第90話 犬には犬の仕事がある
翌日の変身術が終わると、鬼太郎は片づけを済ませ、教卓の前へ行った。
ミネルバが顔を上げる。
「墓場。質問ですか」
「校長先生へ、お話を伺いたいのですが。面会をお願いするには、どのようにすればよろしいでしょうか」
彼女の手が、教卓の端で止まった。
「直接、話したいことがあるのですね」
「はい。自分で確かめる前に、一度、伺っておきたいことがありまして」
「急ぐことですか」
「お時間のあるときで構いません」
ミネルバは少し考え、頷いた。
「私から伝えます。返事があるまでは、待ちなさい」
鬼太郎は礼を言った。
扉のそばで、キーノが待っていた。こちらが戻ると、鞄を肩へ掛け直す。
「取り次いでいただけるそうです」
「じゃあ、待つんだな」
「ええ」
「その間に、自分で見に行くなよ」
鬼太郎は彼女を見た。
「その前に伺うための、お願いですよ」
キーノは顔を見てから、廊下へ向き直った。
◆
面会の時間を告げられたのは、その翌日だった。
鬼太郎は指定された場所でミネルバと合流し、後について歩いた。帽子の話をした空き教室とは、違う方へ進んでいく。
石像の前で、彼女が合言葉を告げた。
像が脇へ動く。
現れた階段へ乗ると、段が身体を上へ運び始めた。
鬼太郎は足元を見た。自分が力を働かせなくても、石は動く。箒に跨がったときにあった内側の抵抗も、ここでは起きなかった。
上の扉が近づく。
ミネルバが叩くと、返事があった。
「お入り」
校長室へ入るのは、初めてだった。
壁の肖像画から、いくつもの顔がこちらを見た。机の周囲には細い脚の台や器具が並び、その一つから煙が一筋、上がっている。
何をする道具なのかは、見ただけでは分からなかった。
机の向こうで、ダンブルドアが顔を上げた。
「来たのう、鬼太郎」
挨拶をすると、向かいの椅子を勧められた。
ミネルバは校長へ一言伝え、部屋を出る。扉が閉じてから、鬼太郎は鞄を椅子の横へ置いた。
「学校の暮らしは、どうじゃ」
「教わることが多いですね。説明を聞いてから本を読むと、前には気づかなかったところも見えてきます」
「授業の外でも、よく本を開いておるそうじゃな」
「聞いたことを忘れないうちに、書いておきたくなりますから」
鬼太郎は答えた。
「魔法史にも、こちらの種族が何を争ってきたか、知る手掛かりがありますね。名前が多いので、読み直すところもありますが」
「ビンズの授業を、そう聞いておるか」
ダンブルドアは菓子の皿を寄せた。
鬼太郎が一つ取ると、老人も手を伸ばす。
「ほかの生徒とは?」
「ハリーさんたちとは、寝室でも話しています。キーノさんも、グレンジャーさんと本を比べていますね。僕が分からないことを、あちらが知っていることもあります」
「聞ける相手が増えたわけじゃ」
「ええ。助かっています」
◆
ダンブルドアは、少年が菓子をかじるのを見た。
教師たちの報告とも、よく合っていた。
ミネルバは、変身に成功した後も、次にどこを変えたいか考えていたと話した。フリットウィックは、説明の後で書き加える習慣を評価している。
セブルスの見方は、相変わらず厳しかった。
指示には従う。発言を叱られれば、次は許可を待つ。だが、それで警戒を解くつもりはないという。
眠り薬の材料をどこで得るか。毒への備えを、どの個体から手に入れられるか。
戦いに使うつもりで聞いている、と彼は見ていた。
その指摘を、ダンブルドアも笑って退けはしなかった。
知識を好み、友人と話すことも楽しんでいる。その同じ少年が、強くなるために学んでいる。
「ただ、箒は使えませんでした」
鬼太郎が言った。
「フーチから聞いた。替えても、動かなかったそうじゃな」
「ええ。こちらの魔力を働かせようとすると、もう一方が邪魔をするようでした。杖では、そうならないのですが」
ダンブルドアは、その手へ目を向けた。
杖を得る前から炎を生み、冷気や風、雷も使っていた。本人はそれを、杖へ通す魔力とは別に感じている。
箒に起きたことも、同じだと決めてよいほど、仕組みを知ってはいなかった。
「無理に押し込まんようにな。理由を調べることと、今すぐ飛ぼうとすることは別じゃ」
「はい。その場では、やめました」
「それでよい」
老人が頷くと、鬼太郎はハリーの話をした。
投げられた玉へ向きを合わせ、掴んだ後には箒を戻していた。地上から、よく見ていたらしかった。
「ハリーさんには、扱いやすい道具だったようですね」
「ミネルバも、大層喜んでおった」
許可を求める話には、すでに選手を迎え終えた者の勢いがあった。止めれば、しばらく校長室へ通ってきたかもしれない。
