第九十話 壁の向こうに、席がある
廊下へ出たとき、隣の扉もちょうど開いた。
キーノは鞄を持ち、鬼太郎の顔を見る。
「起きてたか」
「ええ。よく眠れました?」
「……途中で、一度起きた。でも、寝直した」
言いながら扉を閉め、鍵を掛ける。
鬼太郎は彼女が鍵をしまうのを待ち、一緒に階段を下りた。
階下には、昨夜より空いた卓が多かった。厨房の方から湯気が流れ、皿を置く音が聞こえる。
窓から朝の光が入る席へ座ると、キーノは鞄を脚のそばに置いた。
トムが運んできた朝食には、温かいパンがあった。
キーノは匙を取る前に、厨房の方へ一度目を向ける。
「今朝は、あれはいないんだな」
「キャベツですか?」
「朝から見たくない」
鬼太郎は笑い、自分の皿へ手を伸ばした。
キーノもパンを割る。
昨夜、寝台へ入ってから考えていたことは、起きても消えていなかった。だが、温かい物を食べていると、まず何をするかは分かった。
食べ終える。荷物を持つ。駅へ行く。
まだ会っていない相手への挨拶を、その間ずっと考え続けることはできなかった。
「十一時まで、まだあるな」
卓のそばの時計を見て、キーノが言った。
「ええ。食事を終えたら、向かいましょう」
「ここで待たなくてもいいか?」
「駅で場所を確かめておく方が、よいでしょうね」
鬼太郎は茶を飲み、窓の外へ目を向けた。
通りでは、すでに人が動いている。
キーノも残りのパンを口へ運んだ。
◆
部屋へ戻った二人は、それぞれ使っていた物を収めた。
キーノは寝台の脇と机の上を見てから、帳面の入ったところへ手を添える。昨夜書き足した言葉は、その中にあった。
鞄を閉じ、廊下へ出る。
鬼太郎と階下へ戻り、カウンターで鍵を返した。支払いに残りがないことを確かめると、トムは二つの鍵を受け取って頷いた。
「学校へ行くんだね」
「ええ。お世話になりました」
「汽車に乗り遅れないように」
「まだ、かなり早い」
キーノが答えると、トムは笑った。
「それなら安心だ。気をつけて行っておいで」
二人は挨拶をし、扉を出た。
外の空気に、キーノが少し目を細める。
鬼太郎は通りを見渡し、駅へ向かう車を拾える場所へ進んだ。
タクシーへ荷を収め、キングズ・クロスと伝える。後ろの席へ二人が座ると、扉が閉まり、車が動き出した。
キーノは窓越しに、遠ざかる建物を見た。
昨日は、昼からゆっくり横丁を歩いた。
今日は、その隣の通りを離れていく。
「学校へ着くのは、夕方だったな」
「ええ。長く乗ることになりますね」
「窓から、ずっと街が見えるわけじゃないんだろ?」
「離れれば、景色も変わるでしょう」
キーノは頷き、膝の上の鞄を持ち直した。
横を通る別の車が、すぐに後ろへ流れた。
◆
駅の中では、靴音が高いところまで響いていた。
車を降りて支払いを済ませた鬼太郎は、キーノと並んで案内を見た。
大きな荷を引いている者。新聞を脇へ挟み、時計を見ながら歩く者。子供の手を取って急ぐ者。
行き先の違う人々が、同じ広い場所を横切っていた。
キーノは人の流れを避け、鬼太郎のそばへ寄った。
「九番と、十番だな」
「ええ。こちらですね」
教わった番号を確かめ、二人は奥へ進んだ。
柱の向こうで、荷を押していた人影が消えた。
鬼太郎は、その場所へ目を向ける。
曲がったのではない。
柱の手前を歩いていた大人と子供が、荷物ごと、固い表面の中へ進んでいった。
キーノも見ていた。
「あそこか」
「そのようですね」
鬼太郎は周囲へ視線を巡らせた。
すぐそばを通った人は、柱へ顔を向けずに歩いている。少し離れて立っていた者も、自分の持つ紙へ目を落としたままだった。
