神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

90 / 98
第六章
まだ知らない朝の、手前で


 

第八十九話 まだ知らない朝の、手前で

 

 足が地面へ触れたとき、キーノは荷物を抱え直した。

 

 砦の石床とは違う。

 

 靴の下で土が沈み、顔を上げると、少し離れた場所に若い顔の男が立っていた。

 

 長い白髭はなく、地味な旅装をしている。横丁で買い物をしたときと同じ、若い頃の姿だった。

 

 その目が細まり、二人を迎える。

 

「無事に来られたようじゃな」

 

 声を聞いて、鬼太郎も足元を確かめた。

 

 登録の際に往復した場所だった。周りへ荷を散らさず、二人とも決めた空間へ着いている。

 

「お待たせしました」

 

「予定の時刻どおりじゃよ」

 

 ダンブルドアはキーノの顔を見た。

 

「気分はどうですかな、キーノさん」

 

「平気だ。前にも使ったからな」

 

 そう答えてから、キーノは周囲へ目を向けた。

 

 今度は試しに来ただけではない。

 

 この近くにある学校へ、明日、入る。

 

 ダンブルドアが荷の数を確認している間、彼女は背を少し伸ばし、遠くを見ようとした。

 

「城は、ここから見えるのか?」

 

「ここでは、よく見えんじゃろう。明日は、ちゃんと近くから見ることになる」

 

「汽車を降りてから?」

 

「うむ。最初に見る景色は、そのときの楽しみに取っておこう」

 

 キーノは、もう一度だけ向こうを見た。

 

 鬼太郎はその隣で待っていた。

 

 自分にも、学校で過ごした記憶はなかった。

 

 砦では読めなかった本や、直接確かめられなかった仕組みを知る者が、この近くにいる。

 

 長い時間をかけて、一つの分野を調べてきた者たちだ。

 

 鬼太郎は黒檀の杖を収めた位置へ手を当てた。

 

 それを使って覚えた二つの呪文だけでも、谷での戦い方は変わった。

 

 まだ、その先がある。

 

     ◆

 

 同行姿現しの窮屈さは、ポートキーとは別だった。

 

 キーノは身体を強く押し縮められる感覚に息を詰め、離れた瞬間に、ようやく空気を吸った。

 

 今度の足元は固い。

 

 ダンブルドアは二人が荷を持ち直すのを待ち、人目を避けて着いた場所から先へ案内した。

 

 やがて、街の音が近づいてくる。

 

 車の音。人の声。建物の間を流れる、森とは違う空気。

 

 漏れ鍋の入口へ着いたとき、キーノは扉の前で一度足を止めた。

 

 ここから横丁へ行ったことがある。

 

 だが今日は買い物ではなく、明日の朝を待つために来た。

 

 扉が開くと、話し声と食べ物の匂いが流れてきた。

 

 ダンブルドアは人々の席の間を通り、カウンターの前で足を止めた。

 

「宿に泊まるときは、まず、部屋があるか尋ねる。人数と、何泊するかを伝えるんじゃ」

 

 静かな声で二人へ話し、鬼太郎へ場所を譲る。

 

 鬼太郎はトムへ、二人で一泊することと、一人ずつの部屋を希望することを伝えた。

 

 空いている部屋と料金を聞き、夕食と翌朝の食事についても確かめる。

 

 キーノはその横で、鍵と階段の位置を見ていた。

 

「明日の朝は、駅へ行くからな。食事は早く取れるか?」

 

 彼女が尋ねると、トムは用意できる時刻を答えた。

 

 鬼太郎は支払いを済ませ、渡された二つの鍵の片方をキーノへ差し出す。

 

 ダンブルドアはそのやり取りを見届けてから、二人と階段を上がった。

 

 鬼太郎とキーノはそれぞれの部屋に荷を置き、廊下へ戻った。

 

 外から差す光は、まだ昼の明るさだった。

 

 翌朝までの時間が、ここで始まった。

 

