第九十三話 継ぎ目の先に、目を留める
ロンの上着の中で、小さなものが動いた。
彼は食べかけの菓子を脇へ置き、ポケットへ手を入れる。
出てきたのは、灰色のネズミだった。
掌の上でも目を開けず、丸くなっている。ロンが膝へ下ろすと、鼻先だけが僅かに動いた。
「こいつ、スキャバーズ。寝てばっかりなんだ」
ハリーが身体を傾けた。
キーノも、その向かいの小さな背へ目を向ける。
「汽車が動いてても、起きないのか」
「いつも、こんなだよ」
ロンはネズミの背を指で撫でた。
「前はパーシーのだったんだ。監督生になってフクロウを買ってもらったから、僕がもらった」
「兄さんから?」
ハリーが尋ねると、ロンは頷いた。
杖も兄から譲られたものだという。
話しているうちに、ロンの声が少し低くなった。
「新しいものって、あんまりないんだ。こいつまで、お下がり」
鬼太郎はネズミを見た。
道具なら、手入れをして使い続けることはある。
だが、兄が飼っていた生き物を、弟が引き継ぐ。
「パーシーさんは、何年ほど飼っていらしたのです?」
ロンが隣を向いた。
「何年だろう。僕が小さい頃からいたよ」
「学校へ入る前からですか?」
「うん。パーシーは今、五年生だけど、その前からいた。僕、家にこいつがいなかったときは、覚えてないんだ」
鬼太郎の目が、膝の上へ戻った。
五年生になる兄が、入学する以前から飼っていた。
それだけでも、普通のネズミの寿命としては長すぎる。
灰色の毛は少しくたびれて見えた。だが、ここまで生き続ける理由が分かるような特徴は、今見えている範囲にはなかった。
ネズミに似た魔法生物でしょうか。
森にも、普通の生き物に見えて、異なる働きを持つものがいた。
魔法で何かされている可能性もある。
鬼太郎はロンへ目を戻した。
本人は、長く家にいることを不思議に思っていないようだった。
飼っていた兄がどう手に入れたかも、今の話だけでは分からない。
「長く暮らしているのですね」
「そう。でも、特に何もしないよ」
ロンが答える。
鬼太郎はそれ以上、質問を重ねなかった。
何も知らない相手から、同じ答えを繰り返し聞いても仕方がない。
覚えておけばよい。
学校の本には、こういう生き物についても記されているかもしれなかった。
◆
扉の外へ、人影が止まった。
丸顔の少年が、中へ顔を覗かせる。
目の辺りが赤く、両手には何も持っていなかった。
「ヒキガエル、見なかった?」
ハリーは客室の床を見た。
自分たちの荷物と、靴の先がある。
「ここには、来てないと思う」
「どんなのだ?」
キーノが尋ねる。
少年は名前がトレバーだと答え、どれほどの大きさか手で示した。話している間にも、視線が座席の下へ動く。
鬼太郎も足元を確かめた。
「こちらでは、見かけていませんね」
「また逃げたんだ。いつも、どこかへ行っちゃう」
少年は唇を噛み、通路の先を見た。
誰かに呼ばれたのかと思ったが、そこから声は聞こえなかった。
「ありがとう。ほかも探してみる」
扉が閉まる。
ハリーは遠ざかる足音を聞いた。
ヘドウィグの籠へ目を向ける。白いフクロウは止まり木にいて、こちらを見返した。
ロンは膝のネズミへ手を置いた。
「こいつは、あんなふうに探し回ることはないよ。寝てるから」
「逃げないのは、いいことだろ」
キーノが言う。
ロンは彼女を見て、少し肩を動かした。
「まあ、そうだけど」
それから、荷物の方へ手を伸ばす。
「ジョージが、色を変える呪文を教えてくれたんだ。黄色くしたら、少しは見栄えがするかも」
ハリーが顔を上げた。
「できるの?」
「まだ、うまくいったことはないけど」
ロンは杖を取り出した。
少しくたびれた木の先から、白いものが覗いている。
鬼太郎の目がそこへ留まると、ロンは杖を持ち直した。
「これも、兄さんのなんだ」
「使い込まれているのですね」
鬼太郎は答え、ロンの膝から菓子の包みを離した。
スキャバーズのいるところを、見やすくする。
キーノも窓から身体を戻した。
◆
ロンが杖を構えたところで、扉が開いた。
先ほどの少年と、一人の少女が立っていた。
ふさふさした髪が顔の周りへ広がっている。少女の目は客室の奥まで動き、最後にロンの手で止まった。
「ネビルのヒキガエルを探しているの。ここでは見ていない?」
「さっきも聞かれたけど、見てないよ」
ロンが答えた。
少女は丸顔の少年へ頷き、それから杖へ目を戻す。
「呪文を使うところ?」
「そう」
「見てもいい? 何の呪文なの?」
ロンは膝の上を示した。
「こいつを、黄色くするんだ」
少女はネズミを見た。
ハリーもキーノも、ロンの手元へ目を向けている。
ロンは一度喉を鳴らし、杖を持つ腕を上げ直した。
