第95話 煙の向こうの値踏み
「ハーマイオニー!」
壊れた入口の向こうに、ハリーが現れた。
ロンも追いつく。
呼び掛けたハリーは、中へ踏み出しかけて止まった。
床に灰色の身体が横たわっている。さっきまで階段にいたものと、よく似ていた。だが、あちらは二人で倒してきた。その横を通り、ここまで走ってきたのだ。
別の一体だった。
開いた口から、煙が上がっている。
「こっちにも、いたのか」
ロンが言った。
「ええ。階段の方は?」
鬼太郎に尋ねられ、ハリーは顔を上げた。
「倒した。たぶん、気絶してる」
「お二人とも、怪我はありませんか」
「僕は、膝をちょっと……」
言いかけて、ハリーは鬼太郎の腕を見た。
左の袖が裂けていた。布の端から見える手にも、血がついている。すぐ後ろにいるキーノの袖も破れていた。
「鬼太郎、その血——」
「そこを空けなさい」
廊下から、ミネルバの声が届いた。
二人が脇へ寄る。
ミネルバは杖を構えたまま中へ入り、生徒たちと倒れた巨体を見た。スネイプが続き、入口の陰へ杖先を向けてから、床の身体へ近づく。
「全員、ここにいるのですね」
ミネルバが五人を順に見た。
「キーノ。歩けますか」
「歩ける。足は何ともない」
「腕は、どうしたのです」
キーノは右手で押さえていた袖を、少しだけ離した。
「壁の破片が当たった。血は、もう止まってる」
ハーマイオニーが、その隣で唇を結んだ。
ミネルバは裂けた布へ目を落とす。血の広がった範囲と、見えている皮膚を確かめ、キーノの顔へ視線を戻した。
「痛みは?」
「少しある」
「気分が悪い、目が回るということはありませんか」
「ない」
「分かりました。墓場、あなたも左腕を見せなさい」
鬼太郎は手を上げた。
ミネルバはその腕を見ると、眉を寄せた。
「何で傷つけられたのです」
「噛まれました」
彼女の目が、トロールの口へ動いた。
歯が並んでいる。
ハリーは鬼太郎の手を見直した。あの中へ腕が入ったところを想像しかけ、自分の肘を身体へ寄せる。
「このトロールに、ですか」
「はい。傷は閉じましたが、まだ少し痛みます」
「閉じているから手当てが要らない、ということにはなりません。ポンフリー夫人に診てもらいます」
ミネルバはそう告げ、ハーマイオニーへ向いた。
「グレンジャー。あなたは?」
「私は、怪我をしていません」
声が小さかった。
「キーノが、引っ張ってくれたので。壁に棍棒が当たって、破片が飛んだんです」
キーノが袖を押さえ直した。
ハーマイオニーは、その動きへ目を向けたが、腕については言わなかった。
「あなたも診てもらいなさい。ポッター、ウィーズリーもです」
ロンは反論しかけ、足元の水へ目を落とした。
ハリーも頷いた。膝の痛みは、走っているときよりはっきりしてきていた。
◆
ミネルバは、血の止まった腕と生徒たちの顔を見比べた。
地下の一体を止め、後を任せて上へ戻ったところで、階段にも別の巨体が倒れていた。
そこには一年生の杖が落ちていたわけでも、教師が立っていたわけでもない。ただ、上から子供の声が聞こえた。
その先で、さらに一体。
報告は、地下にトロールがいるというものだった。
今は、三体いると分かっている。ほかにいないと決まったわけではなかった。
廊下側にいた教師へ、ミネルバは声を掛けた。
「階段の個体を見張っていてください。ここへ生徒を近づけないように」
返事を聞いてから、五人へ向き直る。
「なぜ、ここにいたのですか」
ハーマイオニーの肩が動いた。
「私が、戻らなかったんです」
「大広間にいなかったのですね」
「はい。キーノは、私を見に来てくれて……」
「私は、一緒にいた」
キーノが言った。
「二人とも、知らせは聞いてない。出ようとしたら、あれが来た」
ミネルバは、押し壊された扉を見た。
知らせを知らずにいた二人と、警告を聞いてから寮へ戻らなかった三人を、一緒には扱えない。
「先生」
ロンが口を開いた。