     ◆

 

 乗車の話は、落ち着いて座れる場所で聞いた。

 

 ダンブルドアは、汽車がキングズ・クロス駅から十一時に出ることを確認した。

 

 九と四分の三番線への入り方も、二人が迷わないよう説明する。

 

 キーノは帳面へ時刻を書き、駅の名前の下へ線を引いた。

 

「そこへ行けば、ほかの生徒もいるんだな」

 

「ええ。荷物を持った子供たちと、その家族がいるでしょう」

 

「二人とも、学校までは汽車に乗る。その後は、案内に従えばよい」

 

 ダンブルドアが続けると、キーノは頷いた。

 

 鬼太郎は彼女が書き終えるのを待って、口を開いた。

 

「先生方は、それぞれ別の分野を教えていらっしゃるのですね」

 

「そうじゃ。教科書にも、いくつか目を通したじゃろう?」

 

「ええ。ただ、本で説明されていることを、僕が正しく理解しているかまでは確かめられませんから」

 

 鬼太郎は、持ってきた教科書の一冊へ目を落とした。

 

「呪文の構造を知る方、物の姿を変えることに詳しい方、薬の作用を知る方。違うものを深く調べた方々へ、直接伺えるのは楽しみです」

 

 キーノが横から彼を見た。

 

「お前も、そんな顔をするんだな」

 

「どのような顔です?」

 

「学校へ行くのを、楽しみにしている顔だ」

 

 鬼太郎は微笑んだ。

 

「楽しみですよ。僕も、通ったことがありませんから」

 

 ダンブルドアは、その答えを聞いて茶碗を置いた。

 

「教師たち全員へ、戦いを申し込むつもりではあるまいな」

 

「あなたのような方が、何人もいらっしゃるとは思っていません」

 

 鬼太郎の声には、自然な弾みがあった。

 

「ですが、あなたが普段扱わないことを、よく知る方はいらっしゃるでしょう。僕がまだ考えついていない使い方も、あるかもしれません」

 

 小枝が戻る途中の、ほんの短い時間。

 

 白い光を終えた後の、相手の見えない一瞬。

 

 教わったことを磨くだけでも、前には作れなかった隙ができた。

 

 鬼太郎はダンブルドアへ目を戻した。

 

「今以上に強くなれるかもしれない。そのために使えるものを、もっと知りたいのです」

 

 ダンブルドアは少し黙っていた。

 

 この子供が期待しているのは、机を並べて笑い合う時間だけではない。

 

 学ぶものの行き先に、爪と炎の届く距離がある。

 

「知ったことを、すぐ誰かへ試そうとはせんことじゃ」

 

「授業で教わった手順も、使う場所も、確かめますよ」

 

「その『場所』を、生徒のいる廊下にせぬように」

 

 キーノが顔をしかめた。

 

「それくらい、お前も分かってるだろ」

 

「ええ。学ぶ場所を失っては、困りますからね」

 

 鬼太郎が答えると、ダンブルドアは眉の上を指で押した。

 

 キーノは帳面へ視線を戻したが、口元には笑みが残っていた。

 

     ◆

 

 話を終えると、ダンブルドアは席を立った。

 

「ワシは、ここで失礼する。明日、生徒を迎える準備が、まだ残っておるのでな」

 

「お忙しいところ、ありがとうございました」

 

 鬼太郎も立ち上がる。

 

 キーノは帳面を閉じた。

 

「明日は、学校にいるんだな」

 

「ええ。次は、城で会いましょう」

 

 ダンブルドアは二人を見て、口元を緩めた。

 

「今日のうちに、荷物をもう一度確かめておくこと。夜更かしも、ほどほどに」

 

 短い挨拶を交わし、若い姿のまま階段を下りていく。

 

 鬼太郎はその背を見送り、窓の外へ目を向けた。

 

 通りには、まだ長い午後が残っていた。

 

     ◆

 

 横丁へ出る前に、二人は荷物を部屋へ置いた。

 

