第96話 明日の席
ポンフリー夫人は、鬼太郎が握りかけた左手を開かせた。
「痛むところを、無理に動かさないでください」
「動くか、確かめただけです」
「今は、私が確かめています」
夫人は指から腕へ目を移した。
血を落とすと、噛まれたところの赤みが見えた。傷は閉じているが、握ると奥の方が疼く。鬼太郎はどこで痛むかを答え、夫人の手が離れてから腕を寝台へ戻した。
「傷が塞がったことと、全部元に戻ったことは違います。今夜は泊まりなさい。明日も休んで、夕方にもう一度診ます」
「分かりました」
「杖を振る練習も、しないように」
鬼太郎は鞄へ目を向けた。
黒檀は、もう中へ収めてある。着替える前に外した右腰のホルスターも、鞄と一緒に寝台の脇へ置いた。
手を伸ばすつもりはなかったが、先に言われた。
隣では、キーノも診察を終えていた。
その間は仕切りが引かれていた。彼女の身体について確かめる言葉を、夫人は外まで届く声で話さなかった。
「キーノさんも、今夜はこちらです。傷が戻っても、疲れまで消えるわけではありませんから」
「ああ」
キーノは替えてもらった袖を引いた。
白い寝台の上では、頬の色がいつもよりはっきり見える。
ハリーたちは、少し離れた椅子に座っていた。ハリーの膝も診てもらい、ロンとハーマイオニーにも確認が済むと、ミネルバが三人を呼んだ。
「二人は休ませます。あなたたちは寮へ戻りなさい」
ハリーが立ち上がった。
こちらを見て、言葉を探している。
通路で見たものも、トロールの口から上がった煙も、聞きたいままだろう。
鬼太郎は、毛布の上へ右手を置いた。
「続きは、また明日にしましょう」
「来てもいい?」
ハリーが尋ねると、ポンフリー夫人が先に答えた。
「明日、こちらでよいと言ってからです。大勢で押しかけてはいけませんよ」
ロンが椅子を戻した。
「じゃあ……また、明日」
キーノへ顔を向けかけ、それからハーマイオニーを見た。結局、それ以上は言わずにミネルバの方へ行く。
ハーマイオニーは、最後まで椅子のそばにいた。
「鞄、そこに置けばいい?」
キーノへ尋ねた。
持ってきた鞄の底は濡れていた。キーノは寝台の脇を指し、彼女が置くのを見ていた。
「ああ。そこなら、届く」
「おやすみ、キーノ」
キーノが顔を上げる。
ハーマイオニーは待っていた。
「……おやすみ」
返事を聞いてから、彼女は扉へ向かった。
ミネルバが三人を連れて出る。ポンフリー夫人が寝台を回り、灯りを落とし始めた。
鬼太郎は枕へ頭を戻した。
火を使った掌を見ても、あの口の中にあったときの熱は残っていない。腕を置く位置を変えると、歯の食い込んだところが疼いた。
昼には、羽根を浮かせていた。
上がるものを眺め、揺れを直すつもりで、余計に動かした。
同じ呪文を木片へ使ったときには、それを見直している間もなかった。
鬼太郎は右手を毛布へ戻した。
今なら、手順を思い返すだけにしておけた。
◆
キーノは目を閉じた。
すぐに、開けた。
暗くなった天井には、何もいなかった。
身体は疲れている。横になっている方が楽なのに、目を閉じるとハーマイオニーの顔が戻った。
腕を見たとき、彼女は口を開きかけた。
何も言わなかった。
それからも、傷のことを尋ねなかった。
キーノは毛布の中で、左手を右手に重ねた。裂けたところは閉じている。今ここを見せても、何が起きたかは分からないかもしれない。
だが、あのとき見た相手は、覚えている。
隣の寝台で、布の擦れる音がした。
「眠れませんか」
鬼太郎の声だった。
「お前も、起きてるだろう」
「腕を動かすと、少し痛むものですから」
「動かすなって言われたばかりだ」
「枕元の物を、取ろうとしただけですよ」
キーノはそちらを見た。
鬼太郎は右手で水を取り、少し飲んだ。杖を取り出してはいない。
自分も、水が欲しくなった。
