第92話 隣の席を離れる理由
朝、寝室の扉を開けると、甘い匂いがした。
鬼太郎は廊下へ顔を向けた。焼いたかぼちゃの匂いらしい。階段の下からも、いつもより大きな話し声が上がってくる。
後ろで、ロンが鞄を掛け直した。
「今日だな」
ハリーも匂いに気づき、足を速めた。
談話室で待っていたキーノが、本を閉じる。
「お前たちが下りてくる前から、この匂いだ」
「今日は、食事の話が多くなりそうですね」
鬼太郎が言うと、彼女は鞄の留め具を確かめた。
「授業は、いつもどおりあるんだろ」
「そこは変わらないよ」
ロンが答えた。
「浮遊術をやるって、先生が言ってたし」
キーノの目が、少し明るくなった。
「やっと、あれか」
鬼太郎も、今日持ってきた紙を思い出した。前に書いた疑問の横へ、試した結果を足せるだろう。
明かりを出し、木片を直し、錠を開ける。
前から扱えたものと、学校で覚えたものが、鞄の中では同じ束になっていた。ただし、今日初めて試すものまで、使えるつもりでいるわけではない。
ハーマイオニーが階段を下りてきた。
キーノが声を掛けると、彼女は持っていた本を少し持ち上げた。
「昨日のところ、後で見せてね。途中までしか比べられなかったでしょう」
「ああ。先に、今日の授業だな」
二人が並んで入口へ向かう。
鬼太郎も続いた。
◆
呪文学の机には、羽根が置かれていた。
キーノは一本を見下ろし、鬼太郎へ顔を向けた。
「今日は、壊れてないな」
「ええ。直すところは、なさそうです」
先日の木片と違い、割れたところも欠けたところもない。白い羽根の端が、窓から入る風で少し揺れた。
フリットウィックが、積んだ本の上から手を上げる。
「まずは、杖の動きから確かめましょう。大きく振れば、それだけ高く上がるというものではありませんよ」
手首を動かし、最後に返す。
キーノも自分の杖でなぞった。机を叩かないよう、羽根からは離しておく。
教師は続けて、発音を区切って示した。
どこを長く、どこへ力を置くか。キーノは小声で繰り返し、鬼太郎も口の動きを確かめている。
フリットウィックが、自分の羽根へ杖を向けた。
唱えると、羽根が机を離れた。
柔らかな先が遅れて上がり、空中で留まる。
キーノは上を見た。
下には、何もなかった。
箒で少し浮いたときには、自分を支える柄を握っていた。今、羽根と机の間にあるのは、空気だけだった。
教師はそのまま、ゆっくり下ろすところまで見せた。
「上がったら、それで終わりにしないこと。戻すところまで、見ていてください」
教室のあちこちで、杖が動き始める。
鬼太郎はすぐには唱えず、もう一度、手首を返した。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
羽根の軸が机から離れた。
端が揺れながらついていく。鬼太郎は杖を振り直さず、上がる羽根を見ていた。
自分の目より少し低いところで、止まる。
「上がったな」
「ええ。下ろす方も、確かめておきますね」
彼は教師の示した動きを確かめながら、羽根を戻した。机へ触れるところで柔らかな端が曲がり、それから静かに横たわる。
キーノも、自分の羽根へ向き直った。
発音を揃え、杖を動かす。
先端が持ち上がった。
思わずそちらを見ると、すぐに落ちた。
「今の、動いたぞ」
「途中で、杖も止まっていましたね」
鬼太郎が彼女の手を見ていた。
キーノは握り直す。
「羽根が動いたから、気になった」
「先に動きを終えてから、確かめてみてはいかがですか」
彼女は頷いた。
今度は、途中で手を止めない。
言葉を終えたとき、羽根全体が浮いていた。
机から指二本ほどの高さだった。少し揺れているが、落ちてはこない。
キーノは、息を止めかけていることに気づき、静かに吐いた。
「できた」
鬼太郎が頷く。
そのまま教師の説明を思い返し、机へ戻す。触れた瞬間、もう一度浮かせたくなったが、まずは今の動きを覚えておこうと思った。
向こうの机で、ロンの腕が大きく動いた。
羽根は、動かなかった。
「ロン。そんなに大きく振らなくてもいいの。先生の手、見たでしょう?」
隣のハーマイオニーが言った。
「やってるよ」
「それと、言葉を伸ばすところが違うわ。最後まで一気に言ってしまうと――」
「じゃあ、君がやれば?」
ロンが椅子へ身体を戻した。
ハーマイオニーは口を閉じた。それから袖を少し上げ、羽根へ杖を向ける。
はっきりと唱えた。
羽根が上がる。
キーノのものより高く、揺れも少なかった。
教室を回っていたフリットウィックが、その机を見た。
「よくできました、グレンジャー!」
ハーマイオニーの顔が明るくなる。
ロンは、自分の羽根を見たままだった。
