第九十一話 知らない名前が、向かいに座る
窓の外に、一つ荷物が増えた。
大きなトランクを引く生徒が足を止め、ホームにいる相手へ手を振る。声を掛けられた別の生徒が駆け寄り、二人は同じ扉へ向かった。
キーノは、その背が汽車の中へ消えるまで見ていた。
最初は、窓の向こうを一人ずつ数えられた。
今は、見ている人の手前を別の家族が横切る。籠の中でフクロウが羽を広げ、慌てて布を掛け直す子供もいた。
通路でも、靴音が増えている。
「こっち、まだ座れるぞ」
隣の客室から声がした。
返事をした生徒が、二人の扉の前を通り過ぎる。誰かの名前を呼ぶ声がして、それから、荷を持ち上げるときの唸り声が聞こえた。
キーノは扉へ顔を向けた。
ガラス越しに、違う生徒の肩が見える。
その生徒も、中を少し覗いただけで先へ行った。
「知ってる奴のところへ行くんだな」
彼女が言うと、鬼太郎は読んでいた本から目を上げた。
「席を取っておく方も、いるようですね」
「さっきから、名前を呼んでる」
キーノは自分の隣の座席を見た。
二人が入ったときから、そこには誰も座っていない。
知らない相手の前で何を話せばよいか、昨夜は考えていた。だが、その相手は、扉の向こうを通り過ぎていくばかりだった。
向かいの鬼太郎が、本へ紙を挟む。
「窓の外も、賑やかになりましたね」
キーノはそちらへ向き直った。
母親らしい人が、窓から顔を出す子供の襟を直している。子供は何か言って身を引いたが、すぐまた顔を出した。
キーノは頬杖をつきかけ、やめた。
「出るまでに、もっと来るんだろうな」
「ええ」
窓の向こうで、また誰かが手を振った。
◆
ハリーは、汽車の段へトランクを持ち上げようとしていた。
片側を上げると、もう片側がホームへ引っ掛かる。
ヘドウィグの籠は先に安全なところへ置いた。両手は使える。それでも、重いトランクを段の上へ運ぶには、持ち上げる高さが足りなかった。
息を吐き、持ち手を握り直す。
「そっちを持とうか」
顔を上げると、柱の前で見た赤毛の双子がいた。
ハリーが頷くと、一人がトランクの反対側へ回る。もう一人も手を添え、三人で持ち上げた。
今度は段を越えた。
車内へ入ったトランクを床へ置くと、ハリーは指を伸ばした。
「ありがとう。助かったよ」
額に落ちた髪を払う。
双子の片方が、その手の下へ目を留めた。
視線を追ったもう片方も、ハリーの顔を見た。
傷のことだと気づくまで、少しかかった。
名前を尋ねられ、答える。
双子は顔を見合わせた。
また、あの反応だった。
漏れ鍋でも、買い物をしている間にも、自分の名前を聞いた人はそうした。ハリー自身には覚えのない出来事が、会ったばかりの相手には、自分の顔より先に知られている。
双子は自分たちをフレッドとジョージと名乗った。
からかうような声だったが、トランクを運んでくれた手は親切だった。ほかの客室へ行く二人へもう一度礼を言い、ハリーはヘドウィグの籠を持ち直した。
席を探して通路を進む。
すでに何人も集まっている客室では、話が弾んでいた。顔を覗かせると、一瞬こちらを見る者もいる。
ハリーは次の扉へ進んだ。
窓際に、二人座っている。
黒に近い髪の少年が、膝に閉じた本を置いていた。向かいの少女はホームを見ていたが、ハリーの影に気づいたのか、扉へ顔を向けた。
整った顔立ちに、見覚えがあった。
ダイアゴン横丁だ。
ハグリッドと歩いていたとき、すれ違った二人。
そのときは言葉を交わさなかった。それでも、通路の先にいる知らない顔より、この二人の方が声を掛けやすく思えた。
ハリーは扉を開けた。
「あの、ここに座ってもいい?」
少年が本を脇へ置いた。
「ええ。空いていますよ」
