第94話 噛みついた顎
黒檀の先を、鬼太郎は灰色の肩から顔へ上げた。
「こちらですよ」
入口の脇で声を掛ける。
小さな頭が動いた。棍棒を振り上げていた腕も、つられて横へ向く。
「ルーモス」
白い光が弾けた。
トロールが目を閉じる。振り始めた腕は止まらず、棍棒の先が個室の仕切りへ突っ込んだ。板が割れ、蝶番のついた一枚が傾く。
鬼太郎は杖を引き、入口から壁沿いへ動いた。
自分の目にも、白いものが薄く残っている。その向こうでキーノがハーマイオニーの腕を引き、砕けた洗面台から離れた。
「鬼太郎!」
「怪我は?」
「まだ、してない」
松の杖が、灰色の背中へ向いていた。
その後ろで、ハーマイオニーが壁に手をついている。杖は持っていたが、先が下を向いていた。
「入口へ出られるよう、待っていてください」
鬼太郎は相手から目を離さずに言った。
声を聞き、トロールが顔を向け直す。頭に比べて肩が大きい。森で取引をした者たちとは、身体の釣り合いが違って見えた。
「言葉は分かりますか。二人を外へ出したいのですが」
喉の奥から、低い音がした。
「そこを通していただけませんか」
棍棒が仕切り板から抜けた。
鬼太郎は相手の肘を見て、横へ踏み出した。さっきまで立っていた場所へ木の先が落ち、水と陶器の欠片が跳ねる。
返事を待つ間は、もうなかった。
相手が腕を引く。鬼太郎はその足へ、黒檀を向けた。
「リクタスセンプラ」
呪文の光が脛へ届いた。
皮膚の上で散る。
脚は止まらなかった。授業で向かいに立った生徒のように、膝を折ったり、身をよじったりもしない。
小さな目だけが、鬼太郎を追った。
トロールが一歩、近づく。
鬼太郎は後ろへ下がった。
入口へ近づけば相手もついてくる。だが、巨体の向こうからキーノたちが抜けるには、その横を通らなければならない。棍棒を振り回す腕と、空いた手の両方が届く。
自分に向けさせるだけでは、足りなかった。
床に、仕切りの細い木片が落ちていた。
鬼太郎はそこへ杖先を下ろした。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
木片の端が浮いた。
羽根より重い。持ち上げようと力を込めると、先端が急に跳ねた。狙っていた顔の高さへ運ぶ前に、相手の脚が動く。
鬼太郎は呪文を切り、壁際へ身を引いた。
棍棒が、木片ごと床を叩いた。
水が靴へ掛かる。
今朝の羽根なら、上げてから考える時間があった。ここでは、浮いたものを見ている間に、相手が次の場所へ来る。
鬼太郎は左手を開いた。
その先に、キーノの松杖と、ハーマイオニーの顔が見える。
できれば、学校で教わったものだけで済ませたかった。
だが、知っている呪文を順に試していれば、通してくれる相手ではない。
棍棒が横へ動いた。
鬼太郎は膝を曲げた。頭の上を木が通り、壁の端が削れる。飛んだ欠片を避けて起き上がると、トロールの目がもうこちらを見ていなかった。
手洗い場の向こう。
壁に背をつけた、動かない少女へ向いている。
鬼太郎は床を蹴った。
◆
キーノは、灰色の足がこちらへ向くのを見た。
今まで鬼太郎を追っていた身体が、半分だけ回る。
「ハーマイオニー、動け!」
彼女の肩が跳ねた。
足は動かなかった。
頭の上で棍棒が上がる。ハーマイオニーはそれを見たまま、壁へついた指を曲げた。
キーノは右手の杖を握り込んだまま、彼女の袖をつかんだ。
引く。
身体が少しだけ傾いた。それでも足がついてこない。
もう一度引く間はなかった。
キーノは肩からぶつかり、彼女を横へ押した。二人の靴が濡れた床を滑り、倒れた板のそばへ崩れる。
壁が砕けた。
大きな音の中で、左腕に熱いものが走った。
キーノは肘を引いた。
袖が開いていた。
その下に、赤い線がある。石の欠片が腕の外側を裂き、血が布へ広がっていく。
遅れて、痛みが来た。
「キーノ……!」
「立てるか」
キーノは右手を伸ばした。
ハーマイオニーは起き上がりかけ、途中で動きを止めた。
その目が、左腕を見ている。
キーノも見た。
裂けた皮膚の端が、少しずつ寄っていた。
まだ血は流れている。熱さも消えない。だが、開いていた傷は、そのままの形では残っていなかった。
袖で隠そうとした。
布は裂け、濡れて腕へ貼りついている。右手には杖もあった。引っ張ったところで、彼女がもう見たものを覆うことはできなかった。
「あなた、その……」
声が途切れた。
続きを聞きたくなかった。
同じ教科書を開いて、分からないところを尋ねた。食事の席でも、寝室でも、隣にいれば話せた。
これからも、そうしていられると思っていた。
朝、あんなふうに言われて泣いた彼女を、一人にしておきたくなかった。自分が何者かを話しに来たのではない。