ダンブルドアが菓子を取ろうとすると、鬼太郎が続けた。
「呪文で戦うときには、また違いましたけれど」
手が止まった。
「戦う?」
「マルフォイさんと決闘したときです。僕は立会人として、見ていました」
少年は、夕食での約束から話し始めた。
日時と場所、使うもの、勝敗と停止の条件。
真夜中、と聞いたところで、ダンブルドアは眉を上げた。
「その時間に寮を出てよいとは、言われておらんはずじゃが」
「ええ。許可はいただいていません」
「知っておって、立ち会ったのか」
「同じ年頃の方が、動く相手へどれくらい呪文を使えるのか、見たかったんです」
返事に迷いはなかった。
「昼間、教師へ相談する方法もあったじゃろう」
「二人が、その時間で約束しましたので」
「そこへ、君から立会人を申し出たのじゃな」
鬼太郎は頷いた。
知らずに巻き込まれたのではない。自分の見たいものへ、条件をつけて参加した。
ダンブルドアは先を聞いた。
「結果は?」
「マルフォイさんの勝ちです。ハリーさんは脚を縛られ、立って続けられなくなりました。そこで止め、解いていただきました」
「同じ寮の者でも、負けと告げたか」
「公平に判定すると、約束しましたから」
学校を楽しんでいるという報告は、確かなのだろう。
その学校で、夜中に試合を見る機会も自分から作っていた。
「決闘を教わりたいなら、教師へ相談しなさい。夜の城を、勝手に試合場へ変えるのは困る」
「分かりました」
鬼太郎は答えた。
ダンブルドアは皿へ伸ばしかけた手を、机へ戻した。
◆
「今日、伺いたかったのは、その帰りに聞いたことです」
鬼太郎が言うと、机の向こうの顔が上がった。
「帰りに、何があった」
「動く階段で、僕とキーノさんは、三人と離れました。先に寮へ戻って待っていたのですが、あちらは三階の廊下へ入ったそうです」
ダンブルドアが動かなくなった。
「立ち入りを禁じた廊下か」
「はい。フィルチさんを避けようとして、鍵のかかった扉を開けたと聞きました。そこに、三つの頭を持つ大きな犬がいたそうですね」
「お主は、見ておらんのじゃな」
「戻ってきた三人から、伺っただけです」
鬼太郎は答え、椅子の上で少し姿勢を直した。
「入らないよう告げた場所にいるのでしたら、学校で管理している生き物なのかと思いまして。どのような役目があるのでしょうか」
老人はすぐには答えなかった。
煙の上がっていた器具が、小さく音を立てる。
「役目を聞いて、どうするつもりじゃ」
「強い相手なのでしたら、力を試せるかと思いました。ただ、何かを守るために置かれているのなら、勝手に手を出すわけにもいきませんので」
ダンブルドアが、息を吸った。
「周りに誰もいないところで向き合えるなら、使える力も増えます。ですが、話だけでは、強さもよく分かりません。先に確認しておきたかったんです」
鬼太郎は返事を待った。
犬を見た三人は、何を守るかを気にしていた。自分がまず知りたいのは、その犬を相手にできるかどうかだった。
「鬼太郎」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「あれに近づいてはならん」
はっきりした声だった。
「あの先には、教師たちが準備した罠がある。生徒が力を試すためのものではない。お主の鍛錬に使う場所でもないのじゃ」
鬼太郎は、その言葉を聞き直した。
「学校側の目的があるのですね」
「そうじゃ。犬にも、そこで果たす仕事がある」
「では、僕から戦いを仕掛ければ、邪魔をすることになりますね」
「うむ」
ダンブルドアは頷いた。
何を守っているのかまでは、話さなかった。
鬼太郎も、そこを重ねては尋ねなかった。今の答えだけでも、会いに行くつもりで場所を確かめる必要はなくなった。
◆
ダンブルドアは、ハリーが初めて箒を飛ばした日の話を思い返した。
友人の物を取り返すために動いた。
規則には反していたが、動く理由は自分で持っていた。その力を、もっと大きな困難へ向かうときにも使えるようになってほしかった。
地下へ続く道には、教師それぞれの手が入っている。
知恵を使うところ。仲間へ任せるところ。怖くても、自分で先へ進むところ。
ハリーが越えていけば、できることと、ひとりではできないことを知るだろう。誰かに運ばれたのではなく、自分で辿り着いたという経験が残る。
その道を、目の前の少年へ先に片づけさせるつもりはなかった。
鬼太郎なら、守られているものを知る前に、犬と戦うこと自体へ手応えを見いだすかもしれない。勝つか負けるかにかかわらず、用意した障害が別の形へ変わる。
ハリーが進むときに、必要なものまでなくなっていては困った。