少女も、隣の座席を見てから頷く。
ハリーは籠を抱え直し、客室へ入った。
◆
扉が開いたとき、キーノは背を少し伸ばした。
丸い眼鏡を掛けた少年だった。
抱えている籠には、白いフクロウがいる。
鬼太郎が荷物を置く場所を空けると、少年は礼を言い、トランクを収めた。籠を安定する位置へ置いてから、キーノの隣へ座る。
座席が、わずかに沈んだ。
「二人とも、一年生?」
「そうだ」
キーノは答えた。
その後で、昨夜の帳面の文字を思い出す。
名前を聞く。
「……お前は?」
「僕も一年生だよ」
「違う。いや、それもだけど。名前は?」
言ってから、自分でも順番がおかしかったと思った。
だが、少年は笑わなかった。
「ハリー。ハリー・ポッター」
「私は、キーノ・ファスリス・インベルンだ。キーノでいい」
「墓場鬼太郎です。よろしくお願いします、ハリーさん」
鬼太郎が続ける。
ハリーはその名前を口の中で繰り返し、少し考えてから尋ねた。
「キタロウ、って呼べばいい?」
「ええ。それで結構です」
キーノは、名前を言うところまではできたと思った。
ハリーは二人の顔を見比べる。
「前に、ダイアゴン横丁にいたよね?」
「ええ。買い物に行きました」
「やっぱり。僕、あのとき、ハグリッドと一緒にいたんだ」
キーノは横丁の通りを思い出そうとした。
杖を持って店を出た日には、人が多かった。目の前の少年を見たかどうかは、はっきりしない。
「それで、ここへ来たのか?」
「うん。顔を覚えてたから。少しだけ、知ってる人みたいな気がして」
ハリーは言い終えると、照れたように口元を動かした。
キーノは彼を見た。
自分には、相手の顔の記憶すらなかった。
それでも、そんな理由で座りに来ることもあるらしい。
「そうか」
返事をすると、ハリーの肩が少し下がった。
籠の中で、フクロウが首を動かす。
キーノもそちらへ目を向けた。
「白いな。名前はあるのか?」
「ヘドウィグだよ」
ハリーが答える。
名前は、人だけに聞くものでもなかった。
◆
客室の扉が、また開いた。
ハリーは顔を上げる。
柱のところで母親と一緒にいた赤毛の少年だった。
「ここ、まだ座れる?」
尋ねてから、中へ目を向ける。
その視線が、ハリーの隣で止まった。
キーノが扉を見ている。
窓から入る光の中で、彼女の顔がよく見えた。
少年は持っていた荷物を少し下げ、すぐに持ち上げ直した。
「空いていますよ」
鬼太郎が言う。
「あ、うん。ありがとう」
返事が一拍遅れた。
少年は入って扉を閉めると、鬼太郎の隣へ荷を置いた。上の棚へ収めようとして、持ち手の向きを変える。
ハリーも手を貸した。
「お母さんに、入口を教えてもらったんだ。ありがとうって、伝えてくれる?」
「うん。母さん、こういうのは慣れてるから」
少年は座り、向かいへ顔を上げた。
キーノと目が合う。
すぐにハリーの方を見た。
「僕はロン。ロン・ウィーズリー」
「ハリー・ポッターだよ」
ロンの目が、今度はハリーの顔で止まった。
口を開きかけて、閉じる。
「兄さんたちが言ってたけど……本当に?」
「うん」
ハリーは頷いた。
双子が母親のところで何を話していたか、少し想像がついた。
ロンは、ハリーの額へ目を向けた。
見せてほしいと言う前から、その視線が何を求めているか分かった。
ハリーは前髪を上げた。
◆
鬼太郎は、露わになった傷を見た。
細い線が、額の途中で折れている。
この子が、ハリー・ポッターですか。
名は知っていた。
日刊予言者新聞で目にしたことがある。漏れ鍋では、客たちが何年も前の出来事を、自分が立ち会ったことのように話していた。
赤ん坊の頃、闇の帝王を倒した子供。
