第93話 通路にいた二匹
大広間の天井を、小さな黒い影が横切った。
コウモリだった。
かぼちゃに灯った火が、その下で揺れる。朝から話題になっていた飾りを見上げ、生徒たちが食卓で声を弾ませていた。
鬼太郎は、入口へ目を向けた。
キーノは、まだ来なかった。
ハーマイオニーもいない。
帳面に書いて待っていた日だ。二人が後から来ても、何か食べられるかは確かめておきたかった。
卓には、切り分ける前の菓子も並んでいた。どれが気になるか、キーノなら先に指で示しただろう。
鬼太郎は皿へ料理を取ったが、入口が開くたびに目を向けた。
「キーノも、まだ一緒かな」
ハリーが言った。
「戻ってくるときは、一緒に来ると伺いました」
鬼太郎が答えると、ロンが小さく息を吐いた。何か言いたげに口を動かし、それから皿へ目を落とす。
あの場で言えなかった言葉があるのだろう。二人が来ても、それを代わりに伝えるつもりはなかった。
向かいでは、ハリーが空いた席を見ている。ロンは皿へ料理を取りかけ、少しだけ手を止めた。
そのとき、大広間の扉が開いた。
クィレルが駆け込んできた。
ターバンが傾き、教師の席へ向かう足も揃っていない。食卓の端へ手を掛け、ようやく立った。
「ト、トロールが……地下に……!」
声が裏返った。
教師たちが顔を向ける。
クィレルは何か言い足そうと口を開け、そのまま床へ崩れた。
椅子が鳴った。
悲鳴と、生徒たちの声が重なる。
鬼太郎はもう立っていた。
女子トイレにいる二人は、今の報告を聞いていない。
卓の脇へ出る。
「鬼太郎?」
ハリーが呼んだ。
「キーノさんたちへ、知らせに行きます」
答えたときには、次の椅子の横を抜けていた。
ダンブルドアの声が、広間へ響く。
「静まれ!」
ざわめきが止まったところへ、監督生の指示で寮へ戻るようにと告げられる。
鬼太郎は出口へ進んだ。
立ち上がった生徒を監督生が集め、教師たちがその間を通る。フリットウィックは入口のそばで列を止め、前が空くまで待たせていた。
鬼太郎は、まだ廊下が混み合う前に外へ出た。
背後でハリーの声がした。
「二人とも、トロールを知らないんだ」
続いて、椅子を引く音が二つ重なった。鬼太郎は振り返らず、階段へ続く方へ向かった。
◆
ミネルバは、フリットウィックへ声を掛けた。
「寮へ着くまでの廊下を確保してください。教室や途中の部屋に、取り残された者がいないかも確認を」
「分かった。こちらは任せて」
地下へ戻す生徒には、先に道を確かめる必要がある。教師全員が、報告のあった場所へ集まるわけにはいかなかった。
ミネルバはスネイプたちと先へ進んだ。
地下へ下りると、異臭がした。
角の先から、重いものを引きずる音が届く。
スネイプが杖を上げた。
灰色の巨体が現れる。小さな頭の下で肩が大きく張り、片手には棍棒を握っていた。
「下がって」
ミネルバは後ろの教師へ告げた。
棍棒が上がる。
杖から放たれた光が腕へ届き、振り下ろす向きが逸れた。
壁へぶつかる。
石の欠片が散った。
ミネルバは飛んできた破片を退け、相手の脚へ目を向けた。
「セブルス。階段へ近づけないように」
「分かっている」
黒いローブが横へ動いた。
別の教師が後方へ下がり、通路へ来かけた生徒を角の手前で止めた。監督生が列の向きを変え、離れた廊下へ導いていく。
棍棒の届く先と、生徒が通る先を重ねるわけにはいかない。
ミネルバは相手を見ながら、背後の足音が遠ざかるのを聞いた。
上では、まだ生徒たちが列を作っている。ここから先へ巨体を通せば、その道まで塞がれてしまう。
まず、この場所で動きを止める。
ミネルバは杖を向け直した。
報告されたトロールは、目の前にいた。ほかにもいるという知らせは、届いていなかった。
◆
鬼太郎は、階段へ続く通路の手前で足を緩めた。
先に、二つの影がある。
頭の位置が低かった。だが、四本脚ではない。毛に覆われた身体を二本の脚で支え、片手に刃物を持っていた。
一匹が、こちらを向く。
「オイ。ニンゲンがキタゾ」
言葉だった。
奥の一匹も顔を出し、歯を剥いた。
「コゾウがイッピキか。オレのエモノだな」
鬼太郎は右手で黒檀を抜いた。
手前の一匹は左の壁に近く、もう一匹はその後ろにいた。刃を握る手も、少し重なって見える。
後ろに教師の姿はない。
向こうへ抜けるには、二匹の横を通る必要があった。
「そこを空けていただけるなら、先へ行きたいのですが」
手前の一匹が笑った。
「ドコへイク気だ、テメェ。ソノツエもニクも、ココにオイテケ!」
刃が上がった。