 持ち歩く物だけを確かめ、鍵を掛ける。

 

 裏庭では、鬼太郎が杖を取り出した。

 

 覚えている煉瓦を順に叩くと、壁が動き、向こうの通りが開けた。

 

 キーノは彼の隣から、人の流れを見た。

 

 新学期を前に、包みを抱えた親子が歩いている。店先へ顔を向けながら進む者も、買い忘れた物を急いで探す者もいた。

 

「今日は、買う物はないんだな?」

 

「必要な物は、揃っています。気になったところを見て歩きましょうか」

 

 キーノは頷いた。

 

 前に来たときは、次に行く店が決まっていた。

 

 今日は本屋へ急ぐ必要も、制服の寸法を測ってもらう必要もない。

 

 彼女は通りへ出て、すぐ隣の窓へ目を向けた。

 

     ◆

 

 鬼太郎が立ち止まったのは、箒を並べた店の前だった。

 

 磨かれた柄が、窓の中で光っている。

 

 同じ箒でも、柄の太さや枝の束ね方が違った。説明の札には、速さや扱いやすさに関する言葉が並んでいる。

 

 鬼太郎はそれを読み、店へ入った。

 

「お尋ねしてもよろしいですか」

 

 店主が顔を上げる。

 

「この箒は、なぜ浮くのでしょう?」

 

「飛べるように魔法をかけてあるからだよ」

 

「乗る方が、ずっと呪文を使い続けるのではなく?」

 

「そう。箒に働きが持たせてある。乗り手が扱いを覚える必要はあるがね」

 

 鬼太郎は、壁の箒へ視線を戻した。

 

 杖を向け、発声し、その場で何かを起こす。

 

 それとは違う形で、物の中に働きが残っている。

 

 鞄の内側が広がっていることも知っていた。だが、それが別の物で、別の動きになって目の前へ置かれると、また確かめたいことが増えた。

 

「触れてみても?」

 

「そちらの見本なら。店の中で飛ばそうとしないでくれよ」

 

 鬼太郎は頷き、示された箒の柄へ手を置いた。

 

 木は滑らかで、指の下には細かな木目がある。

 

 触っただけで、仕組みが分かるわけではない。

 

 彼は店主が支えた見本を持たせてもらい、重さを確かめた。

 

「乗る人の重さが変わっても、浮くのですね」

 

「もちろん。ただ、扱いやすさには差がある。初めてなら、速い物を選べばいいというものじゃない」

 

「学校で習ってからの方が、選びやすそうですね」

 

 鬼太郎が答えると、店主は同意した。

 

 キーノは傍らで、彼が柄を戻すのを見ていた。

 

「買いたくなったのか?」

 

「どう作るのか、知りたくなりました」

 

「そっちか」

 

 彼女が呆れたように言うと、鬼太郎は笑った。

 

 店を出てからも、彼の目は店先の品へ向いた。

 

 別の店では、触ってよい見本か確かめてから、魔法で動く道具を手に取った。店の者に使い方を示してもらい、自分でも一度だけ同じ扱いをして、元の場所へ戻す。

 

 買い物袋は増えなかった。

 

 代わりに、尋ねたいことが増えていった。

 

     ◆

 

 キーノが足を止めたのは、紙と筆記用品を並べた店先だった。

 

 窓の中に、色の違うインク瓶がある。

 

 紺色の帳面には、今まで黒い文字ばかりを書いていた。ここには赤や緑もあり、瓶の札の文字まで、それぞれ違う色で記されている。

 

「これで、大事なところだけ分けて書けるな」

 

 キーノは窓へ少し近づいた。

 

 鬼太郎も札を見る。

 

「後から探すには、便利そうですね」

 

「全部違う色にしたら、余計に分からなくなるだろうが」

 

 彼女は赤い瓶と、隣の深い青の瓶を見比べた。

 

 少し考え、今あるインクを使ってからでいいと、窓を離れる。

 