森へ来る商人の話では、その闇の帝王は、今もどこかに潜んでいるという噂が絶えなかった。
鬼太郎は、ハリーの指が押さえる髪へ視線を移した。
赤ん坊が、ダンブルドアに並ぶほどの者を実力で打ち倒す。
その話を、そのまま信じる気にはなれなかった。
あの老人と向かい合ったとき、自分の手段はことごとく届かなかった。射撃も、火も、冷気も。相手を動かすことさえ容易ではなかった。
その力を持つ者が、赤ん坊を相手に失敗したのなら。
子供自身の強さとは別に、何かがあったと考える方が自然だった。
守っていた者か、仕掛けか。使った魔法に、本人が予想しないことが起きたのかもしれない。
何が起きたかは分からない。
ただ、退かざるを得なかったことと、死んだことは同じではない。
生きている可能性は、高そうですね。
商人の噂にも、今のところ裏づけはなかった。だが、子供が倒したという話だけで、死んだと決める理由もない。
鬼太郎の目は、もう一度傷へ戻った。
切られた痕なら、いくつも見た。
傷口が閉じた後にどのような線が残るかも、自分の身体で知っている。
ハリーの額の痕は、そのどれとも違って見えた。
形だけが珍しいのではない。目を留めると、普通の怪我の痕として通り過ぎるには、何かが引っ掛かった。
何の傷でしょうね。
触れてもいない。魔法を向けたわけでもない。
違和感の先を確かめる材料は、今はなかった。
ロンが小さく息を吐く。
「覚えてる? そのときのこと」
「ほとんど。緑の光くらいなんだ」
ハリーは髪を下ろした。
眼鏡の奥の目が、三人の間を動く。
鬼太郎は傷から視線を外した。
過去の襲撃について、覚えていない子供を問い詰めても、欲しい答えが出るとは限らない。
窓の横で、キーノがハリーの顔を見ていた。
「生まれたばかりのことを、聞かれても困るだろ」
ロンは慌てて彼女へ向き直る。
「いや、僕、責めてるわけじゃなくて」
「それは分かる」
キーノが答えた。
鬼太郎は閉じた本を鞄へ戻した。
◆
キーノは、向かいのロンを見た。
ハリーの傷を見ていたときには、普通に話していた。
自分が返事をすると、急に早口になる。
「私にも名前を聞かないのか?」
「あ、ごめん。ええと、君は?」
「キーノ・ファスリス・インベルン。キーノでいい」
「キーノ……」
ロンが繰り返した。
それから、彼女の顔をまた見た。
今度は少し長かった。
「何だ?」
「えっ?」
「何か、ついてるのか?」
キーノは自分の頬へ指を当てた。
ロンの耳が赤くなる。
「ついてないよ。何も。僕、ただ――」
そこで言葉が止まった。
キーノは指を下ろす。
何もついていないなら、なぜ見るのだろう。
自分の素性が分かったのかと、一瞬、胸の奥が固くなった。だが、ロンは遠ざかろうとしているようには見えない。むしろ何か話そうとして、言葉を探している。
鬼太郎も変わった奴だが、こいつは別の方向に変だ。
キーノが眉を寄せると、鬼太郎が隣の少年へ声を掛けた。
「僕は墓場鬼太郎です。よろしくお願いします、ロンさん」
「うん、よろしく」
今度は、すぐ返事が出た。
やはり、自分が話すときだけおかしい。
キーノは理由が分からないまま、窓の方へ顔を向けた。
ホームで、赤毛の女の人がこちらを探していた。
◆
ハリーは窓越しに、ロンの母親を見つけた。
小さな女の子の手を取り、客車を見上げている。
ロンが身を乗り出して手を振ると、母親も気づいた。ハリーを見る目が少し和らぎ、二人へ声を掛ける。
キーノが窓の前を空け、ロンは隣へ顔を寄せて返事をした。
母親は彼の鼻の辺りを見て、何か気にしている。ロンが顔を引くと、後ろから双子が窓へ来た。
ハリーにも声を掛け、弟のことを頼むようなことを言う。