人が壁へ消えたことに、誰も驚いていない。
森の入口を思い出す。
そこにも道はあった。けれど、入ることのできない人々には、わざわざ足を向けようと思わせない働きがあった。
ここでも、似た魔法が注意を逸らしているのだろう。
鬼太郎は柱へ目を戻した。
「森と、似ていますね」
「周りが気にしないところか?」
「ええ。今の方たちを見ていても、不思議に思わないようです」
キーノは柱を見上げた。
通れると聞いている。実際に、今、通った者もいた。
彼女は荷の持ち手を握り直し、鬼太郎と歩いた。
先に行く人の背が、二人の進む方から外れる。
そのまま柱へ近づいた。
目の前の表面が鼻先まで来ても、足を止めなかった。
◆
音が変わった。
背の高い駅の中で反響していた声に、蒸気の噴き出す音が重なる。
キーノは、目の前に現れた赤い汽車を見た。
長い車体が、ホームに沿って続いている。
先頭の方から白い煙が上がり、空気には、さっきまでとは違う匂いがあった。
標識へ目を移す。
九と四分の三番線。
その先に、ホグワーツへ向かう汽車の名と、出発時刻がある。
「……あったな」
キーノの声に、鬼太郎が頷いた。
「早く着けましたね」
ホームには、まだ人のいない場所が多かった。
離れたところで、親らしい大人が子供の荷を持ち上げている。別の扉のそばでは、生徒が車内の相手へ声を掛けていた。
キーノは窓の列を見た。
昨日、食事をしながら話した席が、すぐ向こうにある。
「乗っていいんだな?」
「ええ。行きましょう」
鬼太郎は近くの開いている扉へ向かった。
荷を持ち替え、段を上がる。
キーノも続き、車内の通路へ出た。
横へ並ぶ客室の扉から中が見える。空の座席が多く、まだ荷物の置かれていない棚が窓の上にあった。
二人が歩く先で、誰かが鞄を置く音がした。
それも、すぐに静かになる。
鬼太郎は近くの客室を覗き、扉を開いた。
「ここにしましょうか」
キーノは中へ顔を向けた。
誰もいない。
向かい合わせの座席と、その横の窓があった。
「うん」
彼女は先に入り、窓際へ進んだ。
荷物を邪魔にならない位置へ収め、腰を下ろす。鬼太郎は彼女の向かいに座った。
キーノが窓へ顔を近づける。
ホームの高さが、さっきとは違う。
汽車の脇に立つ人の顔と、同じくらいのところから外を見ていた。
「まだ、動かないな」
「十一時までは、ここですね」
「分かってる」
キーノは言ったが、窓から離れなかった。
少し先の扉から、一人の生徒が顔を出す。ホームに立つ大人へ何か言い、渡された小さな包みを受け取っていた。
鬼太郎は鞄の位置を確かめ、上着の裾を整えた。
杖も懐の銃も、座るときに引っ掛かってはいない。
膝へ置いた手から力を抜き、向かいを見る。
キーノは外を見たまま、口元を緩めていた。
「昨日、言ったとおりですね」
彼女が振り返る。
「何が?」
「窓側です」
「……そうだな」
キーノは座席の端へ手を置いた。
その下の布を指で押し、それから、また外へ顔を向けた。
今日は、ここから景色を見る。
汽車が動き出せば、まだ知らない場所が窓の向こうへ来る。
◆
ハリーは、九番線の表示と十番線の表示を、もう一度見比べた。
間にあるのは壁だった。
切符へ目を落とす。
書いてある番号は、変わらない。
九と四分の三。
バーノンおじさんは、ここまで荷物を運んでくれた。ダドリーの尻尾を病院で取ってもらうためにロンドンへ来る予定があったので、そのついでだった。
だが、この番号を見た後の顔を、ハリーは思い出したくなかった。
見つかるはずがないと分かっているものを、わざと探させるときの顔だった。
今は、三人ともいない。