今なら傷よりも、口を開きかけた彼女の方が怖かった。それが嫌で、キーノは灰色の腕へ目を戻した。そちらを見ている理由なら、まだあった。
キーノは右手を引きかけた。
その指へ、ハーマイオニーの手が触れる。
床から起き上がろうとして、差し出した手だった。けれどキーノには、その手が自分の腕へ伸びたのか、一瞬、分からなかった。
彼女の顔を見られないまま、右手で引き起こす。
灰色の巨体の横へ、鬼太郎が来ていた。
◆
鬼太郎は、キーノの左腕を見た。
血が落ちていた。
棍棒は二人へ当たらなかった。だが、砕けた壁の方が届いた。
キーノがハーマイオニーを押したところから、全部、見えていた。
彼女がそばに残ったことも、今、身体を動かしたことも、彼女が選んだ。
それは分かっている。
だからといって、腕を裂かれているところを、愉快に眺められるわけではなかった。
鬼太郎は奥歯を合わせた。
自分が相手を引きつけている間に、通れる場所を探そうとした。見せずに済む力は、まだ選り分けていた。
その間に、あちらがキーノへ手を出した。
棍棒を引き上げる腕へ、目を戻す。
「もう、結構ですよ」
鬼太郎は言った。
相手は声を聞き、こちらへ顔を向ける。
「二人とも、そこから離れないでください」
キーノが顔を上げた。
鬼太郎は、その返事を待たずに踏み込んだ。
右手には黒檀がある。左手は空いている。
銃を抜くには、持ち替えなければならない。外から撃ち、止まる場所を確かめている間にも、あの腕は動く。
今は、近い方を選んだ。
棍棒を持つ腕が、頭の上へ上がりかけている。
鬼太郎は、その内側へ入った。
太い脚のそばまで近づくと、トロールが頭を下げた。唸り声とともに、歯の並んだ口が開く。
黒檀を顔の前へ向けた。
「ルーモス」
一瞬、目の前が白くなる。
相手が顔を背けるより先に、鬼太郎は空いた左手を差し込んだ。
掌を、口の奥へ向ける。
顎が閉じた。
歯が腕へ食い込む。
圧が骨の近くまで届いた。左手の指が一度、縮みかける。
鬼太郎は腕を引かなかった。
内側のMAGを集め、掌へ送る。
「アギ」
火を放った。
外側の皮膚へ、火球をぶつけるのではない。
口の中から、喉の奥へ。
灰色の首が動いた。唸りが詰まり、熱い息が頬へ吹きつける。
鬼太郎は右肩を寄せた。
棍棒の長い先が、身体の外へ下りる。柄が肩のすぐそばを通り、床が鳴った。
歯は、まだ左腕を離さない。
火を送る掌の向きを保ち、鬼太郎はもう一度、MAGを流した。
「アギ」
口の隙間から煙が噴いた。
左腕に走る痛みが深くなる。噛み締める力は残っていた。だが、棍棒を持つ手は、すぐには上がらなかった。
空いた大きな手が、こちらへ伸びる。
指が制服の肩へ触れた。
鬼太郎は身体を捻った。掴まれた布が引かれたが、次の瞬間には、その指から力が抜けた。
膝が曲がる。
鬼太郎は、二人のいる方を見た。
倒れてくる向きから離れている。
顎が緩んだ。
左腕を引くと、歯に袖が引っ掛かった。布が裂け、ようやく掌まで外へ出る。
鬼太郎は後ろへ下がった。
棍棒が落ちた。
巨体が横倒しになり、床の水を押し広げる。足元へ来た破片を避け、もう一歩、距離を取った。
右手の黒檀は、まだ向けたままだった。
近づいて確かめる必要はなかった。噛まれた左腕を身体のそばへ引き、指先だけを動かす。相手の手がもう一度動けば、今度はそこから離れるつもりだった。
腕も脚も、動かない。
開いた口から、煙が細く上がっていた。
息を吸い直す動きはなかった。焼けた臭いが広がり、裂けた袖から血が床へ落ちる。
鬼太郎は、その身体が残っているのを見た。
通路の二匹のようには、崩れない。
黒檀へ寄ってくる流れもなかった。
確かめたのは、そこまでだった。
後ろへ顔を向けると、キーノが自分の腕を見ていた。
◆
同じ頃、階段の柱へ棍棒がぶつかった。
ハリーは飛んできた石を避け、下の段へ戻った。
柱の陰にいれば、ずっと安全なのだと思っていた。だが、何度も叩かれた端は欠けていた。大きな木が横へ通るたび、隠れられる場所も狭くなる。
「こっちだ!」
反対側から、ロンが声を張った。
トロールが顔を向ける。
ハリーは手すりを握り、息を吐いた。鬼太郎が上へ抜けてから、どれくらい経ったのか分からない。
戻ろうにも、ロンは相手を挟んだ向こうにいる。
「ロン、下へ!」
ロンが段を一つ下りた。
トロールも動いた。
太い脚が斜めに出て、逃げようとしていた先を塞ぐ。ロンは慌てて引き返し、柱へ背中をぶつけた。
棍棒が上がる。
ハリーは上の段へ駆けた。
相手の背中が、目の前へ来る。
どうするかを全部考えてはいなかった。ただ、あの腕をロンへ振り下ろさせてはいけなかった。