ロンは嫌そうな顔で言い返した。
さっきまで、キーノを前に言葉を詰まらせていた少年と同じには見えなかった。
キーノも、その変わりようを横から見ている。
双子が離れた後、小さな女の子が母親の腕を引いた。
こちらを見たいらしい。
ロンが妹のジニーだと教えてくれた。
ハリーは窓の外へ軽く手を上げる。ジニーは母親の陰へ半分隠れ、それでも目だけはこちらを見ていた。
笛の音が響いた。
ホームの大人たちが、汽車から少し離れる。
足元が揺れた。
ハリーは窓枠へ手を置いた。
ゆっくりと、母親とジニーの姿が後ろへ動いていく。
ロンが窓から手を振る。
隣でキーノも外を見ていた。見送る相手へではなく、窓の外が動き始めたことへ目を向けている。
母親の赤い髪が遠ざかった。
ジニーが少し走り、母親が後ろから呼び止める。
ホームの端を過ぎると、その姿も見えなくなった。
ハリーはようやく座席へ背を戻した。
汽車が進んでいる。
ホグワーツへ。
◆
「本当に、景色が変わるな」
キーノが呟いた。
ホームの代わりに、線路の脇の壁が流れている。その向こうには建物があり、窓を見ているうちに次の建物へ変わった。
「まだ、街の中ですね」
鬼太郎が答える。
キーノは頷き、窓から少し顔を離した。
いつの間にか、向かいにも隣にも人が座っていた。
ハリーが、鬼太郎へ目を向ける。
「二人は、前からの知り合いなの?」
「ええ。今はブルガリアで暮らしています」
「そこから来たんだ?」
「昨日、こっちへ来た」
キーノが答えた。
「漏れ鍋に泊まって、今朝は早く出たんだ」
「僕も、あそこへ行ったよ。ハグリッドと」
ハリーの声が少し明るくなった。
知っている場所が出てきたためらしかった。
ロンも話へ入る。
「二人とも、ホグワーツは初めてなんだよね。ほかの学校へ行ってたとか?」
「僕は、学校へ通ったことがありません」
「私もだ」
キーノが続ける。
ロンは彼女を見たが、今度はすぐに目を逸らさなかった。
「じゃあ、組分けも初めて聞く?」
「寮が決まることか?」
「そう。それが、どうやって決まるかなんだけど……」
ロンは少し声を落とした。
兄から聞かされた話には、何か恐ろしい試験が出てくるらしい。
ハリーの顔が曇った。
「僕、呪文なんて、まだ何もできないよ」
キーノもロンを見た。
期待していた教室の前に、そんなものがあるとは聞いていない。
「その兄さんの話、確かなのか?」
「僕だって、見たわけじゃないけど」
「さっき、窓に来た奴か?」
「違う。もっと上の兄さん。でも、あの二人も、そういうことは言うと思う」
キーノが眉を寄せた。
鬼太郎はロンの話を聞いてから、穏やかに口を開いた。
「一年生全員が、入学前に同じ呪文を使えるとは限らないでしょう。詳しいことは、着いてから聞いてもよさそうですね」
「……そうだね」
ハリーは息を吐いた。
キーノも座り直し、膝の上で手を開いた。
「お前は、兄弟が多いんだな」
ロンへ尋ねる。
彼は一度頷き、それから兄たちの名を挙げ始めた。
途中でキーノが数を確かめると、ロンは指を折って見せる。ハリーが驚き、今度はロンが、彼の育った家について尋ねた。
窓の外へ目を向ける間にも、会話は続いていた。
誰かが質問すると、自分以外の誰かが答える。
キーノは昨夜、名前の次に何を言うか、一人で考えていた。
今は、ロンの指が足りなくならないか見ている。
「兄さんたちだけで、そんなにいるのか」
「妹も入れたら、もっとだよ」
「それは、もう聞いた」
ハリーが笑った。
ロンも笑いかけ、キーノと目が合うと、また少し耳を赤くした。
やっぱり変な奴だ。
そう思いながらも、キーノは次の話を聞くために、窓から身体を戻した。