教師がこちらへ来ると、キーノも、どこまでできたかを見せた。
低く浮かせて戻す。先ほどより、少し時間がかかった。
「いいですね。高さを欲張らず、同じようにできるか、確かめてごらん」
言われて頷く。
鬼太郎も自分の羽根を戻し、机に置いた紙へ短く書き加えた。
次に浮かせたときは、少し高くしようとして、羽根を揺らした。
上がる先を見て杖先を動かすと、今度は行きすぎる。戻そうとした分だけ、端が左右へ振れた。
「先生。止めたい高さを越えたとき、すぐ戻そうとすると、揺れが増えてしまいます」
フリットウィックが手元を見た。
「一度、机へ戻してごらん。今は、同じ高さまで上げる練習をしましょう。上がってから何度も直そうとすると、自分がどの動きで揺らしたのか、分からなくなるからね」
鬼太郎は指示に従った。
机へ下ろし、最初と同じところまで上げる。
今度は、余計に杖を振り直さずに待てた。それでも、柔らかな先は、わずかに震えていた。
箒では、動き始めるところへも進めなかった。こちらは杖を通せば働くが、思いどおりに留めておくところまでは、まだ揃わない。
鬼太郎は羽根を戻した。
紙に描いた二本の横線の間へ、上がりすぎたところも記す。最初の成功だけを書いて帰れば、後で思い出す羽根の動きは、実際よりも静かなものになりそうだった。
◆
授業が終わると、廊下は鞄を持った生徒で埋まった。
鬼太郎はキーノと並び、少し前を行くハリーとロンを見た。
ロンはまだ、杖の持ち方を直されたことを気にしているらしかった。
「何でも、すぐ教えたがるんだ。少し間違えると、ああやって言ってくる」
声を落としていたが、聞こえた。
「ロン」
ハリーが口を挟みかける。
「息が詰まるよ。友達ができないのも、分かる気がする」
ハリーの目が、その肩の向こうへ動いた。
ハーマイオニーがいた。
本を胸へ寄せ、二人の横を通り抜ける。顔を伏せたとき、目の縁が濡れていた。
ロンも気づいた。
口を閉じる。
隣で、キーノの足が止まった。
「おい」
ロンが振り向いた。
「今の、何だ」
「君に言ったんじゃないよ」
「誰に言ったかは分かってる。教えてくれた相手に、そんなことを言うのか」
キーノは一歩近づいた。
ロンが、通り過ぎる生徒へ目をやる。
「だって、いつも口を出すんだ。自分が何でも知ってるみたいに」
「言い方が嫌なら、そう言えばいいだろう。友達がいるかまで、お前が決めることか」
「そんなつもりじゃ――」
「私は、あいつと話してる」
声が硬くなった。
「分からないことも聞いてる。勝手に、誰もいないことにするな」
ロンは目を逸らした。
「泣かせるつもりじゃ、なかったんだ」
「もう、聞こえた後だ」
キーノはそう言い、ハーマイオニーが曲がった角へ向いた。
鬼太郎は彼女の鞄へ目をやった。
「キーノさん。そのまま、行くのですか」
「ああ。どこへ行ったか、見てくる」
返事は早かった。
鬼太郎は頷いた。
ロンへ言い返すためには立ち止まったが、その返事を待つために残るつもりはないらしい。角の向こうへ行った相手を、今は追うと決めている。
キーノの足音が遠ざかった。
ハリーはその方を見てから、ロンへ顔を戻した。
「あれは、言わなくてよかったよ」
ロンは答えず、鞄の肩紐を握り直した。
◆
女子トイレの前で、キーノは立ち止まった。
中から、鼻をすする音がした。
「ハーマイオニー」
返事はなかった。
「私だ。キーノ」
扉へ手を掛けずに、待つ。
少しして、奥から声が来た。
「授業へ行って。私は、後で行くから」
普段のようには、言葉が続かなかった。
「入ってもいいか」
今度は、もっと長く待った。
通路の向こうで生徒の声がして、別の階段へ消えていく。
キーノがもう一度呼ぼうとしたとき、小さな返事があった。
「……うん」
扉を開く。
奥の個室の扉が少し開いていた。ハーマイオニーが、そこから顔を出す。
目は赤く、頬にも涙の跡が残っていた。
キーノは手洗い場の近くで止まった。
「あいつには、怒ってきた」
「そんなこと、しなくてもよかったのに」
ハーマイオニーが顔を伏せる。
「私が腹を立てたんだ」
キーノは答えた。
自分が誰と話しているかを、ロンに決めてもらう必要はなかった。教わったことがいくつもある相手を、誰にも相手にされていないように言われたことも、嫌だった。
ハーマイオニーが、袖で頬を押さえた。
「分からないままだと、できないと思ったの。だから、言っただけで」
「ああ」
「でも、私が言うと、いつも……」
声が止まった。
キーノは、すぐには言葉を足せなかった。
教室では、彼女が言うことが正しいときが多かった。どこを見ればよいか聞けば、本を開いて示してくれた。