「僕が、授業の後で、余計なことを言ったんです」
ハーマイオニーが彼を見た。
ロンはその顔を見かけ、目を伏せた。
「それが聞こえて、それで……」
続きは出なかった。
キーノの右手が、鞄の紐を握り直した。
「私がここに残ったのは、私が決めたことです」
ハーマイオニーが言った。
「キーノを、一緒に残らせるつもりじゃありませんでした」
「私も、自分で残ったんだ」
キーノはそちらを見ずに答えた。
ミネルバは二人の間へ視線を置き、それ以上は尋ねなかった。
「昼間のことは、落ち着いてから聞きます。今は、血のついた服で続ける話ではありません」
ロンが口を閉じる。
ミネルバは残る三人へ向き直った。
「あなたたちは、大広間にいましたね。寮へ戻る指示は聞いたはずです」
「聞いていました」
鬼太郎が答えた。
「ですが、二人がこちらにいると伺っていましたので、知らせに来ました」
「教師へ伝えることは、できなかったのですか」
鬼太郎は少し考えた。
「入口のそばに、フリットウィック先生がいらっしゃいました」
「では、伝える相手はいたのですね」
「はい。僕は、そのまま来ました」
ミネルバは頷かなかった。
「二人が知らないと気づいたことは、大切です。しかし、そこから自分たちだけで向かってよい、とはなりません」
ハリーが口を開いた。
「僕たちも、一緒に行こうと思ったんです」
「階段にいたものにも、会ったのですね」
「はい。僕とロンで、引きつけてました」
ミネルバは鬼太郎へ目を戻した。
「あなたが、頼んだのですか」
「ええ。近づかず、下へ逃げられる位置から声を掛けていただくように。僕は横を抜けて、先へ来ました」
「一年生二人を、あの前に残したのですね」
「僕が、先に行ってって言いました」
ハリーが続けた。
「ロンも、残るって——」
「引き受けたことと、安全だったことは違います、ポッター」
声が硬くなった。
ハリーは言葉を止めた。
ミネルバは柱の欠けたところを思い出した。あの脇に隠れていたのなら、棍棒がどこまで届くか、身をもって知ったはずだった。
「あれを倒したのは、あなたたちですか」
「ロンが、棍棒を浮かせました」
ハリーが答えた。
「僕が肩へ飛びついている間に。そこから、頭へ落としたんです」
「肩へ?」
ミネルバが聞き返すと、ロンが先に頷いた。
「僕の方へ来たので、ハリーが。それで、浮遊術を使いました」
今日の授業で教わったものだ。
ミネルバはロンの杖へ目を向けた。
使わなければ、目の前でハリーが叩かれたかもしれない。そこで呪文を選び、働かせた判断まで、無かったことにはできなかった。
「その場で友人を助けたことは、聞きました」
ロンが顔を上げる。
「そこへ至るまでの行動は、別に聞きます。二人とも、怪我がないか診てもらってからです」
今、この場所で点を決め、話を終わらせるつもりはなかった。
生徒たちを出そうとしたとき、スネイプが立ち上がった。
「墓場」
◆
スネイプの黒い袖の前を、細い煙が流れた。
鬼太郎は入口へ向けかけた足を止める。
「これは、お前がやったのか」
「はい」
「何をした」
「口の中へ、火を入れました」
ロンの目が、鬼太郎の左腕へ落ちた。
スネイプは、倒れた頭を杖先で示した。
「その中へ、腕を入れてか」
「ええ」
「噛まれると、分からなかったのか」
「考えていました。近づく前に目を眩ませましたが、口は閉じましたので」
返事を聞き、スネイプは少年の顔を見た。
恐ろしいものから運よく逃げられた、と話している顔ではない。順に問えば、その順に方法が返ってくる。
顎の中へ腕を入れた。
噛まれた。
それでも火を使い、相手を死なせた。
「腕を失う可能性は?」
「ありましたね」
鬼太郎は少しだけ、左手を動かした。
「ですが、手を抜くために止まれば、また棍棒を振られます。先に、動かなくする方を選びました」
「その方法しか、なかったと?」