鬼太郎は左手を向けた。
内側のMAGを集め、手前の顔と肩を狙う。
「ザン」
風が横から打ちつけた。
相手の首が捻れ、踏み出した足が壁へ寄った。肩が石へぶつかり、刃の先がこちらから外れる。
倒れはしなかった。
相手は身体を起こしかけ、鬼太郎の左手を見た。
杖のある方ではなかった。
「グッ……テメェ、マホウをツカウジャネエカ! ハナシガチガウゾ!」
「ウルセェ、オレがヤル!」
奥の一匹が、その横から飛び出した。
鬼太郎は左手へ杖を渡した。
空いた右手を腰へ下ろし、専用ホルスターからケストレルを抜く。
相手の目は、まだ長い黒檀を追っていた。
胸へ銃口を向ける。
一発目。
乾いた音が、通路へ響いた。
胸が跳ね、相手の身体が後ろへ傾いた。それでも脚は前へ残り、刃が伸びてくる。
鬼太郎は右へ一歩ずれた。
制服の前を刃が通り、振り切る腕の向こうへ胸が開く。
二発目を撃った。
身体が折れ、床へ落ちる。
鬼太郎は、そこで目を留めかけた。
倒れた背中が、崩れていた。
毛の輪郭が細かな粒へほどけ、握っていた刃物まで同じように薄くなる。
壁の方から、声が来た。
「テメェ……ヨクモ!」
鬼太郎は銃口を戻した。
残った一匹は、その向きを見た。
一匹目とは違った。銃口を向ければ、その前を避ける。何を撃たれたか知らなくても、二度の音と倒れた身体から、危ない手を選び直していた。
鬼太郎は左の杖を少し外へ置いた。
相手の目が動く。
まっすぐには来ない。身体を沈め、杖を持つ左腕へ向けて、短い刃を突き出した。
鬼太郎は腕を引いた。
相手の肩の外へ、脚を運ぶ。大きく背後へ回ろうとすれば、追ってくる刃へ自分の脇を向ける。
半歩だけ、線を外した。
左の杖先を、相手が顔を向け直す位置へ置く。
「ルーモス」
白い光が、一瞬だけ弾けた。
相手が瞼を閉じる。
刃は止まらなかった。目を閉じたまま、鬼太郎のいた方へ腕を薙ぐ。
鬼太郎はもう一歩、離れていた。
振った腕の下へ、右手の銃を向ける。
三発目。
脇腹へ当たり、上体が傾く。
相手の足が、床を掻いた。
まだ、立て直そうとしている。
鬼太郎は銃口を上げ、四発目を撃った。
相手が倒れた。
刃物の柄から、指が離れる。
その先が床へ触れる前に、粒子へ変わった。腕、肩、刃物の輪郭が、後を追ってほどけていく。
鬼太郎は銃口を下げなかった。
一匹目のいたところには、もう何もない。
後ろから、走る足音が近づいた。
◆
角を曲がったハリーは、立ち止まりかけた。
鬼太郎がいた。
その足元で、毛に覆われた身体が崩れている。
頭も、脚も、小さな粒へ変わった。握っていたはずの刃まで消え、向こうの石床が見える。
さっきの破裂音が、まだ耳に残っていた。
ロンが隣へ追いつく。
「何だよ、今の……」
ハリーは鬼太郎の右手を見た。
銃だった。
テレビで見たことがある。写真にも写っていた。だが、目の前で誰かが使うところを、こんなに近くで見たことはなかった。
鬼太郎の左手には、杖もある。
彼が二人へ顔を向けた。
何か言うのかと思うと、その手が止まった。
目が、杖へ落ちる。
◆
黒檀の内側へ、何かが入ってきた。
鬼太郎は杖を見た。
呪文を使うときのように、こちらから魔力を送り出しているのではない。
二匹の消えた場所から、細い流れが寄っていた。散って薄れるはずの粒の一部が、黒い杖へ吸い込まれていく。
何も命じてはいなかった。
止めるために振ったわけでもない。
それでも、流れの中には、知っている力の感触があった。
MAG。
鬼太郎は息を止めた。
自分の中にもある力が、消えた相手から黒檀へ入っている。
低い身体。歯を剥いて話す口。刃を握り、こちらへ跳びかかってきた姿。
その輪郭へ、名前が戻った。
コボルト。
悪魔だった。
鬼太郎は床を見た。
前に知っていた者たちを、こちらの世界では見ていなかった。魔法生物の本で探しても、人から話を聞いても、そのまま同じ名が戻ってくることはなかった。
今、二匹がいた。
なぜ、ここに。
風を受けた一匹は、話が違うと叫んだ。
誰かから聞かされて来たのだろうか。何を聞き、どこから来たのか。
名前が戻っても、その答えまではなかった。
杖がMAGを取り込む理由も、分からない。
黒檀を握る指へ、力が入った。
取り込ませようと集中したわけではない。いつものように杖を持ち、そこに立っていただけだ。それが、自分の知らない働きをしていた。
確かめたいことが、幾つも浮かぶ。
だが、杖だけを見ていれば、通路の先は見えなくなる。鬼太郎は顔を上げ、二匹のいた奥と、その先の角を確かめた。