身を起こして飲み、器を戻す。そのまま横にならず、毛布の端を見ていた。
「見られた」
小さく言った。
「誰に、ですか」
「ハーマイオニーに。傷が戻るところだ」
鬼太郎の目が、こちらへ向いた。
「僕が治す前ですね」
「ああ」
「何か、言われましたか」
「何も。ずっと、何も言わない」
声に出すと、喉が詰まるような気がした。
「驚いたのは、分かる。私の腕を見てたからな。でも、その後は……」
キーノは言葉を止めた。
鬼太郎は続きを待っていた。大丈夫だとは、すぐに言わなかった。
「明日、ほかの奴も知ってたら、どうする」
「誰かに話すと、おっしゃったのですか」
「言ってない。けど、言わないとも、聞いてない」
今まで普通だと思っていたものが、急に確かでなくなった。
明日も隣へ座れるか。
同じ寝室へ戻ったとき、どんな顔をされるか。
「学校を追い出されることには、なりませんよ。入学のときにも、そのことは——」
「そういう話だけじゃない」
キーノは遮った。
鬼太郎が口を閉じる。
「寝台が残ってたって、そこに戻れるかは別だろう」
前と同じ寝台に、自分の鞄を置く。
それだけなら、できるかもしれない。
その部屋で隣にいる者が、話しかけなくなったら。
キーノは毛布を握った。
「何かあって、学校を辞めることになったら、僕も一緒に出ますから」
鬼太郎が言った。
キーノは顔を向けた。
冗談を言っている顔ではなかった。
「……それで、私が安心すると思ったのか」
「一人では、帰しませんよ。戻る場所もありますし」
「私は、ここで普通に過ごしたいと言ってるんだ。お前まで辞めたら、何が解決する」
鬼太郎は、少しだけ目を瞬かせた。
「そうですね」
「そうですね、じゃない」
思わず声が出て、キーノは医務室の奥を見た。
誰も来なかった。
鬼太郎も声を低くする。
「では、明日も話せるか、確かめるところからでしょうか」
「最初から、その話をしろ」
「僕が代わりに尋ねに行くのは、違いそうですから」
キーノは返事をしなかった。
それは、違う。
ハーマイオニーが自分へ何を言うか、鬼太郎に先に聞いてきてほしいわけではなかった。
毛布を握る指を緩める。
「……勝手に、聞くなよ」
「ええ」
鬼太郎は横になった。
キーノも、身体を戻した。
安心できたわけではなかった。だが、学校ごと辞めるなどと言い出した隣の馬鹿へ言い返す間だけは、同じ顔を思い浮かべずに済んだ。
◆
翌朝、キーノは扉の開く音で目を覚ました。
ポンフリー夫人だった。
朝食が来て、診察を受ける。夫人は左腕を見てから、昨夜眠れたかも尋ねた。
「途中からは」
「では、眠くなったら、また休みなさい」
鬼太郎も、今日は寝台にいた。
食事を終えると鞄から本を一冊出したが、しばらくして閉じた。横になって目を閉じ、本を枕元へ置く。
キーノは自分の帳面を出した。
濡れた鞄から出した紙は、端が少し波打っていた。
ハロウィーン、と書いた頁がある。
昨日、戻ってから書くつもりだった。
何を食べたか。大広間がどんなふうになっていたか。
その下には、まだ何もなかった。
キーノは頁を閉じた。
午後になって、扉の前にハーマイオニーが来た。
ポンフリー夫人へ先に声を掛け、許可を得てから中へ入る。片腕に本を抱え、もう一方には紙を持っていた。
「起きてる?」
キーノは頷いた。
彼女は寝台のそばへ椅子を寄せる。
「二人の分よ。先生には、休んでいるって伝わってるから、今すぐやらなくても大丈夫」
ハーマイオニーは、紙の一番上にある「浮遊術の復習」という見出しを示した。
「杖の動きと発音で気をつけること、それから、自分の羽根がどう動いたかを書いてくるの。できなかったときのことも、書くようにって」
紙の片方を鬼太郎へ渡した。
「ありがとうございます」
鬼太郎が受け取り、枕元へ置く。