「もっとよいものは、あったかもしれません」
鬼太郎の目が、キーノの袖へ動いた。
「くすぐりの呪文は効きませんでした。木片を浮かせて気を逸らそうともしましたが、運ぶ前に叩かれました。その後、狙いがグレンジャーさんへ変わって、キーノさんが怪我をしましたので」
そこで、声が一度切れた。
「もう、それ以上は待ちたくありませんでした」
スネイプは、焼けた口の奥を見た。
外側には、身体を覆うほどの焼け跡がない。口の奥から出る臭いと、杖で確かめた死が、その内側で起きたことを示していた。
授業で出た質問を、思い出す。
何を覚えるかではなく、どこへどう使えるか。
ダンブルドアから聞いた経歴を合わせれば、勉学への関心だけではないと思っていた。
今、習いたての呪文が効かなければ、持っていた別の手段へ切り替える姿を見ている。
少年は、自分で戦い方を選ぶ。
止める相手がいなければ、どこまで行うかも、自分で決める。
ただし、この場に襲ってきたのはトロールだった。
庇われた生徒と、裂けた袖がある。ここで戦ったことを、そのまま他の生徒へ危害を加える証拠にはできない。
スネイプは、その区別を捨てなかった。
だからこそ、見ておく必要がある。
誰を相手に、何を理由に、その手を使うのか。問題が起きたときには、校長が経歴や事情だけで済ませられぬよう、事実を揃える。
生徒を危険にさらすなら、在籍を続けさせるつもりはなかった。
「その火は、授業で教えたものではない」
「はい」
「ダンブルドアから聞いている。お前の、杖を使わぬ——」
「セブルス」
入口で、声がした。
ダンブルドアが立っていた。
壊れた枠の向こうに、クィレルのターバンも見える。
「続きは、後にしよう」
スネイプは口を閉じた。
校長は床と生徒たちを見渡し、鬼太郎の袖で目を止める。
「ミネルバ」
「二人とも左腕を傷つけています。全員、医務室へ連れていくところです」
「では、先にそちらへ」
スネイプが低く言った。
「この死体についても、確認が必要です」
「うむ。ここに残しておくものではないな。ほかの場所も、引き続き確かめねばならん」
ダンブルドアはそれから鬼太郎へ向いた。
「診察が済んだら、話を聞かせてもらいたい。時間は知らせよう。今は、ミネルバと行きなさい」
「分かりました」
鬼太郎は答えた。
校長へは、こちらからも伝えたいことがあった。
通路にいた二匹。
消えた身体と、黒檀へ流れ込んだ力。
誰かの顔を見れば分かる話ではない。自分が何を見たか、順に話さなければならなかった。
ダンブルドアはキーノにも歩けるかを尋ね、返事を聞いて道を空けた。
ミネルバが先に出る。
ハリーとロンが続き、ハーマイオニーはキーノのそばまで来た。
キーノが鞄を掛け直す。
左袖へ寄りかけた彼女の手を、ハーマイオニーが見た。だが、尋ねなかった。
二人が並んで入口を抜けるのを見届け、鬼太郎も後へ続いた。
◆
クィレルは、壁へ寄った。
最後に出てきた鬼太郎が、こちらへ軽く頭を下げる。
いつもの授業で、質問の前にするのと似た動きだった。
クィレルは返そうとした。
喉が詰まった。
少年は待たずに歩いていく。脇に下げた左手には、まだ血がついていた。
あの手を、少し前にも見た。
通路の柱の陰からだった。
大広間で床へ倒れた後、教師たちが地下への対応と、生徒の誘導へ分かれていった。クィレルは人の目が離れたところで起き上がり、騒ぎを確かめに向かった。
自分が呼び出した二匹が、そこにいた。
その前へ来たのが、鬼太郎だった。
左手から風が出た。
杖は、右にあった。
二匹が重ならなくなると、少年は長い杖を左へ渡した。空いた右手が腰へ動き、小さな武器を抜く。
破裂するような音。
一匹が倒れた。
もう一匹はそれを見て、武器の向きから逃れようとした。それでも、白い光を受け、刃を振り終えるより先に撃たれた。
少年は、もう、そこにいなかったのだ。
次に何をするか、相手を見て変えていた。