右手に残った銃の重さで、鬼太郎は指を締め直した。
まだ、キーノのところへ着いていない。
「鬼太郎。今の、何が――」
ハリーの声に、顔を上げる。
銃を右腰のホルスターへ戻した。撃ったのは四発。その数を残し、空いた右手で杖を受け直す。
「二人のところへ、先に行きましょう。今のことは、その後で」
声を出すと、足も動いた。
最後の粒が、黒檀へ消える。
身体も、刃物も、床には残っていなかった。
鬼太郎は通路の先へ向かった。ハリーとロンも、遅れて続く。
◆
階段へ入ると、上から重い音が届いた。
鬼太郎は踊り場の手前で止まる。
手すりの向こうに、灰色の脚が見えた。
太い胴体と、その上の小さな頭。握った棍棒の先が、石段へ触れている。
腐ったような臭いが下りてきた。
「トロール……」
ロンが息を呑む。
地下にいるという報告だった。
ここは、二人がいる女子トイレへ続く階段だ。
トロールが一段、下りようとした。
鬼太郎は棍棒の向きと、身体の横の隙間を見た。
向こうへ抜ける場所はある。だが、ここへ下りてこられれば塞がる。
立ち止まって倒すまで戦う間も、女子トイレの二人は何も知らない。
「ハリーさん。ロンさん」
二人へ顔を向けた。
「知らせに行く間、こちらを引きつけていただけますか」
ロンが、階段の上を見た。
「これを?」
「倒そうとして近づく必要はありません。下へ逃げられるところから、声を掛けてください。棍棒の届くところへは、入らないように」
ハリーも上の廊下を見た。
「二人は、まだ何も知らないんだよね」
ハリーが言った。
鬼太郎は頷いた。
「分かった。先に行って」
ハリーが杖を握った。
ロンは一度、唇を舐めた。
「こっちへ呼べば、いいんだな」
「ええ。逃げ道を空けたままで」
鬼太郎は頷いた。
二人は数段戻り、柱の陰へ移った。
「おい!」
ロンが声を張った。
「こっちだ!」
小さな頭が向く。
ハリーも手すりの間から声を掛け、すぐに身体を引いた。
棍棒が上がった。
鬼太郎は上へ走った。
壁と巨体の間には、人一人分の隙間があった。身体を低くし、棍棒を持たない側へ抜ける。
空いた手が、こちらへ動いた。
指が届く前に、踊り場を蹴る。
背後で石が砕けた。
鬼太郎は廊下へ入った。
先に二人を見つける。その後で、戻れるかを確かめるしかなかった。
◆
女子トイレで、キーノは鞄の紐を拾い上げた。
ハーマイオニーは洗面台の前にいる。顔を洗った後も、目の赤さは残っていた。
「もう、宴席は始まってるわね」
「今からでも、食べられるだろう」
キーノは答えた。
大広間がどんな風に変わったか、まだ見ていない。
遅くなっても、二人で見に行けばよかった。
ハーマイオニーが本を鞄へ収める。
「遅くなって、ごめんね」
キーノは顔を上げた。
「私が、ここにいると決めたんだ」
ハーマイオニーは少し黙った。それから、鞄の口を閉じる。
キーノも帳面を確かめた。余白を残した頁には、今日の食事のことを、まだ書ける。
廊下へ出たら、何から話せばよいか。ハーマイオニーが困るなら、まず飾りを見ればよかった。二人で同じ方を見ていれば、黙っていてもよいだろう。
扉の向こうで、足音がした。
大きかった。
キーノは紐を握ったまま、入口を見た。
次の一歩が、もっと近くで鳴る。
「待て」
ハーマイオニーが止まった。
臭いがした。
食事の匂いではない。腐ったものに似た臭いが、入口から流れてきた。
扉が押された。
枠へ、大きな肩がつかえる。
木が軋み、灰色の身体が入ってきた。
キーノは鞄を離し、ハーマイオニーの腕を引いた。
棍棒が、さっきまで二人のいた方へ下りる。
洗面台の端が砕けた。
陶器の破片が滑り、水が噴き出す。
ハーマイオニーの悲鳴が響いた。
キーノは松の杖を抜いた。
「下がれ!」
彼女を奥へ押し、自分も砕けたものから離れる。
入口は、相手の身体で埋まっていた。
◆
鬼太郎の耳へ、何かを砕く音が届いた。
続いて、悲鳴。
脚を速める。
女子トイレの扉が見えた。片側が斜めに傾き、その下から水が流れ出している。
中に、大きな背中があった。
鬼太郎は、入口の前で一歩だけ速度を落とした。
階段の相手は、後ろに残した。
こちらの身体には、別の棍棒を握る腕がついている。
もう一体いた。
「下がれ、ハーマイオニー!」
キーノの声がする。
鬼太郎は入口の脇へ踏み込み、黒檀を上げた。
灰色の向こうに、松の杖を握った彼女が見えた。その後ろで、ハーマイオニーが壁へ背をつけている。
二人とも、そこにいた。
棍棒を持つ腕が、動き始めた。