第九十二話 甘い包みに、答えはない
窓の外に、畑が見えるようになった。
建物の間から一瞬だけ覗いていた緑が、今は遠くまで続いている。線路沿いの柵が後ろへ流れ、その向こうで草を食べる動物は、ゆっくり顔を上げた。
キーノは話の途中でも、ときどき窓へ目を向けた。
森で見慣れた緑とは違う。
幹と枝に遮られず、ずっと先まで見えた。
「ブルガリアでも、こんなところに住んでたの?」
ハリーが尋ねる。
「もっと木が多い。窓から、こんなに遠くまでは見えないな」
キーノは答え、隣へ顔を戻した。
ハリーは、彼女が話す森のことを知らない。
代わりに、自分が暮らしていた家の近くの話をした。似た家が並ぶ通りと、その前にある庭。聞いていると、砦の門の外とは随分違った。
ロンが途中で、自分の家の庭には厄介なものがいると言い始めた。
キーノが何だと聞くと、ロンは少し身を乗り出して説明する。
先ほどより、言葉が続くようになっていた。
ただ、彼女が顔を向けたまま聞いていると、ときどき話の途中で目が泳ぐ。
鬼太郎はその隣で話を聞き、窓の外へも視線を向けていた。
車輪の音に慣れると、揺れの中でも声を聞き取りやすくなった。
しばらく話した後、客室が静かになる時間もあった。
ハリーがヘドウィグの籠を確かめ、ロンは荷物へ手を伸ばす。キーノは帳面を取り出しかけたが、遠くに見えた水面へ気づき、また窓へ顔を寄せた。
そのうち、通路から車輪の音が聞こえた。
汽車の下で鳴るものより小さく、扉の前で止まる。
キーノが振り返った。
◆
ハリーは、開いた扉の向こうを見た。
菓子を載せたワゴンがあった。
売り子の女性が、何か買うかと尋ねる。
ハリーは立ち上がった。
昼が近づき、腹が空いていた。知っているチョコレートがあれば買おうと思ったが、並ぶ包みには、見慣れない名前ばかりが書かれている。
蛙チョコレート。
百味ビーンズ。
かぼちゃのパイもあった。
ハリーが一つの包みへ目を向けると、女性が中身を教えてくれる。
次の包みも気になった。
ポケットには、買い物の後に残った魔法界のお金がある。どれか一つを諦める理由を探すより、知らない物を食べてみたい気持ちの方が強かった。
幾つも選ぶと、女性が代金を数えてくれた。
ハリーは硬貨を渡し、両腕に包みを抱えて席へ戻った。
ロンの膝には、持参したサンドイッチがあった。
包みを開いた彼は、中身を見て少し口を曲げる。
「母さん、これが好きじゃないって、忘れたんだと思う」
「何が入ってるんだ?」
キーノが聞く。
「コンビーフ」
ロンは答え、ハリーの抱える菓子へ目を向けた。
ハリーは座席へ包みを置き、かぼちゃのパイを一つ取り上げる。
「これ、一緒に食べない?」
差し出すと、ロンはサンドイッチを見た。
「でも、僕には、これしかないよ」
「それも少しもらえばいいし。こんなに買ったから、一人じゃ食べきれない」
ハリーは自分の分の包みも開いた。
交換なら、受け取りやすいだろうかと思った。
ロンが少し迷い、それからパイへ手を伸ばす。
ハリーも、差し出されたサンドイッチの一つを受け取った。
家では、ダドリーが食べる物を自分に分けてくれることはなかった。自分が選んだ物を、誰かへ渡すことも、ほとんどなかった。
ロンがパイをかじる。
その顔を見て、ハリーも自分の分を口へ運んだ。
甘く、朝に食べた物とは違う味がした。
「おいしいね」
「うん」
ロンの返事を聞き、ハリーは次の包みを二人の間へ置いた。
◆
鬼太郎もワゴンの前へ立ち、品物を見た。
キーノは彼の隣から、菓子の名前を読んでいる。
「蛙って、形のことだな?」
「チョコレートですからね」
「昨日は、キャベツが噛んだぞ」
鬼太郎は笑い、売り子へ目を向けた。
動くのか尋ねると、女性は、少しばかり元気なチョコレートだと教えてくれた。
キーノが包みを見直す。
「食べる前に、逃げるのか?」
「開けるときに気をつければ、大丈夫ですよ」
女性の声は慣れていた。
キーノは少し考えてから、一つ選んだ。
鬼太郎は蛙チョコと百味ビーンズ、それに腹の足しになる物を頼んだ。キーノの選んだ分も一緒に支払い、包みを分けて持つ。
席へ戻ると、ハリーとロンはすでに食べ始めていた。
鬼太郎はキーノへ彼女の分を渡した。
「開けてみます?」
「お前が先にやれ」
「ええ」
包みを膝の上で開く。