クィレルは指を胸へ寄せた。
柱から出ることはできなかった。
倒れた身体が消えていくとき、別の足音が来た。生徒が二人、角を曲がってきたため、さらに奥へ身を引いた。
隠れたまま見ていた。
粒へ崩れたものの一部が、黒い杖へ寄っていった。
少年も杖を見ていた。
何が起きたのかは、分からない。呼び出したものが倒され、消えるところを見ても、その残りが生徒の杖へ入る理由までは分からなかった。
問いただしに出られるはずもなかった。
鬼太郎たちが去るまで、息を潜めた。
今、入口の向こうには、別の身体が残っている。
クィレルは、開いた口へ目を向けた。
腕を入れ、中から焼いた。
本人の声で説明されても、すぐにはその動作を思い描けなかった。教室で紙へ書き留めていた子供が、歯に腕を挟ませたまま火を使う。
もし、あの通路で自分が姿を見せていたら。
クィレルは、その先を考えるのをやめた。
「クィレル」
ダンブルドアに呼ばれ、顔を上げる。
「は、はい」
「気分はどうじゃ」
「も、もう大丈夫です。申し訳ありません。取り乱してしまって……」
声は、うまく震えた。
震えさせようとする必要がなかった。
「地下で見たものについても、聞かせてもらわねばならん。落ち着いてからでよい」
クィレルは頷いた。
ダンブルドアの目が、少しの間、顔に留まる。
何を考えているかは、分からなかった。
老人が別の教師へ声を掛けると、ようやく息を吐けた。
◆
ヴォルデモートは、宿主の恐れを感じていた。
生徒が通り過ぎただけで、喉が塞がる。
クィレルには、あの少年がもう自分の方へ武器を向けているように思えるのだろう。
実際には、軽く頭を下げて去っただけだった。
その落差が、面白い。
呼び出した二匹が倒されたこと自体は、望んだ結果ではなかった。混乱を広げるための手が、予定より早く消えた。
だが、その代わりに見たものがある。
鬼太郎。
杖を持たぬ手から出た風も、腰から抜いた武器も、子供同士の喧嘩に使うものではなかった。
相手が向かってくれば、その前から動く。
一匹が倒れれば、次へ向ける。
死んだ身体が消えたときには立ち止まったが、そこへいつまでも留まらなかった。驚きより先に進ませる用が、少年にはあった。
そして、このトロールだ。
厚い皮膚が邪魔なら、その内側へ火を入れた。
腕を噛まれたことさえ、相手を止めるまでの障害として扱った。
無傷で済むのを待ち続ける子供ではない。
自分で選んだ傷なら、引き受ける。
ヴォルデモートは、宿主の目を通して死体を見た。
力は、まだ育ち切っていない。
教室で覚えたばかりの呪文を当てにし、効かなければ別のものへ頼る。使う手段の数も、その扱いも、これから増やせる。
ただ従うだけの者とは、違う働きができるだろう。
廊下の話し声が遠ざかった。
クィレルが壁の陰へ一歩、下がる。
人がそばにいないのを確かめてから、ヴォルデモートは低く告げた。
「あの子供は、使える」
宿主の指が強張った。
「し、しかし……あれは、あまりに——」
「お前が恐れるからといって、価値が下がるわけではない」
返事が止まった。
恐れを抱くなら、何を恐れているか見ればよい。
あの少年は、何を欲しがる。
教えられた呪文では止められぬ相手を、ほかの力で倒した。ならば、今の授業では得られぬものを示す余地がある。
仲間のために動いたという話も聞いた。
何を大切にし、何を失いたくないか。それを知れば、言葉を届かせる場所も見つかる。
ダンブルドアの庇護下にいるというだけで、同じ望みを持つとは限らない。
ヴォルデモートは、少年が教師へ返した平静な声を思い返した。
まだ、こちらへ何一つ求めてはいない。
こちらの名を聞いて、何を選ぶかも分からない。
それでも、知るために手を伸ばす値はあった。
「あれが何を望むか、確かめる」
クィレルは入口へ目を向けた。
少年の姿は、もうなかった。
床に残る灰色の頭から、最後の薄い煙が上がっていた。