ハーマイオニーはキーノへ向き直った。
「昨日、ありがとう」
その目が、顔へ来た。
「私、動けなくて。引っ張ってくれなかったら、あそこにいたままだった」
「立てたんだから、もういい」
キーノは言った。
ハーマイオニーは少し黙り、それから本を膝へ置いた。
腕の方は、見なかった。
キーノは机代わりの台へ、持ってきてもらった紙を広げた。
「この『弾く』っていうのも、先生がやってた、手首を返す動きのことか」
キーノは、杖の動きを書いたところを指した。
「指で何かを弾くときにも、同じ言葉を使うだろう。杖を持ったまま、何を弾くんだと思った」
「ここでは、最後に杖先を小さく動かすことよ。羽根を杖で弾くんじゃないの」
ハーマイオニーは羽根ペンを置き、空いた右手をゆっくり動かした。
腕全体を振り回さず、手首を使う。最後に、握った指先の向きが変わった。
キーノは紙と、その手を見比べた。
「ああ。それなら、昨日見た」
「そう。それと発音は、ウィンガーディアムの『ガー』を少し長くして——」
「待て。そっちは、分けて言ってくれ。書く」
「あ、ごめんなさい。ウィン、ガー、ディアム。長くするのは、ここ」
彼女が区切って言い直す。
キーノは帳面へ呪文を書き、「ガー」の下へ線を引いた。
知っている話し方だった。
分かったところから説明が速くなり、こちらが追いつかないと、言葉を区切り直してくれる。
キーノは、紙の端を押さえた。
彼女が持ってきたのは、自分に続きを読ませるためのものだった。
傷が閉じた理由を、答えさせるためではない。
「羽根のことは、上がったって書けばいいのか」
「最初から浮いた?」
「いや。最初は先だけだ。その後で、指二本分くらい上がった」
「じゃあ、両方書いた方がいいわ。どこまでできたか、先生にも分かるでしょう」
キーノは、先ほど書いた呪文の下へペンを置いた。
初めは羽根の先しか動かなかった。次は、軸ごと机から離れた。
書いてから、ハーマイオニーへ向ける。
「これなら、違いが分かるか」
「うん。下ろせたことも書いておく?」
「それも、やったな」
キーノは自分で一行を足した。
紙のどこを埋めればよいか、今は分かった。
◆
ハリーとロンが来たのは、その少し後だった。
ロンは入口でポンフリー夫人に声を掛けられ、一度、歩く速さを落とした。
「長居はさせませんよ」
「はい」
二人とも、声が小さい。
鬼太郎は借りていた椅子を顎で示した。ハリーが一つ寄せ、ロンはまだ立ったまま、キーノの寝台の方を見ている。
「ハーマイオニー」
ロンが呼んだ。
キーノの指が、紙の上で止まった。
「授業の後で言ったこと、ごめん」
ハーマイオニーが顔を上げる。
「君が教えてくれたのに、僕ができなくて、腹を立てたんだ。友達がいないとか、あんなこと……言うんじゃなかった」
ロンは笑わなかった。
ハーマイオニーも、すぐには答えなかった。
「聞こえてたから」
少しして、彼女が言った。
「あのときの言葉、ちゃんと聞こえてたわ」
「うん」
ロンが頷いた。
「だから、謝りたかった」
ハーマイオニーは紙の端から手を離した。
「分かったわ。もう、ああいう言い方はしないで」
「しない」
ロンが答えた。
キーノは二人の間を見ていた。
自分が代わりに言い返すところではなさそうだった。
ロンは少し息を吐き、それから付け足した。
「あの発音、後で役に立ったんだ」
「棍棒を浮かせたとき?」
「ハリーから聞いた?」
「ええ」
「大きく振り回すんじゃないって、思い出して。それで、やったら……上がった」
ハーマイオニーは彼の手元を見た。
「成功したのね」
ロンは頷いた。
「教えてくれて、ありがとう」
「次は、棍棒で試す前に羽根で成功させた方がいいわ」
ハリーが小さく吹き出した。
すぐにポンフリー夫人の方を見る。夫人は別の寝台を整えていて、こちらへ来る様子はなかった。