教わった言葉を口にする。
短い歌のように韻を踏んだ言葉だった。
最後にネズミの色が変わるよう命じ、杖を振る。
スキャバーズは、灰色のままだった。
鼻が僅かに動いた。
眠ったまま、ロンの膝へ身体を寄せる。
ロンは杖を下げた。
少女が眉を寄せる。
「それ、本当に呪文なの? 私が本で読んだものとは、随分違うけれど」
「兄さんに、そう教わったんだよ」
ロンの声が硬くなった。
少女はまだ何か言いそうだったが、鬼太郎が彼の手元へ目を向けたまま口を開いた。
「ジョージさんが使うところも、ご覧になりました?」
ロンが隣を見る。
「いや。言葉を教えてくれたんだ」
「では、杖の動かし方も、一度見せてもらうとよいかもしれません。言葉だけでは、分からないところもありますから」
「動かし方?」
「ええ。振る向きや、言葉と合わせる時機です。僕も、最初は教わったとおりに言ったつもりで、うまくいかないことがありました」
ロンは杖を見た。
鬼太郎はその先へ視線を移し、それから彼へ戻す。
「本に載っているなら、手順を比べられますね。なければ、お兄さんにどこで覚えたのか聞くこともできます」
「君は、この呪文、知ってる?」
「いいえ。ですから、今の動かし方が正しいかは、僕には分かりません」
鬼太郎の返事に、ロンの肩から少し力が抜けた。
できなかったところを見られた。
キーノにも、知らない少女にも。
ジョージに何かされたのかもしれないという考えも浮かんだが、それを今、皆の前で言う気にはなれなかった。
鬼太郎は笑っていなかった。
少なくとも、失敗したことを面白がる顔ではない。
「……今度、聞いてみるよ」
「ええ。実際に使うところを見られれば、確かめやすいでしょう」
ロンは頷き、杖を膝へ下ろした。
隣の少年は、変わった冗談を言う。
だが、こういうときには、話しやすいのかもしれなかった。
◆
「私はハーマイオニー・グレンジャー」
少女が名乗った。
話を止められたことに腹を立てた様子はなく、自分も教科書を読んで試した呪文があると言う。
「あなたたちは?」
「ロン・ウィーズリー」
ロンが答えた。
キーノも彼女へ顔を向ける。
「キーノ・ファスリス・インベルンだ。キーノでいい」
「墓場鬼太郎です。よろしくお願いします、ハーマイオニーさん」
鬼太郎が続けると、ハーマイオニーは聞き慣れない名前を確かめるように繰り返した。
その隣で、丸顔の少年も口を開いた。
「僕は、ネビル・ロングボトム」
ハリーが最後に名乗る。
ハーマイオニーの目が大きくなった。
「ハリー・ポッター? あなたのこと、本で読んだわ」
「僕のこと?」
ハリーが聞き返す。
彼女は魔法界について買って読んだ本の名を幾つか挙げた。その中にハリーの話が載っていたらしい。
ハリーは眼鏡の位置を直した。
知らない本の中にも、自分がいる。
自分では覚えていないことを、彼女も知っている。
「僕は、その本、読んでないんだ」
「学校の教科書とは別に買ったの。知らないことばかりだったから、入学する前に少しでも分かっておきたくて」
ハーマイオニーは言い、それからハリーの眼鏡へ目を留めた。
「そこ、壊れているの?」
ハリーは枠へ手を当てた。
テープを巻いてあるところだった。
「前に壊れて、こうして使ってるんだ」
「直してみてもいい? 修復の呪文なら、練習したことがあるわ」
ハリーは迷い、隣のキーノを一度見た。
彼女は眼鏡とハーマイオニーの杖を見比べていた。
鬼太郎も、二人へ目を向けている。
「……じゃあ、お願い」
ハリーは眼鏡を外し、彼女へ渡した。
ハーマイオニーは壊れた継ぎ目を確かめ、テープの端を慎重に剥がした。
外れた部分を掌へ収めてから、杖を近づける。
「レパロ」
破損したところが動いた。
曲がっていた枠が戻り、ずれていた継ぎ目が合う。
ハーマイオニーは眼鏡を持ち上げ、左右の形を確かめた。
「はい」
ハリーが受け取る。
掛けると、鼻の上に当たる感触が変わっていた。
いつも片側だけ僅かに下がっていた視界が、まっすぐになる。
枠を指で触った。
継ぎ目は、離れなかった。
「すごい。本当に直ってる」
ハーマイオニーの口元が、嬉しそうに上がった。
◆
鬼太郎は、彼女が杖をしまう前に声を掛けた。
「その呪文は、いつ頃から練習されているのです?」
「教科書を買ってからよ。夏の間に」
「どなたかに教わったのですか?」
「いいえ。本の説明を読んで、自分で試したの。両親は魔法使いではないから」
ハーマイオニーは答え、それから少し早口になった。
「最初から全部できたわけではないわ。杖の動かし方を読み直したり、どこを直すのか、ちゃんと見たり。何度かやってみたら、できるようになったの」