蛙の形をしたチョコレートが、後脚を縮めた。
跳ねる。
鬼太郎が包みを少し持ち上げると、チョコはその縁へ当たり、膝の上へ落ちた。
伸びた脚は、すぐに動かなくなった。
彼は指で拾い、掌へ載せる。
「形に合わせて動くのですね」
「一回跳ねたら、大体それで終わりだよ」
ロンが教えた。
鬼太郎は蛙の腹側まで見てから、頭の方をかじった。
普通に、甘いチョコレートだった。
動いていた脚も食べられるらしい。
キーノは自分の包みを開き、跳ねた蛙を両手の間で受け止めた。
「……これを、菓子にするんだな」
目の前へ持ち上げて眺める。
ロンが笑った。
「カードも入ってるよ。そっちを集めてる人もいる」
キーノは包みの底を見た。
チョコを押さえたまま、紙の角へ指を掛ける。
◆
百味ビーンズの箱を開くと、色の違う粒が重なっていた。
鬼太郎は箱を傾け、幾つかを掌へ出した。
白に近いもの。茶色いもの。表面に斑点のあるもの。
「名前のとおり、たくさん味があるのですね」
「変なのもあるから、気をつけた方がいいよ」
ロンが言う。
「変なもの?」
「食べ物じゃないような味まで入ってるんだ」
鬼太郎は茶色い一粒を、指の間へ取った。
表面を光へ向けてから、鼻先へ近づける。
甘い匂いが、僅かにした。
チョコレートか、煮詰めた砂糖だろうか。
口へ入れて噛む。
甘さの奥に、キャラメルの味が広がった。
「これは、食べ物ですね」
鬼太郎が言うと、ハリーが笑った。
「お菓子なのに、確かめないと分からないんだ」
「次も同じとは、限らないそうですから」
鬼太郎は淡い色の粒を選んだ。
匂いを確かめる。先ほどより、はっきりしなかった。
表面には細かな斑点がある。
果物だろうかと思い、噛んだ。
甘さの後に、胡椒の刺激が来た。
鬼太郎の指が止まる。
「……なるほど」
「何だった?」
「胡椒です。見た目からは、別の味を考えていました」
キーノが彼の掌を覗いた。
「匂いで分からなかったのか?」
「この粒では、分かりませんでした」
鬼太郎は残った粒を箱へ戻し、違う色のものを一つ取った。
緑色だった。
鼻先へ持っていくと、草に似た匂いが僅かにする。
噛んでから、彼は窓の外へ一度目を向けた。
畑の縁に、緑が続いている。
「草の味ですね」
「何で分かるんだ?」
キーノが尋ねる。
「匂いと、噛んだときの感じからです。どの草かまでは分かりませんが」
「お前、まだ食うのか」
「気になりますからね」
彼女は呆れた顔をした。
鬼太郎は箱の文字へ目を落とす。
菓子の中に、材料として入っているのだろうか。
それとも、食べたときの感覚を魔法で変えているのか。
草の匂いは、口へ入れる前にも少しあった。だが、それだけで本物の草を使っているとは決められない。
細い一粒の中へ、こんなに違う味を持たせる。
杖で働きを加えるのか。材料の調合や加工で変えるのか。
薬を作る知識と、通じるところもあるのだろうか。
「ロンさん。これは、どのように作るのか、ご存じです?」
「作り方? 知らないよ。僕、食べるだけだから」
「魔法で味をつけているのでしょうか。それとも、材料の合わせ方で?」
ロンは箱を見た。
「そこまでは、考えたことなかったな」
ハリーも、不思議そうに一粒を持ち上げる。
「どっちでも、こんな味を作ろうと思うのがすごいね」
「ええ。それを買う方も、いるのですから」
鬼太郎は自分の箱を少し持ち上げた。
キーノが鼻を鳴らす。
「お前も、買った方だぞ」
「はい。買ってよかったと思っています」
返事を聞いて、彼女は小さく笑った。
ロンが選びやすそうな色を指した。キーノは自分でも匂いを確かめ、赤みのある粒を食べる。
甘かった。
「これは、悪くない」
彼女が言うと、ロンはほっとしたような顔をした。
自分が食べたわけでもないのに。
キーノはそれを不思議に思ったが、隣でハリーが別の粒へ手を伸ばしたので、そちらを見た。
◆
ハリーは、蛙チョコの包みからカードを取り出した。
銀色の髪と髭の長い魔法使いが、そこにいた。
眼鏡の奥の目が、こちらを見る。
名を読むと、アルバス・ダンブルドアとあった。
「校長先生だよね?」
「うん。僕、そのカードは何枚も持ってる」
ロンが答え、自分の包みを裏返す。
ハリーはカードの説明へ目を向けた。