 次に目を引いたのは、本屋の店先に並んだ挿絵だった。

 

 教科書で見たような、形を説明するための絵ではない。

 

 小さな人物が描かれた頁の上で、帽子を取り、また被っている。

 

 キーノはしばらく、その動きを追った。

 

「いつも、同じことをしてるのか?」

 

 店の者が、見本を持ち上げてくれた。

 

 手を伸ばしてよいと聞いてから、キーノは頁の端へ触れた。

 

 紙は普通の紙のようだった。

 

 その上で、帽子を被った人物が、こちらへ向き直る。

 

 キーノの口元が緩んだ。

 

「帳面に描いたら、動くようになるのかな」

 

「描くだけでは、動かないでしょうね」

 

「分かってる。そうする方法があるのかってことだ」

 

 鬼太郎は見本を覗き込み、彼女へ目を戻した。

 

「学校で聞いてみたいことが、できましたね」

 

 キーノは頷いた。

 

 その後も、窓の中の物を指しては歩いた。

 

 鬼太郎の方が先に止まることも、彼女が先に店を覗くこともある。

 

 次にどこへ行くかを、二人で決めていた。

 

     ◆

 

 午後の通りを歩いていると、アイスクリームを持った子供とすれ違った。

 

 キーノの視線が、その手元へ一度向く。

 

 鬼太郎は少し先の店へ目を向けた。

 

「ひと休みしませんか」

 

 フローリアン・フォーテスキューの店の前には、椅子と小さな卓があった。

 

 キーノは並んだ味の名前を見て、今度は自分から近づく。

 

「これ、苺か?」

 

「ええ。こちらはチョコレートですね」

 

 鬼太郎は、彼女が二つを見比べるのを待った。

 

 キーノが苺を選ぶと、自分の分も頼み、代金を払う。

 

「いいのか?」

 

「ええ。僕がお誘いしたので」

 

 キーノは受け取ったアイスを見てから、席へ座った。

 

 通りを歩く人々の荷物が、卓の向こうを行き過ぎる。

 

 一口食べると、冷たさの後に甘さが広がった。

 

 キーノは目を細め、もう一口食べる。

 

 鬼太郎はその様子を見て、自分の分へ匙を入れた。

 

「今日は、ゆっくり見られたな」

 

「ええ。時間を気にして店を出なくてよいのは、悪くありませんね」

 

 キーノは頷いた。

 

 膝の上に買い物の包みはない。

 

 明日持っていく物は、宿の部屋で待っていた。

 

     ◆

 

 漏れ鍋へ戻ったのは、通りの光が傾き始めてからだった。

 

 部屋へ一度戻り、夕食の時間に下へ降りる。

 

 キーノは空いた席を探していて、厨房の入口の方へ顔を向けた。

 

 緑色の丸い物が、籠の中で動いていた。

 

 葉が開く。

 

 その間から、白い歯のような物が見えた。

 

 キーノの足が止まる。

 

「……今、噛んだぞ」

 

 調理する者が、長い道具で籠の中の一つを押さえていた。

 

 丸い野菜はそれへ噛みつこうとし、器用に向きを変えられる。

 

 鬼太郎は彼女の視線を追った。

 

「動きますね」

 

「見れば分かる!」

 

 トムが二人に気づき、空いた卓を示す。

 

 キーノはその前に、厨房の籠を指した。

 

「あれ、食べる物なのか?」

 

「かみかみキャベツだよ。下ごしらえをしてから煮るんだ。皿の上で客へ噛みつかせたりはしないさ」

 

 トムは慣れた口調で答えた。

 

 その向こうでは、押さえられた野菜が別の容器へ移されていた。

 

 キーノは眉を寄せる。

 

「そこまでしなくても、普通のキャベツがあるだろ……」

 

「どのように動くのでしょうね。根から離れても、あれだけ動けるとは」

 

 鬼太郎の声は楽しそうだった。

 