ロンも口元を緩め、それから椅子へ座った。
鬼太郎はそのやり取りを聞きながら、左腕の置き方を変えた。
ハリーがこちらへ身を寄せる。
「腕、まだ痛む?」
「強く握ると、少し。今日は、動かさないようにと言われています」
「僕の膝も、朝は痛かった。でも、もう大丈夫みたい」
ハリーが足を少し前へ出した。
昨日は、その脚で階段を走っていた。
「お二人を残しましたから、気になっていました」
鬼太郎が言うと、ハリーは首を振った。
「二人がいるって分かってたし、僕も行ってほしかったんだ」
「柱が、あんなに欠けると思わなかったけどね」
ロンが横から言った。
「隠れてた場所が減るんだ。叩かれるたびに」
鬼太郎は彼を見た。
下へ退ける場所はあった。それでも、あの大きな身体が段を下りれば、残した二人の間へ入っていく。
実際に相手をした二人の話を、聞いておく必要があった。
「その後、ハリーさんが肩へ?」
「ロンの方へ行ったから。どうしようって思う前に、もう跳んでた」
「僕は、どうしようって思ってたよ」
ロンが言った。
「ハリーまで、あの上にいるんだから」
ハリーが少し、肩を縮めた。
ハーマイオニーは二人を見比べ、何か言いかけたが、止めた。
キーノはその横顔を見た。
彼女も、昨日は動けなかった。
それを、もう、ここにいる誰かが責めてはいなかった。
ハリーは鬼太郎の鞄へ一度、目を向けた。
通路のことを尋ねるかと思ったが、その前にポンフリー夫人が来た。
「お話は、今日はそこまでです」
ハーマイオニーが本を閉じる。
キーノは、膝の上の帳面を持ち上げた。
「続きは、戻ってから聞く」
「うん。明日も、一緒に見ましょう」
ハーマイオニーが答えた。
ハリーとロンも椅子を戻した。
キーノは扉が閉まるまで見ていた。
明日の席を、空けてもらった。
帳面を鞄へ入れる手は、昨夜よりもゆっくり動いた。
◆
夕方、鬼太郎はもう一度、左腕を診てもらった。
軽く指を動かす。
次に、言われたところまで曲げ、力を入れたときの痛みを伝えた。
ポンフリー夫人はしばらく確かめ、今夜は寮へ戻ってよいと告げた。
「激しく使うのは、まだいけません。痛むようなら、すぐに戻ってきなさい」
「はい」
「校長先生へのお話も、長くならないように。休ませるために、今日一日ここにいてもらったんですから」
鬼太郎は頷いた。
キーノも同じように確認を受け、帰る支度を始める。
鬼太郎は衣服を整え、右腰へホルスターを戻した。ケストレルには触れず、鞄から黒檀だけを出して、いつもの場所へ収める。
四発使ったままだった。
そちらの確認も、腕を強く使わずにできるときでよい。今日はまた、持ち替えて試す日ではなかった。
キーノが帳面をしまった。
鬼太郎は、その表紙へ目を向けた。
「続きを、聞けそうですね」
「ああ」
彼女は紐を掛け直した。
「お前が代わりに、何か聞かなくてよかった」
「そのようですね」
鬼太郎は鞄を右側で持った。
まだ彼女が何を恐れ、どこまで落ち着いたかを、全部言葉にできるわけではない。
ただ、学校を辞める話を、今ここで続ける必要はなかった。
医務室の外へ出ると、廊下の空気が頬へ触れた。
校長から知らされた時間が、近づいていた。
キーノは寮へ戻る方へ足を向け、そこで振り返る。
「変な約束を増やしてくるなよ」
「今日は、お話を聞かれる方でしょうね」
「聞かれなくても、お前は話し始めるだろう」
鬼太郎は笑った。
実際、話さなければならないことがある。
トロールだけではなかった。通路にいた二匹と、黒檀が何をしたのか。
校長がどこまで知っているかも、尋ねたかった。
「帰ったら、お伝えします」
「短く済ませてこい」
キーノはそう言って、先へ歩き出した。
その鞄に、少し波打った紙の帳面が入っている。
鬼太郎は彼女を見送り、校長室へ向かう方へ足を進めた。