闇の魔法使いグリンデルバルドを破ったこと。ニコラス・フラメルと錬金術を研究したこと。ほかにも、よく知らない魔法の分野で名を残しているらしい。
最後の方には、甘い物や遊びに関する、少し変わった好みも書かれていた。
ハリーはもう一度、絵の顔を見た。
「すごい魔法使いなんだね。こんなに、いろんなことをしてる」
「ええ」
鬼太郎が答えた。
向かいを見ると、彼はハリーの持つカードへ目を向けていた。
「一度、手合わせしていただいたのですが、手も足も出ませんでした」
ハリーは瞬きをした。
「校長先生と?」
「はい。何をしても、余裕を持って防がれてしまって。あれほど違うと、教わりたいことも増えますね」
鬼太郎の声は、楽しそうだった。
キーノが彼へ顔を向けた。
眉を寄せ、口を結んでいる。
鬼太郎はその顔に気づき、穏やかに微笑んだ。
ロンが吹き出した。
「そりゃ、ダンブルドアならね。勝ったなんて言ったら、信じなかったよ」
ハリーもロンを見る。
ロンは笑いながら、鬼太郎の肩の方へ身体を向けていた。
「僕なら、挑む前に逃げるけど」
「挑む機会をいただけたのは、幸運でしたよ」
「それも、本人に言ったの?」
「ええ」
ロンがまた笑った。
キーノは額へ指を当て、それから自分の蛙チョコをかじった。
ハリーは、鬼太郎の顔を見直した。
どこまで冗談なのだろう。
ロンは冗談として聞いているようだった。けれど、鬼太郎は校長を面白おかしく言うより、できなかったことを本当に感心しているように話した。
まだ、会ったばかりだ。
冗談を言うときの顔も、ハリーには分からなかった。
手元へ目を戻す。
カードの中の魔法使いは、いなくなっていた。
「あれ? さっきまでいたのに」
「いつもそこにいるわけじゃないよ」
ロンが答えた。
ハリーはカードを裏返し、また表へ戻した。
空いた場所に、長い髭の先も残っていない。
キーノが隣から覗く。
「動くだけじゃなくて、いなくなるんだな」
「そのうち戻るよ」
ロンは自分のカードを示した。
そこでは、別の魔法使いが動いている。
キーノがカードを近づけて見比べると、ロンは説明を続けた。集めているカードと、なかなか手に入らないものの話だった。
ハリーは空いた絵の場所をもう一度見てから、カードを膝へ置いた。
包みの中には、まだ菓子がある。
今度はロンに尋ねてから、次の一つを選んだ。
◆
鬼太郎は、カードに記された経歴を思い返した。
ダンブルドアから、教わっていることは多い。
それでも、あの老人が長い年月で調べてきたことの、一部にしか触れていないのだろう。
錬金術。
菓子の味を作る話と同じ仕組みとは限らないが、物を調べ、変える知識には興味があった。
鬼太郎は箱から次の一粒を選び、色を見た。
また、違う匂いがする。
どのように働きを残し、いつ終えるのか。
蛙の脚は、一度跳ねただけで止まった。
カードの絵は、持ち主が杖を向けなくても動き、枠の外へ姿を消す。
店の箒も、鞄も、菓子も。
目の前で起きることを見ているだけでは、作り方までは分からない。
鬼太郎は豆を口へ入れた。
今度は、甘い果物の味だった。
向かいでキーノが、自分の帳面を開く。
「書いておくのですか?」
「絵のこと。動くだけじゃなくて、いなくなるのも、聞きたい」
彼女は短く書き足し、インクが乾くのを待った。
ロンが帳面を見ている。
「授業で、教えてもらえるかもしれないね」
「何の授業だ?」
「……それは、分からないけど」
キーノが顔を上げると、ロンは少し慌てて付け足した。
「でも、先生なら知ってると思うよ」
「なら、聞く」
彼女は帳面を閉じた。
鬼太郎も箱の口を畳み、残りをしまう。
「僕も、尋ねたいことができました」
「菓子の味か?」
「ええ。どう作るのかを」
キーノは彼を見て、呆れたように口元を緩めた。
「食べるだけでも、いちいち忙しいな、お前は」
鬼太郎は笑った。
窓の外では、畑が次の畑へ変わっていく。
ハリーが残ったパイをロンへ差し出し、ロンは半分でいいと言って割った。
その欠片を受け取る間、ハリーのカードへ、銀色の髭が戻っていた。
キーノが先に気づいて、指を差す。
ハリーがカードを持ち上げ、ロンも覗き込んだ。
鬼太郎は向かいの三人を見てから、膝の上の包み紙を畳んだ。
学校へ着くまでには、まだ時間がある。
次に何を開けるか、ハリーがロンへ尋ねていた。