 キーノが振り返る。

 

「お前、面白がってるな」

 

「面白いですよ。調理する方は、扱いもよくご存じのようですし」

 

「箒屋と同じ顔をするな」

 

 鬼太郎は笑い、席へ向かった。

 

 キーノは厨房から少し遠い方へ座る。

 

 料理を頼むときには、添える野菜を確かめてから選んだ。

 

 皿が運ばれてくると、最初に中身を見る。

 

 何も動いていない。

 

 向かいの鬼太郎は、それを見てから穏やかに尋ねた。

 

「明日は、窓側へ座りたいですか?」

 

「空いていればな」

 

 キーノはようやく匙を取った。

 

「どんなところを通るのか、見たい」

 

「僕も、まだ知りません」

 

「分かってる。一緒に見るんだ」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

 食事の間、キーノは店の挿絵や、汽車の窓から見える景色のことを話した。

 

 鬼太郎も箒について聞いたことを話す。

 

 その日のうちに答えが出なかったことが、幾つもあった。

 

 学校へ持っていく荷物には、入っていないものだった。

 

 食事を終え、階段を上がるときにも、キーノは教室で何が見られるのかを考えていた。

 

 夜、部屋の扉を閉めると、周囲が静かになった。

 

 階下から声が聞こえる。

 

 けれど、誰が話しているかは分からない。

 

 キーノは鞄を開き、制服の包みを取り出した。

 

 明日、これを着る。

 

 ほかの子供も、同じ服を着ている。

 

 そこまで考えたところで、彼女の手が止まった。

 

 客の話では、学校へ行く子供には友達がいた。

 

 息子が誰と遊んだ。娘が誰と喧嘩した。次の日には仲直りしていた。

 

 その声を、檻の中から聞いていた。

 

 自分が外へ出た後、その輪へ入る方法までは、誰も話さなかった。

 

 キーノは制服を膝の上へ置いた。

 

 汽車で同じ席になったら、何を言えばよいのだろう。

 

 名前は言える。

 

 その次は。

 

 どこで暮らしていたか聞かれたら、砦の話をすればよいだろうか。もっと前を聞かれたら。

 

 学校へ行くまで、何をしていたのか。

 

 父や母は、どんな人なのか。

 

 胸の奥が、急に窮屈になった。

 

 ダンブルドアは、彼女を一目見て普通の人間ではないと分かった。

 

 ほかの誰かも、分かるかもしれない。

 

 吸血鬼との混血だと知ったとき、隣に座っていた子供が席を離れたら。

 

 入学を認めた書面には、血筋だけを理由に在籍を取り消さないとある。

 

 だが、その紙は友達を作ってくれるものではなかった。

 

 キーノは制服の端を握り、すぐに緩めた。

 

 皺をつけたくなかった。

 

 綺麗に畳み直してから、帳面を開く。

 

 明日の時刻が書いてある。

 

 名前を伝えた後の言葉は、どこにも書いていなかった。

 

     ◆

 

 鬼太郎の部屋の扉を叩くと、少しして返事があった。

 

 中では、本が机の上に開かれていた。

 

 キーノが入ると、鬼太郎は読んでいた頁へ紙を挟む。

 

「どうしました?」

 

「……少し、聞いていいか」

 

「ええ」

 

 鬼太郎は椅子を引き、自分は寝台の端へ座った。

 

 キーノは椅子へ腰を下ろしたが、すぐには話さなかった。

 

 昼には、あれほど話したかった学校のことだ。

 

 今は、一つ目の言葉がなかなか出てこない。

 

 鬼太郎は待っていた。

 

「学校の子が、私のことを知ったら」

 

 キーノは膝の上で指を組んだ。

 

「吸血鬼の血が混じってるって、分かったら……どう思うんだろうな」

 

 鬼太郎の視線が、彼女の手へ一度落ちる。

 

「相手によるでしょうね」

 

 キーノは目を上げた。

 

 彼は、平気だとすぐには言わなかった。

 