ハリーだけが、トランクとヘドウィグの籠を載せたカートのそばに立っていた。
知らない駅の中で、人々は自分の行き先へ進んでいく。
立ち止まっていると、誰かの荷にぶつかりそうになった。ハリーはカートを端へ寄せ、通路を空けた。
駅員にも尋ねた。
けれど、そんな番線を知らないと言われ、ホグワーツの名にも心当たりがなかった。学校がどこにあるか聞き返されても、ハリーには答えられない。
ハグリッドは、汽車の切符を渡してくれた。
杖も、本も、制服もある。
足りないのは、この壁の向こうへ行く方法だけだった。
ハリーは時計を見上げた。
まだ出発の時刻にはなっていない。それでも、針が進んでいることが気になった。
あの家へ戻って、ホームがなかったと言ったら。
ハリーは口を引き結び、切符をポケットへしまった。
そのとき、すぐ近くを歩く女の人の声が聞こえた。
マグル、という言葉だった。
ハリーは顔を上げる。
赤毛の子供たちが、大きなトランクを載せたカートを押していた。後ろには、同じ赤毛の小さな女の子もいる。
誰も、どこへ行くか困っているようには見えない。
女の人は子供たちへ声を掛け、ホームの番号を確かめた。
返ってきた答えを聞いて、ハリーはカートの持ち手を握った。
九と四分の三。
同じ場所へ行く人たちだった。
◆
先頭の少年が、柱の方へ進んでいく。
ハリーはその背を追った。
眼鏡を掛けた少年は周囲の人々に紛れ、次に見えたときには、もう柱の手前にいなかった。
別の二人も、母親に名前を呼ばれて進んでいく。
よく似た顔をした赤毛の少年たちだった。片方が名前について冗談を言い、もう片方と笑っている。
ハリーが見失わないよう顔を動かしている間に、二人とも消えた。
壁は、まだそこにある。
ハリーは残っている女の人へ近づいた。
「すみません」
女の人が振り返る。
ハリーは切符を出しかけ、持つ手を止めた。
「ホグワーツへ行きたいんです。でも、入口が分からなくて」
言い終えると、女の人は困った顔をしなかった。
カートの荷とヘドウィグを見てから、ハリーへ目を戻す。
「初めてなのね。この子も、今年からなの」
傍らの赤毛の少年を示した。
背が高く、鼻の辺りにそばかすがある。
少年もハリーを見た。二人は、まだ名前を知らなかった。
女の人は九番線と十番線の間を指し、そこを通ればよいと教えてくれた。
ぶつかるのを怖がって途中で止まらないこと。心配なら、勢いをつけて進むこと。
ハリーは指された柱を見た。
汽車に乗るためには、あそこへ向かう。
赤毛の家族は、そうして消えた。
「ありがとうございます」
カートを柱の方へ向けた。
女の人が場所を空け、ハリーの進む先を見ている。
ハリーは息を吸った。
持ち手を押すと、重いトランクを載せた車輪が動く。
ゆっくり進み、少しずつ足を速めた。
柱が近づく。
ヘドウィグの籠が揺れ、白い羽根が視界の端で動いた。
ぶつかったら、荷物が落ちる。
そう思った瞬間、ハリーは腕へ力を込めた。
目を閉じかけたまま、最後の距離を進む。
衝撃は来なかった。
車輪が転がり続けていた。
ハリーは目を開け、カートを止めた。
赤い汽車があった。
白い蒸気の向こうに長い客車が続き、荷物を持った子供たちと、見送りに来た大人たちがホームを行き交っている。
籠の中のフクロウが鳴いた。
ハリーは振り返った。
今、通ってきた方には、入口を示すアーチがあった。
九と四分の三番線。
ずっと切符に書いてあった番号を、ようやく、切符の外で見つけた。
持ち手を握る指を少し緩め、汽車へ向き直る。
あの家へ戻るための説明を、考えなくてもよくなった。
ハリーはカートを押した。
今度は、乗るための扉を探して。