段を蹴り、肩へ飛びついた。
皮膚が硬い。引っ掛けた腕が滑りそうになり、ハリーは杖を握ったまま、頭の向こうへ手を回した。
トロールが揺れる。
杖先が鼻の穴へ入った。
吠え声が、すぐ下から響いた。
「ロン!」
棍棒の腕が動いた。
ロンは柱から離れかけ、そこで杖を上げた。
木の先が、ハリーの頭より高い。
朝は羽根さえ動かなかった。
今は、その重そうなものしか見えなかった。杖を振り上げかけ、ロンは手首を戻した。
大きく振り回さない。
教室で、何度も見た動きだった。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
棍棒が止まった。
握る手から、柄がずれる。
ロンは口を開けたまま、杖先を上へ運んだ。木が浮き、トロールが空になった手を見る。
「ハリー、離れろ!」
ハリーは肩から手を放した。
段へ落ち、膝を打つ。身体を丸めて横へ転がったところで、鈍い音がした。
トロールの頭が下がった。
巨体が傾く。
ハリーは手すりを引いて身を起こし、崩れてくる身体から離れた。
踊り場が揺れた。
ロンが杖を向けたまま、動かなくなる。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
「……死んだのか?」
ロンが尋ねた。
ハリーは床に伏せた顔を見た。
大きな胸が、ゆっくり上下している。
「気絶したんだと思う」
近づくのは怖かった。それでも自分の杖は鼻へ刺さったままだった。ハリーは身体が動かないのを見ながら手を伸ばし、端をつまんで引き抜いた。
ひどいものが、先へついていた。
ロンがそれを見て顔をしかめる。
上の廊下から、何か重いものの倒れる音がした。
ハリーは杖を持ち直した。
「二人のところへ行こう」
ロンも顔を上げた。
今度は、二人で階段を上った。
◆
「お前、その腕」
キーノが言った。
鬼太郎は自分の左手を見た。
指は動いた。
腕に並ぶ傷から、血が滴っている。手首を返すと痛みが走ったが、掌を開くことはできた。
「先に、見せてください」
キーノの前へ行き、黒檀を持つ右手を下げる。
「私より、お前だろう!」
「こちらは、動きますから」
「動けばいいのか!」
言い返す声が出ていた。
鬼太郎は、キーノの左腕へ目を落とす。傷の縁は寄っていたが、まだ閉じていないところがあった。
自分の左掌を、そのそばへ添えた。
「ディア」
内側の力を、傷へ流す。
裂けたところが狭まり、流れていた血が止まっていく。鬼太郎は指を離し、彼女が腕を曲げるのを見た。
次に黒檀を収めた。
空いた右手を、自分の左腕へ当てる。
歯で開いた傷は、彼女のものより深かった。
「ディア」
力を集め直す。
痛みの強い場所へ掌をずらし、傷が寄るのを待った。血が止まり、指を曲げたときの鋭い痛みが、鈍いものへ変わる。
息を吐くと、肩が重くなった。
炎を二度、続けて使った後だった。二人分の傷へ回した力も、戻ってはこない。鬼太郎は立ち上がる前に床を確かめ、水の下で滑りそうな陶器を靴先で避けた。
左手を握り、開く。
布に残った血も、破れた袖も、そのままだった。
キーノが、閉じた腕を睨んでいる。
「私は戻る。お前は放っておいても戻らないだろう」
「ええ」
「だったら、先に自分を治せ」
鬼太郎は彼女の顔を見た。
先ほど床で見せた顔とは違っていた。目がまっすぐ、こちらへ来ている。
「そんなに、ひどく見えましたか」
「噛まれてるところから、全部見えてた!」
鬼太郎は返事をしかけ、左腕へ目を落とした。
あの距離からなら、腕が口に入るところも見えただろう。
「……次は、もう少し離せる方法を考えます」
「次も腕を入れる前提で話すな」
キーノはそう言い、ようやく息を吐いた。
鬼太郎はハーマイオニーへ顔を向けた。
「グレンジャーさんは、怪我をしていませんか」
彼女は首を横へ振った。
唇が動く。
「私、動けなくて……」
キーノの左腕へ、目が向いた。
彼女が何かを言おうとしたとき、キーノは腕を身体へ寄せた。裂けた袖を、右手で押さえる。
ハーマイオニーの声が止まった。
鬼太郎はその二人を見たが、ここで続きを促さなかった。
壊れた洗面台から、水が流れ続けている。
ハリーたちも、まだ階段にいた。
「まず、外へ出ましょう」
黒檀を右手へ抜き直し、入口の方を向く。
廊下から、走る足音がした。
二人分。
それを聞いて一歩進むと、さらに遠くで、別の靴音が重なった。
キーノは左腕を隠したまま、ハーマイオニーとの間に落ちた鞄を拾った。
その帳面を開くために、ここへ来たのだった。
今は濡らさないよう胸へ寄せるだけで、精一杯だった。