鬼太郎は、ハリーの眼鏡へ目を向けた。
壊れた場所を見て、覆っていたものを外す。
部品を落とさず、一つの対象として扱う。
呪文を使ってからの継ぎ目にも、目立つずれはなかった。
自分が同じ呪文を初めて教わった日の、枝の折れ口を思い出す。
言えば戻るというものではなかった。
発動した後も、どこをどのようにつなぐかで違いがあった。
「独学で、そこまで揃えられたのですね」
ハーマイオニーが彼を見る。
「継ぎ目が合うまで迷いがなく、枠の形も戻っています。直した後に確かめていらしたのも、よいと思います」
「あなたも、レパロを使うの?」
「ええ。練習しています。ですから、今の扱いが丁寧だったことは分かります」
ハーマイオニーは胸を少し張った。
褒められて嬉しいという気持ちが、素直に顔へ出ている。
「説明に、対象をよく見るよう書いてあったから。できたつもりで終わると、直っていないところを見落とすでしょう?」
「そうですね」
鬼太郎は頷いた。
自分が理解できなかったところを、そのままにしない。
本を買い、試し、できなければ戻って確かめる。
そのための時間を、まだ授業が始まる前から使っている。
伸びるでしょうね、この子は。
今の一度だけで、何でもできると決めるつもりはない。
だが、知識を得ようとする姿勢と、その知識を形にする手は見えた。
学校には、自分がまだ知らないことが多い。
それを調べ、自分のものにしようとする者が、近くにいる。
今後、使えるかもしれませんね。
鬼太郎の笑みが深くなった。
◆
キーノは、その顔を見ていた。
呪文を見ている間は、まだ普通だった。
いや、箒や菓子の作り方を気にしていたときと同じ、何かを考える顔ではあった。
だが、ハーマイオニーの話を聞くうちに、口元が変わった。
キーノは膝に残していた包み紙をまとめ、立ち上がる。
向かいへ一歩寄り、鬼太郎の脇腹を小突いた。
彼がこちらを見る。
「どうしました?」
キーノは声を落とした。
「いつもの悪い顔をしてるぞ」
「よく学んでいらっしゃると思っただけですよ」
「その後だ」
鬼太郎は微笑んだ。
キーノは彼を睨み、空いている包みを受け取ると、自分の席へ戻った。
初めて話した相手を、もう何かの役に立てるつもりらしい。
教科書を読んで、呪文を使ってみせたハーマイオニーは、そのことを知らない。
彼女は今、ハリーに、ほかにも予習したことを話している。
キーノが座ると、ハーマイオニーはこちらへ顔を向けた。
「あなたも、もう呪文を練習しているの?」
「明かりを出すのと、消すのだけだ」
「ルーモスとノックスね」
「そう」
キーノは答えた。
名前を言う前に、相手には通じていた。
「教科書だけで覚えたのか?」
「まず説明を読んで、分からないところを何度も見たわ。魔法界で育ったわけではないから、知っているつもりになれないでしょう?」
キーノは、砦で開いていた本を思い出した。
読める字でも、意味の分からない言葉はあった。
尋ね、書いて、次の頁へ進んだ。
「……分からない言葉、多いな」
「ええ。だから、ほかの本も役に立つの」
ハーマイオニーが頷く。
キーノも、ほんの少し頷き返した。
同じことを思っている相手も、いるらしかった。
◆
通路から、また足音が聞こえた。
ネビルがそちらへ顔を向け、それからハーマイオニーの袖へ目を落とす。
ハーマイオニーはすぐに気づいた。
「そうだった。まだトレバーを探している途中なの」
彼女は扉の方へ身体を戻した。
「見つけたら、教えてね」
「分かった」
ハリーが答える。
ネビルも小さく礼を言った。
鬼太郎は顔と名前を確かめ、軽く頷く。
「見かけたら、お声を掛けます」
二人が通路へ出ると、扉が閉まった。
ロンはその方をしばらく見ていた。
「ずいぶん、本を読んでるんだな」
膝の上で、スキャバーズが姿勢を変える。
灰色の背を見て、ロンは杖をしまった。
ハリーはまだ、眼鏡の枠を指で触っている。
「僕も、もっと読んでおけばよかったかな」
「学校で、これから学ぶのでしょう。今からでも読めますよ」
鬼太郎が答えた。
ロンは隣の顔を見た。
「さっきの、杖の動かし方の話だけど」
「はい」
「本に、どんなふうに書いてあるか、後で見てみるよ」
「ええ。お兄さんに尋ねるときも、聞きたいことを決めやすくなると思います」
ロンは頷いた。
ハリーが眼鏡から手を離し、残していた菓子の包みを開く。
キーノは鬼太郎を一度だけ見た。
彼は穏やかな顔に戻っている。
さっきの笑みを、見間違えたわけではなかった。
窓の外で、木々が近づいてきた。
その枝が光を遮るたび、四人の座る客室へ、短い影が通り過ぎていった。