「僕には、まだ会っていない方の答えは分かりません。知らないものを怖がる方も、気にせず話す方もいると思います」

 

「お前は、気にしなかった」

 

「僕は、キーノさんを見ていましたから」

 

 キーノは黙った。

 

 あの場所で、鬼太郎が自分の何を見ていたのかは覚えている。

 

 それを、学校の子供たちも見るとは限らなかった。

 

「普通の子と、話したことがないんだ」

 

 彼女は続けた。

 

「客が自分の子供の話をしてるのは、聞いた。でも、私が一緒に話したわけじゃない。何を言えばいいか、分からない」

 

「今日、汽車の窓から何が見えるか、僕に話してくださいましたね」

 

「あれは、お前だからだ」

 

「ええ。ですから、同じように話せるまで、少し時間がかかるかもしれません」

 

 鬼太郎は、机の本を脇へ寄せた。

 

「僕も、学校の席でどう話すものか、経験していません。明日、座ってみなければ分からないこともあります」

 

「お前まで、それじゃ困る」

 

「そのときは、一緒に困りましょうか」

 

 キーノは彼を見た。

 

 冗談めいた声だったが、彼女の不安を面白がっている顔ではなかった。

 

「……友達ができるかも、分からないんだな」

 

「約束はできません」

 

 鬼太郎は穏やかに答えた。

 

「ですが、今日ここで、できないと決める必要もないでしょう」

 

 キーノは息を吐いた。

 

 誰にも会っていない。

 

 窓の景色も、城も、授業も、まだ見ていなかった。

 

 怖くなったからといって、それを全部、見たくなくなったわけではない。

 

「名前の次に、何を言えばいいんだろうな」

 

「相手の名前を聞いてみては?」

 

 キーノは一度瞬きをした。

 

 それから、少し顔を伏せる。

 

「……そうか」

 

「そこから先は、相手も何か話すかもしれません」

 

「私だけで、全部考えなくてもいいのか」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

 キーノの指がほどける。

 

 胸の窮屈さは、まだ残っていた。

 

 けれど、名前を伝えて、相手の名前を聞く。その短いところまでなら、思い浮かべられた。

 

     ◆

 

 部屋へ戻る前、キーノは扉のそばで立ち止まった。

 

「お前は、本当に楽しみなんだな」

 

「ええ」

 

 鬼太郎はすぐに答えた。

 

「この本で分からなかったところを、明日からは、詳しい方へ尋ねられます」

 

「授業は、着いてすぐじゃないだろ」

 

「そうでしたね。では、その次から」

 

 キーノは小さく笑った。

 

 学校を楽しみにしている理由は、自分と同じではない。

 

 それでも、初めて向かう場所を待っているのは、同じだった。

 

「汽車で、変なことを言うなよ」

 

「例えば?」

 

「会ったばかりの奴に、強くなれるかとか、戦えるかとか聞くな」

 

 鬼太郎は少し考えた後、微笑んだ。

 

「まずは、お名前ですね」

 

「そうだ」

 

 キーノは頷き、扉を開けた。

 

「明日の朝、遅れるなよ」

 

「キーノさんも、今夜は休んでくださいね」

 

 廊下へ出ると、階下の声は少なくなっていた。

 

 キーノは自分の部屋へ戻り、制服の包みを鞄の上へ置いた。

 

 もう一度中身を全部出すのはやめた。

 

 帳面を開いて、書いてある時刻を確かめる。

 

 その下の空いたところへ、短く書き足した。

 

 名前を聞く。

 

 文字を見ていると、少し可笑しくなった。

 

 それでも、消さなかった。

 

 帳面を閉じ、明日の荷物へ戻す。

 

 隣の部屋でも、やがて本を閉じる音がした。

 

 キーノは灯りを消し、寝台へ入った。

 

 楽しみも、心配も、胸の中にある。

 

 その両方を持って、朝になれば汽車へ乗る。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。