教え、守りながら、いつ、何を経験させるかも選ぶ。
それを本人へすべて説明すれば、自分で進んだ道にはならない。
ダンブルドアは机の上で指を揃えた。
生徒が力を試すためではない、と告げた。
その言葉から、ひとりだけ別に考えている子がいることを、老人は承知していた。
「分かりました。何か問題が起きなければ、あちらへは行きません」
鬼太郎の返事に、指が止まった。
「問題が起きなければ、か」
「ええ。今のお話でしたら、僕から手を出す理由はありませんから」
声は穏やかだった。
従わないと言っているのではない。従う範囲を、自分でも確かめている。
「その『問題』には、何を入れておる」
少年は少し考えた。
「こちらへ何か出てきたり、僕たちのいるところへ危険が及んだりした場合ですね。そのときまで、何もしないとは言えません」
「気づいたら、まず教師へ知らせなさい。自分からあの廊下へ入り、処理しようとするのではない。学校で起きることは、我々が対応する」
「知らせる時間がありましたら、そのようにします」
ダンブルドアは眉を寄せた。
「また、条件がついたのう」
「目の前で起きたときに、待てるかまでは分かりませんので」
鬼太郎は老人を見た。
「ただ、今は何も起きていません。犬へ会いに行くために、問題を探すつもりもありませんよ」
ダンブルドアは、その顔を見た。
今のところ、少年を止めているのは、学校の指示だけではない。犬にも役目があると聞き、自分の興味でそれを壊す必要はないと判断した。
事情が変われば、その判断も変わる。
何が起きても動くなと言っても、同じ返事をする相手ではなかった。
「そこは、覚えておこう」
老人が頷くと、鬼太郎も小さく頭を下げた。
無断で確かめに行く前に、話を聞きに来た。その点は、評価してよかった。
予定を変えることもできた。
それ以上の安心まで、この返事へ入れる必要はなかった。
◆
鬼太郎が談話室へ戻ると、キーノは窓辺の卓で本を開いていた。
入ってきたこちらを見て、羽根ペンを置く。
「どうだった」
「近づかないように、言われました」
鬼太郎は向かいへ座り、鞄を下ろした。
「教師の方たちが用意した罠だそうです。犬にも、そこでの役目があるのでしょうね」
「じゃあ、戦う話は終わりか」
「今は、手を出す理由がありません」
「今は、な」
キーノが繰り返した。
「何か起きた場合は別です。ただ、僕から会いに行くつもりはありませんよ」
彼女は少し肩を下ろした。
「先に聞いて、よかったな」
「ええ。向こうのお仕事を壊してから、お話をするところでしたら、面倒になったでしょう」
鬼太郎は教科書と、授業で書いた紙を出した。
キーノも自分の頁へ戻りかけ、途中で手を止める。
「何の罠なのかは?」
「そこまでは、伺っていません」
「気にならないのか」
「気になりますよ」
鬼太郎は答えた。
学校が何を隠し、そのために何を使っているのか。それも知りたいことにはなった。
ただ、今から確かめるために、手元の課題を置くほどではない。
少し離れた卓で、ハリーとロンが話していた。
犬という言葉が聞こえると、通りかかったハーマイオニーも足を止める。
「下まで見に行くなんて、駄目よ」
「行こうって言ってないだろ。何があるかって、話してるだけだよ」
ロンが答えた。
「ハグリッドなら、犬のことも知ってるかな」
ハリーが言う。
「学校にいる生き物だし、森番なんだから」
鬼太郎は、教科書の端へ指を置いた。
三人は、あの扉のことを忘れてはいない。本を探すか、詳しい相手へ尋ねるか、何かはするだろう。
分かった頃に、何を知ったか伺ってみてもよい。
今の自分には、その間に進められるものがあった。
小さな針の、まだ揃わない形。
教師に直された手の動きと、本で読んだ説明の違い。
鬼太郎は紙を開いた。
キーノが向こうの卓を見てから、こちらを向く。
「あっちには、加わらないんだな」
「分かったことがあれば、後で伺いたいですね」
「お前は、今はこっちか」
「ええ。こちらには、直接教えてくださる方もいますから」
鬼太郎はペンを取った。
犬の話も、校長の言葉も、消えたわけではない。だが、針の形を確かめるところから、今夜は続けられる。
向かいで、キーノも帳面を寄せた。
「ここ、もう一度読んでくれ。自分で書いたのに、後で見るとよく分からない」
鬼太郎は彼女の指す行を見た。
説明を聞いたときには分かったつもりで、間の言葉を省いていたらしい。
「僕の方には、続きがあるかもしれませんね」
紙を寄せる。
キーノが自分の帳面と比べ、足りなかったところへ、短く書き足した。