確かめてきたわけではない。
それに、その犬は校長が入るなと告げた場所にいる。
何かを守るために置かれているのなら、勝手に入って牙を向けられても、こちらへ襲ってくる敵とは同じにできなかった。
谷の白い石の向こうも、入る側が好きに決めてよい場所ではない。
鬼太郎はハーマイオニーを見た。
床の扉について、彼女が見たことは、ほかの二人の話にはなかった。犬の役目を考える材料にはなる。だが、それもまだ、確かめた答えではなかった。
まずは、校長へ聞こう。
何者で、どうしてそこにいるのか。
戦う相手になり得るかどうかは、その後だった。
「戻るつもりか」
横から、キーノの声がした。
彼女はハリーたちへ聞こえにくいよう、少し身を寄せていた。
「犬のことも分からないうちに、戻るつもりはありませんよ」
「戦いたそうな顔をしてる」
鬼太郎は彼女を見た。
今夜の決闘の後にも、何を考えているか尋ねられた。今は、同じ答えにはならなかった。
「ええ。強い相手でしたら、一度は試してみたいですね」
「あいつらがいるところでか?」
「いいえ。周りに誰もいないところで、力を出せるのでしたら」
狭い部屋に仲間がいれば、火も風も、向ける先が限られる。三つの頭が動くところへ、ハリーたちを立たせたまま試すつもりはなかった。
キーノの目が細くなった。
「そのために、犬をどうにかする気なのか」
「先に、校長先生へ確認します。あの場所にいるなら、何もご存じないとは思えませんので」
「聞くのは、戦っていいかどうかだけじゃないよな」
「どんな生き物で、何をしているのかも。役目があるなら、勝手に手を出して、邪魔をするわけにはいきませんね」
鬼太郎は答えた。
キーノは、こちらの手元へ目を向けた。肘掛けに置いた指は、もう動いていない。
「勝手に見に行くなよ」
「ええ。先に伺います」
彼女はしばらく顔を見ていたが、それ以上は言わず、背もたれへ身体を戻した。
鬼太郎も椅子を離れるつもりはなかった。
三人が自分の見ていないものを見てきた。話を聞けば聞くほど、確かめたいことが増えていた。
明日は、校長がどこにいるか、取り次ぎを頼んでみようと思った。
◆
ハリーは、窓の黒いガラスへ目を向けた。
今夜は、マルフォイに負けた。
その後も膝には痛みが残っていたはずなのに、あの犬の前では、脚をくっつけられたことまで頭から消えた。
三つの鼻と、その下の牙。
あんなものを置いて守るほど、大事な何かが、床の下にある。
ハグリッドが言えないと答えた、学校の仕事。
校長が、入るなと告げた廊下。
関係があるように思えた。一つに結びつくと、別々にして考える方が難しかった。
ロンが立ち上がる。
「もう寝ようよ。朝になったら、また授業だ」
「そうね」
ハーマイオニーも椅子を離れた。
そのままは行かず、ハリーとロンを見る。
「次は、出かける前に考えて。今日だけで、何度危ない目に遭ったと思ってるの?」
「犬のことなんか、知らなかったよ」
ロンが言った。
「私だって知らなかったわ。何があるか分からないから、やめようって言ったのよ」
ハリーは返事をせず、椅子を戻した。
キーノも立ち、ハーマイオニーと女子寝室へ向かう。
鬼太郎は足元の鞄を持ち上げた。
彼は、あの犬を見ていない。
それなのに、話を聞いても、逃げてきた三人とは違う顔をしていた。
何を考えていたのか、ハリーには分からなかった。尋ねようかと思って、やめた。今は、もう一度あの部屋を思い出して話したくはなかった。
寝室へ上がり、ローブを脱ぐ。
マルフォイの知らないところで、もっと大きなものを見つけてしまった。
ハリーは寝台へ横になった。
目を閉じると、まだ犬の頭が浮かんだ。その下には、自分が見落とした床の扉があった。