それと、ロンがどう聞いたかは、同じことではないらしかった。
今ここで、相手が嫌がらない言い方を教えても、先ほどの言葉は消えない。
「私は、助かった」
キーノは言った。
「今日のも、前に本を見てもらったのも。自分の帳面だけじゃ、抜けてたところがあった」
ハーマイオニーは、こちらを見た。
「それは、聞いてくれたから」
「ああ。だから、また聞く」
キーノは鞄を床へ置いた。
ハーマイオニーは何か答えようとしたが、息が引っかかり、顔を伏せた。
泣きやむように言っても、やめられるものではなさそうだった。
キーノは手洗い場へ鞄を寄せ直し、通るところを空けた。自分が立っていることを、彼女がいちいち気にしなくてよい位置へ移る。
水が一滴、洗面台へ落ちた。
次の滴が落ちるまで、誰も話さなかった。
ハーマイオニーは、やがて個室から出てきた。
水で手を濡らし、顔を押さえる。その横で、キーノは待った。
「授業、もう始まるわ」
「そうだな」
「行かなくていいの?」
「少し、ここにいる」
キーノが答えると、彼女は鏡へ目を向けた。
顔を確かめ、また俯く。
「まだ、戻りたくない」
「分かった」
それ以上、理由を聞かなかった。
◆
昼を過ぎ、キーノが一度戻ってきたとき、鬼太郎はハリーたちと廊下にいた。
彼女の手には鞄がある。授業の後、そのまま持っていったものだった。
「ハーマイオニーは、女子トイレにいる。まだ戻りたくないって」
ハリーが顔を上げた。
「ずっと?」
「ああ」
ロンは壁際で、靴の先を見ていた。
鬼太郎はキーノの顔を見た。
「お昼は、食べましたか」
「少しは。あいつも、何も食べないままにするのはよくないだろうと思って」
彼女は鞄を掛け直した。
「キーノさんも、またそちらへ?」
「ああ。ここにいるって、言っておいたから」
ロンが口を開きかける。
キーノはそちらを見たが、続きを待ち続けはしなかった。
「戻る気になったら、一緒に来る」
そう言って、廊下を引き返した。
鬼太郎は、その背中を見送った。
先ほどの授業では、羽根を浮かせたとき、自分へ顔を向けていた。次も同じようにできるか、放課後に確かめるつもりだったかもしれない。
今は、その時間を別の相手と過ごす方を選んだ。
呼び戻す用事は、なかった。
「まだ、怒ってるかな」
ハリーの隣で、ロンが小さく言った。
「キーノも怒ってたよ」
ハリーが答える。
「分かってるよ」
ロンは鞄を持ち直したが、二人がいる方へは動かなかった。
鬼太郎は次の教室へ目を向けた。
キーノと比べるつもりだった記録は、自分の紙に残っている。何をどの高さまで上げ、どう戻せたか。後で見ても分かるよう、足りない言葉を加えておけばよかった。
授業で教わったものが、一つ増えた。
しかし、今日この後、誰と何をするかまでは、同じ教室で決まるわけではなかった。
◆
キーノが戻ると、ハーマイオニーは手洗い場の端に本を置いていた。
開いてはいるが、指は同じ行にあった。
「伝えてきた」
声を掛けると、彼女が顔を上げる。
「みんなに?」
「鬼太郎と、ハリーたちに。どこにいるか、分からないままになるから」
ハーマイオニーは口を結んだが、責める言葉はなかった。
キーノは隣へ行き、自分の鞄を下ろした。
戸口から離れたところには、廊下の声が薄くしか届かない。
「今日は、楽しみにしてたんでしょう」
ハーマイオニーが言った。
「ごちそうも、飾りも」
「ああ」
キーノは答えた。
帳面にも書いてある。
何が出るか、ラベンダーたちと話した。大広間へ入れば、いつもと違うものを見られると思っていた。
「今からでも、見に行ってきたら」
「始まるまでは、まだ時間があるだろ」
ハーマイオニーは本へ目を落とした。
キーノも、鞄から帳面を出す。
開いた頁には、今朝の羽根の図があった。最初に端だけ上がったものと、低く浮かせたものが並んでいる。
彼女はその横へ、途中で杖を止めない、と書き足した。
「今日の、上がってたね」
ハーマイオニーが、帳面を見ていた。
「少しだけだ。お前の方が高かった」
「高さより、戻すところまで揃えるんでしょう。先生も言ってたわ」
「ああ。そっちは、まだ同じようにできない」
キーノが答える。
ハーマイオニーの指が、図の端へ寄りかけ、止まった。
「……見てもいい?」
キーノは帳面を、二人の間へ置き直した。
「そのつもりで、出した」
彼女は少しだけ、口元を動かした。
それで、朝のように話せる顔へ戻ったわけではない。しばらくすると、また目を伏せた。
キーノは急かさず、自分が書き足した行を読んだ。
ハロウィーンと書いた頁は、もう少し後ろにあった。
今日はまだ、終わっていなかった。